【第83節】
い ぎょう
「大物に成りてえ〜〜!!」
そう叫ぶ男が、此処にも居た。田圃のど真ん中であった。
此処とは・・・・・臨淮郡の東城で、周瑜が治める居巣県から僅か百キロ北の邑である。歳も周瑜とほぼ同じ3つ上の若者だった。
《この乱世に男として生まれたからには、世に出て大事を成す者に成りてえ!!》 この男なりに、乱れた天下を想うと、じっと
しては居られ無い心境なのだ。
〔金〕 は腐るほど有った。 金と暇は有り余るほど裕福な環境だからこそ、こんな事を考えられたのだ。・・・・但し、
〔名〕 が無い。祖父母の代で伸し上がった、いわゆる田舎の大地主で、世間から尊敬される家柄では無かった否、むしろ祖父母は、人様の弱味に付け込んで、土地を買い叩いて来ている筈だ。ーー処が3代目ともなると、自分が苦労した訳ではないから、商売っ気だの、倹約だのとは全く縁が無い。まして生まれてすぐに父親が死んでしまい、祖母チャンに猫可愛いがりされたものだから、金を湯水の如く使った。但、その大金の使い途が変わっていた。20歳に成る以前の頃、土地の父老達は口を揃えてこう言いあった。
「ほれ、見てみろ。魯さんちの家も、代ごとに衰えて来て、とうとうこんな気狂い息子が現われたよ。」
彼は或る日突然、何を思ったのか、『剣術ト、騎馬ト、弓トヲ習イ』 だしたのだ。そればかりではない。
『若者達ヲ(2・300人)集メテ、彼等ニ衣食ヲ給シ、南山ヲ駆ケ廻ッテ 狩猟ヲ行ナウトトモニ、密カニ彼等ヲ指揮シテ、兵法ノ練習ヲ行ッタ。』 のである。 ーー以上『呉書』−−
家柄の無いこの男にしてみれば、地方の頭目として武力を養い、それで世間に「名」を売る心算だった。が、世間はドラ息子の道楽と見るだけで、すこぶる評判が悪い。
《ウ〜ン、どうもこれだけではダメだなア〜・・・・。》
何がダメかと言うと、この程度では、どこからもお声が掛かってこないのであった。つまり、既に〔英雄〕と成っている者達のお耳に達しないのだ。《燕雀いづくんぞ鴻鵠の志を知らんや、などと言っては居られんな。》・・・・では、どうする・・・・??
《よし、ここは一番、大々的に賑恤を施してみるか!》
【賑恤】とは・・・私財を投げうって、貧しい者達に慈悲を施す事。後漢の儒教至上社会では大きな徳とされ、世の名声を得た。そしてその名声によって「名士」として認められ、為政者から迎えられる実益があった。この当時は、もはや純粋な慈善行為よりも、立身出世をせんが為の偽善が横行していた。
「俺ん家の財産は、全えん部バア様が築いたもんだ。俺らあ、後生大事にそれを守ってく気なんぞ無えよ。こんなぶっそうな御時世だ。野盗に襲われて盗られる位なら、いっそ困ってるモンに呉れちまった方がなんぼかマシってもんさ!今、人様助けておきゃあ、いつか俺が助けられる事も有らあな!」・・・・この男がそう言い出したのは、今から数年前の事−−『正史』は、こう記している
『生れるとすぐ父を亡くし、祖母と一緒に生活した。家は富裕で、彼は好んで人々を経済的に援助した。当時、天下は既に騒がしくなっており、彼は家業をうっちゃらかし、財貨を盛大にばらまき、田畑を売りに出して、困窮している人々を救い、有能な人物と交わりを結ぶ事に努めて、郷里の人々の心をつかんだ。』
やるからには生半かではなかったから、世間の評判は、手の平を返した様に一変し、いちやく近隣に聞こえる、大徳望家で知られる事となった。ところで、「呉書」を抜かして「正史」だけ読むと、この男の風貌を、つい・・・・・
『丸ポチャでおっとりした、人の好さそうなおぼっちゃん』と、想像したくなるが、全くの見当外れである。−−呉書には・・・・・
『風貌 魁偉ニシテ、若クカラ大事ヲ成サントノ志ヲ持チ、縷々人ノ考エ着カヌ如キ目論見ヲ行ウ。』とある。後年、大陸を馳せ巡り、諸葛亮を招き寄せたり、重鎮張昭をして「傲慢である!」と、咎められたりする事を想うと・・・・寧ろゴツゴツと気骨のある、骨の太い風貌であったろう。
この男の名は【魯粛ろしゅく】。字は子敬と言った。
時代が産んだ〔鬼っ児〕と
言えようか。既成の「名士達」など屁とも思わぬ、斬新な発想で、時代を切り裂いていく・・・・。
「ほう〜、今どき珍しい男だな。」 県令として【周瑜】が居巣に赴任してから程なく、この男の噂さが耳に入った。居巣県令時代の周瑜は、人材登用に精力的に動いている。袁術の思惑を逆に利用して、この江北に居る目星しい名士達を次々に孫策の元へと出仕させていく。孫策の地元である揚州の出身者が朱治だけであった幕僚に、新たに10名もの揚州出身者が加わったのも、周瑜の働きかけがあった、この年のことである。(長江の北5郡が揚州の行政区域に入っていた)
「ーー・・・魯粛・・・? 聞いた事のない人物だな・・・・本物か
どうか、もっと詳しい情報が欲しい。」
「金は有る様ですが、元は農民出身の寒門の男ですが・・・」
「構わぬ、調べて報告して呉れ。」
此処が周瑜の周瑜たる所以でもあり、魅力でもあった。其の相手の出自や家柄などには一切拘泥せず、澄み切った心と眼で、其の人物の本質を把えていく・・・・副官に調べさせてみると、どうやら本物の資産家で、一風変わった男であるが、生気溌剌とした若者であると謂う。そして数年に渡る多大な賑恤にも拘らず、現在も尚、途方も無い量の米を備蓄しているらしい。その上、
『周公瑾様になら是非この米を軍糧として拠出したい!』と、申し出たという。「−−ウム、会って見る値打ちは在りそうだな・・・・。よし、役所を挙げての公式な訪問にする!と、伝えて呉れ。」
『周瑜ガ居巣県ノ長ト成ルト、数百人ヲ連レテ わざわざ魯粛ノ元ニ挨拶ニ来テ、同時ニ資金・食糧ノ援助ヲ求メタ』−−『正史』ー
周瑜からの援助要請を受けるや、感激している魯粛は、周瑜を誘って、広大な屋敷内に在る米倉へと案内した。巨大な2棟の米倉の中は、上質な籾(もみ)で充満している。
「ひとつの倉に、それぞれ3000斛(石)の米が収めて御座います。」ーーその充実ぶりに、周瑜も眼を見張った。1斛(石)は現代の19・4リットル。・・・・普通の人は1日に3合(0・54リットル)
戦士はその倍の食糧を必要とする。3000斛とは約6万リットル。戦時で兵士6万人分、平時なら12万人分に相当する。
それが然も、2つ在ると言うのである!
「・・・・して、どれ程を譲って戴けるのであろうか?」
すると魯粛は、一方の米倉を指した。
「−−え!是れをそっくり!?」 流石の周瑜も驚いた。
「どうぞ丸ごと御使い下さい。私はいつか周公瑾どのがお見えになる日も有ろうかと、その心算で居りました!」
これは嘘では無い。必ずや噂を聞いて、周瑜本人が来るであろう事を予期し、また期待して居たのである。
「有難い!これは又、豪気な事じゃ!!」−−助かる。いずれ江東に戻る時の、大きな手土産に成ろう。それにしても気っ風が好い。「周公瑾どので在れば、安心して御譲り出来まする!」
納まり所が決まって清々した様な、魯粛の表情であった。
ーーだが其の後、やや声を密めると周瑜の耳元に、こう囁いた。
「この魯子敬、些かなりとも呉国が、〔天下を三分する〕
の、御役に立てばと存じて居りまする!」
「−−・・・・?」何の事だ??周瑜の思考回路には無い話だ。〔呉国〕の方なら、近い将来の話として解りもするが・・・・
「−−天下三分・・・・?はて初めて聴く言葉だな。魯子敬どのいま少し詳しく、お話し下されませぬか?」
「−−や!お聞き戴けますか!!」
得たり!とばかり、魯粛の眼が歓びに輝いた。
「若い2人、大いに天下国家を語ろうではないか!」
かくて・・・・
『周瑜ハ、コウシタ事カラ益々彼ガ非凡ナ人物デアル事ヲ知リ、親シイ交ワリヲ結ビ、子産ト季札(鄭と呉の人)ニ変ラヌ厚イ友情ヲ固メタ。』
ーーこうして【魯粛】は、その狙い通り・・・・
己の所有する〔資産価値〕を、周瑜公瑾と云う良き理解者を介して〔政治的価値〕へと転換・昇華する事に成功した訳である。謂わば、地方地主から〔名士〕へと、成り上がったと言ってよい。−−だから、学研肌の多い既成名士達とは全く異質な最新型モデルの【ヤクザな名士】が誕生したと云う事に成る・・・・。
「漢の朝廷などと云うモノは、最早存在しませんな。既に亡び去って居りまする!」
開口一番、魯粛はズバリと言って退けた。
「−−・・・!!」 これには周瑜もドキリとした。己の唯一の弱点を、グサリと突き刺されたのだ。確かに漢室は衰えは眼を覆うばかりだが、「許」には『献帝』が居る。 現に各地の群雄は、漢室復興を口々に唱え、孫策とて朝貢して官位を得るのに躍起に成っている。そして何より・・・・【周瑜自身】が、父祖何代にも渡り、高位高官を賜り、その恩典を享受して来て居る名門・大忠臣の家柄なのだった。心の何処かに、そう言い切ってしまう事への〔後めたさ〕が顔を覗かせてしまう・・・・どう割り切ろうにも、彼の生まれ育った来た環境が、心情的にも倫理的にも、漢王室の存在を否定し得無い〔限界〕の内に在ったと言える。
ーーそれに対して【魯粛の方】は・・・漢王室などとは全く無縁な、否、税を取られる側の庶民である。しがらみなど、何処を探しても有ろう筈も無い。その分、魯粛の〔時代を観る眼〕は曇りが無く、遠慮も無い。彼の論理・思考の根底には、初めから虚構でしかない”漢王室”などと云うものは除外されているのだった。
「孫伯符様は、呉王朝をお建てに成るべきだと思います!」
「面白い。聴かせて貰おう。」
身を乗り出しながら、周瑜は直感していた。
《これは、新しい時代を創る男かも知れんぞ・・・・!》
「今、江東では、孫伯符どのが、当たるべからざる勢いで覇道を進まれていると聞いて居ります。いずれ〔呉国〕が樹立されるのも、時間の問題と申せましょう。されど・・・・」
「されど・・・・?」
「されど残念ながら、その呉国には、天下を統一するまでの力は備わりません。その一方、天下の中心は矢張り中原でありましょう。今、天下で最も盛んなのは【袁紹】です。【曹操】も上げ潮ですこの両者は必ずや激突致しましょうが、どちらが勝ち残るにせよ、その勝者は中国の北半分を全て手に入れ、その威力はとても呉国が対抗し得るものでは無く成りましょう。」
「では、どうしようと言うのだ。」
「西と結び、北に対抗する・・・・即ち、
天下を三分し、2対1で北に対峙する のが呉国が生きてゆく、唯一の方策かと存知ます。」
「西とは、荊州の【劉表】と結べと言うか?」 「いえ、必ずしも、そうとは申しませぬ。当面は、長江を天然の要害として南で力を養いつつ、天下の形勢を覗い、その綻びを待って勢力を伸ばす
・・・・それが根本であるべきだと愚考いたすものです。」
・・・・後漢王朝の虚像などに惑わされず、
《天下3勢力鼎立》 を念頭に置きつつ、究極には、長江を挟んでの《南北朝構想》で臨む。
−−所謂・・・・【天下三分の計】である!!
未まだ天下混沌とする196年(建安元年)の段階で、是れを口にしたのは、天下広しと雖も、此の【魯粛】を置いて外には無い。 ※後世、天下三分の計は諸葛亮孔明の専売特許の如くに喧伝されるが、孔明はこの時まだ15歳。野(水鏡先生門下)に在って勉強中、その構想を劉備に披瀝するのは、11年後の事である。
・・・・さて【周瑜】だが・・・・生まれて初めて、己の考えた事も無い
”異質な思考”にぶち当たった事になる。殊に漢の朝廷をいとも、あっさりと否定し去った地平から、初めて物事を観る、相手の其の発想には、度肝を抜かれる思いであった。・・・・とは言え、周瑜とて内心、漢王室はもはや曹操の傀儡に成り涯てようとしている事実は認めざるを得無い。だが、だからと言って魯粛の如く一気に其処まで飛躍し、父祖らが恩顧を受けて来た漢王室を無視する心情には到達できない。・・・・論理としては在ってもよい。だが社会通念からは大きく逸脱している。自身も最後の一線では、彼の主張に反発する。
《・・・・だが待てよ・・・これは、俺個人の狭い了見であるかも知れ無いぞ・・・・》そう思える処に、周瑜の偉大さが在った。我々凡人なら、己の拠って立つ根幹の志操を否定されたら、口泡を飛ばして反論するか、そっぽを向いて相手を無視しに掛かるに違い無い。それを、ひと先ず尊重し、とにかく人物を認めて受け容れてしまう・・・周瑜の人との接し方、相手を観る眼力、そして異能・異才をも惹き付けてしまう、度量の大きさが有ったればこその出会いであった。又、その出会った人物を、出自に拘らず、正当に評価して推挙し得る、彼のケレンの無い澄んだ心こそが、三国時代を出現させた、とも言える。ーーそして、呉の地に輝く星星の中で、魯粛の存在は、やがて一際、異形な光を放って"来るべき時代"
を指し示す事と成る・・・・・。
このあと【魯粛】が呉の地へ赴く迄には未だ紆余曲折がある。その理由の1つは、やはり袁術であった。周瑜が魯粛と云う男を見出したと聞くや、周瑜ほどの者が認める人物なら間違いは有るまいとばかり、突然、魯粛を故郷・東城県の県長に任命したのである!いかにも、人の褌で相撲を取る『怪雄』らしい、あと追い任命であるが魯粛にとっては念願の仕官が叶ったとも言える。処が此の任命は、魯粛にとっては”イイ迷惑”であったらしい。
『袁術は、魯粛の名声が高いのを聞いて、彼を東城県で県長の職務に当たらせた。処が魯粛ハ、袁術ノヤル事ガ支離滅裂デアリ、共ニ大事ヲ成スニハ足ラヌト観テ取ルト老人ヤ子供達ノ手ヲ引キ、血気ニ逸ル若者達百余人ヲ引キ連レテ、南ノ方・居巣ニ
ヤッテ来テ、周瑜ノ元ニ身ヲ依セ』・・・・てしまったのである!!魯粛のこの思い切った行動は、命懸けのものであった。一族郎党あげて、もう2度と再び故郷(東城)へは戻らぬ覚悟の上であったのだ魯粛は、その部下達に宣言した。
「国家の中央は統治の能力を失い、賊徒供が横暴を働いて此処淮水・泗水の辺りも子孫を残し留めるべき土地では無くなってしまった。聞く処では江東は沃野が万里に広がり、民は富み兵は強く、難を避けるに足る土地との事だ。どうだ、私と共に彼の楽土に行き、時勢が変化するのを見守ろうとする者は居らぬか!」
肝も据わっている。英雄たらんとする気概が全身に漲って居た。この覇気と決意に、彼の部下達は皆その言葉に従った。そこで
弱い者を先頭に立て、壮健で力が有る者が、その後に付いて、男女300余人が出発した。それを知った州の役所から、一行を引き留めるべく騎馬の者が追って来た。魯粛らは歩みをゆるめると、兵器を取り、弓を引き絞りつつ、追っ手に向って言った。
「貴方達も立派な大人なのだから時勢の流れは分かるであろう。今日、天下に兵乱が広がっており手柄が有っても賞せられる事無く、我々を追跡しなくとも罰せられる事も無い。それなのに何故我々に干渉をされるのか!」
そう言うと魯粛は己の楯を地面に立て、それ目掛けて矢を放った烈迫の気合が込められている矢は皆、次から次と楯を貫通した。
「・・・・おい、どうする?」 騎馬の者達はヒソヒソと話し合ったが、魯粛の言葉をもっともだと思った。 その上、この集団全員が放つオーラの凄さでは、とても制止し切れるものでは無いと観て取ったらしい。皆つれだって引き返して行った。−−・・・これは197年(建安2年)末の事であったと思われる。何故なら、周瑜が長江を渡って東方に進み、それに同行して、一族の者達を曲阿(孫氏の本貫地・長江南岸)に住まわせたのが198年と判明しているからである。そして其の年、一代を築いた彼の祖母が死んだそのため魯粛は独り柩を守って、再び祖母の故郷である東城へ引き返していく。東城で葬儀を行うと、その儘(長い)喪に入った。その期間が長ければ長い程、徳(孝心)が厚いとされ、名士ともなると最低でも3年間は出仕しない−−この為、魯粛は丸3年近く、周瑜とは顔を合わせる事が無いのである。それ処か、名士・周瑜は服喪を尊重して、互いが音信不通の状態であったようだ。手紙を遣り取りするのも遠慮しなければならない程、当時の服喪は厳格だった、と云う事だ。
ところが服喪も3年目が過ぎようとした時、彼の元へ一通の手紙が届けられた。周瑜からでは無い。隣り邑(淮南郡成悳県)の親しい友人【劉曄りゅうよう】からのものであった。字は子揚、後漢の光武帝の子・阜陵王劉延の末裔である。 たまたま隣り邑であったとは言え、こんなロイヤルな人物とも交友を結んで居たとは魯粛もなかなか、隅に置けぬ青春時代を送って居た訳である2人ともほぼ同じ20歳代であった。
『只今、天下の英傑達が各地に蜂起いたし居りますが、あなたの資質と才能は、こうした時にこそ相応しいものであります。急ぎ帰って、歳を取られた母上を迎えられますように。東城に在って、無為に過ごされるべきでは御座いません。』・・・・と云う書き出しに続いて、具体的な出仕要請先が記されていた。
『近くでは、鄭宝なる者が、ただいま巣湖に在って1万余の衆を擁して居ります。彼の居ります土地は肥沃で、盧江の辺りの人々は多く其の元に身を寄せて居ります。我々も当然、彼に身を寄せるべきで有りましょう。その形勢を観てみますに、更に多くの人が集まりそうです。時を失ってはなりません。あなたも急がれますように!!』−−これに対し・・・・・『魯粛ハ 返事ヲ出シ、其ノ計画ニ賛成シタ。 喪ヲ終エテ曲阿ニ戻リ、再ビ北(巣湖)ヘ出発シヨウトシタ』・・・・のである。ーー何だ、周瑜との友情を放ったらかして、ヨソへゆく気か!?お前はそう云う男だったのか!!と言いたくなる。ーーだが、だが然し、そう言ってはいけないのである。実は筆者はわざと、この間(196年末〜200年半ば)に起きた、2つの
”某重大事件”を伏せて来ているからなのだ。いや、3つとも、4つとも言える。
ーー魯粛が服喪して居た其の3年間に・・・・ここ中国南部は、大激震に見舞われ、風雲は俄に急を告げ、混沌の緊急事態へと急転直下していたのである・・・・・!!
周瑜が袁術に呼び戻されたのが196年末。
魯粛との出会いは翌197年。
2人一緒に江東へ渡ったのが198年。
劉曄から手紙を受け取ったのは200年。
【周瑜】と固い友情を誓い合った【魯粛】をしてさえ、尚も彼の足を南では無く、北へと向けさせてしまう程の
"大激震" ・ "大変動"とは
一体 何か・・・・ !?
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