【第72節
南方の風雲児
                                   へっぽこ軍隊・成長記




敵・劉瑤軍の総兵力は5万〜6万!!対する、我が孫策軍千と500・・・・ほぼ50倍の大敵に向かって進んでいる−−是れはもう無茶苦茶な、暗澹たる数字である。然も兵士1000人に将校が500・・・兵隊2人に上官が1人ずつ付いて居ると云う塩梅である。そのうち騎馬はたったの50!やたら頭デッカチな、奇妙な軍隊・・・・それが続々と、死地に赴いていく。ところが何故か、此のちっぽけな
へっぽこ軍には、悲壮感と云うものが全く見当たらない。それ処か、何がしお祭り気分目出度さ一杯の雰囲気が溢れ嬉々とさえしている風に見える。その先頭をゆく50騎が、本物の幕僚たち。 「ーー殿
最長老の、いかめしい程普ていふが、若き2代目の
背中に、感慨深かげな眼差を送りながら声を掛けた。
「おう!何じゃ?」
腰をひねって、明るく振り返ったその仕草・・・・
《似、似ている!そっくりじゃ!若き日の文台どのに!!》
ーー
じ〜〜ん・・・・と感激にひたる白髪の老将。
《丸で、10年以上も昔の、己れ等の姿を見ている様じゃ・・・!》

皆からは程公と呼ばれ、畏敬されている、ーー
程普ていふ 徳謀とくぼう・・・この時既に60歳に成ん成んとしていた。21世紀の現代でも、流石に60歳だと、力仕事はチト・キツイ?
それなのに、此の元気印の爺サマ・・・現役バッリバリの実働軍人で、つい先日の「盧江戦」でも、敵の首を十数人は挑ね飛ばしていた。「いえ、なに、その・・・ハハハハ・・・ただ久々に”殿”と、お呼びしてみたくて・・・。」 この晴れがましき日の来るのを、彼ら初代恩顧の諸将達は、どれほど待ち望んで居た事か・・・・!
「そうか。皆も今日まで、よう耐えて呉れた。是れまで、父の軍を一糸乱さず統率あげて居て呉れたのも、ひとえに程公のお陰じゃと思っておる。何せ程公の武勇と沈着冷静さとは、父の代から、我が軍の誇りじゃった。儂も頼みにしておるからな!」
ーー益々、
じ〜〜ん・・・・!!
下士官500・・・・彼等も皆、一人一人が、
孫郎どのから認められた、誇り高き戦士ばかりであった。全員が一攫千金・千載一遇のチャンスと、燃え立っている。だから、全軍に渡って、勇躍颯爽たるの空気が横溢していた。ーーとは謂え、如何に”やる気”が有っても、ひとたび現実を直視すれば・・・・「1500」で5万・6万に突っ込んでゆくのは余りにも無謀、無鉄砲の謗りを免れまい。自滅・潰滅は目に見えている。ーー蓋し、孫策と云う男は
勇猛では在るが決して無謀な人物では無かった
況して今や、彼の傍らには張昭張紘と言う2大ブレーンが付いて居た。「やれまするな!」と云う冷静な読みと「独立し得ましょう!」と云う確固たる見通しが在ればこそ《旗挙げ》に踏み切ったのである。決して、切羽詰り、苦し紛れに大バクチに出た訳では無い・・・・では一体、この若者の計画ではどうやって江東を平定統一し、袁術からの分離独立を果たそうと描いていたのであろうか・・・・!?
畢竟、この進軍の目的は、何を差し置いても先ず、「軍の増強」・増殖に在った。すなわち 
将兵集め を、その最重要課題・メインテーマとして把えて居たのである!!・・・・
事実、この「
へっぽこ部隊」が辿った行程と日数を観れば、それは一目瞭然となる。 袁術の本拠地・「寿春」を発った彼等が、先ず
目指したのは
横江津】では無かったのである。確かに東南方向には進んではいたが、直ちに敵の立て籠もる城砦を念頭には置いていない。横江津のすぐ東に在る歴陽を視野に入れていた・・・・然も直行するのでは無く、ゆっくりジグザグと★★★★★各地を転進している。詰まる処、将兵集めとは、人心の掌握・イメージ戦略に外ならない。行けば食える!』・・・・是れが第一だが、人の心は其れだけでは掴めない。孫策は全軍に布令した。
よいか、最初が肝心じゃ!我が孫策軍は、略奪・暴行は是れを一切許さず! たとえ莚1枚、米1粒と雖も、この禁を犯した者は位官に関わり無く、直ちに斬必要な時には必ず代価を払え!よいな、一人一人が心せよ・・・・我が軍は、正義の為にこそ戦うのじゃ。私利私欲に眼が眩む如き振舞いは無用と心得よ。人々に恐怖を与えてはならぬ。人々に安心感と信頼感こそを施す軍なのじゃ其れを然と腹に据えて働いて呉れ。」
程普ていふが後を継ぐ。「但〜し、説得に応ぜず、敵対する者は、この限りに非〜ず。遠慮のう、眼にモノ見せてやれ〜イ!!
張昭ちょうしょうが最後を締めくくる。「よろしいか御一同、我等が百年の隆盛は、ひとえに此の進軍に懸かっていると思って戴きた〜い。栄えある孫氏旗挙げに加わった事を、生涯の誇りとし末代までの語り草と成って見せようではないか
「オオ〜〜!!」1500と言えば、正式には《軍》では無い。だが、小じんまりして居ればこそ、この孫策の意図は、兵卒の1人1人にまで浸透していく。苦しい台所事情ではあったが、下士官全員に小金(必要経費)を与えてある。又、馳せ参じた者達によって、軍が膨れ上がった時に備えての兵糧米は、思いの外に潤沢であった。 それが可能と成ったのはやはり、2張が参陣して呉れた事から波及する、同じ名士層の協力・支持のお陰であった。彼ら「名士」の経済力、その底力は巨大だった。今や孫策の幕僚と成って呉れて居る彼らが拠出してくれたその軍資金と兵糧米なくしては、今回の挙兵は成し遂げられなかった、と言える。とかく武人は、華々しい戦闘にのみ眼を奪われがちだが戦さの行方は、実にその財力の裡にこそ見出されるべきものなのだ。それがトドの詰まり人心の掌握に繋がる。何故なら、貧しい軍隊・軍属は略奪に奔らざるを得無くなる。一旦、その味を占めてしまった軍隊は、際限なき略奪を繰り返し、いずれ滅亡しよう。その事を想起すれば、孫策軍の旗挙げ規模は、却って適当であったやも知れぬ?
此処でチョット、『軍隊の編成規模』について、軽くおさらいして措こう。何となればこの旗挙げは、孫策集団=へっぽこ部隊が正式に【軍】の規模へと急成長していく過程でもあるからである ーー古代中国(漢王朝)に於ける「朝廷軍」の基本単位は・・・・5人=伍である。伍長と云う語の起源にも当たる。
 この
5人を・・・・れつ と呼んだ。
 その烈が集まった
200人を・・・・きょく
 曲の倍・
400人が・・・・
 部の倍・
800人を・・・・こうと呼ぶ。そして其の「校」を4つ集めた3200人の兵団が初めてと称された。

5()→200()→400()→800()→3200()・・・・と成る。 だから群雄達の私兵集団を部曲ぶきょくと呼び習わしたのも この400〜800人規模を指した訳である。又将校と云う語も、「校ヲ将ス」から来ている事となる。そして、
この《軍》を率いる将がであり、「軍以下」の指揮官は校尉こういである。三国志には「××校尉」と云う称号が頻出ひんしゅつするのだが、その由来は此処にある。
「一の編成が3200人とは、意外に少ない兵数だな、と思われようが、漢王朝初期(三国時代から400年前)の段階ではこれでも大兵力であったのだ。無論、万を超す兵団も『軍』であるが、それは後期の事。歴代皇帝は、その由緒ある呼称を、敢えて改変して来なかった為、今(三国志の時代)の現実には、対応しなく成ってはいる。だが、各地の群雄は現在も尚、旧習に則って、自分の私兵集団を部曲と呼び、1000人以下の指揮官を『校尉』に任命していた。とは言え、将軍!」と云う語感は、すこぶる響きがよい。又、「ワシはを保有しておる」よりは、「ワシはのオーナーじゃ!」と言った方がはくが着く。だから今や群雄は、己の権威づけの為に、やたら勝手に『将軍』を粗製濫造(任命)したから、何処へ行っても「将軍だらけ状態」には至っていた。尚、こうした私的将軍号は後世、雑号ざつごう将軍として区別するが、そのネーミングは千差万別、群雄のアイデア次第と云う事になる。ましてや、「校尉」レベルに関しては、もう其の殆んどが急造・即席のネーミングである。
(時を追って、次第に全国規模で共通・類似はしてゆくが)
孫策が袁術から付与された折衝校尉せっしょうこういも同様で重要なに臨んで敵の堅砦をき崩す為の「1000人規模の指揮官」である事を示そうとしているのであった。・・・・つまり、時代遅れの古代兵制に当て嵌めてみても、「孫策集団」は未だ、とてもの事 『孫策・』・・・・とは呼び難い状態であるのだった。すなわちーー掛け値無しの1500」キッカリ・・・・。
対する
劉瑤りゅうよう】の兵力は5〜6万!!
−−だが実は・・・・是れにはカラクリ・
数字の魔術が隠されていると、孫策は看破っていた。確かに合計すれば、5〜6万と云う数字には成ろう。然し実態は、大方がイメージする如き大集団としての【軍団】では無かったのだ。「劉瑤」に反対しない者、敢えて拒まぬ者も含めて、揚州刺史と云う肩書を認め、「長いモノには巻かれて措こう」とする日和見勢力を全て”劉瑤軍”として呼称していたのである。つまり、単なる数合わせに過ぎぬ面も在った訳なのだ。だから実際には、各地にバラバラに点在する地元豪族も多く、実働可動兵力はガクンと落ちる。
又《
横江津おうこうしん当利口とうりこう》に敵の主力全てが結集している訳でも無い敵本軍は寧ろ、100キロ下流の「曲阿」方面に在り、江東の平定戦に動き廻っている。無論、何時でも横江・当利への支援可能な体勢にはしてあるであろうが。
さて、この間にも行く先々では・・・・
張紘の手になる
げき(文)と、張昭の認めた招請文とが、次ぎ次に発せられていた。無論、いずれ袁術の眼に触れるであろう事は配慮し、”独立”については伏せてある。又、宿将や下士官も、此処を先途とばかり、孫策の旗挙げを邑々に触れ廻った。ーー果たして・・・来るわ、来るわ!!孫策部隊は見る見る、その兵力を増やし始めたのである。連日連夜、孫策の帷幕は、臣従を誓っては押しかける者達でゴッタ返し始めた。出発した時は僅か1000だった手持の兵力は瞬く間に倍の2000と成った!!
『孫郎どの挙兵!』と聞いて「いざ、我れもこそ!」「すわ、その時ぞ!」と馳せつけて来る者達は、引きも切らない。

ーー2000から→2500・・・・→3000・・・・そして遂に・・・・「殿、おめでとう御座いまする!やりましたぞ。3200を超え、我々はとうとう、公式にと、成りましたぞ!!
マメに帳簿をつけていた
張紘が、珍しく顔を上気させて嬉しそうに立ち上がった。
「そうか。有り難き事じゃ。これも亡き父上のお力じゃな」意外にも
孫策は些かもハシャがず、静かな声音で、顔だけニコリと笑って見せた。「未だ未だ続々と御味方が増えておりますぞ!」
程普は感動に総毛立ちつつも、立てた佩刀はいとうに両手を置き、ズシッと仁王立ちして居る。その隣りでは、やはり長老の黄蓋が、目頭を熱くして居た。
ーー3500!・・・→4000!・・・→4500!・・・・長江北岸・揚州北端の各県から、陸続として「部」・「曲」・「烈」の単位で将兵らが馳せ参じて来る。中には、手槍1本すら持たずに文字通りの裸一貫で単身志願して来る者すら居た。
−−5000・・・→5500!!・・・→
一体、この狭い長江北岸地区の何処に、これ程の兵士達が潜んで居たのか!と、俄には信じ難い勢いで増え続けた。未だ此処は、孫策の本貫地故郷の江東では無い・・・のにである!!

ーーやがて孫策軍は、第一の目的地・歴陽れきように到着。  その直前、敵が立て籠もる横江津おうこうしん砦脇とりでわきを通過。出発時の儘であったなら、発見されぬ様コソコソと遠廻りする処であった。が何と孫策軍は、これ見よがしにゆったりと、敵の鼻ずらを事も無げに横切って来たのである!それも当然ーー威風堂々・・・・歴陽で落ち合ったおじ呉景は、腰を抜かした。ーー話が違う・・・・事前の知らせでは1000の部隊の筈であった。処が今、眼の前に現われたのは・・・・呉景が夢想だにしなかった、途方も無い大軍団であった!!おい孫賁もド肝を抜かれ、しばらく 2人はポカンと口を開けて居た・・・・。
「あ、
姉上をお呼びして参れ!是れを見せずに置かれようか!」 舅の呉景は側近を、彼の姉(呉夫人)の元に走らせた。「ーーし、信じられん・・・・あの小さかった坊主が!?」
姉が産んだ最初の子だったから、産着うぶぎの時からダッコしてはあや☆☆し、チョンガーの気楽さもあって、幼い孫策を連れ廻す様に可愛いがって来た呉景である。両親以外の大人としては、この呉景以上に親しい者は居無かった。我が子同然の存在である。今は未亡人となった呉景の姉、即ち孫策の母である
呉夫人は、幼い子等を連れて、この「歴陽」に身を移して来たばかりであった。夫(孫堅)亡き後は、既に数回もの転居を味わっていた。そんな辛酸しんさんめている姉に、母親として第一番に、この我が子の晴れ姿を見せてやりたい!
「おお姉上、あれを御覧なされ!あの大軍団、あの砂塵さじんあるじこそ、姉上様の吾子ですぞ
「あ、あれが・・伯符の軍だと申されるのか!?」
「やりましたな!やって呉れました・・・・!!
「ああ伯符や・・・亡夫様あなた・・・私達の子は、こんなにも、こんなにも・・・・!!」母の、嬉し涙にくぐもったアイカメラに映し出された、その光景とは・・・・・
  
濛々もうもうたる砂塵さじんを巻き上げながら近づいて来る大兵団ーーその竜巻の根元、軍団の先頭には・・・馬上姿も颯爽と、確かに、
吾が子・
孫策伯符の勇姿が在った!!
ーーそして、その21歳の若き主の直ぐ傍らには・・・・懐かしき亡夫の宿将達が、誇らしく胸を張って居た若かりし頃、彼等にとって呉夫人の存在は、”憧れのマドンナであった。むさ苦しい男所帯だった孫堅の元に嫁いだ日ーー「掃き溜めに鶴じゃ!」「いや、泥沼に蓮の華じゃ!」「天女様だ!」 「我らの女神様じゃ!」と、ワイワイガヤガヤ大歓迎されて以来のツウカアの男どもであり、未だ無名時代から心を通わせ合って来ていた宿将達・・・・程普・黄蓋・朱治・韓当・・・・彼等は皆、夫・孫堅に真っ先に仕えた者達であり、今や歴戦の勇士に成長して呉れていた。江東の虎尖兵せんぺいとして「えん」や「とう」に黄巾党を討伐し、「陽人の戦い」では董卓軍を破っている。孫堅の前後左右の部将としてその全ての戦いに従軍し、夫と生死を共にした孫家譜代の第T期家臣団として、輝ける軍歴を持つ。
今し、こちらに向って遣って来る、そんな懐かしい1人1人の面構えの中には《やって見せるぞ!》との、並々ならぬ気概が示されているのが、此処からでも判る。彼等は皆、政治とは無縁な生粋きっすいの軍人である。サッパリとしていて、優しく男らしい。ーー懐かしくも、頼もしい・・・・。
その中でも、図抜けて貫禄かんろくの在るのは、何といっても
程普ていふ徳謀とくぼうであった。当時から既に彼女の父親ほどの年齢であった。今や、すっかり白髪白髯と成り、60の坂に近づきつつあったが、心身共に全く衰えを知らない。どころか、聞けば益々強壮と成り、若手よりもパワフルだと言う。堂々たる押し出しで、其処に居るだけで周囲を収めてしまうズッシリとした重みが具わっている。人生の機微に通じた、人を逃さぬ対応ぶりと、財を惜しまぬキップの良さで、軍部をガッチリ抑えていく。そんな程普を、人々は尊敬と親しみを込めて程公と呼んでいた。今し、その皮膚には、歴戦の傷跡が十数か所も刻まれいるとか・・・
その”程公”の横にもう1人、長老と呼んでよい懐かしい姿が見える。程普よりは少し年下だが、白髪は重々しい。元来は《孝廉こうれん》に推挙される程の秀才でもあるが、政治畑に進む事無く、眉が白く成る此の歳まで、軍務一筋の道を歩んで来ている。その風貌には、貧賤ひんせんの中に在った若き日の、その風雪に耐え忍んで来たいわおと温情とが在る。日頃から部下を愛した為、いざ戦いとなると、部下の士卒に至る迄、みな先を争う様にして彼の下で戦った。貧困の何たるかを身を以って知り尽くした
苦労人なのである。ーー但し、温情ばかりでは無く、ビシリと決めるべきは厳しい。細かい事は言わないが、「もう一度だけの警告とチャンス」を必ず与え、それを甘く観た者には有無を言わさぬ白刃が振り下ろされた。そして何と言っても彼の持ち味は、呉の宿痾しゅくあであり不服従・異民族である山越さんえつに対するエキスパートとしての顔であった。恭順きょうじゅんしない「山越」が反乱を起こした県には、常に彼が派遣されていく事になる。同じ長老でも、中央軍でデンと構える「程普」とは一味違い、温か味の有る《現地司令官》として地方の軍政家の一面を有する人物ーーそれが・・・・
黄蓋こうがい 公覆こうふく である。

「ああ、あれは・・・・!」先頭を駆けてやって来る吾が子・孫策を、身を以って守り、自らを其の楯と任じて居るかの如き巨躯が見える。2メートル近い、その並外れた体格・・・・「あれは、韓当どのじゃ!」ーー鬼の如き骨格と筋肉、又その騎上射撃の巧みさとを、夫の孫堅に見出されたのが韓当かんとう 義公ぎこうであった。韓当は、いやしいとされる下層貧民階級の出自であった為今でも読み書きは殆んど出来無い。それ故、孫氏からの特別な恩顧に報いようと、その戦さ振りは常に命知らずの勇猛さで、危険を犯す事を厭わなかった。流石に中央軍では大軍の指揮を執らせては貰えないが、別働軍の指揮に当たるや、士卒らを励まし、心をひとつにして苦境を克服し得る仁徳を持つ。「人の痛みの解る、もの静かな人物」で、自分をわきまえて常に謙虚で在り続ける。・・・・とは言え、出自の弱味をカバーする為には、彼はどうしても格式や礼節を、「他人以上に重んじ」、その外的権威に頼って、己を保たざるを得無い、社会的な辛さをも併せ持っていた。彼自身も軽々しい言動を慎み、言葉少なく、不言実行を旨とした為、兵士達は皆、彼の前では、丁重な態度で接した。』彼女(呉夫人)も夫同様、そんな韓当ことのほか愛うしんだ。ーーいずれ韓当は、その出自の負い目を補う如く、みずから特攻・決死の部隊を編成しては、危地ばかりを戦い抜く、損な役廻りを、敢えて引き受ける猛将と成っていく・・・・同じ苦労人として、長老の黄蓋からは、特に可愛いがられて来ている。

4宿将のうち、唯一地元出身なのが・・・・・
朱治しゅち 君理くんりである。此の一帯には知友も多く、地理にも明るい。この旗挙げを見越して、呉夫人や幼児達を丁重に此処「歴陽」に移居させて呉れたのも、この朱治のゆき届いた心遣こころづかいによる。諸将が袁術の傘下さんかに入らざるを得無かった時点から、この地で留守を預かっていた朱治は、唯1人の「孫策の直臣じきしんであり続けて来ていたそして、袁術の下に身を寄せた2代目を、陰になり日向ひなたになって補佐し続けた。
「旗挙げなされよ!袁術から独立し、江東に撃って出るのですぞ!」ともすると気落ちしかける若い2代目を支え、ずっと励まし続けて来た。又、再三に渡って袁術に、「孫堅殿の部曲は当然、その跡継ぎたる孫策殿に返還すべきです!」とネジ込んでもいた無論、最大の役割は・・・・袁術の配下と成っていた宿将らとの、旗挙げの根廻し役であった。未だ子の無い朱治は昨年、孫策に上言して、13歳の「朱然」との養子縁組を仲介して貰っている。今ちょうど40歳の分別盛りで、誇りも高い。・・・・のち曹操が強大となった時、ビビった「孫賁」が人質を出そうとしたが、みずから乗り込んで説得し、思い留めさせる・・・・。性格は慎ましく、華美や虚飾を嫌い、質実剛健な気骨の持ち主である。』

《夫〔孫策〕亡き後、営々として《
お家再興》の下準備を為して来たのは・・・・決して、吾が子ひとりでは無かったのだ。或る意味では若く人生時間に余裕が有る伯符よりも、既に40・50に成っている彼ら宿将達の方が、その感慨は一入であるに違い無い・・・・》
ーーそうした思いが、
呉夫人の胸を過ぎった。
「新しい力も加わって呉れた様ですわね!」 呉夫人・呉景・孫賁ともが、初めて眼にする、雄々しい部将達の姿も揃っている。
「袁公(袁術)にではなく、伯符どのを慕って集まった者達でしょうな!」ーーこの後に初顔合わせしてみて判った面々は・・・・呉郡余杭の人
凌操りょうそう、九江郡寿春の人蒋欽しょうきん、同じく九江郡下蔡の周泰しゅうたい、如南郡細陽の呂範りょはん、盧江郡松滋陳武ちんぶ
・・・・などなど・・・・
旗挙げと威勢だけは良かったが、実際は僅か、1千500の兵力で、袁術の元(寿春)を発った〔へっぽこ部隊はーーその南東150キロの歴陽に到着した時には・・・・何と其の5倍近く、6000を裕に超える、堂々たる〔孫策へと変貌していたのである!!このブラックホール的・超強力な兵力吸引の磁力は、今後も衰える事なく続き、いずれを超える日も近いであろうとは、誰の眼にも明らかであった。ーー
いや、
2万3万はおろか、4万を超え、そして実際には・・・・5万を遥かに超えてしまうのである!!
一体、この、孫策軍の求心力は「何」であったのだろうか・・・!?
直接の理由としては、『孫策』と云う魅力的な大器が現われた事による、個人的要素が挙げられよう。だが巨視的に観れば
・・・・その深因には、
時代の要請】=〔人々の期待〕が既に準備されていた、と云う実態を見逃してはなるまい。ーー中原に遅れること200年・・・・ここ江東の地はズ〜ッと、政治・経済の発展から取り残されて来ていた。そもそも人の世は、政治的統一無くしては、経済の大規模な経営・発展は在り得無い。ーーだから、江東の地に散在する「地方豪族」達は、その支配力・支配地域の規模をより拡大し、中原同様の大規模経済圏」を築きたいと願って居たのである。彼ら地方豪族達は、その統一の象徴が欲しかったのである。
・・・・即ち、「人々の期待」の”人々”とは、江東の各地に分散して居る〔有力者・地方豪族達〕の事なのである。
(※三国志の中には、時々
士民と云う表記が現われるが、士と民のうち、”士”が支配階層を指す。「人々」とは勿論、この”士”の部分を言うのであり、”民”の方は人として認識されていない。)敢えて、身も蓋も無い言い方をすれば・・・・彼ら中小の地方豪族にとっては、統一の実現者は誰で在っても良かったのだ。その証拠に、ポッと遣って来た揚州刺史の『劉瑤』が、瞬く間に江東をまとめ上げつつ在るではないか。江東地域 (日本が2つ分の広さ)地方豪族にとっては、その統一の象徴が「劉瑤」で在っても「孫策」で在っても、一向に構わなかった・・・・のである。ではどちらかを選べと言われれば、その選考基準は矢張り・・・・統一をより早く果たして呉れそうな因子を多く有する方を選ぶ事になる。そして、その因子とは、軍事力の強大さであり、 それを可能ならしめる人間の器量を備えている人物・・・・と云う処へと帰っていく。


6000!!・・・・これだけ在れば「横江津おうこうしん」の敵を蹴散らし、長江を押し渡って、父祖の地である【江東】への進出は果たせるであろう。


静かな闘志
  
全軍に漲っていく・・・・・!! 【第73節】悪ガキ参上!(石ころかダイヤか)→へ