第57節
なりそこねた男

                                   



「ワハハハ、こいつはいい!これはいいぞ。ほれ、お前達も読んでみよ。アハハハ、可笑しくて腹がよじれるわ。是れを見た曹操め、 どんな顔をするか、 想っただけで愉快じゃわい。うん、うん、ほう〜、成る程なあ・・・・。
けだし、是れは名文じゃ!!ア〜ハハハハ・・・・・」
記室きしつ(書記官・祐筆ゆうひつ)
陳琳ちんりんの手による、あの★★檄文げきぶん<が、兎域ういき(中国)全土に飛ばされた。
           (※全文は第17節に記載。此処では、最も有名な一部だけを再抽出)
司空・曹操の祖父曹騰そうとうもと中常侍ちゅうじょうじ(宦官かんがん)であったが他の宦官どもと災いを引き起こし、貪婪どんらんな行いは思いのまま、徳をそこない民衆を痛めつけた。父の曹嵩そうすう乞食こじきであったが、曹騰に引き取られて養われ、賄賂わいろによって官位を買い取り、きんや宝玉を運んで権力者に財貨を贈り、三公さんこうの位を盗み取り、天下の政治を破滅させた。
曹操ハ贅閹ぜいえん遺醜いしゅうニシテ、もとヨリ令徳れいとく無ク、漂狡鋒侠ひょうこうほうきょう、乱ヲ好ミわざわいヲ楽シム。鷹犬ようけんノ才、爪牙そうが任ズベシ。愚佻短慮ぐちょうたんりょ、軽ク進ミやすク退キ、傷痍折衂しょういせつじくシテ数々しばしば師徒ヲうしなウ。資ニ乗ジテ跋扈ばっこシ、ほしいままニ酷烈ヲ行イ、元元げんげん割剥かっぱくシ、賢ヲそこなイ善ヲ害ス。こころざしほしいままニシおこないもっぱらニシ、威モテ省禁しょうきんおびやかシ、王僚おうりょう卑侮ひぶシ、法ヲやぶヲ乱シ、座シナガラ三台さんだいシ、朝政ヲ専制シ、爵賞しゃくしょう心ニリ、刑戮口けいりつくちニ在リ。 愛スル所ナラバ五宗ごそうかがやカシ、うらム所ハ三族さんぞくヲ滅ス・・・・・

−−ところが、処がである・・・・曹操の事を笑っては居られない様な大失態を、ここで、袁紹自身が仕出かすのであった。あの早期決戦】か!【長期持久戦】か!の大激論の直後・・・・
袁紹幕府内では重臣間で、トンデモナイ策謀が、密かに、陰険な形で発生して居たのである。公式の軍議の場での意見対立だけなら許されもしようが、それを個人の栄達・己の昇進を目的とする政争の具に用いんとする暗躍が始められたのであった。
その呼び水・引き金となったのは・・・・袁紹が採用して来ていた
監軍かんぐんと云う、軍政機構そのものであった。 旗挙げ以来『沮授』が就任して居る【監軍】とは・・・のち曹操や諸葛亮が採用就任する丞相じょうそうに匹敵する独裁官=デクタトールであった。軍事は無論の事、内政・外交は言うに及ばず、経済から人事・裁判権まで、全ての分野を直接統括する、強大な権限を付与委任されている。その最大のメリットは・・・・昨今の如き「乱世」に於いては緊急事態に即応出来、巨大化した組織全体を臨機に応変させ得る点にあった。事実袁紹は〔監軍・沮授〕の辣腕らつわんのお陰に拠って、鳴かず飛ばずの弱小地域勢力から、わずか10年間で、一挙に河朔の覇者に迄伸し上がって来て居たのであった。それだけ「沮授」に対する「袁紹の信任」が、厚く深いものであり、また沮授と云う人物が超一流であった・・・・と、謂う事である。
だが、その一方、あとから参入して来た猛者達つわものたち(胸に己の才能を秘める自信家たち=重臣・名士達)にしてみれば・・・上に「沮授」が居る限り、「監軍制」が存続する限り、自分達に出番は廻って来ない。この儘では、何時まで経っても大きな栄達のチャンスは巡って来無い。《こりゃあ、正面突破は無理だな・・・やはり裏から君主を動かすしかあるまい・・・》  そう考えた代表が、
郭図かくとであった。以後、彼の才知はもっぱら〔沮授追い落とし〕の為だけに使われいった。そして編み出されたのが・・・・君主としての袁紹が、内心いつも恐れ危惧している唯一の泣き所を殊更に刺激して、不安を煽り立てる作戦に出たーー即ち・・・どの群雄にも、いや、人類史上に於けるどんな王者・国王・皇帝にも付きまとって来た、永遠の課題・・・・権力の頂点に在る者なら、全てにに与えられる避けられぬ宿痾しゅくあ・宿命・・・・・・
有能であるが故に、巨大な実力を与えてしまった重臣』に対する君主権の絶対の保持ーーいては、 彼への処置・処遇・・・・彼に活躍して貰わねば立ち行かぬが、さりとて、主君に対抗し得る程の実力を持たれては困る・・・・有史以来、洋の東西を問わず、連綿として繰り返される「権力劇」ではある。
そこで「郭図」は、君主権の確立と云う、袁紹にとっては最も魅惑的な誘い水を織り交ぜながら、お為ごかしに進言(讒言)した。無論、公式の場ではなく、個人的な2人だけのシュチュエーションを設定した上の事であった。
「沮授は政治と軍事の両方ともを監督統御とうぎょし、今や、その権威は全軍に轟いて居ります。もしも次第に力を着けて来た場合、どうやって彼を制圧するのですか!?そもそも、臣下と君主の権限が同等で無い国は栄え、主君と臣下の権限が同等である国は滅亡します。是れこそ黄石公おうせきこういましめる処です!大体、外部で軍隊を統御する者を、内政にまで関与させるべきではありませぬ!」

主君思いの進言の格好を採っては居るが、その裏には個人的な対立が潜んで居る。ーー言われた袁紹・・・・・〔君主権の強化〕を家臣の方から申し出て来たのだから、こんなうまい話は無い。勿怪もっけの幸いとばかりに、直ちに《監軍》の権限を分散縮小してしまった
そして其の代わりに、その巨大な権限を分割し、新たに
3監軍制とし、郭図★★★淳于瓊じゅんうけい・そして流石に沮授そじゅも残し、夫れ夫れに、1つの軍団を司令させる事としたのである。
 かくて『郭図』は、その目的通り、「沮授」を引き摺り下ろす事にほぼ成功し、これで一件落着・・・・・かと思いきや、今度は御多聞に漏れず、重臣間での派閥抗争が、暗躍横行し始めるのであった。勢いづいた郭図かくとに対抗し、「田豊」追い落としに成功していた逢紀ほうきが、巻き返しを図ってメンバーの取り込みに躍起となってゆく。例えば、こんな具合であった・・・・

軍監の『審配しんぱい』が、或る者から讒訴ざんそされた一件について、袁紹が逢紀に相談して来た。 (それにしても何と讒言の多い事か。そうした風潮を頑として抑止する威令が、袁紹には欠けていた証左であろう)
「審配は天性激烈にして率直そっちょく古武士こぶしの如き節操を持って居ります。彼を疑うのは宜しくありませぬな。」
「儂は元よりそう思って居るのだが、君は彼を憎んで居たのでは無いのか?」
「先日、争ったのは個人的感情に因るもの。今、申し上げているのは国家の事です。」
抜けしゃあしゃあと、よくも言ったものである。であるが、このお陰で「審配」の首はつながり、以後両者は急接近して居た。のち、この〔逢紀・審配派〕は長男擁立に動き、〔郭図・辛評派〕と対立抗争し、袁氏の滅亡を早める事と成っていく・・・・決戦を目前にして何とも寒々しい、殺伐とした袁紹幕府内の実態ではある・・・・・
尚、この派閥の領袖達のゆく末については、第12〜15節で既述した如く、最期まで命を賭して袁家に殉じたのは、この中の、たった1人だけである。
ーーさて・・・事の経緯いきさつから推して、袁紹は家臣団の 内輪めを識りつつ、それを制止しようともせず、逆にあおる形で、重臣の権限を分散縮小する事に成功したのである。
 だが果たして・・・・今この時期に★★★★★、この大改革を断行した事が、必ずしも好結果を産むかどうかははなはだ疑問と言わざるを得まい何しろ、此処まで順調に袁紹が国力を急発展させて来れたのは「監軍制」の賜物たまものであり、ひとえに「沮授」の才腕に拠る処が大きかったのである。但し袁紹は全面的には、そう思っては居無い。大体、人と云うものは、どんなに謙虚な人物でも、こと己の評価に関しては、買い被りすぎる傾向に有るものだ。まあ、世間一般の評価は、「自己評価の10分の1程度」と覚悟して居るのが、無難であろう。・・・・とは言え、覇者・覇王と呼ばれる様な人間には、それは無理な注文と云うものであろう。 50歳にも成った袁紹には当然、彼なりの矜持きょうじも在り、また確固とした自信も形成されて居た。故に袁紹は、倣岸不遜ごうがんふそんとしてでは無く、王者の咆哮ほうこうとしてうそぶく。「もう、いい。あとは全て、この儂独りの力で、やっていって見せる!!」 【河朔かさく覇者はしゃたる自信と自負の表明でもあった、と言えよう。ーー但し・・・・袁紹の心の底に、沮授個人に対する疑心暗鬼が在ったとしたなら、袁紹の「総帥としての器」も、それだけのものだった・・・・と謂われよう。
それにしても、全てが受身である。袁紹本人が強烈な指導力を発揮して、廻りに有無を言わせず断行した結果では無い。「田豊」に対する処分にしても、この「沮授」に対する処遇・処置にしても、こんな重大問題がことごとく、家臣からの進言(讒言ざんげん)に由来している。ーー・・・・此処に後世、『袁紹は家臣(名士)の言う事を聴き過ぎた』だの、『家臣の言に振り廻された』だのの、人物評価の所以ゆえんが存在しても居ようか・・・・と、以上、我々は袁紹本初マイナス面ばかり を見て来た・・・・だが実はーー袁紹は、曹操よりもズッと早くから(軍師・参謀達の意見を聴く立場に成る以前から)既に、確固たる天下統一構想を懐いて居たのである
《ーー俺は、光武帝の道をゆく!!と。
         
正史は『武帝紀(曹操伝)にさりげなく若き日の両雄を描いている。
其ノ昔、袁紹ガ公(曹操)ト共ニ兵ヲ挙ゲタ時、袁紹ハ公ニたずネタ。「もし、この旗挙げに失敗した場合、君は何処に割拠する心算かね?」  「・・・・貴方あなたの考えは、何うなのですか?」
わしは、南は黄河、北はえんだいを頼みとし、戎狄じゅうてき(北方民族)の 軍勢を合わせ、南進して天下を争う・・・・是れで大旨、成功すると思っているのだが。」
「私は、天下の智者・勇者に任せ、道義を以って、彼等を統御していく心算です。上手くいかない事は無いだろうと、思って居ます。」

『正史』の記述の狙いは、若き【曹操の名君的姿勢】を讃美する為であるがーー図らずも・・・・両者の、
具体的な将来展望の有無〕の違いが、クッキリと露呈されている。具体的な戦略を示せない曹操に対して袁紹の方はこの時点で既に、明確な基本構想を抱いて居た事が、うかがい知れる。そして、此の、袁紹が描く
河朔かさくの平定〕→〔河南進攻〕→(残敵一掃) →〔天下統一・・・と云う3段構えのシナリオは、今から200年前に光武帝・劉秀が、後漢王朝を成立させたストーリーと正に軌軸きじくいつにするものであったのだそして其れは、『董卓とうたく』とたもとを分かって旗挙げして以来、一貫して揺らぐ事無く、着実に実現されて来ていたのである具体的には其の第1段階として
渤海ぼっかい挙兵〕→ぼく奪取公孫讃こうそんさん討滅・ 〔黒山賊こくざんぞく(南匈奴きょうど族)宥和ゆうわ〕・・・・が、果たされて来ていた。ーーそして今は正に、第2段階の〔河南進攻期〕なのである。 だから、光武帝の故事を基本ベースに立つ袁紹は、家臣団からの持久戦案も、奇襲攻撃や奇策も、頑として受け入れず、ただ己の定めたスケジュール通りに、堂々と事を推し進めて居たのである
そうした〔覇者たる者の自信の裏返し〕・・・と観れば、彼・袁紹の一連の態度にもうなづける点が多くなる。 後世の史家の多くは、『袁紹にはビジョンが欠落していた』として、落第点をつけるが、それは結果論的指摘してきと云うものであり、〔敗者ゆえに〕差し引かれてしまう矮小わいしょう化であろう。確かに『袁紹本初』には縷々るる、欠陥も在るが、だからと言って、全てに渡って【暗愚であった】、と してしまうのは、本書・『三国統一志』の致す処では無い。

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V Sバーサス 曹操戦の 《作戦要領》 も決定された。
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袁氏・全版図の総兵力は、およそ50万そのうち、本拠地の業城などの主要都市には、予備兵力を待機させ、
南征軍の主力は精鋭歩兵10万義従ぎじゅう(公孫讃が保有していた騎馬軍団)を含めた騎兵1万とする。これを3軍団に編成し、沮授そじゅ郭図かくと淳于瓊じゅんうけいの「三監軍」の統帥下に置く。軍師(参謀)には、荀ェじゅんしん許攸きょゆうらを以ってし諸軍指揮の将軍には、顔良がんりょう文醜ぶんしゅう張合卩ちょうごう高覧こうらんらが当たる。業卩城の守備と後方からの支援(留知後事りゅうちごじ)には、審配しんぱい逢紀ほうきを以ってす。
総帥・袁紹自身の発軍は春2月。それ以前に3軍は各個、黎陽れいように集結を完了。袁紹の到着を待って黄河を渡河し、敵・官渡城を包囲殲滅した上【許都】へ進軍。献帝を迎奉する・・・・。
 ーー密偵が飛んだ。
袁紹ハ、南征ヲ決定シタ模様!全軍、俄ニ動キ急ナリ。兵力ハ凡ソ20万前後。ウチ騎兵ハ1万。発軍のXデーは来春(1月〜3月)ナルカ?》
ーー曹操、既に199年8月、『于禁』を黄河南岸にへばり就け(駐屯)させて居る。また9月には兵を分けて官渡に入城させていた。12月、急報に接した曹操〔許都〕を『荀ケ』に任せると、いよいよ自ずから【官渡】の城砦に着陣し、臨戦の態勢に入った。・・・・だが、袁軍動く!」の報を知った曹操陣営の諸将は皆、内心、《とても敵対など出来ぬ!!》 と蒼ざめた居たのであった。その証拠に、実は密かに・・・・『その時はよしなに!』とか『折を見て裏切りましょう』だの、『必ず寝返りますから、その後は宜しく』と謂った物騒極まりない、極秘の誓約書が、袁紹の手文庫の中には山と積まれ、届いて居たのである
《エッ!あの男までもが!?》と、曹操が眼の玉ひんいて腰を抜かす様な、錚錚そうそうたる顔ぶれが書いた物である。二股膏薬ふたまたこうやくを張った・・・と言うより、当時、君臣間に存在した『暗黙の了解』と云うやつで、言ってみれば、命の遣り取りを生業なりわいとする武士階級の、一種の生命保険の如きもので、まあ、いざとなれば誰しもが使う「手」ではあったーーとは言え、これだけの数が集まっていると云う事は・・・・如何に客観情勢・現実的状況が、袁氏大勝利
曹氏必敗 と観られていたかが知れると云う事だ。 そしてもし、決戦場で曹操軍が破断界を迎える様な局面が生ずれば、この密約は一挙にナダレを打って現実と化すであろう・・・・。敵は10余万!しかも其の数倍の予備を温存して居る。それに対して曹操軍は2・3万。(官渡の兵力は1万とする説すらある。)
桶狭間おけはざまに於ける『織田信長おだのぶなが』以上の大ピンチ・絶体絶命ぶりである。−−ちなみに・・・・「信長」は、生涯に渡り、
曹操を己の手本・生き抜く為の指標として居た!
と云うのが、筆者の持論である。ーー見た眼より合理・・・・腰縄にどっさり小袋をブラ下げ、訳の判らぬ雑多な小間物を肌身に着ける異様な姿と言い、人使いと言い、無神論と言い、既成権威への挑戦的姿勢、唯我独尊の強烈な個性、戦術・戦略と言い、そして飽くなき野望への執念と言い、何から何迄である・・・・。
信長は、曹操の小型日本版と、観ている訳である。すなわち、信長は『三国志』を愛読吟味し、「大うつけ」時代以来、生涯に渡って座右の書として居た。
信長こそは、真の三国志愛読者であり、その実践者】であったのだ!!信長のエピソードで、三国志に当て嵌まらぬモノは何も無い!・・・・とさえ断言出来るのである。
少なくとも、『信長公記しんちょうこうき』を著した「太田おおた(和泉守いずみのかみ)牛一ぎゅういち」は、「正史・三国志」を熟知して居た上で、信長の伝記を著した事だけは間違い無い。密かに日本版・陳寿を目指していたかも知れぬ・・・・
−−さて曹操・・・・
そんな諸将・家臣達の動きなど先刻承知、知らんぷりを決め込んで、至って意気軒昂である。
儂は、袁紹の人物をよ〜く識っておる。・・・・と、全将会同の席で、曹操は自信たっぷり、部下達に言い切って見せる。  ーー以下 『正史』−−
奴(袁紹)はこころざしは大きいとも言えるが、智恵は小さく、顔付はいかめしいがきもは細く、人をねたんで上に出ようとするばかりで、威厳に欠けている。兵数は多いが、ケジメが着いておらず、将が威張りたくっている上に、政治上の命令に一貫性が無い。土地は広く、糧食は豊かでも正に儂への捧げものと成るだけの事じゃわい!」 部下達を安心させようとする「演義」では無く、「本気」でそう思って居る。故にこそ、だから一段と、その発言にリアリテイと説得力が籠って居る。恐るべきハッタリ精神、開き直りである。
〈何とか成るさ、いや何とかして見せる!!〉
真底、腹を括って居る者の強みなのか?それとも・・・・・

曹操、袁紹、両者どう思おうと、否応も無く時は刻々と【その時】に向かって迫っていた。
ーー時に建安5年、西暦200年・・・・

ついに「」・「」両者はその存亡を賭け、

黄河北岸・官渡】で激突する
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