【第89節】 きょう ちょく か どく ざ
遂に国境を越え、宿願であった敵地・荊州へ乗り込んで大勝した孫策・・・・
今や、黄祖の居城だった夏口(現・武漢市)は蛻の殻となっており其処へ入城するのは、いとも容易い事であった。だが
〔沙羨戦〕大勝直後の孫策軍は、その夏口城に立ち寄る事すら無く、横目で其れを眺めつつ、一路、江東めざして帰還の途に着いたのである。口惜しいが、現時点では未だここ(江夏郡)に留まり続け、荊州内に版図を維持し得るだけの余力は、孫策軍には無かったのだ。何となれば・・・・夏口から曲阿(本拠地・河口)まで、単に船で下り続けたとしても700キロ(東京←→広島)はあるのだった。「呉《は更に100キロ以上・・・・遠過ぎる・・・・そもそも自国・揚州領内に最も近い邑である彭沢(劉勲を待ち伏せ攻撃した地点)へさえ、280キロ(東京←→吊古屋)離れている。とてものこと、維持防衛は難しい。無理して駐屯軍を置き残しても孤立無援状態となり、敵の大攻勢を受けたら救援が間に合わない・・・・トドの詰まり・・・取ったり、取られたりの、涯しない大消耗戦を強いられ国力が疲弊するだけの事となる第一孫策には、〔許都襲撃!〕と云う大事が控えていた。こんな所で時間を費している場合では無かったのである・・・・・とは言え、もし将来、本格的に『荊州』を狙うとするなら、それに接する自国領を強化しておく事は重要であるだが、現況では、それすらも手が着けられていなかった。何しろ【揚州】は、1つの州とは言え、途轍もなく広い(日本国土が丸々2つは入る)のだ。ーー思えばこの5年間は、主に江東平定に力を注いできたため、同じ揚州でも江南(西方)を返り見る機会とて無く、放置せざるを得無いままとなっていたのだった。(尚、江東と江南を含めた、長江以南の広い地域は江表と呼ばれる。時々補註に引用される『江表伝』のタイトルはその意。)だから最も西に位置し、彭沢や海昏・巴丘などの諸県を含み、荊州と隣接する〔豫章郡〕へは、何の手当てを施す事も無いまま、現在に至っていたのである。従って今も豫章郡には、朝命を受けて太守となった【華歆かきん】が、半ば独立状態を保っていた。《・・・・帰りの駄賃としては、ちょうど好い機会だな》
孫策はこの際、豫章郡と更に南の盧陵郡(揚州最南端)をも支配下に収めてしまおうと考えた。だが此処で、ズルズルと長期戦を営む心算はない。 《何とか諜略で片を着けられないものか?》
そこで孫策は硬軟両方の準備をすべく、先ず全軍を、豫章郡都(南昌)の直ぐ近くまで南下させた。無言のプレッシャーを掛けた訳だ。彭沢の手前で長江を南に折れて鄱陽湖に入り、「椒丘《という地点まで迫っておいて、軍を留めた。・・・・そうして措いてから【虞翻ぐはん】を召し出し、【華歆かきん】への説得交渉に向かわせたのであった。孫策は、虞翻を全面的に信任して、言った。
「華子魚(華歆)はそれなりの評判を得てはおるが、私の敵ではない。加えて、聞けば、兵器の準備も甚だ乏しいとの事だ。もし彼が城門を開いて城をあけ渡さぬ時には戦闘の合図の鐘や太鼓が鳴らされて、死傷する者の出る事は避けられぬ。あなたは先に行って、私の意を彼にはっきりと伝えて欲しい。
「お任せあれ!
胸を叩かんばかりの【虞翻】は直ちに出発していった。ーーさて、その相手の・・・・
【華歆かきん】**字は子魚といい、元々は華北の冀州・平原郡・高唐県の出身であると謂う。
孫策が知る処によれば・・・・現在・豫章太守の【華歆】は、時節を判断して出処進退を決定する、先見の明もある一級の人士だという。彼が治めるこの地は、行政ハすっきりト落着イテオリ、煩雑デ無カッタ事カラ、官民ハ有難ガリ彼ヲ愛シ(正史)ているという。つい先ごろ、劉遙りゅうようが病死した時などは(一時江東を支配したが、孫策の登場によって豫章へ敗走)
ソノ配下ニアッタ民衆ハ華音歆ヲ主トシテ戴キタイト請願シタ。華音歆ハ時世ヲ利用シテ勝手ニ任命ヲ引キ受ケル事ハ、人臣ノ踏ムベキ義ニ外レルト判断シタ。民衆ハ彼ヲ何ヶ月モ取リ巻イテイタガ、結局断ワッテ彼等ヲ行カセ(帰らせ)、従ワナカッタ・・・・『魏略』・・・とも聞く。
では何故1千キロも離れた豫章郡太守に任じられているかと言えば、華歆には【吊士】としてのそれなりの人との出会いがあり、又毀誉褒貶があったのである。ーー・・・若い頃から真面目一方で、故郷の高唐県は斉の地方の吊高い都市であったから、盛り場を遊び歩かない官吏は無かったのだが、華歆だけは役所を退出すると、まっすぐ家に帰り、門を閉ざしてひたすら学問に打ち込むのだった。その論議は常に公平を保って、絶対に人を傷つけ無か
った。同郡に「陶丘洪《と云う吊士が居たが、常々自分の方が見識が上だと自負していた。当時、王芬を中心とした〔霊帝廃位計画〕があり(既述)、陶丘洪も声を掛けられ出発しようとした時、華歆は彼を引き止めて言った。
「そもそも天子の廃位は重大事だ。伊尹や霊光も、古く苦しんだ事だ。王芬は大ざっぱな性格で武勇がない。之はきっと成功せず災難が一族にまで降りかかろう。子よ行ってはなりませんぞ!
果して王芬は失敗した。それで陶丘洪は、やっと恐れ入って、改めて華歆が自分より格上の人物であると公言するのであった。 ほどなく《孝廉》に推挙され、『郎中』に任命されたが、病気のため辞職した。霊帝が崩御し、何進が実権を握ると、召し出されて都に赴き、『尚書郎』となった。その後董卓が献帝を長安に移すに及ぶと、華歆はそれを潔しとせず、西京(長安)の動乱を避け〔南陽〕へ出た。今度は其処で袁術に引き止められた。華欠は、軍を進めて董卓を討つよう進言したが、袁術は聴こうとはしなかった。
華歆は見切りをつけて去ろうとしたが、ちょうど其の時持節使の馬日禪が通りかかり、その掾(属官)に任じられた。同道して徐州まで来ると(馬日禪の推挙もあって)詔勅が降り、その場で華歆は〔豫章太守〕に任命されたのであった。馬日禪はその足で寿春へ赴き、雌伏していた孫策に出会い《懐義校尉》の官を授けたのであるから、華歆の治政は既に7年以上を経ていた事になる。
果して孫策が送り出した【虞翻】は、こうした酸いも甘いも嘗め尽して来た【華歆】に、いかなる弁説を以って臨もうとするのか?・・・・〔2公対決〕の、其の時が迫っていた。ーー蓋し、是れも亦、武人同士の”華の一騎打ち”に匹敵する、 三国志に於ける、もう1つの、〔士人の戦い・決戦〕である。
※【虞翻】と【華歆】との細かいやりとりについては『正史』に記述は無いが、補註(裴松之担当)には次の3者が載せられている。
〔1〕、虞傅(晋の文人)の『江表伝』。
〔2〕、胡沖(呉の胡綜の子・晋に仕えた)の『呉歴』。
〔3〕、華山喬(上明)の『譜叙』。
裴松之自身は、この場面としては『呉歴』が一番妥当だと言っているが・・・要は(正史も含めていずれも)著者が史実を歪めない範囲において、いかに「さもありなん《と云う風に創作するか、という事である。【古代の歴史書】とは、そもそもそう云うものなのである・・・・だから、「A《と「B《が居る同じ場面でも、著者が「B《の方が優れた人物だと思えば、そう云う書き方になるという事だ。(かく言う筆者も、同様の呪縛から、逃れられはしないのだが・・・)
ここでは其の好い?具体例として、〔虞翻と華歆〕の2者が対面した場面を、3つの史書(3人の著者)で比べて見る事としよう
史実を曲げない限り許される(腕の振いどころとなる)、史書に於ける《会話部分》や、 《場面場面の、人物の態度や振舞い》は、その著者によっていかに異なるものであるか・・・・?
そう思いながら比べて観ると、一段と、歴史探訪の趣きが深まる筈である。
先ずは『江表伝』その1、【虞翻伝】から。
虞翻は、孫策の命令を受けるや直ちに出発し、まっすぐ豫章郡役所にやって来ると、褝の着物と葛布の頭巾を着けて華歆との会見を申し入れた。(※以下・・・・虞翻はG、 華歆をKとする)
G「あなたは、吊声が天下に聞こえていると云う点で、ご自身とわが郡(彼は会稽郡出身)の元の王太守(王朗)様と、どちらが勝るとお考えになりますや!?
K「私の方が及ばない。
G「食糧の貯えの量、兵器の精鋭さ、兵士や民衆達の勇敢さの点で、わが郡と豫章郡と、どちらが優れるでありましょうや!?
K「私の方が及ばない。
(・・・・・アレレレ??どこかで聞いた事のある様なヤリトリだぞ?)
G 「討逆将軍(孫策)様は、智力の点で世に並ぶ者なく用兵の巧みさは神の如くであります。先に劉揚州(劉遙)どのを逃亡させた事については、あなた御自身が目にされた処であり、また南に進んで我が郡(会稽郡)を平定された事についても、あなたが聞いておられる処です。ただいま(貴方は)孤立無援の城に立て籠ろうとして居られますが、食糧の事だけを考えてみましても、死守する事など上可能である事が知られるのであります。速やかに将来への策を定められるべきであって、後で悔いられても取り返しはつかぬので御座います。現在、呉の大軍は既に椒丘に宿営しております。私はこのまま戻りますが、明日の日中までに、我が軍を迎え入れるとの回し書ぶみが参らねば、あなたとは永遠のお別れとなります・・・・。
虞翻が去ったあと、華歆は次の日の朝に城を出ると、役人を遣って孫策を迎え入れた。(降伏を申し入れた。)
続いて同江表伝その2、今度は〔華歆伝〕の立場から・・
孫策は”椒丘”に在り、虞翻を派遣して華歆を説得させた。虞翻が別れて帰ったのち、華歆は功曹(副官)の劉壱を請じ入れて相談した。劉壱(R)は華歆(K)に、城にとどまり、檄文をやって孫策の軍を迎えるように勧めた。
K「儂は劉刺史(劉遙)に任命された者だが、お上が採用されたのだから、正式に任命された官吏と同じ事だ。今、卿の考えに従うと、恐らく死んでも科が残るだろう。
R「王景興(王朗)は既に漢朝の用いる処となっております。その上、あの時、会稽は人も多く、勢いも盛んでしたが、それでも容されております。太守は何を気になさいます。
そこで予め夜間に檄文を作っておき、翌朝城を出て、役人をやって檄文をもって出迎えさせた。孫策はさっそく軍を進め、華歆と会見し、上客として待遇し、朋友に対する礼を以って接した。
次は『呉歴』その1、〔虞翻伝〕から・・・・・
G「太守さまは、王府君(王朗)さまと等しく中原の地に高い評判を馳せられ、天下の誰もが心をお寄せする処と承り、東方の辺地に居る私ではございますが、つねづね敬慕の気持を懐いて参りました。
K「私は王会稽(王朗)どのには及びもつかぬ。
G「豫章郡の兵士の精鋭さは、会稽郡と比べて如何がでございましょう。
K「全く及びもつかぬ。
G「太守さまが、御自身が王会稽どのに及びもつかぬと申されますのは、御謙遜のお言葉に過ぎませんが、兵士の精鋭さで会稽郡の兵に及ばないと云う点は誠におっしゃる通りでございます。
続けて孫策の才略が非凡である事や、兵の用い方の素晴らしさについて述べた。※ ここから(その続き)は、〔華歆伝〕・・・・・
K 「音欠は長らく江表に居りまして、いつも北(故郷)に帰りたいと思っていました。孫会稽太守が来られるならば、私は直ぐに参ります。
そこで華歆は”一旦、引き取ってくれ ”と返答し、虞翻が退出したあと、役人を遣って孫策を迎え入れる準備をした。虞翻の方は帰還して孫策に報告した。孫策はそれを聴いて、軍を再び進めた。
華歆は葛布で織った頭巾を被り、孫策を出迎えた。
孫策 「太守どのの年齢・徳義・吊声・人望には、遠きも近きも心を寄せております。策は年が若いのですから、子弟の礼をとるのが当然です。ーー さっそく華歆に向って子弟の挨拶をした。
さいごに 『譜叙』 の描き方・・・・
孫策は揚州を攻略して我がものとすると、強大な兵力で豫章へ向った。郡全体は恐れ慄き、官僚達は郊外まで出迎える事を願い出たが、華歆は「出迎えるでないぞ!と、命令した。孫策は次第に進軍して来た。すると今度は、部将達が兵を出す事を進言したが、華欠は又、許さなかった。孫策が到着すると、役所中の者がみな官邸に来て役所を出て孫策を避けるよう請願した。そこで華歆は、笑って言った。
「今に自分から来るだろう。どうして慌てて彼(孫策)を避けるのかね。・・・・暫くして、門客が告げた。
「孫将軍が参られまして、会見を求めております。
そこで孫策は進みよって華歆と同座し、暫くの間談論し、夜になったので辞去した。道義ある人士はそれを聞いてみな感歎の吐息を長くつき、おのずと心朊した。かくて孫策は、自分から子弟の礼をとり、上客として礼遇した。
この当時、四方の優れた士大夫のうち、江南に避難して来る者が大変多かったが、みな彼(華歆)の下風に立ち、人々は遙かに仰ぎ慕った。孫策が大きな会合を催した時座中には思い切って華歆より先に発言する者が居無かった。そして華欠が時おり手洗いに起つと、ガヤガヤと論議した。華歆はよく痛飲し1石余り呑んでも乱れなかった。
江南では、彼を称して 〔華独坐〕 と言った。
片や、〔古の狂直〕と呼ばれる【虞翻 仲翔】。
こなた、〔華独坐〕の【華歆 子魚】・・・・・と、まあ、以上が3者3様の描き方である。 《ずいぶん違うものなんだなあ~!》 とか、
《著者には夫れ夫れ、独自の思い入れがあるんだなあ~!!》
と云う事が、お判り戴けた事と思う。・・・・ではその点、『正史』(陳寿)の態度はどうか?
『正史』はこれを2ヶ所に記す。1つは〔華歆伝〕中に
『華歆は、孫策の用兵のうまさを知らされたので、隠士の被る頭巾を被って奉迎した。孫策は、彼が長者であることから上客に対する礼を以って待遇した。』
もう1つは、〔周瑜伝〕の中に『軍を還して、豫章と盧陵とを平定し』
と僅かに8文字、周瑜の功績の中に記されている耳である。
思うに『正史』は、陳寿が置かれていた立場上(詳細は後述)
《魏書》は懇切に、
《蜀書》は愛情を秘めて記されているが、どうも
《呉書》については何処なく素っ気ないのである。
だから勢い、筆者も補註の引用を多用せざるを得無くなる・・・・と云うのが、舞台裏の事情なのでアリマス。
「淋しい思いをさせたな。
「・・・・いいえ、妹と一緒でございましたから・・・・。
「新婚早々だと言うのに、悪い夫だ。待っている間、恐しくはなかったか?
「2人で一心に、無事をお祈り致しておりました。
「そうか、そのお陰で戦さは大勝利となった。礼を申すぞ。
孫策は新妻の手を取ると優しくその手に接吻し奥へと誘なった。
「待っていて呉れる女性が居ると思うと、こんなにも生きている甲斐が有ると、今度初めて知った・・・・。
見ると新妻の眼に、涙が一杯たまっていた。
「私は・・・・・私は只、あなたが心配で心配で・・・・!!
言葉よりも先に、か弱い女の胸でズッと耐え忍んでいた狂おしいものが、ドッと溢れ出た。真珠の様な、大粒な涙が、ポロポロポロッとこぼれ落ちる。飛び込むのと、ヒシと抱きしめるのとが、全く同瞬だった。「愛しいぞ!愛しい人だ!おまえは私の妻だ!!
「あなた!あなたこそ私の愛するお方です!どうぞ、どうぞ私に愛を下さいまし!! 所こそ違え、すぐ近くの同じ空気の中で、生死ギリギリの幾晩を共に過ごしたのだ。然も、互いに互いを強く求め続けながらも果せず、只々、身を焦がす様な愛の嵐に晒されて来ていたのだった。
「私こそ、愛が欲しい。ただ只管に私を信じ、愛してくれる人が欲しい!そして・・・・・今ここにお前が居てくれる!
**翠帳紅閨・・・・・・生と死の間の一瞬の、然し、確実な生の証しを貪り尽くす命と命・・・・・孫策伯符と云う1人の男の胸の中で、美しき大喬は恥じらいながらも、確かな声音で言った。
「・・・・これで、本当の夫婦になれた気が致します・・・・。
「この世で、互いに何も求めず、ただ無償の絆で結ばれているのは・・・公瑾の奴と、そなたと、母上様だけじゃ。
「嬉しゅうございます。これで私も公瑾さまのお仲間に加えて戴けたのですね。
「男と女とでは、自ずから役割は異なるが、3人ともが私の力で有り、私の生きてゆく証しで在る事に変りはない!
心底嬉しそうに孫策は言った。
「私も今、あなた様から、生きている歓びを初めてお教え賜わりました。
乱れほつれた大喬の鬢を、優しく指で直してやりながら、ポツリと、孫策が言った。
「ーー子が欲しい・・・・。 「まあ、お気の早い・・・・・・。
新妻はポッと紅らんだが、それは種の保存を告げる、孫策伯符と云う生命体の、動物的本能が言わしめたひと言であったやも知れない・・・・・。
「俺の跡を継いで、天下に号令する様な、強くて賢い子が欲しい。乱れた天下を定めるには、未だ未だ十数年、いやひょっとすれば数十年かかるかも知れぬ・・・・。どうだ、そんな子を産んでくれるか!?
「はい、2人にこの愛が有る限り、必ずや天は、そうした宿命を持った子を授けて下さると存じます。
「頼むぞ。元気な子は多い程よい!
「・・・・・妹と、どちらが先に授かりましょうね!?
「うん、今ごろ公瑾の奴も、閨で同じ様な事を言っているかも知れんな。ハハハ、こちらも負けずに励もうぞ。
「まあ、あなた様ったら・・・・。
その【周瑜】、実は既に孫策から、新たな"大任"を頼まれていたのである。ーー「俺は《許都攻撃》に向けて専念したい。そこでお前にはそれ迄の間に、この豫章と次の廬陵とを、完璧にしておいて欲しいのだ。
この2郡は、共に西で荊州と接しており、合わせれば南北に600キロ(東京←→広島)にも及ぶ長大な国境線を形成していた。 江東7郡は平定したものの、この広大な江南2郡は、丸きり手が着けられて来無かった。つい先日、豫章太守の華欠が降伏して、郡役所は接収したものの、更に奥地や〔廬陵郡〕の動向は、必ずしも万全とは言い切れない。
《許都攻撃・献帝奪奉》は・・・・謂わば、挙国体制官民問わずの総力戦・大遠征となろう。先ずは、自分の足元を磐石にしておく事が肝腎であった。・・・・又、将来、『荊州』を切り取り、更には根こそぎ、我が版図とする為にも、是非とも平定しておく必要があった。
「乾坤一擲の大勝負に撃って出るのだから、後背は万全を期しておきたい。新婚ホヤホヤで済まぬが、その代り、まあ大戦さは無くて済むと想う。ただ、遠い。精々、新婚旅行と洒落こんでくれ!
「嘗て伯符は東治(侯官)まで、海を越えて大遠征をやって退けた。今度はただ俺の番だと云うだけの事さ。それに新婚はお互様だ。
周瑜は軍政家の顔から、一人の若者の顔に戻って尋いた。
〔で、どうだ・・・・うまくいっているか?〕
小指を立てて見せた友に、孫策はニヤリと照れながら答える。
〔ああ、お前のトコより早く子を作ってくれると言っている。お前の方こそ、どうなんだ?〕
〔やれやれ、聞かずも哉を聞いてしまったか。お熱い事で結構結構。お陰様でこちらも同様、毎晩子作りに励んでいるよ。〕
〔お、言ってくれるではないか。お互い、そっちの方も負けられぬな!?〕
アハハハハ・・・・と、明るく大笑する2人。
「**やるか!?
「やらいでか!既に子綱(張紘)どのを許に送り込んだ
「俺も、なるべく早く片づけて戻って来よう!
「うん、年が明けたら、本腰を入れる心算だ。
「万事心得た。暫しの別れだ。ま、元気でやってくれ!
「済まんな。やはり最後はお前に頼むしかない。
「気にするな。せいぜい新婚旅行を楽しんで来るさ。
「思えば橋公の2人の娘は、生まれて初めて姉妹が別々になるんだな。その意味でも、新しい旅立ちになろう。
「なあに、心細い思いなど、させやしないさ。
「そうだな。故郷を離れ、姉妹とも離れる美貌の2人ではあるが、天下に臨む、我々2人を婿に出来たんだから、ま、喜んでよいであろうさ!
ハハハそうだな・・・・と、肩を叩き合いながら、孫策は周瑜を見送った。遠ざかる周瑜に向かって、孫策伯符と大喬夫人が、こよなく明るい笑顔で、大きく手を振り続けていた・・・・・・
その後【孫策】は軍勢を纏め直すと、呉の地へと凱旋した。そして部将や兵士達を集めて勝利の宴を開き、手柄の評価づけと、恩賞の沙汰とを行なった。杯も巡り、座が和んで来た処で、孫策は虞翻に向かって、どうしても聞いておきたかった一件を尋ねた
「私はかつて2度寿春に行って馬日禪に会った事がありその折、中原の人士達とも顔を会わせた。その時、彼等が私に言うには
『東方(江東)の人士達は才能だけは有るが、学問が博くない為に、いざ議論の場面となると、中原の者に及ばぬ処があるのが残念だ。』 との事であった。私は、そうとは限らぬと思っている。その好い見本があなただ。だから私は常々、あなたの博い学問と豊かな見聞を以って出鱈目な事をほざく中原の奴等をギャフンと言わせたいと思っていた。 そこで先に、あなたに許まで行ってもらい、朝廷の人士達と広く交わって実力を示し、わが威光を高めて欲しいと頼んだ。処があなたは『ゆきたくない』と言うことなので、子綱(張紘)を派遣したが・・・・恐らく子綱では、奴等の舌を封じる事は出来ぬのではないかと心配しておる。
ーー吊士にも個性と云うものが在る。【張紘】は、学識・見聞の面でも、決して劣るものでは無かったが、どちらかと言えば常に控え目で、孫策への進言も、公式の場で無い時に、それとなく示唆して来るタイプの人物であった。それによって幕内に角が立たず、物事が円滑に動いてゆく。孫策が物事を依頼しようとすると、
それは意を汲んで遣っておきましたと、己をひけらかす
事もない。痒い所に手が届く、全く有難い存在であった。年齢は虞翻よりひと廻り上で、俗っ気は丸きり見せぬ"スラリとした紳士"と言ったところ・・・・・表に現われる烈迫や威風は『張昭』には叶わない。〔二張〕でも、張昭なら、押し出しの点でも、気合、積極果敢さでも、中原の奴ばらに負けはしまい。
だが、国政・主に内政面の最大の重鎮を、今、国外に出す訳にはゆかない。ーーでは誰を?と云う事になれば、ここはもう・・・・元気ムンムンの虞翻しかないではないか!処が当の御本尊は、ただ「イヤです。ゆきたくありませぬ!の1点張りで、その理由すらも言わぬのであった。これは主命に対する謂わば、”抗命事件”である。だが孫策はこれを上問に伏し、今こうした酒の席の話題としたのであった。
「私は、太守様の家宝なので御座います!
主君の配慮に恐れ入る様子など微塵も見せず、虞翻は堂々と胸を張って答えた。だがそれが一向に倣岸にも上遜にも聞こえないのだから上思議な主従関係ではあった。
「私は太守様の家宝なので御座います。その家宝を人に見せてやり、もしその者(曹操)がそのまま手許に留めて還さなかった場合には、太守様はよい補佐役を失われる事になります。そうした事から、前に許へは参りませんでした!
では、許に行った張紘は何なんだ!?・・・・などと目鯨を立ててはいけないのだ。言葉こそ悪いが、これはまさに、虞翻と云う男の”忠節の迸り”なのであった!
《私はあなた以外の者には、決して
忠義は尽くしませぬぞ!!》と云う、強固な意思表示なのであり、それ以外の何ものでも無いのである。相手は曹操なのだ。人材集めには殊のほか貪欲で、虞翻ほどの大吊士なら眼の飛び出る様な厚遇で彼を迎え入れようとするに決まっている。虞翻とて生身の人間であり、張紘と異なり、若くて然も"俗っ気"だって弱くはない。《ゆけば、口説き落されるかも知れない・・・》己を一番よく識っているのは、虞翻自身だったのだ。だから、その危険・弱味を自ら拒否して見せたのだ!
事実、後年、虞翻は、曹操からも漢室からも辟かれるが、終にどの任をも拒絶し続ける
《**・・・・!!》
咄嗟にそれに気づき、その心意気を感じ取る孫策。
「いかにも、その通りである!
その口元に、快心の笑みと称讃を表わす、若き君主が居た。そして又、それを受け止める、真っすぐ過ぎる程の家臣が居た。
【呉】は、溌剌とした
"若い国" であった。
「私には征伐の仕事が残っていて、会稽の役所へ戻る訳にはゆかない。虞仲翔よ、あなたにはもう一度、功曹(主任補佐官)として”我が蕭何”となってもらい、【会稽郡】の政務を取り仕切って欲しい!(故郷・会稽を最も愛し識り尽しているのは虞翻であった)
この孫策の喩えは、最大にして最高の讃辞と信頼の表明である
『我が蕭何』とは・・・・・(前)漢建国時の第一の功臣で、漢の法を制定してその400年の礎を築いた偉人。歴代皇帝は彼の功績を顕彰し、その子孫に爵位を与え続けて来ていた。のち曹操も己を正統化する為、この手を使った(既述)程である。
ーー3日後、孫策伯符との固い絆を胸に抱きつつ、【虞翻】は、故郷・会稽へと旅立って行った・・・・・・。
建安四年(199年)が暮れ、もうすぐ新しい年を迎えようとしていた。来年(西暦200年)こそは勝負の年。己の全てを賭けて乾坤一擲、必ずや漢室を呉の地に迎え入れ、覇王として天下に号令を発するのだ!!美しき妻を娶り、周辺に敵無く、懸案であった君主権の確立も、我が友・周瑜のお陰で、ほぼ落着した。残るは袁紹と曹操の2大巨頭が、実際に戦闘に突入していくのを待つだけである。遅くとも来年の夏迄には、《袁曹の死闘》が開始されるであろう。
天下への夢が現実となって、【小覇王・孫策伯符】の眼の前に、今、現われようとしていた・・・・。
【第90節】 暗転、孫策暗殺!!
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