第56節
生涯、笑わぬ賢者
                                    


覇権を賭けて激突する英雄達が脚光を浴びている此の時期は、全国に散在して居る一級人士策士名士達にとっても、己の一生を左右する重大な主君選びの求職期間でもあった !
当然、覇者ナンバーワン候補に伸し上がって来た
袁紹の 元へは、自薦・他薦の猛者たちが続々と集まって来た。その、人的潮流の様は、恰も綺羅 星の如くであった。特に、袁紹が 冀州牧に成った頃には、彼の求心力は凄まじく、あまたの小惑星が巨大なブラックホールに吸い寄せられてゆく・・・・かの観であった。 
そんな中ーー実は・・・・今や曹操陣営の中枢参謀に納まり、その屋台骨を支えて居る、あの★★
荀ケじゅんいく郭嘉かくか も此の時、袁紹の元へリクルートして居たのである !!
荀ケじゅんいくの本籍地は潁川えいせん(許が郡都)であるが
・・・・(中略)・・・・荀ケだけが一族を引き連れて冀州へ向かった。折しも冀州は既に袁紹が韓馥かんぷくの官位(冀州牧)を奪い取ってしまっていたが、袁紹は荀ケを上賓じょうひんの礼によって待遇した荀ケの弟の「荀ェじゅんしん」及び同郡出身の「辛評しんぴょう」「郭図かくと」は、みな袁紹の任用を受けたが、荀ケは、袁紹が結局は、大事業を成し遂げる事が出来無い人物だと判断した。その当時、太祖(曹操)は奮武将軍として「東郡とうぐん=郡都・濮陽ぼくよう」に居た(2級の群雄に過ぎなかった)のであったが初平2年(191年)荀ケは袁紹の元を去って、太祖に身を寄せた。太祖は大喜びして「儂の子房しぼう(前漢高祖の軍師・張良)である!」と言い彼を司馬に任命した。この時、荀ケは29歳だった。
郭嘉かくか潁川えいせん郡陽擢ようてき県の人である。最初、北方に行って袁紹に会ったが、その時、袁紹の謀臣である辛評と郭図に向かって言った。
「そもそも知恵者は、主君の人物をハッキリ判断するもの です。
だからこそ全ての行為は安全確実で功業名誉を打ち立てられるのです。袁公はいたずらに士人におもねった周公の態度を真似なさろうとして居られますが、人物を使う機微について御存知ではありません。色々とおやりになりながら肝心な所が疎かな事が多く、策略好きながら決断が御座居ません。協力して天下の大難を救い覇者・王者の事業を取り治めようと思いましても難しい事です

その結果、結局そこを立ち去った(中略)荀ケは郭嘉を推薦した太祖は召し出して天下の事を議論した。そして太祖は言った。
「予に大事を完成させて呉れるのは、間違い無く此の男じゃ!」
郭嘉も退出すると喜んで言った。「まことに儂の主君じゃ!」
太祖は上表して司空軍祭酒ぐんさいしゅ(参謀)に採り立てた。


                                

とは言え、袁紹陣営には、未だ未だ一流人士は、掃いて捨てる程に居た。
沮授そじゅ田豊でんぽうの老成した賢者を筆頭に逢紀ほうき荀ェじゅんしん許攸きょゆう辛評しんぴょう郭図かくと審配しんぱい淳于瓊じゅんうけいそして陳琳ちんりんなどなどetc、etc・・・・
ーーだが、今から
4年前の196年、その「参謀達の意見」が、真っ2つに割れると云う事態が発生した。所謂献帝の東帰行とうきこうと云う異常事態ーー長安を脱出したものの、洛陽には辿り着けず、丸1年間に渡り、黄河の北方を彷徨い歩く・・・・と云う事態が生じていたのである。そして、その献帝奉戴ほうたいの是非を巡って、袁紹陣営内では、一大論議が湧き起こったのであった。時あたかも、曹操陣営でも、この〔献帝奉戴問題〕が、全く同じ様に検討されようとしている頃であった。
沮授そじゅは言う。「殿は歴代朝廷を補佐され、代々忠義を尽くして居いでです。現在、朝廷は都を離れて流浪され、宗廟は破壊されて居ります。諸州諸郡の様子を観察しますと、表向きは義兵を挙げると謂う名目を立てて居ますが内実は互いに亡ぼし合う事を計画し、朝廷を安んじ参らせ、民衆を慈しむ者は誰も未まだ居りません。その上、我が陣営は現在、州郡はほぼ安定いたしました故、献帝の御車をお迎えし、業に宮殿を建てて都とし、献帝を擁して諸侯に号令を掛け、戦士や戦馬を養って入朝しない者を討伐されたならば、誰がこれを防ぎ得ましょうか。」
袁紹は喜び、この計に従おうとした。ーーすると・・・・
郭図かくと淳于瓊じゅんうけいとが反論した。
「漢王朝は衰退し始めてから、既に長い時間が経っております。今、再興させようとしても、困難な事ではないでしょうか。その上、今や英雄が州や郡を支配し、その軍勢は場合によっては五ケタの数に昇りまして、『
秦がその鹿を取り逃がし、先に捕まえた者が王と成る』と謂う格言に当てはまります。もし帝をお迎えして、此方こちらから接近し、1つ1つの行動について上聞(返答を仰ぐ事を)するならば帝意に従う時は、此方の権力を弱める事となり、背むく時は勅命を拒否した事になってしまいます。良策ではありませんな」 それに対して亦、田豊でんぽうは「沮授」を支持する。 「いま朝廷をお迎えするのは最高の正義であり、又時宜に叶った大いなる計画です。もし速やかに実行に移されなければ、必ずや先手を打つ者が在るでしょう。そもそも臨機の策は機会を逃さぬ事に、功業の樹立は敏速さに成功が掛かっているのです。殿は直ちに手を打たれますように!」
−−どちらの見解を採用すべきか・・・・?
両論とも正しい。何処かの国の諮問しもん委員会が、常套じょうとう手段として、当たりさわりのない「両論併記」で答申してよこした様なものだ。果たして、コレ亦、何処かの国の政治家の如く、踟厨逡巡ちちゅうしゅんじゅんすれば、だいたい安全策の「現状維持」につながるものだ。そのうえ袁紹は、反董卓連合の盟主とされた時、その瓦解作用を防ぎ、己の権威を高める為に【新帝擁立】(劉虞)を推し進めて来た経緯もあった。その面子めんつに拘わり、結局、袁紹は思い切った方針転換が出来ず、沮授・田豊の臨機の策を採用する決断が着かぬ儘、只グズグズと無為の裡に時を費やしてしまうのだった

ところが、沮授の危惧した通り、
この年196年(建安元年) の8月、袁紹より先に曹操が、献帝を奉戴してしまったのである!ーー結果・・・・曹操は、フリーハンドで人事の任免権を行使できるように成った。モタモタしている間に、出し抜かれたのである・・・・。そして早速、皇帝奉戴者の特権として、是れ見よがしに、格上の袁紹に対し、 太尉=総理大臣職の官位を授けて来た★★★★★のであった!
「小生意気な奴め!曹操は死ぬ様な目に何度も遭った。儂は其の度に奴を助けてやったのだ。今になって其の恩に背き、帝を擁して・・・儂に命令するとは何事じゃ!」
確かに、〔
奔走の友〕の会以来、袁紹は、曹操の庇護者を自任し★★★彼を属将の一人★★☆☆☆として支援してやった時期も長かったのだ。だから今も、曹操を格下と見下す気持は強いし、事実、その軍事力も経済力も、その領有する版図も、10倍どころではない圧倒的な実力を保有して居たのである。それでも袁紹は「河朔かさくの覇王たる風格」を装い、グッと己を抑制しつつ使者に尋ねた。
「奴の官位は何だ?」  「−−・・・・・。」 「早く申せ!」  
「・・・・・大・・・将軍・・・・で・・・・。」
縮こまり、恐る恐る答える勅使。
「−−−!?」 袁紹の顔が見る見る真っ赤に成った。憤怒は烈火となり怒髪は天を突いた。
なにィ〜大将軍だとォ〜!?
こ、この儂を愚弄するかァ〜〜!!」 奉戴の事実よりも何よりも、先ず、大貴族のプライドが赦さ無かった。
《この大名門の儂を、この袁本初を、
       奴の下に置こうとするか・・・・!!》

完全な、感情論である。袁紹はこの任命劇を最大の恥辱と感じ、身を戦慄わななかせ、一言も発せず拒絶した・・・勅使はうのていで帰り着くと其の有様を逐一曹操に伝えた。
「・・・・フン、本初め。地金を露わしたな。思った通り、
                まんまと引っ掛かりおったわい・・・・!」
曹操は鼻先で笑うと、《大将軍》の地位をアッサリ辞任して袁紹に譲り渡した。そして己は、格下の《司空》の座に甘んずる措置を構じた。更には新たに業卩侯の爵位まで贈り付けた。
曹操としては、これで目的は十二分に果たした事に成るのだ。いかに最高官の大将軍であれ、袁紹に
それを受けさせる事が重大であったのだ。受ければ命に服した、つまり曹操による献帝奉戴の【正当性を容認した】と謂う事になるのだ。個人レベルの感情論など何うでもよく、その既成事実こそが重大なのであり、真の狙いなのであった。 もし最初から大将軍を与えたならば、袁紹は冷静に無視し、別の対抗手段を構じるであろう。わざと激怒させ、沈着な判断を見失なわせて措いて、結局は受容させてしまう・・・・。袁紹は、その気位やカッと成る性向まで見透かされ、まんまと曹操の術中に嵌められたのだ!全てお見通し。激怒して当然の「実力差」を見越した上での、緻密な戦術を仕掛けて成功させたのである。で無ければ、わざわざ此んなアブナイ真似を、曹操は採らない。今は・・・・袁紹に攻め込まれる事を、最も警戒・回避しなくては成らぬ曹操であった。
現状では、
袁紹の10分の1以下の軍事力でしかなく、然も周囲には敵対勢力がワンサと残って居た。さなきだに、敢えて己の政治戦略だけは相手側に押し込み、完遂してしまう・・・・曹操猛徳、一筋縄ではゆかぬ男である。後から振り返れば、完全に1本取られてしまっている・・・だが袁紹には、そんな風には認識されて居無い
《馬鹿め、調子に乗りおって!己の分をわきまえろ!
       きゃつは結局、儂のたなごころの上でしか踊れぬのだ!》

袁紹は己と曹操の関係を以前からそう思って来て居る。つい先年も、呂布戦で苦境に陥った時には、食糧を含めて手を差し伸べてやっていたのである。
途方も無い大らかさと言おうか、
時勢を観るに疎いと言おうか・・・御曹司おんぞうしの面目躍如?たる風情ではあったか?ーー袁紹は大将軍の最高位は受ける事にした。が、業侯の爵位の方は蹴り飛ばした。大将軍は職務だから受け取ってやるが、お前の限界を思い知れ!と、せめてもの異議を表明したのである。
《−−それにしても、沮授や田豊の言う事を、
                ちゃんと聴いておけばよかった・・・。》
今更ながらに、返す返すも口惜しい。
『献帝を甄城けんじょう(両者の中間地点)に動座させ、其処を帝都とすべきである!』・・・・などと、そんな事を後から曹操に要求してみたが、ニベも無く撥ねつけられてしまう初めから判り切っているのに、尚かつ、そんな見っとも無い要求を出す辺り、如何にも未練がましく無様だが、余程「しまった!」と、後悔の念に駆られたと云う証拠であろう。
ーー今から3年前の197年(建安2年)春・・・・弟の袁術皇帝を僭称せんしょうした。《馬鹿めが!実力も無いくせに、どこ迄袁一族の恥晒しを演じたら気が済むのだ・・・・》袁紹にとって、この腹違いの弟とは、全く一族としての感情を抱けぬ、犬猿の仲と成って居た。本当は従兄弟いとこに当たるのだが、この時代では実の兄弟と見做みなされた袁紹の方にはそんな気は毛頭ないのに袁術の方が勝手に敵意を抱き続け、事有る毎に「妾腹めかけばらめ!妾の子め!と呼ばわってはさげすもうとして来ていた。「袁家直系の自分」が、ますます非力と成り、人望の欠片も無くなってゆくのに反比例して傍系の癖に」着々と実力を拡大し盟主と仰がれてゆく兄に対するねたみ・そねみの為せる反感であったろう・・・・今では間接的とは言え、外交の同盟関係から言えば、敵同士と成ってしまって居た。直接的にぶつかる位置関係には無く、取り立てての実害も生じ無いので、その儘に来て居るが、口さがない世間からは、《弟すらぎょせない癖に・・・!》と常にケチを着けられ、男を下げさせられその器量の矮小化わいしょうかに使われる原因と成って来ていた。
−−もし、この兄と弟の2人が、最初から力を合わせていれば、
袁王朝〕の樹立も決して夢では無かったであろう・・・・とだけは言える。南北から曹操を挟撃し得たし、他の群雄の突け入る余地は全く無く、天下は速やかに「袁氏の旗の下」に、統一されていたであろう・・・・。
今からは2年前の198年(建安3年)12月、曹操は遂に呂布を亡ぼし、河南 (黄河以南) をほぼ平定した。・・・と言う事は、〔河水=黄河〕のお陰で先送りされて来た、曹操との直接対決のケリを着けるべき潮が満ちて来た・・と謂う事だ。そこで、
昨年の199年(建安4年)、袁紹はいよいよ本気で公孫讃を亡ぼす決意を固めたのだった。そして3月、十段構えのバベルの土城・〔易京城に籠る公孫讃を包囲し、軍師『田豊』の建てたモグラ作戦で攻城の上、公孫讃1族を火炎の中に自殺させ、その軍を併合吸収した。ーーこれで河朔かさく(黄河以北)に敵の姿は全く無くなり、何時でも南下して曹操を屠る準備が完了した。そこで河朔かさくの覇者袁紹は、長男の「袁譚えんたん」を青州に派出して東の押さえとした。是れは一見、何の不思議も無い当たり前の措置と思えるが・・・・実は、重大な禍根を残し兼ねない、大問題を孕んでいたのである!袁紹には3人の息子が居る。
長男の【
袁譚えんたん】・次男の【袁熙えんき】・3男の【袁尚えんしょうである。袁氏の本拠地は冀州(業城)であるから、普通であれば、長男の「袁譚」が継ぐべきである。だが、その袁譚を外へ(青州に)出したのだ・・・・何やら妖しい【お家騒動】の予感がするではないか!
−−実は・・・・
父親としての袁紹は、3男の「袁尚を最も高く評価し(その美貌ゆえに)溺愛していた(とされる)。・・・・袁紹に限らず、「曹操」も「劉表」も、そして「霊帝」も、この轍を踏むのであるから、〔父親心〕が複雑であり、より優秀な子を後継にしたいとの欲求は、あながち愚者の烙印とは直結し難いとも言えようが・・・・ 長男の袁譚に対する評価は低く、強情で武勇は有っても奢侈しゃしに流れ易く、民の苦労をわきまえぬ性格だとして毛嫌いしていた(とされる)。次男の
袁熙は口数少なく目立たぬ為軟弱な人間と誤解されていた (ようだ)。
ーーその結果・・・・・
 最愛の
三男「しょう」を残し、
   
長男の「たん」をせい
   
次男の「ゆう
  
 いとこの「高幹こうかん」にへい夫れ夫れ治めさせた。この措置を、監軍かんぐん(軍政の統括者)の沮授そじゅが諌めた。 「世間では、『1匹の兎が街路を疾駆すると、万人が是れを追いかけるが、一人が是れを捕獲すれば、貪欲な者も皆、追うのを止める』と謂っております。持ち主(跡継ぎ)が決定したからです。
その上、年齢が同じ場合には賢明な者を選び、仁徳が拮抗する場合には占卜せんぼくに拠って選択すると云うがいにしえの制度です。どうかかみは前代の成功と失敗の戒めを御考慮なさり、しもは兎を追いかけ持ち主が決まれば、後は揉め事が起こらないと云う道理に思いを致されますように!」それに対し、袁紹はこう言い訳した。
「儂は4人の息子に夫れ夫れ一州を支配させて見て、それに拠って能力を観察したいと思って居るのだ。」
沮授は退出してから嘆いた。
「ああ、わざわいは此処から始まるのか・・!」
同じ、昨年の6月、弟の袁術が、彷徨中に頓死した。文字通りの「野垂れ死に」であった。最期には、兄である自分を頼ろうとして果たせず、独り、遥か南方で惨めに死んで逝った。事々に自分に反発し続けた、えにしうすい弟であったが、袁紹は今、弟の全てを容してやれる心境であった。何ら背伸びする要も無い、今や、押しも押されもせぬ河朔かさく覇王はおうであり心にも余裕ゆとりがある。《−−思えば哀れな男で在ったよのう・・・・せめて、あの世で静かに暮らせ。儂が、お前の果せなかった夢を実現して見せよう程に・・・・》 兄弟相克と云う精神葛藤に、袁紹は一つのケジメを着けた。そして、何か、胸のつかえが消えた様な気分の下に、いよいよ宿敵・曹操との対決に向かって、本格的な取り組みを開始する。
ーー今からちょうど1年前の、199年の事である 軍議の席上最大の論議となったのは開戦の時期を巡る戦略構想の喰い違いだった。
短期決戦持久戦かである。
じっくりゆくべきだと主張したのは
監軍(軍政総裁)の
沮授軍師田豊であった。この2人は〔河北出身者〕で、地元の万全を第一義とする。
我が陣営を観てみると、出兵がここ何年も続き、民衆は疲れ切っており、倉庫に蓄えは無く、役務が盛んに行われております。これこそ、我が国にとっての大きな心配事です。先ず使者を遣って朝廷に戦利品を献上し、農業に力を入れ、人民を安泰になさるべきかと存じます。その後、黎陽れいよう(黄河北岸城市)に進駐し、時間をかけて河南の★★☆経営に努め、船舶を増産し、大小の武器を修繕し、精鋭の騎兵(公孫讃が保有していた〔義従〕と呼ばれる北方異民族の騎馬軍団)を遣わして、敵の辺境地帯を荒らし廻ります。奴等に安息・安定を保つ事を出来無くさせて措き、我が方は安逸をむさぼって居りますれば、3年以内に、事は居ながらにして定まるでありましょう!
※自陣営の輜重事情が万全に成る迄は、総攻撃は控えておく。その間、常時、敵領土内への侵略行動を繰り返して疲弊させ、なし崩しに自滅させてしまう・・・・10倍の兵力差がある今、こちらは常に余力を残しながら遊撃出動し得る。それに反して小兵力の敵軍は、常に全力を以って是れに当たれざるを得ず、息つく暇も無く東奔西走し続け、いずれ出血過多で再起不能に陥ってゆく。
敵がヘトヘトに成り、味方の準備が万全と成った時こそ総攻撃に打って出るべきである。その間、3年と観れば充分であろう・・・・。 更に、軍師の『田豊でんほうは、其れをより具体的に解説して見せた。 曹操は軍隊を巧みに操り、千変万化せんぺんばんかの術をろうします。軍勢は少数といえどあなどる事は出来ず、持久戦に持ち込むに越した事はありません。殿は自然の要害を押さえ、四州の軍勢を抱えて、外は英雄と手を結び、内は農事と兵事を整備され、その後で精鋭を選び、奇襲部隊を幾つも編成し、敵の虚を突いて交替で出動させて、河南の地を混乱させます。敵が右方を救援すれば左方を攻撃し、左方を救援すれば右方を攻撃すると云う風にして、敵軍を右往左往させて疲労させ、民衆が生業に安んじて居られぬ様に仕向ければ、我が方は何の苦労も無しに、相手はボロボロに成り、2年も経たぬ裡に、居ながらにして勝利を手にする事が出来ましょう。今、中央で巡らす勝利の策を用いず、勝敗を一戦で決定されるお心算なら、万一、思い通りに 成らなかった場合、後悔しても追い付きませぬぞ!

「公孫讃討滅」には喜んで協力してきた〔
河北・地元派〕ではあるが、地元の治世を後廻しにする「河南進攻」ともなれば慎重に成らざるを得無い。それに対し〔河南出身派〕である郭図審配は、河北は飽くまで覇業達成の為の兵力・物資の供給地に過ぎぬと捉え、
急戦を以って 一挙撃滅すべし
と主張する。
兵法の書物に書かれている戦術には、味方の兵力が10ならば包囲し、3倍ならば攻撃を仕掛け、あい拮抗する時は戦いを交える・・・とあります。
 『孫子・謀攻篇』・・・・用兵ノ法、
「十」ナレバこれヲ囲ミ、「五」ナレバ之ヲ攻メ、「倍」スレバ之ヲ分カチ、「敵ス」レバク之ト戦イ、「少」ナケレバ能ク之ヲ逃レ、カザレバ 能ク之を避ク。故ニ 小敵ノけんハ 大敵ノきんナリ。

今、殿は神の如き武勇の上に、河朔(黄河以北)の強力な軍隊を支配して、曹操を征伐するのですから、例えば手を裏返す如くに簡単な事です。今この時期にこそ奪取しなければ、曹操が強大に成った後に始末する事は困難となりましょう。兵力に10倍の差がある今こそ、千載一遇の機会ですぞ!」  今なら確実に敵を殲滅できる。この好機を見逃してはならぬ!・・・・然し尚、沮授は曹操が献帝を擁する〔特殊な敵〕である点に喚起を促す。
考えまするに混乱を救い暴虐を懲らしめる、これを〔義兵〕と呼び、人数を頼み武力に依拠する・・・これを〔驕兵きょうへい〕と呼びます。大義をかざせる義兵は無敵逆賊と罵られる驕兵は真っ先に滅亡して参りました。曹操は今、献帝を迎え、安んじ参らせました。これを討つのは道義上問題あり、と考えられ、兵数の多寡だけでは論じ切れぬ、不安定要素を加味すべきでありましょう。
 その上、中央で巡らす勝利の策は、単に武力の強弱に拠ってのみ左右されるものではありませぬ。事後の治政をも考慮に入れた政治戦略いかんに拠るものなのです。
曹氏の施行する法令は既にゆき渡り、士卒は精鋭で よく訓練されて居ります。公孫讃の如き、為す処無く包囲された、固定観念に捕らわれた2流の者とは訳が違う相手なのです。今、絶対安全な方法を棄て、名分無き戦争を起こす事は、殿の為に成らぬと、内心危惧いたすもので御座います。

これには再び、
郭図が反論した。
周の武王が、主君であったいん紂王ちゅうおうを征伐した事すら、道義に外れるとは誰の申しませぬのです。まして臣下に過ぎぬ曹操に攻撃を加えるのを、名分が無いなどと言えましょうか。その上、殿の軍は勇武、臣は強力、将兵は怒りをたぎらせ、各々おのおのありったけの力を出そうと決意して居ります。好機に当たって速やかに大業を定められぬのは、あれこれ考慮する結果おこる失敗です。そもそも天が与え賜うたものを取らなければ逆にその咎めを受けるものこれこそ、越王勾践こうせんが覇者と成り、呉王夫差ふさが滅亡した原因です。監軍(沮授)の計略は、絶対の安全を維持しようと云う考えに拘泥し過ぎる余り、時の動きを観、事の兆しを識っての変化ではありませんな!
−−さて・・・・
読者諸氏は、結果論ではなく、飽くまで「この時点での判断」を求められたとするなら果たして
どちらの建策を採用されるであろうか??『沮授・田豊』説か、『郭図・審配』説か?
君主(読者)が決断を下す大前提は、彼我の実態を、どれだけ正確に把握できるかどうかに懸かっていよう。ーーもし、本当に兵力差が10倍であったとするならば・・・・【沮授・田豊説】は、戦略としては頷けるが、些か曹操を買い被り過ぎてもいよう。客観的にみて、この時点に於ける曹操軍は未だ未だ弱小であった。叩くべき時ではある。だとすれば、【郭図・審配説】も決して過ちだとも言い切れない・・・・。
結果はどうあれ、袁紹が是れを採用したとしても、この時点での判断としては、やはり、決して誤りではない・・・・と、言えるのではあるまいか・・・・要はいつに懸かって、戦場に臨んだ時の、実戦の機微に有る・・・・と、謂う事になる・・・・・!!
昨年(199年)2月・・・・・曹操の下を脱出した劉備が除州で独立、叛旗を掲げた。そしてその劉備から袁紹の元に、反曹操の同盟要請が届いた。了承してやる。《曹操の背後を脅かす存在としては、まあ居無いよりはマシだろう》・・・・袁紹にしてみれば、別に期待する程では無かったが、邪魔にもなるまいとてナマ返事を与えた・・・と、言った処であった。
 だが劉備の方は大はしゃぎ。《してやったり!》 とハナ高々であった。「曹操め、手も足も出まい。来れるもんなら来てみろ!来たら、その途端に、袁紹に本拠地を奪い取られるぞ!」と小躍りし・・・・かけたがーーそのまま固まってしまった。ビックラ仰天!!なんと、絶対、ゼ〜ッタイ来れまいと思っていた曹操軍が、事もあろうに、御大みずから、〔虎豹騎〕を率いるや、「官渡」も「許都」もオッポラかして、除州くんだり迄やって来てしまったのである!
                                    (既述)
「何でだ!?何デダロウ?ナ、ナ、ナ、何デダロウ〜!」
年新まった今年★★(200年・建安5年)の早々の事であった。
それを知るや、あれ程まで慎重論を力説、主張して居た、軍師の田豊が、取る物も取り敢えず駆けつけると、袁紹に進言した。
殿、勝利が転がり込んで参りましたぞ! 何を差し置いても、直ちに出撃なされよ!曹操の背後を襲い、敵を散々な眼に会わせ、奴を根無し草にする絶好のチャンスです!!」
珍しく大興奮して、顔を上気させている田豊。杖をついた腰までがピンと伸びていた。殿、直ちに出陣の後下知を!!」
今なら100パーセント許都を占領できる!戻るべき根拠を失った曹操は万事休す。内部崩壊が始まり・・・・そして滅亡する!
「−−いや、征かぬ。・・・今、息子(袁尚)の病気が
           重く成っておるのじゃ。放っては往けぬ・・・・。」
ーーー??!」一瞬、田豊は己の耳を疑った。
・・・・! 何たる器か!!
 
この時に臨んで、個人の私情に流され、
    天下国家を二の次にするとは・・・・
!!》
愛息への私情と、〔田豊個人に対する毛嫌いの悪感情〕とが、その判断の基準と成っている。−−実はこの田豊・・・・もう、此の時点では、すっかり袁紹からうとんぜられて居たのである。想えば最初は袁紹の方から頭を低くして招いたのであった。
田豊でんほうの字は元晧げんこうーーは鉅鹿郡の人で、生まれながらの傑物で博学多識・権謀機略に富み、その名声は天下に轟いていた。三公府から招かれ侍御史として重きをなすが、宦官の横暴に反発して官位を棄て、故郷に戻る硬骨漢でもあった。そこをスカウトされたのである。つまり、袁紹が冀州へ入府する以前からの、生粋きっすいの冀州人、譜代の重臣・大軍略家なのあった。−−先年、宿敵・公孫讃界橋戦 で撃破して追い詰め、ついには 易京城に亡ぼし得たのは、ひとえに此の田豊の智謀・策略に拠るものであった。(同時代の歴史家・孫盛などは、彼のその計略は張良・ 陳平にも勝る、とまで絶賛している。)ーーだが・・・・そんな田豊の才能と軍師の地位を妬み、取って代わろうと企む者が出て来た。遅れて仕官した逢紀ほうきである。この男には、既に強大な発言力を持つ 田豊の存在が、己の出世を阻む邪魔者と映った。そして逢紀の頭脳は、専っぱら〔田豊追い落とし〕にだけ使われていった。事ある毎に、有ること無いことを讒言ざんげんり替えて袁紹に吹き込み続けた。片や田豊自身は、公明正大の自信が有るし、元来、人付き合いは不得手で、主君を信じて対抗措置を採らずに居た。一々弁解がましく説明するなぞ、「主従のきずなの強さ」を固い信条とする、この男にとっては、沽券こけんに係わる面目でもあったからだ。
生涯、歯茎はぐきマデ見セテ笑ウ事ハ無カッタ
   
と云うのだから、いつも仏頂面ぶっちょうづら愛想あいそ笑いとは、およそ縁の無い人物だったと云う事だ。然し、何年にも渡って一方的に讒言ざんげんを聴かされて居るうちに、聞き手の気持がグラつき始める。中でも、朝廷に対する態度・距離感の温度差が、主従の間に溝を生じさせた。田豊は一貫して尊皇・漢室擁護の忠誠心の持ち主である。一方袁紹は漢王朝廃絶・新王朝樹立思考であった。うまくゆかなくなる。その上どうやら、両者間には、理屈では如うにもならぬ〔相性の悪さ〕が潜在して居た様だ。特に袁紹の方には、笑わぬ男に対する、謂われ無き反発・・・・ 一種反りが合わずかんさわ」如き苛立ちがママ現われていた。界橋戦で大勝した直後、油断していた袁紹は、たまたま逃走中の敵2千騎と遭遇してしまい(既述)田豊の咄嗟の機転で壁の隙間に身を隠し難を逃れたが、袁紹は礼を言うどころか、兜を地面に叩き付けて怒鳴りつける。大丈夫タル者、突進シテ戦死スルガ当然ナリ。垣間ニ逃避スベキニ非ズ!」
袁紹は、人を好悪する感情の波が激しく、狭量であったと謂う逸話の1つであろうが・・・・それを公務にまで持ち込むとなればエピソードだけでは済まされない。君主としては致命的な欠陥と言えよう。
清も濁も、美も醜も併せ呑み込んでしまうウワバミ曹操とはエライ違いである。
・・・挙句、もはや「田豊」の建策・進言は悉くスポイルされていた。今では田豊自身、それを百も承知して居た。 だが、それだけに尚の事、田豊は必死になって喰い下がった。 「との御自身が出馬なされる必要はありませぬ。顔良将軍だけで充分です。
何卒、此の機を逃さず、出撃の御命令を下されますように
3年前にも
「田豊」はこれと同じ様な進言をしていた。曹操が南(宛城)に張繍を攻め、許都がガラ空きの時であった。然し袁紹は首を縦には振らなかった。(荀ケから其の情報を受け取った曹操は、大被害を被りつつも大慌てで引き返した。)だが今回は、3年前とは比べ様も無い程に、こちらの条件が全て整っている。周囲に敵の影すら無く、既に南征の為の出撃体勢もほぼ出来上がって居るのだ!
「いや、今更にあわてる事はあるまい。劉備の弱兵など、ハナから当てにはしておらぬ。王者は王者らしく堂々と、正面から真っ向うに撃ち破ってやるわい。」   「−−・・・・。」
退出した田豊は、杖を振り上げ、地面を叩きつけてさけんだ。

嗚呼、何たる事よ!亦と無い機会に遭遇しながら、赤児の病気で其れを逃すとは・・・・。何とも無念、痛恨の極みじゃ!!
それを又、逢紀が讒言した。
「ウヌ、田豊め!先には漢王室至上をまくし立て、次には兵士の士気をくじ妖言ようげんろうし今度は主君を批判するか!許せぬ!奴のしたり顔など、2度と見たく無いわ!
牢にブチ込んでしまえ!!
田豊ガ必死ニ成ッテ諫言かんげんシタ処、袁紹ハ激怒シ、兵士ノ士気ヲくじクモノト見做みなシテ、かせメテ牢獄ニ投ゲ込ンダ正史・袁紹伝

袁紹幕下で最も有能で、才略智謀に秀でた逸材を、なんと事もあろうに
囚人おとしめてしまったのであるそれも彼を最も必要とする此の時期に、己の個人的感情だけで動いたのである。謂わば、劉備が孔明を、曹操が荀攸を、牢に入れたに等しい暴挙と言えよう・・・・。
 
ーーやんぬるかな・・・・!!

ここに、「
河朔かさく覇王はおう」、
            ついに 
倣岸ごうがん極まれるか?? 【第57節】 なりそこねた男  (他山の化石) →へ