第82節
人呼んで 小覇王 誕生
                                    成るか、第2の国


・・・・今から丁度 400年前、ここ江東で、1つの史劇があり、そして大英雄が生まれ、華と散った。
中国史上、初の天下統一を果たした
秦の始皇帝が、〔会稽山〕に出遊(軍を率いての巡倖の旅を)し、更に山東半島に行く為に
”呉中”を通ったのだ。(不老不死の霊薬を求めて)その時、その大行列を見物していた一人の青年が、吐き捨てる様に嘯いた。
「きゃつめ、この俺が取って替わってくれるわ
!!」秦に亡ぼされた国々の一つ、楚の将軍(貴族)の孫で身長は2メートル近く(丈八尺余)大力無双(だいりきむそう)で才気鋭敏この時22歳の青年の眼光は、瞳が二つ重なった如くに、ランランと輝いていた重瞳ちょうとう「しっ!滅多な事を言うもんではない。一族皆殺しにされてしまうぞ!」  脇に居た叔父(項梁)が驚いて制止したが、内心、みどころのある奴だと喜んだ。

−−
は、人々の怨みを買っていた・・・・。
「徳は
を兼ね、功はを兼ぬ」王として史上初めて皇帝★★と云う称号を制定し、自らを『始皇帝』と名乗ったが、その中央集権の統制政治は、中国の人々がかつて体験した事も無い徹底的な「法律至上主義」であった。そもそも中国の人々は、やり過ぎをと呼んで嫌う。温もりや人の情の欠らも無い、厳格冷酷な法治支配に怨嗟の声が満ちていたのだ。翌年、始皇帝は山東で病死する。ーーその2ヵ月後、その青年は23歳の時、ここ会稽で太守を血祭にして挙兵した。そして江東の子弟8千人を率いて長江を渡ると、秦の都・咸陽(かんよう)めざして北に進撃を開始する。この時、全く同じ月に沛国はい(曹操の本籍地)で県令を血祭りにして挙兵した中年男が居た。その農民崩れの無頼漢は、下っ端役人
蕭何しょうかや、葬儀屋周勃しゅうぼつを参謀に、居酒屋のオヤジ樊會はんかい)を将軍に仕立てると、沛の子弟3千人を率いた。

−−所謂いわゆる
項羽劉邦である。・・・・・2年後、25歳の項羽は、鴻門こうもんかいで劉邦を臣従させ、26歳の時にはついに阿房宮に火を放って秦を亡ぼした。そして自らを
西楚せいそ覇王はおうと称し、彭城ぼうじょう(徐州市)に都を置く。 だが最後は四面楚歌しめんそかの中垓下がいかの戦いで破れ自刎じふんする。31歳であった
 ちから 山を抜き 気は世をおおう  とき 利あらず すい かず
 すいかざるを いかにすべきぞ
                    や 虞や なんじを いかにせん

虞美人草ぐびじんそう(ヒナゲシの花)・・・碧血へきけつ変じて原上のはなとなる。(※すいは愛馬の名、虞は愛妃の名) そして項羽は最期の伝説を残す。
ーー
司馬遷しばせん(史記)は記す・・・・。
従うは28騎だけとなった。項羽は言う。
「余は挙兵以来8年、70余度戦うも、向うところ勝たざるはなく、撃つところ破らざるなく、不覚を取った事は1度としてなく、終には天下を取って覇王となった。然るに今日この有様となった。これは天が余を滅ぼすのであって、余の武力がつたない為ではない
今、余は死を決しているから、その事を諸君に証明して見せよう余は必ず3度勝とう。敵の包囲を突き崩して見せる。敵将を斬ろう。敵旗を薙ぎ倒そう。よく見ていよ
この後の戦闘ぶりは壮絶を極める。28騎を四隊の7騎に分けると、敵数千の四面に向かわせ、大突破を敢行した。項羽だけでも3度の戦闘で、合計1千人を斬り倒したと言うのだから凄まじいまた、勇者28騎も「両騎を亡ふのみ」とされるのだから、江東の人々にとっては我が事の様に誇らしい。覇王(項羽)が振り返って一喝すると、数千の敵は「辟易すること数里」と逃げ去った。
だが、故郷の江東を目前にした長江の北岸(烏江)まで来た時、その亭長が舟の用意をして居て呉れたにも拘らず、項羽は終に長江を渡らずに、死を選んだのであった・・・・・。
          
「この天をおおい、地をどよもす覇気の凄さまじさはどうじゃ・・・・
我が孫郎・伯符はくふどのの快男児ぶりは、まこと 
    〔
覇王項羽サマ〕と、同じではあるまいか!?
「お年頃も全く同じ。我が故郷の大英雄であらせられる。」
「ウム、もしやして項羽サマの生まれ代りかも知れぬな。」
「まこと覇王様が、このお歳の頃は、こうだったに違いあるまい」

丹陽郡・呉郡・会稽郡・さらに臨海郡・建安郡が平定されようとしている今、江東・江南の人々の間では、こんな話が持ちきりとなっていた。 「そうだな。大項羽サマが覇王なのだから・・・・さしづめ孫郎どのは 小覇王 じゃな
「おう、な〜る程
小覇王うん、未だ未だお若いのだからピッタリの呼ばわれようじゃな
「もう5年・10年経った時には
大覇王サマに成って戴く為にもふさわしいではないか
ーー人呼んで小覇王しょうはおう】!!21歳孫策は、いつしか人々から、こう呼ばれるようになっていく。ーー但し、この渾名は史書のどれにも無い。「江東の虎」同様、後世の創作である。処が是が全くのデタラメかと言うと、必ずしもそうではないのだ 孫策は項羽と似ているから危険人物ですぞ!』
と、《献帝を奉戴した》ばかりの【曹操】へ、通報した者が居るのである。その者の名は
許貢(きょこう)と言う。
それまで呉郡太守を自称していた男である。出身地(会稽らしい)や字など、詳しい史料のない人物だが、どうやら《下剋上》で伸し上がっていった実践型タイプの者らしい。「やって来て、(呉)郡を乗っ取ると云々」 という一文や、「周遇(会稽の実力者)を殺した」など、ぶっそうな記述が散見される。劉遙からもその実力を認められ、そのまま呉郡太守を追認されていたようだ。・・・・ところが運の悪い事に、孫策が台頭し、奇襲して来てしまったのだ。それを阻止せんと、由拳で先遣隊の朱治と戦闘を交えたが徹底的に撃ち破られてしまう。やむなく南へ逃がれ山越の不服従民である厳白虎の元へ身を寄せる。
だが厳白虎は寧ろ孫策との講和を望んでいる風情に見てとれた 《下手をすると、自分の命が交渉の手土産にもされかねないぞ! そこで許貢は、何とか己の身を保とうと画策したのである。
ーー以下、『江表伝』よりーー
『これより以前の事、呉郡太守の許貢は、漢の皇帝に上表していった。「
孫策は武芸にたけた英傑で、項籍(項羽)と似ております。宜しく恩寵を加え京邑に召し還されますように。もし詔を受ければ京邑に還らぬ訳には、ゆきますまい。もし地方に放置されますれば、必ずや世の患となりましょう。』
・・・・処が、この密書が孫策の斥候ものみに発見されてしまったのだ。
(そんなに都合よくゆくまいから、孫策側が捏造ねつぞうし"めた"可能性の方が高いが)
孫策の斥候が許貢の上表文を手に入れて、之を孫策に示した。孫策は許貢に会見を申し入れ、この上表の事で許貢を責めた。許貢が上表などしていないと弁解するので、孫策はその場で、力のある兵士に許貢を絞殺させた。』
事の経緯を観てみると、孫策はハナから、呉郡太守と云う肝腎要の地位を、こんな胡乱で剣呑な男に任せる心算は無かったようである。言い掛かりをつけて殺してしまった!と云う事である。
だが、この
許貢殺害がのちに、トンデモナイ事態を惹起する事となるのである・・・・・と言う訳で、当時から敵や味方の区別なく、誰しもが孫策の覇気の凄さまじさに、覇王項羽』のイメージをダブらせていた事が覗い知れる。
人呼んで
小覇王】!孫策伯符の覇業は更に続く
会稽郡太守だった『王朗』を追尾し、海上を南へ500キロも大遠征した孫策は、東治
侯官
を陥して彼を捕えると、そのまま暫し其処に留まった。
この遠征の真の狙いは、揚州最南部を占める
建安郡(現・福建省)の平定であった。だが、この地は呉の本拠地から遠い上、日本の本州に匹敵する広大な面積の90パーセントがゴツゴツとした山岳だらけの地勢(武夷山脈塊)であった。その北の臨海郡と合わせると、会稽郡からの陸路進攻は不可能であり、また建安郡自体も、全域の軍事制圧はまず無理であった ーーそこで孫策は山間盆地に散在する主だった城邑の豪族達を召集して臣従を誓わせ、納税の義務を了承させた上、引き続きの統治を許した。但し、裏切ったり反抗すれば、いつでも、この大軍を率いて叩き潰すぞと云う、無言の圧力が掛かっている。わざわざ大小艦船を率いて5万の将兵で渡海して来たのは、それを見せつけておく為であったのだ。建安郡の諸豪族達は、その統制のとれた威容と孫策の人物に畏怖し、固い臣従を誓約した。
目的を達すると孫策は軍目付を残し
呉郡の本拠地に帰還。留守を預かっていた【周瑜】と再び合流した。
そしてここで
小覇王は挙兵以来はじめて、どっかりと腰を落ろした。僅か半年で、丹陽郡呉郡会稽郡の主要地域と臨海建安の南方諸郡をも制圧した今、組織としての 新たな統治機構を確立させる事が、緊急の課題となって来たのである。
・・・・とは言え、未だ未だ各地に不服従の敵対勢力が顕在する、些かも気の抜けぬ臨戦体制下の事である。
己の意に沿う新たな郡県の長官人事を発令するにしても、それによって更なる敵を作るような人選は避けねばならない。実際、その懸念のある巨大勢力が、孫策のすぐ後背に控えているのだった!
軍容数余万を備えた今でさえも、孫策はその事を片時も忘れず、常に細心の注意を払い続けざるを得無かった。 『其の者の意向』を忖度しながら、慎重かつ慇懃に事を進めるーーその、無視し得ぬ巨大な存在とは・・・・・

寿春
に在る【袁術公路えんじゅつこうろ】であった!!
今まで各個撃破してきた田舎軍隊とは訳が違う。十数年来の実戦経験を積んだ、歴戦の
正規軍を温存している。正規常備軍だけでも数万は固い。非常徴兵すれば10万近くは動員可能であろう。せっかく新国家樹立への成功の見通しが立った今、ここで袁術の怒りを買い、その正規軍に攻め込まれたら、之は一転非常事態に陥りかねない。もっとも実際の処は、袁術は北面する除州の呂布劉備から乗っ取ったばかり)と対峙しており、その全軍を南下させる事は、まず有り得ない状況ではあったが、それでも《山越》などに手を廻し、挟撃の戦略を採るであろう。そうなっても大ごとである。こちらの思惑・真意を悟られぬ様に、ネコを被り続けて措くに越した事はない。
幸い、形式的には、孫策は今でも袁術の配下部将のである。その作戦行動も袁術の認可範囲と見做されている。無論、こちらにはそんな心算は毛頭ない否、袁術から独立する為にこその大進撃なのだ。
然し、袁術の得意とするのは相手を猜疑しながら操る寝業であった。 ところが現在、袁術は己が帝位を名乗る」最終準備に気もそぞろで慢心していた。配下は全て我が威光に従うべきものと決めて掛かりたい心理状態に在るのだった。これは孫策側にしてみれば、もっけの幸いと云うものであった。折角そう思い込んでくれている相手を下手な人事発令を強行して、正気づかせるような"ヘマ"はせぬ事だ。
そこで孫策は、己の野望に疑念を抱かれぬよう配慮しつつも、平定した諸郡県の全ての人事を一挙に刷新した。
正史から判明するものは次の如くである。主要3郡については、
 
会稽かいけい太守》・・・・・孫策が兼任。
 
呉郡太守》・・ ・・・雌伏しふく時代からの腹臣朱治
 
丹楊たんよう太守》・・・・・叔父おじ呉景を復命。
これを補佐すべく軍部の重鎮
程普ていふには呉郡の都尉を命じ、「銭唐」に役所を置かせて統治させる。
一段落した後は
丹楊郡の都尉を任じ、「石城」で統治させる。
会稽郡東部
都尉には、父・孫堅の時代から臣従した、地元出身・ゼイ祉(くさかんむりに内)の兄、ゼイ良を任命。 呉郡婁(ろう)の長には、
呉の四姓のひとり顧雍を当てて、過去の軋轢の氷解を実現。  又、15歳に成った弟の孫権には、呉郡陽羨県の県令を命じてデビューさせている。更に後日には、豫章郡太守》に叔父の孫賁を 任命。また、この豫章郡が南北に余りにも広大であった為、これを分割して南部にも盧陵郡を作り、孫賁の弟の孫輔を太守に任じていく。ーー正史に記されているのは以上だが、無論これ以外、諸県令人事は多数発令された筈だ。

さて、この一連の人事で着目すべきは、〔丹楊太守〕の呉景の扱いである。ちなみに、呉景はもともと丹楊太守であったのだ。それを任命して派遣したのは【袁術】である。・・・・だが『劉遙』によって追われ、そのままになっていたのである。だから、その呉景が再び丹楊太守に帰り咲いたと云う事は、孫策はーー→
袁術の為に失地を回復したと言い得る訳なのである。・・・・詰り、私(孫策)の一連の進撃は、飽迄もあなた様の"家臣"としてのもので御座います。決して野心など抱いてはおりませぬ・・・と云う体裁になる。 カモフラージュにはうってつけの人事を成している。念には念を入れ、孫策はこの直後、この「呉景」と「孫墳」コンビを戦陣から離脱させ、寿春の袁術の元へ戻らせ、戦況報告をさせるのである。無論、袁術はこの2人を手元に留め置いて帰さぬが、幾分かは疑念を和らげた筈である。こうまでして相手の動向に気をつかわねばならぬ程袁術の存在は巨きく、現時点での彼我のパワーバランスは微妙であったのだ。こんな状況を脱し、何の気がねもなく独立を宣言する為には、更に版図を西に押し拡げ己の実力を強大化するしかない!それ(パワーバランス)を、まざまざと感じさせられる大事が、この直後に起きた。
何と・・・・袁術が
周喩を寿春に呼び寄せる命令を下してきたのである!!当然【袁術】は、孫策と周喩の固い絆を知っている筈である。ということは、「お前の友人(義兄弟)を人質として差し出せ!」と言われたに等しい。流石に袁術も、そこまで露骨には言ってよこした訳では無いが、彼一流の姑息な方法をとったのだ。ーー詰り孫策の発令した人事など全く無視して、己の勢力を江南の地に割り込ませて来たのである。それまで丹楊太守に任命していた周尚しゅうしょうを突如解任して、従弟いとこの「袁胤えんいんを現地におくり込んで来たのである。孫策が苦労して平定した土地に、ポッと親族をすべり込ませ、濡れ手で泡のオイシイ話であった。言う迄もなく、周尚は周瑜公瑾の叔父に当たる。そしてこの周一族の若き当主が公瑾なのだから、袁術は周尚と周瑜の2人ともを寿春に召喚させようとしたのである。実質、孫策の離反を牽制する為の
〔人質効果〕がある上に、できれば有能の誇れ高い周瑜の方は己直属の配下部将に取り込んでしまいたい・・・・やはり袁術は、孫策の野心を猜疑し続けていたのだ

一筋縄ではゆかぬ怪雄袁術の本領が、遠廻しに孫策を苦しめる。 「なあに、袁術など、どうとでもあしらってやるさ。それより俺は、これを逆に利用して将来に備える心算だ。だからお前は心置きなく、前ヘ前へと進んでおいてくれ。折を見て、必ず抜け出して来るから。」
スマンと頭を下げる孫策に向かって、周瑜は明るく笑い飛ばしてみせた。ーー『お断りする!』と、袁術の要請を拒絶する事も出来るが、前述した如くのパワーバランスの現況を慮んばかれば、それは必ずしも得策とは言えぬ口惜しいが、ここは一番隠忍するしかなかった・・・・・。
               
案の上、寿春に着いてみると、袁術はさっそく周瑜に将軍職を用意して、己の直属部将になるようにと持ち掛けて来た。
「有難いお言葉では御座いますが、私は未だ21歳の若輩じゃくはいの身でございます。先輩諸将を差しおいて、そんな大任に着くなど心苦しゅうございます。それに私自身、これまでさしたる功績一つも無く、とても自信が御座いませぬ。この先長くお仕えする為にも、一から出発して徐々に力をつけ、いずれあなた様のオメガネに叶った時にこそ、その任を拝命いたしとう御座います。つきましては、わが故郷に近い
居巣(きょそう)県の長の任を是非お与え下さいまするようお願い申し上げまする。」
「・・・フム、なかなか殊勝な心構えじゃな。よし、願いは叶えよう。だが、本当に居巣県長でよいのか?」
「そこからスタートして、いずれはどこかの郡太守を命ぜられるよう励みたいと思います。」
「聴いたか皆の者!臣たる者は、この若者の如き心映えでなくてはならぬぞ!」
ーーかくて周瑜公瑾はしばしの間、孫策とは長江をへだてた淮南わいなんの地で、来たるべき日に備える事となったのである。ちなみに居巣きょそうとは、「寿春」から南東に150キロ、長江北岸の歴陽まではほんの数十キロの地点に在る。その気になれば、いつでも渡江し得る位置を、周喩は先ず確保した事になる。そして周喩はこの地で、掛け替えのない、三国志のキイパーソンとも言える、或る重要人物と巡り会う事になる・・・・。
周瑜が袁術の元へと去ったこの時期、然し孫策の幕下には新たなブレーンが参入して来てくれてもいた。参謀としては既に天下の大名士たる
張昭」・「張紘」の2張が在ったが、更に張紘と同郷(広陵)の秦松しんしょう陳端ちんたんが、参謀として加わってくれたのだ。
秦松の字は「文表」。これ以後、呉のブレーンを代表する人物として、正史には7ヶ所名前が現われる時は、全て張昭と列記される事となる。
陳端の字は「子正」。彼は早逝したため、正史には2ヶ所の記名しかないが、初期には貴重な参謀となった。また末席ながらかつて袁術の命により、仕方なく戦い合ってその一族の殆んどを戦死させられた『陸氏』=(呉の四姓)の陸績も、年10余歳でありながら幕僚に取り立てられていた。これは明らかに、怨念を抱いていた陸氏への慰撫的人事であった。
・・・・ここで、その「陸一族」で、次の時代に、呉の総司令官となる
陸遜に言及しておく。陸績りくせきの父は陸康りくこうで一族の当主であったが、孫策と戦い(盧江戦で)戦死した。この時陸績は未だ幼児だった為、彼よりも数歳年上であった陸遜が一族を取り纏めていた。この陸遜は一族の怨みを忘れる事が出来ず、何と21歳に成る時までの10年余に渡って、2代孫策・3代孫権からの出仕要請を、頑として受け容れ無いのである。従って孫策時代には「陸遜」の名は一ヶ所も出て来ない・・・・・。

さて、これら孫策の誇る
4大ブレーン(張昭・張紘・秦松・陳端)は、この時、或る重大な提案をして、それを主君(孫策)に行わせている。ーーそれは、漢の朝廷(曹操が許に奉戴している献帝) に対する貢朝であった。
孫策ハ、奉正都尉ほうせいとい劉由りゅうゆうト、五官掾ごかんえん高承こうしょうトヲ使者ニ立テ、上章文ヲたずさエテきょニ行キ、つつしンデ土地ノ産物ヲ献上サセタ。』・・・・
これは当時の重要な《外交》の因子である実力を朝廷から認めてもらい、将来、正式な将軍号や官位を得る為の布石となる。袁術からの独立を果す時、大義名分が立つ事ともなる。裏返せば、孫策の自信を示すものとも言える。
この時宜を得た外交政策は、翌年早くも効果を現わす。漢の朝廷(実質は曹操)から詔書が下されるのである。又孫策は翌々年(建安3年)にも大々的な朝献を行ないその見返りに正式な将軍号を獲得する(詳しくは別章に述べる) この折、朝廷は使者に劉宛りゅうえんつかわし、孫策に錫命せきめい(天子から使者が功労のあった臣下に遣され、天子からの命や礼物が下賜される儀典)を加えたが、使者の役目を終わった後で、劉宛は人々にこう語る。
私が観るところ、孫氏の兄弟はそれぞれ優れた才能と見識とを備えてはいるが、みなその禄祚(さいわい)を完う出来そうもない。ただ中弟の孫孝廉(孫権)だけは、人並すぐれた容貌をもち、骨相も非凡で(形貌奇偉けいぼうきい、骨体つねならず)、高貴な位にのぼきざしが見え、年齢の点でも最も長寿を得るであろう・・・・。(諸兄よ)私のこの予言を覚えておいてみてくれたまえ。」ー−『正史・孫権伝』ー


ここでさいごに、その
『孫権』について観ておこう。
孫権 仲謀この時、15歳に成っていた。当時は大体15歳が成人の目安であったようだ。兄孫策は腹臣の朱治に命じて孫権を孝廉に推挙させている。
(孝廉こうれんとは、郡の太守がその郡内の優秀な人材を朝廷に推挙する時、この称号を与えて都にいかせる、前漢・武帝以来の制度で孝順廉潔こうじゅんせいれんの意。尚、州の場合秀才しゅうさいと言うが、後漢では光武帝劉いみなを避けて=畏敬して〔茂才もさい〕と呼んだ。)ーーむろん孫権の場合は"箔"をつける為の成人の儀式である。こうしておいてから、前述の如く、兄の孫策は彼に「陽羨県」の長の任を与えたのであった。この弟は、兄・孫策にとっても自慢の種でありその器は小覇王の眼から見ても、今後非常に楽しみなものと映っていた。策・権・翔・匡4兄弟の下の2人は未だ幼くて器の大小は判らぬが、孫権はその性格など、よく自分に似ていた。・・・・いや度量の広さと思いやりの深さなどでは、ひょっとすると自分以上かも知れぬとさえ思える事がある程だった。
だから孫策は、できうる限りこの弟を帷幕に常勤させ、参謀や将軍達と議論を交させたり、意見具申させたりして、人の上に立つ者としての育成を図っていたのであった。そして彼の自覚を促す為に、
賓客達を招いて宴を開いた時などは必ず孫権の方を振り向いて、「これらの諸将は皆、お前の部将なのだと言うのが常であった。そして学問もしっかり身につけておくようにと、1つ年下の『胡綜』を門下循行の官に就け、孫権の学友とした
胡綜こそうの字は偉則いそく。いずれ、何でも直言できる無二の腹臣として、軍政に重きをなし、公文書の殆んどを起草する重臣となる。 胡綜ハ酒好キデ、飲ムト大声ヲ挙ゲ、傍若無人ニ振舞ッテ、杯ヲ振リ廻シ、左右ノ物ヲ殴リツケタリモシタ。然シ孫権ハ彼ノ才ヲ惜シンデ、其レヲ責メル事ガ無カッタ。』
孫権自身、晩年は酒乱気味となるから、主従・相身互い身の観もあるが、シラフの胡綜は終生、よき孫権のアドバイザーであり続ける。特に、張昭との抜き差しならぬ反目で、主君と最長老とが、まともで無い”いがみ合い陥った時・・・・両者ノ間ヲ和ラゲ、決定的ナ亀裂ニマデ至ラセナカッタノハ、胡綜ノ努力ニヨル処ガ大キカッタ。』・・・・と、云う関係になっていく。

こうした孫権の元へ、裸一貫で駆けつけた者がいた。
潘璋はんしょうという。字は文珪ぶんけいといったが、
気ままな性格で酒を好み、家は貧しくて、常々ツケで酒を買い、掛け取りが家までやって来ると、いつも将来金持に成ったら還してやると言っていた という男だった。孫権はそれが気に入った。 「家来にしてやるから、自分で兵隊を集めて参れ。そしたらそれを、そっくりお前に呉れてやるぞ」 「有難し」・・・・忽ち百人を集めて部隊長となった。
ーーよく
合わせ呑む”と言われるが、この潘璋はんしょう」は《》の部類となってゆく。 いずれ偏将軍・振武将軍・平北将軍・ついには右将軍にまで軍功を重ねてゆく。だが、出仕以前の貧乏生活が余ほど骨身にこたえていたのであろう。
潘璋はその性格が粗暴であり、彼の出す禁令はよく行われた。大きな手柄を立てる事に心を注ぎ、配下の兵馬は数千に過ぎ無かったが、その軍が向う所どこでも1万の軍勢の様な働きを示した。征伐が一段落すると、すぐさま軍の管理する市場を開き、他の軍でも不足する物品は、みな潘璋の市場でそれを補った。
(軍の名の下に、各部隊が商売をしていたとは面白い)ただ彼は贅沢を好み、晩年にはいよいよそれがひどくなって、服飾物に身分不相応の物を用いた。役人や兵士の中に豊かな者が居ると、殺害してその財物を奪ったりするなど、縷々不法を犯した。監察の役人がこの事を取り上げて上奏したが孫権は彼の手柄を惜しんで、いつも大目に見て、罪を問わなかった
。』・・・・裸一貫から、成り上がっていく部将の一つのタイプとしてこう云う人物が居るのも愉快だ。 だが寒門(貧民層)の出だからといって、全ての部将がこうである訳ではない。孫権はこの時期、イの一番に兄に願い出て、慎しみ深いの人物をも得ていたのである
周泰しゅうたいである。字は幼平ようへい。彼は孫権の一部将として、このあとすぐ、己を省みぬ行動を淡々と実行する事となる。


旗挙げから半年、
小覇王孫策伯符は、こうした様々な出来事・人物を吸い寄せ、また吐き出しながら、恰も大竜巻の如く、南の大地を駆け抜けていく。−−そして此の頃、彼の
”断金の友”【
周瑜】も亦・・・・
度外れた、或る人物〕との邂逅を迎えようとしていたのであった。その男】こそは・・・・時代の陋習を切り裂く、常識外れの型破り人間・・・・戦乱の闇夜に、ギラリと独自な輝きを発する、


異形いぎょうの星であった・・・・!!
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