【第68節】
【美女狩り】が始められた。《・・・皇帝たらんとする者、後宮に千や二千の美女が居無くてはならぬ!》何しろ、曹操の執っこい追撃を受けた際、折角集めた女達は、途中で皆んな打っ茶らかして来たものだから、今は未だ5、60人しか居無い。だから家臣達も治世などは後廻し。寿春一円は勿論、遠くは5・600キロも離れた「中原」に迄、美女探しに出掛けた。幾ら美人でも田舎女では「格」が落ちる。女でも調度・工芸品でも何はともあれ「都育ち」「雅び」でなくてはならないのだ・・・・。
ところが、「雅びな お姫様」には、田舎女達の妬みが待ち受けていた。のちに〔皇后?〕と成った『馮氏』と云う、
「国中デ第一等ノ美女」が居た。司隷の馮方の
娘で、戦乱を逃れて、たまたま「寿春」に移住して居たのだが、或る日、城壁上に居た袁術が目敏く見つけた。(高い城壁の上からメッケたと云うのであるから、袁術も、そっちの視力だけは超一流だったらしい・・・・) 一目惚れと云うやつで、「大イニ気ニ入リ」、後宮(?)に入れたのだった。
《何あ〜んだ、アチャコチャ探し廻らずとも、こんな近くに妻と成るべき女は居たんだ!ウヒョ、是れも男たる儂の運の良さじゃな!》
・・・てな訳で、もうベタ惚れ。寵愛を独り占めして、正妻と成った。
ーーすると他の女達は、その寵愛を妬み、皆んなで話し合って奸計を巡らせる。
「将軍は、操の固い方を大切になされます。ですから、何時も何時も涙を湛え、物思いに耽った風情で居られれば、きっと何時迄も大切にされるに違い有りませぬワ。」
育ちの良いお嬢様は、お為ごかしの側室達の言葉に『モットモダト考エ』、それ以後は袁術に会う度に、涙を流して見せた。果たして袁術は『心ニ思ウ事ガ有ルノダト考エ、一層馮氏ヲ愛ウシンダ』
ーーこうして下準備を整えて措いてから、側室達は馮氏の所へ押しかけ、皆んなで取り囲むと、首を絞めて殺してしまった・・・・
その後、皆んなで協力して、エッサホイサと死体を厠の梁にブラ下げて、後は知らんぷりして大騒ぎして見せる。袁術は 『本当ニ馮氏ガ、思イヲ遂ゲラレ無カッタ為ニ自殺シタノダト受ケ取リ』手厚く葬った。げに女の嫉妬は、何時の世でも、古今東西おっとろしい??
そんな事に現を抜かして居るかと思えばーー次には大将軍を任命して見せる。言わずも哉、大将軍とは・・・・臣下としての最高官位(三公より上)である。それを任命できるのは、主上たる
【皇帝】にだけ許される大権であった。
《ムフフ、この意味が解るであろう?》
と云う訳で大盤振舞い、豪華太っ腹、前代未聞・・・・・何と一度に2人もの大将軍を任命して見せた。(張勲と橋ズイ)
《来るべき新王朝は、今迄とは違った、斬新な官僚機構でゆくんじゃ。どうだ、参ったか!》
折りしも(長安の)李催政権が、援助を期待して全国行脚させていた太傅の『馬日禪』が寿春にも廻って来た。
この馬日禪、字は翁叔・・・・蔡邑・慮植・楊彪といった当代の錚々たる大学者らと共に東観(宮中の図書室)で「中書」を校し、「漢記」を補続するなど、九卿の官を歴任三公の地位にまで昇った、人望厚き大名士であった。ーー長安(李催)政権の思惑では、袁術に贈官して味方に取り込み、後々の為に手を結んで措きたかったのだ。(世間では未だ、袁術の存在を無視し得ぬと観ていた事が識れる。)
そこで袁術を「左将軍」・「陽隹侯」に取り立て、《節》を与える叙任を馬日禪に行わせる手筈であった。
(※ 節・・・・軍令違反者を処罰する自由裁量権を示す、房の付いた旗。
その種類については第12節で、重要性については第53節に既述)
だが帝座を窺う袁術にとって、己が臣下として叙任されるなど、トンデモナイ話であった。−−だから・・・・
『袁術は馬日禪から節を借りて見せて貰ったが、その儘奪い取って返さず、自陣営の中から千人(10人?)のリストを突きつけ、「早く任官させてみせろ」と せっついた。(原文=備軍中千余人、使促辟之)
馬日禪は袁術に反駁した。「あなたの家の先代の諸公がた(4世三公)が、士人を招聘する場合はどうでしたか?それを、早くと言われるのであれば、あなたは三公府の掾(属官)を脅迫で手にしようと考えられるので御座いますか!」 そして袁術の元を去ろうとしたが、袁術は彼を留め置いて(監禁して)、出発させなかった。馬日禪は(文字通り)節を失い、屈辱を受けた為、憂いと怒りに捕らわれて死んだ。』
ーーヒドイ手口である。・・・・だが袁術にしてみれば今後本物の〔節〕は何かと役に立つ。自分が臣下に与える立場に成った時に使える。又、それを見本とすれば、レプリカを幾つでも作れる。更には、その叙任方法や、儀式のやり方も見ておきたかったのだ。兎に角この頃の袁術、その関心は加速度的に《帝位》へと急傾斜し始めて居たのである。ーーとは言え、流石に世の反発・風当たりは相当強いであろう。何とか、己の行為を正当化して呉れる名士が欲しい。サクラでは駄目だ。押しも押されもせぬ、れっきとした外部の「名士」でなければ、却って墓穴を掘る。・・・・そこで、若い頃から互いに往き来していた『陳珪』に手紙を送り、それとなく打診してみた。記憶の良い読者には思い出されたかと思うが、この「陳珪」と長男の「陳登」は、筋金入りの曹操信奉者であり、除州に在りながら、常に除州=揚州同盟が成立しないように曹操と内通していく人物である。袁術とは、彼の叔父がもと太尉であった事から、「三公の子弟同士」と云う関係で、袁術とは付き合いがあったのである。
−−その手紙ーー
『昔、秦が誤った政治を行い、天下の群雄は競って政権を奪い合い、智恵と勇気を兼備した者が最後にその果実を手に入れました。現在、世の中は乱れに乱れ、再び瓦(かわら)の砕け散る状況となりました。まことに英傑が行動を起こすべき時です。足下とは昔なじみ、援助を承知して下さいましょうね。もし、大仕事を成し遂げる時には、君は実際、私の腹心と成って呉れる事と思って居りますぞ』
袁術は是が非でも「陳珪」の賛同協力を得たいと焦った。袁術の乏しい人脈では、彼以外には目星しい名士が見当たら無かったのだ。だから不安になった袁術は、やらずも哉の、バカな行動を取った。何と、陳珪の次男の陳応を脅して、人質に取って見せたのである。何が何でも陳珪を呼び寄せようとしたのだが、是では将に逆効果である。とても友人ではありえぬ所業だ。最初から不安であった証拠である。
−−陳珪からの返書ーー
『昔、秦の末期は、暴力を欲しい儘にし欲望に任せ、残虐は天下を覆い、害毒は人民に降り掛かりました。下民はその命令に耐え切れず、その結果、終いに雪崩を打って秦は崩壊したのです。今は衰世とは申せ、未だ滅亡した秦の様な、過酷暴虐に拠る無秩序は存在しておりません曹将軍(曹操)が神の如き武勇を以って時代の要請に応え過去の規範を復興されまして、凶悪な輩を平治し、四海の内を清め安定しようとされている事は、事実に照らして明らかです。足下も力を合わせ心を一にして、漢王室を輔翼し奉るに違い無いと思って居りましたのに、密かに道ならぬ企みを抱き、我が身を禍いに晒して見せるとは何と痛ましき事ではありませぬか。もし判断力を失っても理性に立ち戻る事を弁えて居られるなら、今からでも、災難から逃れる事が出来ましょう。私は昔なじみを忘れぬ故、心情を披瀝いたしました。たとえ耳に痛い事でも、肉親の情愛であります。私利に眼が眩んで迎合する事を私にお望みになっても、金輪際、死んでも左様な事は致し兼ねます!!』
賛同・協力して呉れる処か、逆に手厳しく非難され、諌められたばかりか、断固たる〔訣別宣言〕まで突き付けられてしまった。
《・・・・フン、所詮、外部の者に、この儂の高邁な理想など解らんのじゃ・・・・。》
こうなればもう、自前で「正統性」を世間に解らせるしかあるまい。そこで四六時中、頭を捻り続けて居た袁術・・・・
ハタと閃いた!! 己の名前の中に『それ』が含まれている事を、古文書の中に探し出したのである
「ウム、これはイケル!!」ーー無論こじつけ、屁理屈に過ぎぬが、当事者にしてみれば、これは正しく天の声、天の命じた符牒なのだと確信する。
『袁家ノ始祖ハ陳国太夫・轅 濤塗ナリ』
・・・・と在った。
《・・・・フム、袁と云う姓は元は陳から派生したものだ。
陳は舜の子孫だからだから・・・・
土が火を受け継ぐと謂う、五行説に叶っておる!》
→「木」→「火」→「土」→「金」→「水」→
この循環こそが、各王朝の支配原素である。『堯』から
『舜』へ、「舜」から『禹』、「禹」が開祖の〔夏王朝〕は〔殷王朝〕へ、そして〔周王朝〕へと替わって来た。五行思想に基づいた易姓革命による王朝の交替・・・・正しく、これに当る!(※詳しくは第22節に既述)〔漢王朝〕は【火徳】を支配原素としているから、次の王朝は【土徳】でなければならない。・・・・だとすれば・・・・土徳の天子・舜の末裔として、《我が袁氏はまさにピッタリ!新王朝を開くのに、全く、完全に、完璧に、相応しいではないか・・・・!!》
然し、この「五行思想」だけでは、いかにも大雑把すぎてイマイチ物足らない。ーー処が、よくしたもので、こう云う時に限って、暗君を喜ばせる様な輩が出て来る。謀臣の「張炯」と云う男が、それであった。この男は、袁術が跳び上がって感動する様な、”大発見”を申し出たのである。
今度は、【讖緯思想】=(占い・予言)に因る【袁術皇帝説】であった。『春秋讖』と云う(怪しげな)古代の予言書の中に
漢ニ代ワルモノハ、〔当塗高〕ナリ・・・・と言う一文が在るのに、着眼したのだ。
トウ ト コウ??・・・・何の事やらチンプンカンプンの3文字である。だが予言・占いなどと云う胡散臭いモノは、逆に、何うとでも解釈可能でもある。そこで「張炯」は『塗』が道を意味する事から、『塗ニ当タッテ高シ』 と 読み、「是れは、袁術サマの事を指して居りまする!」と申し出た。袁術の字は「公路」・・・・まさしく《道》を指している。張炯は更に主君を歓ばせる。
「お名前の、〔術〕の字をよ〜く御覧なされませ・・・・。」
「ーー?・・・・??」
張炯は、わざと筆順を変えて、術の字の中央部分を飛ばして(ネグって)、筆を止めて見せた。
「ーーフム、〔行〕じゃな・・・。」
「お宜しいか・・・そもそも、お名前の術の字は・・・『行』の真ん中に、『求』が組み合わされたもの。〔行〕は道に通じ、〔道を求め行く者〕→即ち【皇帝と成られるべきお方】つまり・・・→→袁術公路さまなので御座いまする!」
「−−おお〜!何と云う符合ぞ・・・・!名も字も・・・・いや待て!どちらにも 塗 が含まれておるぞ!!」
《ーー完璧じゃ・・・・!!》
孫策から渡された【伝国璽】を手繰り寄せ、抱え込むと、袁術は暫し恍惚の宙空を浮遊した。
《姓も名も字も、儂の全てが、生まれた時から、
皇帝への道に通じるものだったとは・・・・!!》
此処まで揃えば、是れはもう、「天命」に間違い無し!天下広しと雖も、「姓・名・字」の三者全てに【天啓】がまつわる英雄など、この儂を置いて誰が在ろうぞ!?
・・・・皇帝に成る為の、ミラクル方程式・・・・
「袁」+「術」×「公路」=新しき皇帝??
〔当塗高〕ーー塗に当たりて高く聳えるもの・・・・
其れは『魏』を指すともされる。「魏」とは〔巍闕〕、宮中の門外に2つの台が在り、その上に高く聳える「望楼」を謂う。→と、なれば、このインチキ臭い予言書の3文字は寧ろこの後、曹操の【魏国】・【魏王朝】 樹立の時にこそ持ち出され、利用・適用される事となるだろう
・・・・とは、誰しも予言できる。
時あたかも、長安を脱出した【献帝】一行は、その途中の曹陽に於いて、李催・郭らの残党軍によって大敗北の惨劇を喫していた。
「ホレ見てみよ!もはや後漢王朝は衰退の極みに在る。400年は長過ぎたのじゃ。五行説と讖緯説は、易姓革命が行われて当然と、新たな天意を示しておる。いよいよ儂が天帝に召されて、世に出る時が参ったようじゃな。」
そこで袁術は、文武の者全てを集めて下問の場とした。
「現在、劉氏は衰退し、四海の内は沸き立つ様な騒動である。儂の家は4代続いて三公の位に昇り、人望が寄せられておる。・・・ウォッホン、そこで儂は・・・・天命に応え人々の期待に沿いたいと思うが諸君の気持はどうか?」
とっくの昔から、袁術の情念を知り尽くしている家臣一同敢えて思い切って異議を唱える者は、誰も居無かった。
・・・・では、と、袁術が、おもむろに口を開こうとした瞬間、1つの影が進み出た。主簿の「閻象」であった。
「昔、〔周〕は、后稷から文王に至る迄、恩徳を積み、手柄を重ねて、天下の3分の2を支配しながらも、なお臣下として〔殷〕に仕えました。殿のお家は代々繁栄されておられますが、未だ周の隆盛には及びませんし、漢の王室は衰えたりとは申しても、未まだ殷の紂王の暴虐さには至っておりませぬ!」
ーーズバリ真実だから、真っ向・大上段から向かって来られては、咄嗟に返す言葉は無い。それよりも、主簿(副官)と云う身内から造反された事が大シヨックであった。
《・・・天下を平定した者こそが皇帝であり、皇帝を名乗っ
て措いてから天下を平定するなんぞアベコベじゃ!
道理が通る筈は有りませんわい!》
議場内にも、閻象に賛同するどよめきが湧き起こった。《よくぞ、言って呉れた!》 と云う、家臣団の雰囲気は、流石の袁術にも伝わる。
ーー袁術ハ押シ黙ッタ儘、
不機嫌ナ様子ダッタ・・・・
未だ此の時点では、かろうじて、常識人が残って居て呉れたと云う事である。だが無論、袁術の妄念が消える訳が無い。実行がチョット延びただけである。すなわち、閻象に指摘される迄も無く、袁術自身が「国力」に不安を抱いていたのである。
《・・・・仕方ない、この際まず、江東を完全に制圧し、
除州を奪ってからにするか?》
さて、袁術を取り巻く周辺の軍事状況だが、時々刻々と変化していた。これまで筆者は、【帝位僭称】を主眼に置いた為、やや袁術を「軽んずる面」のみを強調し過ぎたキライがある。それでは公平を欠こう。
軍政家としての袁術は、決してアホでは無いのである!(最後に破滅するのは事実だが)そこで罪滅ぼし(?)に、袁術公路が新王朝を宣言する日迄の、軍事戦略・用兵を垣間見て措く事にしよう。ちなみに、彼にまつわる史書の何処にも、【軍師】又は【参謀】たる人物の名が終いに出て来ないのは、袁術の不幸・不徳の致す処ではあろう。彼は常に、独り浮いていた観は否めない。「その割にはよく持った」、とも言えようか・・・・?
193年の1月が、【拠の戦い】であった。
曹操に追い立てられ、揚州にまで落ち延びた。然し、揚州刺史の陳温を殺害し、その3月に寿春を本拠地と定めるや、袁術は何とか自派勢力の盛り返しに成功する。大した強豪が存在して居無い、揚州なればこその幸運と言えよう。ーー以後は、孫堅の遺児・【孫策】らを使って、周マ・周ミ・陸康を駆逐、江准地方(長江北岸一帯)の制圧を果たす。(詳細は別節にて)この時、袁術は「孫策」を非常に高く買っている。
『術(袁術)、常ニ歎ジテ曰ク、術ヲシテ 子ノ「孫郎」ノ如キ有ラシメバ、死ストモ復タ 何ゾ恨マン。』・・・儂の息子に欲しい位の英傑じゃ・・・・だが、その裏を返せば、孫堅の遺児の台頭を警戒し、任官の約束を反古にし続け、ましてや父親の軍兵を引き渡す様な事は、決して許さ無かった・・・・。
(※此の頃、直ぐ北の「除州」では、父親を殺された曹操が大虐殺を行った。然しその留守を突いた陳宮・張獏は呂布を呼び込んで曹操を裏切り、その根拠地・兌州の乗っ取りにほぼ成功する。だが危機一髪引き返した曹操によって、やがて追い詰められ、袁術に援軍を求めて来る。然し袁術に未だ、そんな余力は無く、張獏は部下に殺され、弟の張超も自殺する。)
翌194年・・・江東(長江下流域)に1大異変が生じた。長安の李催政権から揚州刺史として指名された【劉遥】が、長江南岸の曲阿(孫堅の墓所)に着任したのである。そして「劉遥」は、着任するや否や、江東の諸勢力と連合し、忽ち数万の兵力を掌握。ついには袁術に対して宣戦を布告して来たのである。袁術もこれに対抗して「恵攫」を揚州刺史に任命。両者は長江を挟んでその河口一帯で開戦、対峙した。だが劉遥軍は強力で、戦局は膠着状態に陥ってしまう。(※北の除州では陶謙が没し、【劉備】が除州を引き継いでいた。)この劉遥の出現には袁術も参った。そもそも、袁術のシナリオ(戦略)では・・・・『強敵の居無い南(江東)を素早く平定し終わり、その資力(兵員や兵糧)を以って北(中原)」に進出、天下に覇を唱え皇帝に就く・・・・』 と、謂うものであった。ーーだが、劉遥の出現に因って、そのシナリオ(大戦略)は、大幅に狂わされ、身動きの取れぬ、「後顧の憂い」と成ってしまった訳である。そこで、
195年・・・・袁術はついに20歳の【孫策】を戦線に投入する事を決断する。馬日禪から折衝校尉に任命された「孫策」に、その父親・孫堅の軍兵を返して、この苦境を打開させようと、期待したのであった。(是れが孫策の旗挙げ・呉国成立の第一歩となる。)・・・・するや孫策、親友の「周瑜」と力を合わせ、破竹の快進撃を見せて、劉遥を予章郡(荊州との国境地)へと敗走させてみせる。そこで・・・・
翌196年(建安元年)・・・・後顧の憂い無しと観た袁術は、念願の除州攻略に着手する。ーー除州は極めて不安定な状態に在る!と云うのが、袁術の戦略眼であった。除州の牧には【劉備】と謂う、袁術に言わせれば生まれてこのかた、此の世にそんな人間が居るなぞ聞いた事も無い奴が一昨年、急に陶謙の跡を継いでいた。旧来からの在地家臣団と新参の家臣団との間は、どうも上手くいっていない様子である。然も其処へ、【呂布】と云う無節操な野獣が転がり込んで居た。
《ーーこれは使えそうじゃな。》・・・・そこで袁術は、漁夫の利を狙った。呂布を煽てて唆せ、両者が共倒れとなって弱体化してくれれば、こんな都合の好い事はない。こう云う分野に於ける袁術の才覚は、なかなかのものであるその手段として袁術は、呂布に兵糧20万石を供与すると云う口約束を与えた上、お追従の手紙を付け添えた。
(※詳しくは既述)案の定、呂布は是れに飛びついた。かくて、呂布による、〔除州乗っ取り〕・主客転倒劇が出態した。
・・・・「張飛のバカめ!」・・・・袁術も怒った。張飛のバカは不意を突かれ、一戦にも及ばず、「下丕城」を呂布に明け渡し、遁走してしまったのである・・・・これでは「両者共倒れのシナリオ」が台無しであった。単に除州牧の首がすげ替わったに過ぎぬではないか!
《まあ然し、呂布も直ぐには動けまい。》
そして「劉遥」との戦いにも勝った。(勝ったのは孫策なのだが)
「曹操」も南陽で張繍と対戦中・・・・
(ーームフフ・・・・機は熟した・・・な!!〉
いよいよ
袁術皇帝 の 誕生である!?
【第69節】 「えせ皇帝」の成れの涯て→へ