【第81節】
〔会稽〕・・・・天下ノ士ヲ会メ稽マル
『稽』・・・・禾(作物)と耆(長くたくわえる)で、久しく留め置いた収穫物→→計(会わせてはかる)つまり、寄せ合わせて考える。秦の始皇帝25年、呉・越の地を以って【会稽郡】と成す。のち浙江(せっこう)より南を言う・・・・人と人とが出会い、力と智恵を合わせる所ーーその地名の由来どうり、この《会稽郡》で孫策は、次々と新しい出会いを迎える事となる。
《建安元年》・・・と年が新たまった。『三国志』の象徴的年号となる「建安年間」の始まりである。西暦で言えば196年に当たる。だがこの時、その改元をした漢の朝廷(献帝一行)は、さすらいの旅の途中に在った。前年の7月に「長安」を脱出したものの、目指す「洛陽」に辿り着くこと叶わず、途中の安邑で立往生していた。この後、洛陽の廃墟に辿り着くのが7月。8月には曹操が〔献帝奉戴〕を実行するーー時まさに、その7月ーー・・・
孫策軍は、〔会稽郡〕へと進攻した!!その会稽郡太守には、4年前から【王朗】が任命され(長安に在る漢朝廷から)私利私欲の無い善政を敷いていた。
【王朗おうろう】・・・・字は景興・・・・・一代の名士として、正史中にも「伝」がたてられ、総じて評価は高い。
(尤も、魏の功臣として、魏志の中に扱われているのだから、低い筈もないが)
除州東海郡炎卩県の人で、若くして経書に通じていたので「郎(中)」に任じられ、輜丘県の長に任命される。霊帝時代の砌であった。当時は三署(五官中郎・左中郎・右中郎)の郎から県長を任命するのが例とされていた。詰り王朗は若くしてエリートコースに乗る、有望な人材と認められていた訳である。大尉の楊賜(ここだけに登場・不明な人物)を師と仰ぎ、彼の死で官を棄て喪に服する。その後『考廉』に推挙され、三公府に招聘されたが応じなかった。大混乱している中央政界に首を突っ込む気はしなかったのであろう。そこで地元の徐州刺史陶謙の治中となった。陶謙は王朗を高く評価し、茂才に推挙。それに応えて王朗は、別駕の趙cらと共に進言した。
「『春秋』の道理からすると、諸侯に対してこちらの意志を通すには、勤皇ほどよいものはありません。今、天子は遥か西の都におわします。宜しく使者を派遣して王命を慎んで賜わるべきです。」
そこで陶謙は趙cに上奏分と貢上物を持たせ長安に行かせた。当時、交通は途絶されていた為、間道づたいの難行であった。
それだけに献帝は「其ノ心ヲ嘉シ」大感激して下命した。陶謙には安東将軍号を授け、徐州刺史から徐州牧への昇格を与え、栗陽候に取り立てた。更に使者の趙cを「広陵太守」に、そして王朗を会稽太守に取り立て、任命したのである。193年の事であった。
こうして今から4年前に、〔会稽郡太守・王朗〕は、正式に誕生したのであった。(趙cは乍融に謀殺される。)
王朗は赴任するや秦の始皇帝像の破壊を命じた。会稽では古来より始皇帝の木像を、夏(か)王朝の禹(う)と同じ社(やしろ)に置き敬まっていたのである。然し王朗は、始皇帝は徳無き暴君と判断していたので、これを取り除かせ、自身は郡民を慈しんでいった。
『王朗は高い才能と広い学識を持っていたが性質は厳格できちんとしており慷慨家(義憤の持ち主)であった。非常に礼儀正しく謙虚で慎ましかった。婚姻による親戚からの贈物さえも受け取らなかった。又、恵み深いと云う評判があるくせに、実際には貧しい者を哀れまぬ連中を、常に非難していた。だから王朗自身は、財物を施す場合、さし迫った者を救う事を最優先した。』
又、名士たる王朗の名声は既にこの時、全国的なものとなっており、各地の名士との書簡のやりとりが数多く記録されている。それは恰も”名士間ネットワーク”が、全国展開していく軌跡と一致するかの如くであった。そんな中でも若い時から特に親しい交わりを持つ相手が居た。かつて”旧君の諱(いみな)論争”で世に知られるキッカケともなった人物ーー【張昭子布】である。今、張昭は孫策から師とも友とも仰がれ、その幕僚中で最も重い地位を与えられている。皮肉にも2人は今、敵と味方に別かれ、王朗はその大軍の前に独り立たされようとしていたのである・・・・。
だが、そんな王朗にとって何とも心強い部下が居てくれた
【虞翻ぐはん】である。字は仲翔。功曹(副官)であった。
地元会稽郡は余姚の人である。 折悪く、孫策の大軍が進攻して来たこの時、『虞翻』は父親の喪に服していた。だが一大事出態とあってはジッとしては居られなかった。主君(王朗)の心痛を思うと矢も楯もたまらず、喪服を着けたまま、郡役所の門までやって来た。・・・・然し、世の不文律として、喪服中の者は公の場には出られない。ましてや役所内へ入るなど、とんでもない不倫・不徳となる。その姿を見つけた誰かが王朗に知らせたのだろう。すぐに王朗の姿が現われ、入って来られない虞翻に向かって、主君みずからが歩み寄ろうとした。
それを見た虞翻は、その場で喪服を脱ぎ捨てるや、脱兎の如く走り寄って王朗の手を握った。そして太守の部屋で進言した。
「今、孫策の軍が郡境に迫り来ておりますがその勢いと兵力とを観ますれば、これを力で防ぐ事は不可能で御座います。今は一時の屈辱に拘泥せず、その鋭鋒を避けるのが最良の策でございましょう!」
「・・・・・・・・」 だが王朗の首は縦に頷かなかった。
「儂は漢の朝廷から、この会稽を任されているのだ。勢いが不利になったからとして、預かっている使命を放棄してよいものだろうか・・・儂は飽まで城邑を保持すべきであると考えておる。」
「解りました。そのお考えも亦、尊しと申せまする。出来る限りの力を尽しましょう。」
〔呉郡〕と〔会稽郡〕とを画する天然の国境線が、「浙江」と呼ばれる大河であった。(永建四年・129年に決定された)現代中国・浙江省の所在地である。王朗側は、その浙江の河口近く、南岸の「固陵」に兵力を集中、その城砦を強化して孫策軍の進攻を喰い止めた。ーー破竹の進撃をして来た孫策軍にとって、これが意外な苦戦となった。数度に及び、浙江を渡り戦いを仕掛けるのだが、その都度押し戻され、いっかな橋頭堡を確保する事が出来無い。要は渡河用の船舶の数が、巨大化した兵力に追いつかぬから、小出しの戦闘しか出来ないと云う事であった。困った。
ここで、呼び寄せたばかりの【孫静】(叔父)の存在が、
大きく物を言った。この地の地勢には明るい。
「王朗は要害を背にして城に立て籠っておるのですから直ぐにそれを陥落させる事は困難です。査涜(さとく)は此処から南へ数十里の距離に在り、道の要衝となっております。”固陵”は放っておいて、敵の内部に足場を築いてしまうのが宜しいでしょう。これぞ〔その備え無きを攻め、その不意を突く〕と云う戦法です。私が自ら軍勢を率いて先鋒となりましょう。必ず打ち破る事が出来ます」
「宜しい!(お任せ致す)」
そこで孫静は、軍中に偽の命令を出した。
『このところ連日の雨で水が濁り、兵にはそれを飲んで腹痛を起こす者が多い。急ぎ数百個の瓶(かめ)を用意して、水を澄ませるよう指示せよ。』
ーー陽が暮れると・・・・其の瓶を並べ、篝火を燃やして、いかにも
軍全体が休養して動かぬ体を演出した。こうして敵の眼
を欺くと、孫静の別動隠密部隊は、闇夜に紛れて査涜への道を進んだ。そして高遷(固陵の東)に在った敵の軍営を急襲した。急報に驚いた王朗は、もと丹楊軍太守であった周マらに兵を割いて与えると、援軍として出撃させた。(曹操のデビュー時代に、丹楊兵を与えて援助した、あの周マである。)ーーだが然し、その周マを待ち構えていたのは・・・・孫策の本軍であった。
「しまった、嵌められたか!」そう叫ぶ暇も無く救援軍は完全に包囲され、周マ自身もその首級を挙げられ、潰滅した。
その結果・・・・王朗軍唯一の抵抗拠点だった固陵城は、側背からも攻め立てられる事態に追い込まれ・・・・やがて陥落した。その後、小さな抵抗はあったものの、この一戦によって事実上、会稽平定戦は決着をみたと言ってよい。そして其の軍功第1位は紛れも無く「孫静幼台」であった。(兄・孫堅の字は文台。)そこで孫策は叔父である孫静を奮武校尉に上表した。そして更に重要な任務に就いて貰おうと考えた。
「そう思って戴けるのは有難い事じゃが。・・・・じゃがの伯符どの、ワシャ兄貴と違って昔から戦は苦手じゃ。今回は偶々、儂の知識がお役に立ったが、ワシャ、故郷で昔なじみの者達とのんびり暮している方が性に合っておる。今迄どうり故郷に留まって、その守りに当たりたいんじゃよ・・・どうかな?それで容して貰えんかなあ〜〜!?」 「そうですね。一族の故郷をしっかり固められるのは、やはり叔父上しか居られませぬな。」
孫策は苦笑まじりに、その申し出を容した。登場した時と同様、「孫静」と云う人物は飄々として、史劇の表舞台から故郷へと帰っていった。ーーそして・・・・家で静かに永眠する迄、二度と再び、我々の前に登場する事はない・・・・。
一方、敗れた王朗・・・・虞翻のお陰で死地を脱して、海の上に在った。もともと最初から退避を進言し続けていた【虞翻】である。いざの時に備えてあった。だが虞翻の計画とは、大きく喰い違っている。彼の進言では、海上に脱れた後は北上して広陵へ出る筈であった。・・・・然し今、船団は南下していた。王朗が、或る『予言書』に固執した為であった。そのタイトルまでは伝わらないが、予言者は判っている。その名は「王方平」、通常「王遠」と呼ばれる。
人間ではない。神仙・・・・詰り、伝説上の【仙人サマ】なのである。ーーその予言書の中に、
〔急ギ来タリテ我ヲ迎エヨ。南岳ニ捜スベシ。〕・・・・と云う
一篇があったのだ。だから、その南岳なる地へ行く!と
言い張った訳なのだった。その為、船団は広大な揚州の最南端・建安郡まで来てしまっていた。浙江の河口からは500キロ以上
も海上を南下し、侯官(東部侯官・東治とも)の港に入った。
《ヤレヤレ、とんだ僻陬(へきすう)に迄、付き合わされてしまったわい》
と思いきや、王朗は上陸しようとはせず、「交州に身を寄せる!」と言い出したのである。ここから更に1000キロ、合わせて1500キロ南下して、ベトナム近くまでゆく、と 言うのである!
流石に虞翻も怒った(諌めた)。「あれは出鱈目な書物に過ぎませぬ!交州には南岳も在りませんのに何処に身を寄せようとされるのですか!!」
そう虞翻に言われて王朗は思いとどまった。−−これは『呉書』と云う三流史料(裴松之が紹介)に記される逸話である。・・・・が、王朗が侯官(東治)に逃れたのは史実であり、後漢末から三国時代・両晋時代における「神仙思想」・「道教信仰」が、どれ程の影響力を知識人階層に与えていたかを髣髴とさせる歴史の傍証と言えようか?
主君(王朗)を思い留まらせてホッとしたのも束の間、今度は侯官の長官である「商升」が城門を閉じ、王朗の入城を拒絶したのである。それはそうであろう。行き当たりバッタリで突然やって来た敗兵とその将を、おいそれと抱え込む訳にはゆくまい。第1、王朗を迎え容れると云う事は明確に《孫策の敵になる!》と宣言したも同然となってしまう。今は未だ対岸の火事だが、もしかしたら攻撃目標にされるかも知れないのだ・・・・。
そこで又、虞翻が一肌脱ぐ事となった。
『虞翻ハ長官ノ元ニ赴イテ説得ヲシ、ヤット城内ニ入ル事ヲ認メラレタ。』
(その説得の言辞までは正史は載せていないが・・・痩せても枯れても漢の朝臣である事と、「大名士」を救えば名望を得られる事、そして、此んな所まで孫策はやって来ない点を強調したのであろう。)
やがて其処(東部侯官)に身を落ち着けると王朗は、やっと〔物の怪〕から正気を取り戻す。
《こんな我が儘な自分に、よくぞ今迄ついて来て呉れたものだ。
もう充分じゃ。これ程の人物を道連れにしたとあっては、末代迄の物笑いだわい・・・》 王朗は虞翻に向かって言う。
「あなたには年老いた母上が居られる。(会稽へ)戻られるべきだ。」
この一言は、好意的絶縁状・・・・詰り、自分との主従(君臣)関係を絶ってもよいぞ、と告知した事に外ならない。父親を失って服喪中だった【虞翻】は、後に遺された母親を思い、王朗の厚意に従って、独り故郷の会稽郡へと帰っていく。
《−−虞翻こそは、本物の会稽人じゃな・・・・!!》
その、去りゆく後姿を見送りながら、王朗はしみじみと、会稽時代の2人の間柄を思い出す。とにかく【虞翻】は、会稽人である事に物凄い誇りを持ち、そして又、会稽については知らぬ事の無い程に詳しかった・・・・。
「ひとかどの人物達は、あなたの邦(会稽)を讃美して昔から英俊が多いと申しておるのであるが、ただ京畿(都)から遠く離れておる為に、彼等の備える徳の芳りが広く伝わる事が無いのだとも聞いた事がある。功曹(虞翻)は常々、古(いにしえ)を好み、博く万事に通じておられる。そうした立派な人物の事を知っておられるだろうか?」 新米の郡太守であった王朗は、地元出身の虞翻にレクチャーを求めたものであった。
「会稽と云う土地は、天上では牽牛(彦星)の星座に対応し、地上の方位としては少陽(東方)に位置いたします。東は大海に連なり、西は五湖に通じ、南には果ても知らぬ土地が広がり、北は浙江をみぎわとなし、南山がこの地に在って州の鎮めとなっており、昔、禹王が此処に群臣達を会めた事から会稽と命名されたのでございます。山地には鉱物や木材や鳥や獣が満ち溢れ、河海からは魚や塩や真珠貝が豊富に採れ、大海や山岳の精気が凝り固まって、非凡な俊才が数多く生み出されるので御座います。そうした理由で、忠臣達が行列をなし、孝子達が路地ごとに居り、賢婦人に至る迄、この地に生い出でぬものとてございませぬ。」
優秀な人材登用を願う王朗は、笑いながら言った。「地勢の事は申す通りであろう。立派な人物や婦人達の名を詳しく聞かせては呉れまいか?」ーーするや・・・「遠い昔の事は申し上げますまい近頃の者の事を少しばかり申し上げましょう。」 と前置きした後、出てくるわ出てくるわ・・・・単に名を羅列するだけでは無く、其の出身地は勿論、その人となりや業績・名声を要約して理路整然、立て板に水の如くであった。・・・・・
「董黯・陳囂・鄭公・鐘離意・陳宮・費斉・趙曄・王充・基母俊・孟英・梁宏・駟勲・鄭雲・伍隆・任光・黄他・王脩・魏朗・楊喬近頃では故(まえ)の大尉の朱雋は天与の聡明さを具え、恭み深くも万事に精通し、神の如き武略でもってその計り事は決して外れる事はなく、軍を動かす時には事前の計略どうりに全て事が運んで、さればこそ董卓に対して挙兵した天下の義軍は、朱公(朱雋)を首に戴きたいと願ったので御座います。上虞の女子の曹娥は父親が川に溺れて死ぬと、みずからも水に身を投げて死に、それを讃える石碑が建てられて、その事跡が記され輝かしくも人々に広く知られ渡っております。」
余りにもスラスラと出て来るものだから、王朗は一寸意地悪い質問をしてみた。
「全く申される通りではあるが、潁川には巣父や許由といった俗世の規範を超越した人物がおり、呉郡には太伯のような周の家を継ぐ事を3度に亘って辞退した人物がいた。貴方の郡にも立派な人物は多いが、巣父や許由、太伯を超えるものではなかろう? すると虞翻は、一段と胸を張り言ったものだ。
「元より、只今申し上げましたのは、近頃の人物についてだけなのでございます。もし上古の時代に立派な事跡を残し、或いは節操を貫き通しました人物を挙げますならば、勿論そうした人物にも事欠きません。」
そうして次々と具体的な人物を挙げてみせた。君位を譲って巫山ふざんの洞窟に隠れたが、人々がその仁徳を恭い、
煙でいぶり出して強制的に王位に就けた「越王の翳(えい)」。
「これは呉の太伯のレベルではないでしょうか。然も、太伯は別の土地からやって来た主君であって、その土地の者では御座いませんでした。」
又、別の地からやって来た主君なら、大いなる禹王が、この地に葬られていると言う−−そして、ここが肝腎なところなのだが・・・恐らく、虞翻自身が最も尊崇する2人の人物の生きざまを挙げるのだった。
のち、〔狂直〕とまで評される、虞翻の『ヘソ曲り人生』の原形が、ここにあるのかも知れないのだから、筆者としては捨てる訳にはゆかない・・・・「艱県大里の【黄公】は、暴虐の秦の世に在って己を潔く持し、漢の高祖が即位した時、再三彼を召したのですが一度も招き寄せる事が出来ず、恵帝が恭み礼を低くして招いた時、はじめて出仕して天下の危難を救いました。」
・・・・・陶酔する様な虞翻の瞳であった。
「徴士であった余姚出身(虞翻の出身地と同じ)の【厳遵】は、漢の王朝を中興すると、まげて光武帝の元にやって参りましたが、頭を真っすぐ上げたまま、拝礼をする事もなく、その心意気の盛んさは、雲や太陽をも凌ぐばかりでありました!!」・・・・同郡同県出身の大先達の生き様を語る虞翻は、まるでそれが我が事であるかの如く、少年の様に瞳を輝かせていたものだーー
「これらの人々の事は、みな典籍にも記されて明々白々なものであり、巣父や許由の場合の如き、単なる言い伝えで経書典籍に見えないものと、何で同一視できましょうや!!」
「ウム、美事な弁舌じゃ!真の賢者たるあなた以外に、誰がこうした人々の事跡を顕彰する事ができようか。太守はこれ迄に、この様な言葉を聞いた事がなかったぞよ!」 ・・・・《会稽典録》より
この己を高く持すと云う1点こそが、【虞翻仲翔】の一生を貫く。早くも齢12歳の時に、世にエピソードを残していた。
・・・『呉書』によれば・・・虞翻は若い時から学問を好み、己を高く持していた。年12の時、彼の兄を訪ねた人があったが、虞翻の所には挨拶にやって来なかった。すると虞翻は、後に手紙を送って言った。
『私は、琥珀は腐った塵芥は引きつけず、磁石は曲った針を受けつけぬ・・・・と、聞いております。こちらにおいでになりながら、お訪ねを戴けなかったのも不思議では御座いません。』
態々あとで手紙を送りつけるとは、何たる自己顕示欲!又その内容の何と傲岸不遜な事か!然も12歳のガキの分際で・・・だがこの位でなければ一流とは見做されない?手紙を受け取った人物は呆れる処か、その内容の非凡さに驚き、これ以後、彼の評判が高くなった・・・・と記す。
去りゆく【虞翻】・・・・・だが、そこで彼を待っていたのは、想いも寄らぬ”孫策の厚遇”であった!母の居る故郷・会稽へ着いた途端、孫策から丁重なる使者がやって来た。
『現在の事態に、貴方と力を合わせつつ対処してゆきたいと思う私があなた程の方を郡の役人の一人として遇するなどとは思って下さらぬように。』ーーそればかりではない。何と孫策みずからが虞翻の屋敷を訪れた上、友人としての礼で遇し、即座に功曹(副官)として任命したのであった。
・・・・後世ーー【虞翻ぐはん】と謂えば・・・・
《古えの狂直》
『性 疎直ニシテ 数々酒ノ失有リ』だけが有名になってしまい、《まっ直ぐ過ぎて、気配りの足らぬ人物》 の代表選手の様に扱われる。だがそれは3代目「孫権」との人間関係においてであり(最終的には死刑寸前の流刑に処される)
孫策時代は寧ろ健気な程である。史書の行間からは、男意気に感じて働く彼の姿が浮かび上がってくる。
〔その1〕・・・・孫策は戦さのあい間に、好んで馬を馳せては〔狩り〕に出た。虞翻はこれを諌めて言う。
「太守さまは、烏合の衆を用い、離合集散して儘ならぬ兵士達を駆り立てて、夫れ夫れに、力一杯の働きをさせておられますが、この点では漢の高祖も、太守様には及びません。ただ、軽々しく外出をされ、お忍びで出歩かれます事については、お付きの者達には警備を整える余裕も無く、役人や兵卒達が、常々心を苦しめておる処で御座います。人の上に立たれる者は、重々しく振舞われねば威厳が備わらず、それ故、白い龍も魚に姿を変えていた時には漁師の豫且(よしょ)に苦しめられ、白帝の子の蛇も油断しているうちに劉季(漢の高祖のこと)に殺される事になったのです。どうか些かなりともお心配りを戴けますように!」
孫策は張昭にも張紘にも言われている。余程、頻繁に出掛けたとみえる。但し孫策には、これが重要なプライベートタイムであったのだ。
「あなたの言われる処は重々もっともだ。ただ時に、心中に思う処があって、しかつめらしく坐っていると心が鬱屈して来るのじゃ。裨ェ(ひじん)(春秋時代の鄭の大夫)の様に、野原のまん中で将来を思い巡らせたいと考えて、野外に出るのだ・・・・」−ー『正史』−−
〔その2〕・・・・孫策は山賊たちを討伐した際、その首領を斬ると、側近の者全員に手分けさせると賊徒達を追わせた。
あとに残った孫策が独りで馬を歩ませている時、山中でバッタリ虞翻と出会った。 「側近の者達は何処に居るのですか!?」
「みな賊を追って行かせた。」
「それは危険でございます。」
「この辺りは草が深うございますから、突発的な事が起こりました時、馬では急に引き返したり鞭を当てて逃げたりする事が出来ません。馬は手綱で牽かれ、弓と矢とをしっかりと持たれて、徒歩で行かれますように。私は矛が巧みでありますので、先導させて戴きます。」文弱な書生ではなかったのだ。開けた場所まで来た所で、孫策に馬に乗るように言う。
「あなたには馬が無いが、どうするのか?」
「私は歩行が達者で、1日に2百里(80キロ)を歩く事が出来ます征伐に参加して以来、軍吏や兵卒で私に叶う者はございませんでした。試みに馬を駆けさせてごらん下さい。私は大股で後について行く事が出来ます。」
疾駆する主君の後を、槍1本抱えた虞翻が走る。走る、走る、必死に走る。・・・・好い光景だ。汗の臭いと草の芳り、風のそよぎの中に、主従2つの影だけが目に浮かぶようだ。
広い道まで出ると、軍楽隊の隊士の一人に出会った。(こんな山中の戦闘にも軍楽隊が同道し、士気を鼓舞していた事が識れる。) 孫策は、角笛を借りると、自ずから是れを鳴らした。すると配下の兵士達は皆、その声を聞き分け、揃って集まって来た。楽器は又、重大な軍事指令でもあったのだ。
虞翻は、その後も孫策の下で各地を転戦し、3つの郡を平定した。 ーー『呉書』ーー
又、孫権なら怒ったであろう事も、孫策は笑って済ましている。(尤も、晩年の孫権ではあるが)
曹操との掛け引きが始まり、互いに外交辞礼を交すようになった頃、孫策は許の献帝(つまり魏の曹操陣営)に送り込む使節の大任を虞翻に依頼した。毅然剛直にして弁舌にも鋭鋒を具えるこの男こそ、其の任に最適であると観たのだ。処がその主君の要請をニベもなく拒絶する。
「イヤです。行きたくはありませぬ!」・・・・とだけしか言わない。これはもう立派?な主君に対する”抗命”である。事件と言ってもよい。晩年の孫権であれば、ここで激怒、ないしは恨みを抱いたであろう。が、『孫策』は、虞翻には何か思う処があるに違いないと観て容す。そして、代りに張紘(子綱)を派遣する。
ーー後日尋ねると、虞翻には虞翻なりの忠節・忠義の理由がちゃんとあったのだ。(詳細は後述)それを聞いて、孫策は益々彼を重用していく・・・・・。
蓋し、〔虞翻の存在〕は2代目と3代目に仕え、恰も「孫策」と「孫権」の器量を測るバロメーターと成って、我々の前に現われて呉れているかの如くである・・・・。 こうして「虞翻」は孫策に迎えられた。だが逆に、孫策を迎えに出た者もあった。
叔父(孫静)の計略により、密かに浙江を渡って敵の支城を急襲した直後、その高遷亭で孫策を出迎えたのは、『董襲』と云う巨大漢であったのち、呉軍列将の一人となる。
【董襲とうしゅう】・・・・字は元代・余姚県の人で、純然たる武人・全身これ武官で在り続ける。
長八尺(190センチ)武力 人ニ過グ(武力過人)・・・・と、正史は珍らしく具体的な数字を掲げている。(※許緒や趙雲に匹敵する)又、後漢書ではーー『正しくその身を持し、意気に感ずる人物で、勇猛さを備えた立派な行動を成した』・・・・・と評される。
孫策が会稽郡に進攻するや、それを歓迎し、イの一番に
駆けつけたのが、この巨大武将であったと云う事だ。
『孫策ハ彼ニ会ッテ、其ノ人物ノ立派サニ感心シ、役所ニ入ルト、彼ヲ門下賊曹ニ任ジタ。』するや董襲は、忽ちその武勇を発揮してみせる。会稽郡の郡都山陰で抵抗を試みた黄龍羅と周勃(兵力1千余)を攻め、自身の手で其の首を斬ったのである・・・・その直後、彼は孫策から別部司馬(別動軍司令官)に任じられ、一挙に兵士数千人を与えられる。普通は最大でも2千である。これは異例中の異例、孫策なればこその"大信任"である。いかに地元の地理に明るく、影響力を持っていたとしても、参陣したばかりの外来者に、突然大軍を授けたのだ!然も、並居る諸将を差し置いての大抜擢である。破格であった。その信任に感激しない武人は居まい。まして《士、意気に感ず!》そのまんまの男であった。孫策伯符の直感・人物を一瞬で見抜く人物鑑定眼に狂いはなかった。果して董襲は、新しい主君の信頼に応えて大活躍を続け、やがて揚武都尉へと昇進していく。ーーしかし何と言っても、『董襲元代』の武勲が強烈に輝くのは寧ろ3代目・孫権の時代であり、彼の名が青史に特記されるのは12年後の戦役、特攻隊長として全軍の危機を救う場面となる・・・・。
もう1人、孫策は会稽で【賀斉】と云う人物を得る。(のち偏将軍・安東将軍にまで昇進する。)字を「公苗」と言い、会稽郡山陰の人である。若くして郡の役人となり、炎卩県の長代行となった。この時、同じ県の役人であった「斯従」と云う男が、ヤクザまがいの悪事を働き、その県一円にのさばっていた。『賀斉』がこれを取締ろうとすると、副官(主簿)が諌めた。
「斯従は県内の豪族で、山越たちも彼になついております。もし彼を処分されますと、次の日には叛徒の一味が押しかけて参ります・・・」 「なにィ!それで今まで誰も手を出さなかったのか?」
賀斉はこれを聞くや、烈火の如くに激怒した。そして、そのまま斯従の執務室へ乗り込むと、その場で相手を斬り捨てた!!ーーすると案の上、斯従の一族郎党は直ちに同勢を糾合し、千人以上の山越たちを集めると、武器を取って県庁へ攻め寄せて来た。だが「賀斉」はそれより早く手を廻し、役人や住民達を指揮し、城門を開いて打って出ると、さんざんに一味を撃ち破った。 これにより『賀斉』の威声は、「山越」達の間に鳴り響く事になった。そのため以後は、反乱が起こる県あれば、其処へ派遣された。反抗する者は誅殺し、従順な者には保護を加えて、一年以内に反乱を全て平定した。孫策は、そんな賀斉を知り、孝廉に推挙した。
そして、『王朗』が逃げ込んだ「建安郡」に北接する「臨海郡」の永寧県の長に任じた。ーー王朗のために兵を起こした東治(東部侯官)の長であった「商升」は、賀斉が隣接する郡の県長に任命されたと聞くや、その威声に畏れをなし、使者を送って盟約を結びたいと申し入れて来た。賀斉の威名は、余程轟いていたものとみえる。賀斉は、その使者を介して商升に教え諭した。するとやがて商升は、印綬を差し出し、その根拠地を棄てて降伏を願い出て来た。−−だが、その商升は部下に殺害された。戦わずして降伏する事に不満を抱く「張雅」と「・彊」の共同謀議による謀殺であった。この2人は『王朗』などそっち退けで、張雅は無上将軍と名乗り・彊は会稽太守を自称し、徹底抗戦の構えを示した。
この2人の勢いは盛んで、賀斉と雖ども少兵力では討伐しかねたそこで軍を留めたまま兵士達を休養させていると、やがて彼等の間に指導権争いが生じた。それを察知した賀斉は、両者の反目に乗じて、「山越達」を夫れ夫れの側に焚き付けさせた。すると両派は一段と不信の念を募らせ、ついには互いに兵力を出し合って、相手の出方を窺おうとする迄になった。
《−−よし、いいだろう!》賀斉はそうした状況を見定めた上で軍を進め、一度の戦いで散々に敵を撃ち破った。「張雅」や「・彊」の一味は、賀斉の軍才に震えあがり、部下達を引き連れて軍門に降って来た・・・・・こうして【賀斉】による地ならしが出来た処へ、孫策の本軍が、海上から現われた。
物見兵の急報で海を見た『王朗』は、東治城の城壁の上で仰天した!!
《ま、まさか、孫策本人ではないか・・・・・!?》
孫策は未だ会稽郡内で、厳白虎らと戦っている筈であった。ましてや、ここ東治は地の涯て、海の終わり、文明世界の尽きる辺陬なのだ!!会稽からは臨海郡を丸ごと1つ越えて、海上を来れば800キロ近くもある。それも五万の兵力を乗せた大船団を率いてである。
《こ、こんなに早く来れる訳はない》だが、眼の前の、海上を埋め尽くす大船団は、紛れもない現実であった。《−−何たる素速さ、実行力、執念深さか!!》
実は、王朗を驚愕させたこの信じられぬ魔法は、ひとえに、周瑜公瑾と、その一族のお陰であった。・・・・以前から丹楊太守として現地にその財力を養っていた叔父の周尚をはじめ、痩せても枯れても五世三公を輩出した大名門の周一族である。それが総力を挙げて支援体制をしいてくれたのだから、5万の将兵を渡海させ得るだけの大船団が手に入ったのだ。むろん戦闘用艦船は少ないが、今はこれで十二分だった。将兵を運びさえ出来れば事は足りる。後日、孫策はこの時の周瑜の貢献に深く感謝して、こう述懐している。
『周瑜公瑾は丹楊において、軍勢と船と食糧とを用意して、我が大事を、成功へと導いてくれたのだ!』
その遠征距離で言えば、後年・・・・曹操が陸路を〔万里の長城越え〕した大偉業に匹敵する。曹操は万全の準備をした上で出発したがーー孫策の場合は庶二無であった。若さの勢いが溢れた実行力である。
【王朗】は一戦するが、舌を巻きつつ観念した。
(一説では、尚も南の交州へ逃れようとして、母親を乗せた小舟1艘で脱出を試みたとも言う・・・『献帝春秋』・・・・だが、そこまで惨めな行為はすまい。)
【王朗】は撃ち破られ、孫策の軍門に出頭した。当時の作法としては、敗軍の将は自らを後手に縛り、白の喪服で棺桶を用意して出頭する。−−だが結論としては、王朗は処刑されず、曲阿への”所払い”と云う、極めて寛大な処分だけで、事無きを得る。だがこれは、孫策の本心とは全く逆の決定であった。孫策としては、最後まで抵抗し続けた王朗は、断固斬首すべき敵であったのだから・・・・・然し、この時、張昭・張紘らを筆頭とした《名士層》からの、強力な働き掛け(諫言攻勢)があった筈である。名士層とは、次の次の時代の《貴族階級》−−君主権とは対立・もしくは君主権からは独立した支配団塊・・・・の原形である。より端的に言えばーー『君主個人の生死に関わらず、ビクともしない事実上のぶ厚い支配機構の中核を成す者達』の原形である。この王朗のケースでも、張昭ら個々人に果してこうした”超時代的自覚”が在ったとは思えないが、少なくとも個人的な交友・仲間意識が強烈であった事だけは間違い無い。事実、曲阿に送致された王朗の元へは、内外の名士達から、多数の激励メールが寄せられている。そして、その結実が『曹操からの招請』と云う史実となり、以後、王朗は《曹魏》の重臣として生きていくのである。
この2年後、曹操は上奏して、曲阿・広陵辺りに居た王朗を召し寄せる。孫策は癪にさわったが、袁術を牽制する為にも、献帝を奉戴した曹操との関係を保つ必要から、彼を行かせる。
むこうの孔融、こちらの張昭・張紘ら名士連合(仲間)が八方手を尽して王朗を擁護したであろう事は、想像に難くない。この戦乱の時代、互いにいつ同じ境遇に置かれるかも知れないのだ。仕える君主は異なろうとも、「名士」たる運命共同体の一員なのだ・・
(結局、王朗は曹家3代に仕え、最後には司空・司徒にまで栄達する。)
曹操が王朗に尋ねた。
「孫策はなぜ、短期間にあれ迄に成れたのじゃ?」
「孫策は武勇一世を覆い、すぐれた才能・大きな野望を懐いております。張子布(張昭)は人民に信望のある男ですが、北面して彼を助け、周公瑾(周喩)は長江・准水一帯の英傑ですが、腕をまくって彼の武将となっております。孫策は計画すれば成果が有り、目論んでいる事は小さくありません。結局は天下の大賊となりましょう。ただのコソ泥ではありませんぞ。」−−漢晋春秋ーー
この発言(記述)で注目すべきは、孫策の存在は勿論であるが、それを支える人物として、『張昭』と『周瑜』の2人が挙げられている点である。内政の張昭・軍政の周瑜・・・と万人が認めている、という事だ!!
往く者、来る人・・・・様々であった・・・・・北から避難して来ていた人士のうち、「陳矯」と「除宣」は任命を辞退して本籍地の広陵に戻り、のち曹氏2代に仕える。「徐奕」などは余りに丁重な招請に困惑し、姓名を変え目立たぬ服装(変装)で帰郷した。
その一方、同じ広陵出身の『秦松』と『陳端』は、張昭・張紘らと同格の〔参謀〕として迎えられていく。ーーだが、この『王朗』の出来事を孫策の側から観れば・・・・これは君主権の未成熟・その基盤が万全ではないと云う事実を示している事になる。
あまたの星々(人々)を吸い寄せて、
一大星雲の如く渦巻きだした孫策軍ではあるが・・・・その中核に在る孫策個人としては、軍事方面と同時に《君主権の確立》と云う課題をも常に抱えながら、新しい国家を立ち上げねばならないのであった。
−−然し今、孫策の未来は明るい。
若く、みずみずしい生命力に溢れている!
そして何時しか、誰言うとも無く・・・・
孫策伯符はーー・・・・
【小覇王】と呼ばれる様に成ってゆく
【第82節】 人呼んで 「小覇王」 誕生!→へ