【第90節】
明けて建安5年(西暦200年)正月・・・・孫策が目指す《許都》で大事件が勃発した!それを聞いた瞬間、孫策は日頃にもなく語気を強め、思わず舌打ちした。「チッ、子綱(張紘)の奴、何をしていたんだ!」正月早々、世が震駭した大事件とは曹操暗殺計画が失敗し、その謀略に連座したと云う理由で、漢朝廷内の大粛清が行われたと云うものであった!滅殺された者達の数は、数百名にも及ぶと言う。 《曹操め、先手を打ちやがった心算りか!?》
中原では風雲が急を告げ、いよいよ袁紹が10余万の大軍を呼集し、南下の意志を示していた。それに対して曹操も昨年12月からは「許都」を出て〔官渡〕に布陣している。両者の激突は最早時間の
問題となっていたのだ。だから、いざ決戦と云う時に、ガラ空きの許都で事を起こされたら万事休す!ましてや、まやかしの友好関係を結んでいる【呉】が、献帝奪取の機を窺っているのは百も承知。その苦境を一挙に解決しようとしたのに決まっている。
20歳に成ろうとする『献帝』自らが密勅を降したのだと言う。それが発覚し長安(西京)から扈従して来た、廷臣派集団は一網打尽。その悉くが”三族皆殺し”にされたらしい腹に献帝の子を宿す董貴人(董承の娘)も、母子もろとも毒殺されたと言うではないか。
主謀者は、献帝の舅に当たる(霊帝の母である董太后の甥?)車騎将軍の『董承』とされ、そのメンバーには、侍中・長水校尉の「仲輯」・将軍の「呉磧」(呉子蘭)・同じく「王・某」(王子服・李服とも)が居り、左将軍の【劉備】も亦、その一味だったらしい。だが劉備はその直前に除州へ出たまま、夫人達は勿論血盟の義兄弟である関羽や張飛をも置き去りにして、単身袁紹側へ逃げ込んだという。
《劉備の阿呆をダシに、汚い手を使いやがって!》 無関心では居られない孫策ならではこそ、その出来事(事件)の本質を適格に看破している。《それにしても、朝廷内に留まっている張紘をして事前に何の気配も悟らせぬとは、曹操め、全く、喰えん狸ジジイだ。》・・・・これは献帝周辺への根廻し・内応の協力者を得て措くと云う点では、些か痛手であった。だが反面、もはや根廻しなどと云う、まどろっこしい事前工作などは全く不要となったとも言える。献帝自身の今の心境を慮れば、その本心は《曹操憎し!》に凝り固まっていよう。許都へ乗り込みさえすれば、帝自らが欣喜して歓迎するであろう。又、今や天下中の瞋恚(しんに)を買った逆賊・曹操の手から「献帝を救い奉る」と云う【大義】と【名分】は、既にこちらに戴いたも同然。本質的に観れば却って状況は孫策側に有利となったとすら言えるのだ。 《曹操め、今に見ていよ。お前の姦雄ぶりにも、直に幕を降ろしてやろう程に!》小覇王の胸にメラメラと、愾の炎が燃え上がっていく・・・・
そして2月・・・・袁紹軍10余万が、河水(黄河)北岸に続々と集結。
その先遣部隊(郭図・淳于瓊・顔良)は、南岸に橋頭堡を
確保すべく黄河を押し渡ったのである。そして白馬津に揚陸を果すと、曹操側の砦を包囲・・・・・ここに三国志前半の頂上決戦となる、謂わゆる【官渡の戦い】が、ついにその火蓋を切って落としたのである!!
「よし!我が事成れり!」小覇王・孫策は、思わず膝を打つと、スックと立ち上がった。
『孫策ハ許ヲ襲ッテ、漢ノ皇帝ヲ 自分ノ元ニ迎エヨウト密カニ企図シタ。其ノ為、秘密裏ニ兵士達ヲ訓練シ、部将達ニモ夫レ夫レノ任務ヲ与エタ。』 ーー『正史』ーー
翌3月ついに、孫策の呉軍団が動いた。江南安撫に向かっている周瑜を除く、錚々たる部将達が全て加わる其の兵団の総兵力はおよそ7万!孫策伯符と云う男が、この5年間で築き上げた血と汗の結晶、呉国軍団挙げての大統帥であった。進撃ルートとしては先ず長江を押し渡り、その北岸に上陸。「寿春」を経て、一路北西(左ななめ上)へ300キロ驀進すれば・・・・其処に許都は在る!300キロと言えば、東京←→名古屋間に相当するが、
荊州に乗り込み『沙羨』で大勝した行程を想えば、その半分の距離に過ぎないのである。昂然と許都の手前まで軍を進めておき、ちょうど袁・曹両軍が官渡で大激突をし始めた処でいつでも機を観て襲撃する事が可能な距離と言えた。曹操には、背後に派兵するだけの余力は無い筈だ。寄こしても高が知れていよう。精鋭7万を以ってすれば鎧袖一触、献帝を易々と奉迎する事が出来る。それ処か、許都に留まり袁・曹の両軍が互いに傷付け合いボロボロに疲弊困憊した処を叩き潰せば天下は自ずから、この手に納まるまさに天佑、小覇王は大覇王と成って、この戦乱の世は一挙に大団円を迎える・・・・!!
《事はそう、万事順調にもゆくまいが、大筋では夢ではない。大事は成し得る時にこそ、一挙に果すべきものなのだ!!》
・・・・だが実は、その前に1つだけ、始末しておくべき事が有った。長江下流(曲阿)を北に150キロ越えた地点に、眼の上のタンコブが残っていたのだ。タカの知れた相手ではあったが自国をほぼ空にしての大長征ともなると一寸、懸念が残る。「射陽」に居る、広陵郡太守の【陳登】であった。陳登は、先に孫策に撃ち破られた「陳禹」(3年前、初めて漢室から正式に会稽太守に任じられた時、朝命で袁術討伐の共同作戦を行なうよう指名された相手。だが裏をかいて策動するも、逆に孫策の術中にはまり、単騎袁紹の元へ逃亡)の従弟(いとこ)の子で、以前から曹操の為に尽力して来ている策士であった。これまで呂布の下に在りながら、常に呂布を言いくるめ、袁術との同盟をブチ壊し、結局は呂布を曹操に討たせていた男である。曹操にしてみれば、この『陳登』の存在意義は・・・・孫策の進撃を背後から牽制する為の防止策、言わば、保険を掛けて飼っておいた番犬(爪牙)に相当した。詰り、孫策の野望の右隅に、一本くさびを打ち込んで措いた訳であった。−−その【陳登】・・・・・曹操に指令されずとも、己の存亡を賭けて、孫策の出動を喰い止めようと、しきりに策動していた。陳登としては、今迄コツコツと肩入れし、投資し続けて来た曹操(優良企業)に、今ここでコケて貰っては困る。この際、更に大きな貸しを作っておいて一蓮托生、成功の暁の莫大な報酬に賭けるしかなかった。ついでに陳一族の恥辱をも雪がんとして、厳白虎らの残党に印綬を与え(陳禹と同じ手を使い)、孫策軍の後方攪乱に蠢動していたのだった。だが、そんなチャチな策謀など、孫策の眼には全てお見通しであった。
「小うるさい鼬め!この際、天下取りの門出の祝いに、先ず血祭りに上げてくれるわ!!」そこで孫策は、曲阿で母親(呉夫人)に門出の挨拶を済ますと、その足で直ぐ北隣りの河岸都市・丹徒に入った。この丹徒が、陳登を攻め上げる最短の渡江点であった。
4月・・・・一寸した手違いが生じた。輜重隊(軍糧)の到着が、少し遅れるとの連絡が入ったのだ。然しそれを聞いた孫策は「長江を越えてから、その様な事は許されんぞ」と、軽く注意しただけで、内心は大喜びしていたのである。思わぬ”休暇”が手に入ったのだ!長江を渡れば、後は休む事など一日とてないであろう。《今のうちに大好きな狩りでもやって、命の洗濯を済ませておくか・・・・。》自分が生まれ育ち、物心ついた時から駆け巡って来た、緑したたる故郷の山野・・・・その素晴しさを、改めてもう一度、己の全身全霊にしっかと、味わって置きたかったのだ。
−−そして、運命の4月4日・・・・
狩り場としている丹徒の森。
「中原には、こんな美しい森は無かろうなあ〜・・・・!」
供廻りの者達にふと漏らすと、孫策は昨日同様、愛馬の腹をひと蹴りした。緑がどんどん後へ流れていく。故郷の春風が心地よく頬を嬲ってくれる。孫策の愛馬は恐ろしく脚の速い、駿馬である。獲物を求めて森の奥深くへ駆け入った頃には、供廻りの騎馬は大きく引き離され、やがて孫策は全くの独りとなっていた。だが、これはいつもの事であった。そして、この瞬間こそが、孫策には堪らないのだった!・・・《広大無辺な宇宙に唯独り、ただ、我独りだけが生きて居る》と、実感できる、貴重な、己だけの時間と空間に入没できるのだ。其処には天下も野望も何も無かった。在るのは唯、生まれた儘の無垢なる自分だけであった。煩雑な日常から解放され、大自然の懐に無我と成って身を委ねる。異次元空間での瞑想・・・・・これが『小覇王』と言われる孫策伯符の、唯一の
"生命充填法"であったのだ。手網を絞って愛馬を留める。あとはただ、ゆったりと馬なりに任せて、薫風の中を たゆとうていく。
25歳の、生命に満ち溢れた全身が、その若い皮膚で「生」の充実感を体感しながら、天地の合わいに浸り切れる至福の一刻であった。おっつけ皆も追い着いて来るであろう。きのうは大鹿3頭を射た。今日は前祝に、景気好く”虎”でも狩ってみたいものだ。
〈ーー・・・・!?〉
と、その時、孫策はかつて味わった事の無い異和感を、その全身に覚えた。転瞬、なぜか、美しい妻の顔が、虚空一杯に微笑んだ
・・・・・様な気がした・・・・・・
天下を目指し、覇道を進む人生は、極く特殊な人生である。この世に生まれた大多数の人間は、別の人生を生きている。おのずと、その生きる目的も違う。と言うよりこの時代・・・・生きる事(食う事)だけが目的の者が殆んどであった。そもそも、本書に登場して来る者達の全てが、生計など丸で気にする要とてない”上流支配階級”だと言ってよい。然し、『青史』に名を残せるのは、その上流階級の中でも又、一握りの者達だけである。・・・・処がここに、「名も無い人物達」が登場して来るのである。その表記は人名ではなく、単に『食客達』としか無く氏素性は勿論、その人数すら判らないのである。
(江表伝には、孫策の命を狙った者達〔3人〕という数字が出て来るが、これは鵜呑みには出来ない。なぜなら、中国の人々にとって〔3〕と謂う数字は特別な意味を有すると言う。特に古代中国の世界観では・・世界は天・地・人・の三才で形成され
『道は一を生み、一は二を生み、二は三を生む』・・・(老子)
『数は一に始まり、十に終わり、三に成る』・・・・・(司馬遷)
(※ 石田三成の名前の由来でもある。)
『両頭を為(つく)りて、三に満たしめよ』 (孫権)・・・・の如く、
〔三〕は一と二以上の全てを表わすとされるからである。
処で、この『食客』の意味だが、広い意味で、主人から恩義を受けている者の総称とみてよい。上は大名士から下はゴロツキまで含まれる。仕える主人の格によって、その元に集まる者達の質も異なるのだ。さてそこで、孫策への刺客となって、此処に登場して来る食客の主人だが・・・・その主人は、既にこの世に亡いのだけは判っている。先年、孫策の手によって殺されたのだ。
その人物とはーー【許貢】・・・かつて呉郡を乗っ取り、太守を自称していた。
読者諸氏には、『孫策は項羽に似ているから危険です今のうちに手を打つべきです』と、上表したとされ(言い掛かりをつけられ)会見の席で
絞め殺された、あの『許貢』と言えば、思い出されるであろう。ーーあの様に、謀殺を要する様な相手の場合後々の禍根を絶つ為に”一族皆殺し”とするのが、群雄達の常套手段であり、特に孫策だけが惨酷であった訳ではない。だから当の孫策自身は既に過去の事として、殆んど意識していない。いや意識しえない程、多くの者達を殺し(亡ぼし)て来ていた。それは数々の戦闘であり、謀略であり、敵対勢力の根絶やしであった。だがだからこそ今、こうして天下を臨めるここ迄来れたとも言える冷酷な現実である。それで一件落着となり、次の敵に向うのだ。国を平定してゆくとは、そう云う事の連続なのである・・・・仕方ない・・・・だが、だが然し、殺された側、遺された者にしてみれば、仕方ないでは済まされない。 孫策とて胸に手を当ててみれば、父を殺した【黄祖】に対し、今でも激しい、〔憎しみと復讐の炎〕を煮えたぎらせているではないか!仇を討つまで、決して諦めたり許したりはしまい。それを識ればこそ【曹操】などは、臆病すぎる程に《暗殺》に脅え、瞬時たりとも警戒心を解かないのであった。
・・・・処が、若々しく生命力に満ち溢れ、己の死などと云う事には全く無縁で無頓着な孫策には、その個人的武勇に対する自信と相まって、己に対する”危機(管理)意識”と云うものが、スッポリと欠落していたーー英傑と雖も、人間誰しも何処かしら欠点は有るだが、それが、直接命に関わるものであるとするなら、事は重大である。もし、孫策の命を狙う者が在るとすれば、必ずや其処につけ入る"隙"を見い出すであろう。ーーこの事は、大分以前からハタ目にも明らかで、周瑜は勿論、張昭や虞翻、穏やかな張紘
までもが再三再四、諫言をくり返して来ていたのであったが・・・・
孫策が覇道を進む日々と並行して、青史には刻まれる事のないもう一つの日々・〔復讐の日々〕が、同時進行していたのである。
『許貢の末息子は、食客と共に逃れて長江の岸辺近くに隠れ潜んだ。』ー(正史)ー
『許貢の召使いや食客達は、民間に隠れ潜み、許貢のために、仇を報じようと狙っていた。』ー(江表伝)ー
彼等の生きている目的は唯1つ、孫策の命を奪い、【主君の仇を討つ】!事だけである。いかにB級の主であったとしても、主君は主君である。一寸の蟲にも五分の魂・・・・は、有るのだ。
西暦200年4月4日緑したたる丹徒の森深く
孫策がたった1人になった時、そこで彼等に出喰わしたのは、決して只の偶然では無かった。
「おのれ、何奴!?」意外な程冷静だった。サッと腰の長剣を抜き払うと、咄嗟に・・・・《馬上に在っては2の矢・3の矢を浴びるやも知れん!》と、判断。ヒラリと愛馬から草群に降り立った
・・・・つもりだったが、ガクリと膝が折れた。
《チッ!不覚だったか!?》さっきの異和感は、両脇腹に突き立った2本の矢であった。そして気づくともう1本・・・・己の左頬を抉り取り、眼の下を砕き散らして飛び去った、至近距離からの弩弓の跡・・・・よろめく孫策を認めるや、相手はおめきながら、左右の森陰から突進して来た。
「御主君、許呉太守様の怨みと思い知れェ〜!!」刺し違える心底の、捨て身の気迫が伝わる。だが、こんな事位で怯む孫策ではない。《フ、許貢の食客か・・・・。》 脇腹左右の矢を手戟で叩き切ると、スックと立ち直り、右正眼に腰を落とす。
「仇討とは天っ晴れな奴!褒めて仕わす!!」言いざま、突いて来た1人を左上へと胴を抜き、返す一撃で2人目を斬り下げた。鈍いが、充分な手応えはあった。ーーとその時、
「との〜〜!!」と、誰かの呼ぶ声が聞こえた気がした。
「おう、こっちだあ〜」と答えようとした時、背後から腰の辺りに熱いものが刺し貫いた。
「おのれェ〜!!」残っていた背中の敵首をグイと抱き込むや、孫策は、ボキボキッとそれをへし折った。3人片付けた。まだ居るのか?吹き出す血潮をものともせず、辺りを見廻した。だが視界がぼやけてよく見えない。
「とのーー!」 「とのーー!!」 「との〜〜!!」
今度はハッキリ、馬蹄の音まで聞こえた。
《−−片付いたか・・・・・》
と、更にもう1本。また顔面でイヤな音がした。
<−−・・・・−−−−・・・・・>
グラリと倒れてゆく自分がわかる・・・・・・
「殿!しっかりなされませ!!」
「大した傷ではありませぬぞ!気を確かに持たれよ!!」
<−−−・・・??>
「おお、よかった!気が付かれたぞ!!」
「−−何じゃ??お前達?・・・・ああ、そうか・・・・フフ、こんな様は見られたくなかったな。」
近従の腕の中で、孫策は尚も照れてみせた。
「将軍!との!死んではなりませぬ!!
生きて下さりませエ〜!!」未だ前髪も上がらぬ一人が思わず口走ってしまった。血まみれの顔は、顔でなくなっている。
「−−死ぬ・・・・・?? 俺が・・・・か? ハハハ、儂は死なぬさ。未だやる事がある!!」
自分の声に未だ張りが有った。
「そうですとも!許都へ参りますぞ!!」
「そうだ、許だ!許都へ・・・・・」
そこまで言わせると、”司命神”は孫策に、暫し、意識混濁の休息を与えた・・・・・。
「−−どれ位もつ・・・・・?」 懸命な治療を施し終えた典医に、孫策自身が尋ねた。あと2寸、矢が上方にずれていたら即死であったろう。最善の加療は施されたが、激痛は間断なく孫策を苛み続けている。気を失わないだけでも、凄絶な苦闘であった。
「絶対の安静を守られれば、大丈夫でございます!」
医師の眼から観ても、これほど強靭な意志を示す生命には出会った事がなかった。《さすが小覇王さま!》と内心、感動すら覚え、頭の下がる思いであった。
「慰めは言わんでよい。構わん本当の事を言ってくれ!死ぬ前にどうしても、伝えておかねばならぬ事が有るのだ。一刻か?半日か・・・・?」恐らく、みずからの”死”を覚悟したのであろう。事後をきちんと托しておきたいに違い無い。
「・・・・もって一日・・・今宵は越せぬかも知れませぬ・・・」
「そうか、よく言ってくれた。口がきけるだけでも有難い。」
体力は既に使い涯たし、今はただ、残り少ない気力を振り絞り、かろうじて死の淵への転落を押し止めているに過ぎなかった。
それが自身でも判る。
「−−鏡を見せてくれ。顔を見たい。」
「そ、それは、お止めになさった方が・・・・・。」
「ひどいのは判っている。妻や母を呼ぶか自分で決めたいのだ」
恐る恐る翳された手鏡に映った自分を見る孫策。
《−−!!・・・・・》
「これでは見せられぬな。決して呼ぶな。」
愛する新妻の手を握りしめたかった。母にも最期にひと目会いたかった。そして、生まれたばかりの我が子『紹』にも、せめて一声かけてやりたい・・・だが、その口から出た言葉は、私情を超えた
〔小覇王・孫策〕のものであった。
「仲謀(孫権)と長史(張昭)、程公(程普)は来ておるか? 直ぐ、ここへ入れよ!紹(我が子)はよい。」
”父”としてなら、孫紹を後継者に指名してやりたい。我が子を愛さぬ父親などあろうか。ましてや新妻・大喬との愛の結晶、一粒種なのだ。もはや、その行く末を見届けてやれぬのだから、せめてその地位だけは確保して措いてやりたい・・・・世の教え・人の道としてもそれが正しい。大多数の名士達も、そうすべきだと主張するであろう。〔親から子への政権移譲〕には、誰も正面切っては反対しまい・・・・だが、未だ、建国の緒に着いたばかりの呉国の行く末を考えれば・・・・ここは成人を果した《弟》に跡を托すしか無い・・・・!!
流石に 『小覇王』 と謂われる男ーー生きて居るだけでも過酷な重態の中、
最期の最期に当たっても、その”覇王”としての心を、曇らせる事は無かったのである・・・・・・
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