【第64節】
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孫氏2代目の若者の上に重くのし掛かり、君臨し続けていく巨大な圧力・・・・初代「孫堅」を顎で使い、2代「孫策」の首根っこを
押さえつけ、己の勢力拡大の為に、「孫一族」を利用し続ける【怪雄】が居た。その男は〔皇帝の座〕と云う妖怪に取り憑かれ結局は狂い死ぬ事となる。
「へえ〜、こんな馬鹿な奴も、本当に居たんだア・・・・!」と、後世の人々に嘲笑われ、愚かしい人間の代表としてその名を青史に残してしまう男ーーこの人物は・・・・その名を・・・・
【袁術】、字を 「公路」 と言う。
この男の末路だけを観れば・・・デカダンス・破滅型享楽人間、虚名に溺れた哀れな道化師・・・と言える。だが彼とて、雄々しく白刃をギラつかせ、血飛沫の中を掻い潜った日もあったのだ。・・・・一体いつ、悪魔の囁きが、彼の心の中に吹き込まれたのか?何故、破滅の淵にまで引き摺り込まれていったのか・・・・?その理由や原因、また彼の深層心理など、人間的考察に対する興味は深い・・だがそれは後廻しにしよう。
一体全体、そんな男が何で今、突然、600キロもの彼方から、【孫策】の前に現われたのか!?
我々は先ず、その事から観なくてはなるまい。
ーー未だ、初代・孫堅が在命中の1年前・・・・
【袁術】は、廃墟と成った洛陽から僅か100キロ南の「南陽郡」太守の地位に納まって居た。ーー其処は・・・・孫策母子が周瑜の自邸で共同生活をして居る「舒」とは距離的にも、家柄・縁故的にも、何の関係も無い位置関係に在った。此処(南陽郡)で袁術は、暴政を敷いた。
『南陽ノ戸数ハ人口5〜600万ニモ及ベドモ、袁術ハ贅沢三昧、欲望ノ儘ニ行動シ税金ヲ際限無ク取立ル故ニ、以テ民衆辛苦ス』ーー何故、この非常時に、そんなドンチャン騒ぎの如き日々を過ごすのだ?よくも、そんな真似が出来るもんだ!と我々は思う。
・・・・だが其の答えは簡単にして明瞭!至って当然な事であったのである。是れは袁術にとっては、暴政でも圧政でも何でも無く、極当たり前の振る舞いに過ぎないのであった。第2章で詳しく観て措いた如く、『酒池肉林』は、当時の支配階級・士大夫(貴族)たる者の生活モットー、もっと言えば、人生の究極目標そのものであったのだ。それでも、成り上がり者であれば、《こんな贅沢して居ていいのかな?》・・・と、少々不安にも成るのだが、先祖代々から大名門と謳われて来た様な大貴族ともなれば、もうオギャーと生まれた日から、ゴージャスな暮らし振りは当たり前、「贅沢」などと云う言葉は、彼等の辞書には載っていないのである・・・・「富」と云うものは自動的に入って来るもの、己の人生は専ら享楽の為にこそ在る。もし使い切らずに余してしまう様な事でもあれば、それこそ恥と云うものなのであった・・・・古代〜中世〜近世へと連綿として続く王政・絶対政とは、根本的にそうした1部の特権階級の、己の維持史でもある。その一方、民衆とは、その貴族のゴージャスな生活を保証する為にこそ存在する者達である事も亦、自明の理とされていた。だから財源が不足したら、民衆から取り立てるのは当然の事であったのだ。逆賊・董卓を討つ行為と、民衆から重税を取り立てる行為とは、この男の中では、少しも矛盾しないのである。どちらも、英雄たる者の条件だと心得ていたのだ。
〔如何に財物を湯水の如く、美事に使い切るか!〕それこそが上流社会に於ける、貴族同志間の最大の関心事であったのだ。その中でも最大の名族がこの袁氏なのだ・・・・だから《儂の暮らし振りは、常に天下最高のモノでなくてはならぬ!》のだった。そして、それを突き詰めて行けば、国家最高の権力者→《皇帝の暮らし》へと行着く事にもなろう・・・・・
こうした意味に於いて、此の人口密集地帯の「南陽郡」は袁術にとって、金の卵を産む魔法の鶏であった。・・・だが此処に1つ、頭の痛い問題が在った。南陽郡は確かに豊かな土地柄ではあったが、それだけに〔皆から狙われていた〕 のだ。常に争奪の標的とされ、オチオチ生活をエンジョイ出来ない欠点が存在して居たのであった・・・・・そう思って、改めて観廻せば・・・・
〔北〕には兄の【袁紹】と【曹操】が虎視眈々と狙いを定め・・・・〔南〕では【劉表】が併呑を期して居る。いつ挟み撃ちに遭うか、気が気では無い。こうなると袁術の気持としては、居心地の悪く成って来た、此の南陽郡に、永く留まる心算は次第に希薄となっていく。ーーだとすれば狙い目は、東隣りの【豫よ州】であった。
当時、中原の最南部に在る「豫州」は、未だ英雄を輩出する事無く、覇権の及ばぬ空白地帯であった。だから安全性については折り紙付きと言えた。その代わり、生産力は低く、当分の間は生活レベルが下がると云うデメリットを覚悟しなければならなかった。《さて、どっちを採るか・・・・?》ビクビクもののゴージャスさか、それとも、のんびりしたエコノミーか?・・・・結果、袁術は後者を選んだ。命を狙われ続けられるより、多少不便でも、生きて居た方がいいに決まっている。−−となれば・・・・どうせ何時かは手放す土地・・・・絞れるだけ絞り尽くして、出来る限りの備蓄を果たして措こう・・・・と云う魂胆となっていく。だがソモソモ、此の男に『節約』など出来る筈が無い。生活水準のダウンは〔恥辱〕なのである。だから備蓄などモノカワ、贅沢三昧・奢侈享楽は増々エスカレートするばかり。一旦身に染み付いた豪奢な暮らしは、死んでも続けたく成るものらしい・・・・
折りしも劉表が曹操・袁紹と同盟を結び、挟撃体勢に入った。
袁術も公孫讃と同盟して是れに対抗。一軍を、豫州の直ぐ北 の〔陳留国(郡)〕に派兵、〔封丘〕(黄河北岸)に駐屯させた。美味い事に、曹操に攻め立てられている黒山賊(南匈奴)の於夫羅が味方に付いた。敵の敵は味方と云う構図となった。
《ーーよし、これで 「北」 は動きが取れまい・・・・!》
『袁紹』は『公孫讃』と、『曹操』は『黒山衆』と死闘を演じ、
こちらの動きには対応できない。ここで予定通り、豫州移転を実行していれば、それはスンナリ成功してしていた筈である。ーー処が袁術
欲を掻いた。《この際「南」を奪ってしまおう!》荊州の劉表攻めに色気が出た。手に入れば豫州など問題にもならない。その何百倍もの富が手に入る。・・・・ちなみに、当時の中国では基本的に、人間の全てが城市の内に居住していたから、如何に日本の3倍もの広さを誇る荊州と雖も、州都一つを陥落しさえすれば、
詰り、一撃で州全体を乗っ取る事は可能であったのである。三国時代の戦いとは、基本的に、そう云うものであった。念の為、配下の実戦司令官である【孫堅】に打診してみると、「必ず勝てる」との確答を得た。実際、【江東の虎】が出撃するや、劉表が頼みとする【黄祖】を鎧袖一触、連戦連勝し、ついには劉表を州都・襄陽に袋の鼠としてしまった!荊州奪取は眼の前の現実と成ったのであった!!・・・・だが、だが然し・・・・大勝利を目前にしながら、
爪牙の【孫堅】は敢え無く戦死。(既述)全軍撤退となり、袁術の野望は、江東の虎の消滅と共に
儚い夢と潰えたのである・・・・かくて己の目論見が大幅に狂った袁術にとっては尚の事俄然、《豫州移転》が急務と成って来た。
そこで体勢を立て直すと、翌193年(初平4年)、
袁術は前々からの目論見を実行に移した。即ちーー『袁術公路』は、貪り尽くして無用となった「南陽郡」を棄て去り、己の新たな根拠地を求めるべく、その一門・全軍を率いて豫州領内へと大移動を開始したのである・・・!だがそれは【曹操】の裏庭(兌州)を通る事となり、やがては曹操の背後に居座る事ともなる。だから曹操としてはこの袁術の動きは、是が非でも阻止せねばならぬ、一大事であった。・・・・『袁術』 VS『曹操』・・・・所謂、
【拠の戦い】が始まろうとしていた。
初め袁術は、さすが一廉の戦国武将!・・・・と言ってよい程の戦術眼を見せた。先ず曹操本人の居処を確かめ、その留守を狙って行動を起こしたのである。ーーこの時〔兌州牧〕の曹操は、陳留からは200キロ北東の「甄城」に居た。直ぐには来れない。行軍距離としたら「2ヶ月は掛かる」であろう。だが念の為、袁術は兌州領内・陳留の直ぐ北東の【拠】に劉詳を布陣させ、万全を期した。然しここで、袁術は2流の顔を覗かせてしまう。基本的戦略に断固とした処が無く、『二股方針』を採ったのだ。良く言えば臨機応変だが、「戦術」としてなら兎も角「戦略」としては許されぬ、危ういものだった。ーーつまり、途中で色気が出てしまったのである。曹操が遣って来れないのなら・・・・この際、「行き掛けの駄賃」に、チョット兌州の端っこ(西部)に寄り道して・・・・出来る限りの略奪・徴収・徴用をし尽くし、手元不如意の国庫を潤して措こう・・・・との欲に眼が眩んだのだった。一応その行為は、曹操が営々として築いて来た領国の要部を荒らし曹操の力を削ぐ事にも繋がる
・・・・然し是れは言い訳の類で、実の処は・・・・無計画な贅沢三昧の結果、すっかり財政を逼迫させてしまっていた、「袁術のいい加減さ」を示す何よりの証拠であった。ーーその結果、欲に煽られた袁術は、本来の目的そっち退けで、略奪行動(食糧・財貨の備蓄と、生産力としての人間狩り)に奔ったである。
そもそもの大目標は〔豫州への移転〕であり、その進むべき方向は「東」であった。処が袁術本軍は「北上」を開始。然も、河南での略奪をし尽くすと、何と今度は、官水(黄河の分流)を押し渡って、その北岸の「封丘」へ出たのである。本来の目的地・豫州とは正反対の方角であった。−−袁術は畏れては居たが、実際の処未だ未だ『曹操』と云う男が判っては居無かったのだ。甘く観ていた。いや普通常識の範囲で把えていたのだ。 未だ未だ大丈夫、遣って来るのには、あと1月は掛かろう・・・・。
ーーところが曹操は、アッと云う間に現わた!!然も、一瀉千里の猛スピードで向かったのは、袁術本軍では無く、手薄な拠へと殺到したのである。防御陣として派遣されていた「劉詳」軍はその猛襲に瞬く間に撃破された。
「まずい!何でこんなに速く、きゃつが現われたのだ?」
「このまま南へ廻り込まれ、豫州への進路が塞がれては一大事になります。直ちに、拠烽ヨの派遣軍を救援し、合流に赴かねばなりませぬぞ!」 「判って居る。直ぐに急行するぞ!」
大慌てで拠烽ヨ駆けつける袁術軍。・・・・だが、曹操の方が1枚も2枚も上手であった。拠の手前10余キロの地点に差し掛かった時・・・・突如、前後左右からドッと鯨波が挙がったと思うや、森陰の中から雨霰と弓矢が降り注ぎ、馬上の将兵がバタバタと射落とされた。「−−や!や、や、や、や!!」
指令を出す暇もあらばこそ、今度は騎馬軍団が飛び込んで来て縦横無尽、好き勝手に戟を振るう。堪らず逃げ出すと、其処へワッと又、新手の予備騎兵が襲い掛かって来た。信じられぬ光景であった。「ーー嵌められたか!?」
言うが早いか、袁術は元来た方角へまっしぐら。再び「封丘」へと逃避せざるを得無い羽目に遭わされたのであった。余計な色気に惑わされた挙句、目的地とは正反対方公へと追い出された訳である・・・・。かろうじて死地は脱したものの、時が経てば経つ程袁術は包囲殲滅の危機が増すばかりである。曹操が後発させた大兵力の「青州歩兵軍団」が到着したら、もはや逃れる術は無くなる。「已むを得ん。敵中突破を敢行しよう!」全滅の危機を脱する為、袁術は一か八かで、南方への突進を敢行した。
「陳留」から「襄巴」→「大寿」へと敗走し、辛くも豫州国境内へと足を踏み入れる。袁術は此処で一息つくが曹操はすかさず渠水の堤を決壊させ、「大寿城」を水浸しにする作戦に出た。袁術軍の潰走は更に続き、「寧陵」から逃げも逃げたり→→目標だった『豫州』を突き抜け300キロ以上を敗走しまくり・・・・何と
【揚州】の「九江」まで逃げ続けたのである!ーーだが曹操は、袁術の息の根を止めるべく、尚も執拗に追撃する。
「な、何と、執っこい奴じゃ・・・・!?」
流石の袁術も、ついに音を挙げかけた。−−だが此の時深追いする曹操の背後を、『公孫讃』が狙わせた。彼が青・除州に分派して居た配下の劉備・単経らを陶謙に合流させ、曹操の根拠地〔兌州〕を突かせたのである。互いに油断も隙も無い御時世だった。そこで曹操は追撃を諦め、北方へと退き返していった・・・・
−−だが、この【拠烽フ戦い】と呼ばれる、
袁術軍の一方的敗戦・大逃走劇に因り・・・・袁術は大打撃を被り、以後は昔日の面影も無い、
〔B級〕軍団に成り下がってしまったのである。
・・・・が、その後、覇権の真空地帯であった事を幸いに、袁術は徐々に息を吹き返す。更に「陰陵」まで退いた袁術は、其処で散り散りに成っていた兵力を纏め直した。一旦はバラバラに逃げ散ったものの、軍の中核たるべき将校団は、この敗走劇にも流石にその陣容を維持していたのである。・・・・詰り、『孫堅』に付き従っていた、【第一期の将校達】は、全員そもまま健在であったのだ。落ち延びる方角を選択する時、逆に彼等の方が袁術を、自分達の故郷に誘った、とも考えられる。ともあれ袁術は彼等を使って軍を再生させるや、揚州刺史の「陳温」を殺害、【寿春】を占拠した。寿春は長江からは200キロ以上北の、揚州最北端の主要都市であり、寧ろ揚州全体より、隣接する豫州や除州に睨みの効く位置に在る。
【周瑜】の居る「舒」からは北へ150キロ、【孫策】の「江都」からだと西へ250キロの位置となる。以後、この〔寿春〕が、袁術の根拠地となり、袁術は此処を中心に、揚州北部(長江以北)と除州南部一体に、勢力を張っていく事となる。
ー−−かくて・・・・・【2代目・孫策】の眼の前に、突如として【怪雄・袁術】が逃げ落ちて来た・・・・と、云う次第であった。然も出現するや否や、その怪雄はほぼ自動的に、孫策の主君と成って、彼の上に君臨するーーと、云う格好に成ってしまうのである。この新たな事態は、孫家2代目にとっては〔痛し痒し〕と云う処であった。前向きに解釈すれば、父の軍兵(第T期将校団)が、遥か遠方から自分の手の届く近さに帰って来て呉れた・・・とも言えるのだ。−−だが現実は、そんな生やさしくは無かった。「父の軍兵」は全てゴッソリ取り上げられた儘であり、今や全員が「袁術の部将」と成り涯てている。【孫家再興】の為には是が非でも必要な軍事力である。何とかして取り戻したい。
然し袁術も一筋縄では無い。何やかやと虚言を弄しては「2代目」を好い様に使い、その都度、小出しに軍を貸し与えては、用が済めば又取り上げていく。そして、空しく時だけが過ぎてゆく・・・・。
ーー2年ーー3年・・・・焦りと悔しさ・・・・4年・・・ーー更に
・・・・5年・・・歯噛みしたい程の無念さが募る。
だが、そんな胸の裡は億尾にも出さず、ひたすら隠忍自重で歓心も買う。《−−頃は好し・・・・!》そこで効いたのが、取って置きの隠し玉ーーあの天下の秘宝・・・・
【伝国璽】であった!!
其れを持つ者は皇帝である・・・・・袁術の願望にピッタリの切り札であった。(※初代・孫堅が是れをゲットした仔細は第38節に詳述)
195年(興平2年)ーー【孫策伯符】は主君・袁術の為に、現在手こずっている江東平定に協力したいと申し出た。そして−−その為には、父・孫堅の持っていた将兵1000を授かりたい・・・・と、願い出たのである。だが袁術は案の定、スンナリ「うん」とは言わない。猜疑心だけは一段と強く成っていた。そこでチラつかせたのが、あの【伝国璽】である。
「−−ええ!それは、まことか!?」
《それが本当なら、儂は皇帝じゃ!
うひょ!本物の皇帝に成れるんじゃ・・・・!!》
眼もくれずに飛びついた。僅か1千の将兵と引き替えに伝国璽を手に入れた袁術、欣喜雀躍・有頂天に舞い上がった。
「是れは矢張り・・・天が儂に、『帝位に就け!』と、命じておられるのだ!!」 が、流石に事は大き過ぎる。どの様にして「大義」の論拠を公表すべきか?はた又いつ帝位に就くのがベストか!?
袁術公路の心、この男の関心は、以後その一事だけに集まり、他の事は眼中に無くなっていく。・・・一方、丸5年を隠忍して来た2代目にしてみれば、ついに最後の切り札を使ったからには、是れが【独立への最後の機会】である。乾坤一擲、熱き思いを胸に、父の眠る曲阿の地へと軍を発した!!(次節にて詳述)
ーーさて、我々は此処で一旦、「孫策の活躍」を後廻しにしてこのへんてこりんな袁術と云う人物の、その〔野垂れ死〕に至る迄の経緯を観て措く事にしよう。それは同時に、「孫策」が此の男との柵・桎梏から脱して、呉国が独立してゆく過程とも重なり合う事になる・・・・・。
【袁術公路】
彼の出自は・・・・ここの処、続けて4世代で5人もの最高官位を独占して来た(4世3公)、後漢王朝きっての大名門「袁一族」の御曹司である。−−ところで、『袁術公路』と云う人物を解釈しようとする時・・・・彼の内奥・奥処には、その生涯に渡って、常に、2つの巨きな〔こだわり〕が脈ずいていた・・・・と、観てよいであろう。つまり彼には2つの人生目標が存在し続けて居た、と云う事が、浮かび上がって来るのである(1人の人間であるからには根は1つであったとも謂えるが。)その最も根源的なこだわり、即ち、彼の意気地と成っているもの・・・それは【兄への対抗心】・是れであった。御存知の通り袁術には兄が居た。袁紹である。異腹であった。この兄は幼くして父を亡くした為、袁術の父に引き取られた。その後に袁術は生まれた
「血筋の正統から謂えば、この
俺こそが、袁一族の当主である筈だ!!」
この〔血の誇り〕が、彼の自尊心を煽り続ける。
《だから俺は、常に兄を超えた存在であらねばならぬ!超え続けて居るべき人間なのだ!》ーー資質も実力も世評も、その全てに渡って、己の上をゆく兄に対する【敵愾心てきがいしん】・・・と言ってもよいかも知れ無い。もし、この兄弟が手を携えて共同歩調を採って居れば、《袁王朝誕生》は必至!の好条件に在りながら、この2人は終に生涯通じて一度も心を一にする事無く、分裂行動を取り続ける。(※2人は従兄弟同士だった、と云う説もあるが、いずれにせよ当時の中国社会では、同族の従兄弟は兄弟に準ずるとされていた。) 然し、どちらかと謂えば、弟の袁術の方が一方的に兄に突っ掛かっている。人間の器は、誰がどう観ても兄の方が大きく、却って異腹であった苦労が人望を呼び、一級の人材が袁紹の方には集まっていく。それに対し、本家で温々と育ったヤサ男の袁術は、兄に唯一勝っている〔血筋の正しさ〕を強調し兄・袁紹を「メカケの子!」と呼んでは蔑み続ける。やっかみ・妬みの反動、反発である。更に此の男の人生には〔名門故に、どうしても人の下には就けぬ!〕と云う、社会的大前提条件が背負わされていた。常にトップに居て当たり前・・・是れも亦、袁術と云う人物を唯我独尊とも言える、特殊な道へと向かわせる一因であった事も見逃してはなるまい。
袁術のもう一つの、即ち、究極の執着ーーそれは・・・・
皇帝に成る!!と云う野心・・・(妄念と言った方が正しいか)・・・其れであった。その妄想に何時、取り憑かれたかは、読者諸氏の判断に負う処であるが、兎にも角にも此の男は、生きている間に《仲皇帝》に成って見せるのである・・・・。
この袁兄弟は両者とも、天下平定レースのスタート時点では、他の群雄達より断然優位に立っていた。だから発想も大胆で、思い切ったビジョンが抱けた。
《もはや、卯金刀(劉一族・漢王朝)の時代では無いな!》
・・・と、断定し得たのである。此処迄は両者とも流石とも言えるがその先の具体的戦略となると、態度が異なった。一致する筈も無い。そして是れが、2人を決定的に乖離させる。先ず、兄の袁紹が【新皇帝擁立】に動いた。董卓が立てた『献帝・劉協』を無視し血筋・人望ともに最有力の「劉虞」を擁立しようとした。そしてそれへの同調を、弟の袁術に求めて来た。 ーー曰くーー
『現在、西方(長安)には、名目上は幼君がおわしますが、血統的に皇室との繋がりは無く、公卿以下、みな董卓に媚び従い、到底信頼を置く事は出来ません。ただ軍を要所に駐屯させ、彼等が西方で動きがとれず、自然に倒れる様にすべきです。東方においては、徳高き君を擁立しますれば、太平を期待できましょう。どうして逡巡する事など有りましょうや。その上、自分の家族を殺害されて居ながら、再び北面して仕えてよいものであろうか。天命に背向く事は不吉です。どうかよくよく考えてみて戴きたい』
−−それに対する袁術の返書ーー
『天子サマは聡明で周の成王の如き資質をお持ちです。逆賊・董卓は危機混乱の状況に付け込んで、百官を圧力によって屈服させて居りますが、これは漢王室にとって小危の運に過ぎません。それなのに混乱が未だ足りず、もう一度これを引き起こしたいと思って居るのですか。何と今、主上には『血統的に皇室と繋がりは無い』などと言われる。一体、これが誹謗と言え無いでしょうや。我が家は先代以来、代々続いて忠義を第一と考えて来ました。太傳公(袁隗)は慈しみ深く、哀れみの情の強い方で、逆賊・董卓によって間違い無く災難が降り掛かる事を承知されながら、信を貫き義に殉じ、立ち去るに忍び無かったのです。一門は破滅し、死亡したり流浪したり致しましたが、幸いにして遠近から救援に駆けつけて呉れました。この機会を捉えて、上は国家の逆賊を討伐し、下は家門の恥を拭い去る事をせず、天子の廃立を計画するのは、承知致しかねます。又、『自分の家族を殺害されて居ながら、再び北面して仕えてよいものか』と、申されるが、これは董卓の仕業であって一体、国家(皇帝)の為された事であろうか。主君の命令は、天です。天に復讐する事は出来ませぬ。ましてや主君の命令では無かったのですぞ。私は心からなる赤誠をもってただ董卓を滅ぼす事だけを目的と致して居りその他の事は一切預かり知りませぬ。』 ーー2通ともに 『呉書』 よりーー
この両者の遣り取りだけを見れば(話半分としても)、是れはもう、完全に袁術の勝ち。文句無しの堂々たる正論である。この袁術の燃える如き熱き思い・・・是れを、「否定の為の否定」と観るか、いや、「全き真実」だと観るか・・・筆者としては、此の時点では、(反董卓連合が未だ一応は機能しており、孫堅を支援し続けて居た段階)では、袁術は本気でこう思って居たかも知れない・・・・と思う。但し、此の、兄の思い切った動きに、ただならぬショックを受け、「潜在して居た意識」が揺り醒まされたであろう、とも想うのである。《−−クソ、してやられた!!》と云う、兄への猛烈な対抗意識と、《俺こそ、最高位を極めるべき男なのだ!!》 とする、根源的な「選良意識」・「高貴心」とが混じり合って発火した・・・・と観る。それはもう、どうにもジッとして居られ無い、煮え滾る様な情念と成って、袁術と云う人物を突き動かしたに違い無い。
−−ズバリ、《俺が皇帝に成る!!》
兄が言う通り、後漢王朝などと云うモノは、事実上、消滅している
ーーだとすれば・・・新王朝・新しき皇帝が誕生しても、何ら不都合は無いではないか・・・・となれば、新皇帝に最もふさわしいのは誰かーー〔4世三公、その最も正統な血を受け継いでいる唯一の人物・・・・此の、袁術公路しか無い!〕
笑えない大錯誤恐るべき独善と言わざるを得無いが、そう思わない処が、袁術の袁術たる所以、彼の生育暦・成長環境であった。
ーー生まれた時から他人が自分の為に尽くすのは当たり前、自動的にエリートコースをまっしぐら。 何の苦労もせずに「郎中」→「折衝校尉」→「虎賁中郎将」と、当然の事として出世階段を昇っていく。あの董卓ですら懐柔策とは言え、この男に『後将軍』を授けている。それを己の実力だと過信する・・・・周囲への”感謝の念”と云うものが希薄な、唯我独尊的人物が出来上がるのには、もってこいの条件が揃っている。致命的なのは、それを其の都度、修正補導して呉れる人材が近寄らなかった点だ。本人の責任が最も大きいが思春期に周囲に一人も、人物が居無かったとしたら少し哀れだ。逆に、兄の袁紹は人材を持て余し、使いこなせなかった事を思うと尚更である。
処で、正史「袁術伝」の、彼の登場(書き出し)は洛陽宮の 〔宦官皆殺し場面〕 からである。この時の袁術は颯爽としている。兄・袁紹と歩調を合わせ、虎賁中郎将として近衛兵を率い、嘉徳殿と青瑣門に火を放って斬り込み、宦官2千人を誅滅している。・・・・だが此の直後から、この兄弟は死ぬ迄、二度と再び顔を合わせる事が無い。どうも、袁術の方から、兄への反発・対抗意識を燃やし続けた様に思われるが、そうばかりでも無い面も覗える。−−董卓が両者に協力要請を行った時点で、この時既にして他人の眼ににも、〔2人は別勢力〕と観られて居た事が知れる。董卓は、2人を夫れ夫れ別個に呼んで政権参加を強要している。此のとき董卓は、真っ先に袁紹(兄)を呼んだ。拒絶逃走されても尚、渤海太守・頏郷侯を贈りつけ、何とか懐柔しようとする。又、関東の群雄からは、【反董卓連合の盟主】にも仰がれる・・・・これに対し袁術(弟)の方は、後将軍を提示される。兄はサッと消えたが、袁術は暫し留まってから逃走する。−−〔向こうべき土地〕が無かったのだ。袁一族の当主たる兄には、取り合えずの当て・(本貫=本籍地)が既に在ったのに対し、都住まいばかりだった袁術は、此の時初めて候補地を探さねばならぬ・・・と云う「実力の差」が存在していたのだ。
−−その後(紆余曲折があって)結局、『寿春』に迄落ち延びた袁術の前に今度は【呂布】と云う猛獣が現われた。そして、其処では、「袁術」・「呂布」・「劉備」に「曹操」まで絡んだ3つ巴・4つ巴の、虚々実々の戦いが展開される。
だが、その様子は既述したので省略し、ここでは専ら、〔袁術の後半生〕 を追う事とする。
※因みに、実力も資格も無い癖に、まして世の大多数の同意も無いのに手前勝手に最高権力号を名乗る事を〔僭称〕と言うそこ迄さえも至らぬ泡沫は「自称」で片付けられるから、僭称の方が幾らかカッコイイかも知れ無い。ーー思えば此の当時、全国各地で一体何人が、皇帝を自称して来て居たであろうか?『正史』に出て来るだけでも数名は下らないから、泡沫の者まで入れたら、それこそ何十人と居たであろう・・・・世はまさに
「自称皇帝だらけ」だったとも言えるのであった。それだけ後漢王朝の権威は失墜し、地に落ち涯てていた証左でもある。
それにつけても、浅ましきは人間の欲望である。際限と云うものが無い。そして其の人間が持つ欲望のうち、最も強烈なもの・・・・それは「性欲」でも「食欲」でも無い。かような、本能に由来する即物的なものでは無く、他の生物には決して見られない、極めて人間的なものーーそれが・・・【権力欲】である。人類の歴史は、この権力欲に取り憑かれた者同士が、連綿として繰り返して来た、大小の『権力欲望史』とも言えるであろうか・・・そして、その最大の具現化が「皇帝」であった!−−民の為、世の安寧の為などと云うのは、キレイ事に過ぎない。己の欲望を正当化し、大量殺戮の悪業を糊塗する為の、第2次的理由付けに過ぎぬのである。乱世の英雄と呼ばれる男達も、一人の例外無く全員が、可能であるなら皇帝に成りたいと願望している。・・・・一旦取り憑かれたら、死ぬまで逃れられない、「命賭けの欲望」・・・・。
「儂は正直者だからな。コセコセと本心を隠して置くなぞ卑屈な真似は出来んのじゃ!」
とは言え、実力も無いのに、その欲望だけが先行した場合どうなるのか?ーー〔皇帝僭称〕の袁術は・・・・まさに其の標本を示し、「成れの涯て」まで行き着く典型と成ってしまうのであった・・・・・
さて、【伝国璽】を得た袁術・・・・寝ても醒めても頭の中に浮かんで来るのはーー己が皇帝の座に就く日の、晴れがましい姿だけ。
「ウム・・・命を天より受け、寿くして、また永昌ならん・・・か!!」片手には余る10センチ四方の印だが、純粋の『白玉製』だからズッシリと重い。かの始皇帝が刻ませ、手にしていたのだ!!もう、何うにも止まらない。落ち着かない。ウキウキ、ウズウズする。手にした伝国璽を、ためつ眺めつ、飾っては手に取り、手にしては重みに喜悦する。ボウ〜っと、どこか上の空である。気分はすっかり新皇帝・・・・やる事すべてに歯止めが効か無く成って来ていた。 既に「南陽郡」に居た時でさえ『酒池肉林』の日々であったのだ。まして皇帝たる者であれば、その衣・食・住すべてに於いて、天下一の豪華さでなければならない。無論、後宮たるべき大奥には、天下中の美女を集め、その人数も天下一でなければならない。又、その時までには、官僚を揃え、国家としての官制も整えて措かねばなるまい。
−−・・・四面、押し並べて戦乱の最中・・・・
怪しい一人の【白昼夢】が始まる・・・・・
【第65節】 生涯、嫌われ役 (呉の御意見番)→へ