【第86節】
我が友周瑜が、1年半ぶり戻って来るという。袁術が帝位を僭称した翌年198年(建安3年)春であった。
「よ〜し、盛大に迎えてやろうぞ!」 その報せを受けた孫策は、最高の栄誉礼を以って出迎えるよう全軍に命じた。さながらそれは、全軍の観閲式の如き、盛大なものと成った。文武百官と数余万の軍兵が咳(しわぶき)ひとつ無く居並ぶ中、孫策は自ずから周瑜を迎えたのである。
やがて・・・・数万人の眼が固唾を飲んで見守る中、赤いマントを翻えした白馬の貴公子が、呉郡の大地に再び現われた。待ち焦がれた友の手を取ろうと歩み寄る孫策。ーーと・・・周瑜は愛馬を降りるや・・・片膝を折って友の前に額付き、自らが孫策の臣下である事を示す礼をとってみせたのである。
「−−・・・・!!」 誰もが2人の仲を知っていた。そしてこれまで実の兄弟として、孫策と全く同格に扱われていた事をもよ〜く識っていた。その、孫策にとっての最重要人物が、白日の下で、臣下の礼をとったのである!!
一瞬、全軍がざわめいたともすると、それまで孫策を絶対的な君主とは見ず、精々盟友・合力してやっているのだと思っていた者達にとっては、この周瑜の姿は大衝撃であった。それを見るや、程普をはじめ張昭・張紘など幕僚の全員もこれに習って、サッと膝を折り、胸に手を当て頭を垂れた。まさに阿吽の呼吸であった。 すると、その心情が忽ちにして隅々にまで波及し、此処におのずから、全軍が孫策の前に拝跪すると云う、厳かな光景が出現したのであった・・・・・。
《−−まずかったな》 と、今更ながらに、己の振舞いに慚愧する者達も、これ以後は決して驕る事無く、『軍紀ハ粛然トシテ改マリ孫策ノ地位ハ安定シタ』のである。友の苦衷を慮る周瑜は、己が先ず、臣下の礼をキッチリ示す事によって、孫策が苦悩していた〔君主権の危弱さ・あやふやさ〕を、見事に克服させたのであった
孫策はそんな周瑜に対し、最大の礼遇を以って迎えた。
『建威中郎将(将軍に次ぐ軍官。孫策自身が将軍号を持たぬ今、最高の待遇。)の任を授け、その場で兵士二千名と、騎馬五十匹を与えた。』
ーー『正史』ーー
『それに加えて鼓吹(軍楽隊)を下賜し、立派な住居を整えてやり、賜わり物の多さは並ぶ者が無かった。孫策は令(諸王侯の出すみことのり)を下していった。「周公瑾は英俊にして異才。私と幼なじみで血の繋がりもある。前には丹楊において、軍勢と船と食糧とを用意して大事を成功へと導いてくれた。その徳と功とを評価するならば、今の賜わり物では報いるに十分ではないのだ。』
−−『江表伝』ーー
「こっちは大体片づいた。」
「うん、同慶の至りだ。」
「そっちは何うだった?」
「もう話しにもならん。袁術は放っておいても自滅しよう。それよりやはり北だ。曹操の動きは蔑り難いようだ。」
「袁紹と、どちらが強い!?」
「世間では袁紹は20万、曹操は2万とか言っているがデタラメだ曹操軍は我らよりも多いと思う。」
「両者はいつ頃ぶつかると思う。」
「今は互いに後背の敵の掃討に向かっているが、それも1年以内には片つこう。」
「だとすれば、1年後には両者激突するか!」
「どっちが勝つ!?」
「願わくば、袁紹に勝ち残って貰いたい。奴の方が鷹揚で動きが遅いから、我々には有難い。」
「ま、袁・曹、どちらが勝つにしても、 いずれ我々は勝った方と
・・・・ぶつかる!」
周瑜は己の胸の前で、両の拳を打ち合わせて見せた。
「−−チャンスだ!」 「まさに天佑だ!」
「我らが西に勢力を広げる絶好の機会だな。」
「荊州を先に取ってしまおう。」
「その次は益州だ!南と西から中原に攻め込み、そして・・・・」
「取るか、天下を!」
「取るさ、取ってみせようぜ!!」
この時、互いは、24歳に成っていた。
「狙い眼は漢室だ。両者、身動き出来ぬ処を見定め・・・・」孫策は拳を周瑜の胸板にぶつけて言い切った。「許都を 襲撃する!」
「うん、献帝を呉の地に迎えるか!?」
「今から直ぐにでも手を打とう。」
「それには先ず、足元を固めておく事だ。」
「ああ、長江北岸にも足場を築いておこう。」
若い生命力には、それが可能だと確信できた。並々と杯に注がれた美酒(うまざけ)を仰ると、周瑜は言った。
「ところで・・・・1つ、いい土産話しがある。」
「ほう、楽しみだな。」
「むこうで、面白い男を見つけたんだ。」
「何という?」 「魯粛子敬 と云う男だ。」
「はて・・・・聞いたことは無いな。」 「まあ、会ってみろ!驚く様な異才で、これからの時代の魁に成る様な男だ。」
「では俺の方から出向いて迎えるか。」
「いや。一緒に長江を渡ったんだが・・・・折あしく、彼の祖母が亡くなり、葬儀と喪に服する為に、又、東城へ引き返してしまった。」
「そうか、それは残念だな。」
「いずれ喪が明けたら、是非にも会った方がいい。」
「お前がそこまで肩入れするからには、相当な人物だろうな。」
「ことによると、我々の未来を変える奴かも知れん。」
「それは益々、会える日が楽しみだな。ま、先ずは、お前の無事な帰還に乾杯だ!」
この会話の通り、この年(建安3年)孫策は、許都の献帝に対し、再び使者を遣わして、土地の産物を天子に献上した。その内容は元年の献上物に倍するものであった。
これに対し朝廷側も制書を降し、
孫策は〔討逆将軍〕に転じ《呉侯》に改封された・・・・之で孫策はその思惑どうり、正式な将軍号を手に入れ、自他共に認める群雄の一人と成ったのである。
因みに、先の烏程侯の爵位は父・孫堅を嗣いだものであったが、今度の呉侯は孫策みずからが初めて得た爵位であった。従って事実上の国の開祖となる孫策の、この呉侯の地が、のちに
【呉国】としての帝国の名の由来となるのである。(開祖が最初に爵封された土地の名が、その国の名として用いられるのが通例であった。”魏”も同様)
又、討逆将軍号も、孫策の別称・尊称として爾後、青史に刻まれる事となる。
但し、漢朝廷の詔とは言っても、実質上は背後に控える曹操の意向そのものと見る方が正しい。いかに莫大な献上物を納めようとただで済む訳は無い。制書(みことのり)には必ず続きがあった。前回もそうであったが、今度の指令は・・・・
『司空・曹操及び衛将軍・董承(献帝の縁者)と、益州牧の劉璋と共同して、袁術と劉表を討て!』と、いうものであった−−唇歯輔車・・・・曹操(朝廷)と孫策との利害が、現時点では完全に一致していると言う訳である。
曹操には・・・黄河を隔てて宿命のライバル・大敵・袁紹との決戦が待っている。今のところ袁紹は北辺に追い詰めた唯一の残敵・公孫讃討滅に向かっているが、それが片つけば、心置きなく全軍を南へ向け、決戦を仕掛けてくるであろう。だから今、曹操としては、袁紹が後を向いている間に、自分の方も同じく背後(南)の敵を片つけておきたかったのだ。ーー曹操の南には先ず「呂布」が在り、そのまた南に「袁術」が居た。更に南西には荊州の「劉表」が在った。自分が最も近くの呂布討伐に専念する為には、その南(袁術)と西(荊州の劉表)を孫策に牽制させておく必要があったのだ。
一方、孫策側にとっても・・・・この話しは、願ったり叶ったりであった。既にD級賊徒に成り涯てた袁術(破れ被れで陳国に進撃し、曹操に大敗した後、流軍となっている)など目では無かったが、それを口実に長江北岸一帯に進出できる。これまで戦って来た「劉遙」は、どうも今年、その北岸で病死したらしい。元その配下であった太史慈に命じて、もし其れが事実であるなら、行き場を失った残兵達を連れ戻って呉れるようにと派遣したばかりであった。太史慈がそのまま北行して曹操の麾下に入るのではないかと危惧する声も多かったが、孫策は彼の信義を固く重んじた。それでも尚、曹操は念には念を入れて来た。決戦前夜の今の段階を、余程重要視している証左と言えるだろう。−−『正史』によればーー・・・・
『このころ袁紹の勢いが最も盛んな時期に当たり、然も孫策が江東の地を統合してしまっていたので、曹公も存分に力を発揮する事が出来ず、ひとまずは孫策を手なずけようと計った。そこで、
【1】、自分の弟の女を、孫策の末弟の孫匡(六歳位)に縁づけ、
【2】、また息子の曹章(曹彰ではない)の為に、孫賁(孫策の従兄)の女を娶り
【3】、孫策の弟の孫権と孫翊とをそれぞれ手厚い礼で自分の元に招いて官職につけ
【4】、揚州刺史の厳象に命じて孫権を茂才に推挙させた。
詰り、【曹家】と【孫家】とは、〔縁籍関係を結んだ〕のである。のち孫匡は「孫泰」と云う男児を設け(長水校尉となる)るから孫一族の中には、曹氏の血を継ぐ人物が居る事になる。
又、孫権と孫翊の弟達は、この時期、曹操に招待されて許都までゆき、そのニコニコ顔に接すると云う、呑気なジャーニィを楽しんで来た訳である。そして政略結婚とは言え、両者の使者と輿とが賑やかに往き交ったと云う事だ。そして、この仰々しい迄の友好関係を、まず先に有効活用したのは曹操の方であった。9月に出陣すると、10月には呂布の本城である除州の下丕を包囲。そしてついに12月には、呂布を処刑し、五年来の悩みの種を滅亡に追い込んだのである。
明けて建安4年・199年・・・・この年は袁曹2雄にとっては決戦前夜、前哨戦の様相を呈する1年となる。
3月には【袁紹】が、公孫讃を易京に亡ぼし、ついに華北大平原を悉く制圧。いよいよ曹操との決戦も可能な体勢を完成した。但し、その幕閣内に即刻決戦派と勢力拡大優先派とが相半ばしており、直ちに動き出す気配は無い。−−それに対し・・・袁紹にジックリ構えられては困る【曹操】は4月、相手を挑発する如くに黄河を押し渡り、北岸の射犬や黎陽を8月まで荒し廻った後、9月に許都に引き上げる。と同時に決戦予定地を指定するが如く
《官渡》に築城する。11月後背に在った張繍が、策師・賈クの勧めに従って軍勢ごと帰順して来ると、12月にはついに〔官渡に出陣〕し、決戦モードに突入するのだった。ーーそんな情勢下、孫策は先の詔にのっとって「袁術と劉表の討伐」に動き出す。
先ずは袁術であった。だが、ちょうど軍容を整え、いざ出陣しようとした矢先の6月、 当の『袁術』は流浪の涯てに、寿春郊外の原野で、所望した飲み物一杯さえ入手できずに、吐血しつつ横死したのであった。
周瑜が孫策に言った。「思えば哀れな男だったな・・・・。」
それに答えて孫策は、しみじみと述懐した。
「我が孫家とは、父の代から色々と因縁の有る人だった・・・・だが今こうして亡くなってしまってみると、何か寂しい気もする・・・・」
周瑜が、遠い眼になりながら言った。「昨年の呂布の滅亡といい今度の袁術の頓死といい、群雄が各地に割拠した1つの時代が今、終わったと云う事だろう・・・・・。」
「とにかく一時は主として接した人でもあるし、せめて其の遺族や遺臣達は懇ろに引き取ってやろうと思う。」
ーー袁術の長史(副官)であった楊弘や、大将の張勲達からも、『部下をひきつれ、将軍(孫策)様の下に身を寄せたいから宜しくお願い致します』との連絡が届いていた。・・・・だが、その一行を待ち伏せて、その全ての者達を捕虜とし、持っていた珍宝をも奪い取った者が現われたのである!
袁術の故吏(子飼いの部下)であった、盧江太守の【劉勲】であった。無論、孫策に反感を抱く内応者が居た。袁術の従弟の「袁胤」と、女婿の「黄猗」とは、袁術の柩をかつぎ、最初から『劉勲』の元へ身を寄せようと、考えていたのだった。そこで孫策は仕方なく、討滅の本心を隠して劉勲と同盟関係を結ぶ事とした。ーーところで、いま劉勲が任じている《盧江太守の地位》だが・・・そもそも袁術との約束通りであれば、既に3年前に孫策が就任していた筈の地位であった。呉の四姓の1つ陸氏(陸康)を討滅した暁には、今度こそ(その前に九江太守の空手形を掴まされていた)必ず任官してやろうとの誓約にも拘らず、再びホゾを噛まされた、曰く因縁の有るものでもあったのだ。
尚、【劉勲】の字は子台・・・徐州は瑯邪の人物である。10年前に沛国建平県の長となったため、同国(沛)言焦県出身の【曹操】には可愛いがられて、今でも好みがあった。だから孫策としても曹操の手前、ひとまず間を置き、直接行動は控える必要があった訳でもあった。一方、『劉勲』にしてみれば、曹操と孫策の最近の友好関係を充分識っていたので、いま孫策との同盟を結ぶ事には何の不信も抱かなかった訳なのだった。
−−さて、その【劉勲】であるが、新たに袁術の配下を手に入れた事から、その鼻息は甚だ盛んとなった。然し、その士気の高さとは裏腹に、現実の台所事情は火の車となっていた。何しろ元々食糧難を抱えていた劉勲であった処へ、ドッとばかりに大量の
"難民"を抱え込んでしまったものだから、忽ち食糧備蓄は底を突き、大慌てする羽目に直面してしまったのである。そんな敵方の内情は、直ちに孫策の知る処となった。そこで孫策はすかさず使者を遣って、へりくだった言葉と手厚い贈り物をもって書面で劉勲にこう提案した。
『今、豫章郡の海昏と上繚には宗民(宗教的結合民)達一万余戸が在り、その宗師(頭目)達は数十万石の米を保有していると聞き及びます。この際、それらの者達と食糧とを襲って、全てを手に入れてしまわれれば、今後のお為になると存じますが・・・・。』
ここに云う「海昏」と「上繚」とは、劉勲の拠城である〔● 皖城〕からは、南西に200〜300キロ離れた位置に在る。簡単に言えば、孫策が皖(かん)城へ攻め上がる反対方向へ遠去かる事になる。
普通なら、こんなお為ごかしの情報には疑念の方が先立つ筈だが然し、もはや背に腹は代えられぬ状況に有る劉勲は、この情報に飛びついた。唯1人、賓客待遇のブレーンであった【劉曄りゅうよう】だけは拠城を空にする危険性を指摘して諌めたが、劉勲は聞き入れなかった。
〈お断り〉ーー『正史』はこの手紙の内容を2ヶ所で記している
が、夫れ夫れニュアンスが異なる。
〔孫策伝〕では・・・・『豫章の上繚の宗民達1万余戸が江東の地に居たところから、孫策は劉勲にそれらの者も武力によって手に入れてしまうように勧めた。』 とあり、
〔劉曄伝〕では・・・・『上繚の部族民が、たびたび敝国(わがくに)を馬鹿に致しますので、何年間も腹を立てて参りました。奴等を攻めたいのですが、交通路が不便で弱っております。願わくば大国のお力添えで奴等を討伐したいと存じます。上繚は大変豊かですから、あれを手に入れられれば、国を富ませる事が出来ます。どうか兵を出して外部からの援助をして下さい』 とし、劉勲側の"食糧不足"には触れていない。
また〔江表伝〕は逆に・・・・食糧不足を第一義に取り上げ、上繚に米の調達に行かせた従弟の「劉偕」が現地で宗師たちに翻弄され、なかなか米の供出に応じないのに業を煮やし、軍を出動させて奪うしかないと要請したとあるーー
劉勲が拠城を空っぽにしてまで、孫策軍の進軍方向とは
反対の方角へ出陣する決意を固めたのは何故か??・・・・どうも判断がつかないので、筆者は勝手に、3者を取り入れて筆を進めているので悪しからず・・・・・
さて【孫策】・・・・この間にも全軍を150キロ程上流の「石城」迄進めておいた。目標の〔皖城〕へは、長江とその支流とを使って100キロばかり遡上すれば辿り着く。
処で、なぜ孫策が、"全軍体制"を敷いたかと言えば、もし留守になった白完城を攻め落とされれば、劉勲は必ず
〔荊州〕に救援を求める筈だからであった。ーーそこで出て来るのは・・・・国境守備の司令官【黄祖】であろう。黄祖を潰せば、後継問題で内紛状態にある荊州にはもう、これと言った司令官は見当たらない。荊州奪取に大きく前進できる。そして何より、この【黄祖】こそは、父孫堅を戦死させた、敵の軍司令官に外ならなかったのである!
それが譬え、彼の軍卒が放った矢に困る討死であったとしても、孫一族にとっては親の仇・怨敵なのだ! 又、程普・黄蓋・朱治・韓当ら〔譜代T期の重臣達〕にとっては先君の仇なのであった。だから劉勲などは単なる添え物・2の次、3の次であり真の狙いは・・・・〔荊州内への版図拡大〕であったのだ。
それともう1つ・・・孫策と周瑜の兄弟・断鉄の友にとっては非常に重大な《或る思惑》が秘められていたのである・・・・・。
「おい、知ってるか!?」 会うや孫策は、まるで永年探し求めていた秘宝を発見した冒険者の如く、その瞳をキラキラ輝かせながら、我が友・周喩に浴びせかけた。
「知っているか!? 皖の城にはスッゲエ美人が居るって事!」
周瑜の顔が、心持ち赤らんだ。
「ーーああ・・・・、然も同じ血を分けた姉妹そろって、極めつけの美形 らしいな。」
周瑜は、些か興奮気味の友人に対して、澄ました笑顔で綺麗に答え返した。
「何だこいつゥ〜!澄ました顔して、結構、隅に置けん奴だなア。先刻御存知だったんだな?」
友のと胸を、ドンとひとつど突く孫策。
「いや実は、俺も今日耳にしたばかりなんだ。何でも橋公の2人の娘だと聞いた。姉の方は大喬、妹は小喬・・・・と呼ばれているそうではないか。」
将軍でも都督でもない、25歳の青春丸出しの2人だけが居た。
「丁度いい。俺とお前の妻に迎えよう!」
これは真顔であった。
「何だ、お前も同じ事を考えていたのか!?」
「ああ、我ら義兄弟が、美女の血を介して、これで本当の兄弟以上の兄弟になれるって事だ!」
「うん。では兄のお前は大喬を、弟の俺は小喬を娶ろう!」
「これはまさに、我ら2郎の為に、天が2喬を配して呉れたとしか思えんではないか・・・・。」
「その天命を受けずして、何で男が立つものかって訳だ。」
「昔、光武帝は、『妻を娶らば陰麗華』と、想い焦がれたそうだがこれはそれに匹敵すると思わんか?」
「まるで遠い昔から我々2人を、彼女達がズッと待ち続けて、この世に存在して居て呉れた・・・・そんなような縁えにしを感ずる。」
「うまく言ってくれたなア!俺もこの話しを聞いた瞬間、雷に撃たれた様にそれが解った!!」
「よ〜し!何を差し置いても、絶対に2喬を娶ってやろうぞ!」
「うん、この戦さは我ら兄弟の嫁とり合戦だ!!」
「失敗は許されんな。周到に策を練ろう。」
まさか『正史』は、進軍の目的が女を娶る為だったとは書けないから、たまたま其処に絶世の美女が居た・・・と云う風に記してはあるが、若い2人である。とっくの昔、事前にその噂さは耳にしていた筈である。ましてや、小説でも創れない様な、この〔断金の2人〕なればこそにピッタリの家格・年齢・2対2の条件を、奇跡的に満たした花嫁候補であったのだーー
《皖城攻撃戦》は、戦略上も重要ではあったが、寧ろ重きは・・・・
”嫁取り”にあったとしても、決してしくはないであろう。その方がこの2人には相応しいし、生き生きした人間らしい。
なお、この2喬(橋)の父親に当る【橋公】なる人物・・・・公と尊称がついているからには、一級の人物であったのだろうとは想像がつくものの・・・・正史には僅かに『橋公ノ二人ノ娘』として説明的に1回出てくるだけで、字は勿論、その名さえ不明な人物である。 筆者としては、彼が、無名時代の曹操を初めて認めた、元大尉の、清廉潔白で剛毅果断だった、あの「橋玄きょうげん」(公祖)であった呉れた方が、よりドラマチックなのだが・・・・残念ながら、諸々の条件を勘案してみれば、これは100パーセント無理である。(そもそも曹操が大恩人の娘達を、二重の意味で放って置く筈が無い?)ちなみに、正史中には『橋・姓』の人物は4名しか存在しない(橋公・橋玄と、橋瑁一族、袁術の将・橋ズイ) が、「喬」の文字と並記可能なのは喬ズイだけで、最初から『喬』の姓(文字)を用いられた人物は皆無なのである。・・・・即ち、後世、数々の詩歌に登場し、用いられている『喬・姉妹』=大喬・小喬の文字は、「正史」には載って居無いのである。但し、そこは漢字の国・中国のこと・・・・絶世の美女を表わす文字としては、〔橋〕より〔喬〕の方が
よほど艶やかである事から、後世の詩人達は専ら、「ニ橋」では無く、『ニ喬』と表記する。
さて、多くの詩人にまで詠われる事となるーー
孫策・周瑜の2郎が、大喬・小喬の2喬を娶る時がやって来た・・・・!
美男美女同士の、
”宿命のツィンカップル”誕生の瞬間である!!
【第87節】 2郎、2喬を娶る (噂のツィンカップル) →へ