【第91節】
孫策 が今、苦痛の中から伝えようとしている、其の 1つ1つの言の葉が、もはや、命と引き換えである事は、枕辺に集まった全ての者に明らかであった。
「−−起こして・・・呉れ・・・・。」
「御無理なさらずとも・・・・!!」
家臣団を代表する内政の張昭子布・軍事の程普徳謀らは、主君の容態を気遣い、ハラハラするばかり。
「いや・・・大切な・・・事後の・・・事だ。・・・きちんと・・・したい・・・」
両脇を支えられ、当てがわれた几き(脇息)にかろうじて我が身をもたせ掛けると、孫策はそれでも、己を励ます様に言った。
「中原は・・・今・・・混乱の・・・中に・・・在る・・・。」
ひと言も聴き漏らすまいと、長老二人は両膝を折って、寝台の両脇で身を乗り出す。
「呉越の地の・・・軍勢と・・・三江の・・・固い守りを・・・以ってすれば・・・成り行きを・・・見守りつつ・・・・」
時に声が掠れる。−− 「・・・・できる・・・・・。」
《嗚呼、今もその胸に、天下の夢を語られるか・・・・!!》
限り有る言葉の数を識る孫策は、左右に手を差し伸べ、張昭と
程普の夫れ夫れに己の手を押し戴かせると、万感の思いを籠めて、其の最期の決断を伝えた。
「どうか・・・どうか・・・俺の弟を・・・宜しく・・・補佐して・・・やってくれ・・・!!」 (公ラ 善ク 吾ガ弟ヲ 相ケヨ)
「勿体なきお言葉!この張昭子布、然と、然と承りましたぞ!!」
途中で咽を詰まらせ、両手でギュッとその手を握り返す【張昭】。かつて出仕を請う為に我が家を訪ねて来た時の、清々しくも情熱に燃え溢れていたあの主君の姿が脳裡に浮かぶ・・・・・・。
「ハッ、不肖、程普徳謀めも、周公瑾どのと力を合わせ、軍事のことは全て御懸念無きよう、取り計らいまする!」
大粒の涙が、【白髪の鬼】の眼からこぼれ落ちる。
〔孫堅文台〕そして〔孫策伯符〕の、親子2代から、事後を托される事になろうとは・・・・《嗚呼、天は何故に、我を生きながらせ、この様なつらい仕打を選ばれるのか・・・!?》
孫策はそれを聞いて小さく頷くと、《頼む!!》と言う様に、指先に微かな力を送った。
《公瑾の奴はここには居無いが、奴が在ってさえ呉れれば、全てを解って、在るべき処へと、国を導いていってくれるだろう・・・・》
と、云う思いが常に孫策の拠り所となって、その最期の心を、随分と安らかにしてくれていた。
「−−仲謀・・・来い!」
「はい、兄上!」 と返事はしたものの肉親である【孫権】が、一番平静不能な大衝撃を受けている。物心ついた時から父親の如くに尊敬し続け、誰よりも慕い、頼りにしていた兄・・・いや兄と云うよりは、一段も二段も上の畏敬・憧憬の対象、主君である〔至尊〕その巨大な全存在の末期の場面に、突如対面させられたのだ!
余りにも突然で信じられぬ現実・・・・若冠18歳の若者は只ただ動転驚愕し、立ち直れぬ深刻な悲しみに撃ちのめされ尽しているばかりであった・・・・・。
「我が印綬を・・・佩びて・・・見せよ!・・・・・
今からは、孫権仲謀・・・・お前が”呉国の君主”と成るのだ・・・・!!」
つい先程迄は猟犬達とジャレ合っていたのだ。今の今迄想いも寄らなかった、突然の君主指名!だが孫権は、そんな事の意味より、今はただ只管兄の身だけが心配で心配でならなかった。
「イヤです!兄上のもので御座居ます。兄上は未だ未だ生き続けられるのです!この呉の国は、兄上が築き上げられたものでは御座居ませぬか!これからもズ〜っとズ〜っとそうなのです!」
それは政権移譲を一旦断わって見せる、儀礼の為の謙遜では無かった。孫権の真心、悲痛な魂の叫びであった
「今の私になど未だとてもの事、国を統べ率いる資格など有りませぬ。私の事などより先ず、兄上が元気に成られて下さりませ!
それを聞いて、孫策が、幽かに微笑んだ様に想われた。
「・・・・確かに一部は当たっていよう・・・・江東の軍勢を総動員し
・・・・機を見て行動を起こし・・・・天下の群雄達と雌雄を決する
・・・・と云う事では・・・・お前はこの俺に及ばない・・・・。」
孫権は後悔した。余計な事を言ってしまったばかりに、今兄上は使わなくていい体力を消耗して迄、この自分に言いきかせようと、最期の気力を振り絞っておられる!!
「然し仲謀よ・・・心配するな。・・・・賢者を取り立て・・・・能力有る者を任用し・・・・彼等に喜んで力を合わせさせ・・・・そして江東を保ってゆく・・・・その点ではお前の方が・・・俺よりも上手だ・・・・」
『江東ノ衆ヲ挙ゲテ、機ヲ両陣ノ間ニ決シ、天下ト衡ヲ争ウハ、卿 我ニ如カズ。賢ヲ挙ゲテ能ヲ任ジ、各オノニ其ノ心ヲ尽クサシメ、以テ江東ヲ保ツハ、我 卿ニ如カズ。』
孫権の碧ずんだ両の眼からは、ボロポロと肉親の悲哀が
溢れ続けていた。
「俺の時間が・・・無くなって・・・来たようだ・・・直ぐにいたせ!!」
その手首に、漢室から正式に届けられた、会稽郡太守の
印綬を佩びた弟・孫権仲謀の姿を見届けるとーー
【小覇王・孫策伯符】は己の全てを使い涯たし
・・・・静かに眼を閉じた・・・・。
そしてその後は、二度と再び口も眼も開く事無く・・・・その日の夜父の元へと旅立っていった・・・・・。
その寸前、ニコリとその表情が綻んだのは、夢の中で会っている愛うしき者達との語らいだったか・・・・?
はた又、天下人と成った日の空蝉か・・・・!?
小覇王・孫策伯符、逝く。
時に建安五年(西暦200年)、4月4日
ーー享年26歳であった・・・・。
【小覇王・孫策伯符】−−その、呉国に対する建国の功績は、余りにも巨大である。初代『孫堅』は確かに創業者ではあるが客観的にみれば、彼は一地方の軍属に過ぎず、未だ確定した領地すら手には入れていないまま世を去っている。
我が子【孫策】に遺したのは、僅かな私兵集団と、”忠義”の名声だけであった。その亡父の遺していった眼に見えぬ財産を、最大限に活かし、終には国家的版図と軍事力を具えた【呉の国】を創り上げたのは、ひとえに〔2代目・孫策〕の功に他ならない
それも、実質的には僅か5年間と云う、短期間の話しである。
年齢も20歳からと云う若さであった。通常なら、未だ親の臑を齧って遊び呆けているか、もしくは学問に勤しむか、いずれにしても世に出る前の研鑽修業の年代であった。
〔呉国誕生〕にあたっては、様々な要因が挙げられるが、多々「幸運であった」面も確かに存在する。然し、どんな人間にも必ず「幸運な機会」は、少なくとも一度は訪れる・・・ーー但し・・・・それを現実の機会とするか見逃すか更にその機会を幸運にしてしまうかは、その人間の決断力と不屈な意志・・・・そして何より、人を大切に思う心と、努力の程いかんに掛かっているーーそれが少しずつ分って来るのが”歴史”の面白さの1つであろう。
畢竟、呉の場合も亦、「孫策伯符」と云う、強烈な明るさと、人を惹きつけてやまぬ人間的魅力に溢れた、個性の存在に負う処が大きかったと言えよう。無論、”時代の要請”=時代潮流の必然性は、個人の存在なぞ、遼かに凌ぐものではあるが。とは言え、現状では未だ未だ国家としての政事機構も軍事能力も成熟したとは言い難く、『国家としては、先祖代々の徳行の積み重ねと云う基が在った訳でもなく国家としても磐石の鞏固さは無かった』・・・
『孫盛』・・・のであるが、〔統一王朝成立の可能性〕と云う点に於いては、この時点での孫策の”許都襲撃”こそ、最大にして唯一のチャンスではあった。
それにしても、他の群雄なら「防げた死」である。
返す返すも口惜しい!!歴史に親しむ時、登場して来て去る者の幾人かには、《もうあと10年は生かしてやりたかったなあ》と、慨嘆せざるを得ない人物が出て来る。
【孫策 伯符】も亦、そんな ”歴史的風雲児”の一人と言えようか。せめて後一年、許都を襲っていたら、曹操は亡び、呉が一気に天下を取っていたのか!?・・・・と誰しもが想像してみたくなる・・・・短くも激しく、そして熱く燃え続けた、
”疾風怒濤の人生”であった。
その生涯を評して『正史』は言う。
『孫策は、優れた気概と実行力とを具え、勇猛で鋭敏なこと世に並びなく、非凡な人物を取り立て用い、彼が懐く大きな抱負は中国全土を圧倒するものであった。
英気傑済、猛鋭世ニ冠タリ。奇ヲ覧、異ヲ取リ、志中夏ヲ陵ル
然るに軽佻で性急であったが為、身を亡ぼし、事は破れてしまった。又、呉の国が江東に割拠する体制は、孫策がその基礎を作ったものであった』 ・・・・・と。
また、『孫盛』(※後に付記する)は・・・・、
『孫氏の兄弟は、夫れ夫れに群を抜いた見識と智力とが有ったが基礎を定め、事業を確実にしたのは、孫策の力に拠るものであった。』 ・・・・・と述べるが、後半では、『政権を我が子に継がせず弟に渡したのは人の道にも王の正義(正統性)にも反するものであった!』 ・・・・・と、(現代の我々にすれば見当外れな)当時の正論で批難している。
それに対し、補註の『裴松之』氏は流石に、
『心情として忍びない処があり、やり方としては十全でない(正統性即ち正義に欠ける)とは言え、遠い将来を見通して計画を纏め、永くその領土を保ってゆくと云う点から言えば、事の起こらぬ先に手を打ち、乱れぬ先に治めたものだと言えるのである。陳寿(正史)らの評は、十分に深く見通したものではない。』 ・・・・と、する。
最後にもう一つ、『陸機』 (※同じく付記にて紹介) の『弁亡論』を掲げて、読者諸氏の”孫策考”に供する事とする。
『長沙桓王(孫策の謚)は、世に隠れなき優れた才能をもって、二十そこそこで、その秀をあらわし、先代以来の長老達を招き寄せて彼等と共に父王の創業を引き継いだ。鬼神の如き兵士達が東へ馳け、寡勢の力を存分に発揮させて多勢に戦いを挑み、その攻撃の前には城を守り切れる武将は無く、戦いを仕掛ければ対等に武器を交えられる敵とて無く、背く者は謀殺し、降服する者は安堵させて、長江の彼方の地の平定を完成し、法令を完備し軍隊を整備すると、その威と徳とは、共に輝き渡った。
世に名の聞こえた立派な人物を招いて礼遇したが、張昭がその中でも第一人者であり、すぐれた才能を持つ者達と交わり、配下に納めたが、そうした中でも周瑜が中心人物であった。この2人の人物が共にすぐれて俊敏で非凡であり、広く物事に通じて聡明であったが為に、この2人と性向を同じくする者達がそれに引かれて一緒になり、志を同じくする者達がその気質に感じて集まって来て、江東の地には、多くの優れた人物が輩出する事となったのである。
こうした基礎を足場とした長沙桓王(孫策)は、北方に軍を進めて中原を征伐し、掟を犯す者どもを除き去り、皇帝の車をあるべき場所に戻し、帝座を宮中に返して、天子を補佐して諸侯達に号令を下し、国家の艱難を取り除いて、元の漢王朝の文物制度を復興しようとした。兵車が旅次に上ると、悪人達は目をひん剥いて仰天したのであるが、大業が成就せぬうちに、途半ばにして世を去る事となった。』
〔付記〕※【孫盛】は字を「安国」と言い、蜀書補註の中で、自ら「永和の初年(345年)に安西将軍(桓温)の蜀平定に随行して土地の古老達と会った」と記しているから、この時点からは約150年後の東晋の人物である。給事中・秘書監の任に就いたとある。「魏氏春秋」・「晋陽秋」・「魏世譜」・「蜀世譜」・「異同雑記」などの著述があり、裴松之の補註にしばしば引用される即ち、我々もお世話になる?尚、呉の部将に同姓同名あり
また【陸機】は孫盛よりは50年ほど早く、ちょうど100年後の西晋《八王の乱》時代、成都王・司馬頴の大都督となるも、破れて謀殺される。『晋書・陸機伝』 には・・・・「歳20にして呉は亡び(晋に臣従した)が、父祖(陸氏)は歴代呉国の将相であった故を以ってこれを慨き、ついに『辯亡論』上・下、二篇を作る」と、ある。
さあ〜、樹立したばかりの【呉国】は、
《ま、まさか!?》のエライ事態となった!!
突如、国家の中心を失った呉楚の全土は、丸で蜂の巣を突ついた如き大恐慌に陥ったのは当然である。いつの世であれ、どこの国にせよ、君主を突然失えば、当然そうなるであろう。・・・・だが、生まれたばかりの【呉国】の場合は、より一段と深刻な背景を、その成立の過程に内包していたのである。
ーー思えば・・・・そもそも【呉の国】は・・・・・【孫堅】や【孫策】と云う人間的魅力に惹かれた者達が、その心意気に感じて結ばれ、アッと言う間にのし上がって来た、〔男組〕そのものであったのだ。既存の豪族社会からはみ出した若者や、クソ面白くもない人生に見切りをつけたいと願う、冒険主義的な”トンガッタ連中”が、一旗挙げて世間を見返してやろうと集まった男だて集団であったのだ。(劉備の、堅苦しい”仁侠集団”とは別もの)
だから世に言う「君臣間の関係」は・・・・その成立の初めからして従来の国々の規範とは、全く趣きを異にして来ていた。詰り・・・・《君主と家臣》との間には、相互にこれといった〔規制〕は見えず、両者の振舞いの中には<アレレ??>のオンパレード・・・・善く言えば、自由闊達な”颯爽たる気風”が満ち溢れていた・・・・のままに来ていたのである。言いかえれば、そんな我が儘な連中を惹きつけ、僅か5年と云う短期間でまとめ上げて来ていたのは、ひとえに【孫策】と云う強烈な個人・・・・その人間力、度量の大きさ一つに拠っていたのである。その最大にして唯一の求心力を失った時、これまで臣従して来た者達は、また元の個々人に返り、集合体はバラバラに崩壊していく・・・・・
果して、若冠18歳の【孫権仲謀】に、それを再び束ね直すだけの、強力な求心力は有るのか!?いかに孫策から指名されたとは言え、《3代目のボンボンに、その大事業を統べる事が出来るのか!?》・・・・と云う不安が先に立つ。己の既得権益を失う事無く、更に拡大伸長する為の首領として、その若者を仰いでよいものかどうか!? ーー他方、これを絶好の機会と観て、今度は俺がその中心となってやろうと勇み立つ輩や、これ迄の怨みを晴らしてやろうと手を打って欣ぶ不穏な勢力も、此処かしこに潜在していたのである。
どう成ってしまうのだ、【呉の国】の未来は?
孫呉政権は本当に、この後も存続できるのか・・・!?
ーーこうなればもう、頼れるのは唯ひとり・・・・薨った孫策には、血を分けた以上の【双児の兄弟】が居たではないか!!
”彼” は今、何処で何をしているのか?
一体、断鉄の友が逝った事を知っているのか!?
《早く、早く、駆けつけてくれ・・・・・・!!》
そう願うのは、決して一部の者達だけではなかった。
ーー呉国の守護神・・・・
周瑜 公瑾よ・・・・・!!
【第6章】 官渡の大決戦 《プロローグ》 →へ