【第67節】
〔呉に2張あり!〕と人々に言わしめた2人の重臣、其のもう1人は、【張紘】字は「子綱」。
【張紘】は此の時、母親の喪に服して居た。だが、彼の母親が亡くなったのは、もう3年も前の事である。《喪に服する》・・・是れも亦、当時の上層階級に在っては重大な社会規範、人として犯し難い道徳律であった。少なくとも3年間、普通は5年間、長期に及べば及ぶ程、その孝心は厚いとされた。
「華北」では何と30年を送り、聖人と言われる男すら居た。・・・・然し、この聖人サマ、実は5人もの妾を囲っていらっしゃった・・・・と云う様な、虚構の儒教美談が蔓延していた此の頃の中国にあってひとり南方の呉の地方では未だ、この道徳律は誠実に遵守励行されていた。
※無論、庶民は一切の儀礼の対象外。庶民は人=人士とは見做されず、飽くまで「民・草」であった。其の日暮らしの我々庶民が、労働もせず3年間も無為(服喪)に過ごせる筈も無い。干乾びてしまう。第1、早死にが当たり前で、常に死と隣り合わせて居る庶民一同であったから葬式は日常茶飯事・・・・その民草に(喪を含めて)儀礼を要求したら、社会全体の生産活動がストップしてしまい、肝心要の、上層支配階級が食え無く成ってしまう。因って、身分制社会が誕生した瞬間から、人類は洋の東西を問わず、この不文律に則って、此の世界を形成して来ていた。
ーーさて、孫策や張昭・張紘が住んで居る「江南」であるが・・・喪に服さぬ者は、人倫(人の道)に外れた最も下等な所業として、糾弾・疎外されていた。況してや「名士」と仰がれる者にとっては、喪とは如何なるものであるか、世に範を示す責務も負わされている事となる。日頃高邁な教えを説くからには、それを身を以って実践しなくてはならないのである。世俗とは一切縁を断ち、ひたすら亡き人を弔う・・・・それが正式な喪の態度とされた。又、喪中の者に対しては、一切それを邪魔だてしてはならぬ事、それも亦言わずも哉の不文律であった。勿論、それだけの経済力を誇る、支配階層ならではの儀礼であった。
母親の死から3年、【張紘】は全ての世事を捨て、ひっそりと粗末な草庵で母親の喪に服して居る。彼ほどの名士であれば、少なくとも、あと3年は、こうして喪に服し続けるであろう。−−だが孫策に、それ程の時間的余裕は無い。
張昭と並び称されるが、張昭が内政を得意分野とすれば【張紘】は寧ろ、急務である戦略・戦術面に、その才が秀でていると聴く。外交手腕にも優れている。これから旗挙げを準備し、次々と戦さを勝ち進めなくてはならぬ孫策にとっては、イの一番に自軍に欲しい参謀・軍師としての人材であった。ーーが、張紘は今、母親の喪にだけ心血傾注と聞いた。いくら事情を説明しようにも、喪が3年を経たぬでは、会ってさえ呉れぬであろうし、第一、礼を失すること甚だしい。逆に不快感のみを与えてしまうであろう・・・・。
時を待つ事とし、その間に「張昭」を迎えに往ったのである。
今、喪は3年目を終えようとしていた。然し、孝心厚い張紘であれば、尚3年の服喪を行うであろう。心静かに、そうさせてやりたい。だが《事は急を要する!》意を決した孫策は、敢えて張昭を同道せず、己独りで「張紘」の庵へと向かった。
だが、1回目は何故か、彼の姿は草庵には無かった。帰り難く2日、3日、4日と待ち続けたが、とうとう会えずに終わった。3年間待ち侘びた上での訪問である旨、手紙に残して帰途につく。2回目の訪問は、その1月後に赴いた。
然し、2度目の訪問も不首尾に終わる。
「あと3年は、母の喪に服する心算です。それ迄は一切、世に
出る気は御座いませぬ。」丁重ではあったが、対話そのものを
拒絶されてしまった。ただ、己の顔を知って貰うに止どまったの
であった。ーーそれから3ヶ月の後、孫策は3度庵を訪れた。
今度は流石に、中に招き入れては貰えた。孫策は非礼を侘び
つつ庵に足を入れた。書斎一間だけの、竹簡に埋もれた蔵書
の山の中に、求める【張紘】は居た。張昭とは対照的に
痩身で飄々と枯れた感じさえする、物静かな人物であった。尤も、3年間も喪に服して居れば、誰しも其の様に見えるかも知れ無い。髭も濃い方では無く凡そ欲と名の付くものには無縁そうな、清雅な人柄と見えた。 頭には喪中である事を示す{糸至}と云う、麻縄のハチマキを巻いている。原籍は北隣りの除州・広陵郡の人である。やはり戦禍を逃れて江東の地に移住した「北来の名士」であった。歳は張昭より3つ上で、今は40に達している筈である。自分よりは22歳もの年長者であった
奥に祀られた母親の石に礼拝した後、孫策は必死となった。両手を突き頭を垂れて心情を吐露した。
「今や漢王朝の命運も先が見え、天下は混乱し、英雄は各地に割拠し、夫れ夫れが己の利害を計って居ります。が、未だ、混沌を平定すべき人物が現われませぬ。亡き父は、袁氏と協力して董卓を打ち破りましたが、功業半ばにして、無念にも不慮の死を遂げました。私は頭の悪い若僧ではありますが、志だけは抱いて居ります。何とか袁術殿から亡父の軍兵を取り戻したいのですが、どうしてよいかすら判りません。何とか離散した兵士を掻き集め、それを足場に、父の恥を雪ぎ、朝廷の守りに成らんと願って居ります。先生、一体私は今、どうしたら宜しいのでありましょうか?どうぞ、先生のお考えをお示し下さいませ!」
きっちりと端座して、それをジッと聴いていた張紘だが、物静かな口調は、それに応えるものでは無かった。
「私は元来、何の才能も無く、且つ喪中であれば、あなたの立派な志に、何もお力添え出来ません。今は只、静かに母の冥福を祈りたいだけで御座る・・・」
「先生、どうぞ御許しください。先生をお慕いする余りとは申せ、喪中も省みず、この様な非礼を為した我が身を恥ずかしく思います。・・・・本日は是れにてお暇つかまつりますが、いつか必ず先生より、思慮深きお教えをお聴かせ戴けるものと、乞い願って居りまする。」
孫策は幾重にも非礼を侘びると、戸口にそっと、手土産げ代わりの「紙」と「硯」と「筆」とを置いて、馬上の人となった。
それから更に3ヶ月・・・・草庵を訪う事4たびとなった。大切な人であるから、5度でも6度でも厭いはせぬが、時がそれを許しては呉れぬ。今度こそ、何としてでも、具体的な戦略・戦術を尋ね、是が非でも出仕を仰がねばならない。
「−−先生!無礼厚顔な輩とお思いでしょうが、この孫策伯符、先生を恋い慕うこと、師と仰ぎお教え願いたいと思う誠は、天地身命に賭けて一点の曇りも御座いません!何卒、何卒、この若輩非力なる愚かな人間に、希望の光をお与え下さい!我が進むべき道をお示し下さい!伏して、伏して、御願い申し上げまする!!」
「−−有り難き御気持と御言葉で御座います・・・・然しながら、人の道を説く者として、今、喪を止める訳には参りません。又、私の才など採るに足らぬもの。とてもあなたの役に立つ様な人間であるとは、私には思えませぬ。」
前回の返答とは、ほんの僅かだが、ニュアンスに違いの有る事に、若い孫策は気付けない。
《嗚呼、未だ俺の誠が至らないのか・・・!》
そう思うと、己の情け無さと、自分の至らなさとが悔しくて思わず涙が零れ落ちた。懸命さ故に出た涙であった。
「先生!!先生の御高名は広く天下に伝わり、遠近の者は挙って先生に心を寄せて居ります。−−今、私の採るべき道も、先生の一言に掛かって居りますのに、なのに何故、先生は御心の裡を告げて戴けないのでありましょうか!私のささやかな志を遂げて、父の仇が討てましたならば、それは取りも直さず、先生のお力に拠るものであり、その事こそが、私の心の底からの願いで有りますのに・・・!!」
巨躯を折り曲げ、両手を着いて平服する青年の、その前の床は、彼の溢れ出る涙で濡れ浸っていた。そして、孫策の若い肩が、激しく慟哭に震え続けている・・・・。
「−−嗚呼、これ以上、人の誠を無にして善いものか?
これ以上、君子を悲しませて善いものか・・・・!?」
張紘子綱は・・・・己を慕い、嗚咽にむせぶ若者の姿を眼の当たりにして、自問した。自問せざるを得無かった。
〈−−・・・・!!〉
その呟きの声を耳にした孫策は、エイと己を叱咤すると、運命を賭けて、更に膝を進めた。
「先生!私と、私と共に歩んで下さい!!いま私には、先生にお与え出来る土地の一寸すら御座いません。而れども、この孫策伯符、この身も命も全て先生に委ねて、悔ゆる処些かも無し!どうか先生!この孫策の命を使って江東の地に、先生の理想郷を築いて下され!!」
「ーー・・・そ、孫伯符どの・・・・。」
張紘の眼にも、感動の涙があった。
「−−この{糸至}は、外す事に致します・・・・!」
「えっ!それでは!?」
「・・・・不肖、この張紘子綱、我が40年の人生に於いて、之れ程深く、心が揺さぶられた事は有りませなんだ・・・。暑き日に、雨の日に、風の日に、そして又、風雪の日にさえ、遥々、幾山河数百里を越えて、訪うて来られた・・・とても私には、真似すら出来ぬ所業で御座います。3年間の喪にも服した事ですし、これ程までに我が子を熱く迎えて下さるお方の為なら、亡き母も、きっと喜んで許して呉れるでしょう・・・・。」
「では、では、では先生・・・・!!」
「はい、今、私の心は決まりました!あなた様を我が御主君として、この一身を捧げましょう・・・・!!」
大きな決断を為し終えた後の、如何にもさっぱりとした、晴れやかな表情の張紘が居た。
「−−おお、先生!嗚呼、先生・・・・!」
言うや、全身を輝かせた孫策の手は、しっかりと張紘の手を押し戴いていた。
「有り難きかな。嬉しきかな。天はついに、我に大軍師を与えたもうたか!」
【孫策伯符】この時弱冠19歳、
【張紘子綱】は40歳であった。
張紘は麻縄のハチマキを外すや、全く別人の如き、爽やかな表情にたち戻っていた。そして直ちに、軍師としての戦略・戦術を披瀝して見せるのだった。
「今、あなたは御尊父の跡を継がれ、勇名もお有りです。先ず〔丹陽〕に身を寄せて兵を募れば、荊州・揚州を一つにして、御尊父の仇を報ずる事が出来ましょう。続いて〔長江地帯を根拠〕として威望仁徳をお立てになり、功業成った暁には、同志の人々と〔江南〕に移られるのが宜しいでありましょう。」
ーー是れを少しく解説せば・・・・今現在、袁術から「曲阿」に派遣させられている叔父(呉景)・甥(孫賁)と密かに連携し、袁術が手を焼いている「曲阿の戦局」をわざと長びかせ、其処に救援に赴く事を口実に、袁術から兵を出させ合流、それを以って
【旗挙げ】とすべし!!・・・・と云うものであった。
「それだ!やれます!!」眼から鱗が落ちた孫策、ハッタと会心の膝打ちをして眼を輝かせた。
「ーー言うは易し、行うは難し・・・隠忍雌伏の日々が暫くは続きましょう。」
「いえ、先生から今、こうして具体的な目標をお示し戴きましたからには、一体この孫策に、何の迷いや有りましょうぞ。眼の前の暗雲が吹き飛び、でっかい『おてんとう様』が現われました!」
「そうではありませんな。でっかい『おてんとう様』は、あなた御自身で御座いましょう!遍く地上の人々に、温かき仁愛を降り注いで戴きとう願います。」
「はい、その日の為には、どんな困難も厭いませぬ!」
「ハハハハ、大いに結構でありますな。」
−−かくて孫策は、「張昭」と並び称される、
超大物名士の【張紘】をも、美事、口説き落としたのである。天下の誰もが未だ、『孫策』などと云う名前さえ知らぬ、江東の一隅での出来事であった・・・・。
「アレッ??先生、紙や硯はお使い下さらなかったのですか?」
「いやあ〜実は、使ってみたくてウズウズして居りましたが、珍しさに眼が眩んだと思われては、出仕の砌、汚点を残すと存知、痩せ我慢して居り申した。」
ハハハと笑いながら、張紘は些か、はにかんで見せた。
「あや〜、こりゃ又、いかにも先生らしい堅物ぶりで御座いますなあ〜!」
両者アハハハと笑い合う門出となった。孫策の周りには、どんな時でも笑いがあった・・・・。
「では先生、今度正式にお招き致します時も、差し廻しの車など用いずに、この孫策みずからが御迎えに参ります。それが今、せめて私に出来る精一杯の厚遇で御座いますから!」
「嬉しき哉!その日が近い事を願って居りまする。」
「ーーでは!」 「はい、では!」
此の後、『五顧の礼』を以って迎えられた【張紘】は
出仕するや直ちに「正議校尉=参謀」に任じられる。
そればかりか、孫策の大切な母親(呉夫人)や幼い弟達を全員委ねられ、文字通り、孫氏一族を丸ごと任されたのであった。又、彼の出仕は、同郷の「秦松」・「陳端」等の文官達の臣従をも促した。−−かくて孫策挙兵時には、その幕内に張昭・張紘の『2張』ともが揃って、若き主君を補佐する形が出来上がるのであった。この時さっそく、張紘は主君に小言を述べている。
「そもそも総指揮官・総大将と申します者は、計略・作戦が其の元に於いて立てられ、全軍の者がその生命を托す処であって、軽はずみな行動を取り、自ずからちっぽけな敵に立ち向かったりしてはならぬのです!」
丹楊平定戦に同行して戦った時の事である。
「どうか麾下には、天与の御資質を大切にされ、天下の者達の期待に応えられて、国内の貴賎の者達に心配の念をお掛けになりませぬように・・・・!」
放っておけば父親・孫堅同様、真っ先駆けて敵の中へと突っ込んでいく。無鉄砲ではないが、みずから戦う事に若い血潮が燃え滾っていた。「うん、その通りじゃな。」 と言いつつも、孫策は又も出撃してゆく。無視するのではない。孫策自身が最強の武将である事も確かなのである。貴重な戦力としての役割も担っているのだった。諫言は諫言として聴くが、状況に応じて自らの判断で動く。
「どうじゃ、今度は心して戦ったぞ。」
帰陣して、張紘の顔を見るなり言う孫策。
「どうして、未だ未だ青う御座いまするぞ!」
「そうだろうな。ワハハハ、どうも直ぐには治らぬようじゃ。そのうち誉められる様にする心算で居るから、ま、今回は許して下され。」
「仕方の無いお方じゃな・・・・。」
この後も常に、軍・政の事について、張紘は進言・諫言を述べ続ける。ーー但し、直言ズバズバ型・ハードタッチの
【張昭】とは対照的な、ソフトでファジーな対応を旨としてゆくようになっていって呉れる。『一寸シタ言葉』や『正面カラハ述ベヌ意見』によって、やんわりと、君主を導いていく。・・・・これは3代目にも受けがよく、60歳で病没する迄、長史(幕府長官)として重用され続ける。張昭とは対照的な位置取りである。(尤も3代目は、晩年には〔完全な酒乱〕と成り果てるから、張昭より20年も早く没した事が幸い?していた、かも知れぬが)
『其ノ申シ述ベル処ハ筋ガ通リ、其ノ意図スル処モ正シキ道ニ適ッテイテ、一世ノ逸材デ在ッタ。』・・・・とは、陳寿の評。文才は張昭より上であった(裴松之)と言われ、詩・賦・銘・誄などの作品10余篇を残し、同郷である「陳琳」らとも生涯文通する。張紘は文学を好んだだけではなく、楷書や篆書も一流で、自筆で「孔融」と手紙のやりとりもする。但し本人は、己の文才は張昭どのの足元にも及ばないと謙遜していく。(張昭も晩年には「春秋左氏伝解」や「論語注」などを著した。)やがて「孫氏二代記」を書き上げたり、最晩年には3代目
(孫権)に、〔建業遷都〕=(旧・秣陵)を献策する。
この【孫策と2張】の、重大な出会いと会談は、
孫策の存命期間が余りにも短かった為に、後世には全く喧伝されていない。(※そもそも『演義』は、呉国の様子には全く触れておらず、赤壁の戦いの時にだけ、諸葛孔明の引き立て役として、全員まぬけづら扱いされている)
而して是れは・・・・「三顧の礼」に優るとも劣らない、世紀の邂逅であったのだ・・・・!!
やがて姿を現わす【呉の国】の礎となる、2本の太い柱石が、若い君主を両脇からキッチリ支え、その政権基盤に安定感をもたらす事と成る。
《剛直タイプの張昭》と、
《柔軟タイプの張紘》とが、互いにその持ち味を活かしつつその心は同じく、若い君主を導き、戒め続けていく・・・・。と同時に孫策集団は、単なる一地域豪族では無いぞと云う証しのステータスシンボルを、高らかに内外に誇示し得たのである。
この後、孫策は常に、2張のうち一人に留守を託し、もう一人を参謀として遠征に連れていく事になる。孫策の2張に対する信頼の厚さと、2張ともが揃って内政・軍事の両分野に、均しく有能であった事を示す証左である。それを美事に見抜き、招いて、然も充分に使いきっていく20歳の青年・・・・・
やはり 【孫策伯符】−−只者では無い!!
但し、いま現在、彼の頭上には相変わらず、『袁術』と云う厄介な重石が圧し掛かっている。 長き屈辱を脱し、2張から授けられた秘策に拠って、
美事 孫策は、独立を果たせるのか・・・!?
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