
197年(建安2年)、正月の事であった。
その、新・皇帝陛下の「暮しぶり」を『正史』に観る。
197年(建安2年)夏・・・・曹操は、本物の皇帝(献帝)を擁する者の特権・メリットを最大限に活かした。正真正銘・正統な官爵を、袁術周辺の相手に贈り、袁術の孤立化に成功していった。即ち・・・・
溺れる者は藁をも掴む・・・最後の最後、袁術が頼みの綱と、勝手に思い込んだ相手は、何と、寿春からは北へ300キロ、豫州を飛び越えた、「陳留国」の【劉寵】であった。この劉寵は漢王室の宗族(諸王の一人)で、以前から永世中立国方針を採り続けて居た。だから一応、反袁術では無い、とも言えたのである。(国は郡と同格の皇族の封領地。あの拠烽フ地を含む。)陳留国のすぐ西隣りは【曹操】の本拠地(許都)である。と言うより、「曹操の勢力圏内」と観た方が正しい。但し、この戦乱のさ中、黄巾軍の侵攻も許さず、ひたすら中立を守り通して来ただけあって、その防衛能力は高いと観られていた。《強弩一万張り》 が、その防衛システムの中核であった。だから周囲も、迂闊に手を出せ無かったのだ。その上、この人物・・・・・清廉潔白で人望絶大な傑物であった。
その年(197年建安2年)の9月、袁術軍、即ち妻妾を含めた仲王朝挙げての全員は、呂布(除州)を迂回して、どうにか事も無く「陳留国」の国境線に辿り着いた。
−−どうして、その顔が浮かんで来たのか・・・・
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