【第60節】
「江東の虎」孫堅の激しい進撃に耐え兼ねた「大魔王」董卓は、都・洛陽を焼き払い、長安へと撤退。其処で更なる暴虐の限りを尽くしたが・・・・2年後に暗殺される。(その一部始終は第2章に既述)大魔王をすら裏切って暗殺したのは、【呂布】であった!
そこで我々は、この節に於いては、その【呂布】の後半生、及び其の生涯を具つぶさに追う事としよう。
三国志上・最強の男ーー【呂布奉先】・・・・・
2メートルを超える巨体を名馬〔赤兎〕に委ねつつ、手にした方天画戟が唸る時、もはや其処に敵の姿は無い。その半生に7度も主を替えて彷徨らい、傲然と嘯いては自ずから敵を作り、当然の如くに味方を裏切り、ついに最期まで人の下に就かず、人の上にも立てず、ひとり孤独で在り続けた、史上最強の男・・・・・その比類なき強さの余り恐れられ、遂には己の命を縮めた「戦いの神」ーー歴史は、強過ぎて憶病さの無い人間を大成させない。その証明として、呂布を此の世に登場させた・・・・と言ってよいかも知れぬ。己の力不足を感じ無いのだから人を頼らない。何とか他の方法で、弱さを補おうともしない。だから他人の有難さが解らない。人を大切にしなければ無私で尽くして呉れる人間は集まらない。・・・・詰まる処、歴史の神は、己の至らなさを自覚せぬ者には、傍流の役割しか与え無いのであった・・・・。
【呂布奉先】の生地はオルドス高原の北、現在の包頭辺りの五原郡九原である。遊牧騎馬民族の中で育った。
サラブレッド種よりもニ廻りも大きく、速さと持久力を兼ね備えた
アハルテケ種の【赤兎馬せきとめ】を得たのも、この青春時代であったろうか?
呂布が最初に仕えた并州の丁原ていげんは、文字も書けぬ大雑把な人物であったが、彼を若い時から、我が子の様に、非常に可愛がって呉れたようだ。(一説では、養子としていたとも言われるが、根拠には乏しい)いずれにせよ、根本的には、呂布の生育環境は、「粗野」の一言に尽きよう。礼儀や教養とは凡そ無縁な、単純で明快な、右か左か、白か黒かの「野性の論理世界」・・・・詰り、「理」では無く「利」で物事を判断する倫理観に支配される人格が形成されていった・・・・と云う事である。183年丁原と共に洛陽に入るが丁原の上司・大将軍の何進が宦官達に暗殺されると、躊躇いも無く、丁原を見限る。どころか、大恩人の丁原の首を斬り取って手土産とし、【董卓】に鞍替えする。(※詳細は第33節に既述) 【1回目の裏切り】 である。スタートからして凄まじい。192年には、その董卓を、長安で暗殺した。
【2回目の裏切り】 である。(同39節)
3番目の上司・【王允】(おういん)は僅か60日で潰れた。(40節)ーーそして此処から・・・・呂布の当て所ない「さすらいの人生」が始まった。何らの根拠も持たぬ敗残と成った呂布は、関東(中原)に割拠する群雄の間を右往左往せざるを得ぬ羽目と成るのである。長安を落ち延びた呂布が4番目に選んだ(頼った)のは【袁術】であった。長安を脱出した後、函谷関を抜け出た直ぐの南陽に袁術が在ったからである。呂布は董卓の首(骸骨)一つぶら下げると、
自慢の500騎を率いて南陽に乗り込んだ。(※この同郷最精鋭だけは、最期まで呂布に付き従った。)この俺様は、袁一族50余名を惨殺した憎い董卓を討ち取り結果的には復讐してやったのだから、袁術が己を厚遇するのは当然だと云う態度であった。こちらからは頭を下げない。この男が深々と頭を下げる場面は果たして其の生涯に在っただろうか?
《俺ほどの英雄が来てやったのだから、有難く思え!》くらいの男である。そんなボスの下に居る子分達も当然、手の着けられないヤサグレ騎兵ばかりであった。南陽城下ですら、やりたい放題の略奪を働き、暴れ廻る。手持ちの食糧も無く、身一つで逃亡して来た連中であるから、ある程度は致し方ない面もあるが、それにしても無茶苦茶であった。初めの裡は、董卓の首を見て喜んで居た袁術だったが、忽ち煙たいだけの、厄介な余計物的存在と成った。「追い出すか、さも無くば殺してしまいなされ。」日増しに家臣の間から、そうした声が湧き起こった。(※この時、袁術の元に居た筈の【孫堅】は、或る理由の為に姿が見え無い。=後述する)
「じゃがのう、相手が悪過ぎる・・・・。」よほど周到に準備して措かないと、何を仕出かされるか判ったものでは無い。下手をすれば袁術自身が「丁原」や「董卓」の二の舞にされ兼ねぬ。密かに呂布暗殺・騙まし討ちの計画が進められた・・・だが、よくした?もので相手の剣呑な「冷波」を察知する、呂布の〔危機感知センサー〕は、その体験上からも、野獣的本能からも、人一倍研ぎ澄まされていた。身の危険を感知した呂布は、素早く南陽を離れて黄河を北に渡ると、今度は同郷の河内太守【張楊】の元へと走った。
5番目の相手である。だが張楊は同郷と云うだけで、その所属は呂布を長安から追い落とした張本人・「李催」陣営の将である。
同郷と云う、危ふやな接点を唯一の頼みとしなければならぬ程、この時の呂布は苦しかった。・・・・落ち武者の哀しさ、さすらい者の辛さである。当然、その情報を知った李催は、配下の張楊に、『呂布を殺して其の首を送って寄越せ!』と命じて来る。ついには懸賞まで付けて手配した。張楊は流石に「同郷の好み」で庇って呉れるが、いつ部下達が恩賞目当てに命を狙うか判らない。有りの儘を告げられた呂布は已むなく河内も去り、今度は東へ移動。冀【袁紹】を頼った。6番目の相手である。この時袁紹は、黒山賊(南匈奴)の「張燕」を討伐しようとしている矢先であった。相手は騎馬民族集団だけに相当手強い敵で、苦戦・難戦が予想されていた。そこへ丁度、助っ人が現れた格好になったから今度は大歓迎で受け容れられた。「よくぞ、来て呉れた!」呂布としても、此処で是が非でも、自分の存在価値を示して置かねば、もう後が無い切迫状況・苦境に在った。おのずから気合が入る。
「ここは一つ、この呂布が勝利をもぎ取って差し上げましょう。公は大船に乗った心算で居られよ!
これが大言壮語で無かった事は直ぐに実証される。実際、戦場に於ける呂布の勇猛さは、袁紹の期待を十二分に上廻るものであった。敵・張燕軍は、1万以上の精鋭歩兵と、その中核を成す5千余の騎兵を有していた。
『呂布ハ、其ノ健将・成廉、魏越ラ数十騎ト共ニ、張燕ノ陣ニ馳突シタ。其レガ1日ニ2、3度カラ4度ニ及ビ、其ノ度ニ斬首シテ来タ。連戦10余日、張燕ノ軍ヲ撃破シタ。』
呂布軍(と言っても総数500に過ぎぬ)は滅っ茶苦っ茶強かった。2万近い敵陣に、たった50〜60騎単位で突っ込んで行き、戻って来れば皆、手に手に敵の首をぶら下げている。一服すると又、ワアーっと出てゆき、事も無げに敵の首を持ち帰って来る。
1日に4度ワアー、ワアー、ワアー、ワアーと出撃すれば
「ワア〜ッ」×4×100首=4ワア〜で・・・・・答えは400ワア〜首になる。それが10日続けば→→→×10で、4000ワア〜首となり、張燕の騎馬軍団は消滅してしまう!
【赤兎】と〔方天画戟〕は、敵を恐怖のどん底に陥し入れたのである。天下無双の名に恥じぬ、呂布奉先の独壇場であった。
『軍中、呂布アリ。馬中、赤兎アリ』 と謳われる所以である。袁紹は、これを大意に表彰した。処が其れを謙遜しないのが又、呂布の呂布たる所以でもある。増々態度がデカく成る。当然の様に、自兵の増強を要求してくる。恩賞の領邑にも不平を鳴らす。部下のガラ悪兵達は我が者顔で、略奪行為をエスカレートさせていく。呂布自身も己の武勲を誇って、袁紹麾下の宿将達を見くびり、尊大に構え続けた。
ーー《奴等は俺様の如く、正式に皇帝から官位を受けた連中では無い。袁紹が勝手に呉れてやったモノだから、尊重する迄もないわ。》・・・・事実、のち長安を脱出した「献帝」は途中の苦難の最中に『呂布よ、朕を迎えに参れ!』と詔勅を発し、頼りにするのである。
だが、この呂布の思い上がりには、袁紹は勿論、配下の部将達が腹に据え兼ねた。そこで袁紹は、呂布を司隷校尉に上表し、呂布が自分で長安宮まで出向いて、正式な任命を受けて来たいと申し出た事を利用した。(ノコノコと敵地・長安に出かけようとするその神経自体がそもそも普通では無いが・・・・)見送りと称して、闇討ち用に、30名の刺客を送りこんだのである。呂布の〔センサー〕が、又しても点滅した。テントの外に見送りの彼等を待たせ、中で楽器を演奏させて措き・・・密かに立ち去った。夜半、刺客は呂布の寝台を襲ってメッタ斬りにしたが、既に蛻の殻であった。虎口を脱した呂布は、ユーターンして、近くに居た同郷の「張楊」に再度合流した。袁紹は復讐を恐れ追尾させたが、いざとなると誰も呂布を畏れ、近づく勇気の有る者は居無かった。それはそうであろう。眼の前で、嫌と言う程、その凄まじさを見せつけられて来たのだ。呂布は振り返る事も無く、悠然と去って行った・・・・。
一旦河内に留まったものの、己のゆく先に打開の途を見出し得無い呂布は、再び黄河を南に渡り、己の勘・嗅覚を頼りに、今度は陳留国太守の【張獏】と云う男の所に立ち寄ってみた。そして会ってみると、忽ち意気投合してしまう。と言うより、意気投合させられてしまった・・・と言うべきだったかも知れ無い。何故なら張獏は此の時、隣接する「曹操」に亡ぼされる恐怖に駆られて居り、呂布を自陣営に引っ張り込んで、彼をその矢面に立てせようとしたのであった。すなわち呂布は、張獏の軍師となっていた【陳宮】の進言によって、張獏から上表され、〔兌州牧〕の地位に祭り上げられた。・・・・かくて呂布は、ここで生まれて初めて人から押し戴かれる格好となったのである。ーーだがこの「兌州牧」の地位には、既に【曹操】が就いていた。明らかな挑発・挑戦行為であった。蓋しこの一連の動きは全て参謀【陳宮】の、曹操に対する怨みから発せられたものであった。陳宮は張獏よりも、呂布の武勇を高く買い、己の軍師としての野心=才能発揮の場を呂布に託したのだった。
【陳宮】と云う人物は、元々は曹操のナンバーワン軍師・参謀である。主従の関係も良好だった。 然しその地位を、後から来た「荀ケ」に取って代わられ始めていた。側近からも外され、地方に派出させられていた。詰り、曹操に〔干された〕のである。それで陳宮の自負心は甚く傷つけられ、内心、《必ず曹操をギャフンと言わしてやる!》 と密かに叛意を固めて居たのだった。
《曹操め、その人を観る眼の拙さを見返してみせる!》 と思っていた矢先の呂布の到来であった。
194年その叛意を実行するチャンスが訪れた。父親の復讐に取り憑かれた曹操が、再度の出陣で除州に侵攻し、膝元の「濮陽」を空っぽにした瞬間を、呂布に衝かせたのである。この時曹操は、濮陽の留守を陳宮に
任せて措いたのだから、〔兌州乗っ取り作戦〕は、まんまと成功した。窮地に立たされた曹操は軍を還すと、呂布との死闘となった。所謂 【濮陽の戦い】である。一躍、群雄の一角と成った呂布の猛攻で、曹操は落馬して手の甲にヤケドを負うなど、両者譲らず、対陣は100日以上にも及んだ。・・・ところが此の時なんと、天地を覆う《蝗の大群》が戦場を襲ったのである!天の悪戯としか言い様の無い椿事であり、人智では予見する術も無いハプニングであった。戦いどころではなくなり、両者這々の態で引き上げ、呂布は東の山陽へと移動する羽目となってしまった。もし此の時、蝗の襲来無くば、三国志に於ける、その後の歴史は大きく変わっていたであろう。
・・・・此の時点では、兌州内の殆んどの郡が呂布側に付いていた状況から推せば、呂布・陳宮政権が中原にデンと成立し、曹操は辺地の一角に追い遣られていた可能性が高いのであった。
然し現実は、その反対方向に推移してゆく。前々から根拠地を持って居た曹操と、元はさすらい者の呂布との実力の差がジンワリと顕われて来るのである。
−−翌195年春、曹操が定陶城の呉資を攻めた為、呂布は救援に出陣するが破れる(定陶の戦い)
・・・夏、今度は曹操が鉅野城を攻め、同じく救援した呂布は再び破れる。(鉅野の戦い)。明らかに呂布は振り廻されている。頭に来た呂布は自分の方から大軍を編成した上、〈今度こそ決着をつけてやる!〉とばかりに4度目の戦いを挑んだ。・・・だがその動きをいち早く察知した曹操は、事前に伏兵のワナを仕掛けその奇略に嵌った呂布軍は、却って寡兵の曹操軍の前に、
決定的に近い大敗北を喫してしまうのであった。
呂布は、夜陰に紛れて東へ逃走。今度は、陶謙の遺言
で除州牧を譲られたばかりの【劉備】を頼った。呂布の論理からすれば、劉備も亦、同郷人であり、受け容れられる筈であった。だが、その受け容れに対しては、「関羽」と「張飛」とが強く反対した。
「呂布は虎狼の輩2度も主を殺した奴ですぞ!そんな奴を引き入れたら、碌な事には成りませんぞ!!」処が劉備の方は、ちょっとばかり大人風を吹かせて
見たくなった。
「呂布の勇猛は天下に轟いて居る。その呂布が劉備の下に身を寄せたとなれば、儂の貫禄も上がろうと謂うものではないか!」
呂布は劉備と会うと、彼なりの最大級の謝意を表した。
劉備を帷の中へ招き入れ、妻の寝台の上(翠帳紅閨)に座らせた上
「妻に酌さえさせる」異例・破格の持て成しをするのだった。当時、奥に在って、その姿を夫以外の男性には、絶対に見られてはならぬとされたタブーを犯しての感謝の表現だった。妻の姿を他人に見られるのは、もう其れだけで全裸の妻を視姦されたに等しく、相手を殺害する事が認めらる時代であったにも拘らずである如何に呂布の感謝の念が大きかったかが窺がえる。尤も、呂布自身の裡に、どれだけ中央の儒教倫理観が染み込んで居たかは疑わしいが・・・いずれにせよこれ迄の者達は皆、彼を殺そうとした。それを思えば、恩に着て当然ではある。ここ迄は流石に、呂布も殊勝であった。だが呂布は初対面から、劉備を「弟」と決め付けて呼んだ。礼儀を無視し「兄」と呼ばぬ処に、呂布奉先の自負も亦在った・・・。
だが舌の根も乾かぬ裡に、呂布は劉備を裏切った。(呂布にしてみれば、群雄として当たり前の事をしただけではあったろうが。)
劉備が袁術からの攻撃を迎え討たんと出払っている隙にその本拠「下丕卩城」を乗っ取った。(詳細は既述)3度目の裏切り・背信行為であった。行き場を失った劉備は、恥を忍んで呂布の下に膝を屈した。一夜にして主客転倒したのである。
「先にはお主が俺に小沛城を呉れた。今度は俺がお前に小沛を与えよう。」
この 何ともヘンな具合の律儀さ??が、呂布と云う男の印象度を随分とプラスの方向に持っていっている。どこか未だ可愛げが感じられ、大魔王・董卓の様には、憎み切れない。
呂布は勝手に、除州刺史を名乗る。
翌196年(建安元年)、「下丕卩」の南の「寿春」に在った
袁術は、呂布の頭越しに(迂回して)小沛の劉備を攻めさせた。 ※最初「南陽」に在った袁術は、この時、曹操に追い払われて「寿春」にまで逃げ落ち、其処に新たな根拠地を形成して居た。(詳細は袁術伝に後述)
袁術配下の【紀霊】らが数万規模の大兵力で小沛へと進撃した。当然、劉備は呂布に救援を求めて来た。
「呂布様は常々、力を回復して来た劉備を、殺そうと思っておいでなのですから、放って置きまされませ。」
と、軍師の陳宮が言うと、呂布は初めて、脳ミソ迄が筋肉で無い処を見せたのである。
「そうでは無い。劉備が今破れれば、儂は袁術陣営の包囲網の中に封じ込められてしまう。救援しない訳にはゆかないのだ!」ーーこれには陳宮ビックリした。まさに其の通りであった。だが、下手に呂布が自信を持つと、益々軍師の言う事を聴かなくなる恐れもある。これ迄の敗北は、殆んどが、陳宮の進言を呂布が無視したせいであったからであった。痛し痒しと謂う処ではあった。
呂布はみずから歩兵千人・騎兵200を率いると、劉備の元へと出撃した。
「エッ!たったこれだけで、一体何をやらかそうと言うのじゃ?」
初めてマトモな戦略を口にした割には、余りにも滅茶苦茶な兵数である。数万の敵襲に対して一体どんな戦術を用いようと言うのか?陳宮には訳が解らない。
だが、呂布の到来を知ると、紀霊らは兵を取りまとめて、進撃を一時中止した。「呂布の強襲」は天下に鳴り響いていたのである。呂布は沛の西南一里の地点に陣営を構えると、人を遣って「紀霊」らを招待した。大親分が出張って来て、両者に〔手打ち〕をさせようと云うのであった。貫禄に圧されて、紀霊らも応じた。当然、劉備本人も呼びつけられた。敵同士が無理矢理に鉢合わせである。
「オッホン、さて諸君。劉備玄徳は儂の”弟”だ。弟が諸君の為に苦しめられているので、儂は兄として助けに来たのだ。ところで、さて、諸君もよく知っての通り、儂は元来争い事が嫌いな性質で揉め事の仲裁をするのが大好きなんじゃ。 ん?そこら辺の事はよ〜く解って居るじゃろう?−−え?何か言う事でも有るか!?」
一同、口アングリ・・・・二の句が継げない。だが呂布は大真面目であるから、手に負えない。
「−−諸君!!」呂布の大声に一同ビクン。
「諸君、こうしようではないか!」呂布は今更ながらに、自分自身のアイデアに感嘆して、思わず膝を打って見せた。「それ!幔幕を開けよ!」 呂布がサッと鞭を翳すと、一同を囲んでいた陣屋の幔幕が、パッと左右に割れ開いた。 広い原野の一角である。その彼方を呂布の鞭が指し示した。
「儂が今から、あそこに突き立っている長戟の小枝を射るから見て居て呉れ給え。もしも一発で命中したなら、諸君は戦闘を中止して、退き揚げて呉れ。命中しなかったら、留まって勝負を決するがいい!!」
《ゲッ!一体、何んちゅう事を言い出すんだ!あんな遠くの、然も見えるか見えないかの、小っちぇえ小枝にぃ〜??・・・外れるに決まってるだろが!ーー・・・俺の立場はどうなるんだ・・・・!?》
その目標物を視認した劉備の背筋に冷や汗が吹き出した。だがそんな事は、おくびにも出せない。劉備も含め一同、否も応も無い。親分サンの御随意に、と頷くしかない。片やの呂布。外れたら何うしよう?などと云う心配はこの男には無い。己の名案に大満足して居るだけである。(こう云う、稚戯に等しい一面が又、呂布と云う男への悪意を殆んど和らげさせてしまうのだが)
《やれやれ、どうせ、この場を和ませる為の余興の一つじゃろう》
一同、半信半疑のタイガースの儘、ゾロゾロと腰を上げて呂布を遠巻きにする。其の場には、関羽か張飛、若しくは2人ともが居て、目撃した筈である。その距離について迄は、史書に記されて居無いが、誰が見ても、およそ当たる筈が無いと思える程の距離であったろう。少なくとも数十メートルはあったであろうか?
筆者の姉は若い頃から弓道をたしなんでいるが腕前はなかなかのもので、金的と云うカマボコ板より小振りな的を何度か射抜くのを目撃している。又、呉の太史慈なぞは、悪口を叩いた城門上の敵の手の甲を、下から射抜いて張付けにしている。それ故、ちっとやそっとの距離では、プロの部将達を驚愕させる事は出来まい。・・・事前に触れて置いたのであろうか、全軍が詰め掛けての一大イベントに成ってしまった。戦いに明け暮れる者達は皆、こう云う、語り草になる様な場面が大好きなのだ。
・・・・・戟の「胡」と呼ばれる小枝状の突起が、
松葉の先ほどの
小ささで見える。沈む夕日の朱色の残光を受けて
戟の切っ先がキラリと光る。
呂布はやおら剛弓を取り上げると、天に祈るでも無く、地に捧ぐでも無く、ゆったりと赤い矢羽をつがえて、ただ大地に仁王立つ。背筋を伸ばし、キリキリと弦が引き絞られてゆく・・・・。戦場に一瞬、ピンと張り詰めた静寂だけが訪れた。気のせいか、呂布の頬が紅潮して見える。万余の眼差しが、息を殺して、唯、呂布奉先の指先だけに集まっている・・・
一陣の風が土煙を巻き上げて戟に絡み合う。
〈ーー・・・・・・〉
やや上向きの角度を創ると、特別誂えの黄金の矢が、ヒヨと放たれた。赤い矢羽が、呂布奉先の自信を乗せて、張り詰めた大気をヒューと突き抜けてゆく・・・・一条の美しい弧が描かれ・・・・キンと金属同士が派ね飛ぶ音が聞こえた。
「ウおオオー〜ッ!!」・・・・と、地鳴りの様な驚嘆の嵐が湧き上がり、次には、ありとあらゆる武具を打ち鳴らす武人達の称賛が惜しみなく続いた・・・・。
小枝を叩かれた長戟は、クルリと反転して傾き、その10丈先の地面には、見事、大任を果たした金の矢が、誇らしげに赤い羽根を屹立させていたーー。
呂布は口元に、満足の笑みを、微かに湛えて見せた。
将軍は天の御威光を具えておいでです!と紀霊
「まさに軍神じゃ!!」と、諸将・・・・武人たる者、是れを見たからには軍神の命に従わざるを得無い。又、紀霊としては帝位を目論む主君・袁術の為にも、ここは退かざるを得無いと判断した。武人の約束を破らせたとあっては、袁術の名が地に落ちる。袁術は今、世間の評判を最も気に掛けて居た・・・・。
さっそく大宴会となった。明くる日も、敵味方を忘れ宴が続き、そして、双方とも退き揚げていった・・・・。
呂布奉先、一世一代の男の華道であった・・・・
だが、呂布が除州のひと隅で、大パフォーマンスに満悦していた時・・・・世の中は、そんな些細な語り草など物の数では無い様に大きく変わろうとしていた。
この196年の8月、『曹操』が遂に、若き【献帝】を自政権に迎え入れたのである!(詳細は第40〜43節に既述)ーーこうした時局の大激変を受けて、袁術は呂布との同盟を画策した。
『(呂布の)娘を、儂の息子の嫁に欲しい!』・・・・
と、政略結婚を申し込んだのである。すると意外にも、呂布はスンナリと承諾のサインを送った。是れには伏線があった。 一部既述した如く、先年、呂布に除州(下丕城)の劉備を攻めさせようとした時〔3つの恩〕を挙げつらい、呂布を恩人としておだて上げる手紙を送っていたのだった。 そして今回の手紙には更に付け加えて、自分(袁術)は程無く「皇帝」を名乗る心算で居る事、従って呂布の娘は「皇太子妃」と成り、呂布も「皇族」と成ると告げて寄越した。是れは〔田舎者コンプレックス〕を抱いている呂布にとっては、大変な魅力であった。と同時に、巨大化してゆく曹操に対抗する為にも有効な同盟と言えた。位置的に観ても、呂布の方が先ず、曹操の標的に成るのは必定であった。
「おい、喜べ。お前は間も無く《皇太子妃サマ》だぞ!」
そう言って呂布は、豪華な行列を組ませて、娘を送り出した。ここら辺も子供っぽく、可愛いと言えば可愛いか?・・・・だが此処に、呂布と袁術が南北に一枚岩と成って同盟する事に、危機感を抱く人物が居た。呂布支配下の沛国の相・【陳珪】であった。彼は内心、曹操を非常に高く買っていた。いずれは曹操に鞍替えする心算で居る。そこで、おっ取り刀で駆け付けるや、愛娘の花嫁行列を見送ったばかりの呂布に対して、グサグサと説き伏せた。
「曹公は献帝様を迎えて奉り、国政を輔翼され、その輝かしい威光は当代を風靡し、四海を征伐されようとして居られます。呂布様には曹公と計画を共にされ、泰山の様にドッシリとした安定を得るよう、お考えになるべきです。今、ニセ皇帝を僭称せんとする袁術と婚姻を結ばれたならば、天下から不義の汚名を着せられ、積み重ねたタマゴの様な危険な事態を招くに違いありません!」
言われた呂布は、心が揺らいだ。「不義の汚名」などとは凡そ無縁な人生を送って来た男だったが、〔都会生活〕が長くなるに連れて、だいぶ感化されて来ていた。それに、考えてみれば、兵糧20万石や武器の無制限供与の約束は完全な空手形で、真っ赤な嘘だった。そもそも第一、最初に頼った時(南陽)には、俺を殺そうとした奴ではないか・・・・!!
「婚礼は止めじゃ!!」 娘は既に花嫁道中に在ったが、みずから赤兎馬を駆って連れ戻し、直ちに婚約を破棄した。ばかりか、使者の韓胤を捕え3枷を着けて護送すると、わざわざ曹操のお膝元「許都」の市場で晒し首にして見せた。4度目の裏切り変節であった。
してやったりの【陳珪】は、さっそく曹操との同盟を成立させる為、息子の【陳登】を使者として、曹操の元へ送り込もうとした。だが呂布は、どうも此の親子にはキナ臭さを感じ、それを許さなかった。然し相手は一枚上手であった。・・・・密かに曹操に手を廻し、呂布を〔左将軍〕に任命させた。献帝からの正式勅命であった。前後左右4大将軍の一人と成ったのだ。 大喜びした呂布はコロリと気分を良くし、直ちに「陳登」の出発を許すと、同時に感謝の奉書まで持たせた。【陳登】は曹操に面会すると、呂布の危険さを伝えた。若く、父親よりズッと過激な男だ。
「呂布には武勇は有りますが、無計画で、軽々しく人に付いたり離れたりする者です。一刻も早く、滅ぼす手段を考えるべき人物です。」
「ウム、呂布は野蛮な心を持った〔狼の子〕だ。実際、いつ迄も養って(生かして)置く訳にはゆくまいな。よく教えて呉れた。君以外には、その事実を詳しく知らせて呉れる者は居無い。除州の事は、陳珪どのと君に任せたぞ。ーー今後とも、宜しく頼む・・・・!」
即刻、父親・「陳珪」の扶持は中二千石に引き上げられ、「陳登」自身も広陵太守に任命された。そして、以後も密かに兵士を掌握して内通するよう、陳登に命じた。
陳登が戻って来ると、呂布は激怒した。戟を引き抜くや眼の前の机を叩っ斬った。返答次第では、此の場でキサマを斬り殺すぞ!と云う意思表示である。
「お前の親父は儂に曹操と協力し、袁術との結婚策を破棄するよう勧めて措きながら、今ワシが要求した事(除州牧の正式な官位) は一つも手に入らない。処がお前達親子は揃って高い地位に昇りおった。儂はお前達に売られたのだな?お前は一体儂の為にどう言って来たのだ!」
血管を浮き立たせて睨めつける巨神に対して、然し陳登は眉一つ動かさず、平然と答えて見せた。
「私めは曹公にお目に掛かって、こう申しました。『呂布将軍を扱うのは、ちょうど虎を飼うのと同じで、たらふく肉を当てがって置かねばなりません。もし腹を空かして居れば、人間を喰らうでしょう。ですから除州をお与え下さい。』・・・・と。曹公はそれに対し、こう申されました。『いや、お前の言うのは間違っている。ちょうど鷹を飼うのと同じで、腹が空けば役に立つが、満腹になれば飛んで行ってしまうのだ。』・・・・と。
私の申したのは、ザットとこんな事でございます。」
呂布が望むのは〔除州牧〕の官位。今は勝手に除州刺史を名乗って居るが、献帝名による地位の保証を欲したのだ。何故なら、此の地(除州)の者達は、今でも支城(小沛)に居る劉備の方を除州牧だと思っているフシが濃厚なのだ。・・・・自分を「虎」に例えて除州牧の任官を要請して来た、と聞くと、呂布は其の例えが気に入ったのか戟を収めて怒りを静めた。 何がし、言いくるめられた(言い逃れられた) 観だが、生まれ付いての思考回路は、やはり単純明快だ。
一方、激怒したのは袁術であった。婚儀万端、準備を終え、花嫁の到着を待つばかりであったのを、とつぜん反古にされたばかりか、これ見よがしに重臣を許都まで連行され、当て付け処刑に晒されたのである。「おのれ〜呂布め!!」袁術は急遽、近くに屯して居た韓暹・楊奉(献帝が東帰行するのを救援をした白波賊・曹操に追い払われて此の周辺をうろついて居た)らと連合戦線を結ぶと大将の「張勲」に5万の大軍を与え、7方面から呂布に攻撃を仕掛けて来た。
呂布軍は数千に過ぎない。
「今、袁術軍の攻撃を招いたのは、お前のせいだ!どうしたらいいのか答えろ!!」
いきり立つ呂布。己の定見の無さを棚に上げ陳珪(父親)を責めた
「相手は即製の連合軍に過ぎませぬ。息子(陳登)の判断では、彼等は群れなす鶏の如きもので、勢いから言って一つの木に一緒に宿る事は有り得ず、必ず分裂させる事が出来るとの事です。」
「出来るか、陳宮!?」ここで呂布は、傍らの軍師を振り返った。「お任せ下され、いと容易い事!」
軍師・陳宮の才腕の見せ処となった。・・・・韓暹と楊奉の両将に戦利品の全てを与える事、ありったけの軍需物資を提供する事この2点を確約して申し入れさせた。ズバリこの策は適中し、両者は寝返って会戦中に矛先を張勲に向けたのである。 袁術軍は四分五裂となり大敗した。とりあえず窮地を脱した呂布であった。
2年後の198年9月、呂布は突如、劉備を小沛城に急襲した。「戟の小枝当て」までして、救ってやった「弟」を裏切ったのである。5度目となる。・・・何となれば今や兵力数は完全に主客転倒していたからであった。陶謙の旧臣達の多くは、今でも「除州牧の正統性」は劉備に有ると考えて居た。だから呂布の下丕城より、北方の沛城への、人の流れの方が増えていた。その兵力も万を越え、今や呂布の2倍近くとなり、更に増える勢いであった。《まずい!今のうちに劉備を始末して置かねば、こっちが危うくなる!!》・・・・そこで呂布は先ず、劉備の名望を貶めようと考え、【袁渙】に命じて劉備を罵詈侮辱する書簡を書かせる事にした。処がその袁渙、再三の命令を其の都度キッパリと拒否したのである。まさか此の自分を舐めた真似をする者など、居よう筈が無いと思って居た呂布は、怒り心頭に発し、終には武器を突き付けて袁渙を脅迫した。「之を作れば生、作らなければ死だ!」
すると袁渙は顔色も変えず、笑いながら答えた。「私は、徳だけが人に恥辱を感じさせると聞いて居ります。罵詈であるとは聞いて居りません。あの人(劉備)が元来君子であったとしますれば、まず、将軍の言葉に恥辱を感じる事は無いでしょう。又もし、あの人が小人だとしますれば、将軍の態度に返報しましょう。そうなれば、恥辱は此方側に加えられ、あちら側には無くなります。それに、私が以前に劉将軍に仕えたと同様に今日将軍に御仕えして居るのです。もし将来、私が此処を去る場合、また将軍を罵倒しても宜しいのでしょうか?」それを聞いた呂布は、気恥ずかしくなって、その命令を取りやめた・・・・この呂布への抗命事件は、袁渙の名を夙に有名とするのであるが其の一面、呂布と云う男が単に獰猛なだけでは無く、気恥ずかしさをも持っていた人物として、やはり何処かホットさせる逸話とも成っている。ちなみに此の袁渙、呂布が曹操に亡ぼされた直後に【陳羣】らと共に召しだされ、即刻取り立てられる。その際に曹操は夫夫に数台の公用車を支給し、呂布の軍中に在った物資を思いの儘に取らせた。人々は喜んでみな車一杯に積み込んだが、袁渙だけは書籍数百巻を取り、あとは兵糧に必要な分だけを積んだ。人々は其れを聞いて大いに恥じ入った、との後日談が付け加わる。丞相軍祭酒に栄進する。
さて、そんな折ちょうど、劉備討伐の口実となる事件が発生した。
〔張飛の馬泥棒〕事件であるーー呂布は自軍の中核である騎馬を補充拡大する為、良馬を買い集めさせに部下を山東に派遣していた。その帰途、沛県の近くで野盗に襲われその半数以上の200余頭を強奪されたのである。
「張飛の奴が盗賊に化けて、奪い盗ったので御座います!」・・・との報告が届いた。〈張飛なら、やり兼ねん。〉ーー先年、守将として居残っていた処を、呂布に乗っ取られた汚名を挽回しようとしたものに違い無い。だが此の際、真犯人は誰でもよい。
呂布は「高順」に沛城を奇襲させた。劉備は泡を喰らって単騎、城を捨て曹操の元へと逃亡した。麋(び)・甘(かん)夫人は見捨てられ、人質となった。(既述)198年9月の事であった。呂布は、してやったりとニンマリした・・・・が・・・・実は、是れが、大敵を引き寄せる〔呼び水〕と成ってしまったのである。
翌10月ーー曹操はみずから大軍を率いると、いよいよ長年の決着をつけるべく、許都を出陣したのであった。曹操は他の小城などには眼も呉れず呂布の本拠「下丕卩城」を直撃した。この折、曹操軍が彭城に差し掛かったのを観て軍師の陳宮は呂布に進言した。
「いま出撃し、之れを迎え撃つのが宜しいと存知ます。味方は安楽な状態を保ちながら、遠方から到来して疲労した敵軍を迎撃するのですから、(孫子の兵法にある如く)必ず勝利を得られましょう!」
だが呂布は、ここでも亦、陳宮の進言を無視した。
「敵が来攻するのを待って、泗水の中まで追い詰めるに越した事はない!」ー曹操軍の魁を願い出たのは、復讐に燃える関羽張飛ら劉備の諸将達であった。呂布も、いざござんなれと、高順・張遼らを従え、城外に之を迎え撃つが、衆寡敵せず、下丕城に立て籠もった。 やがて、呂布の下丕城には、地元からも続々と軍兵が集まって来た。然し、其れは、呂布を救援する為の兵では無く、逆に呂布を包囲殲滅しようと集結して来た、あの【陳登】であった。 曹操と面会した此の人物は、爾来、水面下で着々とこの日の為の下工作を続けて来て居たのである。ここにも、地元【名士】の底力が如実に示されている、と言えよう。既述(第8節)の如く、「名士」の協力無くしては、如何なる英雄も存続し得無い。怒った呂布は、城内に居る彼の弟3人を殺すぞ!と、脅したが陳登はビクともしなかった。・・・・その一方で曹操は直ちに呂布に書状を送り、袁術と同盟するより、自分と手を組む事の有利さを説きつけた。又、いま帰順するなら厚遇して直ちに客将として迎えようとも書き添えた。ーーすると・・・・呂布は動揺して、本気で降伏しようかと迷い始めた。元々、呂布自身には大した戦略・ビジョンなどと謂うものは無い。行き当たりばったりの大まかさで定見を持たぬ・・・そう云う人生・そうした生き様しか出来ぬ男であった。
「我が朋輩よ〜、俺をそんなに困らせんで呉れ〜〜。
俺は明公(曹操)に、自首する心算も有るんだからなア〜〜ッ!」
楼閣上から臆面もなく、敵兵に向かって呼び掛ける呂布の姿を見て、軍師の【陳宮】は激怒した。
「貴方は逆賊・曹操を何で〔明公〕などと呼ぶのですか!今さら降伏した処で、卵を石に投げつける様なものですぞ!命を全う出来る訳など、毛ほども無いのが判らぬのですか!!」
陳宮の烈火の如き諫言に、それもそうかと、呂布は又思い直す。頭でアレコレ考えるのは苦手だ。それよりスッキリ、外でひと暴れだ。みずから千騎を率いて出陣した。
〈ワア〜×10日の、あの草原の夢よ、もう一度・・・・〉
ーーだが・・・・『呂布、姿を現わす!』の報に、関羽・張飛を初め、曹操麾下の星将達が直ちに出撃し、襲い掛かった。天下の勇者達が、力の限りにぶつかり合い、恰も其の様は、天下最強の称号決定戦かとも見える凄まじさであった。然して、呂布の強さは流石であった。独りで関羽張飛などを相手にして一歩も退かない。やはり天下無双の称号は、呂布奉先のものであろうか!?
然し、其れも一瞬の事、呂布軍自体は忽ちの裡に曹操軍に押し包まれる羽目となり城内へ逃げ戻るしかなかった。
呂布の強襲が通用した、草原の有象無象とは訳が違ったのだ・・・・。もはや絶体絶命となった呂布に残る手段は唯一つ、是れ迄、何や彼やと経緯の在った【袁術】に、救援を依頼するしか無かった。
だが、袁術はニベも無い。
「呂布は〔朕〕に娘を与え無かったではないか。そんな不実な男は破れて当たり前じゃ。何で又、頼みに来るのか?」
この時、袁術は『仲皇帝』とか言って、念願?の自称皇帝を僭称し、ドンチャン騒ぎの真っ最中。
「ムム、未だ援軍を寄越さぬか。・・・さては娘をやらなかった事をズッと根に持って居るんじゃな?」
ーーその夜・・・・呂布は10余歳の娘を背中に括り付けると、独り、赤兎に乗って城を出た。娘に綿入れを着せ、矢玉を防ぐ為に、その上を鎧で刳るんでの「単騎行」であった。娘さえ送り届ければ万事好転するだろうと考え実行してしまう辺り、思いっ切り幼児感覚の「単純さ」である。・・・・ホントかいな??と思いきや、補注の『英雄記』に載っているのだから、紹介せざるを得無い。
蓋し想像すると、つい可笑しくなる光景ではある。そこが又、呂布の愛すべき処なのだが・・・途中、見張り兵と出っ喰わし、さんざんに矢を射掛けられた為、通り抜ける事が出来ず、引き返す。もし見つからずに、無事、到着していたら、一体全体どう成っていた事やら・・・・??
この攻防戦は、意外と長引いた。州都だけあって、3段構えの
「下丕卩城」は、見た眼以上の堅城であった。第1陣地の奪取と奪還が繰り返されるばかりで、その対陣は既に3ヶ月に及ぼうとしていた。流石に攻城戦では、攻める側に被害が多く、遠征の疲労も重なり、曹操軍に憂色が出始めて来た。軍師の陳宮が其れを看破した。
「敵は遠路やって来ています。勢いが長続きする事はありませんこの際、呂布様は一軍を率いて、城外の遠くに布陣下され。私は残りの兵で城を固めます。もし敵が我等のどちらかを攻めたら、残った方、が敵の背後を衝く・・・・この作戦で10日も相手を引っかき廻せば、敵は兵糧が底を尽きましょう。必ず破る事が出来まする!」
「うん、そいつは名案じゃ!その手でいこう!!」
今迄、陳宮の進言を悉く退けて来た為に、事ここに至った・・・・と云う慙愧の思いもあった。そこで呂布は守将に「高順」を置き、陳宮と一緒に城を任せ、己は城外に布陣を敷く事にした。
−−ちなみに、この【高順】・・・・呂布軍中で、最も優れた部将と言って良かろう。(実際は張遼であったとも想われるが、御存知の通り、張遼はこの後、曹操の五星将ナンバーワンと成って活躍する為、それ以前の敵対行為に当たる部分(呂布伝)には一文字の記述も配されて無い。)
『高順ハ清廉潔白ナ人柄デ威厳ガ有リ、酒ヲ飲マズ贈リ物ヲ受ケ取ル事モ無カッタ。統率スル兵士ハ700人余リデアッタガ、千人ト公称シ、鎧・兜・武器ハ、全テヨク鍛エラレ手入ガ行キ届イテいた。攻撃シタ相手ヲ必ズ撃チ破ッタ為、陥陣営(かんじんえい)ト綽名ガ付ケラレテ居タ。高順ハ何時モ呂布ヲ諌メテ「だいたい家を破滅させ、国を滅亡させる場合、忠義な家臣や秀れた知恵者が居無い訳ではありません。ただ其れ等の者を起用しない事が問題なのです。将軍(呂布様)は行動なさる場合に、熟慮なさらず直ぐに間違った事を口に出されます。その誤りは数え切れぬ程であります。」 ト、直言シテ居タ。呂布ハ彼ノ忠義ヲ認メテ居タガ、其ノ意見ヲ採用スル事ハ出来無カッタ。』 −−『英雄記』−−
処がここで、女がしゃしゃり出た。呂布の妻である。
「将軍が御自身で出陣され、敵の糧道を絶とうとなされるのはご尤もで御座います。でも陳宮と高順はかねてから仲が悪く、将軍が居無くなれば必ずや、2人は心を1つに出来ずに仲違えを起しましょう。もし間違いでも起きた場合一体、将軍は何処を根拠地となされる御心算ですか?第一、あの陳宮は、以前曹操から我が子同然に可愛がられた男で御座いますよ。今、あなたの遇し方は、曹操に及びませぬ。とても本心から、あなたを有難がって居るとは思えませぬ。・・・・ですのに、あの男に全城を委ね、妻子を捐て、孤軍のまま撃って出る御心算なのですか!
もし、陳宮が心変わりしたら、この私の身は一体どう成ってしまうので御座いましょうか・・・!!」
男には滅法強い呂布奉先だったが、この愛妻には、からっきし弱かった。その美貌の妻が、曹操の狒々オヤジに犯される姿を、
チラと夢想した其の瞬間に、
呂布の一生は終わった・・・・・
と、言えよう。この陳宮の「畢生作戦」は、呂布と云う男が愛する女(妻)の、我が身可愛さに拠るひと言で、いとも簡単に反古にされてしまったのである・・・・。
この 「呂布の妻」については、後世、様々な憶測や潤色が乱れ飛んでいる。やれ、董卓暗殺の引き金となった【貂蝉】であるとか、やれ、関羽が懸想して曹操に獲得を願い出たとか賑やかい。ーー但し、前者は演義の作り話であり、後者は呂布の家臣・
〔秦宜禄の妻〕が正しい。 ま、関羽も結構、美女好みではあったらしい・・・・。
ーーさて、戦局であるがーー実は曹操も陳宮が看破した通り、弱気の蟲に取り憑かれ始めて居たのである。まさか3ヶ月の長期滞陣に成るとは想って居無かった為、兵糧が底を尽き掛けていたのである。
「忌々しいが已むを得ぬ。一旦矛を収め、撤退しよう。」
主君の動揺に対して、こちらも軍師の「荀攸」と「郭嘉」が諌め、解決策を進言していた。
「呂布は勇猛なだけで、謀り事には欠けて居ります。参謀の陳宮は智略は有るが、決断するのが遅い男です。呂布の鋭気が回復せず、陳宮の策が定まらぬ今こそが好機です。」・・・・と、【荀攸】が先ず、戦況や敵状を分析して見せる。続いて【郭嘉】は、具体的な戦術を示す。「泗水と沂水の堤を切れば、城は水浸しと成り城内は内部分裂を起しましょう。」
「よし、分かった!」
物事の決定の仕方の違い、上司・下司間の信頼度の違いが、両陣営にクッキリと浮かび上がった「瞬間」であった。即ち、「勝敗の分岐点」であった。−−その結果下丕卩城は水中に没し、陸の孤島成り涯てた。呂布は、その最も得意とする〔胡騎の強襲〕を発揮する機会を、永久に封じられたのである・・・・。呂布の軍は、攻勢時には滅法強かったが、一旦こうして守勢に廻されると、その本来の欠陥が暴露され始めた。確かに呂布単体は勇猛であったが、無思慮で猜疑心が強く、身内の者を統制する人間的魅力には欠けている。
・・・・以前、こんな出来事が有った。有力部将の一人に「侯成」と云う者が居るのだが、或る時彼の厩舎担当官がゴッソリ馬を手土産にして小沛の劉備の方へ逃亡した。結局は皆の協力で捕まえ馬を取り戻す事が出来た。そこで諸将は彼にお祝い品を送り、彼も返礼の為に酒宴を開く事にした。彼は感謝の念を表わす為に、手ずから酒を醸造し、(当時の酒はアルコール度が極めて低かったので、貯蔵は不可能で、その都度準備した)自分で狩りをして猪を捕獲した。その新鮮な肉と酒で諸将を持て成そうとしたのである。その際、侯成は先ず、主君の呂布に其れ等を届けて言った。「諸将が祝いに来て呉れましたので自分で些か酒を醸造し、狩をして猪を捕まえました。未だ口には入れて居りませぬ。先ずは、ほんのお口よごしに献上させて戴きます。」侯成としては忠義心からそうしたのであるが、呂布は烈火の如く怒った。「儂が酒を禁止しておるのに、お前は酒を醸造し諸将と共に飲み食いして兄弟の固めをなし、共謀して儂を破滅させる魂胆か!」
侯成は恐れ慄いて退出し、醸造した酒を棄て、諸将からの贈り物を全部返した。その事から皆、疑心暗鬼と成り、君臣間の信頼は薄れていった・・・・と、ある。筆者が何故こんな些細なエピソードを紹介したかと言えば、その事件は兎も角、呂布が「禁酒令を施行していた」・・・・と云う点に着目して戴きたいからである。
〔呂布!〕 と謂えば、とかく大雑把で、武辺一辺倒・・・・・と、云うイメージが先行しがちなのだが、いやいや是れでなかなか、呂布も領内の治世に気を配って居た事が判るからである。恒久的では無いにしろ、この当時、群雄の多くが兵糧米確保の為に「禁酒令」を発動させていたのである。醸造技術が未発達の当時は、酒を作り出すのに、現代の10倍以上の大量の米を消費したから、慢性的な軍糧不足に悩む群雄にとっては、「酒造り」は悩みの種であった。・・・・とは言え、「酒無くしては一晩も過ごせぬ」当時の社交儀礼上も、又、人的交流の必要上に於いても、事実上は「お目こぼし」が一般的に適用されて居た。
(孔融が曹操の禁酒令を無視し、揶揄した事は有名。)
処が・・・呂布は、そこら辺の機微を解さないから、完璧な実施を突きつけた。一事が万事、日頃から、こう云った塩梅であったから尚の事、こうした閉塞状況に立たされると、将軍達は疑心暗鬼を一層募らせ、城内での人心の乱れ・不統一が益々深刻になっていった。
ーーそしてついに・・・・その「侯成」を筆頭に、「宋憲」・「魏続」等が叛旗を翻した。然も、単に投降するだけでは無く、その手土産に軍師の【陳宮】を縛り上げると軍勢を丸ごと率いて曹操側に奔ったのである!この時、「陳登」の3人の兄弟達も、一緒に脱出した。
裏切りと変節を、己の生き様として来た男の
自業自得の涯て・・・・行き着くべき処に行き着いた・・・と、云う事であろう。
だが存外に呂布は平気で、故郷以来の部下と共に白門(の)楼に登っては嘯いた。 「よい眺めじゃ・・・・たった独りの漢の為にこれだけの大軍が集まって来て居るのだからな。 男児たる者はこうでなくてはならぬわい・・・・。」
後から後から駆けつけて来る、地元の小豪族達により、曹操軍の包囲網は更に増強されてゆく。もはや勝敗の帰趨が明らかとなった今、どっち着かずの態度を採っていたら、戦後の処断がおそろしい・・・と、云うわけであった。
ーーもはや脱出不可能と悟ると・・・・呂布は意外の行動に出た。白門楼から降りて来ると、城門を開かせ、方天画戟を引っ下げると、愛馬・赤兎の馬腹を蹴るや、たった一騎でザブザブと、水中を渡り始めたのである。
「呂布が出たぞ〜!」 と全軍が色めき立つ。
その人馬一体となった雄姿こそ天下無双、 単騎では三国志上最強の男のものであった。
やがて水中を脱し、赤兎に胴震で水玉を弾かせると・・・・
軍神の孤影は脇目も呉れず、敵本陣めがて疾駆した。目指すは曹操の首一つ・・・”それっ!”とばかり、諸将がその前に立ちはだかる。
だが呂布の突進を、誰一人押し留められない。敵味方全軍の眼が、唯一人の呂布の動きに集まった・・・・と、赤兎の脚が曹操の本陣の前でピタリと止まった。 するや、呂布の巨体が鮮やかに下馬する。そして・・・・そのまま、仁王立ちと成ると、後はもう、微動だにしない。
〈・・・・俺は降ったのだ・・・・〉 だが皆、身構えた儘、誰も動こうとしない。この男を理解できない。
「−−・・・・。」呂布はガラリと方天画戟を打ち捨てた。それでも相手は様子を見て居るだけである。
「さあ、召し取れ!」言うと呂布はドカリと地面に座り込んで見せた・・・・彼は彼なりに考えた末の行動であったのだ。自分が殺されるなどとは想っても居無い。 天下無双の「突騎武将」として、曹操は必ずや俺を高く買う筈だと疑わない。〔俺ならそうする〕・・・と云うのが、呂布の判断であった。ーーそれっとばかり諸将が駆け寄る。が、誰もネコの首に鈴を着けようとはせず、ただ遠巻きに睨みつけるばかり。
〈仕方ねえなあ・・・・ホレッ〉呂布は自ずから両腕を背中に廻して見せる。それでやっと、グルグル巻きに、縄が三重、四重に掛けられた。ーーかくて巨神・呂布は戦う事を放棄して、みずから生け捕りにされたのである。更にその上から金鎖までが、容赦なく巻きつけられた。丸で、狂暴な人喰い虎を、やっとの事で追い詰めた猟師達が、二度と絶対逃がさぬ様、寄って集って踏ん縛る格好であった。流石の呂布も、この過剰反応には顔をしかめた。
「おい、ちょっと縄目がきつ過ぎはしないか?少し緩めて呉れ。」
曹操がそれに答える。
「虎を縛るのだから、きつくしない訳にはゆくまいよ。」
「おう、これは曹明公どの。 これでもう貴殿は、天下平定の事は心配されずと済みますな。 明公どのが青州の精兵を率い、この呂布が胡騎を率いて、手を組んで進めば、天下を平定するのは造作も無いこと!私はもう降伏したのですから、是れから先は御貴殿に此の命を預けて忠勤に励みましょうぞ・・・!」
曹操は一瞬だが、知厨し、躊躇らった。 確かに、呂布の騎馬軍司令官としての軍才は捨て難い。
「−−なりませんぞ!!」
蒼白に成って叫んだのは、意外な人物だった。曹操の横に居た【劉備玄徳】である。
「曹公は、この呂布が丁建陽(丁原)と董太子(董卓)に仕えながら、是れを裏切った事実をお忘れか!直ちに殺すべき相手ですぞ!!」
結局曹操は、己の判断に基づいて其の言葉に頷いた。劉備が言おうが言うまいが、当然の事であった。使っての利益よりも、飼って措く害の方が遥かに増さる危険な人間である。又、騎馬軍司令官としては、呂布の麾下に在る【張遼】将軍を当てれば、十二分であろう。
劉備の其の言葉に対して、カッと成った呂布は、痛恨の念を込めて喚き返した。
「何だとう〜? このデカ耳野郎こそ、 天下で一番信用できん喰わせ者だぞ〜!!」
これが史書に記された呂布奉先の此の世で最期の言葉となった
「−−・・・縊り殺せ・・・・。」
曹操の此のひと言によって、座り込んだ其の場で、
ーー呂布は死んだ・・・・。
天下最強ゆえに、その強過ぎる事を恐れられ・・・・裏切りと変節ゆえに、その人間性を疑われた男の末路であった・・・・。享年は40少し前と推測されている。七度、主を替え、
名馬【赤兎】と共に、中国大陸をさすらった天下最強・国士無双の男【呂布奉先】は、こうして歴史の舞台から消え去っていった・・・・とても善人とは言い難いが、然し何処か憎み切れない稚戯を宿した、稀代の巨神・・・・・
歴史の神は矢張、強過ぎて臆病さの無い人間、他人の有難さを解らない人間を、
主人公にする事を容さ無かった
ーーと、謂うべきであろうか・・・・・。
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