【第75節】
孫策が「横江・牛渚戦」の前に、先ず血祭りに挙げようとしている【乍融】とは、そも何者なのか・・・・?又、『張昭』が復讐の炎を燃え立たせたのは何故か!?この「乍融」なる男の一時的な栄光と、その野垂れ死にの生涯を辿った時、其処に見えて来るものは一体何なのか?”以って他山の石と為す”べき人物と言えるかも知れない。『正史』には彼の字は伝わらない。(その代わりに?原註として「サクゆう」では無く「シキゆう」と発音せよとある。尚、正字は乍の上に竹冠が付く)
【乍融】・・・・江東は丹楊郡の出身である。丹楊と言えば、謂わずと知れた精兵の供給地であった。なかなかのやり手だったらしく、此処でこの男、数百の部曲を養う事に成功する。(のち孫策が此処で、同数の部曲集めに四苦八苦する事を想えば、可也のものである。)其れを己の金看板として、自分を売り込みに出掛けた。向かった先は、除州牧の『陶謙』であった。(どうやら私兵500と言うのが、仕官する際の、一人前の証しであったようだ。)当時この界隈で実質「群雄」と呼べるのは、除州牧の陶謙独りだけしか居無かったのである。江東(揚州)など、未だとてものこと政治的僻地であり、実質的な統制力(者)など皆無であったのだ。するや陶謙は、精強で鳴る丹楊兵が欲しかったとみえて乍融を直ちに下丕卩国の相に任じた。そして江東寄りの南部3郡(下丕卩・広陵・彭城)に於ける物資運漕=税の取り立てと運搬を任せ、監督させた。処が・・・この男の腹の底には、仕官した最初から剣呑な「野心」が在った。「下心」と言った方が当を得ているかも知れ無い。
《何としてでも、伸し上がって見せる!!》
あわよくば、《群雄》の一人に躍り出たい!・・・と云う強烈な権勢欲に取り憑かれて居たのである。だが、それ自体は、何も乍融に限った事では無く、この当時の男子たる者は皆、多かれ少なかれ胸中にそうした熱い炎を抱いて居た。問題は其の具現の方途である。何をやっても構わない、では有るまい。目的の為なら手段を選ばずとなると、其処には唯、信義無き底なし沼が待っている事となる・・・・とは言うものの、家柄も学歴も全く無い此の自分には、まとも尋常なルートでは、それが不可能だと云う事は、察しが着いていた。当時の出世コースは、受験競争を勝ち抜いた、一部の者の為にのみ用意されているのが現実であった。
《−−どうする・・・・!?》そこで奸智を絞って考え着いた挙句、ようやく辿り着いた結論は・・・・・・
【教祖に成る!!】−−事であった。
新興宗教の主宰者と成って力を蓄える・・・・!
黄巾党の張角(太平道)の如く、又、五斗米道の張陵・張衡・張魯一族の先例が、この男には一つの啓示と成って閃いたのである。《そうだ!教祖になら、俺にもなれる!!》
これなら家柄も学歴も要らない。否むしろ、家柄・学歴など俗世間なモノなど無い方が、如何にも神々しいではないか・・・然し、2匹目のドジョウ、人真似ではインパクトに乏しい。何事も2番煎じで大成した例は無い。《・・・・もはや道教では上手くゆくまい・・・・》
そこで、ふと、着眼したのが、未知の宗教。
ーー【浮図】であった・・・・!!
〔浮図〕−−とは、仏陀(BUDDA)→(FUTTA)→(FUTA)→浮図(FUTO)・・・
・の表音的・聞き間違いに因る命名で、この時代の中国には未だ【仏教】と云う言語さえ成立して居無かったのである。(※仏陀=釈迦はこの時代から約700年も前の、B・C563年又は566年に誕生)
中国最初の仏教寺院としては洛陽郊外に永平11年(西暦68年)に建立された『白馬寺』が有名である。
”光は西から差していた”事を想えば、成る程と頷ける場所では在る。又、郊外とは言え帝都に建立を許されて(別に咎められもせずに)いたのは、世界の中心を自認する中華大帝国の大らかさを示すものでもあるが、仏教が〔国教〕として自覚されるには程遠いものであった。飽くまで”異国人の宗教”として、放置・寛容されて居たに過ぎ無かった。
(※それなのに『三国志』の中には、時折り"寺人"と謂う言葉が出て来る。然し是れは"寺の人"では無く、【宦官】の別称であるから混同されませぬように。)
だが、2世紀末(当時)の中国大陸ともなると、我々が想像する以上の浸透力で、特に民間レベルでは、
その教えは信仰の対象として、広い裾野を持ち始めて居た様だ。(2代前の桓帝は私的に太平道と同列視。)取り立てて学識が有る訳でも無いこの男が識っていたからには、既にこんな僻地にも【浮図の教え】は、浸透し始めて居たと言えよう。いや寧ろ、中華中国で無い此の地方なればこそ広められ、広まって居たとも言えようか。いずれにせよ、この後の経緯などから推して、相当数の信者・又はシンパが居た事は確かな様だ。
乍融自身も初め、何等かの形(興味本位・モノ珍しさ)で接近していたと想われる。そして教祖に成ると一大決心してからは、より積極的に其の知識の収集に熱中した。だが其の知識とは、教義の中身では無く、主として、外見上の様式や儀礼であった。そして研究すればする程、感心した。無論、教義にでは無い。中身はどうでもよかったが、その組織力・様式・儀式・セレモニーの見事さは、とても「道教」の比では無かったのだ。
《−−これは、いける!!》 教祖・教団の主宰者として力を得る為には、民衆に分かり易く、眼に見える形で訴え、惹き付けていく・・・・そうした面でも《浮図の教え》は申し分なかった。流石に天竺(インド)で生まれて以来、700年も経た本物は違う!こうして己の目標が定まるや、乍融は其の準備の為、あとはもう形振り構わず、野心剥き出しの行動に出た。詰り「下丕国相」の地位を利用して、財物の横領・強奪を開始したのである。
《何事も、詰まる処は”銭の力”だ!》
『陶謙ガ 乍融ニ 広陵ヤ彭城ニ於ケル物資運漕ノ仕事ノ監督ニ当ラセタ処、勝手ナ振舞ヲシ、欲シイ儘ニ人ヲ殺シ、広陵・下丕・彭城3郡ノ献納物ヲ除州ニ送ラズ、其ノ儘自分ノ物トシタ。』
こんな傍若無人な行為が可能であったのには時局の背景が在った。除州を狙う「曹操の影」がチラつき始めて居たのである。陶謙の眼と軍は、北の曹操に注がれていた。いざと成れば、乍融の丹楊兵も当てにしなければならず、南の3郡には精々叱責の使者を、送り込む程度であったのだ。それを好い事に、乍融は、『其ノ様ニシテ、資力ヲ蓄エルト』、いよいよ教祖(教団主宰者)として振る舞い出した。
以下の 『正史』の記述は、中国に於ける
【原初・仏教活動】を記るし留めたものとして、非常に貴重、かつ研究者間では 有名なものである。先ずは兎に角、全文を掲げてみよう。
『(乍融は、)大々的に仏教寺院を造営し、銅で人の形を作って、その身体に黄金を塗り、錦や色採り鮮やかな布で作った着物をきせた。9つ重なった銅盤を掲げると、その下に幾層かの楼と閣道とを作り、その建物には3千以上の人を収容する事が出来た。
人々には皆、仏経を読む事を義務づけ、その郡内および近傍の郡で、仏道に心を向ける者には出家を許すとの命令を出し、
一般の賦役などを免除して、其の寺に人を集めたので、遠近より遣って来るものが、合わせて5000余戸にも登った。
浴仏の儀式が行われる毎に、夥しい酒食を準備し、道路に敷かれた蓆は何十里にも連なり、様々な人々が見物や食事に訪れてその数は1万人近くにも及び費用(ついえ)は巨億にのぼった。』
得意満面の『乍融』の様子が眼に浮かぶようだ。
尚、「銅で人の形を作って」・・・・とは〔仏像〕。
「9つ重なった銅盤」・・・・とは〔承露台〕とも想えるが、〔仏塔様式の九重の屋根〕だったとも考えられる。そして、その下の「閣道」・・・・と云うのは、2層構造の渡り廊下(奈良2月堂や京都・清水の舞台を大掛かりにした様なものか?) を意味する。又、「黄金塗りの仏像」の大きさが、どの程度のものであったか不明ではあるし、建築様式(伽藍配置)も当然、現代とは違っていよう。ーーだが、いずれにせよ・・・・・
「3000人以上を収容する」巨大な仏教建造物(寺院)が、出現して居たのは確実である。東大寺の大仏殿でも、殿内に3千人は収容できまい。それを想うと、その規模の大きさは想像を絶する。・・・・道の両側・何十里を埋め尽くす老若男女の間を進む時、「乍融」の喜悦は如何ばかりであったろう。それにしても、殺人を犯してまで横領・強奪した税や物資を”浄財”と称して寺院を建てるとはトンデモナイ人物・大ヤマ師であるこの男にとっては、《仏罰が下る》などとは、慮外の他なのであった。
−−だが・・・・彼の絶頂期は此処迄であった。
初平4年(193年)3月、父親を殺された憤怒の曹操が除州北部に乱入、見境なしのホロコーストを開始したのである!
この緊急事態に直面するや、乍融は寺院など放ったらかして南へと逃げた。然し、転んでも只では起きない。
乍融は男女1万人と馬3000匹!とを引き連れて広陵に向かった。(孫策軍が50頭の事を思えばその財力の巨大さが知れよう。 「資本投下」した以上の「利潤」は、ガッチリ回収して居た、と云う事だ。正に・・・・”坊主、丸儲け”を、最初に実行した【大ヤマ師第1号】であった訳だ。) ーー「広陵」は長江の河口(北岸)に位置し、行政区画では、もはや「除州」では無く、「揚州」領内である。つまり乍融は、除州の陶謙を利用するだけ利用した挙句、危なく成ったと観て取るや、さっさと見切りをつけて保身に奔ったのである。この時広陵郡太守だったのは趙cであった。この「趙c」は乍融とは対極をなす人物である。
『長年に渡り、屋内に閉じ籠って学問に没頭し、高潔かつ廉直な人柄で、清らかな精気と威厳に満ちた慎み深さの為、誰も彼の志を損なう者は居無かった。』 と言う。黄巾叛徒の対応では最高の功績が有ったとして上奏され昇進と恩賞に預かる筈であったが、趙cは『それを極めて恥ずかしい事と考え』、官を捨てて家に帰っている。又、あの『張昭』を孝廉に推挙したのも彼であった。更には、「張昭」が出仕を拒み、陶謙に投獄されたのを救出したのも、この趙cであったのだった。その後趙c自身も陶謙に半ば脅され、しぶしぶ出仕し、現在は広陵太守に着任して居たのであった。そんな清廉の士・趙cは、逃げ込んで来た「乍融」を賓客として迎え容れた。仏教活動を評価しての対応であったろうし、同じ陶謙の臣としての立場もあった。ーーところが、処がである!!乍融と云う男は、それを有難いと思うどころか、何と・・・・この君子を・・・・直ちに殺してしまったのである!!それも乍融を歓待する為の、酒宴が酣と成った席の事であった。趙cの敷いた善政に拠り、広陵が極めて繁華である事に眼を付けたのだ。最初から其の魂胆であったと思われる。
此処に、大親友「趙c」を惨殺された『張昭』の復讐心が燃え滾る理由が在ったのだ。その後も凄まじい。直後、乍融は兵を放つと大略奪を行い、有りとあらゆる蛮行の限りを尽くすと、奪った財物を車に満載して、そのまま広陵を去る。(初めから攻め込み、趙cは戦死、とする伝もある。)ーーとても、仏教に帰依して、巨大な寺院で信仰深い日々を送って来た人間の行える業では無い・・・
ブッダ、未まだ開眼せず・・・・の意味である。
だが、【乍融】の野心はこれからが本番であり、その信義無き戦いの日々は、まさに今から始まろうとしているのであった・・・・その後乍融は当然の事として、除州には顔向け出来無くなった。陶謙が没しその牧の座を譲られた『劉備』の代に替わっても其の関係は変わる筈も無かった。では自立出来るかと言えば、それは無理と云うものであった。何せ人望がまるで無い。当り前だ。
弱った。だが悪運?は未だ尽きて居無かった。突如、江東の地に揚州牧の【劉遙】が赴任して来るや、アレヨアレヨと云う間に一大勢力に伸し上がり、”群雄”の一人に数えられる事態が出現したのである。是れは乍融にとっては、渡りに船の状況であった。直ちに「劉遙」に面会して臣従を誓い、その配下部将の一人として認められた。上手いこと、潜り込んだ・・・・と云う処であろうか。
処で、もう1人、この「乍融」と同様、同じ時期に除州を去り、劉遙の元に身を寄せた人物が居た。【薛礼】と云う男で、元は除州・彭城国の相に任じられて居た。断定は出来ぬが、この2人(乍融と薛礼)には、単なる面識以上のものが在ったフシも窺える。この「薛礼」は〔▲牛渚〕と〔●曲阿〕の中間点・・・・〔●秡陵城〕=のちの建業・現南京に本拠を置き、劉遙(曲阿)を守る楯と成っていた。
ここまで筆を進めて来た時、筆者はハタと困惑する。此の時点に於ける『乍融』の守備位置が判然としないのである。是れが判らないと、これから先の、
「孫策軍の進撃ルート」を確定できずその戦闘の場面を描く事が困難・・・に成ってしまう、と云う重大な問題である。−−詰り記念すべき孫策独立の「緒戦の相手」が、それに拠って異なってしまうのである。何故、そんな事に成ってしまうのか?と言うと、関連する『正史』の記述が大雑把過ぎる為である。ちなみに『正史』は戦記では無く、人物の言行を記す事こそを第一義とするものであるからして、こう云う現象が縷々起こる。(だからこそ、面白いとも言えるのだが。)8ヶ所に散らばる「乍融」の史料等々を突き合せても尚、彼の軍営を確定できない。初めは移動せず、1ヶ所に駐屯して居たのはほぼ確実だが、2つの場所が考えられる。普通は、薛礼の秡陵城の直ぐ南に陣営を構えて居たとする。だが筆者は寧ろ、長江北岸の●広陵付近に居たと考えて、筆を進めて来ている。確信は6分〜7分位。
最大の根拠は・・・孫策が薜礼(夫陵)を攻めた後、『そこで長江ヲ渡ッテ乍融ヲ攻メタ』・・・・と云う記述。更には、その後、乍融を後廻しにして次々に
攻め陥とした城々が、『全て広陵の近く』・・・・と云う記述に基づくものである。
ーー疾風怒涛の5年間・・・・・世に謂う
〔呉の建国戦争〕・《呉の最も熱き時代》が、今、始まろうとしている。
その記念すべき緒戦の相手は【乍融】と決定された。乍融の、劉遙軍内に於けるポジションは、袁術軍(孫策隊を含む)の進攻に対して、その渡江作戦を牽制し〔横江津・当利口〕が攻撃に晒された時、直ちに陸路を駆け付ける・・・・と云う位置に在った。これは、横江津の敵軍船の鹵獲を狙う孫策軍にとっては、重大な脅威と成り兼ねなかった。だから先ず、これ(乍融)を叩いて措いて、側背の憂いを取り除いてしまおうと言う訳であった。
そして遂に、孫策(20歳)は全軍を長江北岸伝いに東へ向け、広陵付近に軍営を構える『乍融』攻撃に着手した。
時に195年(興平2年=建安年間の前年)春の事だったーーちなみに此の年は・・・・「曹操」に破れた「呂布」が「劉備」の元へ逃げ込み献帝(14歳)は長安脱出の旅に出る。又、未だ無名の、14歳の「孔明少年」が荊州に移住した年でもある。
乍融の陣構え(城砦)は、決して侮れるものでは無かった。略奪を繰り返して蓄えた資力は相当のものであった。軍馬だけでも3000余騎を擁している。又、短期間で巨大寺院を造営させたノウハウは、その築城技術にも遺憾なく発揮され、難攻不落を自負し得る物と成っていたのである。大小の湖沼や丘陵を巧みに組み合わせ、地形的にも堅固な構えを誇って居た。
ーー緒戦、乍融は孫策襲来を聞くと、何を小癪な!とばかりに、兵を繰り出して城外で迎撃させた。精強で鳴る丹楊兵を多く抱え、騎兵も圧倒的優位にあったから自信満々であった・・・だが乍融は重大な事を忘れて居た。乍融自身がそうである如く彼の軍兵は全て戦闘体験ゼロのアマチュアばかりであったのだ片や孫堅以来、全土を席巻して来た歴戦の勇将ぞろい。第U期の将校とて九江・盧江戦の実戦を経て来ていた。せいぜい略奪位しかした事の無い乍融の軍兵とは、性根と機敏さ・戦術眼・戦場の機微が違っていたのだ。
ーー激突2刻(30分)・・・・・乍融の軍はボロボロに撃ち破られたった一度の交戦で、何と首級500以上を挙げられてしまったのだった。終まいには乍融の将兵のする事と言えば、必死の形相で、先を争って城内に逃げ戻る努力だけであった。
《ウヌ、恐るべき奴め・・・!!》その実力差を眼の前で見せつけられ、愕然となった乍融は、これ以後、固く城門を閉じ、2度ト再ビ出撃スル事ヲ已メテシマッタ。
「充分だな。完全に縮み上がって居る。」
「こんな雑魚は、後廻しで構わぬでしょう。」
「よし、これで心置き無く、横江と牛渚に取り掛かれる。」
ーーかくて孫策軍は、亀の甲羅に居竦んだ乍融軍を捨て置くと、再び全軍を西に戻した。
「さあ〜て、ここからが本番じゃわい!」
いよいよ、長江を超えて、
江東に雪崩れ込むのだ!!
【第76節】 パピルスの筏 (いかだ)
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