第59節
                すいせい
★巨大彗星 出現!

                            初代・孫堅伝



17歳若者は今、父親の伴をして、富春の自宅から隣り町の銭唐に向かう船旅の途中である。 理智的な広い額にはニキビが息吹き熊の様な腰と虎の如き強靭な肉体をも併せ持っていたその五体には、ジッとしては居られ無い、覇気が漲り、そのツラ魂には活き活きとした、強い意思が覗える・・・・・。
                        (ちなみに
彼は、曹操や霊帝と同年齢おないどしである。)
彼の家は代々、呉で小官吏をしており、富春には先祖代々の墓も在る。富春は長江河口から更に南へ200キロ、浙江せっこうの河口・峡湾が陸地に切れ込んだ最深部の海岸都市である。(現・浙江省、杭州ハンチョウ市)−−やがて船が袴里ほうりに差し掛かると、水路が急に混み出し大渋滞となってしまった。呉の地は水郷地帯として水路=クリークが非常に発達しており隣り町に行くにも、寧ろ陸路より、船が日常的交通手段であったどうやら自然渋滞では無いらしい。騒ぎを聞きつけた若者は、船べりから岸を窺がうと、其の原因が判った。胡玉と云う海賊の親玉どもが、商船を襲撃して来たばかりで、ちょうど今、岸辺に上がり込んで、その略奪品を分配しようとして居たのである。ざっと2、30人は居る。旅人達は皆、その海賊達を恐れて船を止め、先に進めなかったのだ。
《おのれ、ゴロツキ供め等が!白昼堂々と悪事を働きおって!》
若者の血が煮えたぎった。当時は長江の河口が現代より300キロ余も陸地寄りに在り (現・上海市は未だ海の底)、建業(南京市)のわずか50キロ先には海が在った。又ここ富春も湾の奥の海岸都市であったから海賊の出没も当然である。この海賊達はやっつけられます。私にやらせて下さい!」海賊達は少なくとも、30人は居る。たった1人で刃向える状況では無い。「とんでもない!お前が手出し出来る様な相手では無いぞ!」 だが若者は父親の制止もあらばこそ、独り刀を手にするや、ヒラリと岸に飛び降りてしまった。〈−−やっ!!〉父親は今更に大声を出す事も出来ず、ただ仰天してしまった。 と、息子は構わず抜刀し、ただ1人、砂地の中央に進んで行った。それに気付いた人々も、肝を冷やして只、見守るばかり・・・するや、若者は其処で立ち止まり、大きな身振りで手をふるい、東西に合図を送った。その様は、さも、人々や兵士達を指図して、海賊達を取り込め、退路を断とうとするかの如くであった。遠目に是れを見た海賊達はまさか独り芝居などとは想いも寄らない。官兵達が捕えに来たと信じ込み、そのまま財物を放ったらかすと、蜘蛛の子を散らす様に逃げ出した。若者はそれを追うや、1人に詰め寄り、一刀の下に斬り捨ててしまった。そして、その首1つを手土産に平然と父親の元へ帰って来る息子・・・・人々は大いに驚愕した。
「おお〜!何とも素晴らしいものを見せて貰ったわい!!」
「まさか、眼の前で、こんな勇壮な光景を見られるとは・・・!!」
「ワシも長い間生きて来たが、《英雄》とは、こう云う者を言うのじゃろうて・・・・!!」
この武勇伝と、その若者の名は、突如現われた彗星すいせいの如くにして、たちまち世間に知れ渡った。 其ノ容貌ハ非凡デ、性格ハ闊達かったつデアリ、好ンデ他人ニハ真似まねノ出来無イ様ナおこなイヲシタ。』
その若者の名は
孫堅そんけん字を文台ぶんだいと言った
     
この海賊退治の武勇伝によって、孫堅の名は人口じんこう膾炙かいしゃするようになり、役所は彼を召し寄せて仮の尉の役 (軍事・警察を司る役目) に就ける。初代・孫堅文台のデビュー(起家)であった。ちなみに彼には「家柄」も「地位」も何も無かった。『代々役人』・・・・と謂っても、下っ端の小役人でしか無かったのだ。そんな孫堅に有るのは唯、己の度胸ひとつだけであった。当時既に此の地には呉の四姓と呼ばれる名門豪族が、かなりの権勢を持って居た。氏』・『りく氏』・『しゅ氏』・『ちょう氏』の4巨頭である。彼等こそ、代々漢王朝から官位を受け継ぐ、正統な豪族達であったのだ。「仮の尉」風情などには面会すらして呉れぬ家格の差」があった。だが、今し時代は実力本位の時勢に在った。
家柄も身分も低く、無名な若者にも・・・・いつか、彼等を凌駕し、立場を逆転させるチャンスがあるやも知れぬ・・・・!
172年・・・早くも、すぐ南の「会稽かいけい郡」で火の手が上がった。湾の南の出口に当たる句章くしょうの地で、新興宗教の教祖許昌きょしょう(許生)なる者が、陽明皇帝と名乗って、反乱を起こしたのである。許昌は息子の許韶と共に、幾万もの者達を煽動し、昨年から自治政府を形成して居た。(※こう云う宗教がらみの反乱者を、朝廷は妖賊ようぞくと称した)官兵が征伐に乗り出したがらちが明かない。そこで孫堅は郡の司馬(兵事を司る役目)として武術にすぐれ勇敢な者達を募って、千人以上を手に入れると、州や郡の官兵と共同して許昌を攻撃。獅子奮迅の鋭鋒と成り、妖賊・許昌を打ち破った。
ーー孫堅 文台18歳みぎりであった。郡の刺史の臧旻とうびんは、その孫堅の手柄を正当に評価し上表して呉れた為、孫堅には正式な詔書が下された。200キロ北の海岸に在る、除州・塩涜えんとく県のじょう(県令の補佐官)であった。・・・・かくて孫堅文台は、漢朝の正式な臣下と成った訳である。「塩涜の県丞」の任に就くや、孫堅は積極的に部曲(私兵集団)を創り始める。許昌の例でも判る様に、此の頃の呉の地は、朝廷軍の力は遠く及ばず、1万の兵を有する者は、独立すら可能な状況にあったのだ。・・・そんな進取の気鋭を持つ孫堅の周囲には常時、郷里の知り合いや、ひと旗あげようと目論む若者など数百人が付いて廻り、彼も亦彼等を自分の身内の様に手厚く待遇し続けた。・・・・その結果、社会的地位は低く小粒ながらも、熱気に溢れ、青雲の志を持つ《孫堅集団》が成立していったのである。
この初期私兵集団の中には、程普ていふ】・【黄蓋こうがい】・【韓当かんとう】・
朱治しゅちといった武人達が、既に加わって居る。 彼等はいずれ2代目・3代目を支え、30年後の「赤壁の戦い」では、呉軍の主力を率いる大将軍と成ってゆく。ーーそしてもう1つ・・・孫氏三代にとって重大な事が、この年に成り結ぶ。
呉夫人の獲得であるきわだつ美貌と優れた才能を兼ね備えた女性として、呉の地では有名な可憐な花であった。若き孫堅は、その噂を伝え聞くと★★★★☆、是が非でも自分のものにしたいと、想った。 この時、彼が一度でも、彼女をチラリと垣間見た可能性は、限り無くゼロに近い。当時の恋とは、そう云うものであった。
筆者の父親は1909年(明治42年)生まれであったが、婚礼当日、初めて自分の妻となる女性 (母)をチラリと見ただけ。新妻の方は、顔を上げるのも、はしたなかった為、互いにハッキリ顔を見たのは、3日後だったと、笑いながら話して呉れたものである。いわんや2000年前の厳格な中国・儒教至上社会に於いては、君子 上流階層 の女性が人目に触れる事なぞ、絶対の禁忌タブーであった。※だから『魏氏春秋』と云う本にはこんなエピソードが載っている
許允の妻の阮氏は、賢明ではあるが醜かった。許允は初めて顔を見たとき愕然とし、婚礼が終わっても、2度と妻の部屋に入る気はしなかった』・・・まあ何とも御気の毒な事ではあるが、通常は此の様に、婚礼当日まで相手の女性の姿を見る事なぞ到底出来無かったと云う事である。但し此のエピソード本来の狙いは、決して阮氏と云う女性が究極のBUSであった事を天下に公表する為では無い。ーーその続き・・・・『新妻が小間使いに新夫の様子を覗わせると「桓と云う苗字の御客様が来て居られます」と報告した。妻は言った。「それはきっと桓範です。(夫が妻の)部屋に入るよう勧めて呉れるでしょう。」 すると予想通り、桓範は許允に部屋に入る事を勧めた。 やがて許允は部屋に入って来たが、来たかと思うやシマッタ!と思って直ぐ立ち上がった。するや新妻は、逃してなるものか!とばかりに、裾をムンズと掴んで彼を引き止めた。泡を喰った許允は、思わず振り返って反撃して言った。「妻には”4つの徳”が存在するが、お前は其のうち幾つを持っている!」阮氏も咄嗟に切り返す。「私に欠けているのは容貌だけです。男の方には”百の行ない”が存在しますが、貴方は其のうち幾つを御持ちですか?」許允はバッサリ「全部持っておる!」と答えた。するや新妻はグサリと言った。「男の方の百の行ないの内、徳が其の筆頭に位置します。貴方は色(美女)は御好きですが、徳は御好きではありません。どうして全部持っているなどと申せましょう。」「−−・・・・・」許允は恥じ入った様子を示し、彼女が非凡な女性である事を知った。かくて何時も仲良く尊敬しあう間柄となったのである。』

さて、その呉氏ーー父母を早く亡くした為、呉の地を去り、弟の【呉景ごけい】と共に、あの★★銭唐せんとうに移り暮らして居たのだ。さっそく人をって、妻にめとりたいと申し込んだ。・・・・処が、彼女の親戚一同は、強く反対した。
孫堅の軽薄デ抜ケ目ガ無イ人成ひととなりを嫌ったと云う。だが、この事は、当時の孫堅に対する、ごく一般的な評価と観てよいだろう。上には「呉の四姓」の名門一族達が居る。何の家柄も無く、ただ只管ひたすら、命を張って動き廻る彼は与太者★★★と観られていた事が判る。又胡乱うろんな私兵集団を創り始めた手腕は、抜け目無い奴と観られて居たのであった・・・・はっきり断わられはしないがその冷たい雰囲気は伝わって来る。孫堅は己がひどく侮辱されたと傷付き彼女の一族に恨みを抱き始めた。誇り高い若者には我慢ならぬ仕打ちと感じられたに違い無い。恐らく私兵集団を使い、嫌がらせや、脅迫まがいの事までしたのであろう。彼女の親族一同は、彼の逆恨みに困り果て、頭を抱え込んだ。
「可憐なお前には何のとがも無いが、それにしても エライモノ☆☆☆★★ に見込まれたものだ・・・・。」
だがそんな一族の苦悩に、彼女自身が答えを出した。
「なぜ1人の娘を惜しんで、わざわざ禍いを招いたりされるのですか。たとえ私が嫁入り先で不幸に成ったとしても▼▼▼▼▼▼▽▽▽▽、それは私の運命なのです。」ーー彼女自身、決して幸せに成れるとは思って居無かった 事が覗える。・・・・彼女自身が諦らめ、そう言うので一族もしぶしぶ孫堅の申し入れに応じた。彼女の家は特別な名家であった訳では無い。そんな相手にさえ尻込みされ、忌避された事実こそが孫堅の当時の社会的位置であった。謂わばヤクザの親分に嫁いでいく様な気持であったろう。彼女は悲愴な覚悟で家を出た。−−処が・・・・いざ嫁ついでみたら、そんな不安は一瞬にして吹き飛んだとにかく明るい。全てが活き活きとして、溌剌と輝いていた誰もが意欲に溢れ、希望に満ちて居る。男臭くて無骨な世界ではあったが、皆が皆、気のいい純粋な者達であったそして何よりも
〔−−おお・・・・!!〕 《ーーこのひととなら!!》 と、一目みて、互いが瞬時に、直感できた事であった・・・・
「俺は、お前を3国一の妻にしてみせる!!」その一言の中に、夫と成るべき孫堅文台の、愛の深さと強さを信じる事ができた。強い意志の顎と理智の額ガッシリとたくましい巨躯、そして遠くを見詰める様な、限り無く優しい眼差まなざし・・・・燃えたぎる様な情熱を抱きながら静かな男の優しさが伝わって来る・・・・・其れを、其の様に受け止め、瞬時に見極めた彼女も、大した器であると言う事だ。
相思相愛、鴛鴦おしどりカップルの誕生であった。
むさ苦しい取り巻きの猛者もさ達も、両手もろてを挙げて、自分の事の如くに喜んで居る。
「丸で”掃き溜めに”だな。天から舞い降りた天女様の様じゃ。」 「おい、俺達は掃き溜めか?そいつはチットきついぜ。 奥方様の美しさを例えるなら、『泥沼に蓮の花』って言うべきじゃ。我々の美しき女神様、守り神だぞ!」
「なんでえ、今度は泥沼かア?」
「ガハハハハ、どっちみち、奥方様に比べたら、俺らは土台、そんなもんさ。」
  
「まさに同感!せいぜい誉めて貰える様に、儂ら皆、張り切らねばな!」「それにしても美しいお方様じゃなあ〜・・!!お館様にピッタシだ。俺も早く、キレイな嫁サン貰いてえな〜。」
「それには先ず、立派な手柄を立てる事じゃ。」
「ああ、早くそうした活躍の場が欲しいもんだわい!」
その思いは、この孫堅集団の誰しもが抱く本音である。彼等は風雲を待つ、飽くまで戦闘集団なので在った。戦う事の中にのみ、その存在意義があり、その武功の中だけに、一人一人の将来も有るのだ。一見ぶっそうな連中であるが、此の当時、家柄も官位も無い大部分の志士達にとって、世に出てゆく方法は是れしか無かったのである・・・・。
いずれにせよ呉夫人】の存在は、今後の〔孫 呉 政権〕にとって、歴史の裏側で大きな役割を果たす事になる。それは単に「策」・「権」・「よく」・「きょう」・「朗」の男児を産んだと云うに留まらない夫・孫堅亡き後は、【母親】として、呉国の存亡に関わる大きな影響力を持ち、時に彼女の言葉は、国の命運を左右する程に、重いものと成るのである・・・・・。
翌年(175年)、呉夫人は、月が★★ふところに入った 夢と共に身籠り、長男【孫策を産んだ。
         
彼女の弟の呉景ごけいも直ちに孫堅軍に従軍し、騎都尉・督軍中郎将・揚武将軍と昇格、各郡太守を歴任するなど呉の建国に不可欠な人材と成っていく。
妻を得、長男を得た孫堅は、数年して除州・〔目于目台〕 県の丞に移り、更に下丕卩かひ(のち劉備と呂布が争奪する地)の丞へと移った。 故郷から500キロ、長江を遥かに北に渡ったが、より都に近い(中央政界に注目され易い)舞台にその駒を進め得たのである。この下丕卩で、呉夫人は太陽が★★★懐に入った夢と共に、
ニ男【孫権を産んだ。
あごガ張ッテ口ガ大キク、瞳にはキラキラした光ガ有ッタ。父・孫堅ハ其ノ赤児ノ風貌ヲ非常ニ喜ビ、高貴ナ位ニ昇ルそうダト考エタ。』
              −−『江表伝』(晋のシ専〕の撰)−−
長男・孫策が生れてから7年後の182年の事である。
太陽とは陰と陽との精髄で、最も貴いものの象徴だ!俺の子孫はきっと盛んに成るに違い無い!」
夫を歓ばせ、周囲にも家名を貴ばせようとする辺り、なかなかの才女であった。・・・・孫堅文台は、真に良き女性をもぎ取ったと言えよう。 そして結婚して10年、この時期が夫婦にとって、最も穏やかな日々であった。夫・孫堅は人々に慕われ、人望は更に厚くなり、知名度も少しずつ高まっていった。そして、この頃から孫堅は、それを不動のものとする為に、己の「権威付け」にも気を配る様になってゆく。すなわちーー
『自分は、孫子の兵法の孫武そんぶ末裔まつえいである!』と、勉めて宣伝・吹聴し始めるのであった。劉備が中山靖王ちゅうざんせいおうの末裔と称したのと全く同じたぐいのパフォーマンスである。利用出来るものは何でも利用する。無論、人々が、もしかしたら・・・と、思う程度の実力と環境が整って居なくてはならぬ。そして何より、本人自身が固くそう信じ込むことであった。・・・・念ずれば通ず・・・よくしたもので、やがて彼と其の子達の、今後の実績は、人々をして「それ」を信じさせるのである。・・・そして遂には、『正史』にまでも
孫武そんぶ末裔まつえいと記される事となってゆく。
−−・・・それから10年・・・・・
孫堅28歳と成った、184年 のみぎり・・・・曹操・劉備と同じく、この男にも、天下にデビューする一大チャンスが訪れる。黄巾こうきんの乱が勃発したのである!!
是れに対し漢の朝廷は、官軍を南北2方面軍に分け南部方面軍司令官に、車騎しゃき将軍の皇甫嵩こうほすうと、中郎将ちゅろうじょう朱儁しゅしゅんの2人を任命。潁川えいせん方面の黄巾軍の討伐に向かわせた。 (※北部方面司令官は魯植ろしょく) この時朱儁は、自分の配下の孫堅を、〔佐軍司馬さぐんしば=別動軍司令官〕の任に就けたいと上表し認められた。この10年の間に、孫堅の名は、既に中央官界にまで広く知られて居たと云う事である。また同時に朱儁が同郷の会稽かいけい郡の出身だったよしも、重大で、ラッキーな要素であった。(※同郷者は終生、兄弟・父子の間柄に準ずると見做された。) それを聞いた孫堅の部曲(私兵集団)の若者達は挙って従軍する事を熱望した。孫堅にしても、この日の為にこそ、彼等を養って来たのである。孫堅は更に出陣する迄の間、それ以上の兵力集めに奔走した。淮水や泗水あたりの精鋭兵士を募ったり、旅渡りの商人達にまで声を掛けて、出陣する迄には1000人程の兵力を持つ事が出来た。部曲だけの兵数では官軍に及ぶ迄も無かったが、ひとたび朱儁から官兵を預かるや、この私兵集団は彼の軍団の中核と成って凄まじい活躍を示した。
特に最長老の程普ていふの奮闘は、他の部将達の「伝」では省かれているにも拘らず、『正史』にきちんと記載されている。 (後述)
騎馬部隊を有効に使いこなし、孫子の「風林火山」を地でゆく様な機動攻撃で向ウ処、敵無シの戦いぶりであった。だが時には勝ちに乗じて深入りし過ぎ、汝南じょなんの賊と「西華せいか」の地で戦った折には、大苦戦となった。
兵卒は散り散りになり、孫堅の乗っていた青馬あしげだけが軍営に馳せ還って来た。主人の乗らない愛馬は脚で地面をかいていなないた将士達が馬に追いて行くと草叢くさむらの中に負傷して落馬した孫堅が血まみれで倒れていた。孫堅は軍営に連れ帰られたが、10日余りして傷が少し癒えるや、周囲の懸念も意に介さず、もう戦場に出張っていった。』ーー『正史・孫堅伝』−−
命賭けの瞬間、瞬間、そして日々であった事が、ゾッとする様な迫力で、我々に伝わって来る・・・・・。
《この功名のチャンスに寝込んでなど居られようか!》 と出撃して行くその背中が、問わず語りに、孫堅の生き様を示していた・・・・
都の東南方面に在った黄巾軍(地方軍)は、汝南じょなん潁川えいせんの地を追い立てられ、最後にはけい州北部のえんに立て籠もった。 「よし、我が武名を高め、嚇々かくかくたる武勲を挙げる絶好のチャンスだ!!」 言いざま、孫堅は城門の一方の攻撃に当たるや、降り注ぐ矢の雨をものともせず自らが真っ先に城壁をじ登り始めた己の命などがえんぜない、凄まじい胆力であった。
「我に続け〜い!賊の戦意は低いぞ!我が孫堅軍の恐ろしさを世に示せ〜!!」 命を張った、功名の鬼が居た。妻や子等の事も無く、ただ己を信じ、天命を背負って孫堅がゆく。
《此処で死ぬなら、それも天命!!俺はそれだけの男だったと云う事だ!俺には天が着いて居るのだ!!》 その一念が在る限り、この男に恐怖は無い。
「おお!我が殿に遅れるなあ〜!!」 是れを眼の当たりにした家臣団は、武者震いするや、続々と孫堅の後に追いて城壁に取り付いた。援護の弩弓が敵を圧して放たれる。−−するや孫堅は城壁を登り切り、早くも敵兵の中へと踊り込んでいた。
「見よ!我が殿が、宛城えんじょう一番乗りじゃ!!」
「おう、二番・三番も我ら譜代の手で果たすのだ!!」 やがて、孫堅軍の手によって、城門は内側から押し開かれ、ドッと全軍が突入した。・・・そして遂に、黄巾軍は大敗北したのであった。
この戦いぶりを『正史』(陳寿ちんじゅ)の筆で見てみよう。実に簡潔にして明瞭、《流石に漢字の国!》・・・・と、うならされる。
   堅身當一面。   堅ずから一面にたり、
   登城先入。     城に登り 先ず入る。
   衆乃蟻附。     衆 すなわち 蟻附ぎふす。
   遂大破之。     いに 大いに これを破る。
特に「蟻附」は、わずか2文字で、場面の全てを、余す処無く描き出して、驚嘆を禁じ得無い。そして17文字を以って、この宛城陥落戦を記し終えるのである・・・ 〈不要な文字は、一つたりとも用いはせぬぞ!!〉・・・・と謂う、史家の研ぎ澄まされた緊迫感が伝わって来る様で、身が引き締まる。

孫堅軍は尚も手を休めず、逃げ落ちる残敵を追求し続け、更に南のケ城(とうじょう)で、その主力軍を潰滅させてしまった!鬼神も欺くばかりの凄まじい戦いぶりであった。そして此の時の様子は、同郷の総司令官・朱儁の手によって詳細に上表された。その結果、孫堅文台は晴れて《別部司馬》の官=遊撃軍司令官へと昇進を果たした。文字通り、命をかせとして得た名声であった だが、この黄巾の大乱(詳細は第22節に既述)を契機に・・・・この184年、西の涼州でも大反乱が勃発した。(詳細は第32節に既述)
ーー異民族であるチベット系の「きょう族」と「てい族」が大同団結し、ヘッドに「辺章へんしょう」と【韓遂かんすい】を戴いて、隣接するよう州にまで侵入して来た。その雍州には漢朝の副都(前漢の帝都)・〔長安〕が在る。そして長安の西方には、漢王朝歴代皇帝の陵墓郡=園陵が在るのだった。反乱軍の常として、彼等は叛意を世に示す為に、しばしば「墓暴き」を行なう。朝廷とすれば、祖先の墓を荒らされたら恥辱この上ない。従って其れをガードする為にも軍を派遣する。この時、その防衛軍には黄巾討伐戦のエースだった「皇甫嵩こうほすう」と地元・涼州出身の「董卓とうたく」が当てられた。だが翌185年3月、数万騎の襲来を受けた皇甫嵩は惨敗し罷免される。8月、そこで朝廷は、新たに司空の「張温ちょうおん」を総司令官とし、その下に実戦指揮官として破虜はりょ将軍「董卓」と盪寇とうこう将軍「周慎しゅうしん」を置き10万を超える大軍を与えた。だが結局、この両将軍とも〔美陽びようの戦い〕・〔楡中ゆちゅうの戦い〕で敗れる。(第32節に詳述)堪り兼ねた張温は、ここで武勇が聞こえる「或る男」を上表し、自分の参謀として招聘しょうへいした。
−−誰あろう、【孫堅文台】その人であった・・・・!! もはや孫堅の武勇と軍略は、中央でも高く評価され、朝廷からも頼りとされるに至っていたのである。
186年(孫堅31歳)、彼は荊州長沙から勇躍して遥か800キロ西方の長安に出陣していった。ところが、到着して駐屯しても、なかなか作戦会議すら開けない。 ーー理由は・・・・・
〔董卓のサボタージュ〕、命令不服従にあった。総司令官の張温が、霊帝の詔書みことのりを以って董卓を召し寄せたのだが、董卓はグズグズと不平を漏らしては、一向に参陣しようとしないのであった。前年の〔美陽・楡中戦〕で敗走したとは言え、董卓は自軍兵力は
1兵も失う事なく、上手く(実は八百長で)やっていたにも拘らずであった。ーーどうも、この【董卓】と云う男・・・・何やら胸の奥底に、測り知れぬ「ドス黒い野望」を秘めて居るかの様である・・・・。

やっと姿を現わした董卓に対して、当然、張温はその遅参を叱責した。参謀の孫堅も同席して居る公式な軍議の場であった。だが当の董卓は、悪びれるどころか、張温に逆ネジを喰らわせる有様ーー『董卓ノ応対ハ不遜デアッタ』ーー熱血・孫堅が、是れを見逃し、許す筈が無い。然し、上司の面目を考慮する年齢に達していた孫堅 (31歳)は敢えて張温の頭越しに、直接董卓をどやし付ける事はせず、スックと立ち上がるや、ツカツカッと張温の隣へ歩み出ると、その司令長官に耳打ちした。もしあと2、3年も若ければ真っ向う切って董卓を面詰・面罵していたであろうか?
董卓めは罪を恐れず、威張り腐ってデカイ口を利いて居りますお召しに対して直ぐ様やって来なかったと云う罪で、軍法を発動して、奴を叩ッ斬るべきです!」 声は抑えられたものであったが〈俺が司令官なら、絶対そうする!〉 と云う気概が籠っていた。
「・・・・そうは思うが、董卓はかねてより、隴から蜀一帯で威名を顕して居り、いま彼を殺すと、西に軍を進めるのに拠り所を失う事になる。」  異民族の鎮圧を第一義の任務とする総司令官の立場からすれば、張温の言う事にも真実は有った。西州(雍州西部・臨挑県)出身の董卓には、確かにそれだけの力は在った。だが孫堅には、その事情を差し引いても、そうは思えない。
明公あなたさまは親しく天子の軍を率いられ、御威声は天下を震わせて居ります。」 と、先ずは上司に自信を持たせる。
「何で董卓如きを頼りにされる必要が御座いましょう。董卓の申し分は、明公さまをないがしろにしたものである事、明々白々で御座います。上に立つ者を軽視して無礼な振る舞いをした。是れが、奴を斬るべき第1の罪です!辺章と韓遂が長年に渡って勝手な振る舞いをして居りますが、当初すぐさま軍を進めて討伐すべきであったのです。然るに董卓は、未だ其の時期では無いと言い逃れ、軍事行動を妨害し、人々の心を動揺させました。是れが第2の罪ですぞ!董卓は任務を授かりながら(手抜きをして自軍兵力を温存するだけで)何の手柄も立てず、お召しを受けてもグズグズして応ぜず、然も思い高ぶって自ずからを尊しとして居ります。是れが第3の罪です!いにしえの名将達が将軍のしるしのまさかりを執って、軍隊の指揮に当たった時、罪有る者をキッパリと斬り捨て、その威を示さなかった者は御座いません。さればこそ司馬穣苴じょうしょ荘賈そうかを斬り、魏降ぎこう楊干ようかんを罰したので御座います。今、明公あなたさまが董卓の下手に出て、直ちに誅伐を加えられなければ、刑罰の厳格さは此の事から失われてしまいますぞ!」

「−−・・・・。」 だが、張温は、其れを聴いても、手を下す決心が着かず、未だ迷った。・・・・実は、この張温・・・・何を隠そう、司空の座を1千万銭で買って得て居た人物(銅臭大臣=金権政治家)であったのだ。叩き上げ・筋金入りの孫堅とは性根が違う。そして結局、不遜ではあるが、現実の戦いとなれば、董卓の軍事力は捨て難いと結論した。《ここで内輪揉めして居る場合ではあるまいこの儂さえ我慢すれば。》
「−−お前はひと先ず、退き下がるように。董卓に疑念を持たれてはならない。あんな奴でも使い道は有ろう・・・・。」
「−−・・・・!!」 孫堅は、上官のその様子に、これ以上の無理押しの無駄を悟り、已むを得ず、董卓をギラリと一睨みすると、踵を返して退出した。−−だが後にして思えば・・・この時の張温の優柔不断さは、返す返すも無念な処置であった。何故なら、処断を免れた董卓は、この3年後、天下を揺るがすトンデモナイ事態を惹起じゃっきする。また、張温自身も董卓の手によって、むちで叩き殺される結果となっていく・・・・。まさか、そんな凄まじい事に成ろうとは、坊ちゃん育ちの張温には、予見し得よう筈も無かった。
−−思えば、既にして此の時、
孫堅VS董卓不倶戴天ふぐたいてんの宿敵と成るべき、免れ得無い因縁いんねんかもし出されていくのであった・・・・・
処で実際の戦闘の方だがーー10数万の大軍勢となった朝廷軍の威容を知るや、韓遂と辺章は仲間割れし、夫れ夫れに降伏を申し入れて来た。あっけない幕切れと成ったが、兎に角ひとまず反乱は鎮静したのであった。軍は洛陽へと凱旋し、(董卓はそのまま出身地・根拠地に居残ったが)論功行賞が行われた。
だが、軍は未だ実際に敵と戦った訳では無いのだから・・・・と云うセコイ意見が通り、軍功の認定や恩賞については沙汰止みと成ってしまった。但し、孫堅が董卓の3つの罪状を挙げ、張温に彼を斬るよう進言した事は、朝廷内でも高く評価された。ーーと云う事は、この頃から既に、董卓と云う男は【危険人物】と見做されて居た事になる。故を以って孫堅は議郎〕の官を授けられた。名目的には〔朝政に参与する〕と云う大光栄を手にしたのである!そして何時しか人々は、孫堅を称して、江東の虎!】と呼ぶ様に成ってゆくのであった。これも亦、この男に相応しい、男の勲章であった。
その「江東の虎」の勢いは、未だ未だ是れからが本番である。翌187年32歳の時には、遂に、一国一城の主と成る。けいの地に領地を得たのである。朝廷から正式に
長沙ちょうさ郡太守に任命されたのだ
この「長沙」は 郡とは言え、南北350キロ(日本の九州 の長さ)、東西200余キロに及び、郡の北辺の長江には【赤壁】の地をも含んでいた。大出世である!※曹操も袁紹も、未だ朝廷内ではペイペイの時期であった。劉備に至っては、県単位の官吏を転々として居るに過ぎない。この大昇進のキッカケも亦如何にも〔武勇一途〕の孫堅らしい、或る一事に由来していた。
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荊州南部、長江中流を北辺とする長沙郡で、「区星おうせい」なる男が勝手に将軍を名乗り、1万を超える人数を集めて町々や役所を襲い、反乱を起こしたのである。そこで、是れを鎮圧する為に、朝廷は都に居た孫堅を指名派遣したのであった。−−広大な中国大陸を西へ東へ、そして又南へと、孫堅文台は、この2年間だけで3千数百キロ・・・・日本列島が2千キロだと想えば、何ともタフなスタミナ・野心の泉である!!
孫堅が長沙に着くや、郡内は忽ちにして彼の威名を畏怖し、多くの者達が服従・帰順を申し出て来た。その中から有能な役人を見極めて任用する一方、自ずから将士を率いて戦う事を止め無かった。軍事・治世ともに様々な計略を用いた結果、1ヵ月もしない間に、区星の反乱は鎮圧されてしまった。
中でも黄蓋こうがいは、この時から山越さんえつと呼ばれる不服従の先住民族対策に、抜群の有能さを示した。(是れが後年、大いに役立つ)
この時・・・長沙郡に隣接する零陵郡・桂陽郡でも、周朝しゅうちょう郭石かくせき区星おうせいと呼応して反乱を起こして居た。孫堅は此の際、郡境を無視して管轄外の、これらの郡も平定してしまおうとした。折しも宜者県の県令から救援依頼の使者がやって来ていた。だが此の時、「主簿」が役人根性から越権行為を恐れて中止を進言して来た。
「管轄外のヨソ様の事件に首を突っ込んで、ヤケドでもしたら、元も子も無くなりますぞ。ここは見て見ぬ振りを為されるのが賢明な方法と申せましょうな!」
それに対して孫堅が発した答え・・・・
太守わたしには何の文徳も無く、ただ征伐に拠って功績を立てて来たのだ。郡界を越えて討伐を行ない、よその土地の危機を救ってやり、その事で、境界を越えて軍を動かしたと云う罪を得たとしても天下の人々に、何の恥る処が在ろう!」
《−−自分には何の文徳も無い。ただ武勇に拠ってのみ、世に認められて来た・・・・》ここに、いみじくも、孫堅集団の社会的立場と切無いが雄雄しい自負心が吐露されている・・・・。孫堅はそう言うと、郡境を越えて討伐に赴いた。賊徒達はそれを聞くや逃亡してしまい3つの郡は、全て平穏と成った。朝廷は、孫堅の是れ迄の様々な功績を認めて、彼を烏亭侯うていこうほうじた。(烏亭は故郷、揚州・呉郡に在る太湖の南岸の地である。)ついに孫堅文台は爵位を身に帯び貴族の端くれに列せられたのだ純粋で無骨一辺倒の孫堅は、感涙に噎んで居た・・・・かも知れ無い。 が、丁度この時、漢朝最高の官位である『太尉』を、1億銭で買い取って就任した男も居たのだ。又、それを売った皇帝が居たのだった。孫堅が烈忠を誓い、尊崇する後漢王朝は、既にして狂い始めていたのである。

ーーそして、188年・・・・うち続く反乱・失政に対し、
《戦乱が都を襲い、宮城が血に染まる》と、云う不吉な噂が、洛陽周辺に広まっていった。
−−翌189年4月後漢王朝の都「洛陽」で12代皇帝【霊帝】が34歳の若さで死去した。奇しくも孫堅と同じ歳であった此の皇帝が死ぬや、あの噂さは現実のものと成っていくのであった。
ついに【世紀の大魔王】が、此の世に姿を現わしたのである! 破壊と殺戮と略奪と強姦と・・・・ありとあらゆる恐怖と残虐を人々の心に植え付け、平然として悪業の限りを尽くす男が、天下を制し、人々の生死を牛耳る時がやって来る・・・!

ー−−そして、その大魔王の
         唯一の天敵と成るのが・・・・この、

 江東孫堅文台であった
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