【第88節】
処で、この【黄祖】・・・『正史』には30ヶ所近くも出て来るのだがどれもこれも、相手を引き立てる黒子の役しか与えられて居無い「劉表」の配下部将であった為、『伝』を立てられない事は当然としても、結局は字すら伝わって居無い人物なのである。唯一、彼の人格・性質が垣間見られるのはーーあの、天下御免の悪口男禰衡でいこうを殺害してしまう場面だけである。・・・・折角拾って呉れた「孔融」に冷や汗を掻かせ、流石の「曹操」にもサジを投げさせ人の好い「劉表」をも激怒させ、盥廻しの挙句に辿り着いたのが【黄祖】の所であった。ーー『典略』に言う・・・・
『将軍・黄祖が夏口に駐屯して居たが、黄祖の子の黄射が禰衡と親しかった事から、禰衡は彼に付いて夏口にやって来た。黄祖は禰衡の才能を高く評価し、いつも同席させ、珍しい客が居ると、引き合わせて話に加わらせた・・・が、後になると禰衡は、(いつも通り)傲慢で頑くなな態度を取る様になり、黄祖の言葉に対して芸人の様な饒舌さで答えた為、黄祖は自分が罵倒されて居るのだと思い込み、カンカンに腹を立て、伍伯(五人組の班長)に命じ、彼の頭(頭髪)をひっ捕まえて引き摺り出させた。かくて側近の者が之に手を貸して(暴言を吐き続ける禰衡を)連れ去り、身体を締め砕いて殺害してしまった。』・・・・カッとなれば容赦無い。叩きあげの軍人だから、名士達の様な躊躇らいや、斟酌は無い。知る人ぞ知る”短気男”癇癪玉であったらしい。(199年末の今現在その禰衡は黄祖陣営内に在り、おそらく未だネコを被って生きていた筈である。)
それにしても、この【黄祖】と云う男は、よくよく、不運な星の下に生まれたとしか言い様がない。
その第〔1〕は・・・・仕えた主君が非戦論者の『劉表』であった事。
その第〔2〕は・・・・肝腎な局面を迎えようとしている今、国府中枢は政争に明け暮れるばかりで、誰も真剣に支援体制を敷いてはくれず、いっ時、お茶を濁しては済まされてしまう、孤立無援に立たされている事ーーそして〔最大の不運〕は・・・・直接自分の所為ではないのに、偶々1兵卒の誰かが【孫堅文台】を流れ矢で仕止めた為、孫策・孫権兄弟からは”親の仇”として2代に渡って怨まれ続け、その将兵達にさえも”国家の仇”とスローガン化され、丸で彼の首こそが、呉国全体の目標の如くに狙われ続ける羽目にたち至る事であろう。・・・・それをひしひしと感ずる【黄祖】は、拠城にしている「夏口」が戦禍に傷つく事を避ける意味でも、又この一戦でケリを着ける意味でも、全軍を30キロほど上流南岸の
〔沙羨させん〕に移動させて、その広大な河川敷に陣を構えた・・・・此処を決戦場と定めたのだ。その証拠に、妻子一族も全て帯同しての、並々ならぬ異例な措置が採られていた。拠城を退き払って蛻の殻にして来ているのである!!そんな不退転の覚悟で、黄祖はじっくり時間をかけて、そのうねった砂丘地帯に幾重にも塹壕を掘らせ、本陣の深い縦陣地(いわゆる穴熊の陣)を構えた塹壕戦に持ち込めば、その戦闘は長期化し、食糧補給も援軍の派遣も、万事がこちら側に有利となろう。何と言っても此処は荊州領内、"自分のフィールド"なのである。だから長期戦に備えて、本陣後方には食糧備蓄庫も設け、本気で決戦体制に入っていた又、その陸上の本軍を支援する為に、すぐ脇に控える水軍は、天下最強の偉容を示している。軍用と民用とを問わず、その数だけを大小合わせれば、何と保有船艇は1万隻!に近い。長江の水面が見えぬ程である。流石に〔荊州水軍〕は桁が違う。(この9年後の赤壁戦に於ける数字も1万隻である事から見ても、総力を結集しての布陣だった事が判る。)
更に国府(既に劉表は重い病いに伏せりがちになっていたと想われる。)からも、特殊精強部隊5千が増派されていた。その秘密部隊とは、
通常使用する矛(長柄の槍状の先に両刃の剣を付けたもの)の3倍もの長さを有する長矛ながほこ部隊であった。これは謂わば最新秘密兵器と言える。もしこの5千が槍先を揃えて戦場に折り敷けば・・・・その手前に在る敵の突入は、最強の騎馬軍団を以ってしても、殆んど不可能となるであろう。また密集隊形の儘前進せば、これを押し止める手段は弓矢しかなく、突破の速度は遅いとは言え、その破壊力は無敵とも言えるに違いなかった・・・・いかなる局面で、この秘密部隊を投入するかが、この決戦の帰趨を占う最大のポイントとなるであろう。(※ちなみに、この黄祖軍は会戦の度に、次から次へと新兵器を登場させては孫呉軍を悩ませる。然し黄祖自身に、そうした発明の才能が有ったとも想われぬから、ヒョットしたら、その開発にはあの禰衡が関わっていたカモ知れ無い??それ等の新兵器が登場して来る期間、ちょうど禰衡は生きているだ。そんな想像・空想をしてみるのも愉しいではないか・・・・)
さて、その黄祖軍の総兵力は5万余。兵数ではやや劣る孫策軍だが、両方ほぼ互角の、この時期としては史上最大の、両者合わせて10万!と云う一大決戦の幕が、今まさに切って落とされようとしていた・・・・ともすると三国志では〔官渡の戦い〕と〔赤壁の戦い〕の2会戦だけが大きく扱われるが(無論その通りで、時代を画する最重要な決戦ではあるが)、この〔沙羨の戦い〕も、その総兵力の規模に於いては、一大決戦の名に値するものである。以下、その戦記(戦闘詳細)を、『呉録』に収められている〔孫策の上表文〕に沿って再現する事にしよう。
月が進んだ12月・・・・・【孫策軍】は、長江を一気に西上、夏口からは70キロ手前の「武昌」に上陸。本軍主力は其処から陸路50キロ西の、敵主力が展開する〔沙羨〕へと進撃を開始した。水軍もこれと並行し、夏口を素通りして沙羨を目指して進む。
その主たる諸将の顔ぶれは・・・・
−−君主・討逆将軍・呉侯の【孫策伯符】。
その4万を統帥する中央国軍総司令官は、中護軍・江夏太守・建威中郎将の【周瑜公瑾】ともに25歳
同じく中護軍で、先君の復讐に燃える最長老の零陵太守・蕩寇中郎将の【程普徳謀】。この2人の指揮下にキラめく星々は桂陽太守・征虜中郎将の【呂範子衡】。
折衝中郎将の【太史慈子義】。
−−討越中郎将の【将欽公奕】。
−−尋陽県令・武鋒校尉の【黄蓋公覆】。
−−安楽県長・先登校尉の【韓当義公】。
−−破賊校尉の【凌操】(字不明)。督軍中郎将・パピルス船の【徐混】(字不明)。呉郡太守・都尉の【朱治君理】。揚武都尉の巨人【董襲元代】。「張昭」の推薦を受けて別部司馬に昇進したばかりのあの悪ガキ【呂蒙子明】もいる。
別部司馬の【陳武子烈】は、劉勲から降った兵の中から屈強な者だけを選りすぐって創設したばかりの精強軍団を率いる。元服したばかりの【孫権仲謀】も奉業校尉として実戦配置につく。その初々しい主君を守るように・・・・春穀県長・別部司馬の【周泰幼平】が寄り添う。
1万ほど兵力が劣るとは言え、孫策軍には宿敵意識が横溢し、士気はすこぶる高い。又、新たに参入した将兵達も、ここが功名の挙げ処とばかり、戦意昂揚すること甚しかった。更に孫策と周瑜の胸中には、絶対的な勝利の確信が在った。ーーそれは・・・・黄祖が塹壕戦の配置に着いたと聞いた瞬間に生まれていた。
「しめた!黄祖め、わざわざ塹壕を堀って、自らの動きを封じ込んでしまったぞ!これで我々は、原則的には、きゃつの周囲を自由に動ける事となった訳だ。・・・・敵の側背に廻り込みさえすれば、いや、廻り込んだ時には、既に勝負は着いたも同然だな!」
「・・・・よし、では、その絶対的有利さを、具体化しよう。」
2人の天才が織りなす阿吽の呼吸・・・・
〔孫策の神威的洞察力〕と、
〔周瑜の神算的創造力〕の結合が新たな"神鬼"を産む
「敵にこちらの動きを悟られない為には・・・・?」
「既にお前の頭の中には、策が閃めいたようだな。」
「・・・・・フフ、眼潰しを使う。それも大掛かりな奴で、敵の眼を見えなくしてやればいい。」
周瑜が手真似でブラインドを作って見せる。
「フム、煙だな!風上から、煙幕を張ろうって訳か!?」
「我が軍は、東南方向から沙羨へ攻める。だから味方の背後から吹く風は、東南の風でなければならぬ。今、風向きはどっちだ?」
咄嗟に全員が旗艦上に翻える統帥旗を振り仰いだ。これだけで気づかぬ間に幕僚全員の心が一つに成っている。
「全く逆の北西の風が吹いておるぞ!?12月の今は、連日これじゃ。これでは逆に、味方が燻られてしまうではないのか?」
最長老の【程普】が、疑念を発した。
「問題は、其処にこそ御座います。」程公の発言とあって、周瑜は語調を改めて答える。〔そこにある〕と、〔そこにこそある〕とでは、相手の発言の重要度が全く異なって聞こえる。細やかな配慮であった。
程普自身も周囲の者達も、いかにも重大な指摘であったかのように思ってしまう。
「されど、我が軍中にも、地元出身の者達は多数おりましょう。」
さりげなく問い掛け調で答えてみせる。
「−−ウム、解った・・・・。直ちに全軍に発令。この地の出身者に呼集を掛けよ!」
周瑜とは同格の、総司令の立場に在る程普であった。
側では孫策が、さすがだ!と言わんばかりに深く頷いて見せる。
「徹底的に聴き取り調査を行ない、12月でも東南の風が吹く日はあるのかどうかを、虱潰しに聴き出せ!」
面目躍如、恰かも程普は、発案者の如くに見える。その指令に対し、すぐ南の「零陵」出身の長老・黄蓋も更なる提案をつけ加えた
「探索方を先行させ、地元民にも聴き込みをさせましょう。通常の斥候の十倍は動員する価値が有ろうかと存じます。」
「よし、直ちにその手配も致せ!」
「では私は、火点となるような適材探しに当たりまする。」
「私は魚油を担当致します。」
こうなればもう、後は自動的に幕内が動き出す。 孫策と周瑜はいつも通り、互いの目配せで笑い合っていた・・・・・。
199年(官渡戦の前年)12月8日・・・・
沙羨に待ち構える黄祖軍の眼の前に、いよいよ孫策の大軍団が其のその姿を現わした。片や黄祖が妻や子等を帯同して居らばこちら孫策・周瑜も亦、縁ばれたばかりの新妻と一緒であった。
両軍合わせて10万を超す者達の運命を決する大会戦が今、互いの眼の前に、 現実の黒々と
した姿となって現われ出でたのである・・・・・後世、あまり注目されず、敢えて、取り上げられる事も無かった、中国大陸南方の一地点に於ける
”知られざる大会戦”の開幕であった!
両者、一里(400m)もない真空地帯を挟んで、過ぎゆく日月を惜しむかの様に睨み合うこと3日・・・・互いに敵の陣型を探り合い戦機を窺う。口火を切る権利は、進攻して来た孫策側にあった。平地会戦ではあるが基本戦術には大きな相違が存在している。
【黄祖軍】は塹壕戦に拠って、どちらかと言えば長期戦を覚悟している風が観られる。それに対する【孫策軍】は塹壕などは1つとも堀る様子はなく、陣の後方、敵から見えぬ所で、せっせせっせと、芝刈りに精を出している。厖大な情報収集の結果、12月の北西季節風の時節でも
この長江中流域一帯では、
"東南の風"が吹く日の在る事が判明したのだ!!
12月11日未明・・・・夜明けを期して、ついに孫策軍の攻撃が開始された。3日もの間、待ち続けていたのは「風向き」であった。孫策軍としては、是が非でも《風上側》に位置したかったのである。陸上戦であるから、こちらは自在に風上に廻り込めるかと言えば、見通しの好い、この河岸砂丘では丸見えとなり、〔長矛部隊〕の餌食となるのは、火を見るよりも明らかであった。・・・・・事実、孫策軍が前進を開始するや、敵の最先鋒にサッと5千の槍衾が出現していたのである。これを無効とする為にも、最初から風上でなければならなかった。ーーそして・・・・
199年12月11日の夜半から、ここ沙羨の地には季節外れの”東南の風”は・・・・実際に吹き始めたのである!!
(※かつて誰も、この沙羨の勝因を重大視して来なかったが、これはのちに歴史を揺るがす赤壁大決戦の陸上版・基本モデルとなる・・・・のである。)
さて一方、塹壕に頼る黄祖軍は、固定された儘で動けない。この基本的戦術構想の相違が後刻、大きな差となって、その長所と欠陥とを、くっきり暴け出す事になる。
・・・・刻一刻と、間合いを詰めて前進する【孫策軍】。
「−−何だ?あの幼稚な隊列は!?」
敵兵の口元が、思わず嘲笑に歪んだ。目茶苦茶なのだ。
孫策軍は先鋒・中衛・後詰めと云う常識的な戦法など知らぬかの如く、ただ中護軍だけを残すと一挙に大兵力を投入して来たのであるそれも、てんでんバラバラ、只ゾロゾロと歩いて来るだけに見える
・・・・と急に軍鼓が鳴り止み、その大軍がピタッと一斉に止まった
「−ー・・・・??」
するや次の瞬間、その人群れの至る所から、バチパチと無数の火の手が挙がった。刈り取られて固められた芝草が燃やされ、炎の固まりとなって前方の敵陣に向かって、次々と投げ込まれたのである。と同時に、地面の枯れ草にも火が掛けられた。
「バ〜カ!そんな遠くで何やってんだ!?」
初めのうち火勢の弱さとその距離の遠さから、相手の稚拙さを嘲笑っていた黄祖軍だったが・・・・徐々に顔色が変わり始めた。
「ウッ、これは堪らんぞ!ゲホ、ゲホッ!」
吹きつける向い風(南東の風)が、地表を舐めるが如くに火種を煽り、生乾きの
芝草が、濛々たる白煙を流し出し、戦場一面を覆いだしたのだ。ーー普通、風が無ければ、煙は上空へと立ち昇ってしまう。だが今、此処に吹く風は・・・・北西の季節風では無く、其れが大別山脈にぶつかって”大気の巻き込み現象”を起こすと同時に、好天続きで発生する”局地的な暖気流”が、この地域独特の地形と相まって生んだ〔地方風〕であった。其れは気圧差に拠る全国的な”気候”現象では無い”気象”現象・・・・正しく火煙攻撃には打って付けの、地を這う如き〔地表風〕であった・・・・。
この孫策軍の意図が、火攻めと言うより、明らかに煙幕効果を狙っている事が、やっと判ってきた。冬枯れした芝束には、わざわざ水を掛けて一晩寝かせてまで、発煙効果を高めてきた成果は甚大であった。敵方からはこちらの動きが全く見えなくなった。それ処か、呼吸さえ困難な程の猛烈に濃密な、一種の科学兵器とさえ成っていた。反対に味方はその眼潰しのお陰で、どこからでも自在に敵の側背に廻り込み、攻め口を選ぶ事が可能となったのだ!ーー大混乱する黄祖軍・・・・頃は好し・・・・再び軍鼓が戦場に轟き渡った。するやあれ程散漫であった孫策軍が豹変した。
両翼がスッと左右に素速く移動すると、大きく敵陣に廻り込み始める。・・・・だがその動きは、敵側には全く見えていない。
「放てぇ〜ィ!」
号令一下、白煙が充満する敵の塹壕線に向けて、弓矢が雨霰と降り注ぐ。何も見えない煙だらけの中から突如飛来する矢玉では防ぎようもない。ただ恐怖に怯え、ひたすら塹壕の底に身を縮めゴホゴホと咳こむしか無かった。這いつくばっていれば、どうにか呼吸だけは出来る。ーーが、味方にしてみれば、これ程たやすい戦闘は無かった。黙って近づき、唯ひと突きするだけで事は足りる。 ・・・・ギャ〜!・・・・ワァ〜!と、至る所から、悲鳴と絶叫が湧き起こった。
「ーーよし、鬨を挙げさせよ!」それまでサイレントアーミーであった全将兵が、角笛によって一斉に封印を解かれ、突貫の雄叫びを挙げた。これにより戦場の姿は一変した。地に埋ずこまる残敵は捨て置き、全軍が最奥部に陣取る【黄祖】めがけて殺到し始めたのだ。
「−−ここぞ!!今こそ総攻撃じゃ!!」
戦機を見切る事にかけては、孫策伯符の右に出る者は居無い。そしてそれを、勝利にまで自らの出番によって成し遂げ得る者となれば・・・・これはもう、孫策の独壇場と言うしかない。それまで山の如くに動かず、静観すること林の如くであった中護軍が、ついに動いた。馬蹄の轟きは地響きと化し、孫策自らが戦鼓のバチを取って打ち鳴らす急調子の突撃命令は、それまで満を待していた無敵軍団に、鬼神の覇気を生じさせた。その侵略する様は、まさに炎の如くであった。中護軍の進撃開始を見るや、先行した軍吏も将兵も更に奮い立ち、勇気百倍して躍りあがり、細心かつ果敢に敵陣地を潰していく。その突破力の凄まじさは、丸で津波の如くに敵を呑み込み、幾重もの塹壕線が次々とうち棄てられ始めた。前進しては又芝束に火を放ち、その白煙をかい潜って躍り込み、かつ廻り込んでは弩や弓が一斉射撃をくり返す。
戦闘開始から2時間後の辰の刻(午前9時)・・・・ついに、黄祖軍は総崩れとなり、陣地を棄てて潰走し始めた。 折角の【長矛特殊部隊】も、結局は有効に投入する機会すら見い出せぬ儘の、為す術無き、完全敗北・敗走であった・・・・。こうなればもう戦闘ではなく殲滅作業にも等しかった。是を観た長江上の水軍戦も、黄祖側はただ身動きできぬ芋洗い状態から脱出しようとパニくるだけで誰も味方を収容しようとすらしない有様となっていた。
−−そして更に1時間後の午前10時・・・・・
この〔沙羨の戦い〕(夏口の戦いとも言う)は、全っき終局を迎えたのである。
黄祖軍の戦死者は、実に2万!追い詰められ、
溺死した者さらに1万! 合わせて3万もの人命が、
此の、名も無き地に、涯てたのであった・・・・・
(※尚、この溺死者数からも、当時は”水泳技術”が一般的なものでは無かった事が判る
上表文中の数字だから、威勢の良さは差し引くにしても (一説には、実際の10倍にして上表するのが慣例だったと謂う)1つの会戦としては未曾有の大損耗率を記録して其の戦いの決着はつけられたのであった
【黄祖】は妻子すら救うこと能わず単騎逃亡した。彼の妻子男女7名ともが捕えられると云う、惨めな大敗北となったのであるーーこの結果、【孫策】は3万余の兵力と、軍船6千隻、山をなす財宝と食糧をも、一気に入手したのであった・・・・・!!
そして此の時【周瑜】も亦、貴重な経験律を、彼の戦記メモリーに、新たにインプットし得たのであった!
《−−12月・・・・沙羨・・・・
・・・・火攻め・・・・東南の風・・・・》
吾人は知るやーー此処・沙羨の僅か70キロ上流には・・・
【赤壁】と呼ばれる地が在るのだった・・・・・
ーー【冬・12月】・・・・【火攻め】・・・・【東南の風】・・・・
ーー次に・・・・・曹操も見た筈である
〔孫策の上表文〕を揚げる。それ程長くないので全文を載せる。 (なお、★点は筆者の判断による。)
『臣は黄祖の討伐にあたり、12月8日の日には黄祖が陣をしく沙羨県まで軍を進めました。劉表が部将を遣って黄祖の援助をさせ、ともども臣に向って兵を進めて参りました。臣は、11日の夜明け方、部下の江夏太守・行 建威中郎将の周瑜、領桂陽太守・行 征虜中郎将の呂範、領零陵太守・行 蕩寇中郎将の程普、行 奉業校尉の孫権、行 先登校尉の韓当、行 武鋒校尉の黄蓋らを指揮し、時を同じくして一斉に攻撃を掛けさせました。
(※「行」は低い官を兼務する場合に用いる)
みずからは馬に跨って敵陣を蹴散らし、手には急調子の戦鼓を打って、攻撃の勢いを整えたのであります。
軍吏も兵士も奮い立ち、勇気百倍して躍り上がり、細心かつ果敢に、おのおの競い合って命令を遂行致しました
幾重もの塹壕を乗り越え、その速さは飛ぶが如くでありました。
風上に火を放ち、兵士達はその煙を掻い潜って踊り込み弓や弩が一斉に発射されて、降り注ぐ矢は雨の様でございました。辰の時(午前9時ごろ)になる頃には、黄祖の軍は潰滅したのでございます。鋭い刃の截(き)るところ、風に乗った炎が焚(や)く所、その前には生命を全うする敵兵も無く、ただ黄祖だけが走り逃れました。彼の妻や息子たち男女七人を捕虜とし、劉虎や韓晞をはじめ2万余の首級=くびじるしを斬りました。水にはまって溺死した者が1万余名、船6千余艘と山と積まれた財宝とが残されました。
劉表は未だ擒(とりこ)となっておりませんが、黄祖がかねて悪智慧を働かせたのは、劉表の腹心となり手先となって悪事を行って来たのであり、劉表が悪虐をなしたのも黄祖がそれを吹き込み助長していたからです。然るに今、黄祖の一族と配下とは完全に烏有=うゆうに帰しました。劉表は孤立無援の囚人、既に亡者であり生ける尸しかばね)に過ぎぬのです。
こうした事は全て、神聖なる漢王朝の御神威が遠く辺境の地に振われた結果であり、臣も罪人を討伐し、いささかの忠勤をあらわす事が出来たのでございます。』 −ー『呉録』−−
宿敵・黄祖本人は討ち漏らしたとは言え、完勝である!この大戦捷により、孫策は江東に続き、荊州口への覇権をも確保し、呉の政権基盤は一段と揺るぎないものとなった。(とは言え、あのパピルスの船の徐混は流矢で戦死)
今や孫策の【呉】は、その総兵力を10万!!・・・・と、呼号してもおかしくない、押しも押されもせぬ、〔天下の一大勢力〕 と成り得たのである。ーー思えば・・・・・つい5年前、21歳で旗挙げした時の兵力は僅か1千であった。それが今や百倍の10万である。小覇王の呼び名にも位負けしないだけの実力と人望とが更なる未来を約束してくれているとしか思えない。それは今迄以上に波瀾に満ちた、燦然たる栄光の歴史となるだろう。
未だ25歳・・・・その若さの向こうに天下がはっきり見えて来た。(この時、曹操45歳、袁紹50歳位、劉表は58歳、1番若い劉備でも39歳であった。)
−−199年末、孫策は許都の献帝(許宮)へ向けて、重臣張紘を派遣した。(虞翻は拒否)表向きの名目は、討逆将軍号と呉侯拝命に対する御礼言上と、黄祖戦の戦勝報告であった。が、張紘は《或る重大な密命》を授けられていたのである・・・。
ズバリ・・・・『献帝の動座』・『献帝奪取』であった!!
今(199年12月)この時刻ーー【曹操】は、いよいよ北の大敵・【袁紹】との激突を覚悟して、許都を軍師の旬ケに任ねると、自らは《官渡》に陣取り、これから始まらんとする
"己の存亡を賭けた大決戦"に臨もうとしている真っ最中だったのである・・・年が明ければ、ついに【袁】と【曹】との両雄は大激突し、血みどろの死闘を演じ続けるであろう。そうなれば、兵力的に劣る曹操に余力は無い。その間隙を突いて「許都」を襲い、〔献帝〕を保護・奉戴し、孫呉政権が新たな覇者として、朝命を天下に号令する・・・・・その為の事前の了承(献帝自身の同意とその周辺への根廻し)を取りつけ、更には具体的な段取りまでを、極秘裡につけておく事ーー・・それが張紘に与えられた、真の使命であったのだ!!
だが事の性質上、直ちに右から左へとゆくものではない。
針の穴からでさえも、事は瓦解する。だから細心の警戒を払いつつ、ジックリと時間をかけて一つずつ、外濠から埋めていくしかない。
これに対する【曹操】は・・・・薄々それを察しつつもムゲに追い返す事も儘ならず、張紘の利用価値と危険度とを天秤にかけながら、微妙な態度を採らざるを得無かった。顔で笑って心で憎む
・・・・できれば逆に、張紘を取り込んでしまいたいと狙う曹操は、彼を侍御史に任じ、そのまま許都に引き留めさせた。これで張紘は、先ず第1段階をクリアー。裏工作の為の貴重な”時間”を確保する事に成功。手始めに朝廷随一の実力者であった少府の孔融と急接近を果たし、宮廷中の公卿や知人達への輪を広めると、事ある毎に孫策の偉大さを吹聴しては売り込んだ。
「孫伯符の資質と智謀はとびぬけて優れており、三郡平定の際にも、恰も風が草をなびかせる様に容易に事が運び、加えて忠義と敬虔さと誠とを持ちあわせ、漢王室の為をいつも考えておられるお方です!!」
官渡から出られぬ曹操は、周辺から「どうされます?」と尋かれて苛々してこう怒鳴り散らしたとされている。
「あの狂犬野郎とは、いま喧嘩する訳にはゆかんのじゃ!」 −−『呉歴』−−
この逸話は、【孫呉】が1つの独立政権として、それだけの実力を備えて来ている証しでもある。
〔許都襲撃!〕・・・・孫策は本気になっている。今や、その
〔孫策の覇望〕を阻む者は、
何処にも見当たらなかった・・・・・
【第89節】 狂直 と 華独坐 (近づく天下への夢) →へ