【第70節】
【英雄の3要素】
★ 天の声・・・・時代の要請
★ 地の利・・・・割拠する位置取り
★ 人の和・・・・人望・器量
これ等を全て兼ね具えていく事に拠って、自ずからの果たすべき処を、積極果敢に行っていった若者ーーそれが・・・・・
【孫策伯符】 であった。
ーー『袁術』が野垂れ死にしたのは、
199年の6月(孫策25歳)の事である。
また、父・『孫堅』が戦死したのは、
192年の6月(同18歳)であった。
この間ちょうど、丸7年である。・・・・我々は此処で、少し時間を後戻りして、その、孫策の7年間(18歳〜25歳)を垣間見て措こう。それは即ち、孫策青年が、袁術と云う重圧に屈する事無く、耐えるべきは耐え、忍ぶべきは忍びつつも、ついに己の宿願を達成してゆく、一大英雄の「青春の軌跡」である。
そもそも一体、『孫策』=孫氏にとって『袁術』は、【疫病神】だったのか? はた又【福の神】=〔幸運の運び人〕だったのか?もし仮に袁術なくば、父亡き後、孫策が独力で「江東の平定」に臨んだとしたら、果たして『孫呉政権』=【呉国の誕生】は在り得たであろうか・・・??直ぐには答えられぬ歴史の設問ではある。だが敢えて言えばーー両者共に互いを利用せんとし合い、プラスともマイナスとも成ったが、結果的に観れば(袁術の思惑は別として)
「孫策の覇業」は・・・・矢張り、袁術の存在に負う処が大きかったと、言えようか。つまり、孫策は袁術の酷使によく耐え、その人物や言動をキッチリと見極め、逆にそれを己の後ろ楯として活用、密かに力を蓄えていく。結局、孫策と云う大きな器は、袁術などと云う小さい器には入り切ろう筈も無く、独立していった・・・・と観るのが至当か? ーー但し、その隠忍する若者の姿には、
「面従腹背」と言った陰湿な感じを受け無い。むしろ「雌伏」と云う語感の方が似合う。孫策を利用せんと目論む袁術にしてもその若者の認めるべき処は認め、その受け容れ姿勢は鷹揚で、何がし爽やかですらある。ここに、【孫策】と云う人物の不思議な魅力ーー直に接した相手を惹き付けて已まぬ、人としての器量・指導者としての度量の大きさが現われて居よう。
孫策は父の埋葬(長江南岸・曲阿の地)を機に、一族の再起を誓って、断鉄の友・【周瑜】の自邸を離れ、江都(曲阿の北岸)に移り住んだ。だが、孫策の資質を恐れる(忌ミ嫌ウ)除州牧・「陶謙」は再三に渡って、刺客を放つなど其の身辺や家族は、極めて危険な状況と成り始めていた。そんな折、突如として、孫策の眼の前に『袁術』が落ち延びて来たのだった!!父・孫堅の死の翌年(193年)の事であった。志は高けれど、行き場に窮して居た19歳の孫策にとって、それは正に《天佑》とも謂える出来事と映った、かも知れぬ・・・・700キロもの遥か彼方に在った父の部曲(私兵集団)が、そっくりそのまま、舞い戻って来て呉れた・・・・とも言えるのである。私兵なのだから、理屈の上では、その将兵は先代の遺児である孫策に返されるべきものなのだ。
《−−これも、亡き父上のお導きか・・・・!》
かくて2代目の孫策は父と同様、袁術の下に身を寄せ、そこで力を蓄える決心をした。それしか無かった。そこで孫策は、真っ直ぐ「寿春」に向かい、袁術に会うと、涙を流しながら言うのだった。
「亡き父が、むかし長沙より中原に兵を進めて、董卓の討伐に向かいました時、明使君とは南陽でお目に掛かり盟約と好とを結ばせて戴きました。・・・・不幸にして不運に見舞われ、勲業は完成せぬ儘となりました・・・・。」
袁術の胸にも雄々しき日々と、純粋一直線だった「孫堅」の姿が浮かび上がった。
「私は、先父にお与え下さった御恩顧に感じ、御配下に身を寄せたく思って居ります!どうか、明使君には、私の誠意を御推察くださいますように!!」
真っ直ぐ袁術の眼を見詰める青年のそれは、恐ろしい程に美しかった。
〈・・・・似ている。いや、これは父親以上の逸材じゃぞ・・・!〉
一見して、袁術は大した若者だと察知した。その堂々としながらも程よく謙譲し、英明闊達デアル事の紛れ無さ
「ウム、甚だ奇特な事である。感じ入ったぞよ!」とは言ったものの、その感嘆の裡には、何か〔危険な香り〕を嗅ぎつけた「怪雄」であった。そこで袁術は、直ぐには父親の兵士を孫策に還そうとはせず、眼の前の若者に言い放った。
「儂はかねて、そなたの舅御を丹楊太守に任じ、従兄の伯陽どのをその都尉に任じてある。かしこは精兵を出す土地柄じゃ。戻って舅御の下で兵を募られるがよかろう」
落ち延びて来たばかりで、手持ちの兵力は一兵たりとも渡したくない背景もあった。袁術の麾下に加わろうとするなら、先ず手土産を持って来て見せよ・・・・と、言う訳である。 尚、此処に言う
「舅御」とは母の兄【呉景】のことで丹陽太守。又、その都尉の「伯陽どの」とは【孫賁】を言う。孫賁と呉景とは、互いに従兄弟同士(父の兄の子)であった。既述の如く、丹楊郡は長江南岸に在って屡々朝廷や群雄達が、精強な「傭兵」を求めて遣って来る《丹陽兵》の供給地でもある。ーー其の地で精鋭部隊を作って来い!そしたら正式に配下として認めてやろう、と云う指示であったのだ。そこで孫策は、兎に角、丹楊へと向かう。この時点で孫策の側に仕え、行動を共にしたのは、僅かな者達でしかなかった。そのうち3人だけは史料に顕われている。
1人は【呂範】・・・・字は「子衡」−−豫州汝南郡の出だが、戦禍を避けて寿春に行った際、孫策が彼に会ってその人物を高く評価して呉れたので男・意気に感じた。自分の方から臣下の礼をとり、食客100人を率いて孫策の下に身を寄せた。
呂範は、押シ出シモ好ク、風采モ上ガッタ。
この時まだ孫策は、母(呉夫人)を江都に残した儘であったので、呂範を迎えの使者として行かせ、自分の元へ連れて来させようとした。ところが除州牧の陶謙が、これをスパイ活動と勘ぐり、県役人に指令して呂範を捕えさせた。ばかりか、拷問に掛けて取り調べた。だが、それを知った、日頃から呂範が眼を掛けていた食客や血気の兵士達が役所を襲い彼を奪い還した。呉夫人も無事連れ戻され、その結果孫策は、母と幼い弟妹達を陶謙の手の届かぬ南岸、「曲阿」の地へと移り住ませる事が出来たのだった。この事などから、孫策も呂範を身内として遇し常に奥座敷に通して呉夫人の居る席で酒食を振舞った。のち「呂範」は歴戦し都督にまで昇進、3代目にも不可欠な人物となる。
もう1人は【孫河】字は伯海。元々の姓は愈であった。愈河は実直ナ性格デ、論議ヨリモ行動ヲ尊ビ、積極性ヲ以ッテ 自分ノ職務ニ力ヲ尽シタ。若い時から「孫堅」の下で征伐に従事し、常に先鋒を務めた。のちに孫堅の近衛兵を指揮し、腹心として信任の厚い人物であった。孫策は愈河を寵愛し、孫の姓を与え、一族の1人に加えたのであった。(元々一族だったが姑の愈氏の養子に出ていたとする説もある。)
『此ノ頃、呂範ト孫河トダケガ、常ニ孫策ニ従イ、山野ヲ跋渉シテ苦労ヲ舐メ、危難モ避ケル事ガ無カッタ。』・・・そしてもう1人、若き2代目を支える、父譜代の勇将が居て呉れた。
【朱治】である。字は「君理」、この時38歳。
孫策とは20も年上の分別盛りであった。初代・孫堅の全ての討伐作戦に従軍して手柄を立て、都尉に任じられる更には〔陽人の戦い〕で董卓軍を破り、孫堅と共に〔洛陽入城〕を果たしていた。その後は独立の別働部隊の督軍校尉を(袁術から)命じられ、孫堅本隊とは分かれて東に向かい、除州牧の陶謙の元に赴いて、黄巾(残党)討伐に力添えをしていたのであった。ーーだが、主君(孫堅)の死を知るや、陶謙の制止を振り切って、2代目(孫策)の下へと駆け付けて来て呉れたのである!(陶謙が孫策を忌ミ嫌ッタ理由はここにも在った。)
この歴戦の勇将の存在は大きかった。【朱治】は、別働隊として袁術の直属では無かった立場からも、他の将校達とは異なり、より自由な状態で、袁術に対してもズバリ物が言える人間であった。 然も、今は袁術軍中に在る諸将とも強い同僚意識で繋がり合っており、その発言は影響力大であったのだ。
『朱治ハ孫策ヲ盛リ立テ其ノ補佐ヲシツツ袁術ノ元ニ身ヲ寄セタ』 のであった。
かくて、無事に家族を「曲阿」の地へ送り届けた孫策はひと安心して「丹楊」へと向かった。
「おお、暫く見ないうちに、一段と立派な若君に成られましたなあ〜・・・・!幼い頃は美少年で、どちらかと言えば姉上(呉夫人)似かと思っていたが、今こうしてお会いすれば、すっかり先代様(孫堅)に似て、ズンと、男らしさが備わりましたな!」
母の実弟である【呉景】は、殊のほか孫策を温かく迎えて呉れた。遠い昔、背中におんぶした和子(わこ)なのである。
「私も着任して間も無い事ゆえ大した事は出来ませぬが、精一杯のお力添えを致しましょうぞ!」
この舅の「呉景」は、(姉=呉夫人の強奪結婚に因って)義兄となった孫堅の側に常に従い、騎都尉に任じられていた。所謂・「舞い戻り組」であったが、袁術は寿春に落ち延びて来るや、己の勢力盛り返しを狙い、直ちにこの呉景を、彼の地元である、江向うの『丹楊郡太守』に任命、派出させた。勿論、丹楊郡にはその前から、先任の太守が居た。だから、力づくで先任者を追い出し、その地位を奪い取れ!・・・・と云う事だったのである。その為袁術は、同じ舞い戻り組で、それ以前からのコンビであった【孫賁】を都尉として加え、その乗っ取り作戦を応援させた。
ちなみに、それ迄の丹楊太守は『周マ』と言った。字は大明・・・曹操と親しい。「周マ」は曹操が挙兵して以来、幾度にもわたり、合わせて1万以上の《丹楊兵》を斡旋・派遣してやり、デビュー時代(黄巾戦・反董卓戦など)の曹操の部曲形成を支援し続けて来ていたそれ以来の親友であった・・・・。『周マ』は若い時に京師に登り、陳蕃(太傅)に師事して三公府に辟かれた。特技は『風角ニ通ジ災異ニ因ル、未来予知ニ巧ミ』であった。やがて丹楊郡太守に昇進。ーーところが最近になって、『袁術』が突然淮南を根拠に定めるや、残虐・圧政を欲しい侭にし始めた。周マはそれを非常に嫌悪し、こちらから断交した。以来、周マと袁術の間は、「敵対状況」に置かれていたのであった。その周マを討って、丹楊郡を乗っ取れ!・・・・と云うのが、袁術の指令であったのだ。かくて呉景と孫賁は協力して、周マ攻撃を始めた。ところが民衆の支持を得ていた周マ側は頑強で、なかなか役所を陥す事が出来無い。そこで2人は頭を捻り、周マの弱点を突いた。
『周マの命令に従ったりする者は、全て死刑に処す!』との触れを、民衆向けに発したのである。すると予想した通り、民衆思いの周マは、「私は不徳であるにしても、民衆達に何の罪が有ると言うのか!」と嘆き、そのまま兵士達を解散させ、自ずからは故郷の郡へ帰ってしまった・・・・かように、かなりセコイ手を使って、呉景は周マを追い出し、『丹楊郡太守』の座を力づくで乗っ取るのに成功していたばかりであったのだ。だから「着任したばかり」なのであった。
「やあ、よく来たね〜。元気そうで何よりだ。叔母上も御健勝とは嬉しい限りだな。」
都尉の【孫賁】は父の兄の子であり、孫策とは従兄弟同士。身内の序列から言えば、むしろ彼の方が呉景より格上であった。事実、孫堅戦死の折には、残された軍勢を(孫堅の名代として)引き継いでいた。又、劉表と談判して孫堅の遺骸を 敵将「黄祖」の身柄と引き替えにして受け取り、その柩を曲阿へ送り届けさせる事をして呉れたのも、この孫賁であった。だから本来なら、この孫賁こそが郡太守で、呉景の方が都尉であるべきだった。だが、そこが「怪雄・袁術」の真骨頂ーー「絶妙な人事バランス感覚」であった。・・・・孫一族直系の者より、外戚である呉景の方を、実務的には上位に置いたのである。
「叔父上には誠に無念な仕儀と相成ったが、跡継ぎの君がこんなに逞しく成って居て呉れたとは、私も随分、心強い思いがするよ」
但し、袁術の人使いは流石であった。実権の無い名誉職だけはちゃんと孫賁にも与えていたのである。すなわち都尉の孫賁は今名目上では「豫州刺史」でもあり「征虜将軍」をも兼務しているのであった。無論、袁術がタダでそんな称号を贈る筈は無い。詰り
袁術は、孫賁を丹楊都尉に任ずる前に、既に彼にひと働きさせていたのであった。 ・・・・敵愾心の対象である兄・袁紹が、先日勝手に会稽郡太守(江東の一部)に、周マの弟である「周昂」を任じて来た。 それを潰す為に袁術は、孫賁に命じて周昂を攻めさせ、
《陰陵の戦い》で撃ち破り、追い出しに成功したのであった。その報酬として豫州刺史を与えられ、更に丹楊都尉へと転任、征虜将軍を兼務させられているのであった。
「若い君こそ、我ら一族の希望の星だ。私も呉景どのと合力し、孫氏が再び隆盛に成るよう協力するよ!」
「忝い御気持です。孫策伯符、それを然と受け止め、この胸に深く刻み付けて置きます・・・・!」
処で、何故ゆえに孫賁の肩書は「征・虜」将軍と云うネーミングなのか?・・・と謂えば、其れには其れなりの、ちゃんとした理由が在るのであった。ーー実は・・・・袁術であれ孫策であれ江東(呉国)を統一しようとする者にとっては、未来永劫に渡って、その悩みの種と成り続ける、根深い〔宿痾〕が、この揚州・特に長江以南には巣喰って(?)居たのである!! (呉国にとっては存立に関わる極めて重大なマイナス要因なので、詳しくは後述する。)
その病巣は、大別して〔A〕と〔B〕の2種が混在していた。
★〔A〕はーー『宗部』とか『宗伍』と呼ばれる
自治コンミューンである。
(日本では室町時代に【惣】と云う農民自治郷村連合が形成されたが、それに似ていると想えばよいか) 加盟者は「宗族」とか「宗民」と言われ、中には宗教的な集団も在った。
★〔B〕はーー先住して居た『異民族』である
【山越】の自治コンミューン。
今迄は大同団結する必要も無く、有史以前からの生活スタイルのまま、小集団ごとに各地に独立・分散しつつ、平和裡に割拠して居た。〔A〕・〔B〕どちらも、数千〜1万戸単位の集団・集落を形成していた。・・・・が今現在では、後から南下して来た漢民族(中国人)と入り組み、モザイク状態で混在して居た。とにかく無数に在り、『正史』に出て来るだけでも・・・・丹楊・始安・清陽・宣城・・安呉・春穀(丹楊郡)、烏亭(呉郡)、ヨウ・歙(新都郡)、海昏・盧陵呉国の心臓部・・・・東京や大阪などの【区部】に相当する重要中心地域までが、その混在状況下に在ったのである。即ち、これ迄は互いに不干渉の態度で、何とか折り合いをつけながら、共生・同棲して来ていたと云うのが実情であった。其処へ、今迄の枠組みを破壊し無理矢理に力で統一してしまおうと云う者が現われたのだから、さあ大変!茹で釜の豆の如く、江東全域は大騒動へと発展してゆく!!
・・・と云う事で、《征・虜・将軍》たる孫賁の任務は、
この一揆勢力=不服従民を虜にして征討せよ!・・・・との、意味あいが含まれていた訳である。
【呉景ごけい】と【孫賁そんふん】・・・・年齢は呉景の方が上だった事もあり、この先も名コンビとして「孫策」を支え続けていく。
ーーさて、このオジさんとイトコの支援(手蔓)を得て、孫策は何とか数百名の兵士を集め、己の《部曲》を創る事に成功した。なんだ、意外に少ないな!と、思われるかも知れないが、なかなか何うして、この時期・此の地に於いては、相当なモノと言ってよかった。その兵を、同行して来た『呂範りょはん』と『孫河そんか』に二分して与え、両者をその隊長としたのであった。 そんな折、側近となっている『朱治しゅち』が、孫策に願い出た。
「私には子(男児)が居りません。そこで養子を取って、家名を継がせたいと思うのですが、何とぞ御主君には我が切なる願いをお聞き届けて下さいまするよう。」
「なる程、そう言えば君理どのには男こが無かったな。みな可愛い姫であった。善いとも!私が仲立ちと成って祝ってやろうぞ!・・・して、子としたい者の目星は着いて居るのかな?」
「はい。姉の子で〔施然しぜん〕と申し、今年13歳に成っております。」
「フム、では施然を改め、【朱然しゅぜん】と成る訳じゃな。」
「この際、元服させ、字を『義封ぎふう』と名乗らせる所存に御座います」
「−−義・封・・・・か。如何にも君理どのらしいな。」
「解って戴けて、この朱治、本当に嬉しゅう御座います。」
孫策は早速、丹楊郡の役所に下命し、羊の肉と酒を供そなえた上で、鄭重ていちょうな礼で【朱然】を召し出した。13歳の朱然が蘇州そしゅうにやって来ると、孫策は自ずから厚い礼を以って迎え、この養子縁組を心から祝ってやるのだった。
「目出度い限りじゃ!今、只今から新しき父と子が誕生れた!!
これは私に取っても、新しき門出である。」
皆、眼を細めては、我が事の様に喜んだ。
「処で、どうじゃ朱治どの。親父と成られた御気分は?」
「はあ。男こを持つ事が、これ程までに心を弾ませるものだとは、ついぞ此の歳まで知りませなんだ。誠に、天にも昇る様な、又、晴れ晴れとした心地に御座ります!」
「はや親バカ振りに御座いますな!」
「いえ、ビシッと育てまする!」
ワハハハ と、明るい男達の笑い声が湧き起こった。
ーーかくて小じんまりしては居るが、それだけに却って、2代目との新しき君臣の間は、更に強固なものと成っていく・・・・。13歳の『朱然』は、直ちに同年の『孫権』と机を並べる《学友》となり、共に学び遊ぶ間柄となって、2人の間には篤い恩義関係が結ばれてゆく。処で・・・・
この【朱然】ーーいずれ其の手で、あの【関羽】を捕縛する張本人となる人物である!!・・・・其ればかりでは無い。いや、別の意味ではもっと凄い事をして呉れた存在と成ったのである。彼が生きていた三国志の時代から約1800年後のーー1984年6月、彼の墓が偶然発見され、何と副葬品140余点がほぼ当時の儘の、完全保存状態で出土したのである!!中でも、漆器の上に描かれた漆絵には、往時の暮らし振りが生き生きと活写されており、その生活用品の数々と共に、現代の我々に、掛け替えも無く貴重で、えも謂われぬ実体感と感動を与えて呉れるのである・・・・!! (詳しくは第2部で紹介する。)
ーーさて再び、【孫策】に戻るが・・・・人の禍福は糾あざなえる縄の如し・・・・この直後、孫策は突如、奈落の底へと突き落とされたのである。何と、折角苦心して手に入れた虎の子の「部曲」
500余名を、一挙に全滅させられてしまったのだ!丹楊郡西部の「県けいけん」付近を巡邏中じゅんらちゅう、10倍以上の一揆いっき勢力に取り囲まれ、逆に潰滅させられてしまったのである。襲撃して来たのは【祖郎】と言う、宗部一揆(宗教的自治組織)の首領(大帥=たいすい)であった。折れた刀を手にした儘、愕然と崩折れる孫策・・・・《−−こんな事が有っていいのか・・・・!》
「おのれ祖郎め〜!この恨みは必ず晴らしてやるっ!!」
とは誓って見せたが、前途多難を思い知らされる、手痛い打撃であった。一からやり直し、再度「部曲」づくりに取り組まねばならぬ、苦渋の立ち上がりと成ってしまった。
(その後のちにも孫策は、この『祖郎そろう』には幾度となく煮え湯を呑まされる事となる。大乱戦では馬の鞍にまで切りつけられ、あわや!と言う瀬戸際にさえ追い込まれる。)
ーー蓋けだし・・・江東平定に際しては、万単位の兵力を誇る各地の宗部(一揆)勢力が、如何に手強てごわく侮あなどれぬ存在であるかを予告する如き、不気味で重大な事件であった。のちにして思えば、是れは、呉国の発展を阻み遅滞させる、苦難の前触れ・予兆 であったのだ・・・・。
195年(建安の前年)、孫策伯符20歳・・・・何とか部曲の体裁を整えた2代目は、再び長江を北に渡って「寿春」に到着。『袁術』に目通りし、ようやく正式に、その配下部将として認められた。だが父の軍勢(数千)は未だ還して貰う事を許され無かった。然し孫策は此処で腐らず、『明日の為』の行動を密かに起こした。既述の如く、将来の政権を目指して、其のブレーンと成るべき重要人物の獲得に、単身で乗り出したのである。
のち【呉の2張】と呼ばれる、『張昭』と『張紘』を再三再四訪おとない続け、終ついには口説き、迎える事に成功するのであった・・・
又、この寿春に雌伏していた時、孫策を慕って、新たに臣下と成るべくやって来た者達が居た。・・・・その中で主だった者としては、「蒋欽」・「周泰」・「陳武」・「凌操」の 4人が挙げられよう。
【蒋欽しょうきん】は字を公奕こうえきといい、寿春の人であった。ポン友と連れ立って孫策の元へやって来た。そして配下となるや、骨身を惜しまず側に使え、主君の為には命も厭わぬ武辺の者となっていく。但し、大の勉強ギライ!
折り紙つきの文字アレルギー!!・・・・と言うよりも、学問には全くの縁の無い育ちだった。此の世には《文字》と言うものがあることぐらいは知っているが、
ジェンジェ〜ン、読めない。無論、書くなどトンデモナイ。己の名前だけは、「記号」として覚えているが、筆順などと言うものが在る事さえ知らない
だが今までの処、何の不都合も無く生きてきていた。いざとなれば「親友」にチョコッと読んで貰えば済んでしまう事だった。其れより何より男と生まれたからには”武勇”でなくてはならないのだ
「おい、お前。書などと言うクダラン物を見ている暇が有るんなら、何で武芸の腕を磨かんのだア〜?????」
「漢おとこは此処じゃ無くて、こっちだぜ!!」と、頭の鉢と、二の腕を指す熊男。・・・・孫策はそんな「将欽」を、こよなく愛し寵用する。のち、寇将軍・右護軍に昇進し、3代目にまで仕える事となる。だがエラクなっても、将欽は私的な贅沢は一切せず、彼の妻妾達は常に麻布のスカートをはき、母親でさえも織りの粗あらい糸票うすあおの夜着を用いた。孫権は後に其れを知って感動し、”君命ヲ以ッテ”綾織の衣服に換えさせた。
そんな「将欽」と凸凹コンビでやって来た親友とは、
【周泰しゅうたい】・・・・・字は幼平ようへい。寿春のすぐ北(九江郡下蔡)の出身で将欽とは幼馴染。2人の性格はまるで逆だったが、孫策は二人とも分け隔てなく寵愛し、ともども側近となる。
周泰は、「慈いつくシミ深イ人と為なり」であった。暫しばらくすると、孫策の弟「孫権」が、すっかりこの周泰の人柄に惚れ込んでしまい、是非にも自分の配下につけて欲しいと願い出た。かくて周泰は「孫権」の直臣第1号と成っていく。そしてその直後、孫権はその命を、周泰の献身によってかろうじて救われる事態に遭遇する。孫権の信頼は絶大となり、さいごには漢中太守、奮威将軍・陵陽侯にまで昇進していく・・・・・
【陳武ちんぶ】は蘆江ろこう郡出身で、この時18歳。身の丈が七尺七寸=185センチもある頑強な若者で字を子烈しれつと言った。彼は
『他人ニ対スル思イ遣リガ篤ク、気前モ良カッタノデ、同郷ノ者ヤ遠方カラ流離シテ来タ者達ガ、多数、彼ノ下ニ身ヲ寄セ』て来るような人物と成っていく。さいごは偏将軍にまで成る。彼ら3人は、この後、孫策が挙兵するや、〔別部司馬〕となって、夫れ夫れ別働隊を任され、命を的に奮戦することになるであろう。
【凌操りょうそう】は呉郡の出身で、字を公績こうせきと言い、
『男立おとこだてヲ好ム、肝ッ玉ノ太イ』 男であった。
孫策の配下となるや、常に先鋒を買って出ては、敵刃てきじんを犯して戦う、頼もしい〔斬り込み隊長〕に成って呉れるのだった。
その子の【凌統】も、間もなく頭角を現わし、不可欠な勇将となる。これらの者達は、所謂、孫策の下へ出仕した〔第U期将校団〕であり、父以来の『譜代の諸将』達とは違って、戦歴も戦功も未まだゼロ!まさにこれから。
2代目の覇業と重なり合って活躍し、【呉】・建国の礎いしづえと成っていく。父の〔第T期将校団〕を取り上げられた儘、世にデビューせんとする2代目・【孫策】にとっては、誠に有り難い新来の忠臣達であった!
ーーだが・・・「怪雄・袁術」の麾下きかに入った孫策の前途は予想して以上に険しく困難なものとなってゆく・・・・。
その試練を乗り越えて、今、
【孫策 伯符】がゆく・・・・!!
その試練の彼方に待つものは、
果たして何なのか・・・・・!?
【第71節】旗挙げ前夜栴檀せんだんは双葉より芳かんばし→へ