【第71節】
せんだん かんば
「どうじゃ、そろそろ、ひと働きしてみる気はないか?」
【袁術】が、そう声を掛けて来たのは程無い事であった。
「歴戦の儂から見れば、未だ少々不安じゃが、儂の下で少しずつ鍛えていってやろうと思うのだが、どうじゃな?」
待ってました!とばかりに、青年の眼の色が輝いた。
「ハッ、有難き幸せ!存分働いて御覧に入れまする!」
《・・・・虎の遺児は、やはり虎か・・・・。》
「フム、まあ取り合えず、直ぐ北の九江の賊どもを討ってみせよ。兵も貸してやろう。」 「必ずや、御期待に沿いまする!」
貸すのであって、返すのでは無い。
「よかろう。せいぜい頑張って見るがよい。もし、見事、九江郡を平定した暁には、そなたを其の《太守》に任じようぞ!」
「!これは又、この上も無き御厚恩。一段と励みに成りまする!」
「ウン。そなたに取っては、これが初陣と云う事じゃな。《太守》の座は重いぞ。美事、己の武勇ひとつで、手に入れるがよい。」
「さすが豪毅なお申し付け。この孫策伯符、感激の極みに御座います!」
その戦い振りや詳しい様子、誰と誰とが、「若君・孫策」と共に、この《九江戦》に加わったか・・・などの具体的な記録は残念ながら史書には無い。唯、有るのは、簡潔な次の如き一文である。
『孫策ハ手勢ヲ率イテ北上スルヤ猛戦シテ之レヲ撃破。忽チニシテ九江城(郡役所)ヲ陥落・占拠シテ見セタ。』
ーー蓋し、孫策軍の意気込みの凄まじさや、その一方的な攻撃の猛烈さが伝わって来る!!ーーちなみに、何故こうした簡潔な記述に滞まっているか、といえば・・・・それは、ハッキリ言って、この程度の武勲は、『孫策伝』全体からすれば、誠に些細な小事・ほんのチョットした戦歴の1つに過ぎぬからなのである!!但し、彼の記念すべき《初陣》であるからして、かくの如き記述には成っている・・・・と謂う塩梅なのだ、と 推測される。尤も、本源的に「歴史書」は戦記では無いのであり、飽く迄〔その人物像・人間模様・因果応報など〕を抉り出す『人間史』なのである。だから歴史を大きく変えた様な「余っ程の大会戦」で無い限り、その戦闘の詳報は記載されぬのが普通なのである。
ーーさて・・・・こうして、アッと謂う間に「九江郡」を平定しさって、大いに意気上がる孫策陣営であったのだが・・・・だが、然し、待てど暮らせど、〔九江郡太守任官〕の沙汰は一向に届かない。するうちに、九江太守には袁術子飼いの【陳紀】が就任してしまったーーのである。
「いやあ〜、済ま無かった。さきに手違いで、陳紀を任用したが、君を太守にすると云う本来の意図が実現されずまこと慚愧に堪えなかった処じゃ・・・・。」
流石に袁術はバツが悪そうに頭を掻いて見せたが、臆面も無く、再びこう切り出した。 「今度もし、陸康の奴を取り鎮める事が出来れば、今度こそ本当に、『盧江郡』は君のものじゃ!」
「盧江郡」・・・・孫策にとってはやりたくない任務を強要された事になる。できれば将来、自陣営の強力な勢力基盤として、是非にも味方にしたい【陸氏】への攻撃を命じられたのである。怪雄・袁術にしてみれば、孫策に対して《忠誠心の踏み絵》を課し、ついでに領土も拡大してしまおう・・・・とする一石二鳥の妙策であった。そもそも、北の〔除州攻略〕を企図する袁術であったから、袁術は其の軍需用物資として、米3万石の拠出を「陸康」に要求した。それまで両者間には、全く何の交流も無かったのに、突然・一方的に要求したのであった。が、当然陸康は、何も袁術の家臣になった覚えなぞ無いからニベも無く拒絶した。「生意気な奴め!」・・・・と云う訳で、孫策の出撃が命じられたのであった。
ーー以前より、呉の地には『4姓』と呼ばれる、土着名族 (陸・顧・朱・張)が存在していた。その中の【陸氏】=(陸康)が太守をしている「盧江郡」の征討を、同郷者の孫策が命じられた、と云う事になる訳なのである。とは言え実は、孫策にも、大名族・陸氏に対する、個人的な私情・複雑な蟠りがあった・・・・過日、孫策が正式な使者として陸康を訪れた砌の事、陸康は長時間、孫策を裏門外に突っ立たせた儘、挙句の果て、本人は顔も出さず、主簿(副官・秘書)に応対させて済ませてしまったのであった。無論、陸康は、孫策個人を侮辱した訳では無く、身勝手な袁術に対する態度としての意志表示であったろう。蓋し、使者が一介の軍人風情であり、然も、未だ嘴の黄色い若僧であると聞かされ、それなら況して、これで充分事足りると云う気分も亦、在ったに違い無い。
「−−ん?何か、何処かで、是れと全くおなじ光景場面を読んだ気がするが・・・・。」と、される読者諸氏も居られる筈である。そう、孫策の父親・孫堅が、荊州刺史であった「王叡」から味わわされた屈辱である。(孫堅は、その報復に王叡を血祭りに挙げた事は、御存知の通り)ーーすなわち、名士階層からの軍人に対する、当時としては当たり前の社会通念・慣例の則った行為ではあった。尚、歴史潮流に於ける「貴族と武士の階級対立」・「その両者の相克」については、既述した如くであるが、息子の孫策も亦、その洗礼を浴びて居たのであった・・・・孫家の者は皆、誇りが高く、新しい時代に生きようとして居るのだ。単なる(最下層の)軍人・軍属として侮られては、将来の沽券に関わる。ーーだが他方・・・・孫策は(又、時代の要請は)、父親を超える器(状況)である。そんなチッコイ私情になぞ、いつ迄も拘泥し続ける者では無い。それより逆に、今後将来の事に思いを馳せれば、何とかして「陸氏」とは友好関係を構築し、出来得るなら 「重臣」と成って貰いたい、有力な地元勢力なのであった。如何に袁術の命令とは言え、今ここで、「陸氏」と刃を交わし合い、血を流させてしまう事は、将来に対して大きな負債を背負い込む・・・・事となる。それは絶対に避けるべきであった。《−−何うする・・・・!?》だが、無念にも、現段階・現状では、孫策に選択の余地など有ろう筈も無かった。ーー不確かな将来・先の見えぬ明日よりは先ず、眼の前に突き付けられた課題を、クリアーして進むしか無かった。・・・・孫策はホゾを固めた。
さて〔盧江郡〕だが、寿春に南接する、長江北岸沿い(地続き)の、重要地域である。その太守となって居る〔陸氏〕は、故郷の「呉郡」を離れ、一族郎党を引き連れて赴任していた。
その当主だったのはーー【陸康】・・・・字は季寧。若くして孝廉に推挙され、既に3つの郡太守を歴任し、どの郡でも治績を挙げたと称賛される大名士であった。
「聞き及びますれば盧江の陸氏は、九江の賊とは異なり可也な相手だとのこと。この孫策、決して臆するものでは御座居ませぬが、やるからには是非、明使君の御為に成功しとう御座います。そこで何卒経験豊富な将校達を拝借いたしとう存知ます。どうか御考察の上、格別な御配慮を賜りとう存じまする。」
経験豊富な将校達とは、父の〔第T期家臣団〕を指す。又、『拝借』と言ったのは、「戦さが済めば、必ず袁術の麾下へ、彼等を戻します。」と云う誓約である。
「ーーウム・・・・確かに盧江はチト、手を焼く恐れも有るな・・・・。」
九江太守の座を反古にした手前もあった。
「よし、【程普】や【黄蓋】といった古強者達を一緒に征かせよう。」
「御厚配、忝のう御座います!」 「では武運を祈っておるぞ。」
「ーーハハッ!」 これは大きかった!!たとえ一戦後に、袁術の下へ、戻らなくてはならないにしても、懐かしき父の遺臣達と生死を共に過ごせるのだ。心が通う。新たな君臣の絆が結ばれよう。将来も相談できよう。明日も見えて来るに違い無い・・・
《そうだとも!この盧江攻めで、たとえ失うものが有ろうとも、この新しき縁(えにし)・譜代の臣達との結び付きは、何物にも替え難き、我が生涯の至宝と成る!!》
ーーだが・・・イヤな戦いだった。避けたい戦いであった。相手の兵士達には咎は無い。どころか、いずれは己の大切な兵卒と成るべき者達である。彼等の故郷=呉の地には、その子も居ようし、兄弟も、親戚も在ろう・・・肉親を殺された怨みが遺る。反発が生まれる・・・互いの兵力をなるべく損耗させぬよう、手心を加えながらながら、然も袁術には疑われない様にせねばならなかった。時間を掛け、ダラダラとやったが、所詮は殺し合いである。双方傷付いた。特に「陸氏」側は、戦死者の総数こそ多くは無いが、主だった一族50余名もが、次々に落命すると云う、〔一族滅亡の瀬戸際〕にまで追い込まれる、大打撃を被っていった・・・・おそらく、一般兵士の殺傷を嫌った孫策が、敵の指揮官だけに狙いを集中させ、その攻撃戦術を指令した、故では無かったろうか。
辛うじて・・・陸氏統領の「陸康」は、戦いが始まる直前、
又従兄弟に当る【陸遜】に、一族を取り纏めさせ、本貫地である〔呉の地〕に帰郷させてはいた。だが、その総責任者たる
【陸遜】は未だ11歳であった。ーーと謂う事は・・・女と老人・子供以外の全ての男達は盧江に踏み留まり、一族の存亡・命運を賭けての決戦に臨んだ・・・・と云う事であった。
(※陸康の息子・『陸績』は、5歳か6歳。また【陸遜】は幼くして父親を亡くした為、陸康に引き取られて、我が子同然に育てられて居たのだった。)
かくて「陸氏一族」は・・・此の任地(盧江)での防衛戦で、その男達(成人)の殆んどを殺されてしまうと云う、悲惨を極める状況・状態に突き落とされたのである。ーーそして残ったのは・・・・孫策への怨念と、更に根深い仇敵意識ーーその怨讐を、彼方のものとするには、一体、どれ程の歳月と労力が、浪費される事か・・・・!?そして是れは又、単に陸氏だけの問題には留まらなかった。「4姓」の名族は連帯意識が強固であった上、姻戚関係も互いに多重多岐であったのだ。又、彼等と直接的には血縁で無くとも、恩顧の食客(仁侠士人)達は、恩人の復讐を誓い、永遠に孫策の命を狙い続けるかも知れ無い・・・・この深刻で重大な〔地元豪族連合との対立〕は、孫策の未来に暗い影を落とす・・・・其れ等を全て承知の上で、【2代目・孫策】が、敢えて袁術の命に従ったのは・・・・己が郡太守の地位を得て、父の軍隊(部曲)を取り戻す為
と、眼をつむった故であったーー
にも拘らず、である。袁術は
又しても約束を反古にして、盧江郡太守には己の直臣・『劉勲』を任じたのであった!!
孫策の憤りと落胆とは、如何ばかりであったろうか!?
だが、それを顔に出す事も許されず、【孫策伯符】は、只管 隠忍自重した。血気盛りの弱冠20歳の若者には生なかには出来る〔腹芸〕では無い。然し孫策は、其れをこなしていく・・・・。
心の支えは・・・盧江で共に戦った【程普】や【黄蓋】そして【韓当】といった、「父・譜代の勇将達」が、密かに誓って呉れた《激励の言葉と其の態度》であった。
「我等に2君は居り申さぬ。我等の御主君は孫堅文台様であり、又その跡継ぎの孫策伯符様である事、天地神明に誓って、明らかで御座います!」
と、言って呉れたのは、【程普】 だった。彼こそ、軍の元老・最高実力者であった。年齢は既に60を越え髪も眉も髯も全てが純っ白だった。だが、バリバリの現役武将で、戦場では〔白髪の鬼!〕と恐れられている。この人物が居るだけで全てがビシッとし、軍全体に威厳が備わる。
「宜しいか若殿。焦り、逸まってはなりませぬぞ。龍は天に昇る前、必ず水中に潜んで臥するもの・・・白虎も亦、獲物を狙う時は必ず伏して力を蓄えるとか・・・・。今は未だ、〔雌伏の時〕と心得られませ!!我等とて、《その日》が来るのを、鶴首して待ち望んで居りまする。必ずや天の命は、志し高き処に下りましょう。我等は其の高き峰が『孫郎』様である事、些かも疑っては居りませぬ。ですから、我等が常に若殿の後ろに控えて居る事、決してお忘れ下さりまするな。」
ーー【程普】・・・・字は徳謀。
『初代・孫堅に真っ先ニ仕エ、爾来、軍ノ重鎮トシテ全テノ戦役ニ従イ、身ニハ多クノ手傷ガ残ッテ居ル。』・・・・その軍歴と軍功は、〔第T期将校団〕の中でも随一と言ってよかった。 程普は軍団
最年長であり、とにかく貫禄と威厳の有る事から、人々は彼を
『程公』と呼んでいた。然し一度戦場を離れると、気前が良く、部下への経済的援助を惜しまず好んで知識人との交際を喜びとして居た。
『容貌 計略有リ、応対ヲ善クス。先出ノ諸将、普最モ年長ナリ。時人皆程公ト呼ブ。性 施与ヲ好ミ、士大夫ヲ喜ブ。』
限り無く優しい丸で父親の様な眼差を向けて呉れたのは
ーー【黄蓋】・・・・字は公覆。彼も亦、長老の1人。程普に次いで50に成る。そして程普が《鬼》ならこの黄蓋は《仏》の佇まいである。所謂「苦労人」であった。
『黄蓋は幼くして父を失い若い時から不幸が重なって、つぶさに辛苦を舐めた。然し大きな志を持って貧賤の中に在っても自らを凡庸な人々の列に落とす事なく、薪採りの暇には何時も上表文の書き方を学び兵法を研究して居た。』
「袁公(袁術)の前では明ら様にも出来ずに居りましたが、
我ら一同、〔孫郎〕様には、父君以上の覇気と仁徳が具わって来られたな!・・・・と、心嬉しゅう語らい合い、また頼もしく見守って居り申した。」
『姿貌 厳毅ニシテ、衆ヲ養ウニ善ク、毎ニ征討スル所、士卒 皆 争ッテ先ヲ為ス。官ニ当リテハ決断シ、事留滞無シ。国人コレヲ思ウ。』
【程普】と【黄蓋】・・・この2人が、軍部に於ける〔元勲〕と言ってよい。そして、この2人の長老が傍らに立っただけで、若い孫策に威風が加わり、軍全体に厚味と重味が増す。周囲にズッシリと、睨みが効く。
勇ましいのは【韓当】・・・・字は義公。
『弓馬ニ便ニシテ、膂力有ルヲ以テ、孫堅ニ幸セラレ』て来ていた。ーー寒門(貧民)の為、命を楯に危険を犯し続け、ようやく孫堅に見出され、取り立てられた事から「孫氏」に対しては深い恩義を感じて居る。そして此の後も
〔敢死軍〕や〔解煩軍〕と云う特攻隊=特殊部隊の指揮官と成り、死を全く恐れぬ『命知らず野郎!』で在り続ける。
「若(孫郎)!耐えるべきは耐え、忍ぶべきは忍ぶ・・・・としても、常に熱き心を失っては成りませぬぞ!積極果敢たるの姿勢だけは、おさおさ怠りなく、常に〔攻め〕の気持をお持ち下され!」
蓋し、この盧江戦は、第T期からの家臣団と、第U期・家臣団とが初めて合流し、孫策の指揮下で戦ったのである!ーーそうした意味では、極めて重みの在る、記念すべき戦いだった・・・・と、謂えよう。
こうして、袁術の口車に乗せられた格好で、孫策が「九江」・「盧江」と転戦していた頃、長江の南で大変な事態が勃発していた。ーー舅の【呉景】と従兄弟の【孫賁】が〔突如出現した強敵〕によって、丹楊郡を奪われ、追い出されてしまったのである!
相手は【劉瑤】・・・・あの〔1銭取りの太守〕・劉寵の甥に当たる。事の次第は、次の如き経緯であった。
「劉瑤」は辟官(朝廷の辟き=招請)にも応ぜず、戦乱を避けて淮水に居たのだが、この時、長安(李催政権)の朝廷はその人物と現住所に鑑み、劉瑤に〔揚州刺史〕の任に就くよう、詔書を発した(送り付けた)のである。揚州刺史の任地(役所)は《寿春》であったから、チョット西へ行けば済む近さではある。だが現実には昨年(193年)から袁術が居座っていた。仕方が無いので劉瑤は袁術の影響力が及ばぬ川向こう(長江以南)の何処かに、新しく政庁を開設しようと企図した。すると奇特な事に丹楊太守の呉景と孫賁とが、わざわざ劉瑤を迎えに出て来て、取り合えず《曲阿》に落ち着かせて呉れたのであった。するや劉瑤は、この《曲阿》を政庁と定め、朝廷(献帝)の威光を巧みに利用して、江東(長江下流の南岸一帯)の諸勢力を、アレヨアレヨと言う裡に、その支配下に治めてしまったのである。その合計兵力は実に5〜6万!その先孫策が「部曲」集めに奔走して得た兵数が500であった事を想起すれば、途轍もない巨大軍団が出現した事が判る。では何故、そんな短時間に事が成ったのか・・・・?と言えば、その答えはーー・・・・呉景と孫賁が、その立場も弁えず、ノコノコと劉瑤を迎えに出た事の裡に見い出せよう。つまり・・・・当時の江東の人々は、未だ未だ純朴で、漢朝廷の権威を有り難く受け止めて居たのである。それだけ揚州は、政治的僻地・情報の届かぬ「奥地」だったと謂う事なのである。中原・関東諸国では、とっくの昔に地に堕ち果てている
「お上」の御威光は、ここ・江東ではシッカリ生き続け、人心を統べる求心力と成り得たのであった。
ーーこうして僅か半年も経たぬ内に、1大勢力に伸し上がってしまえば、もう 此彼のモノ。今や厄介者となった「呉景」と「孫賁」はお払い箱と成り、長江北岸へと追い出された。(強制的ニ追イ出シタ)。即ちーー
【劉瑤】から『袁術』への宣戦布告が、為されたのである・・・・!!
※「呉景」と「孫賁」は、朝敵・逆臣である「袁術から」任官されて居るのであるから、劉瑤の処置は当然に過ぎる行為であろう。寧ろ、劉瑤を迎えに出掛けたり、先導した振る舞いを恩着せがましく思い、そのまま其処に居続けようとする、呉景や孫賁の政治感覚の方がニブ過ぎる。首を傾げたくなる様な、ズレた行為としか言えまい。まさか此の時点から、『孫家旗挙げの遠謀深慮』が有ったとは想えぬから、やはり余程の田舎者感覚の為せる業であったのだろう・・・・。
これに対し袁術は激怒した。直ちに故吏(子飼い)の恵衢を揚州刺史に任じ返して、政治的に対抗。軍事的にも、歴陽に退却して来た呉景を〔督軍中郎将〕に任命し直しコンビの孫賁と共に逆襲・反撃戦を命じた。
対する【劉瑤】も、曲阿(政庁)から100キロ上流に当たる歴陽へ軍を派遣。 歴陽の直ぐ西に位置する
《横江津》=北岸には『樊能』と『于麋』を、《当利口》には『張英』を駐屯させて、鉄壁の防禦陣を敷いた。
かくて194年、孫策が九江での初陣を飾っている最中・・・・
「袁術」と「劉瑤」は、長江を挟んで全面対決に突入していった。戦線の中で、両者にとって最も重要な地点は《横江津》!・・・「津」とは渡し場・渡河地点を指す。
袁術側(呉景と孫賁)としては、兎に角、この横江津の敵兵を駆逐しない限り、江東(南岸地域)への逆襲など有り得ぬ・・・・と云う、唯一最大のキイポイントであった。然し戦局は一進一退を繰り返すばかりで、半年たっても、1年たっても未だ、攻略の糸口さえ掴めぬ、全くの膠着状態と成っていった・・・その間にも、江東に在る【劉瑤】は「揚州牧」と「振武将軍」の官を加えられ、その合計兵力は、更に膨れ上がろうとしていた。無論その状況は、袁術にとっては非常にマズイ。この儘では、江東全部を劉瑤に統一され兼ねない。となれば、袁術は南北に大敵を抱える事となる。(北の除州では陶謙が没し劉備が州牧と成って居た)〔南の資源を以って、北に覇を争う〕・・・・と云う大戦略が狂ってしまう。ひいては、【仲王朝開闢】・【皇帝就座】と云う、生涯の夢が消え去る・・・・とは謂っても、手持ちの兵力には限りが有った。主力軍は、除州の『劉備』討伐に差し向けねばならぬ。こっち(北面)の方が主眼で有り続ける。《・・・・何とか打開の方途は無いものか?》
折しも、「盧江戦」を終えたばかりの
【孫策伯符】が帰って来た・・・・。
《よし!孫郎を南に投入しよう・・・!!》
ーーそして・・・・此処から・・・・
【孫策】の《怒涛の5年間》
が始まる・・・・!
「雌伏の時」は終わり、ついに、
【覇業の時】が巡って来た!!
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