【第74節】
中国5千年の歴史上、圧倒的な人気で中国の女性達から愛され続けている英雄・・・・《こんな素敵な人から恋人として愛されてみたい!!》他の英雄達にも「歴史ファン」としてなら女性からの支持は有る。だが、理想の男性として、ここ迄うっとりと憧れられる人物となれば、これはもう、彼を置いて外には居無いと言う。
女性ばかりでは無い。史書に於いても、彼の早逝を惜しむ声は在っても非難する者は唯の1人も無く、その評価は極めて高い。そんな人物が今、【孫策軍】に合流しようと、21歳の青春の炎を燃え立たせて居た。大好きな赤いマントを翻し、颯爽と白馬を駆る貴公子・・・・一陣の風と共に、鮮やかに三国志に登場する其の男。彼に従う兵士達でさえ憧れ、自慢したくなる様な凛々しき若武者ぶりであった。
彼を評して『正史』の著者陳寿は、次の如くに記している。
『若くして英邁闊達の気風が在った。大らかな性格で度量が有り多くの人々の心を掴んだ。他人の意見に惑わされる事無く、明確な見通しを立て、人に抜きん出た存在を示したと云うのは、誠に非凡な才能に拠るものである』
敵味方の区別無く、第一級の人物達が、その「人となり」を絶賛してやまない。ーー以下『三国志』の中で交わされる(語られる)、【彼】についての人物評価・評判を列記するが、読者諸氏には果たして、どんな人間像がイメージされ、浮かび上がって来られるであろうか・・・・!?
『入リテハ心膂(心や腕)ト作リ、出デテハ爪牙ト為リ、命ヲ銜ミテ出征スレバ、身ラ矢石ニ当タリ、節ヲ尽クシ命ヲ用イ、死ヲ視ルコト帰スルガ如シ。』・・・・【諸葛 瑾】
『文武両面ノ才略ヲ備エ、万人ニ勝ル英傑デアル。其ノ器量ノ大キサカラ考ウルニ、何時迄モ人ノ下ニ仕エテ居ル様ナ事ハ有ルマイ。』・・・・【劉備】
『長江・淮水ノ英傑デアル。』・・・・【王朗】
『事ヲ成サントスル大キナ気概ヲ持チ、胆力ト才略トハ人ニ勝ッテイル。其ノ気宇壮大ニシテ、及ビ難シ。』【孫権】
『優レテ俊敏非凡、広ク物事ニ通ジ聡明ナルガ為ニ、性向ヲ同ジュウスル者達ハ惹カレテ一緒ニ成リ、志ヲ同ジュウスル者達ハ其ノ気質ニ感ジ、集来セリ。故ヲ以テ、江東ヨリ、人士普ク輩出セラル。』・・・・【陸機】
『英俊ニシテ、異才!』・・・・【孫策】
『彼ニ破ラルル故ナレバ、我ガ逃奔ハ恥辱ニハ当ラザル也。』
・・・・【曹操】ーーかように称賛される人物であるが、その中でも特筆すべきは、5千人に及ぶ『正史』の記載人物群中、唯一、
彼だけに使われる、印象深い言葉が存在する事である。(他の讃辞は、よく用いられる言葉の組み合わせで成り立つのが普通。)
ーーその注目すべき、独特な表現とは・・・・・
〔高い精神的風貌を具えて居る〕 と言う、実に含蓄に富んだ、すぐれて固有な言辞である。是れは後日、曹操の意を受けた彼の幼な馴染の蒋韓が彼を寝返りさせようとして、その陣営を訪れ滞在したのち曹操に報告した時のもの。
『彼には、大きな度量と、高い精神的風貌が具わっており言葉によって彼を動かすなど、とても出来るものでは御座いませぬ!』と、蒋韓は絶賛した。此ノ事ガ在ッテカラ、中原ノ人士ハ益々彼ヲ重ンジル様ニ成ッタと『正史』は記す。もうとっくにお判りであろう。
【周瑜 公瑾】・・・その人である。
2代目・孫策とは同じ歳で、”断鉄の友情”で固く結ばれた義兄弟と成っている。人々からは〔周郎〕の美称で慕われ、畏敬される。特に若い女性の間では、美周郎に睨まれたい!と云う、流行語が生まれてゆく。周瑜公瑾は、死をも恐れぬ武勇の者であるが、而して武骨では無く、ロイヤルな香りがする。その1つに研ぎ澄まされた《音楽センス》が挙げられる ※ちなみに、音楽は、名士(知識階級)には必須の教養・嗜みであった。一代の大学者と謂われた蔡邑が、琴の名手でもあった如く何らかの楽器を奏でられなければ嘲われた。又、名士間の重要なコミュニケーションの場である「酒宴」では、必ず楽曲が披露されたし、その為の楽団を擁していた。
【周瑜】は酒も強く、爵が3度巡った後でも、その演奏に少しでも間違いが有れば、必ず其れを聴き分けた。そして聴き分けると、これも亦、必ずキリッと振り返った。・・・・その横顔が又、何とも苦味走って堪らない。だから中には、睨まれたくてわざと間違える娘達まで出る始末・・・・「周様ステキ!!」と云う訳である。
『曲ニ誤リ有ラバ、周郎 顧ミル。』
甘いマスクと洗練された物腰。博い教養と高貴な出自を持ちながら凛呼とした男らしさが香り立つ青年ーー彼が風雪で鍛えられた暁には、更なる風格が具わり、万人から敬愛される大人物と成るであろう・・・・。
→
だが・・・・たった一人、周瑜に反感を抱き、明ら様に不快顔を見せる人物が出て来る。
軍の重鎮、最長老の【程普】である!
『性度 恢廓ニシテ、大率 人ヲ得タリト為スモ、
惟ダ 程普トハ睦マズ。』
程普こそは初代・孫堅からの生え抜きの譜代武将であり年齢も60に近く元老の風格が在る。歴戦の辛酸を嘗め尽くして来たと云う、武人としての誇りと自負・自尊心が有る。
《いかに名門出身の天才であろうと、2代目の義兄弟であろうと、ポッと出の若僧とは訳が違うのだ!》 『程公』と畏敬され、軍部内では実績・人望とも頭抜けた存在であった。
《それなのに、2代目を含めて、余りにも周囲が奴を買い被り過ぎておる。我ら宿将の立場が無いではないか!》
時として孫策は、程普らを差し置いて、その頭越しに周瑜と事を決したりもする。程普は飽くまで軍人であり、軍政家では無いから仕方無いと言えば仕方無い立場だが、誠に面白く無い。
【程普】の方がヘソを曲げた。しばしば周瑜を一方的に無視し、口もきかずにソッポを向く様に成っていく。・・・・是れは、生まれたばかりの『孫呉政権』、ひいては『呉の国』の安定にとって、由々しき大問題である。国軍の総司令官と参謀総長とが、しっくりゆかぬでは、「行く末」に大変な不安が付き纏う。無論、程普とて”人物”である。だから当面、作戦行動に直接重大な支障が生ずる様な愚は犯しはしない。「公憤」では無く、それが「私憤」である事は自覚できて居る。ーーだが、程普が周瑜に抱く反発の気持は収まらず、時と共に増々昂じていく・・・・。然し、それに対する周瑜の態度は、終始一貫して変らない。・・・・身を低くし、常に『程公』を立て、決して逆らったり、腹を立てる事が無かった。本心から「元勲」として尊敬して居るのだから、演技では無く、真心が入っている。
然し、この「元勲」と「新鋭」間の、〔反発〕と〔謙譲〕の一方通行は涯てし無く続く事になる。大抵の人間なら、況してや20代の若者なら尚のこと、己の誠意が通じ無ければ、何等かの暗い気持や逆ギレの心情に成るのが普通である。だが、周瑜公瑾の心は、澄み切った儘で濁らない。又、周瑜は、孫策にグチを零す訳でも無いから、孫策も亦、この件に関しては一切口を挟まず、両者在るが儘に放って措く。ーーとは言え、周瑜も人の子・・・・行く末が心配ではある・・・・。
《我 起、 請 君!》・・・・
万感を込めた、簡潔明快な連絡文が、「舒」の周瑜の館へと届けられた。だが此の時、周瑜は留守であった。
「いま”若”は、丹楊の叔父君の所に出向かれて居られます。直ちに当方から早馬を出しまする故、孫伯符様には『万事心得て居られます』と、お伝え下さりませ。」
留守を預かる”周の爺”が、嬉しそうに使者を見送った。今し周瑜が出向いている、彼の叔父・「周尚」は、先ごろ 「袁術」から〔丹楊郡太守〕に任じられ、敵(劉遥)勢力下にある、長江の南岸地域へと赴任していたのであった。謂わば、敵の真っ只中へ、敢えて送り込まれた格好である。(劉遙の本拠地・曲阿からは、僅かに南西へ80キロの地点に、丹楊の城市は在る。)
だが劉遙も同じ漢の宗族・廷臣として、迂闊には「周一族」に手が出せない背景が在った。それを見越して袁術は周尚を敵地に送り込み、劉遙を困惑させ牽制する戦術を採ったのである。なにせ
(一部既述の如く)周一門は後漢朝以来の名家で、周瑜の従祖父(父の同姓の従兄弟)の『周景』は豫州刺史・尚書令と昇進し終には最高官の《太尉》にまで昇っていた。その間、陳蕃・季膺など宦官の横暴に立ち向かった、錚錚たる英俊を幕下に任じ、用いている。その以前にも、周景の父の「周栄」は、3代・章帝と4代・和帝の時代に尚書令と成っていた。又その後は、息子の
「周忠」がやはり太尉と成っている。周瑜の父「周異」も、若くして洛陽県令を務め、早逝していなければ、いずれ大官に就いたであろう。怪雄袁術は頻りに「4世3公」を自慢にして居るが、「周氏」も亦、それに控けを取らぬ大名門なのであった。世が世であれば周瑜自身が太尉に任じられ、人々を用いると云うケースも濃厚だったのである・・・・・。
そして【周瑜】は今、その叔父の「周尚」の所へ、御機嫌伺いを名目に出向いていたのである。 無論、真の目的は・・・・一門の若きリーダーとして、周一族の、『最終的意志固め』を行う為であった。当然、周瑜は以前から、〔此の日〕の在るを胸に期して備えて来ていた。 この直後の、彼の素速い対応ぶりが、それを証明している。又、後日、孫策軍が縦横無尽に江東一円を機動するに当たり、勇猛な丹楊兵の補充と艦船の提供更には兵糧の確保とを、大々的に整えて措いて呉れたのも、実にこの
周尚(周一族)の協力体制が在ればこその事となる。
「−−おう、遂にやるか!・・・・好し!!」
折りしも届いた決起の報せーー直ちに500の精兵を率いるや【周瑜公瑾】は、友との約束の地・歴陽へと勇み発つ。「丹楊」から「歴陽」へは、長江を挟んで僅か40キロ。敢えて南岸に留まらず、長江を一旦押し渡り、北岸の会合地点へ進出して、友を出迎える事にした。
「途中からでは無く旗挙げの最初から、共に生死を分かち合いたいのじゃ!」 風に翻る赤いマントが白馬に好く似合う。
父母を含め一族中に心映えの優れた人々が多かった。
「人を大切にせよ」と云う家風・家訓の様なものが、脈々と受け継がれて居る一族であった。又、その生い立つ養育の身辺にも、人としての在り方を示したり、その手本になる様な人柄の人材が、多く関わったのであろう。 畢竟『物心両面に渉る最高の環境が、理想の形で結実した場合にのみ』こう云う人物が現われる。心身共に伸びやかで、男としても、人間としても、魅力に溢れる青年へと成長していった。・・・・決して驕ったり、己の才を鼻に掛け人を見下したりする事も無い。いや、する必要など全く無い世界で育ったのである。一族の家勢が絶頂でも無く、どん底でも無い、程良い時期だった事も幸いしたかも知れ無い。そして、自分が人に優れ、多くの才を有する人間で在る事すら自覚しないで済む様な、度外れた心の寛さを宿す事に成っていった。自他の比較など全く気にもせず、とにかく巡り会った人を心から大切にする。それが結果として、在りの儘の姿で、出会う人をすっかり魅惑してしまう。その魅力の源泉は・・・・
善い意味での「こだわりの無さ」・「業欲なき大器」で在り得た点に帰するであろう。その生涯に於いて、ガツガツする必要が全く無い境涯に在り続け、純粋に〔精神的風貌〕を追い求め得る環境に恵まれて居た・・・・と言えようか・・・・普段は寧ろ、どこか妖精的な、優しい貴公子の香りを漂わせて居るが、而して体の奥処には、限り無き不屈の勇猛心を秘めて居る男・・・・
【周瑜公瑾】の戦いは、今、始まろうとしていた。
長江(歴陽)を目指して北と南から・・・・互いに吸い寄せられる如くにして、【孫策】と【周瑜】の義兄弟・断鉄の友情が近づいてゆく。
先着したのは、500の周瑜部隊の方であった。
「母上お久しゅう御座いました!御健勝で何より。伯符の奴、とうとう遣りましたね!!」
「−−おお、公瑾!よくぞ、よくぞ、来て呉れました!!」
心許無い流転の境遇に在った呉夫人には、どれほど
心強く、安堵の慰めとなった事か。ーー呉夫人との涙の再会を果たして待つこと2日・・・・。来た、来た!!・・・・濛々たる砂塵を巻き上げながら、6000余に膨れ上がった大軍団を率つれて、我が友・孫策は現われた。
「お〜い、伯符〜〜!!」
「おお〜、公瑾〜〜!!」
大軍を押し留め、唯2匹の若龍が、左右から疾駆する。互いに手を翳しながら、見る見る騎影が大接近していく。・・・・今から
6年前、2人が初めて出会った時の光景が、鮮やかに甦って来る様だった。孫策の赤銅製の鎧がピカピカ光る。周瑜の赤いマントが風に靡く。白馬と黒馬・・・・・3年ぶりの、劇的な再会である。手綱を絞り合い、棹立つ愛馬を御しながら、2人は馬上で互いを抱き締め、肩を叩き合った。
「やったな、伯符!おめでとう!!」
「うん、有難う、公瑾!君が来て呉れたからには
我が事は、既に成ったも同然だよ!」
ーー吾、卿ヲ得テ、諧ウ也!!
「やろう!!」
「おおやるとも!」
蒼き双子の龍の子は、駒音も高く轡を並べて合流した。 即ち、一匹の2倍の力量を発揮する【双頭の龍】が生まれ今まさに呉の天空に飛翔せんとしていたのである。
ーー期せずして、全軍から挙がる鯨波ときのこえ・・・・・!!
かくて此処に、史上稀に見る、友情のみに結ばれた、男同志の建国の史劇が始まろうとしていた。
気さくで冗談好きな孫策の帷幕は、明るく、意気 天を突く活気に溢れていた。新規に馳せ参じた誰彼となく、孫策は肩を叩き合い、戦陣用の食事を共にする。
周瑜は本物の兄弟として、孫策と同格の待遇を受けている。それは有難い措置だが、周瑜の眼には、孫策の立場がやや気の毒に見える。確かに今彼は嵐の中心には居る。が、帷幕の中で、何処か未だ「遠慮」が見える。本人は気にもせず豪快に笑い飛ばしてはいるが、年長の宿将達に対しては主従と云うより親子に近い接し方である1500が一挙に万単位である。本軍が霞んでしまう様な寄り合い所帯と言ってもよい。臣従と云うより、合力に来たと自負している者達も居る。 しかも若冠
21歳に過ぎ無い。《ーー無理をせねばよいが・・・・》孫策と肩を並べて応接しながら、周瑜はそれとなく友を思い遣る。 《何時か其の内、俺の方からキッチリと、臣下の範を示さねば、収まりが着かなく成るか。》・・・・それで無くとも、元来、その性向からして、孫策は基本的に、戦さが好きで堪らぬタイプである。どちらかと言えば、本陣で座って居るより、陣頭で奮戦する事に心地良さを覚える傾向がある・・・・と観える。まさか我を忘れる事は有るまいが旗挙げの熱気と、君主権の確立の為、新参者に対しては、《・・・・流石は!!》と思われたい衝動に駆られぬよう、1本クギを刺して置こう・・・・・亡き江東の虎、父親・孫堅と同じ、猛々しい血がその体内には流れているであろう・・・・。
父親は其れが命取りに成っている。
《俺が護ってやるしかないな・・・》改めて、そう思う周瑜であった。
だが、そんな周瑜も《やるな!》と思う点が有る。途中から参入して来た将兵が、その8割を占めると云う俄か造りの混成旅団でありながら、全くそんな風には見えないのだ。下士官以下、一兵卒に至るまで威令が行き渡り、その軍紀の粛然たる様は流石であった。総司令官たる孫策は、続々と麾下に入って来る者達を一目見るなり適格に、4宿将の下へと振り分けた。そして宿将がそれをビシリと統率していく。友は締めるべき要所はキッチリと押さえて居るのだった。
『兵士達ハ命令ヲ遵守シ、無闇ニ捕虜ニシテ財物ヲ掠メ盗ル事無ク、家畜ヤ農作物ニハ指一本触レル事ガ無カッタ。』のである。初めのうちは、《孫策軍来たる!》の報に、人々は、胆を潰し、略奪暴行を恐れて、主だった役人達(地域豪族)は城郭を棄てて山野に身を潜める有様であった。当時の戦さとは、そう云うものだったのだ。だが、実際に孫策が遣って来てみると、そんな心配は全く無い事が徐々に判りだした。砂地に水が沁み込む如く、その善為は忽ちにして人口に膾炙していった。ーーすると、人々は安心するだけでは無く、こうした統治者を待ってましたとばかりに、君子豹変して好意の支持者へと積極的に変わりだしていく。征く先々で「牛酒」や「羊酒」を差し入れ、(祝意を表わす献納物の象徴品。ビーフやマトンと酒樽)この挙兵を慶賀しに来る者達が引きも切ら無い状態と成っている一種、保険を掛けて措く意味合の強い、民間人の智恵ではあるが、民衆にとっても、孫策の旗挙げは《義挙》と映り始めている証左だ。
《−−やるな・・・・!》と、嬉しくなる。この潮流を本物の「世論」とし、此の一帯に雪崩現象を引き起こす為には、何と言っても【明確な勝利】 が必要である。
先ずは〔横江津〕と〔当利口〕の、2つの渡河地点を
守る、敵の城砦撃破が焦点となる。呉景と孫賁が2年かけても陥せず、寿春を発つ時点では最大の攻略目標とされていた。(※津も口も渡し場を示す語) 《横江津》は、当時の長江河口(曲阿の所在地)から160キロほど上流の「北岸」に在る。この砦は袁術勢力の渡江を阻止する為の、劉遙側の突出ポイントであり、その対岸には最前線基地として〔牛渚〕の砦が築かれていた。
即ち、長江を挟んで北岸の【横江砦】と南岸の【牛渚砦】がワンセットに成った、劉遙側の阻止ライン、若しくは進撃拠点であった。軍糧や兵器などの大量の輜重は、むろん南岸の牛渚に備蓄されていた。兵力の重点も牛渚側に置かれている。それでさえ(分遣隊に過ぎぬのでさえ)、2年もの間、この「横江津」を陥す事は出来無かったのだ。かなりの強敵と言えた。ーーその横江津の守将は【樊能】と【于麋】。それを脇から支援する為に、其の直ぐ西の「当利口」には、【張英】が配されて居た。然し今や、”万”に近く成った孫策軍にとって、この2つの砦を陥す事は、さして難しい事とは思え無く成っていた。−−だが、此処に1つ重大な問題が在った・・・・・【船!】である。孫策軍には、渡江用の艦船が欠如していたのである!!ーー何となれば袁術が孫策に期待していたのは、敵の橋頭堡を潰す事であり、それ以上のものでは無かったのだ。だから当然、軍船の用意など全くさせずに送り出したのであった。そもそも袁術はじめ関東の群雄は、その地勢上、軍船・水軍を所有する必要など、全く感じては居無かった。又、陸上を持ち運べる類のものでも無い。だから《船》は、長江の南に住む者達にのみの占有事考であった。と言う事は・・・・孫策軍には今、渡江用の船艇は全く無い。僅かに周瑜が500の部曲を渡らせた十数隻が手元に有るだけであった(この時点では未だ、「周尚」の軍船調達は捗っては居無かった。)15・6隻では、幕僚達でさえ満足に収容出来無い。まして100頭に増えた軍馬を載せれば、その数は更に減る。せっかく集まった万余の将兵達は、向う岸に辿り着く事が出来ず、指を銜えて撤収するしか無い。「ピストン輸送すれば善いではないか!」 と言う案も出されたが、それは危険過ぎる。少人数をチビチビ揚陸したのでは、向う岸で手薬煉しいて待ち構えて居る大敵に、その都度各個撃破され、結局は全滅の憂き目に遭わされるだけである。
では、軍装を着けたまま、兵を泳ぎ渡らせられるかーーと言えばそれこそトンデモナイ事であった。何しろ、この地点での長江の川幅は、ゆうに5キロはある。対岸すら霞み、もはや江と言うよりは「海」に似た広さであった・・・・!泳ぎも碌に知らぬ上、手には武器を持ち、鎧兜の完全軍装で大河に入るなど、自殺行為である。
※当時、『水泳技術』は、江東の地の人々でさえ、極く特殊な者達しか体得して居無い。だから史書には屡々、戦死者の何倍もの、万単位の”溺死者”が記録されるのである。川を背にする【背水の陣】とは、文字通り、泳ぎを知らぬ将兵にとっては、死を覚悟したものなのであった。
ーー軍議は暫時、喧々囂々となった。が、最終決断は、孫策が下した。「軍を2手に分け、横江と当利の2つの渡しを、同時に陥とす!狙いは、〔敵の軍船の捕獲〕にある。肝要なのは、素速い電撃行動だ!敵が乗船して脱出する暇を与えずに、事を決するのだ!!」 「・・・・其れしか有りますまい・・・・。」
腕組みしていた程普が、頷いて見せた。
「だが、その前に先ず、【乍融さくゆう】を討つ!!」
張昭の眼にギラリと復讐の炎が燃え上がった。
「母上、度々の御動座で申し訳御座いませぬが、いよいよ敵との戦闘に入ります。 戦さともなれば、ここ歴陽は戦場に近過ぎまする。万一の事が有ってはなりませぬので、一旦、阜陵へお移り下さい。」 阜陵は北へ30キロの邑である。
「なんの、気に掛ける事はありませんよ。お引越しには、もうすっかり慣れっ子に成って居ますもの。」
呉夫人の半生は、「移転の歴史」でもあった。夫・孫堅の半ば強奪にも似た求婚に、仕方無しに嫁いで以来、これで何度目の移住になるであろうか?銭唐の実家から富春・曲阿へ、夫の任官と共に塩賣・クイ・下丕卩(除州)へ。董卓征討時には寿春・・・・
そして舒の周瑜邸。夫が戦死すると曲阿、江都、歴陽そしてまた阜陵へ。それとて当座凌ぎの仮住まいに過ぎ無い・・・・。
「伯符と公瑾が存分になされる為とあらば、この母は、どの様な事も厭いはしませぬ。どうか安心してたもれ。」
全く動ずる風も見せず、呉夫人は微笑んで見せる。
流石、江東の虎に見込まれた女性である。
優しい物腰だが男以上に胆が据わっている。周瑜が、孫策母子の気持を察して、母を慰める。
「伯符と二人して、必ずや江東を平定し、母上を曲阿(夫・孫堅の墓所孫氏ゆかりの故郷) にお連れ致しますから、暫しお待ち下され。」
「頼もしい双子ですね!」 「我等は双子ですか!?」
「そうです。私にとっては伯符も公瑾も、同い歳の吾が子です。」
そう言われ、嬉しそうに互いを見やる”双頭の若龍”であった
−−かくて双頭の龍の、
生涯止む事の無き、戦闘の日々の、
其の幕が切って落とされる!!
【第75節】 ブッダ、未まだ開眼せず →へ