第78節
華の一騎打ち

                              君主にあるまじき私闘



太史慈たいしじは、斥候せっこうの任を潔く引き受けると、僅かな騎兵だけを従えて西へ西へと騎行した。曲阿から牛渚までは、ちょうど100キロ。駆け通せば、1日で辿り着く。
翌日、小休止すると・・・・太史慈は少部隊を更に「2騎を1組」として、直ちに各方面への偵察活動に派出させた。そして自ずからも、唯一騎の副官を連れると、大胆にも、敵本営が置かれている〔牛渚〕へと、直進した。《ーー手ぶらでは帰れん・・・・。》ところが其の途次、思いがけぬ出来事に遭遇する。ーー何と其処で、
バッタリ、巡察中の〔
孫策〕自身に出喰わしたのである!!
場所は神亭と呼ばれる地点。小さな邑外れの小途であった。
こちらは
2騎だが、相手も僅か14騎・・・・
(太史慈が)騎兵1人ダケシカ 従エテ居ラヌ時、偶々、孫策ト出喰シタ孫策ハ騎兵13人ヲ従ガエ、夫レガ皆、韓当・宋謙・黄蓋ト謂ッタ、(勇猛な)者達バカリデアッタ
双方とも、ほぼ同時に相手を視認した。そして太史慈には、その先頭で悠々と闊歩している若者が何者であるかが・・・瞬時にして悟った。
《有り難し!想わぬ僥倖!! ビビる処か太史慈の英雄の血が踊った。副官を其処に待たせると、何の逡巡も見せず唯1騎、太史慈は真正面からゆったりと、愛馬をギャロップさせつつ進んで行った。一方、孫策達主従も、相手が唯1騎だけだと確認できた為、別に騎行を已める事もせず、その儘ゆったりと駒を流してゆく。 「おい見よ。只者ではないぞ・・・!」 孫策が言う迄も無く堂々と、まっしぐらに、此方に向かって来る男立て独り!
と人物は、程よい所で駒を止めるや、大音声で呼ばわった。

「我は〜東莱といらいの〜
太史慈子義しぎと申す者な〜り。そこにわすは孫伯符どのとお見受け致した〜。ここでお目に掛かれたのも〜『天の御意志』と申すもの〜。
一騎討ち を所望しょもういた〜す!!何を小癪な!とばかり残る13騎がズラリと主君の前に立ちはだかった。「田舎武者め我が主に直接申し込むとは非礼であろうお主如きは、この韓当で充分じゃ。いざ参られよ
「−−待て と若々しい声が、馬群の中から上がった。
「・・・ほう〜貴殿が、あの
三度の的射の武勇で名高い太史慈子義どのであったか是非一度お会いしたいと、常々思っておりましたぞ遮二無二突っ掛かってゆこうとする太史慈も、その悠揚迫まらぬ若者の居住いに、思わず馬を棹立てて止まらざるを得無かった。
「御貴殿ほどの勇者に、まともな軍兵も与えず、こんな物見に出して寄こすとは、劉揚州(劉搖)とは余程の阿呆殿と想われる。」
一瞬、太史慈の必殺の気がたじろいだ。太史慈も
孫策と云う若い指導者の好ましい噂さは、既に耳にしていた。
「−−
惜しい! 勿体無もったいないではないか!?」
その若者は、丸っきりの屈託無さで言った。
太史子義どの!我が陣で、その武勇と機略を存分に発揮して下さらぬか?この孫策は必ずや貴殿を大切に致しますぞ」 その相手の言葉には誠の響が込められているのが、英雄たる者直ぐに分かる・・・だが、今は飽くまで劉搖の命を受けて来ているのだ。ここでハイと頷く訳にはゆかない。それが信義と云うものだ
「ええい呉茶呉茶と。聞く耳は持ち申さぬ。
太史慈、参る!
「よし、解った
お相手仕ろう。おい、その槍を貸せ。」
孫策は、十文字状に銅のつばが付いた『銅鐔鉄殺どうしょうてっさつ』を受け取ると、1、2度しごいてみせた。(金偏に殺の字)
「よいな、これは俺と太史慈どのとの、武人としての手合わせだ。手出しは無用ぞ
」  13騎の勇将達にそう申し渡すと、孫策は
青馬しゅんめを一旦、後方に下げて、一騎打ちの体勢に入った。
「太史子義どの、この手合わせ、俺が勝つから、勝ったら必ず仕官して下されよ

「大した自信で御座いまするな。だが、この太史慈にも些か自信は御座る。
--・・・いざ!!」 「おう〜!

ーーさあ、エライ事になった
いかに腕に覚え有りとは言え、
中国歴史上
で、請われて一騎打ちに応じた君主など、未だ嘗て、誰1人も居無い のである!!
戦闘で已む無い状況下に成った時には、君主が敵と渡り合う場面はある。曹操や劉備とて白刃を冒して戦場を駆け巡っている。だが、豪勇として知られて居る相手と識りながら、敢えて
1対1の命の遣り取りをしようなどとした者は流石に”絶無”である。
無論、追き従う幕臣達は、いざとなれば救援する心算ではあるが孫策の豪勇もよく識っていた。その上、たまたま、此の13騎の中には口うるさい張昭張紘と言ったブレーキ役が居無かった。
周喩も居たが、孫策と同じく未だ若い。あとは全て生粋の軍人ばかりで、寧ろ、君主と云う認識より、今は「一武人」としての、若い孫策を見守ろうとしていた・・・・だからこんな小説の様な、本当の話が実現してしまったのである。無論、最大の原因は、孫策個人の、武勇に対する自信に由来する。    
両者、馬腹を蹴るや、渾身の力でぶつかり合う。普通、騎兵は集団の敵へ突進する機動力を最大限に活かす為、短めの鉄刀を用いるが、騎馬同士であれば柄の長い槍か戟となる。更に一騎討ちともなると、武術と膂力だけではない。寧ろ馬術・
人馬一体の手綱さばきがものを言う。
この時代は未だあぶみ=(足置き・足掛け)は現われていない為、馬腹をしっかりと締めつけて 上半身を安定させる内股の筋力(脾肉)も問われる。孫策の鉄殺と太史慈の朱槍が突き合い、払い合い、薙ぎ払い、叩き合う。こうなってしまえばもう、グルリと遠巻きにしている部将達も、ただ息を詰め、相打つ龍虎のおめきと、金属音馬の息と蹄の蹴立てる土煙だけを見守るしかなかったー・・・撃ち合うこと十数合、正に互角。どちらも譲らぬ激闘となった!!
「お見事でござるな」
  
「そちらも、なかな」更に十数合・・・孫策が太史慈の馬にひと突き入れた。太史慈の体勢が一瞬崩れた。  「剣で参る!」 「参られよ!」 両者ガラリと槍を投げ棄てるや、 今度はスラリと剣を抜き合い、忽ちにして 再び凄絶な打ち込みと受けが繰り返される。若さでジリッと孫策が押し始めた。(太史慈とて30歳だが)
「子義どの、益々そなたが、欲しくなったぞ

「片腹痛し
手を抜かれるな
「おうよ
どうだ、俺に仕えて呉れぬか
「なんの
美事、儂を参らせてからにせられよ
・・・・両者の激突は半刻にも及ぶが、未だ決着を見ない。

「組み討ちじゃ!」 「心得た!」
今度は馬上での組み討ちとなった。相手を落馬させて、のし掛かり、押さえつけて咽ぶえに小刀を当てれば・・・決着となる。が、膂力も互角とみえ揉み合う内にガップリ四つの体勢のまま、両者ともドオとばかりに地上に落下した。それでも互いに腕を緩めず、上になり下になってはゴロゴロと地面で土まみれの死闘を演じ続ける。孫策が太史慈の項の所に付けていた手戟=(小型トマホーク)を奪い取ると、太史慈も亦、孫策の兜を、もぎ奪った。 ・・・・・・と、両者の頭上に、馬影が映った。白馬の周喩公瑾が飛び込んできたのだった。
それまで!それまでじゃ!この勝負、両者互角と観た引き分けでござる!双方とも、もはや存分で御座ろう!?
「−−よかろう!」

流石に若い孫策も、肩で息をしている。
「・・・・ウム、片じけのうござった!」

汗にまみれた太史慈も、苦しくも清々しい表情であった
「太史子義どの、待っておりますぞ
「・・・・いずれ又、戦さ場にて・・・・御免

孫策ならびに13将に一礼するや、太史慈は、傷付いた愛馬を労わりながら、悠然と胸を張り、地平の彼方へと去っていった。
・・・・一陣の涼風が、孫策のうなじに、心地良く吹き渡っていった・・・

太史慈ハ、何ノ躊躇ためらいモ無ク前ニ突キ進ンデ 戦イヲいどミ、孫策ト
正面カラ渡リ合ッタ。孫策ハ、太史慈ノ馬ヲ突キ刺シテ、太史慈ガうなじノ所ニ着ケテイタ 手戟しゅげきヲ奪イ取ッタ。太史慈ノ方モまた、孫策ノかぶとヲ奪ッタ。 おりシモ 其ノ時、敵味方双方ノ歩兵ヤ騎兵ガケ集マリ、ソコデ二人ハ、左右ニ分カレタ
。』

控えていた13騎の将達は、手にする武器をカチカチ鳴らして、若き主の熱闘を讃えて迎え容れた。 「済まぬ、心配かけたな。」

「いや美事だったよ。男を上げたな。然し、もう二度とはするなよ。これは君主たらんとするものの、為すべき行動ではあるまい!」

「そうだな。帰ったら早速、子布(張昭)どのから大目玉を喰らいそうじゃ!こ〜んな顔付きで、『これは君主に在るまじき、匹夫の勇に過ぎませぬぞ!』ってな調子でな

その物マネが余りに「張大人」に似ていた為、一同大笑いなった 
「それにしても、欲しい男だ
」 「それは多分、天の決める事だ
さあ、こうなったら派手に帰ろうぜ!」 帰る道々、みな口数は少なかったが、宿将達は感激し、若い世代も深く感銘し、我が事の様な誇らしさに、其の胸を張って見せるのだった。
−−が案の上、それを聞きつけた
張昭に、
         
孫策は、こってりと油を絞られた
「一体全体、何を考えておられるのです
そもそも人の上に立つ君主たる者は・・・・」 先刻の物マネそっくりだった為、一緒に呼びつけられて説教を喰らう者達は、思わず吹き出しそうになるのを互いにソッポを向き合い懸命に堪え合っていた・・・・。
その後の太史慈・・・・一旦、劉遙りゅうようの元に帰る。だが敗れた劉搖と共に、西南方面(豫章郡)へ逃亡するが、その途中の蕪湖(牛渚のすぐ南)で姿を晦まし、本隊と別れる。そしてそのまま山中に身を潜めつつ、自らを丹楊郡太守”と自称した。彼には彼なりの【男の野心】が在っての事であった。ーーその頃には既に、孫策の江東平定戦はほぼ完了し、残すはけいけん以西の6県のみとなっていた。そんな情勢をみた太史慈は県に進出して、屯府を設営。すると果して、孫策軍に父祖の地を追い払われた山越達が、大挙して彼の元に集まり帰属して来た。
《これだけあれば、やれるか・・・・
!?》時流にはやや遅れたが、英雄たらんとする太史慈の心中は、飽くまで抗戦・覇業を狙っての心意気に燃えていたのである。孫策に臣従する気など毛頭ない。だがここで、孫策は自ずから”太史慈討伐”に乗り出して来た所詮、太史慈の主力軍は俄か作りの寄せ集まり・異民族部隊であった。結局敗れて太史慈捕虜となった・・・・だが孫策は、直ちに太史慈の縄目を解かせると、手を執って言った。
神亭しんていの時の事(一騎討ち)を覚えておられるだろうか。もしあの時、逆に貴殿が私を捕えていたなら、一体どう処分されただろうか?
「・・・・想像も着かぬ事です・・・・。」
そこで孫策は大意に笑って言う。「今こう云う事となったが、貴殿が私にしたであろう様な処遇を採ろう。」
孫策はその場で、太史慈を
門下督の役目に就け、呉に戻る兵士を預けて、折衝中郎将に任じた。つい10分前までは敵の総大将(君主)であった人間に、自分の兵をごっそり渡し、その司令官にしてしまったのである何とも豪胆、全面的に信頼してみせたのだ。 (尤も、だからと言って、その将兵達が叛意に同調する筈もないのだが、それにしても思い切った、最大級の処遇であった。)
「聞けば、貴殿はかつて郡太守の為に州の上章文を奪い取られまた文挙(孔融)殿の元に行かれては、玄徳(劉備)殿への使者に立ちたいと願い出られたとの事・・・・これらはみな輝かしい義行であり、天下に隠れなき智士であられるのだ。但、惜しむらくは、
これ迄に身を寄せられたのが、十分に貴殿に相応しい人物ではなかった事じゃ。 古人は、己を殺そうとして射かけられた矢が帯鉤おびどめに当たったり、斬りつけられた剣でそでが切り裂かれた様な人物に対しても、その相手を任用するに躊躇しなかった。(※せいの覇王・桓公かんこう宰相さいしょう管仲かんちゅう帯鉤おびどめを射た故事と、しん王の重耳ちょうじ寺人じじん=(宦官かんがん)のそでを斬った故事。)ましてや私は、あなたの知己であるのだ。あの一騎討ちや、今回の事で、十分な処遇を受けられぬのではないか、などとの心配は御無用でありますぞ。」
孫策はわざわざ
=(配下への布告)を出し、命じた。 龍が、天翔あまがけようとする時、先ず尺木しゃくぼくを借りるものである。太史子義を優遇せよ江表伝
 尺木しゃくぼくとは龍のキノコ状のつの。その中に霊力が宿るとされている。 更に孫策は、これからの方針について、太史慈に忌憚なき意見を求めた。
「敗軍の将には、共に事を論ずる資格など御座いませぬ・・・・」
「昔、韓信は広武君(敗将)に意見を求めて策を定めた。今私は確信の無い点について、あなたに決めて戴こうとするのに、なぜ辞退されるのか。」 ここまで信用されれば、男の本望と言うものであろう。そこで太史慈は口を開いた。

州の軍劉搖側についていた将兵は、敗戦を被ったばかりで、士卒達の心はバラバラになっております。もしこの儘分れ分れにさせてしまいますと、もう一度、1つに纏めるのが困難になります。私が出向いて、兵士達にあなた様の御仁愛を伝え、彼らの心を安らげて1つに纏めたいと考えますが・・・・あなた様の御意図には合わぬのではないかと恐れます・・・・。
《流石に見込んだだけの事はある器じゃ》そう思うと、もはや何のこだわりもなく、見栄などと云う小さな事はサラリと捨てられる。 −−・・・太史慈は仰天した!!何と、孫策が深々と身を折り、自分の前にひざまづいたのであるそして言うのだった。

「それぞ、私が心より御願いしたいと思う処であります。明日の正午に帰って来られるのを、お待ち致しておりまする。」 ーーかくて太史慈は、敵だった兵士達の説得の為に、孫策の元を発っていった・・・・するや、若き君主の周りで、何やら部将達が、ヒソヒソと憂い顔でささやき合っていた。《はは〜ん、このまま戻って来ないのではないかと、疑っておるな?》

「皆、何を心配しておるのじゃ。太史子義どのは、青州の名士であって、何よりも信義を重んじられる方だ。決して私を裏切ったりはされぬ。」・・・・その言の裡には〈お主達と同じ様にな〉と云う家臣への深い信頼が込められている。だからこそ又、部将達は一層、我が事の様に心配になるーーそんな中、翌朝・・・・孫策は部将達をみな呼び集め、酒食の準備をし、長い竿を立てさせた。其の竿の影を見て、約束の正午の時刻を待つ為だった。ここ迄やるからには、孫策の心中に劇的効果を狙う、為政者としての思惑もあった筈だ・・・・果して、正午になると太史慈は戻って来た。孫策は大意に喜び、これ以後は常に、軍事的行動の立案に際しては、太史慈の意見を求めた。 −−『呉歴』−−

更に後年の事・・・・豫章郡で何とか命脈を保っていた劉搖が病没し、その配下の兵士や民衆1万余人が、身の依せ所を失った時、孫策は太史慈に命じて、豫章に往って、彼らを安撫させようとした。その時、孫策の側近はそろって 
「太史慈はきっと
に走って戻っては来ますまい」 と言った。
とは曹操を指す。曹操がしきりに、太史慈を欲しているとは、もっぱらの噂であったのだ。
「子義殿は私を棄てて外の誰と力を合わせられると言うのか!」   孫策は昌門(蘇州の西の城門)で太史慈の出発を見送り、腕を
とって別れを告げて言う。 「いつごろ戻って来られるだろうか?」
「60日以上はかかりませぬ。」
            ・・・・・以下詳細は、豫章平定戦で後述する。
こんな太史慈の評判を聞いた曹操は、どうしても、この男が欲しかった。だが、聴けば聴く程、信義に厚く、とても地位や財宝で招ける人物ではないと判った。そこで曹操は、彼一流のやり方で、太史慈の心を掴もうとした。・・・・『正史』には、その太史慈伝中に、さりげなく次の一文が、挿入されている。

曹公ハ其ノ評判ヲ聞イテ、太史慈ニ手紙ヲ送ッタ。文箱ふばこニハ封ガシテアッタ。しかシ、其レヲ開イテ見テモ、何モ書イテ無ク、ただ当帰とうき ガ入ッテイルダケデアッタ。』
ーー
当帰 とは、薬草の名である。・・・では何故当帰かと解けば・・・その心は、正に帰る当!〕 なのであった。

先走った書き方になってしまうが・・・・・
太史慈子義は建安11年(206年)、41歳と云う若さで病没する。(赤壁の戦いは208年である)だが、その生涯中、実に話題豊かな活躍をし【孫策】【孫権】に仕え、【孔融】【劉遙】はじめ【劉備】と直談判し【曹操】からも求められる。その生涯を通じて
三国志の
3君主全部と★★★交渉を有する、稀少な謂わば小説向き?な人物である。さぞかし満足して、 「面白き一生であった・・・と、言い遺して、この世を去った事であろう。 と思いきや、そこは流石に三国志の英傑である。これでも未だ足りず、本人は次の言葉を遺して、その生涯を終えるのであった。
大丈夫たる者、世に生きては、七尺の剣を帯びて、天子のきざはしのぼるべきものを、いまだそのこころざしが実現できぬうちに、何と、死ぬ事になるのか・・・・ーー『呉書』ーー

げに
男の本懐とは、途方も無く涯し無く、そして凄まじい。
これでこそ、
三国志と言えようか・・・・。



ーーさて、 この直後、


孫策】は戦死する・・・・??

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