第69節
「えせ皇帝」の成れの涯て
                                    袁術始末記(2)


瑞兆ずいちょうじゃあ!吉兆が現われたぞ〜!
天の意志を示す
瑞兆が下ったのじゃ〜!」 あの張炯ちょうけいが大騒ぎしながら〔宮殿〕に駆け込んで来たのは、196年も押し詰まった真冬の朝の事。その瑞兆が何であったのか、何を瑞兆と其の男が呼んだのかは、史書に載って居無い。まあ、何だっていい。それらしく有りさえすれば、鶴でも亀でも、鰯の頭でもサンマの尻尾でも構わない。物知りの張炯の事だ。又ゾロ予言書の中に出ていた、何か適当なモノを見繕って騒いで見せたのであろう。勿の論、ーー・・・出来合いに決まっている。だが伝国璽と云う物証に始まり当塗高などなど、理論もバッチシ。
「ウム、瑞兆が現われたとあらば、致し方も有るまい!」
とか何とか言って、ついに
袁術は、永年の夢であった皇帝の座に就いた。
197年(建安2年)、正月の事であった。
ちゅう王朝 と、命名した・・・・らしい・・・・。誰も、その正統性や実力を認めて呉れる者が無い故の、見切り発車であった。ーーつまり・・・僭称せんしょう詐称さしょうである。もはや常識の有る家臣達は呆れ返り、1人去り2人去りして、誰も残って居無かったのであろう。洛陽宮の嘉徳殿かとくでんを模した新築の宮殿に、文武百官を居並ばせ、伝国璽を捧げ持たす。しこうして皇帝だけが被る、平べったい長方形の、たますだれの付いた平天冠へいてんかんをみずから戴き、皇帝即位・新王朝の樹立を高らかに?宣言したのである・・・・。
夢にまで見た日・・・・何しろ、此の日の為にこそ生きて来た様な、袁術の後半生であったのだ。周囲の唖然・嘲笑も何処吹く風・・・・此の日の為に隠匿いんとくして置いた金銀珍宝のことごとくで飾り立てた、豪華絢爛けんらんたる即位の式典が取り行われた。 祝賀の式典は幾日も続けられ、その祝いと称する
乱痴気らんちき騒ぎ酒池肉林の宴は、更に何ヶ月も果てし無く続けられる・・・・。
皇帝としての初仕事は、いんを任命する事だった。尹とは、首都の長官である。きょう只今から、袁術の住む所(寿春)が〔〕であり、中国はおろか全宇宙の中心なのだから、寿春一帯=淮南わいなん地域を、都としての行政区域に指定しなければならない・・・と、云う理屈になる。袁術は喜色満面で黄金製の皇帝行璽ぎょうじを押印し、淮南尹わいなんいんが誕生した。更には身辺に『公卿くぎょう』達を置く事も必要だった。「ウ〜ム、皇帝とは、これで結構忙しいものであるな。」 南北の郊外で夫れ夫れ、祭祀も行わねばならぬ。皇帝は冬至に南郊で天を、夏至に北郊で地を祭る。無論、社稷しゃしょくはイの一番に建て、祭った。「ヒョウ〜忙しい、忙しい。これでは、ゆっくり宴を楽しむ暇も無いわい。」とか何とか言いつつも、顔はニタニタ、体はヘロヘロ、頭はボウ〜〜・・・・
その、新・皇帝陛下の「暮しぶり」を『正史』に観る。

荒淫こういん奢侈しゃしハ益々ひどくナリ、後宮こうきゅう数百人ノ女達ハ皆、綾取あやどりノ薄絹うすぎぬ(スケスケ・ルック)ヲ身ニまとイ、粱肉りょうにく(上質の米や肉)キ余ッタ。』 
ーー宮殿のも、いちおう観て措こう。

一方、士卒ハこご(領地である)長江ト淮河わいがニ挟マレタ地帯(自称・淮南尹わいなんいん)ニハ何1つ無クナリ、人々ハ互イニくらイ合ウ有様ダッタ。』
何をか言わんである・・・・宮殿の中は、連日連夜のドンチャン騒ぎ。だが、其処を一歩外に踏み出せば、巷は死肉を喰らう飢餓地獄・・・・自分と其の取り巻き以外は、人では無い。民衆とは、己を快楽に酔わせる為の道具に過ぎぬーー生まれた時からそうだった。今もそうだし、これからも当然の事であり続ける・・・・だが、祝賀の乱痴気パーティが盛り上がれば盛り上がる程、袁術は己が独りになるのを嫌がった。・・・・夜、独りになると、不意に「
不安」が襲って来るのだ。それが、日が経つに連れ益々頻度ひんどを増し、何か居たたまれぬ様な〔ソラ恐ろしさ〕にさいなまれて居る自分に気が付き始める皇帝で無いもう1人の袁術が、己の意識の中に現われては、しきりに「是れで善いのか?バカな奴め!」・・・・と、さげすんで来る。だから、其れを誤魔化し逃れる為に、酔いつぶれるまで飲み明かし、腎虚じんきょするまで荒淫こういんした。ーー然し・・・・酒と女と音玉の中に、己を呑めり込ませれば込ませる程、一層、居心地は悪く成るばかりであった。
《−−いかん、此の儘では・・・・》
ムカムカする空嘔からえづきの中で、そう思う。〔不安〕の原因は判り切っている。ーー・・・曹操】だ!!曹操に代表される反袁術同盟の幻・・・・であった。
《曹操がワシを殺して、帝位を狙っておる》・・・・余程、あの★★敗北・追撃戦がコタエテいた。「こちらも実力を着けて置かねば・・・・。」 そこで考えられるのは、都合しだいで何うとでも動く、
呂布との提携】しかない。 《やはり、呂布ともう一度、手を組み直そう・・・・》呂布の「除州」と、己の「揚州」が連合すれば、曹操とも対抗できよう。折しも曹操は、えん城で張繍ちょうしゅう賈クかくに大敗北を喫していた。「ザマ〜見ろ、女たらしめ!今なら呂布もその気になろう。」 だが、呂布には前回、ウソをついて、20万石どころか米粒ひとつ送って居無かった。当然こちらを怨んで、怒って居よう。ここで又、張炯が軍師ずらして言う。
「この際、呂布とは婚姻を結ばれ為されませ。呂布とて人の子。可愛がっている娘を、皇太子妃に迎えたい、と言ってやれば、田舎者の呂布のこと、感激して直ぐに機嫌を直しましょう。」
「−−ウ〜ム・・・・」 血筋を何より重んずる袁術としては素直には頷けない。由緒正しき袁一族の皇太子(1人息子)に、呂布ごとき下賎・寒門の娘とは・・・・・
「曹操に勝つ為には已むを得ませんぞ。妻の座などと云うものは、後で何うとでも変えられまする。」
「それもそうじゃな・・・・。」と答えつつ、袁術の頭の中に、ふと、
孫策の顔が浮かんだ。《あの若僧、チョット眼を掛けてやれば、調子に乗って、付け上がりおって・・・・》
先日、その孫策から
絶縁状が送り付けられて来ていたのだった。
皇帝を僭称するとは何事ですか!見損ないました。そんな方と、天を共に戴く事は出来ませぬ。よって私は貴方との是れ迄の縁をいっさい切り、独り立ち致しまする!!』


ーーこの袁術の皇帝僭称は、
孫策】に、
独立への大義名分与えたのである。よってこの袁術の行為は・・・・孫氏の呉国統一を、後押しし、促進する結果を呼んだ事になる。
《孫策の奴はもう、当てにはならぬ。やはり呂布との政略結婚しか有るまい。》ーー果たして、呂布は大乗り気になった。無論、娘が皇太子妃に成れるから・・・・などと云う単純な気持からだけでは無い。宿敵・曹操とモロに国境を接しているのは、袁術ではなく自分の方なのである。背後を安全にして措きたいのは山々であった。・・・・処が呂布陣営では、重臣の一部が、強硬に反対した。 
あの★★
陳珪ちんけい陳登ちんとう】父子であった。この2人は、謂わば曹操への内通者(信奉者)・廻し者である。・・・・呂布と袁術・除州と揚州が同盟すれば、曹操にとって一大脅威と成ってしまう。そこで呂布の信任をよい事に、熱弁を振るった。

「袁術は信用できませんぞ。先般、20万石の兵糧や武器の提供を約束して置きながら、その結果はどうでしたでしょう?」 これには呂布も、今でも頭に来ていた。「又その以前、殿が最初に袁術を頼った時の、その仕打ちを思い起こされよ。」そっちはもう、呂布にとっては怨みと成ってわだかまっている。
「あんな頼り無い男ではダメです。曹操どのこそ、同盟すべき相手ですぞ!第一、
えせ皇帝と婚姻など結べば、それこそ天下から不義の汚名を着せられ、周囲からは同類と見られて、攻められずとも済む、新たな敵を産み余分な危険を背負い込む事に成りましょうぞ!」
「−−ウム・・・然り、その通りじゃ・・・・。」
既に花嫁道中
に在った娘を、呂布は慌てて連れ戻した。ばかりか、陳登の勧めに従って、迎えの使者だった韓胤かんいんを捕え、かせを着けて〔〕へ送った上、その市場でさらし首にして見せたのである。チュウ皇帝にではなく、献帝けんていにこそ忠義を誓う者と アピールし、親・曹操である事を表明したのだった。呂布には、軍師の【陳宮が付いて居る筈であるが、この際、呂布は地元の名士(父子は下丕出身)を最重要視していた・・・・と云う事であろう。もっとも、呂布は常に、己の直感を頼り、殆んど陳宮の進言を採用しては居無かったのでは在るが・・・・。すかさず曹操は、この「陳珪・陳登」父子の内なる功績=(内通)を己の大戦略の中に組み込んだ。機を観るに敏な素早い対応であった。実際には張繍との対戦(南陽郡)で未だ自身は身動き出来無いのを逆手に取った、外交による〔袁術包囲網〕を完成させたのである。
197年(建安2年)夏・・・・曹操は、本物の皇帝(献帝)を擁する者の特権・メリットを最大限に活かした。正真正銘・正統な官爵を、袁術周辺の相手に贈り、袁術の孤立化に成功していった。即ち・・・・
『呂布』
には除州牧・平東将軍号を、
『孫策』には会稽かいけい郡太守・明漢将軍・烏亭うていを、「陳登」には広陵郡太守を、除州北部・海西県に駐屯する「陳禹ちんう」には、呉郡太守・安東将軍号を・・・夫れ夫れ贈ったのである。(ちなみに『劉備』は此の時、呂布に除州を乗っ取られ、曹操の世話になって居る)
袁術は激怒した。そして、其の包囲網を喰い破ろうと動いた。ちょうど近くをウロついて居た「
韓暹かんせん」「楊奉ようほう=(献帝の東帰行に随伴したが、曹操に蹴散らされた、白波はくは賊の残党)と、急きょ連合戦線を結ぶ。そして張勲ちょうくんを総大将として、呂布攻撃に向かわせた。その連合総兵力は、およそ数万。対する呂布側は1万余。いかに呂布の胡騎部隊が最精鋭とは言え、必勝が期待できる兵力差であった。ここで呂布を破れば、世の悪評も財政破綻はたんも、全てが好転するであろう・・・・期待と確信に満ちた、袁術最大の攻勢が開始される。
ーー淮水わいすいほとり、「張勲」が自信満々、攻撃前進を全軍に下命。呂布軍との距離が、あと『百歩ノ所ニ到ッタ時』、突如、「韓暹かんせん楊奉ようほう」の軍勢が寝返った★★★★。・・・その結果、『十人ノ将ガ首ヲ斬リ落トサレ殺害サレタ者・川ニ落チテ溺死シタ者、数知レズ』 《九州春秋
其ノ後呂布ハ、韓暹・楊奉ノ軍ト共ニ寿春ニ向カイ、水・陸共ニ進軍シ、通過シタ地域デ略奪ヲ働キツツ、鐘離しょうりマデ行キ、大イニ戦利品ヲ上ゲテ帰途ニ着イタ。』ーー《英雄記》ーー
又しても、あの『陳珪』が、事前に手を打って措いた計略であった。
・・・結局、呂布と袁術と云う【梟雄きょうゆう】と【怪雄かいゆう】はこの「陳父子」に振り廻され、ついに一大勢力とは成り得ぬままついえ去る・・・・。かくて、袁術が目論もくろんだ起死回生・一発大逆転の危機脱却作戦は、完全なる失敗・裏目に出た。脱却どころか逆に国家的破産状況』を呼び込んでしまったのである・・・・!!

ーー然し、人間と云う動物は・・・全くの絶望状況下に置かれると、却って其れを認めようとはしなく成るらしい。一見した限り、袁術は平気の平左、寧ろケロッとして陽気にさえ成って居た。そして宮殿内に於ける皇帝としての享楽ぶりは、これ迄にも増して徹底的となり、ぜいを尽くしけんを極めた、此の世の極楽桃源郷の夢の裡と化していた。軍の兵糧米は、もはや一会戦ぶんの備蓄も無くなっていると云うのに・・・・であった。以後、袁術公路に残された時間は、ただ転落の為、みっともない悪あがきの為にだけ喰い潰されていく。

溺れる者はワラをもつかむ・・・最後の最後、袁術が頼みの綱と、勝手に★★★思い込んだ相手は、何と、寿春からは北へ300キロ、州を飛び越えた、
陳留ちんりゅう」の【劉寵りゅうちょうであった。この劉寵は漢王室の宗族(諸王の一人)で、以前から永世中立国方針を採り続けて居た。だから一応、反袁術では無い、とも言えたのである。(国は郡と同格の皇族の封領地。あの拠烽フ地を含む。)陳留国のすぐ西隣りは【曹操】の本拠地(許都)である。と言うより、「曹操の勢力圏内」と観た方が正しい。但し、この戦乱のさ中、黄巾軍の侵攻も許さず、ひたすら中立を守り通して来ただけあって、その防衛能力は高いと観られていた。強弩一万張り が、その防衛システムの中核であった。だから周囲も、迂闊に手を出せ無かったのだ。その上、この人物・・・・・清廉潔白で人望絶大な傑物であった。

劉寵(字は祖栄)について『続漢書』は記す・・・・
母が重病になったので辞職して故郷に帰ろうとすると、一般民衆や士人達がくるまに取り付き、道に溢れて前に進めない。仕方なく質素な服に着替えて、こっそり抜け出し母親に孝養を尽くした。又、劉寵が離任すると聞くや、7、80歳の老人達が数十里も離れた山奥から見送りに来て各々百銭ずつ餞別せんべつにと差し出した。劉寵はその気持を受けて、その中から大銭1枚だけを受け取った。この事から人々は、彼を一銭取りの太守と呼んだ。劉寵は生涯通じて2度の郡太守、8度の九卿、4度の三公を歴任するが、その家には貯えが無く、珍貴な器物も一切無し。いつも粗食を食べ、質素な服装ガタガタのボロ車を痩せ馬に引かせ、その「爺々ジジむささ」で評判だった。京師みやこへ往き来する時には、いつも往来の端っ処を「驂馬そえうま」も付けずに行く為、誰も彼だと気付く者は無かった。或る時など、劉寵が亭に泊まろうとすると、亭の役人はその見窄みすぼらしい姿を見てダメだと拒否して言った。「今日は宿舎を整えて劉公をお待ちしているので、泊まらせる訳にはゆかんのじゃ。はよう立ち去れ!」そこで劉寵は、そのまま行き過ぎた。 彼の清廉せいれんおごらぬ様は、いつも此のようであった。』
ちなみに此の劉寵は、かの「劉遥りゅうよう」の伯父おじに当る。劉遥とは、江東に刺史と着任するや、忽ちに一帯を統治下に置いて袁術に宣戦布告した、あの劉遥である。
更にこの劉寵には、駱俊らくしゅん=(字は孝遠)と云う名宰相さいしょうがついて居た。『駱俊は全ての人々を慈しみ育てて、その安全を守り、お陰で天災も起こらず、歳ごとに豊かな稔りがあった。』 無論、この主従とも、忠烈なる漢王室尊奉者である。皇帝を僭称するなど、とんでもない大逆賊!・・・それをタダで食糧を分けて呉れと申し込んで来るとは一体どう云う神経を持っているのか!?開いた口が塞がらない・・・・。それにしても、中立イコール味方・・・・との思い込みは余りにも身勝手、虫のいい短絡思考だが、袁術はそれだけ追い詰められて居たのだ。 無論、同盟要請受け入れ要請は拒絶される。ーーするや袁術、その報復に(最初からの方針だったか?)刺客を送り込んで、なんと
劉寵と駱俊の主従ともを暗殺してしまった
のである!! 《国の主が消えたのだから、空き地を戴いて何が悪い!》・・・・と云う論拠をデッチ上げる為であった。軟弱な袁術にしては、意外な感に打たれるキタナイ行為であるが、人間いよいよ追い込まれれば、裏で何でもやるーー筆者が敢えて『怪雄』たるの呼称を与えた所以である。
「陳留へ 遷都せんと いた〜す!!」
すっかり喰い潰して、もう鼻血も出なくなった、
寿春を捨てて、豊かな土地への国家大移動=鞍替え〕を、狙ったのである。「朕(皇帝)みずからの聖戦じゃ!」と称し袁術はその全軍・全財産を率いると、ヤケのヤンパチ・破れかぶれの無謀な北上を開始した。
その年(
197年建安2年)の9月、袁術軍、即ち妻妾を含めた仲王朝挙げての全員は、呂布(除州)を迂回して、どうにか事も無く「陳留国」の国境線に辿り着いた。
「どうじゃ、ちん炯眼けいがんは!曹操の奴め、張繍ちょうしゅうとの戦さで眼一杯、手も足も出せぬではないか!カハハハハ・・・・ハハ・・・・ハ・・・・」 高笑いして居た袁術の得意顔が固まり、眼が点に成っていた。
「−−ん?・・・・
んんん?」来る筈の無い【曹操本人】が、その眼の前に現われたのだ!!
「−−そ、そ、
そんな・・・バカな・・・!? 袁術は顔面蒼白。背筋にタラリと、冷や汗が吹き出した。あの悪夢がよみがえった。場所も同じ此処、陳留国。
ーーきょうてい封丘ふうきゅうの大敗北・・・・逃げども逃げども追って来た。袁術にとって、曹操は執拗な殺人鬼・殺し屋であった。あの時は何度《もうダメだ!》と観念した事か。
・・・・まさに天敵、勝てっこ無い。おさえ難いおびえが、全身を捕えていた。死ぬのは怖い。まして「殺される」など、身の毛もよだつ・・・・洛陽宮に雪崩れ込み、宦官どもを斬りまくった、あの若き日の面影など微塵も無い。憶病な成り下がり者が1人居るだけだった。
「−−コホン・・・・朕は一旦、後方へ退がって、様子を観る事と致す。此処は四天王に任せるぞよ。」
「あ、あの・・・・それは・・・・」
「うるさい。しっかり、此処を守り通して見せよ。朕は直ぐに戻って来るわい。」
橋ズイきょうずい・李豊・梁綱りょうこう楽就がくしゅうの4将らに守備を命ずると袁術はやおら
金華きんか青蓋せいがい車」を南へ向けさせた。そして将兵の眼に見えぬ地点まで来るや、あとはピューーッ!!
一目散に寿春へと逃走した。主君がこれでは、残された家臣は堪ったものでは無い。 士気は上がらず、殆んど「ヤル気」無し。
術、公(曹操)みずかラ来攻スルヲ聞クヤ、軍ヲ棄テテ逃走ス。其ノ将ノ橋ずい・李豊・梁綱・楽就ヲ残留セシム。公ハ到達スルヤ、橋ずいラヲ撃破シ、全員ヲ斬殺ス。術ハ逃レテ淮水わいすいヲ渡ル。』
これで、
袁術の『』は地上から消滅した。ばかりか、携行したナケナシノ食糧も全て奪われた。やっとこ舞い戻った寿春の宮殿はガランとして、何1つ無いカラッポ状態・・・・。北上する際、一切合財・洗いざらい持ち出したのだから当然である。
「ーーええい!こんな役立たずの残骸など、見るのも胸クソ悪いわい。いっそ、ひと思いに燃やして呉れるわ!!」
民の血税で造営された宮殿は、袁術みずからが放った
によって無惨に焼け落ちた
「これでかえってサッパリしたわい・・・・。」
強がりなのか、自暴自棄なのか、本人にも解らない。
「さあ〜て、では参ろうか!」
「・・・・あの〜〜一体、何処へゆけば宜しいので・・・・?」
「決まっておる。忠臣の所じゃ。帝が困っていたら、救けるのが臣下の務めであろうが!」
「はあ・・・・まあ、左様では御座いますが・・・・」
「心配は無用じゃ!」 袁術は妙に自信満々である。当然だが、今さら皇帝を辞めて臣民には戻れないし、そんな気はサラサラ無い。尾とたてがみを朱に染められた9頭の白馬が引く、朱塗り車輪の「金華青蓋きんかせいがい」の皇帝車駕に乗り込むと、美女達を連れ、美々しく飾り立てた伴ぞろえを従えハダカの王様がゆく・・・・取り敢えず、セン山に居る配下の
陳蘭ちんらんを当てにして押し掛けた。ーー・・・だが陳蘭はニベも無く、受け容れ要請を拒絶して来た。
「不忠者めが!日頃の恩を忘れおって・・・。」
仕方無く、次には
雷薄らいはくの所へ車を向けた。しかし雷薄は、関門を設けて一行の来訪そのものを撥ねつけた。
「何かの間違いじゃろう。何度でも使いを出して、本物の皇帝が行幸したと伝えよ!」ーー1日、2日、3日・・・・と、其処に留まり、未練がましく居続けたが、とうとう雷薄は最後まで顔すら見せず、酒の1合も送って来無かった。
下手にエサを与えて、居就かれでもしたら大変じゃ。」
丸で野良ネコ扱いである。気が付けば、護衛の兵も数えるばかりに減っていた。
《ーー万事休す!もはや、是れ迄!》・・・・と投げ出さない処が、凄いと言うか、浅ましい。だが、これは袁術の際どい踏ん張り、最後の意地であったのだ。もし一瞬でも、己を「
惨め」だとか「みっともない」とか思ったら最期、発狂するか自殺するしか無くなってしまう・・・・訪れて来た己の崩壊に対する、崖っ淵の、必死の抵抗なのであった。厚顔、破廉恥と人に言われようと、生きてさえ居れば又、何時の日にか栄光も巡って来よう・・・・。
《ーーこのままクタバッて堪るか・・・!》
−−どうして、その顔が浮かんで来たのか・・・・
                 自分でも解らなかった・・・・・
常日頃からメカケの子とさげすみ、生涯の敵として反発し続けて来た
兄・【袁紹】の顔が、突然、浮かんで来たのである・・・・・人間は〔死〕・〔滅〕を予感した時、本能的に、血のつながった者へのいとうしさ・なつかしさに捕らわれるものだろうか?極限状況に追い詰められれば、人はそんな心境に成るものか・・・・眼の前に浮かんで来た《兄》の面影はーー何故か途轍もなく優しい、大らかに笑い掛けて来てくれるものであった。
《そうだ!兄貴に皇帝の位を渡そう・・・》

素直に『兄』と呼べる自分が居た。引き替えに受け容れて貰おう
・・・・などと謂った、さもしい気持では無かった。そして、〈兄はスゴイ!俺よりズッと上の人物だ!〉と認める事の出来る、もうひとつの自分が立ち現われて居た。

《・・・・同じ袁一族の血が流れているのだから、その資格は有る。そうだとも、兄貴こそ皇帝に相応しい。兄弟なのだ。俺さえ謝れば、全て水に流して呉れるだろう・・・・。》

ーー何と長い道のりだったか?
   バカな自分の為に、随分遠廻りしてしまった・・・・・


袁術は皇帝の称号を袁紹に送って述べる。

漢王朝が天下を失ってから随分になります。天子は人から支えられて居る状態で、実権は重臣の手に在り、豪族は互いに争い、領土を分け取りにしております。これは周末、7国が割拠したのと同様で、結局は強者が彼等を統合する筈です。更に、袁氏が天命を受けて、当然、王者と成るべき事は、瑞兆に燦然と示されています。 今、兄上は4州(青・冀・幽・并)を支配し、その擁する戸数は百万にのぼり、強さの点から言っても比類無く、徳義の面から謂っても、他の追随を許しません。曹操が衰弱した漢王室を助け起こそうとしても、何で天命の絶えたものを継続し、既に滅亡せるものを救う事が出来ましょうか。』

199年(建安4年)3月、(兄の)袁紹は黄河以北を完全に制圧し終え、天下人に最も近い男と成っていた。すっかり王者の風格が備わり、度量にもゆとりが出ていた。

「公路も哀れな奴よのう。同じ一族の兄弟として、弟の窮乏を見棄てて置けようか。
急ぎ、迎えに行ってやれ!
長男の【袁譚えんたんが、父の命を受け、青州から南下。袁術の救助に急行した。
「お〜、おお、おお、来て呉れたのか!やはり血を分けた兄上であった・・・!」

袁術はおい・袁譚の手を取ると、思わずハラハラと落涙した。すっかり気が弱くなっている。若い袁譚から見ると、父の溌剌はつらつした姿に比べ、弟だと云うのにヨボヨボした老人の如く、不健康な半病人に観えた。一行は気を取り直すと、下丕卩かひ(除州中部)から北上を開始した。(下丕卩城の主であった呂布は、昨年末に曹操に亡ぼされていた。)
ーーだが・・・・
劉備がこの動きに眼を着けた。当時、ていのいい監禁状態に置かれていた劉備は、袁術の北上阻止役を曹操に申し出た。脱出して独立せんが為であった曹操は目付け役(朱霊)を同行させて許可した。
《しめた!》とばかりに、下丕卩方面に出撃する劉備。

・・・・一方の袁術・・・・もう、付き従う兵士の影も無い。袁譚も急いで来た為、その部隊は騎兵のみの数十に過ぎなかった。とても万余の大軍には渡り合えない。
「我がおいっこよ、心から礼を申すぞ。この伯父には、
もはや騎乗しての長道中は体がもたぬ。未だ未だ将来のある、若いお前が危難に巻き込まれてはならぬ。直ちに儂から離れ、領国に戻ってくれ大事な甥っこを死なせたとあっては、兄じゃに合わす顔もなくなるからのう。ささ、遠慮せずに立ち去られよ。」

「ーー然し、それでは・・・・。」 
恐らく袁術は、この時点で既に、そうとう進行した悪性の病痾びょうあに、その全身をさいなまれていたと云うことであろう。独りでは馬にも乗れず、また乗ったとしても、長駆疾走する事が出来得無くなってしまっていた・・・・・。思えば袁術は、他の群雄に比べると、若い時から常に、全くと言ってよい程、軍馬に乗って戦場に臨む事をして来なかった。いつも後方に本陣を構えて、配下の武将を派遣するだけ であった。戦場への往き来にも、専ら車駕を愛用して来ていた。鎧兜に身を包んだ袁術が、単騎戦場を疾駆する・・・・と云う場面の想像が着かぬ程である。そうした軟弱さが幾十年と続けば健康体であったとしても、単馬での騎行はキツかろう。

「兄上には、よ〜く、我が感謝のきもちを伝えて呉れよ。そして、そなた達は・
兄弟仲良く力を合わせ、父上を皇帝として盛り立てるのじゃぞ・・・・!」

この時、袁術は、確かに発病していた。現代医学から観れば、数種類の厄介な病名が付けられるであろう程に。これ迄の暴飲荒淫が祟り、また、気力の衰えがそれに拍車を掛け、命は刻々とむしばまれ始めていたのであった。後ろ髪を引かれる様に、何度も幾度も振り返る甥っ子の背中を見送ると、袁術は再び「
寿春」に戻る事を命じた。最期にひと目、己が即位した栄光の地・寿春を見て置きたかったのだ。ーー然し・・・・寿春は既に寿春では無くなっていた。見る影も無い荒野・・・・・
袁術一行は悄然しょうぜんとして、今きた道をヨレヨレと引き返す。20キロほど云って「
江亭」に出た。今度こそ本当に、行く当てが無い。
炊事すいじ係りに尋ねてみると、未だ
「麦のクズ」が30石(30斗)残っていると言う。時節は夏の真っ盛り、原野を照りつける日差しが暑い。病いと重なり、むしょうに咽が渇く

「−−蜂蜜入りの飲み物をくれ・・・・。」

だが、そのような物は無いと言う。

「・・・・皇帝が・・・一杯の水も飲めない、と言うのか・・・・」

袁術ハひさぎ☆☆☆ノ木ノ寝台カラ身ヲ起コスト、寝台ノふちニ腰ヲ掛ケ茫然と眼を虚空こくうに向けた。

《なんで、こんなザマに成ってしまったのだ?これが皇帝の姿か!?袁術公路、世の笑い者として、後世に伝えられるか・・・》
華やかで、雄々しかった日々が、半ば混濁する頭の中を駆け巡った。・・・・と、その時だけ一瞬、意識がキレイに鮮明となった。

ーー誰も居無い荒野・・・・果てし無い野道のうねり・・・・
その中に唯独り、見守る者とて無く、此処に居るのは・・・


カア〜ッと全身に血が沸き立ち、哀しみと怒りと悔恨とが
ない混ぜに成って、一挙に臓腑の動脈壁を打ち破った。

『くそ〜〜、袁術ともあろう者が、
          このザマかあぁ〜〜!!』

ゴボゴボッと周囲に聞こえる様な
一斗あまリノ血ヘドが、この絶叫の最後を掻き消した。 そして、そのまま
・・・・・ 
絶命シタ。』
−−これが・・・・この男の最期であった。

 
199年(建安4年)、6月の事である。

袁術 公路 享年不明(推定40代前半)

・・・・野辺の露と消え終わんぬ・・・・

怪しからん生涯であった。その
怪雄を評して人は謂う

驕豪きょうごうニシテ、乱を治ムルノしゅあら。』・・・・・・〔陳登〕
塚中ちょうちゅう枯骨ここつなんゾ意ニかいスルリンヤ。』・・・・〔孔融〕
綱紀こうき無ク、ともニ事ヲ立ツルニリズ。』 ・・・・・・〔魯粛〕

そして最後に、「正史」はこう記す。


奢淫しゃいんほうニシテ、えい おのれエズ。みずかこれヲ取ルなり。』

ーーかくて、親子2代に渡って孫氏重石おもしと成っていた「怪雄」は亡びた。そして・・・・江東の地には、この少し前から、新しい時代の波が、うねり始めようとしていた。

小覇王しょうはおう!』ーーそれが今、孫氏2代目・
   【
孫策 伯符 に冠されている諢名あだなである。

さあ、いよいよ、

孫策】と【周瑜】の親友コンビによる、
   胸のスク様な大活躍が始まる
!!
【第70節】 雌伏する日々  →へ