第84節
インディペンデンス

                                 呉国独立宣言


周瑜が長江を北に去って間も無く、年は建安2年(197年)と、新たまった。その正月・・・・寿春に在った袁術が、その実力も無いのに、
  とうとう 
皇帝 を 僭称したのである
程無く、東城県長に任じられた【魯粛】が、『袁術ノヤル事ガ支離滅裂ト観テ』、周瑜の元に出奔したのは、実は”この茶番劇”を指していたのである。ーー何しろ・・・・・
荒淫こういん奢侈しゃしは益々ひどくなり、後宮の数百人の女達は皆あやどりをした薄絹を身にまとい、上質の米と肉は有り余っていた。一方士卒は飢え凍え、長江と淮水に挟まれた地帯は何一つ無くなり、人々は互いに喰らい合いをする有様だった。』 のだから、愛想をつかす方が当然で、追手の者達が納得して見逃すのも当り前であったのだ。ーー「あの馬鹿、とうとうやりやがったか!!」・・・・とばかり、この〔袁術の帝位僭称〕をきっかけに、各地の英雄達が一斉に動き出す。
そこで・・・・この時点
197年正月)での、天下の形勢を、大雑把に観ておこう。注目株は7人
@長江下流の南全域、呉の地には孫策が、その政権基盤を確立したばかり
A長江を挟んだそのすぐ北には皇帝を名乗った袁術が未だそれなりの勢力
Bその北には、裏切りを繰り返す凶獣呂布が獲物を狙って牙を剥いている。
C更にその北の地には、献帝を擁する曹操が南北の背腹に敵を抱えつつも先ず南を片づけてしまおうと機を窺っていた。(但しこの正月、曹操は宛城で美女・鄒氏すうしに溺れ、大敗退する失態を演ずる。)
Dその曹操の宿命のライバルが黄河を挟んだその北に直面している。この時点では天下最大の軍事力を誇る袁紹であった。彼は今や、北辺に残るだけとなった公孫讃を追い詰め、広大な華北全域をほぼ支配下に置いていた。2.3年後には大挙南下して曹操を屠り天下の主となる見通しであった。その兵力は、曹操の10倍を擁すると言われ、世間大方の目は曹操の滅亡は必至と観ていた。詰り、袁紹との決戦を控える【曹操】にとっては、人生最大のピンチを迎えようとしているのであった。
E論外の劉備は、呂布に徐州を乗っ取られ、曹操の元に逃げ込んでいた。
Fひとり、けい州の劉表だけは、これら群雄の死闘に関わりなく、その西方で"文治ぶんじモンロー政策"に専念できている。
ーーそれが、この197年(建安2年)正月時点での、天下の情勢というものであった。

さて自称皇帝(仲氏ちゅうし)と成った
袁術囂囂ごうごうたる非難の中で孤立するのを恐れ、何かと軋轢のあった呂布との同盟を結ぶ動きに出た。呂布の娘を自分の一人息子の嫁にくれと申し込み、曹操と北面する呂布もこれを承諾。処が、密かに曹操と内通したい重臣の陳珪の説得で婚約をドタキャン。激怒した袁術は、呂布攻撃を下命するが、陳珪の離間策により大失敗する。(既述)これで資力を使い果した袁術一挙にB級に転落。そこで食糧を求めてイチかバチかで北上(呂布を迂廻し)、何と曹操の膝元とも言える〔陳留国〕の乗っ取りに動く。何の展望もないくせに皇帝ごっこをして経済破綻した為、やぶれかぶれの暴挙に出たのである。ひょっとすると宛城で一敗した曹操は出て来ないのではないか?
と云う、儚い期待を抱いての"親征"であった。だが世の中そんなに甘くない。曹操は宛城へのリベンジ用に既にすっかり軍容を建て直し、出撃しようとしている矢先であったのだ。曹操が自ずから出て来たと知るや、袁術は諸将を置いたまま独りピューー〜ッと南方へ遁走。これで袁術は
C級を飛び越して、一気にD級賊徒へと、転落してしまった。
《袁術めは、これで終わりだ。後は放っておいても自滅するな》
・・・・と、読んだ
曹操は、これ以上深追いする迄もないと判断。その南に台頭してきた孫策に向かって外交戦略を仕掛けて来たのである。既述の如く今の曹操の最大にして緊急の課題は北面する袁紹との一大決戦であった。それに集中したい。そこで、ここぞ使い時とばかりに、奉戴したばかりの〔漢朝廷の権威〕をさっそく行使してきたのである。
 さて、此処からが、本節の続きと成る訳である。
孫策伯符を騎都尉に任じ、烏程侯うていこうの爵位をぎ、会稽かいけい郡太守を兼任させる。』ーーこの、献帝(曹操)からの勅令の内容は、既成事実を追認した程度のものでしかないが、献帝の名による、正式な詔書を下してきたのである。これにより、南方に友好関係の相手を形成して措こうとするものであった。この詔勅には、続きがあった。『呂布りょふ陳禹ちんうらと共に、袁術を討て』 これが本題である。つまり一応は【小覇王孫策】は、曹操から交渉相手として、その実力を認められた事になる。ーーだが孫策にしてみれば、複雑な思いであった・・・・これで袁術とは公式に絶縁できる。然し、曹操に操られるのを善しとはできぬ・・・・・とは言え漢王室から正式な詔が降りたのだ。張昭・張紘をはじめとする北来の名士達は、大感激して大はしゃぎしていた。更によく観ると、自陣営内には未だ未だ、官位を持たぬ己を君主とは視ず、盟友くらいにしか思っていない者達も縷々ある実状であった。だから君主権を確立する為には朝廷からの正式な官位は、咽から手が出る程欲しくはあった。
《くそ、曹操め、何程の者ぞ
俺を安く見下しおって
献帝を奉戴した事で、自由自在に勅令を発せられる。
《今に見よ!この手で必ずや献帝を迎えて、その立場を逆転してやるぞ
》・・・取り合えず孫策は実利を採る事にした。だが、それにしても〔騎都尉〕とはあんまりである。そこで、勅使として下向して来ている「王ヲ」にねじ込んだ。
「騎都尉のままでは、郡太守としては官が軽すぎて、示しがつきませぬ。是非にも将軍号が欲しいのですが、何とかならぬものでありましょうや
!?」ーーすると、孫策にすっかり惚れ込んだ王ヲは、その使者としての権限で、直ちに孫策を、〔仮の明漢将軍に任じてくれたのである。これで孫策は、まがりなりにも"漢の"将軍と成ったのである 《ーーま、いいだろう。》・・・・とした孫策は、この詔書に対する感謝の上表文を(献帝に)送った。
わたくしは、取り立てて才能もないまま、一人辺陲へんすいの地の守りに当っておりました。陛下には、立派な御恩沢ごおんたくを広く敷き広げられ、ちっぽけな忠節もお見逃しなく、わたくしめに父の爵位をがせ、兼ねて立派な郡の統治をお命じ下さいました。たまわりました栄誉と御恩寵とは、わたくしなどのよく仕えるところでございません。 −−中略ーー 臣めが初めて兵をひきいました時は、未だ年は20に及ばず、意気地いくじもなく武事に通じてもおりませんでしたが、この微命びめいを投げうたんとの決心だけは持っておりました思いみますに、袁術めは心に正道をなみし★★★、その悪事は重く積み重なっております。わたくしは、陛下の御威霊をおりし、正義の旗のもとに悪人を懲罰し、必ずや勝利の知らせをお伝えして、このたびの御授任におこたえする所存でございます。』 −−『呉録』よりーー
直後、孫策は
銭唐せんとうへ進軍。勅令どうり、「呂布」や「陳禹ちんう」と共同(同時)作戦を行おうと動き出した。・・・・だが、これは見せかけの進軍に過ぎない。そもそも銭唐とは、自領・呉郡内中部の邑で、〔進軍〕と記すのも憚かられるような近さである。−−なぜか?
その理由は、共同作戦を採るようにと指名された相手の「陳禹ちんう」の腹の底に在ったこの
陳禹・・・・・字は公偉と言い、徐州は下丕かひ郡の出身である。今回、詔書をうけ、こう呉郡太守・安東あんとう将軍号をもらっていた。(※とは、兼任を示す接頭語) はじめ袁術はこの陳禹を揚州刺史に任じていたが、先日袁術が「封丘」で曹操に敗れて寿春に逃げ戻った時、その空き城へ入り込んでいた「陳禹」は、主君・袁術を拒んで寿春城内へ入れなかった。袁術の後釜を狙い、その根拠地を乗っ取る"野心"を持っていたのである。だが、その割には優柔不断の男であった。もし、断固攻撃していたら、袁術の命運はこの時ここで涯てていた筈である。ところが、掛け引きの分らぬ陳禹は、言葉巧みに下手に出る袁術の説得・哀願に心を動かされ入城を拒むに留めてしまったのである。
・・その結果、「陰陵」で軍兵を集め直した袁術は、「寿春」に攻め寄せて来た。怯気づいた陳禹は、一戦する事も無く、故郷の下丕へ逃げ出してしまったーーと云う男であった。今は海西(徐州中部の海岸都市)に軍を養っていた。そして、今回くだされた詔勅をよいことに孫策が北上渡江した隙を狙って、江東の地を掠め盗ってしまおうと企らんでいたのである。ーーそして実際に・・・・
都尉の万演ばんえんらをつかわして秘密裏に長江を渡らせ官位を約束する印尚いんしょう30余個を所持させると、敵対している丹楊・宣城せんじょうけい・陵陽・始安・K多翕欠しょうなどなど情勢不安定な諸県の大師ボス祖郎そろう焦已しょうい、それに呉郡烏程うてい厳白虎げんはくこらにばらき、内応を約束させいたのであった。・・・・だが、こんな2流の男の魂胆など、先刻お見通しの孫策であった。
「奴が裏を心算つもりなら、又その裏をいてやろうぞ!」ゆるゆると北上するそぶりを見せる一方、孫策は呂範りょはん徐逸じょいつに大兵を与え、陳禹の根拠地である〔海西かいせい〕を急襲させた。
「ーーま、まさか
孫策の軍は、今は未だ、長江の向こうに居る筈だぞ・・・・!?」突然尻に火がついた『陳禹ちんう』は、妻子を振り返る余裕も無く、単騎城を逃げ出すのが精一杯であった。この奇襲攻撃によって、軍吏や士卒・彼らの妻子など4千人が捕虜となった。陳禹自身はかろうじて冀州まで逃げのび、袁紹の元に身を寄せた。
さすが小覇王】!・・・・・であるが、この一連の流れの中から浮かび上がって来るのは、未だ未だ孫策に反抗する不服従の勢力が、各地にかなり残っていると云う事実である。それは外部(陳禹)から観ても、調略に使えると確信する程のものであった
・・・・と、云う事だ。これらの敵対・反抗勢力は、ひとり呉郡・
烏程厳白虎を除き、全てが平地を追われ、丹陽郡の南西山岳地帯の峡谷づたいに、数珠つなぎ状態に並んでいた。そして、その夫れ夫れが、数千から1万の兵力を擁しているのだった。
ーー孫策側から観れば、手前から・・・・
宣城せんじょう」・「けい」・「安呉あんご」・「陵陽りょうよう」・「春穀しゅんこく」(ここ迄は丹陽たんよう)と続き、更に奥の「始安しあん」・「K多」・「翕欠しょう」(新都しんと)が、情勢不安定の地域
敵対勢力図 向こうから攻撃を仕掛けてくる事は先ず考えられなかったが之等を放置したままでは、西に向かっての新たな大作戦を実施する事は出来無いのである。詰り、安心して全軍挙げて荊州攻撃へ向かえず、身動きがとれないのであった。(州単位の戦いともなればこれはもう国の総力戦となる。)然も、それら敵兵力の中心は、あの
山越と呼ばれる異民族の者達であり、「民族紛争の要素」も濃厚だったから、これから先の長い将来を考える上でも、この
由々しき輩は、是非にも制圧しておかねばならなかった。そこで、この年の後半、孫策はこれら諸県の一挙制圧に乗り出した!  ちなみに、これら反抗・敵対勢力の中で”大帥”と称して特に勢いがあるのが、烏程厳白虎陵陽祖郎とであった。異質な処では(けい)県の勇里に、劉遙に見切りをつけた、あの一騎討ちの太史慈も世に出る機会を覗っていた。
さて、では・・・・この 〔6県の山越討伐戦〕でのエピソードを2・3見ておこう。
エピソード"孫権の命びろい"である。
孫策が六県の山越の不服従民達を討伐した時、孫権(15歳)は宣城に兵を留めて、兵士達に命じて各々守りを固めさせた。その兵力は千にも満たなかったが(どうせ殿軍しんがりでほんの入口の地点であったので高を括って防護柵もちゃんと作らずにいた処、山越数千人が急に押し寄せて来た。孫権がやっと馬に乗った時には、敵方の刃が既にその身近に迫り、馬の鞍に斬りつける者まであったが、誰も彼も慌てふためくばかりであった』・・・・大軍に本陣まで踏み込まれ周囲は敵だらけで孤立した孫権。まさにその命は、風前の灯となったのである。ーー然し、この時、孫権が特に見込んで、兄(孫策)から貰い受けたばかりの彼の直臣・第1号が、その名に恥じぬ、命懸けの働きを示したのである・・・・!!
そうした中で周泰しゅうたいだけは勇力を奮い起こして、身を以って孫権を守り、その大胆さは人に倍するものがあった。側近の者達も、この周泰の働きのあとに続いて、みな戦いに加わる事が出来た。』 若き御主君に群がる敵。危機一髪で駆けつけた周泰の、鬼神の如き孤軍奮闘が目に浮かぶ場面だ。
敵方がやっと散り散りになると、周泰は身に12の傷を被って昏倒し、暫くの間は人事不省であった・・・・。』
孫権が、日頃無口で慎しみ深い【周泰】に着目し、兄に願い出て得た第1号の直臣であった。賤しい家柄(寒門)の出身だったのでそれを負い目に思って口数の少ない人物だった。是は生涯続きのち漢中太守・奮威将軍・陵陽侯にまで封じられるが、主君の眼から見ても、「なぜそんなに遠慮されるのか?」と、言ってやる程に変らない。同じ寒門でも、既述した潘璋とは、その対極に位置する人物と言えよう。ーー『正史』は記す・・・・
此ノ時、周泰ノ働キガ無カッタナラ、孫権ノ生命モ危ナカッタノデアル。孫策ハ周泰ニ深ク感謝シ、彼ヲ春穀県ノ長ニ任ジタ。』
エピソード"祖郎そろう・生け捕り"である。
この作戦には、孫策みずからが将兵を率いて、丹陽郡の最奥部に当たる陵陽県に攻め込んだ。−−孫策は、捕えられた祖郎に向かって言った。「お前はかつて私を襲撃し、切り付けた刀がわたしの馬の鞍に当たった事もあったな
」 ・・・・この祖郎・・・・此れ迄さんざん、孫策に、煮え湯を呑ませて来ていた。
その第1番目はーー父・孫堅を亡くしたばかりの
18歳の時、袁術に亡父の私兵返還を求めるも、すげなく門前払いされた為、単身江東に渡ってやっとの思いで掻き集めた虎の子の「部曲」数百人を、その帰還途中に県で襲われ、なんと全滅させられてしまった事であった。是れは《いざ、世に出でん!》とする孫策の出鼻を打ちのめし、デビューの面目を丸潰しにされた大打撃となった。 
また最近でも、
白髪鬼と化した程普の活躍で、孫策が危うく死地を脱したのも、この祖郎との戦闘の折であった。そうした直接的な戦闘もさる事ながら、近くは周辺の他の〔宗民〕や〔山越〕と手を結び、遠くは・・・・長江北岸の「陳禹」や「陳登」とも盟約し、その反抗勢力を煽動する中心と成って来て居た。だから、恨みは山ほど積もり積もっている。−−然りながら、私憤をさて置いて、考えてみれば・・・・其れ迄バラバラだった、多くの山越の民を統率して纏め上げて来たのだから、それだけ人望も有り、また戦闘指揮能力も高い人物であったと、観るべきであろう。
《これは殺さず、活かすべき男だな・・・・。》
もはや観念して、枷(かせ)の中に座す
祖郎
わたしは今、軍勢を整えて大事を起こすに当たり、昔のうらみは棄て去って、ただ能力が有り役に立つかどうかだけを観て人材を広く天下全体から集めている。積年の恨みを忘れて配下に取り立てるのは、お前1人だけでは無いのだから、心配する必要は無いぞ
祖郎そろう叩頭こうとうシテ罪ヲ謝シタ其ノ場デかせヲ打チこわサセ、衣服ヲたまワッテ、門下賊曹もんかぞくそうニ任ジタ ーーこの”祖郎生け捕り”の前、陵陽県の手前の(けい)県では、自分と一騎打して別れた太史慈を配下に迎えている孫策であった。(既述) だから『江表伝』は、この〔六県討伐〕の締め括りを、こう記す。
軍ガ凱旋がいせんスル時ニハ、祖郎ガ太史慈ト共ニ 軍ノ先頭ニ立ッテ先導シタ。人々ハ、是レヲ孫策ノ軍ノ栄誉ダトシタ。
エピソード→圧巻は"厳白虎攻め"である。
                   (厳白虎→『げんはくこ』でも『げんびゃっこ』でも構わぬ)
これは六県討伐とは日時が違う(たぶん、其の直前)が、彼だけは独り地理的に離れた呉郡・中心部の烏程に根拠して居た為であるその勢力は、会稽・東治の大遠征を決行した時、叔父の呉景が「先に厳白虎を討つべきだ」と懸念する程のものであった少なくとも1万余の山越兵を擁している。
孫策ハ自ラ厳白虎ノ討伐ニ向カッタ。厳白虎ハとりでヲ高クシ守リヲ固メタまま、其ノ弟ノ厳與げんよヲ、使者トシテ和睦わぼくワセタ。孫策ハ和睦ニ同意シタ。』 −−呉録ーー 話は此処からである。
使者に立った
厳白虎の実弟厳與は、その全軍中で最強の剛勇を謳われていた。その身のこなしは 神技の如くに素速く、誰も彼に刃を当てる事は出来ぬ不死身とさえ謂われていた。
本人も自信が有ったらしく・・・・「この和睦の会見は是非、孫策と一対一の”差し”で行いたい」と申し入れて来た。己の剛勇ぶりで威圧して、何としてでも相手にウンと言わせる腹心算であったと想われる。処が相手は
小覇王と呼ばれる孫策伯符であった。役者が違う。先ず、ヌッと入って来た孫策を一瞥しただけで、「厳與」の方が気圧されてしまう。ズッシリとした存在感、全身に漲る覇気・・・・そして対座して型通りの挨拶を済ませた瞬間であった。いきなり孫策が抜き身のやいばしきものを切り付けたのだ
《ーー
!!思わず厳與は身じろぎした。身じろぎした自分に驚いた。己は、軍中一の剛の者であるのだそれを見た孫策は小さく笑いながら言った。
「お主が即座に立ち上がり、非常に素速い立ち廻りが出来ると聞いて居たから、ちょっとふざけて見たまでだ。」
厳與も、己の動揺を立て直そうとして言い返す。
「刃物を見ると、そんな風に出来るのです。」
 言いつつ厳與は、孫策の眼の中に只ならぬ、"或る意志のほむら"を見ていた。
「不死身・・・と云う訳か・・・・フフ、では、是れを受けてみよ
!!
言いも終わらぬ転瞬てんしゅん、孫策はえりに差していた手戟しゅげき(小型のトマホーク)を投げつけた。悲鳴を挙げるいとまも無い、即死であった。

太史慈との一騎打ち”と謂い、この”厳與の謀殺”と謂い
君主みずからが為した行ない としては、史上たぐいを見ない凄まじさである・・・・・!!!
「厳與」は勇猛で武力があった事から、厳白虎の一味は、彼が死んだと聞いて、ひどく怖気づいた。孫策は間髪おかずに軍を進めるや、これを撃ち破った。ーー厳白虎余杭(50キロ南)に奔り、「許昭」の元に身を寄せた。するや【程普】が、許昭を討ちたいと願ったが、孫策は・・・「許昭は元の主君への忠義を忘れず、古い友人(厳白虎)にも誠を尽しておる。これは大丈夫たる者が心掛けるべき処だ。」と言い、攻撃は差し控えた。   −−呉録ーー
厳白虎の末路は定かでは無いが、他の箇所で『既に亡く』と云う記述が有るから、斬り捨てられたものと想われる。
※尚、此処に出て来た「許昭」は、月旦表で有名な『許劭』とは別人であり、29年前に初代・孫堅がデビューを飾った妖賊ようぞく(会稽で陽明皇帝と名乗った宗教反乱者)・許昌の息子である。
エピソード最後にちょっとホッとする?話・・・・
未だ若い弟の
孫権・・・・遊びたい盛りであった。成人15したとは言え、長兄の孫策に較べれば、気楽なもんだ。同じ年頃の学友や側近に、いいところも見せたい。そこでちょくちょく、遊ぶ金をせびりにいった。相手は金庫番を仰せつかっていた呂範である。孫権としては、君主の弟なんだから、小遣い位は自由に使いたい。処が兄の孫策は、身内への浪費には厳しく眼を光らせていたようだ。当てがいの小遣いでは、とても遊べない。
"金庫番"といったが、財政担当官であるのだから、孫策の信任厚い者が当たっている。この時、それは呂範であった。既述した如く、彼は孫策が寿春で雌伏していた時に、百人の配下を連れて臣従し、共に「山野ヲ跋渉シテ苦労ヲ舐」た、間柄の重臣である。
孫策が呂範りょはんに会計を預からせた事があった。孫権はそのころ未だ若く、秘かに「呂範」の元にやって来て金をせびったが、彼は必ず孫策に上言して許しを求め、自分勝手に金を与える事はしなかった。この当時、この事で呂範は、孫権の怨みを買っていた孫権が陽羨県の長の役目を勤めていた時、公金をいささか私用に使う事があった。孫策が会計を監査する事があると、功曹の「周谷」は、いつも、孫権の為に帳簿に書き加えをして、問責を免れるよう取り図らった。 孫権は、その時には、これを喜んだのであるが、のちに彼が呉国全体を治めるようになると、「呂範」は忠誠な人物だ!として厚く信任を受け「周谷」は帳簿を勝手に書き改めたりするような人物だ、として任用しなかった。』

これは『正史』の記述だが読者諸氏はいかに評するや

尚この呂範、けっこう図太い一面もある。ちょうど此の頃の事・・・・孫策が暇な折、呂範と2人で""(11路盤)を打っていると、呂範が言い出す。
「私は今、お手元を離れて地方に在りますが、聞き及びますれば余りに勢いが盛大なるが故に、未だ御政道の大網がなお整っておらぬ所もあるとの風聞。どうか私に暫く《都督》の仕事をお任せ下さりませ。」
・・・・パチリ!・・・・
「貴方は既に大任に就いておられる。今さら何も、軍中のこまごました事を処理する如き任に就かなくてもいいだろう。」
・・・・パチリ!・・・・
「いえ、もし一ヶ所でも弱い所があれば、大海に船出した我が船は諸共に沈没の憂き目を見るので御座います。これは私自身の将来を考えての計でもあって、将軍さまのお為だけを考えたものでは御座いません。」
孫策は苦笑いしただけで何も言えなかった・・・・処が・・・・呂範は退出すると、
ネ冓こう(礼服)を脱ぎかえ、袴褶こしゅう(乗馬服)を着けるや手にむちを持ち、宮門の所に来てみずから★★★★都督の任を預かっていると称して★★★言上させた。孫策はそこで、むを得ずわりふを授けて、諸事の処理を全て呂範に任せた。これ以後、軍の内部は引きしまって心を一つにし、威厳と禁令とがよく行われた。ーー『江表伝』ー
都督ととくとは軍監・軍目付役で司令官でもある。信任厚いと自負する呂範だからこそ、己を売り込めた訳だが、 主君の苦笑いを勝手に承諾と見て、即座にその地位を公表してチャッカリ実現してしまうあたり、少々強引でも積極果敢な図太さが出世につながる??
これを称して、人は以後、
囲碁都督いご ととく と呼んだ。

−−と、まあ、この
197年(建安二年)の出来事を様々に追って来たが、これらが全て落着したあと・・・・・
ついに孫策は、念願であった
孫氏独立を高らかに世に宣言したので在る!! そしてそれは、袁術からの自立、即ち・・・・彼の帝位僭称せんしょうを厳しく批難・詰問きつもんする弾劾だんがい状として、天下に公表されたのである。
デコラレーション
オブ
     インディペンデンス!!
         ・・・・・・(独立宣言)・・・・・
張紘ちょうこうの手による9ヶ条の長大な名文である。是は又、呉の独立を世に宣言する小覇王・孫策の心意気の吐露でもあった。要約の後、全文を記す。長いが当時の世論(名士層の思想根拠や朝廷に対する心情、時局認識の在り方などを識る上で、欠かせぬ貴重な資料である。
呉国独立宣言

           要約
『五世に渡り漢室の三公として、国家の柱であった袁家の中からこの様な不忠の臣が出るとは何たる事か
驚くばかりの愚挙である。我が漢の皇帝は幼少であるとは申せ、極めて聡明なお方と漏れうけたまわる。罰に値する些かの罪も無いのに、これを廃して自ら即位するとは何事ぞ悪名天下に高い董卓でさえ先帝を廃したけれども、今上帝を立てた。即ち、自らそれに代る事はしなかった。汝がこの様な人非人であるとは、思いも寄らなかった。これ迄そんな非道な輩と交わりを結んで来たのは私の不明だったと言わねばなるまい。事ここに至り、この期に及んで不忠者との交わりを絶たねば、この孫策伯符、祖先の神霊に申し訳がない。さらば不忠なる者よ
     そして今、我はここに、独り立つ
!!


           全文
『そもそも上天が、人々の過ちを見守る司過しかの星を天に懸け、聖王が諫言をしたい時打ち鳴らす敢諫かんかんの太鼓を設けて、悪事や誤ちへの備えとし、みずからの欠点を指摘する言葉を求めるに急であるのは、何故であるか。それは長所ある処には必ず短所も伴うからなのである。昨年の冬、汝(なんじ)に大それた意図有りとの噂さが伝わり恐れ戦かぬ者はなかった。だが間も無く、朝廷に献上物を捧げたと知り、全ての者が疑惑を解いた。然るに近頃の風評を聞き及べば、その目論見を再び実行に移そうとし、事を起こす期日まで何月にするかを定めているとの事。増々以って我々を驚き怪しませておるが、思うにこれは出鱈目な流言なのであろう。もしそれが本当であるとすれば、民衆の汝への期待は全て裏切られるのだ。 昔、義兵を挙げ、天下の人士が声に応ずる響きの如く、素速く反応したのは、董卓が官吏の任免権をほしいままにし、太后と弘農王(小帝)とを殺し、宮女達を奪い、御陵を暴くなど、暴逆が積もり重なっていたからこそ、天下の諸州郡の英雄豪傑達が、呼びかけを聞き、義挙に心を寄せたのだ。人智を超えた武威が州郡の間に発揮されるや、董卓は都で自滅した。悪の元締めが亡びると、幼い御主君は東方に戻られ、保傅を通じて命令を出されて、義兵を挙げた諸軍に引き上げるようにと命じられた。然るに河北の袁紹は黒山の賊と通謀し、曹操は東方の徐州で悪逆をなし、劉表は南方の荊州で乱を起こし、公孫讃は北方の幽州で勝手気儘な事をなし、劉遙は長江流域を力でおさえ、劉備は淮水の畔で盟主にならんと争い、こうした状況の下で、自分も御主君(献帝)の命令に従って、弓をしまい戈を収めることが出来ずにいるのだ。今、劉備と劉遙とは既に敗れ、曹操達は食糧の欠乏に苦しんでいる。思うに今こそ広く天下の者達と謀事を通じ、悪人どもを除き去るべきときなのである。それを捨ておいて実行せず、みずからが天下を取ろうとの企てを懐くのは、天下万民の期待を裏切るものである。これが、誤ちの第一である。

昔、いん湯王とうおう桀王けつおうたんとした時、夏の王朝には罪が多いと宣言し、周の武王が殷の紂王ちゅうおうを伐った時には、殷には重い罪と罰とが在るのだと言挙ことあげしたものだ。この2人の王者は、聖徳を備えて主君として世を治めるべき人物ではあったが、もしそうした時代に巡り合わさなかったならば、事をおこす理由も無かったのである。今幼い御主君は、天下に対し悪事を働らかれた訳では無いただ未だ若く在られる為に、権臣達の圧力に抗し切れないだけなのである。過ちも無いのに、その権力を奪い去るとすれば、湯王や武王の為された事とは合致しないではないか! これが誤ちの第二である。

董卓は道理に背いて無茶苦茶をしたが、主君を廃しみずからが取って代ろうと迄はしなかった。それでさえ天下万民は、彼の狂暴残虐を伝え聞き、切歯扼腕し、心を一にして憎み、戦いに慣れておらぬ中原の兵士を以って董卓率いる辺境の勇猛精悍な賊軍に当たり、かくて間も無く董卓は殺され、その魂は中有ちゅううに迷う事と成ったのである。現在は四方全ての地域の者達が、敵にも驚かず、戦さには慣れてしまって居る。そんな状況の裡で勝利を得られるのは、
敵が乱れて味方が治まっている場合と、敵が道理に背き、味方に道理が有る場合とである。今の世の乱れを見て、強力な武力だけで天下を支配しようとしても、それは禍いの中に足を踏み入れるだけの事である。これが、誤ちの第三である。

天下は神秘な器であり、なんの基盤も無く手に入れようとしても、叶うものでは無いのだ。必ず天の賛けと人々の協力とが必要なのだ。殷の湯王には白い鳩の吉祥が有り、周の武王には赤い烏の嘉瑞が有り、漢の高祖には星が集まると云う符瑞が有り、後漢の光武帝には神秘な光が輝くと云う吉徴があった。それぞれに民衆が桀王や紂王の治世に困憊し、秦や王莽の賦役に苦しんで居ればこそ無道の支配者を除き去り、各自の志を達する事が出来たのである。然るに今、天下は幼い御主君の政治に苦しめられて居る訳でも無く、新しい王者が天命を受けた事を示す応験しるしも現われては居無いではないか。にも拘らず、或る日突然、帝位に登ろうとするなぞ、此れ迄に例の無い事であるではないか!これが第四の誤ちである。

皇帝という最高の位に昇り、天下の富を所有するという事を、誰が望まぬであろうか。だがそれは、道義の上からも許されぬ事であり、情勢も其れを許しはしない。陳勝ちんしょう項羽こうう王莽おうもう公孫述こうそんじゅつといった連中は、皆いったんは南面して皇帝を名乗りながら、誰一人として其の最期を全う出来無かったではないか。帝王の位と云うものは
無闇に望んではならないものなのである。これが、誤ちの第五である。

幼い御主君は優れた器量をお持ちになり、もし権力者の圧迫を除き、頑迷な側近を追い出されれば、必ずや漢王朝の中興を成し遂げられるであられよう。御主君を補佐して周の成王と同様な盛んな御世を招来し、自らは周公・旦や召公・せきの如き誉れを受ける・・・是が汝が為すべき事ではないのか。もし幼君に、他に位を譲られるべき理由が有ったとしてもその場合には、王室の系譜を調べ、血縁の近い賢明なる人物を選んで帝位に就け、劉氏の血統を嗣ぎ、漢王室の基を固めるよう計るべきである。さすれば全てお前の功績が金石に刻まれ、肖像が絵に画かれ、めでたさを無窮むきゅうの子孫にまで伝え、管弦の楽器で頌歌ほめうたが唱われように成る。その為の道と云うものであろう是れを捨て置き、わざわざ困難の多い道を選ぶなどお前の明察に富むと言われる資質からも、決して為すべきではない!これが、誤ちの第六である。

5代に渡って宰相を勤め、その権威の重さ・勢力の盛んさでは、天下に並ぶ者も無い家柄であるのだ。こうした名門から出た忠節の者なら、必ずや次の如く言うであろう。
『昼夜を問わず思いを巡らせ、如何にすれば国家の躓きを助け起こし、社稷の危難を救う方法を考え出して、父祖の志を大切に受け継ぎ、
漢の王室から賜わった御恩の報ずる事が出来ようかと念じなければならない』・・・・と
逆にすすみ行うべき道をないがしろにして、自らの野望をたくましくして居る輩であれば、次のごとくに言うであろう。

『天下の者は俺の家の召使か書生に過ぎぬ。誰が俺に反対できようか。代々の権勢を借りて事を起こし、天下を奪って何の悪い事があろう』と。名門の家の者であれば、当然この両者の根本的な差異について、充分に熟慮されるべきであるにも拘らず、それをして居無いではないか。これが、第七の誤ちである。

聖人や哲人達が貴ばれるのは、彼等がそれぞれの状況の中で、為すべき事をはっきり把握し、それを慎重に行動に移すからである。実現困難な事を企て、当てにならぬ情勢を利用せんとして群がる敵対者を刺激し、人々の心に不安を呼び起こす事は、元より公の道義の点で許されぬだけで無く、個人的な立場を考えてさえ何の利益も無いものである。聖人哲人は、そうした身の処し方はしないものなのに、それに反しようとしている。これが、誤ちの第八である。
世の者供の多くは
図緯とい(政治的予言)に惑わされ、関係の無い事までこじ付け、文字を組み合わせて、己が使えている者に、皇帝と成るしるしが有るなどと言い立てて悦ばせている。仮初かりそめの気持から上の人物におもね、人を惑わして、結局は後悔せねばならなく成った者は、古今を通じて絶える事も無い。この事をよくわきまえ熟考せねばならぬのに、それすらして居らぬ。これが、誤ちの第九である。

以上の九点は、既に汝自身がよく識るべき事を繰り返したに過ぎぬが、せめて参考とし、失念している点の補いとして、せいぜい道を誤らぬようにすべきである。忠言は耳に逆らうと言うが、最後の忠告として、心して我が言を聴くがよい。』

  
独り、机に向かい、この弾劾文だんがいぶんに、己の全身全霊をたたき付けながら、1字1句を刻み付けていく
張紘ちょうこう 子綱しこうの鬼気迫る姿が眼に浮かぶ・・・・・。( 史書には、誰が草稿したかの"註"は無い。だから、その書き手は『張昭』であるかも知れぬのであるが、当時の名士間では、〔筆才ハ張紘〕と専らの評価であった事から、筆者も其れに従うものである。)


尚、この
孫呉政権独立宣言とも謂うべき糾弾書きゅうだんしょの中に、改めて注目すべき一節が在る。
皇帝と云う最高の位に昇り、天下の富を所有するという事を、誰が望まぬであろうか』とする、第五の部分である。
【人間誰しもが、皇帝に成る事を望んでも、それは当然である】
・・・殷・周の古代から存在する
易姓革命の思想》を踏まえてはいるが・・・・これは思わず迸り出た〔重大な本音であろう。無論、縷々の条件は付随するが、それをクリアーするならば、
”新・皇帝”は登場しても善いのである。漢王室支持層の代表格とも言える「名士」達の心の中にさえ、【この事】は認め合われて居た・・・・と云う事だ。
『三国志』の時代背景には、そうした中国独特の思想が色濃く流れており、
漢王朝への忠節という『建前と、それを超えんとする自立化への『本音とが、表裏一体と成って、より複雑な人間模様を綾なしていたのである・・・・・。
【第85節】 王者の暗黒 (忍び寄る日蝕)→へ