第65節
生涯、嫌われ役

                                 呉の御意見番




「いずこへ?」と尋ねる者が有るとコレじゃ!」 と言って、孫策はニヤリと小指を立てて見せる。アッ、なあ〜る程!お若いですものな。」ーー実は・・・雌伏して居た此の期間、孫策伯符は、不意と、単身で行方知れずになると云う奇行を、幾度となく繰り返していた。だが・・・恋人と言っても女性では無い。孫策のお目当ては男で、然も自分より20歳以上も年上の、2人の「大物を口説き落とそうと、密かに動いていたのである。まさに恋人・・・・・。
孫策そんさくは君主としては特異な存在である。先ず若過ぎる未だ10代、20歳前であった。「曹操」はじめ、世の実力者はみな、40代後半〜50代で、激動の歳月を体験して来て居た。それに対し、此の若者は・・・人物や器量の評価は高いとは言え、こと実績となれば全くのゼロ査定でしかない。其の上全くの無学庶民階層に近い家の出と言ってもよい。むろん無学とは無教養・無見識を指すのではなく、正式な学者(名士)に師事した事が無くその機会も無かったと云う意味ではあるが、あのダメ男の「劉備」でさえ、若き日には盧植塾の門下生であった事を思うと、無学と言われても仕方が無い。家柄は、父の孫堅が腕と度胸だけで伸し上がったとは言え、元を正せば何処の馬の骨かも判らぬ平民・田舎の下級官吏・兵隊の家の子でしかない。ーーいずれにせよ、孫策の生まれ育った江東の地は、文化的僻地へきち・政治空白地域であったのだから、師事すべき名士も存在して居無かった訳である。敢えて言えば地元では名士とされて居る者(例えば呉の4姓の如き地方豪族)達も、北の中原文化圏へ出れば、オコガマシクて名士などとは、とても名乗れないのが実情であった・・・・処がここへ来て中原の名士社会に「大移動の波」が押し寄せていたのだった。
打ち続く戦乱と其の災禍を避けんとして、多くの一流知識人・大名士達が陸続として、南方への移住を行い始めていたのであるその行先の殆んどは劉表が経営している平和な(戦火が及んでいない)荊州へと流れた。その結果、今や荊州は全国一の「大文京国家」=荊州学派として、栄え始めようとしていた。こうした北方(中原)諸国から流入して来た知識人達は、北来名士と言われたが、その一部は、この江東・准南わいなん地方(長江以北)へも疎開そかいして来て居たのである。・・・・だが如何せん、孫策は名士社会では門外漢、その内情には疎かった。名士仲間の情報は、部外の社会には伝わりずらい構造に成っていたのである。ーー然し・・・孫策と云う若者は、先代である父の栄光と挫折の中から、1つの重大な遺訓を学び取っていた。【江東の虎】と一世を風靡した、あの精鋭軍団が、父の死と共にアッと云う間に崩壊し去ったのだ。
−−《名士》抜きには、政権は維持できぬ事。《名士》の参画があってこそ初めて、政権の基盤が安定すると云う事・・・・群雄として自立・独立する為には武力一辺倒ではなく、地域の経済・民心に多大な影響力を持つ
名士層の協力と支持を仰がなくてはその軍事力も、〔砂上の楼閣〕に過ぎない事・・・その事の重大性の認識を、父の死とその後の辛酸体験が、若い孫策名士獲得の必要性を、身を以って教えて呉れていたのである。武勇一途の父は、名士獲得どころか寧ろ、己を侮辱する「憎悪の対象」として敵対し続け血祭りに上げてさえした。
《親父とは時代が違う。父なくば我も亦あらずとは言え、俺と親父では目指すものが違うのだ!》・・・・ 父の限界を見極め、時代を洞察する炯眼の鋭さは、決して無学の青年とは言えぬであろう。ここに、父親を超越した、
2代目の見識の深さがあった。
だが、確たる情報も、アポの手掛かりも持たぬ孫策であった。
・・・・この時、
将来の〔宰相さいしょう〕・〔大軍師〕を得よ!と、実名を示唆して呉れたのは、かの【断鉄の友・周瑜であった。大名門の周瑜なれば、名士社会の動向には明るい。
「我々が仰ぐべき巨人が、直ぐ近くに居るではないか。君が今なすべき事は、明日の為に、先ずその巨星を、自分の手で掴み取る事だ!」 《−−有難し、我が友よ。》
              
思えば、魏・呉・蜀・・・・三国時代に君主と成った者達は皆、その建業期から《名軍師》を得ている。
最も有名なのは【劉備孔明】そして【曹操荀ケ郭嘉】である。どちらのケースも、出会った時点では、その相手は無名な新人、謂わば学卒の新規採用であった。当然、年齢も主君よりグッとである。荀ケでも8歳、郭嘉は15歳下。孔明に至っては実に、20歳もの開きがある。だから君臣間の関係はストンと腑に落ち、互いに何の気遣いも不要であった。−−ところが独り、〔呉の場合だけ〕は、様子が異なっていく。君主たらんとする【孫策】自身が、未だ無名の10代なのだから当然だが、頼みとする相手は、既に世間で不動の名声を得ている「超大物」と云う事になる。ポッと出の新米ルーキーとは格が違うその気になりさえすれば、引く手数多の、折紙付きの超一級品なのだ。何も好んで、海のモノとも山のモノとも判らぬ胡乱うろんな場所に出仕する必要など、毛頭ない相手であった。年齢とて、自分よりもニ廻り(20歳)も上で、人生経験の重厚さではこちらの方が完全に貫禄負けして居る。謂わば・・・・田舎育ちの青年が突然上京して、総理大臣に向かって「ウチに来て呉れ!」と言いに行く様なものと、言ってよかろう。だが此のケースでは、却って青年の無知・無頓着さが怖いもの知らずとなり、何としてでも口説き落として見せる!と云う情熱を産む事となる・・・・然も、この際、孫策は一挙に2人もの超大物に狙いを定め、その獲得招請を成し遂げようとしていたのであった!!
             
ところで是れは・・・・『孫策』から3代目の孫権へと、代が替わってからの話なのだが・・・・この超大物は、余りにも偉大過ぎて、どうもシックリゆかない格好となって、現われていく事に成ってしまうのだ。今まさに2代目たる「孫策」が、師友の礼を尽くして、何としてでも迎え入れようとしているA氏の場合・・・やがて3代目になった『孫権』も、初めの何年かは兄同様に、有難くA氏を尊重して、軍師に据えたりもする。だが如何せん、相手が大物に過ぎた。どうしても
兄や母から宛がわれた「
御目付け役と云う鬱屈した気持になってしまう。有難迷惑、うっとうしい。然もマズイ事に、家臣団は全員一致でA氏の実績・人物を尊崇畏怖し、その言動を全面的に支持し続けていく。年輪を重ねた風貌にしてからが、君主たる己よりも堂々として威風が有った。その上、当人には私利私欲が一切無く専っぱらお家の為に尽くすのだから文句の言い様が無い A氏ハヲ受ケテ輔佐シ功勲ク挙ガリ、忠謇方直ちゅうけんほうちょく、動クニ己ノ為ニセズ。』 だんだん煙ったくなる。
「儂は君主なのだぞ!」などと言えば、忽ち、ズキンと胸を突く、重〜いひと言が返って来る。

「私は、
先代サマや母君からまわのきわに、それぞれ、あなた様を宜しく頼むとの御遺言を託されておるのです」
こう言われてはグーの音も出せない。面と向かっては何も言えないから、ヘソを曲げる。−−呉もいよいよ「
丞相」を置く事になった時の事・・・・家臣団は一致してA氏を推挙したが、孫権は屁理屈をつけて他の者(孫邵そんしょう)を任ずる。その孫邵が死ぬと、再び百官はA氏を推すが、又しても孫権は言い逃れて別人(顧雍)を任用してしまう・・・・どうもウマが合わぬ。両者、晩年の頃になると、孫権はA氏の進言の、わざと逆な方針(公孫淵への外交態度)を採用する。・・・・挙句ついに頭に来たA氏(と言っても80歳の老人に成っていた) は、病気と称して参内を拒否する。孫権も逆ギレして、A氏の家の門を土で塞がせた。すると今度はA氏の方でも内側から土で門を封じ返す。 やがてA氏の進言の方が正しかった事態が判明し、孫権は「スマナカッタ」と幾度も侘びを入れる。が、最早A氏は頑として引き籠ったまま動こうとしない。仕方無いので孫権みずから門まで出向いて声を掛けるが、A氏は病気が重いからと言って面会を拒否。そこで頭に来た主君は、その門に火を着けて脅すが、A老人は余計に門を固く閉じさせる。弱り果てたA氏の息子が、やっとA氏を抱きかかえて脱出して来る・・・・・。
〈アチャ〜〜・・・・!??〉
80歳に成る〔一国の宰相さいしょう〕と、50を過ぎた〔呉国・君主〕との間で、本当にやり合った【史実である。】 又、酒の席でのイザコザは日常茶飯事。面白エピソードには事欠かない。(※此処ら辺の事は『演義』の守備範囲であり、殆んど知られて居無い)ーーだが、然し・・・・これでは丸っきり、
頑固ジジイ 〕対 〔尻の青いアマノジャク〕同士の対決と言った塩梅で、両者大マジメで張り合ってゆく・・・・思わず吹き出してしまう様な、子供染みた光景ではある。それがもし、天下泰平の砌であらば、凸凹コンビの君臣エピソードとして愉快な笑い話で済むのだが、そうでは無いのだから深刻である・・・・ とは記したが、まあ、そんな心配は未だ未だ40年も先の事・・・・つい筆者は、先走ってしまった。が、どうか読者諸氏には、此の晩年のエピソードを以って、A氏や3代目の人間像を即断しないで戴きたい。(書いて置いてから今更そんな事をお願いするのも変だけれど) 何やかや有りながらも、魏・呉・蜀の三国のうちで、最も長く命脈を保ったのは、ひとえに、此の凸凹コンビに拠る処が大きいのである。其れより何より、未まだ歴史上に姿を見せて居無い【呉の国】そのものを築いた功績は、此のA氏に負う処まことに大きく、単なる頑固ジジイでは全く無い。それ処か、A氏無くしては、呉の国も無かったかも知れぬ程の偉大な男である。
−−兎に角、今は未だ、
2代目【孫策は、そのA氏の名を聴き知ったに過ぎず、その相手の顔さえも知らないのである。A氏も亦、疎開先の江南の地で、静かなる学研の日々を送って居る。

2代目・孫策青年が目指すA氏とは誰あろうーー
張昭ちょうしょう・・・・字は子布しふ  (156〜236年)

この時40歳・・・・除州は彭城ぼうじょう(丹楊)の人である。 張昭ハ若キ時ヨリ学問ヲ好ミ隷書れいしょたくミデアッタ。白侯・子安カラ「左氏春秋」ヲ教授サレ、ひろク様々ナ書ヲ読ミ、琅邪ろうや趙cちょういくヤ東海ノ王朗おうろうト並ンデ名声ヲセ、互イニ親交ヲ結ンダ。20歳はたち前後デ孝廉こうれんニ推挙サレタガ都ニハ出無カッタ。王朗ト共ニ、旧君ノいみな(歴代皇帝の実名)ヲ避ケル事ニ関シテ議論ヲ交シ、陳琳ちんりん等、同郷ノ俊秀ラハ、そろッテ其ノ議論ヲ称賛シタ
注目すべきは、若くして〔孝廉〕と云うキャリア組と成ったにも拘らず、宮仕えの道を選択しなかった点である。是れはフトした若気の出来心では無く、張昭と云う人物の、確固とした人生観であった。当時としては極めて珍しい。と云うより、〔変り種・変人〕の部類と言えよう。
《ーー俺は生涯学問の徒として生きるのだ!!》
だが余りの逸材を、周囲が放っては置かない。

野に秀才が在っては為らぬ!〕と云うのが、当時に於ける為政者達の人材登用のモットーと、されていたからである。張昭ほどの人物が膝元に居る州の長官としては、見逃したとあっては沽券に関わる。除州の刺史は陶謙であった。陶謙は、野に在り続けて居る張昭を〔茂才〕に推挙した。だが当の御本尊はいっかな動かない。丸っきり、どこ吹く風で見向きもしない。何回使者を送っても、「出仕する心算は御座いませぬ!」の一辺倒。
「おのれ張昭め、この儂を馬鹿にするか!」・・・・・・
陶謙ハ、自分ガ軽ンゼラレタと考エ、張昭ハ囚ワレノ身トナッタ。親友ノ趙cガ全力ヲ挙ゲテ救出ヲ計ッタノデ、やっとノ事デ 釈放サレタ。
是れはもう、
筋金入りの”在野魂と言えよう。心にそぐわぬ宮仕えは、たとえ囚人に成ろうとも、頑として拒絶する・・・・。そんな人物を、己の心意気ひとつで陥落させようと言うのだから、これも亦、大変な若者である。ーーワラをもつかむ・・・今、孫策は生涯最悪の時の中に居た。突然の父の戦死。そして其の軍団の崩壊袁術軍への吸収・・・・と云う、全くの孤立・人生最大の試練に直面していた。それにもメゲず、腐る事無く、若者は今、あえて親友の庇護から自立し、苦難の道を選ぼうとする。
国をおこ、天下を睥睨へいげいする!》−−是れが、周瑜公瑾と孫策伯符との誓いであり、生きる目的であった。だから公瑾の奴は、ズケリと言って励まして呉れた。
「我等にとって、これは、天が与えた、ほんの手始めの★★★★★★★試練さ。
大事だとは思わぬことだ!」
今は未だ兵力すら無い
二人組だが、天下を望む雄図だけは、誰にも負けぬ男組 であった・・・・・。
そんな孫策には、どうしても張昭】が必要であった。張昭が自陣営に加わって呉れる事に拠るメリットは測り知れない。一言でいえば、未来の政権基盤に、重みと厚みと幅が出て来るのである。孫策は、それを冷静に分析していた。
1張昭を重用する事により、他州からの参入人士に安心感を与え、今後一段と幅広い人材が集まるシンボルタワーとなって呉れる・・・・であろう。事実このあと、『胡綜』・『劉惇』・『潘璋』『太史慈』といった、北方からの人士が陣営に加わる事になる。そして其の北来人士達は、江東・江南の地が順調に発展統制してゆく理由を、「全て張昭殿の人望とその手腕によるものである!」と褒め讃え、彼のリーダーシップを尊崇認知してゆく。孫策時代の幕僚17名中、7名が外来人士となるバランスが生まれていくのである。
呉郡・会稽かいけい郡といった江東の中核地帯に於いて、父の代から関係が悪化しきり、 現在も敵対感情を抱く4姓(特に陸氏)との深い亀裂・溝を埋めるには部外者であった張昭に、斡旋・説得の労を執って貰い、和解の使者になって貰う以外に途は無い。 その和解が成立すれば、参入を躊躇ためらい未だ距離を置いて居る〔4姓〕以外の、有力な地元人士も参入の意を固めるであろう。その働き掛けに於いても亦、張昭や周瑜に頼むしかない何と言っても、足元を固めて措かなければ、天下を睨むなど絵空事となる。
今後一切の内政・行政を全面的に担って貰い自分は
    後顧の憂い無く、軍事方面(平定戦)に全力を注ぎ込める。
若過ぎる指導部に熟年者が入る事により、外には信用度を高め、内には暴走を抑えるシビリアンとしての冷静な判断力が付加される・・・・であろう。
除州からの大量流民達の支持を得られる。人口の増加は即ち、軍事力の増強と経済力発展に一致する。この波は他州からの人民の流入をも促すであろう。
将来、版図を拡げていく上で、広陵太守の『趙c』や、会稽太守の『王朗』と親交が有る故、呉の中核地帯の奪取がスムースになるであろう。・・・・ざっと想い浮かべても、これだけの価値と意味を持つ人物である。この外にも実際には・・・・
各戦闘における軍師・参謀としての役割も担って貰えるであろう。ーーこれらが総て揃い、整った時、江東の地は一つに纏まった国家》と成り、その向うには天下〕も見えて来るに違いない!!
ーーだが、だが・・・・である。果たして
張昭は、この実績ゼロに近い、名も無い若僧を認めて呉れるであろうか・・・・!?父親に比べれば、「器がひと廻り大きい」と言われている以外には、これと言った実績ひとつ無い。実力(兵力)もゼロ。身近に重臣と呼べる者とて一人も居無い、丸裸の小僧っ子である。片や、天下に其の名を知られる清流の《大名士》であり、その生涯を学問の道に捧げて、静かな日々の裡に暮らして居る学研の士である。
《この俺を、果たして”主君”として選んで呉れるだろうか?》天下の群雄は今、一流名士を獲得する事に於いては、先を争って血眼になっている。張昭ほどの逸材であれば出仕するにしても、その相手は選り採りどみどりであろう。
《撰りに撰って、
何のメリットも無い、リスクだらけの此の俺に、今さら己の人生を賭けて呉れるだろうか!?》
その上、何より難しいのは、張昭自身が、何処へも出仕しない!と云う、学者としての高い矜持きょうじを抱き続けて居る事実であった。
・・・・だが、そうであれば尚の事、何が何でも来て欲しい。
《男1匹、己の覇気と至誠だけには自信がある。彼を慕い、恋する心の強さだけは、天下の誰にも勝っている。それが、俺の唯一の取り得だ!!》・・・・然し、やはり、若い孫策には一抹の不安もあった。父が母を脅し娶ったのとは訳が違う。
互いの年齢差が、余りにも逆転している。年少者が大先輩を迎えると云う、別の困難さが付け加わる。更には社会的地位・名声も完全に上下が逆☆☆☆★であった。切羽詰まった思いの孫策は、いよいよとなれば、
搦手からめてからでも迫ってみようと決心した。ーー丸で直接本人に会いたくて会いたくてしょうが無いのにドキドキして、怖くて、つい遠廻りしてしまう・・・・初恋に身を焦がす、若者の所業である。
即ち、どんなに高潔な人物にでも有る弱点・・・・いや高潔で在れば在る程、抜き差しならぬ、人間として抱く感情・・・・《母親の存在》・・・・然も、この地方独特の
母親の威光』に縋り付いてでも、張昭の出仕を仰ぐ事にしたのである。
《将を得んとせば、先ず其の馬を射よ・・・じゃ!》
       
】は、江東地方では《女神》であった。親子の情以上に、崇拝の対象であった。−−儒教文化が此の地に入って来るより遥か以前、人類発生に続く原始アニミズム文化(原始共同体)に於いては、「女の性」・・・・特に新しい命を産み落とした母親は、生命の神秘そのものであった。そのアニミズムの流れは、やがて国によっては、母系制社会を形成した。(正に此の時、日本では女王・『卑弥呼』が現われる直前である)ここ呉の地には既述の如く、中華・漢民族が移住する以前から【山越の民】が先住していた。そして〔黄河文明〕とは明らかに別個な、〔長江文明〕を形成していた。(蜀盆地文明も同時に並存) 即ち、倭国同様な未開社会=より原始に近い小国家群が存在していたのである。その社会に於ける道徳律・生存律の中核は《母性の存在》を無視しては考えられ無かった。男達も母親を特別な存在として崇めた男達が誓いを立てる時、重大な事を為す時、
畏敬する
神の代理人たる母親の前で、神に誓う・・・・のであった。母は神、又は神を司る不可侵なる証人なのであったーーやがて、この道徳律・社会規範は、黄河文明に於いては男系の「力の支配」に移っていく。それに伴って登場したのが『儒教倫理・思想』であった。巨大人口(邑落ゆうらく社会)を維持・支配する為に、時代が要請した〔統制思想〕の一種である。原始共同社会から小国家勃興期への、政治秩序の移管は、当然の事として、社会規範の変質を必要とした。そして、男系社会と成った中原(即ち中国)では、母親の役割から〔母の部分〕が脱落し「親への孝行」と云う価値観の一つに変容した。『母』たる存在意義は、倫理の中心から脇役へと移行させられたのである。だが、長江文明の流れを受け継ぐ呉の地では今でも此の道徳律が、儒教思想と並存して、日常の中に生きていたのである。尤も、完全に中国化する最期の残光の頃ではあり、呉と云う〔国家〕の誕生と共に、その役割を終え、消えていく)ーー具体例を、幾つか観て措こう。

》孫策の『呉夫人ーー長男・策を頭に4男1女の母親である。5年前、父親(孫堅)が転戦している折、孫策は母を伴い、周瑜の勧めに甘えて、居を「舒」に移した。この時〔断鉄の友〕は、最良の居住空間を親友一家に譲り、その中でも一番奥まった、豪華で陽当りの良い部屋を母親用に供した。そして毎日2人揃って、母親の元に伺候し、礼拝」シタ・・・・と言う。だが是れは、何も2人が特別だった訳では無い。呉の地に於いては、母に対する当然の配慮と行為であったのだ。寧ろ、1人の母を2人が共通の女神として礼拝した事の方が、より重大な意味を持つ。詰り・・・・神の代理を前に、同じ価値観を共有し、同じ行為を繰り返し共にする事に拠って、全く赤の他人だった2人の間に、例え様も無く固い絆を構築していった事を意味したのである。より中国風に言えば、【義兄弟の契り】を結んだのと同義なのである勿論、2人とも其の心算で、毎日1人の母を共に礼拝したのだ。(周瑜の母親は亡い。)一方、母親とて生身の人間である。大切にされる事を当然としながらも、無感動で居る訳では無い。感謝と深い慈愛と誠実さで、それに応えた。のち、此の母(呉夫人)は、孫策亡き後、次男の『孫権』が君主になっても、事有る毎に、こう言って聴かせている。 「あのお方(周瑜)は伯符(孫策)と同い年で1ヶ月あとに生まれただけです。私は(周瑜)公瑾を我が子と思って居ます。だからお前も、あの方を兄だと思って仕えなさい。」
 このエピソードは、『周瑜』の人としての魅力を示す傍証の一つでもあるが、と同時に、母親が子に示す態度の一例としても重要である。この「母の言葉」は重い。事実、孫権はこの後もズッと彼女が亡くなる迄、国家的重大事項を決定せんとする時、周瑜を招いて、この母親の前で意見を求め、己の意志の最終確認を母親にも求めている。他の国には見られない姿である。(決して孫権個人のマザーコンプレックスでは無い。)
》『呂蒙りょもう』の母親ーーのち呉国の大軍師にまで成長してゆく男の・・・・庶民の母親像。正史・「呂蒙伝」には、彼が不良少年時代に、母親の制止を言い逃れてまで、勝手に戦場へ出かけて行ってしまうエピソードを記しているが、その悪童ぶりを強調する為に、其の母親が引き合いに出されている。又、勝手に喰っ付いて来て、大活躍してしまう、僅か13歳の子供の扱いに困った叔父も呂蒙の母親に通報して言い聴かせようとしている。困った時の母親頼み・・・・と云う風潮が窺える。つまり呉では、庶民に於いても〔母親の存在〕は大きかったのだ。
》『除棍じょこん』の母親ーー戦陣に同行した母親から秘策を授かり、全軍の窮地を救う活路を見出す。困った時には、軍事機密でも話し、意見を求める。その智恵・御託宣を活かそうとする。
》孫策・孫権の『−−超美人のくせに、 これが又どう仕様も無いジャジャ馬娘で、へたな男どもなぞ叩き伏せてしまう。しょっちゅう薙刀なぎなたを振り廻し、荒馬にも平気でまたがる (のち政略結婚で劉備に当てがわれるが、劉備は恐れまくる事となる。) こんな女性は取り澄ました中原諸国の貴婦人には、絶対に生まれない(無論彼女は、呉の地に於いてもチョッと特異ではあるが) まあ、それだけ呉の地では、とりわけても孫家の周囲は男も女も颯爽として元気がいい それもこれも全て、「母親女神論」的風土が在ればこそであろう。


その
母親の威光》を最大限に活用して、孫策伯符は今、
目指す張昭ちょうしょう子布しふ獲得
         乗り出そうとしていた・・・・・
【第66節】 我、四十にしてまど (呉に2張あり)→へ