【第80節】
揚州刺史【劉遙 正礼】の生涯には同情の念を禁じ得無い。誠に気の毒・御愁傷サマなのである。−−生まれた時と所が悪かった・・・・世が世であれば人々に敬われ、それなりの善政家として、青史に名を留めたであろうと想われる人品なのである。
その姓からも判る様に元々漢王室の遠い子孫に当たる。その祖先は斉の孝王(前漢の高祖・劉邦の孫)で、代々青州の東莱郡に家を営んでいた。彼の一族は近年でも皆、世に名望を刻んだ者達揃いである。最も有名なのは伯父に当たる【劉寵】で一銭取りの太守として語り継がれていた。その生涯で2度の郡太守と4度の三公を歴任した。祖父の「劉本」 (劉丕とも) も通儒と称され〔賢良方正〕に推挙された。父親の「劉方」 (劉與とも)は山陽太守、兄の【劉岱】は兌州刺史として”反董卓連合軍”の群雄の一人であった。
本人も決して、”腑抜け”では無い・・・19歳の時には、賊徒に捕らわれた従父(劉偉)を、単独で奪い返す武勇伝で世に知られる存在と成っている。又、上司の郡太守が、彼の貴門を利用するや、さっさと職を棄てている。監察官と成っては、飛ぶ鳥も落とす勢いの中常侍(宦官)の息子を罷免してしまう。野太い気骨も有ったのだだが、引く手数多の辟きにも応ぜず、戦禍を逃れて除州に移り住んでから、彼の人生は徐々に狂い始める・・・・・
その第一歩は、長安の李カク政権から、《揚州刺史》を下命された事であった。古来より、揚州刺史の政庁は寿春である。劉遙が避難して居た「臨淮りんわい」とは、目と鼻の先に在った。この距離の近さ(地元感)が彼に白羽の矢が立った大きな要因であった事は否め無い。いずれにせよ、是れは、郡太守など問題にもならぬスケールの大任である。独立国家の新元首と成るに等しい。流石に拝命した。だが、この意欲(野心)が彼の命取りと成る・・・・そもそも此の任命劇自体が、現実を無視した”虚構”の上に立つ、胡乱なスタートであった。先ず、勅令を下した李カク政権自体が、長安に孤立しており、実力が無い。その上更に、寿春には既に【袁術】が根拠を置いて占領して居た。だから劉遙は仕方無く、袁術の勢力圏外を求めて、寿春からは遥か江向こうの「曲阿」に政庁を設定した。すると意外や意外?忽ち江東の群小豪族達が彼を直ちに承認して、巨大勢力に成り上がってしまった。・・・・だが「曲阿」は孫氏ゆかりの地だった。しかも撰りに撰って、その孫一族の中でも最も覇気に満ちた【孫策】が相手と来ていた。
是れを気の毒と謂わずに置かれようか?−−挙句・・・今や劉遙はすっかり仇き役。その最大の攻撃目標にされ次々と支城を陥されて追い詰められて居た。
『(乍融は)更ニ溝ヲ深クシテ、防禦ノ態勢ヲ固メタ。孫策ハ乍融ノ軍営ノ場所ガ地勢険固デアル事カラ、此(北岸)デ破リ、鉾先ほこさきヲ転ジテ湖孰こじゅくヤ江乗こうじょう(南岸)ヲ攻メテ、ミナ降伏こうふくサセタ。』
「なに!江乗こうじょうも陥おとされたと!秡陵ばつりょう陥落以来、海陵かいりょう・湖孰こじゅく・句容と攻め陥とされ、ついに江乗までもか・・・・」 曲阿の政庁は、もはや西方の全ての支城・砦を失い、孫策軍の直接攻撃に曝されようとして居た。
「仕方無い。乍融さくゆうを呼び戻して合流しよう。そして、いざと云う時に備え、軍営を"丹徒"へ移す事にする。」劉遙が移動しようとする〔丹徒〕は、「曲阿」の直ぐ北、
長江に面した港町である。河口の邑と言ってよく、此処から東へと湾が開け、その先はもう大海原であった。つまり、劉遙は政庁(曲阿)を捨て、丹徒で乍融の兵力と合流した後、大船団に乗って海上へ逃れ、海岸線を4〜500キロ南下して【会稽かいけい郡】へ逃げ込もうと考えたのである。だが、其の案を聞かされた『許劭』が反対した。月旦評の、あの許子将である。劉遙が頭の上がらぬ相手である。
「会稽は富裕な土地柄ゆえ、孫策が欲しがって居ります。それに海が迫った逃げ場の無い土地ですから行かれてはまりません!それに対し、豫章(郡)は、北は豫州の土地につながり、西は荊州に接しておりますから、そちらへ行かれる方が宜しいでしょう。もし豫章に在って役人や民衆達を一つにまとめ、使者を遣って朝貢し、曹兌州(曹操)どのと連絡を着けられれば、袁公路(袁術)が間を隔てては居ても、彼の人となりは豺狼に異なりませんから、久しく勢力を保つ事は出来ず、あなたが勢いを伸される障害には成らぬのであります。あなた様は漢王朝(献帝=李カク政権)からの命を受けておられます故、孟徳(曹操)様や景升(劉表)様からも、必ずや援助が有りましょう!」劉遙は、この意見に従った。−−『漢記』
やがて丹徒で「乍融」と合流した【劉遙】は、孫策軍の総攻撃を受ける直前に、長江を遡って500キロを南西に大移動した。・・・・是れにより、江東からは劉遙勢力は姿を消した事になる。孫策に対抗する最大の勢力が退場し残るは中小の相手ばかりとなったのである。そこで【孫策】は、陳宝ちんほう(ここにしか出て来ない不明な家臣)を遣って阜陵に避難させていた母(呉夫人)と弟達を迎え取らせ、父の眠る〔曲阿〕へ、念願の入城を果たすのであった!
片や落日の劉遙軍。 その兵力は半減したとは言え、未だ3万余の大勢力を保持していた。だが徐々に内部崩壊の兆しが忍び寄っていく・・・・先ず【太史慈】が、遡上開始から100余キロの蕪湖で姿を晦ました。彼の人物を低く見、重用する事も無かったのだから、当然の成り行きと言えようか?そして目的地である豫章郡の入口・彭沢ほうたくに揚陸すると、劉遙は片腕と頼む乍融を先駆けとして、豫章郡太守の「朱晧しゅこう」の元へと派遣した。
処が乍融は朱晧の元に着くと、何と又もや彼を殺害し、替わって郡の支配権を握ってしまった。それは劉遙の為にした事では無く己の野心の為であった。・・・・ちなみに・・・『献帝春秋』では、この直前に、許劭が劉遙に警告を発した事になっている。
「乍融が軍を率いてゆきましたが、彼は大義名分などに目も呉れぬ男です。朱文明(朱晧)殿は誠実で人を疑ったりせぬ方ですので密かに乍融には気をつける様に知らせられるのが宜しゅう御座います。」・・・・其れが判っているなら、もっと早く言えよ!と云う事になるが、一面、判っていても使わざるを得無い位の、劉遙軍の実態・惨状を反映しているのかも知れ無い。いずれにせよ
【劉遙】は、初めて自ずから軍を率いて出陣する。だが、その相手は・・・・孫策でも袁術でも無く、すっかり腹心の配下と頼りにして来た『乍融』であった。然も更に、慚愧の至りにはーーその憎っくき乍融から返り討ちを喰らい、敗北の憂き目に遭わされたのである・・・・だが、ここで初めて(?)、劉遙は本気モードで軍人魂に目醒める(?)。必死になって兵士を募ると再戦を挑み、やっとの事で乍融を撃ち破る。ーー破れた乍融は、付近の山中に逃げ込んだ。然し、己の野望の為には何でもやらかして来た、この大ヤマ師の末路は・・・・『乍融ハ敗レテ山中ニ逃ゲ込ンダガ、付近ノ住民ノ為ニ殺サレタ』と、云うものであった・・・・。
ーーそして・・・・【劉遙りゅうよう 正礼せいれい】も亦、その心的疲労に崩折くずおれるかの様に、この2・3年後に、病に倒れ、その、42年の生涯を閉じるのであった・・・・・。
ついに陥した〔曲阿〕の地には父孫堅が眠る。その一族の長男である孫策は、母とその一族そして幕僚達を従えると、3年ぶりに父の墓前に額付いた。
「父上、御覧下され。この懐かしき者達の顔を!そして、新たに我が力となってくれた者達の勇姿を!皆、この私を支えて呉れる、頼もしき者達ばかりで御座います。お陰で今こうして再びこの地に戻る事が出来ました。これも全て父上のお導きで御座居ます」
程普や黄蓋が、老いの目に涙を流している。
「−−父上、見ていて下され!此処に居並ぶ重臣・諸将らと共にこの孫策伯符、必ずや父上の御遺志を受け継ぎ、我が父祖の地に覇業を打ち建ててみせまする。そして必ずや、父上の故郷・此の呉の地に、安寧と繁栄を持たらせてみせまする!」そう言うと、孫策はスックと立ち上がり、腰の宝剣を抜き放って天に翳した。
「ここに孫策伯符は、父上に対して奉まつり、改めて江東の平定を御誓い申し上げまする!そして今、この墓前に集う我ら一同、みな心を一にして、父上の御霊が真に安らかとなられますよう、一層の奮闘努力を御約束致します。どうか父上、破慮大将軍様我らに更なる御加護と勇気とをお与え下されませ!」
呉夫人、周喩、張昭、張紘、程普、黄蓋、朱治・・・全ての者達が感動に胸を震わせたーーかくて孫策は曲阿の城(政庁)に入ると此処で初めて、一旦腰を据える。そして味方の部将や士卒達に、公平かつ遺漏なく恩賞を与え、これ迄の功を労らった。その一方これまで劉搖の配下となっていた諸県は、果してどの様な処断が下されるかと戦々恐々となった。が、直ちに発せられた布令は、至って寛大なものであった。
『布告・・・たとえ劉搖・乍融らの子飼いの部下と雖ども、降服して来た者に対しては、その罪を一切問うてはならない。その中に従軍を願う者あらば、一人が軍役に出た時、その家全体の賦役を免除するように措置せよ。但し、従軍を願わぬ者に対しては強制してはならぬ。 以上、厳命す! 』
果して、この寛大な布令に接するや、我も我もと来るわ来るわ・・・
『四方カラ雲ノ湧ク様ニ人ガ集マリ、タッタ10日ノ間ニ、2万余人ノ現役兵ト、千余匹ノ馬トガ手ニ入ッタ』のである!ーーつい2ケ月前・・・・寿春を発った時には幕僚500に兵は1千。軍馬は僅か50騎と云う、奇妙奇天烈な「へっぽこ部隊」だった孫策集団は今や5万を超え6万に近い
最早【孫策伯符】は・・・・押しも押されもせぬ〔群雄〕の1人然も一踊、A級の位置に踊り出たのである!だが揚州は広い面積では中原7州(司(司隷しれい)・豫よ・冀き・兌えん・徐・并へい・青州)に匹敵する
確かに今、兵力は整い、劉搖は西南に去ったが・・・・・冷静に振り返って観れば・・・・孫策軍が手に入れたのは僅か丹陽1郡に過ぎず其れも未だ完全とは言えないのだ。まさに、これからが正念場。現実に江東を平定していく戦いは、今から始まるのだ!一郡ずつ、着実に潰していくしかない。
先ずは、直ぐ南の「呉郡」、そして、その南の「会稽郡」の平定である。この〔丹陽・呉・会稽の3郡〕こそが、人口・資源とも圧倒的に豊かで、将来の新国家の中枢地域となる筈だ・・・だと
すれば、可及的速すみやかさで南征すべきである。だがこの時孫策は、手に入れたばかりの根拠地(丹陽郡)を空にして、全軍を以って南下する事には流石に二の足を踏んだ。牛渚を奪い返された苦い体験が脳裡を横切る・・・上流へ逃走したとは言え、カラッポと判れば、劉搖は全力を挙げて襲い掛かって来よう。半減してはいるがその総兵力は3万は下るまい。ひとたまりもない。かと言って、同数の大兵を置き残していくのでは、征くも守るも中途半端、虻蜂とらずとなり、覇業のスピードはガクンと落ちてしまう。第1、孫策お得いの《全力集中・各個撃破》型戦術が採れなくなってしまうではないか。
《小兵を以って、何が何でも根拠地を守り通して呉れる者・・・俺がこの世で最も信頼する人間・・・それは・・・公瑾、周瑜公瑾の奴しか居無い!》 ーー正史(陳寿)は記す。
これだけの軍勢が有れば俺1人で呉ご郡と会稽かいけいを手中に収め山越さんえつを平定するのに十分だ。お前は戻って丹陽たんよう(郡)を固めて呉れ!』
ーー長江べりを、連れだって歩く、友2人。
「・・・・お前は、陸の王者となれ!」 「よし、成ろう!」
「うん、お前なら成れる。だが暮れ暮れも言っておくぞ。お前は、我等にとって掛け替えのない存在だ。決して単独で無茶をするなよ。」 「ああ、そうしよう。」 孫策は手にした小石を、思いきり遠くへ投げながら言った。 「で、お前は?」 尋きかれた周瑜は、遠い眼差まなざしになると、眼の前に広がる長江の水面みなもを指さした。
「−−水軍か!?」
「そうだ。・・・・俺は水の王者に成る。」
「善よき哉かな!相応ふさわしき哉かな!だな。」 「水軍と言っても、何処へでも上陸できる、最強の陸戦隊・海兵隊だ!」
周瑜も江面かわもに小石を遠投した。 策も亦また、投げる。
「ワハハ、水陸に王あらば、これぞ将まさに天下無敵なり!」
「そうさ、我々は天下を取るのだ!」
「おう、忘れてなるものか!」
江面かわもが、北緯32度の陽光にキラキラ光って揺れている。
「酔いざましに丁度いい。こいつを2人で、江の中へ叩き込もう。」
「よしきた。さしずめ、こいつあ”王朗”ってとこか。」
若い酒は、ふた抱えも有る大岩を持ち上げて放うった。
「では、いずれ又、美味い酒を汲み交そう。」
孫策伯符からの全面的信任を受けた周瑜公瑾は、此処(曲阿)で友と別れ、西南の「丹陽」へと向かった。丹陽には彼の叔父に当たる「周尚」が、郡太守として(袁術の任命による)居残っている。その叔父と協力して周囲に睨みを効かせ、敵対勢力の再侵入を防ぎ、孫策本軍の南征を側背から援護する。と同時に、丹楊郡の人心を掌握し、更には将来に備えて、軍船・兵糧・兵力の増強備蓄を図っていく。・・・・そして、この一見地道な周瑜の行動こそが孫策軍の更なるステップを約束してくれる事となっていく。
ところで・・・・この会話中で、わざわざ『これだけの軍勢が有れば、俺一人で呉郡と会稽を手中に収め、"山越"を平定するのに十分だ。』と、強調されている【山越さんえつ】とは一体どの様な敵であるのか?・・・・一言で言えば、呉の”癌”である!
中原制覇への野望を阻み、その手枷・足枷となって未来永劫に渡って、呉国を苦しめ続ける、宿命の病巣・・・・いくら退治してもいつまた再発するか判らぬ宿命の病、呉の〔宿痾しゅくあ〕なのである。既述した如く江東にはA・B、2種の特異な集団(勢力)が存在していた。そのうちAは「宗民そうみん」とか「宗部そうぶ」などと呼ばれる郷里ごうりの”自治コミューン”であった。中には宗教的色彩の濃いものもある。だが此のAは、程無く孫氏政権に制圧されるか、解体して吸収されていく。根本的に彼らは同じ中国人ゆえである。
・・・・ところがBの【山越】は違った。決定的な相違は、
彼らが
”異民族”であると云う1点につきる。 そもそも、ここ江東から江南の地には、北から漢民族が移住して来る以前の古代から、「黄河文明」とは明らかに異なった、「長江文明」が存在した。南方系の『越族』の民である。彼らこそが、先住の民で、平和裡に暮らして来ていたのだ。そして永い年月の間に、越族の生活圏は長江以南の全域(中・下流)に広がる。が、人々は小集団ごとに点在して暮らし、小国家を形成するような歴史も無い儘に来た。
処が、そんな世界に漢民族が南下し始める。特に中国本土(中原)が戦乱の世となると、その難を逃れる流入人口は爆発的に急増した。そしてその中国人達は、先住の彼らを〔山越〕と呼ぶ事になった。ーー現在、山越の民は最大で1万戸単位の集団となり、移住して来た漢民族と入り混じまった形で分布している。無論同じ土地に共生するのではなく、次第に山間部★☆☆(山越の名の由来)や、湖沼地帯に追いやられる格好でモザイク状に混在してしまっていた。中国人達が勝手に定めた行政区域で言えば、江東の4郡(呉・丹楊・新都・播陽)に多い。この地域は、漢人にとっても山越にとっても、豊かな経済(農業)基盤である。と言うより、民族が生き残る為には不可欠な生命線であった。両者、絶対に譲れぬ必争の地となる。・・・・そこで漢民族側(豪族達)は、山越達を武力で駆逐・制圧にかかった。共生・同化政策を採りうるだけの、強大でゆとりの有る漢人政権(地域支配者)が存在して居無かった故でもあった。ーー互いに万単位で各個に闘い合う時代が連綿と続く。だが、手持ちの基本人口(兵力)が頭打ちの山越側に対し漢人側はいくらでも北方から人口が流入し続ける。その結果、先住していた山越の民は劣勢となり、苦境に追い込まれていく・・・・然し、この地の豪族達(中国人側)も亦、互いに己の力だけを伸ばしたいが故に、一致協力して戦う事をしない。それ処か、降した敵(山越)を己の新たな労働力や兵力として組み込む狙いさえ持って、各個に戦って来ていた。こうして、山越民族社会は徐々に、漢人の重い賦役や収奪、苛酷な刑罰主義による圧政の下に置かれ始めたのである。−−・・・だが、同時に、その時以来、江東の中国人(呉の国)は、重い宿命を自ら背負いこんだと言える。以後、未来永劫えいごうに亘わたって、恒に『山越さんえつ』による反乱・反抗を覚悟しなければならなくなったのである。根の深い 《民族戦争》を、己の庭に植え付けてしまったと言う事だ。兎に角しぶとい。中国人から観れば、”油断も隙も無い奴ら”と云う事になる。
【山越】は誇り高い民族だったのだ。2度や3度の敗戦では屈しない。死んだふり、灰の中からでも立ち上がろうとし続ける。最早彼らには、逃げ伸びる新たな地は無いのだから、まさに命懸けとならざるを得無かったのだ。更に複雑なのは、同じ山越集団の中にも、〔帰化志向型〕と〔終始反抗型〕とが混在し、然も、帰化志向型の者達も、一旦、恭順服従したかに見えても、いざ民族闘争が勃発すれば、いつ寝返るか?予断を許さぬ面の在る事だった。その上、これまで"協同戦線を張る"と云う歴史を持たなかった〔山越民族側〕も、事ここに至っては流石に、互いの意志の疎通を図り合い"全面一斉蜂起"の戦略を、採りだしたのである。本質的に、異民族が一旦戦い始めてしまえば、そこに積み重ねられるのは唯、憎悪と怨念、そして復讐心だけである。ちっとやそっとの温情や施しなどでは、氷解する訳が無い。魏・呉・蜀・・・・将来、成立する”三国”の中で、最も困難で重い国内問題を抱える宿命が、この地の支配者には課せられる。
『正史』(陳寿)は《呉志》の結語で、次の如く断じている。
『山越さんえつノ抵抗ガ強烈ダッタ為ため、孫権(呉)ハ対外的ニ積極策ヲ採とレズ、魏(曹操)ニ対シテモ卑屈ナ態度ヲ採ラザルヲ得無カッタ。』
かくて江東の覇者は”内なる敵”に、恒に多くの力を吸い取られる事になる・・・・・
その年(195年)の秋、手に入れた「丹楊郡」を周瑜に委ねると、【孫策】はいよいよ南征を開始した。すぐ南の〔呉郡〕へと雪崩れを打って進撃したのである!・・・その兵力は5万を遙かに超え、騎馬も五千頭近い(スタート時は50頭)大軍団と成っていた
呉郡には太守の「許貢きょこう」が居るが、 その南の由拳ゆけん(嘉興かこう)には
「王晟おうせい」南西の烏程うていには「厳白虎げんはくこ」や「鄒他すうた」「銭銅せんどう」らが夫れ夫れ数千から1万余の兵数を集めては割拠していた。ーー孫策軍は先ず、最も手前(北)の呉郡太守『許貢』とぶつかる。だが許貢は50キロ下がって「由拳」に布陣、そこで抵抗を試みる。然し、鎧袖一触・・・・先鋒の【朱治】によって徹底的に撃ち破られた。許貢は南へ深く敗走して、厳白虎の元へ逃げ込んだ。この【厳白虎】は自らを”東呉の徳王”と呼ぶ、地元(呉)の有力首領の1人であり、その名からも判るように〔山越〕の民であった。然し彼は独特の人脈を築きあげ、許貢とは昔なじみの友人となっていた。その信義にもとづき、厳白虎は許貢を受け容れたのである。
『向ウトコロ敵無シ』・・・・『正史』は、孫策軍のこれ以後の〔江南平定戦〕を、そう記している。〔呉〕と〔由拳〕を陥した孫策軍は、太湖の南岸沿いに西へと突き進み、〔烏程〕の地方勢力を、次々に制圧していった。「王晟おうせい」「鄒他すうた」「銭銅せんどう」らが各個に撃破され仮借ない処断が行われた。将兵の降伏は容したが、その首領の一族は皆殺しであった。事前に降る者は容すが、抵抗する者は断じて許さない!だが、1人だけ、例外があった。母(呉夫人)の言を容れて、『王晟』だけは助命されたのである。
「王晟はかつて、お前の父上(孫堅)とは奥座敷に通り、妻と挨拶するような親しい関係でありました。今、その子弟・兄弟達はみな斬首誅滅されて、年寄り独りが残っておるだけです。何の懼れる事がありましょう。」・・・・この頃、『呉夫人』は、もう1人の人材の命も救っている。孫策の功曹(秘書官)の【魏騰】と云う男である。字を周林と言い「一本気ナ性格デ、世間ト適当ニ調子ヲ合ワセタ様ナ行動ハ採ラズ」、孫策の気持に逆らった為(些細は不明)、譴責を受けて処刑される事となった。ちなみに、魏騰の祖父の魏朗(少英)は、清流派の指導者・"八俊"の一人に数えられる名家であり、彼自身も、後には播陽郡太守を任される。この時、士大夫達は助命嘆願を行うが孫策はよほど腹に据え兼ねたとみえ、助命の計は皆、無に帰した呉夫人はこれを聞くと、大きな井戸の縁に身を寄せ掛けると、孫策に向かって言う。
「お前は今、江南の経営を始めたばかりで、その仕事は未まだ完成しておらず、今こそ賢者や非凡な人物達を礼遇し、欠点には目を瞑って、功績を高く評価すべき時であるのです。魏功曹(魏騰)どのは、その職務に全力を尽しております。お前が今、その魏功曹どのを殺せば、明日には人々は揃って、お前には背を向けるでありましょう。私は、禍いがやって来るのを見たくはありませぬその前に、この井戸に身を投げるのです!」
孫策はびっくりし、慌てて魏騰を釈放した・・・『会稽典録』
ここにも、呉の地における”母親尊崇の気風”が現われている。そして又、呉夫人の、時を得たアドバイスの在り方が示されている。尚、この「魏騰」、3代目(孫権)の時にも同様な処分を受け、その時は親友の呉範の、命懸けの助命行動のお陰で救われる。エライと言えばエライが、余程口が悪かったか?ーーだが、そう云う人物でも生きて活躍できた処に、若々しい国の息吹が感じられるとも言えよう。
・・・・・さて、本題の平定戦だが、〔烏程〕に続き、〔石木〕・〔波門〕・〔陵伝〕と次々に制圧。残るは、ひとり討伐ルート外に居た厳白虎だけとなった。だが最早、彼は身動きもとれず、ひたすら塁を高くして、守りを固めると云う状況となっていた。
−−かくて事実上、〔呉郡ごぐん〕は孫策政権の統治する処となったのである。思えばこの呉郡こそ『孫一族本貫の地』なのであった。父・孫堅は「富春」で生まれ、17歳の時海賊退治の武勇伝で世に出たのも、隣り町の「銭唐」であった。そしてその銭唐には、うら若き母(呉夫人)が住んでいて2人は結ばれた。そして、孫策・孫権・孫翊・孫匡が生まれた・・・・
それから20と1年の歳月が流れ、孫策は、その本願の地を今、がっちりとその手に握ったのである。そこで孫策は、以前からこの地に居た一族を呼び寄せる使者を送った。この呉郡には未だ、最も血の濃い人物が居たのである。
−−それは父の実の弟・・・・【孫静】であった。父・孫堅は3人兄弟のまん中であった。上に兄の孫羌、下に弟の孫静がいた。だが兄の孫羌は早逝しており(その子が孫賁)、今や弟の『孫静』だけが、唯一の直系親族であった。
−−その【孫静】・・・・・字は幼台。次兄の孫堅が初めて事を挙した時以来、孫静は同郷の者や一族の者達5・600人を糾合して「後の守りを固め」、人々は皆よく彼の指示に従って来ていたのである。使者が届くや孫静は、一家眷族を引き連れてやって来たそして「銭唐」で孫策と合流した。父の葬儀以来、まる3年ぶりの再会であった。孫静は出迎えた孫策の大軍団に接するや、腰を抜かさんばかりに驚き、感激した。そして、齢は若いが孫策伯符こそが、一族の総帥である事実を率直に認めて臣下としての礼をとった。この孫静の参入は、これから始まらんとする会稽平定戦に大きなプラスとなる。何しろ長らく此の地に暮らして来ていたから、地勢や人心の動向にも明るく、最良のアドバイザーとなるであろう。
12月20日(195年)、孫策は【袁術】の上表により殄寇てんこう将軍を兼務する事になった。この時点でも未だ袁術は、孫策の本心に疑念を抱いていないかの如くである。飽まで自分が君主であり、孫策はその年齢からしても、将軍号を贈る事によって懐柔できる家臣の一人として扱っている。 無論、孫策とて、袁術対策には、おさおさ怠り無く、逐時使者を派遣しては、終始へり下った報告を送り続けていくのではあるが。
いずれにせよ、次の目標は、呉郡の南の〔会稽かいけい郡〕の制圧、平定である。丹楊郡・呉郡に続き、この会稽郡を支配下に置けば、新政権・新国家の中枢地帯が整い、その基盤がほぼ見えて来る。夢が夢で無くなる時が近づいて来た。−−だが作戦会議の席上、叔父(母の弟)の呉景らが、会稽への突入を危惧した。
「会稽へ攻め入る前に、先ず我々は呉郡に残って居る”厳白虎”を討つべきではないのか?我々が動き出した背後を突かれたら面倒な事態を招きかねぬと懸念するのだが。」・・・・この指摘は妥当なものと言えた。厳白虎の兵力は1万余とは言え、会稽の敵と対戦中に側背から襲われたら、思わぬ痛手を被るかも知れない呉景の発言で、一時作戦会議はザワつき始めた。だがその時、孫策が断言した。
「叔父上おじうえ、御懸念ごけねんには及びますまい。所詮しょせん奴等は土賊・群盗に過ぎませぬ。彼等には国家的大戦略や、江南に覇を唱えんとする如き、大きな野望が在る訳では無いのです。古来より、己の縄張りさえ保てれば満足して来ておりまする。奴等など後廻しで、いつでも捕える事が出来るのですよ。」
それよりは先ずとにかく版図を拡大してしまう事だ。中味は後から整えればよい。と同時に、〔水軍の創設〕を急がせる事だ。この点は、周瑜が特に重大視していた。今も周瑜は丹楊に在って、着々とその準備に尽力してくれている筈だ。会稽太守の【王朗】が逃げ出すかも知れない海上ルートを封鎖する為にも、呉の水軍を整備拡充し、一挙に、【天下一の水軍】を創り上げるのだ。これから先孫呉政権が国家として発展する為には、必ずや大小の艦隊が必要になる。何故なら・・・・江東・江南の地は、無数の長江支脈と湖沼と低湿地から出来ている。ーー即ち
"水上国家"なので有る!!自在に戦う為には、何と言っても〔水軍〕である。周瑜とも連絡を取り合い、急ピッチで渡海作戦にも耐え得る新艦隊づくりが進められるーーやがて・・・未だ未だ完璧とは言い難いが、少なくとも〔呉水軍〕の母体と成る、艦船は整えられた。「厳白虎らは群盗に過ぎぬ。大きな野望を抱いている訳ではない。彼ら如きは、いつでも虜にできる!」
これで決まった。次に目指すはーー
《会稽》の平定である!!
会稽は古来より、物資豊饒ほうじょうの地であるばかりか”人材の宝庫”とも謂われている
果して孫策は、その会稽でどんな人物と巡り会う事となるのであろうか・・・・!?
【第81節】 渦巻く大星雲 (南国、人物往来)→へ