第77節
                      ま と   い
三度の的射
                                      オチオチ眠れぬ月旦評
その勇将の名は太史慈たいしじと言う。字は子義しぎ青州は山東半島の東莱とうらい・黄県の人である。 太史慈ハ身ノたけ7尺7寸(185cm)美事ナひげはやシ、うでガ長ク、ゆみたくミデ、 百発百中 デ アッタ。』
のちに
麻保を討伐するが、その時・・・・ 賊の一人が屯の中の楼の上から悪口を浴びせ掛けた。その賊は片手で楼の棟を掴んで居たのであるが、太史慈が弓を引いて之れを射ると、矢は手の甲を貫いて、賊の手を棟に縫い付けてしまった。屯を包囲している1万もの人々は揃って其の美事さを囃し立てた。彼の弓の妙技はかくの如くであった。』ーーこの様に、弓の神業が「正史」の記述につぶさに載せられているのは、この【太史慈】と【呂布】の場面だけである。(董卓など他の者達には具体例までは無い。)ちなみに、
〔弓が上手い〕と言うのは戦闘能力がズバ抜けている豪勇を象徴しているのであり勿論、戟でも剣でも物凄いと、謂う事だ。
若い時から学問を好み、郡役所に出仕して奏曹史そうそうし(総務部長)となった。
たまたま此の頃、郡(東莱とうらい郡役所)と州(青州政庁)との間に確執が起こり(詳細は不明)どちらが正しいか、決着がつかず、先に朝廷に上聞した方が有利に成る
と云った事態が起こった。先手を打ったのは州政庁の方で、既に
上章=(訴状)を持った使者が都へと向かっていた。後れを取る事を憂慮した郡太守は、当時21歳太史慈に白羽の矢を立て郡側の使者として都へ差し向ける事にした。
「頼む
何としてでも州より先に我が上章を朝廷に届けて呉れ!きっと、きっと頼りに致しておるぞよ!!
若き太史慈にとっては、この郡太守こそが
御主君であった。
その主君から手を握られてまで頼まれたからには士大夫たる者、命懸けで其の期待に応えなくてはならない。ーーそこで太史慈は駿馬と替え馬を率い、不眠不休で片道800キロを疾駆した。

洛陽に到着するや彼は直ちに南宮の南門に在る公車の役所〕に乗り付けた。「公車」とは、全国各地からの上章文や献納物を取り扱う窓口の役所である。
《ナムサン、間に合って呉れ
》郡の期待・主君の死命を一身に背負った若者は、祈る思いで朝服に袖を通すと鬢の解れも其の儘に、公車の門に馳せつけた・・・するや何と!間一髪、今まさに自分の眼の前に、青州の使者が、取り次ぎを願い出ている最中であった。《間に合ったか!!そこで太史慈は、咄嗟の機略で相手を出し抜く作戦にに出た。其処には最早、主君の為とあらば何でもするぞと云う 熱に浮かされた若者の姿しか無かった。
「あなたは上章の取り次ぎを願って待って居るのかね?」
「そうです。」 押し出しの立派な太史慈を見て、相手はすっかり朝廷の役人と思った様である。
「ほう〜、で、上章は何処に在るのかな? 持って来て見直すが善い。よく、その事で失敗し、突き返される者がおるからのう・・・」
公車の役人然として、お為ごかしの言を弄する太史慈。
「車に置いてあります。持って参りますから、見て戴けますか?」
相手は少しも疑わず、言われた儘に上章を取り出して、太史慈に手渡した。するや太史慈は、おもむろに片手を懐に入れた。

次の瞬間その手に握られた小刀で 其の上章文をズタズタに切り破いてしまったのである
「−−
アヒェ〜〜!!あ、あ、あ、アワ、あわ・・・・わ、わ、私の、私の上章が、や、や、破かれてしまったアあ〜!ぎゃ〜!わあ〜!ひぇ〜〜!!
青州の使者は跳び上がって絶叫マシーン。「しっ!」太史慈は相手の口を片手で塞ぐと、幸い?周囲に誰も居無かったので、彼を車の陰に引っ張り込んで、半ば怪力で押さえ付けながら、語り聞かせた。「
アガフヌウグムヌヌ・・・・」暫し、手足をバタつかせて居た相手は、ピクリとも動かせぬ太史慈の豪力に肝を潰し、やがて諦めて静かになった。
「私は東莱郡の太史慈と云う者だ。もし、あんたが上章を手渡す様な事をしなければ、私も其れを破る事は出来無かったのだ。
だから2人は共に過失が有った事になり、私1人がその罪を被る訳は無い。
よいか、こう成ってしまった以上、よ〜く考えるんだ!」相手はもう押さえ付ける必要も無く、ガックリと腑抜けてしまって居た。「このまま黙って2人とも、この場を逃れるのが一番だ。そうすれば、死ぬべき命も取り止める事が出来る。2人そろって処刑される事もあるまい。」
物凄い理屈
目茶苦茶な論理である。だが、完全に動転してしまって居る相手は、最後の理性を振り絞って、訊き返して来た。 「あんたは郡の為に俺の上章を破いて、思い通りに事が運んだのに、何でまた逃げたりするんだ?どっか怪しいな。おかしく無いか?」 当然の質問・疑惑である。其れに答えて太史慈

「思えば、もともと私が郡から派遣されたのは、ただ上章が受け取られたかどうかを確かめて来る為であった。だが私は遣り過ぎて上章と云う重大な物を破ってしまった。このまま帰れば、この事で譴責を受ける事にもなろうだから一緒に逃げようと言うのだ。」


今更どうにも成らぬ相手は、この太史慈の言葉に納得させられ、その日のうちに2人して逃亡した。
−−
だが・・・太史慈・・・相手と共に城門を出たが、其処で姿を晦ませて引き返すと、己が持参して来た”郡”の上章を、自分だけ差し出したのであった・・・・”州”の政庁はその事を知るや再度使者を派遣した。だが係りの役人の方では、此の件に関しては先に上章が出されているとの理由で、もう採り上げる事はせずその結果、州側が不利な処分を受けるに至った。・・・・この事があって以後、太史慈の名は郡を越えて広く知られる様に成ったが当然、青州の役所からは憎悪された。そして、それにも増して
太史慈自身の裡に、忸怩たる思いが生まれていた・・・・
《如何に御主君の為だったとは言え、
あれ果たして・・・忠義と呼べる行いで在ったろうか・・・・・》
若気の至り・・・・後にして思えば、慙愧ざんきが込上げて来る様な、際どい忠節であった。−−挙句、太史慈は官を辞し、自郡を出奔した。そして何と1200キロも離れた北の最涯て、烏丸族の住む遼東に迄、空しく独行するのだった。その道程の遥かさは、丸で彼の忸怩の念がどれ程深いかを示す如きである。単に逃避するなら、そんな苦行の要は無いのだから・・・・・。
この時、その東莱とうらい郡の直ぐ西隣りの北海国」のしょう(太守)で在った孔融は、その事を伝え聞くと、太史慈を高く評価した。(のち朝廷・献帝の少府として曹操と丁々発止に渡り合うあの孔融文挙である。)
『孔融』は、太史慈を、忠義に厚い
なかなかの人物だと考え、本人不在の母親の元へ屡々人を遣って、
太史慈の母親の御機嫌を伺わせ併せて厚い贈り物をし続けた。折りしも黄巾の反乱が勃発。孔融もその討伐の為に都昌 (北海国中央部) に軍営を置いたが、逆に反乱軍(管亥指揮)に包囲され、身動き出来無い苦境に追い込まれた。ちょうど其の時、太史慈が自宅に戻って来た。母親が言う。
お前は、孔北海どのとは未だ面識も無いのに、お前が居らぬ間色々と生活上のお心使いを戴いて参りました。それは旧くからの知人以上に真心の籠ったものでした。その孔北海どのは今賊の包囲を受けておられます。直ぐにあの方の元へ駆け付けなされ 太史慈はそれを聴くと、母親の元に3日間だけ留った後、単身、徒歩でまっすぐ都昌へと赴いた。幸い此の時は未だ包囲の目が粗く、夜陰に紛れて城内に潜り込む事が出来た。孔融に目通りするや太史慈は、「兵士を借り受け直ちに出撃したい!」と申し出た。だが孔融は余りの大敵に、それを許さなかった。この若者を無駄死にさせたくは無かったのだ。そして、必ずや外部からの救援が有る筈だと、籠城を続けた。・・・・だが救援が来ない裡に、包囲は日毎に厳しく成る一方であった。
「・・・・
平原国へいげんにさえ伝えられればなあ・・・・。」
この時、隣りの州・平原国のしょうに在ったのは、デビューに失敗した劉備玄徳である。仕方無く、袁紹の元に転がり込み、その配下として、試しに★★★任命されて居た時期であり、殆んど無名の存在だった。然し、(何故か)孔融の人物リストでは、注目マークが付けられて居たのである。(その後も孔融は、劉備を高く評価し続け、劉備が陶謙から除州を譲られる際にも、決定的賛成論者と成った事は既述した通りである)然し、黄巾軍の包囲の環は、既にガッチリと締め付けられておりもはや城中からは誰1人も脱出不可能と成っていた。ーーそこで太史慈は、敢えて其の役を願い出た。然し、冷静に観たとき・・・・其れは、単に無鉄砲と謂うものであった。孔融は有り難く思いながらも、躊躇った。
「・・・・現在、賊の包囲は極めて固く、人々は皆不可能だと言っておる。貴君のお気持は荘んであっても、実際は難しいのではないだろうか・・・・」ーーだが、太史慈は言った。
「かつて府君あなたさまには老母の為に、周到な御心づかいを賜りました。老母はそうした御処遇に感激して、府君さまの危急に役立たせようと、私を来させたので御座います。・・・・それに私自身も、己には取るべき処が在り、参れば必ずお役に立てるであろうと、考えたので御座います。今人々は脱出は不可能だと申して居りますが私も亦、人々と同様に不可能だと申しましたならば、それは、府君さまから賜った御恩義と、老母のこころとに背く事に成るではありませぬか
 事態は切迫しております。どうか御迷いに為られませぬように!!
孔融男気おとこぎで鳴る魯国ろこくの生まれである。 こんな名台詞めいぜりふには涙が迸る方だった。黙って、深く頷いた。
太史慈・関連図 太史慈は、携帯食糧を包み旅装を整えると、夜明けを待ち、えびら(矢入れ)を帯び、弓を手にして馬上の人となった。・・・・従うのは唯の2騎のみ。「−−・・・・??」人々は訝しんだ。・・・・何故なら、その2騎は夫れ夫れに一つずつ、弓矢の的を抱えていたからである。 「開門〜ん!! 大音声と共に、太史慈はまっしぐらに飛び出した。これには敵味方共に、ド肝を抜かれた。その付近に居た包囲の者達はビックリしながらもたったの3騎と見るやワッとばかりに押し寄せた・・・・と見るや太史慈は馬首を巡らせて、城壁の下の塹(空濠)の中に乗り入れる。
《−−どうするのだ!?》万人注視の中、2人の騎兵はからぼりの中に1つずつ、
""を立て掛ける。一方、太史慈は唯一騎、塹を駆け上がると、やおら箙の中から矢を取り出し、キリキリッと弓を引き絞り、ヒョウと放った・・・・。 凡人では届く事すら不可能な距離に置かれた弓矢の的は、美事そのド真ん中を射抜かれて、虚空に砕け散ったその妙技に、思わず敵の足が止まった。するともう1本。2つ目の的も亦、寸分の狂いも無く、中央を射抜かれて飛散した。城の内外から讃嘆のどよめきが湧き起こるーーが、当の本人は、2本だけを射終わると、真っ直ぐ城門の中へと姿を消した・・・・。 「何だったのだ、今のは??
「戦さの合間に見せる
腕自慢って云うモンでねえべか?品のいいオエライさん達の中にゃあ、時たまやるモンが居るっつう話を聞いた事が有るど・・・・。」
ーー
翌朝同時刻、又しても3騎が出現。前日同様、妙技を見せるや城内へ駆け戻っていった。2回目の今日はそれっとばかり臨戦態勢に入った者が半分。あとの半分の者達は横臥したり腹這い状態で見物して居た。
−−更に
3日目・・・・又しても同時刻に3騎が門から出て来た。昨日は半数の敵が動いたが、3回目ともなると誰一人として真面目に構える敵は居無かった。前2日と同様、美事な妙技を披露した後・・・・今日も亦、城内に駆け戻る・・・・かと、思いきや、弓の名手(太史慈)は駿馬にひと鞭呉れるとーーまっしぐらに重包囲の中央を突っ切って、単騎、眼を見張る様な超スピードで、こっちに向かって突っ込んで来るではないか!!
「−−??・・・・しまった!脱出だあ〜!!」
黄巾軍が気付き騒ぎ立てた時には、既に太史慈は
単騎包囲の外に踊り出して居た。加うるに、駆け抜ける馬上から数人の敵をバタバタと射倒したものだから、狙われたら最期とばかり、彼の後を追おうとする者は誰一人として居無かった・・・・かくて此処に、太史慈による、3回目にして敵をあざむく 3度の的射まとい】の伝承が誕生したのである
   (
的射まといと成る事なかれ・3度の的射まといにされる・的射まといに掛かる etc・・・)
この、3度の的射まといの機略によって、辛くも
窮地を脱した太史慈には、未だ最大の試練が待ち受けていた。いまだ嘗て
一面識も無い相手に、何としてでも救援軍派遣を承諾させなくてはならない・・・と云う難関であった。太史慈自身劉備などと云う人物は初耳の未知なる交渉相手である。然も、失敗は許されず、緊急ギリギリの絶体絶命状況下での使命であり、こちらには其れに見合う何の代償・駆引き材料も無い。有るのは唯1つ・・・・恩人・孔融が絶大な評価を抱き、心の底から期待して居ると謂う、眼には見えぬ、抽象かつ、心的事実だけであった。
《もう、小賢しい策を弄する事だけは、2度と致すまい。信義には信義で、ぶつかるしか無い・・・・
元々、それこそが、
太史慈と云う男の肌合であった。
私めは東莱郡の田舎者であって、孔北海どのとは親戚関係でも同郷の好みが在るのでも御座いません。ただ立派な御名声と御志操とに心を惹かれ、禍いと憂いを共にする関係を結んで戴いておるので御座います。」己自身も、信義の為だけに命を張っている事実を、先ず事実として伝えた。
只今、管亥めが暴虐を行い、北海どの(孔融)は其の包囲を受けて孤立無援、今日か明日かと云う、危機的状況に在ります。あなた様が仁義を行われる事で名が有り、よく他人の危急を救われると云う事から、北海どのは心より、あなた様をお慕いし、頸を伸ばしてお頼りせんと、この私めを遣わし、白刃を冒し厳重な包囲を突破させ万死の中から自身の生命をあなた様にお託しするとお伝えするよう命ぜられました。あなた様だけが、是れをお救い戴けるので御座います!!」 声涙ともに下らんばかりの太史慈の誠に、劉備玄徳は顔付を改めて言った。
「おお!孔北海どのはこの広い世界の裡に劉備わたしの居る事を知って居て下さったのか・・・・!!
この劉備の言の裡にこそ、彼の当時の社会的位置・地位の如何が余す処無く如実に表わされていた。孔北海こと
孔融文挙は、紛れも無い、「大聖人・孔子」の子孫で既にして天下で知らぬ者など無い 大名士であった。 片や群雄の端くれにも観て貰えぬ ダメ男・・・・無い無い尽くしで、名声と云う、不確かな基盤に拠ってのみ生き残らざるを得無い存在・・・・それが、思いも寄らぬ格上の相手から自分を以前から高く評価して呉れており、今その命を自分に預けるとまで言って来たのだ大感激せざるを得無い。此処で「恩を売って置く」などと云う、セコイ打算は微塵も無かった無名(時代)の己を買って呉れるその嬉しさ!!無償の行為こそ、信義と言うものだ。劉備は直ちにそれに応え、精兵3000を太史慈に付けて遣わした。・・・・・するや黄巾の反乱軍は、大部隊が来援すると聞かされ、囲みを解いてバラバラに逃走して去った。
(※劉備は後、この行為のお陰で《除州牧》を譲られると云う、”トンデモナイ僥倖ぎょうこう”を手に入れる事につながってゆく=既述。・・・・但し、この場合、劉備が派遣した援軍とは、元々袁術の手勢であった。他人様のふんどし相撲すもうを取ってチャッカリ 「金星」 を挙げた事になる。 それがこのダメ男に具わる”仁徳”と云うものであろうか。)
太史慈の決死行により救出された孔融は、以前にも増して彼を尊重し、こう公言して憚ら無かった。
「貴君は、私の若き友人
之は13歳も目下の青年に対する言葉としては、最大級の讃辞・感謝を込めたものであるこうして事態が収まると、太史慈は孔融の元を辞して帰郷した。家に着いて母親にこの事を申し上げると、母親は言った。
「お前が孔北海どのに御恩返し出来た事を嬉しく思います」 と。

さて、そんな太史慈劉遙りゅうようとの関係についてであるが・・・・両者は同郡の出身であった。 是れはもう、当時としては同族・同姓と並んで「最大のコネ」・太いパイプであった。
だが、既述の如く、太史慈は、遥か遼東にまで行方を晦ましたり、帰郷しては 直ぐ孔融の元へ駆け付けるなど、『揚州刺史どの=劉遙』に面会する機会が無かった。しかし今、ようやく太史慈は、同郷の主君を求め、長江を南に渡り、「曲阿」の政庁に劉遙を訪れたのであった。だが然し・・・・周囲の大方の案に相違して揚州刺史しし劉遙の態度は、いかにも煮え切らぬものであった。「孔融救出劇の大活躍」はとっくに知れ渡っているにも関わらずである。−−これには2つの理由が在った。1つは・・・・思いの外の勢いで周辺豪族達が彼になびき、将官クラスの人材に取り立てての不足を感じぬ、妙な心理的余裕が生じていた点。また現実的にも、既成の部曲は全て所有者がおり新たに単身で参入して来た人物に、その軍兵を振り分ける面倒臭さが存在した点によるものであった。ーーそして最大の理由は・・・・名士〕たる劉遙
面子に対する拘り〕であった。その事が周囲に明白となったのは孫策が「牛渚」を奪い、いよいよ大挙しておしよせて来んとする
”今”になってからである。
戦局に関しての認識が甘い「お坊ちゃま育ちの素人」と言ってしまえば其れ迄だが、劉遙にしてみれば
その名士社会の
人物評価こそが、全ての行動の根幹基準であり、何にも況して気掛かりな最優先事項・行動指針なのであった
さて、緊迫の度がにわかに高まる曲阿の政庁だが・・・・左右の者達が頻りに劉遙に進言していた。

此の際、是非にも子義(太史慈)どのを大将軍に任じて、大敵に当らせるべきです彼はそうした勇将でありまするぞ
だが劉遙は、ちょっと照れ笑いを混じえると、髯を扱きながら、こう答えたのである。
「いやあ〜子義(太史慈)どのを使ったりすれば、
許子将殿が儂を笑ったりされないだろうか
             
こんな緊急事態だと云うのにさえ、一国の君主(揚州刺史)をして尚、気が気では無い心理状態にさせてしまう『許子将きょししょうどの』とは、そも一体、何者なのか??
−−その人物の姓と名は
許劭きょしょう
  ・・・・字が
子将ししょうで、 許子将きょししょうどの』 となる。
   
州は汝南じょなん郡平県の人で、18歳の時に、
謝子微しゃしびと云う"見識者"(ここ1ヶ所だけの登場・記述の為、正体不明の人物) から、高い評価を受け、
此ノ男ハ、世ニ滅多ニ居無イ、
        衆ニ抜キン出タ
偉人!!
との御墨付おすみつを得た。その謝子微しゃしびなる父老は、相当の影響力を持つ人物だったらしく、以後の【許劭】は大手を振って(?)周辺=故郷の人々に対して〔人物批評〕を行い始める。普通18・9の若僧が、人様の人物を総合評価するなぞチャンチャラおこがましい事である。況してや、一流と言われる「名士」を相手に評価を下すなど、「お前に一体、そんな資格が何処に有るんだ!」と、反撃を喰らえば、スンマセンと引き下がらざるを得まい。だからして、その背後に控える 「 謝子微なる人物」が、いかに大物であったかが判ろうと云うものなのである。ーーところでさて、許劭きょしょうが行った人物評価であるが、これは、現代の××評論家などと云った、お手軽で気楽な、好い加減な(?)モノとは訳が違う。何せ、人の一生を左右するところの、名声”を決定する作業なのであった。
(※詳細は第8節の『時代の主役・名士の実力』で既述。)
『漢』の時代は万事おしなべて推薦登用すいせんとよう制度に拠ったから、その基盤を為す人物評価は〔神の声〕にも等しく上流知識階層=士大夫たちは皆、少しでも高い評価を得ようとして、戦々恐々となって居た時代であった。
許劭きょしょうはやがて地元の汝南で毎月のついたち(1日)に
「評語」を付けた人物批評を公表するようになる。−−所謂いわゆる・・・・
月旦評げったんひょう・・・である。その鑑定眼は非常に高く、野に埋もれて居た6人の賢者を推挙した事から、いよいよ信頼度が高まった。頭巾の店から「樊子昭はんししょう」を、牧童の中から
虞永賢ぐえいけんを、村里の農夫から李淑才りしゅくさいを、馬の鞍係りから郭子瑜かくしゆを、更に「楊孝祖ようこうそ」・『和陽士わようし』を引き上げ推挙した。・・・・推挙された是れ等の者達にしてみれば、一夜にして上流階級に成れるのだから、必死になって研鑽に励むに決まっている。だから必ず予言も当る?この6人をはじめとし、彼が推したり眼を掛けたり、称揚する者達の悉くが、一流の人士として世に活躍し始めるや許劭は一躍全国的な”超大物と成る。最も有名なエピソードとして後世に伝わるのは、無名時代の曹操に与えた人物評である。既述の通り、半ば脅されてシブシブ与えた人物評が・・・
君は治世に在っては能臣。乱世に在っては姦雄だ
と云う名セリフ
・・・・(治世の姦雄、乱世の英雄と云う、全く逆の説も有る) 後漢朝末では、全国行脚あんぎゃして〔名士階層の産婆とりあげ役〕を実践した【郭太かくたい】と次世代の【許劭】とが人物評価の双璧とされる。4世三公の袁紹ですら、官を辞し帰郷する際「儂の車や衣服を、許子将に見せる訳にはいかない」と嘆息し、わざと1台だけの簡素な車で、郡境を通過する程であった。(当時、偽善が横行して居た一例ではある)

その
許劭が今現在、戦禍を避けて此の揚州刺史・劉遙の元に身を寄せて居たのである・・・・劉遙としては”超大物”を抱えたのだから、鼻高々であった。ーー但し、四六時中、気が安まらない。彼に笑われる様な事が在ってはならぬ!・・・・と云う訳で彼を最高顧問として、しょっちゅう意見を求めて居たのであった。 太史慈の世間的評価は、未だ固まっていなかった。土台、人間の評価などと云うモノは、観る人によっては、丸っきり正反対の結論も生じ得るものである。〔孔融救出劇〕は文句なしだが、その前の所謂、〔上章出し抜き事件〕はマイナスイメージでもある。一流の人物として扱ってよいものかどうか?劉遙自身には判定が出来無い。そこで劉遙は、幕僚達の進言を無視し取り合えず敵状視察・「斥候」の任を与えて、お茶を濁そうとしたのである。
その結果ーーまさか彼が、敵の総大将・・・・・

孫策伯符一与一いちよいちの死闘(一騎打ち=タイマン)に出喰わす事になろうとは、太史慈自身にも夢想だにせぬ歴史の舞台設定と成ったのである・・・・!!
             
なお、他人の★★☆人物評には鋭い炯眼けいがんで人々をうならせる【
月旦評】の達人ーー許劭本人の私生活だが・・・是れが又、いかにも人間臭くて面白い。お他人サマの将来性を見抜くのには、”神”の如き才能をキラめかせる許劭だが、こと肉親関係に於いては、およそ聖人君子とは縁の無い兄弟仲の悪さを演じ続けて居るのである
彼の従兄弟いとこ(当時は兄弟に準じた)許靖きょせい文休ぶんきゅうと云う縁者が居るのだが、両者の間は至極険悪で感情的ニ、しっくり行カ無カッタ。この「許靖」とて、なかなかの人物で、許劭と同時期に、2人ともが夫れ夫れに【月旦評】を行って、共に高い評判を得た。処が、先に郡の功曹(人事長官)と成った許劭許靖ヲ排斥シテ採リ立テ様トセズ・・・・仕方無く許靖の方は馬磨きのアルバイト”をして自活する有様・・・・
《月旦評の達人は2人も要らんわい。天下に名人は俺独りで充分じゃわい!!》・・・・と、思ったかどうか??
その後「許靖」の方も郡太守が替わってから出世し始め
董卓政権にも召し寄せられ ・・・一流人士を、地方の長官に抜擢する。だがやがて、抜擢した者達が全て”反董卓派”である事が明白となる
「お前達 (許靖と
しゅうひつとの共同作業) が起用した人物によって、何でこの俺サマが裏切られねばならんのだア
怒鳴りつけるや董卓は、周を外に引き摺り出させ其の場で斬り殺してしまった。許靖は、次は自分の番だとホゾを固めるや、辛くも虎口を脱出。・・・・古なじみの者達の間を転々とする。最終的には
劉備の〔蜀漢〕に仕え、太傳として善政に尽くす。従って「許靖」の”伝”は『蜀書』に立てられている。その一方、「許劭」は正式な就官を断わり46歳で病没するので”伝”は、立てられていない
46歳で病没する迄、この許子将(許劭)は生涯、従兄弟を低く評価し続ける。その点に関しては
蒋済(万機論)など同時代の人々も
不当である
と「許劭」を非難している。だが我々後世のミーハーにしてみれば・・・万人が畏敬する〔月旦評の達人〕が、実は兄弟不仲であり続けたとは実に生々しくて、何か、嬉しいではないか。それにしても、他人様の事はよく評する許子将センセイ、1度でも自分の事を評してみる気には成ら無かったのであろうか?
後年、呉国に於いては【陸遜】や【諸葛恪】といったブレーン達が
『許劭らの如き人物評論家の言に左右される様な、『
中原的風潮の浸入』を、手厳しく戒めている。君主自身がもっとビシッとせよとの意だが、同じ中国でも南方の地(呉)は、各自がもっと夫れ夫れ伸びやかな気風を有している様に感じられる。


さて、そんな雑音を後に、敵地に向かった

太史慈を待ち受けている運命とは!?
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