【第55節】
「公孫讃」→(田楷)→「陶謙」→「呂布」→「曹操」 と渡り歩き、 放浪流転を繰り返し丸裸となった【劉備】が、妻も義兄弟もウッチャラカシテ臆面も無く逃げ込んだ、
5人目の相手・・・その人物こそ、覇者レースに於いて他を断然圧倒し自他共に認める実力ナンバーワンの〔超A級エリート〕であった。”その男”は、他の群雄の誰よりも恵れた環境と条件を最初から兼ね備えていた。
「三国志」の当時、出世成功する為には3つの必須
条件が在った〔家柄〕〔人柄〕〔儀表=容姿や風貌〕の3要件である。【この男】は其れ等を完璧にクリアーしていた。
中でも最重要項目の「家柄」については、200パーセント
の保証付き・誰にも文句のつけようが無かった。
〔四世三公〕と謳われる天下随一の大名門で、生まれ
ながらにして将来を嘱望される貴公の御曹司 であった。彼の祖先は皆、バランス感覚のとれた超一級の人物揃いであった。
『全員みな、広い愛情を以って人々を受け入れ、選り好みする事が無かった。その門に入って賓客となった以上は賢愚の別なく、みな望みを叶えて貰ったので、天下の人々の慕う処となった。』
特に彼の父の「袁成」は、公正でキップがよく、秩序を保ちつつも人々の心をガッチリ掴んだ。皇帝の外戚や権力者達は、大将軍以下みな袁成と交わりを結び、袁成の言った事は全て通った為、都では『叶わぬ事あらば、袁成を訪ねよ』との諺が出来る程であった。詰り彼の4代前から【袁家】に恩を受けた有力者達(地方豪族)が全国各地にズッシリと根を下ろし《袁一門の恩顧層》は、中国全土に及んでいる事になる。是れは他の者には絶対真似できない巨大な彼の資産と成っていた。
現在、軍事力は曹操に十倍する力を有し、傍らには有能な家臣団を侍らせ食糧備蓄にも憂い無く磐石万全な体制を築いている。こうして先祖代々からの有形無形の巨大遺産を引き継ぎ今も着々と其の総合力を巨大化させ、衆目の期待を一身に集めている男。今や黄河以北(河朔と言う)を全て併呑し覇者レースに於いては
〔ぶっ千切りの大本命〕 と
見做されて居る男・・・・・
【袁紹 本初】であった・・・・・!!
彼は年齢的にも50歳に近づき、その円熟期を迎えていた。
〈覇王に成るのは此の自分である!!〉と、静かな自信を漲らせて居る・・・・『劉備』が会った【袁紹】の第一印象は、尊大さを隠した鷹揚ぶりであった。そして其の風貌は堂々トシテ威厳ニ満チテ居タ『正史』−−が、海千山千の劉備の眼から観れば、己が大器である事を無理して演じて居る様な、どこか奥処に線の細い危うさが透けて見える。
《曹操の”不撓ふとう”とも、俺の”覆Zふとう”とも違うな。一度ポキッといっちまったら終わりの”浮動ふどう”じゃな・・・》とは言え厚遇して呉れるのは有難い。到着した時なんぞは、態々200里も先から出迎えに来て呉れ、下にも置かぬ大歓迎ぶりであった。曹操が異常な迄に劉備を厚遇していたのを聞いていたから、それに負けてはならじとのパフォーマンスであった。
《然し、流石に大したものだ!掛け値なしの凄さだな。》
袁紹陣営の軍容は、何やかや言っても、劉備がかつて見た事も無い大軍団であった。今、これ程の大兵力を動かせるのは、天下広と雖も、この【袁紹本初】をおいて他には無い。
《−−こりゃ、曹操もマジで危ねえな・・・・。ま、せいぜい御両人で互いに足腰立たなくなる迄やって呉れ。俺りゃのんびりと、高見の見物とシャレ込ませて貰うよ》
負け惜しみである。生まれた日は違えども死ぬ時は一緒と誓い合った関羽は曹操に降り、末弟の張飛は
行方不明のまま生死すら判ら無い・・・・流石にガックリ来ている劉備であった。関羽張飛と三兄弟打ち揃い、黄巾討伐に出陣してから早23年・・・齢40と成った今己の周囲には義兄弟・妻子はおろか顔見知りの一兵卒すら無い。有るのは唯、漢の左将軍と云う虚名のみ。
《・・・・俺は、もしかしたら・・・・!?》
だが、この男の場合ーー深々と吐いた溜息は、人間界を飛び越え、天空にまで届くらしい・・・・【天】は又しても、この独りぼっちと成ったダメ男に、新たな、巨きい力を授け、その自己嫌悪を吹き飛ばせてしまうのだった。
あの【趙雲子龍】が駆けつけて来て呉れたのだ!
袁紹でも曹操でもなく、この時期に態々、この自分を選んで、仕官して来て呉れたのであった兄の服喪の為に旧主・公孫讃の下を辞去して以来、趙雲はジッと劉備の盛衰激しい動きを見守って居た。直ぐにも駆けつけたいとは願いつつも、2君に仕える不忠だけはしたく無かったのである。旧主・公孫讃が在る限り、劉備には仕えられない・・・それが趙雲子龍と云う男の生き方であった。 その公孫讃は、服喪中の昨年3月易京で自殺して涯てた。そこで趙雲は臣下の束縛から解き放たれ、漸く出仕して来たのである。−−今、劉備は落ちぶれ果て最悪の状況下に在る。だが趙雲にとって、そんな事は問題では無い。主君の隆盛を慕い、その御裾分けに預かろうとするのであれば、この男程の武勇があれば、(袁紹軍随一と言われる文醜と一騎打し引分けていた)仕官先は選り取り見取り、抜群の恩賞・待遇で迎えられ筈である。然し彼は、そうした身の栄達を求めたのでも、劉備の肩書に惹かれたのでもない。飽くまで、その人物そのものに惚れたのである。 男がひと度、これと信じて決めた主君はーー『劉備玄徳』なのだ!!
「おお、おお、おお趙雲よ、ああ子龍よ・・・・!!」辛酸流転のどん底に居た劉備。熱い涙が止めどなく流れ落ち、趙雲を抱きしめる両腕が歓びに打ち震えた。
「・・・殿、この趙雲子龍、これより先は一命を擲って殿をお守りしお仕えつかまつりまする!今は未だ名前の通り、我が身は龍の子に過ぎませぬがいずれ殿を背に乗せ、天下を見下ろす高みにまで昇って見せましょう!!」
この時、趙雲ほぼ20歳。40歳の劉備とは父と子の年齢差であった。
「おお、何とも頼もしき申しようじゃ。・・・・『関羽』の「羽」、『張飛』の「飛」、そして『趙雲』の「雲」、みな上空に在って、天翔ける者の名じゃ。下を向くな、どんな時でも顔を上げて空を見よ!と云う天の悟しじゃろう。それを戒め、励ます為に、今、【天】は、儂に汝を授け賜うたのだ!!」
この趙雲の出現によって、劉備は再び、己の前途に幽かな光明を見い出そうとするのであったーーー。
「それにしても関羽よ、張飛よ、何故に来て呉れぬ!?雲長よ、益徳よ いずくの空を眺めて居るのだ!?劉備は此処に居るのだぞ〜〜!!」
以下、我々は、此の55節で 〔袁紹の前半生〕 とその〔人となり〕を追う事となる。だが、とは言い状・・・【袁紹】についての前半生の記述は『正史』に薄い。就中、(他の史料からも)彼の正確な生年を詳らかにする事は出来ない。畢竟(終いのところ)・・・・・
歴史(保存される歴史書)とは常に、
敗者には非情である・・・・。
・・・・では、時間を幾らか巻き戻そう・・・・
【袁紹】の世の中への公式デビューは随分と遅い。若冠20歳で一旦濮陽の長に就き、清廉な人物との評判を得るが其の後は十数年間・・・・浪人生活を決め込んでいる。何と20歳代の最も春秋に富む時期を、6年間も墓地裏のボロ小屋で過ごしたのである。母親の喪に服して3年間、それが済むと又遡って父親の喪に服する事3年、合わせて6年もの歳月を服喪に費やしている儒教社会の「善」の実践者としての生活だが、実は・・・袁紹にもそれなりの、深刻な事情が在ったのである。
彼には、その出生と生育環境とに負い目があったのだ。袁紹の実父・袁成(前述)は、生まれて直ぐ死んでしまった。 然も母親はどうも正妻や夫人の身分では無かったようだ。(つまり妾腹)そんな幼児を一族の「袁逢」・「袁隗えんかい」が引き取り、《我が子として》たいそう慈しんで育てる。だが間も無く、袁逢には実子の【袁術】が生まれる。 〔実態は従兄弟いとこ同士だが、兄弟として〕育てられていく。
やがて袁術が長ずるに及ぶと、両者の間には微妙な感情が醸し出されてゆく。特に袁術の方には、《俺こそ正統な血筋である!》と云う意識が強くなる。一族の1部にも、そうした意見を抱く者達が出始める・・・・そんな意見を打ち消し、誰にも後ろ指をささせない為の評判を手に入れる・・・・6年間の服喪には、そうした背景も潜んでいたのである。幸いにして本家の「袁逢」も「袁隗」も、一貫して袁紹を〔一族の正式な後継者として〕強力に庇護し続けて呉れた。袁紹自体に、それだけの魅力や資質が有った故であろう。(やがて弟の袁術の方は上庸郡=荊州北西部に新たな本貫地を付けて貰った上で、分家する形となる。)
然し袁紹は、喪礼の6年が過ぎても尚、出仕しようとしなかった。
『洛陽ニ隠レ住ミ、無闇むやみニハ賓客ト交ラズ、天下ニ名ヲ知ラレタ
人物デナケレバ、彼ニ会ウ事ハ出来無カッタ。』
ここには、密かに青雲の志に燃える若者の姿が在る。その一面、彼の限界も亦、垣間見られる。折角、人材交流・人物発掘の姿勢をとりながら、会うのは既に評価の定まった者達ばかりである。己自身の眼で、野に埋もれて居る才能を新しく掘り出す事までは出来ていない。そうしなくても済む程に、先祖の七光りが効いている。然し・・・是れが、袁紹の人物鑑識眼を育てず、のちに往生する事となる・・・・。
『マタ、男立おとこだテ気取リデ、侠客連中ト互イニ心ヲ許シ合イ、危難ニ駆ケ着ケル仲間・奔走の友トシテ交ワリヲ結ンダ。三公ナドカラノ出仕要請ニモ応ジ無カッタ。』
この【奔走ほんそうの友】の会・・是れだけはタダモノでは無かった!今にして思えば(30年前の事だが)・・・そのグループは、時代を先取りした〔激動の震源地〕であったのだ。この会のメンバー全員が、のちに時代を沸き立たせ、その魁と成って天下を駆け巡った群雄・策士達の集合体であった。やがては時代の流れの中で皮肉にも互いが、敵に成ったり味方に成ったり、又は”主”に成ったり”家臣”に成ったりしてゆく。更にはメンバーを介して多くの人脈と複雑に絡み合ったりしてゆく。とても一口では説明し切れぬ程の広がりと影響を与える集団であった。それを年長の袁紹(20歳前後)が主宰したのである。
主要メンバーには、「何ギョウ伯求」・「張獏孟卓」・「許攸子遠」・「呉子卿」・「伍徳瑜」などが居た。中でも最年長の「何ギョウ」が、このグループの精神的支柱であった。彼の名望は既に天下に広く轟き、太傅の「陳蕃」や司隷の「李膺」=(登竜門の御本尊)などすら交友を求めて来ている程であった。折しも、宦官勢力に因る【党錮の禁事件】2章既述・宦官による正規官僚への弾圧・公民権剥奪が起こり、何ギョウも指名手配の身となる。が彼は毎年2,3度、洛陽に潜入し、袁紹の元で計画を練り、多くの追い詰められた士人達を救い出した。(正字は禺+頁)
そんな「何ギョウ」は又、当時蔑視されていた【曹操】と云う青年を唯一〔天下ヲ安ンズル者〕と認めていた人物でもあった。15、6歳の曹操が【奔走の友】のメンバーに加えられたのも、彼の推薦に拠るものだった。但し年長者であり会の主宰者でもあった袁紹は曹操に対しては仲間と云うより、庇護者を以って任じていた様だ。
−−それから30年・・・今では、その【袁紹】と【曹操】は宿敵と成っている。加うるに、メンバーの1人『許攸』は、袁紹の参謀として重きを成し、何ギョウの同志だった『荀攸』は、曹操の軍師と成っている。もう1人のメンバーだった『張獏』は、最初は曹操と同盟関係にあったが、やがて呂布と組んで敵対。敗れて袁紹に救援を求めに行く途中、自軍兵士に殺されている・・・・。
(※何ギョウは8年前、荀攸と共謀して董卓暗殺を企図するも発覚、投獄され自殺)
因みに、この若き日の『袁紹』の行動には、2面性が観られる。1つは曹操の庇護者を自認する如き、「名門御曹司の人の好さ」であろう。もう1つは、世の動きを洞察しながら雌伏して居る「覇者の顔」である。蓋しどちらも彼の本質であろう。・・・とは言え、では袁紹が覇権を目指してギラギラとした野望に燃え、虎視眈々と雌伏して居たかと言えば、必ずしもそうとは言い切れぬ処に、彼の袁紹たる所以が在る。何処かおっとりした育ちの良さが、つい顔を出す。曹操の如く、己の才覚ひとつで伸し上がらねばならぬギラついた人物とは異なり、イマイチ緊迫感に欠ける塩梅である。どうやら30代後半まで彼の心には未だ【天下】とか【覇王】と云う気概が、生ずる気配は無かった様にも見受けられる。寧ろ、彼の周囲 (既得恩顧の継承者達)が其れを期待し、その要請・催促に応じて、やっと重い尻を上げた観が否めない。
従って袁紹は、政権発足の当初から常に、様々な意見を持つ
家臣団の討議結果を尊重せざるを得無い姿勢が、彼の基本と成り、牽いては其れが昂じ、結局は果断さに欠ける優柔不断を生んでゆき兼ねない。詰り、自分からグイグイ周囲を引っ張ってゆくタイプでは在り得無いのである。良く謂えば、大らかな器と言えよう。袁紹自身も亦、その様に振舞う事を王者の風格として大名門の総帥に相応しいと意識して居たフシが覗われる。
だが、この様に鷹揚に構えてしまう事は、反面、なかなか煮え切らない精神構造を創り上げてしまう危険性も孕んでいる。事に当たっては、常に他者の後塵を浴びる結果ともなろう。ーー事実、彼の意識的な行動は、壮年期に成ってから、やっとこさ、周囲の群雄に刺激されて初めて本格的になっていったのである。その体質に於いて積極果敢な能動性が不足していよう。それでも尚、現在、実力ナンバーワンで在ると謂う事は・・・・袁一族の底力が如何に凄いかと云う、逆の証明でもある。
「袁本初は、じっとしたまま声望を高め、お召しにも応じないが命知らずの連中を飼っている。あの小僧は一体何をする心算で居るのだろうか・・・・!?」
朝政を牛耳って居る宦官の首魁・中常侍の
『趙忠』が、袁紹の動向に危惧の念を抱いて、周囲の宦官達にこう漏らしたーーと謂う情報をいち早く小耳に挟んだのは、袁紹の叔父に当たり、実質的な父親と言える「袁隗」であった。袁隗は現役の三公で、宮廷に出仕していた。
《−−ヤバイ!》そこで袁隗は、袁紹を呼びつけ叱責した。
「お前は今に、我が一族を滅ぼすぞ!」 こんな事でエエンカイ!
宦官どもに睨まれたら三公と雖も安泰では在り得無い。
(袁紹自身、本家筋からゴーサインの出されるのを待って居たフシも有るが)ーーその結果・・・・袁紹は大将軍・何進の命に応じた形をとって、その重かった腰を上げたのであった。この経緯からも判るように、彼の立場は〔清流〕と決まっている。そう世間からも見られ一族の栄光の歴史も「清流派」そのものであった。
(※ 既述の如く、〔清流)とは、朝廷を壟断している宦官=〔濁流〕に対抗する正規官僚層をさす呼び方)
迷う事はない。ひとたび出仕するや袁紹は大将軍何進に急接近して直言する。己の進むべき方向がハッキリしているケースでは袁紹は流石に大胆かつ勇敢であった。
「黄門侍郎や中常侍の宦官どもが権力を握ってから、もう久しくなっております。又、永楽太后(霊帝の生母)は中常侍と結託して、利益をあげる事に専念しております。大将軍には天下を整頓され、四海の人々の為に害毒を除かれますように!」
何進とて宦官達は邪魔者でしかない。【外戚】として権力を振るう為には除くしかない。−−折しも、宦官を溺愛した「霊帝」が崩御した。(今から11年前の189年)
絶好のチャンス到来である。「擁護者の居無くなった今こそ、宦官どもを一挙に誅滅すべし!!」逡巡する何進に対して大名門たる袁紹は、強行に説得を重ねる。何せ何進は大将軍とは言い状、つい最近までは肉屋のオヤジだった政治のド素人。全て皇后に伸し上がった「妹」のお陰であった。宦官に賄賂を贈って後宮に入れたらアレヨアレヨの間に霊帝を尻に敷いてしまったのである
「かつて竇武と陳蕃は奴等を処刑しようとして逆に殺されました。その原因は計画が漏洩し、五営の士卒(近衛兵)達を兵力として使おうとした点にあります。五営の士卒は都育ちで、宦官に対して恐怖心を持っているにも拘らず、彼等を用いようとしたのです。案の定、彼等は寝返って宦官に帰服し、その結果、みずから破滅を招いてしまったのです。然し、大将軍、あなたの場合は絶対に大丈夫です。大将軍自身の幕府と、弟の何苗殿の幕府は共に強力な軍勢をお持ちです。然も、その配下の将軍や軍官はみな英雄や清流名士で、宦官誅滅の為には喜んで死力を尽くして戦う者達です。事は将軍の手中にあり、天が時運を助けて呉れております。いま天下の為に、欲の張った汚らわしい連中を取り除けば、その功績は著しく、名を後世に残す事と成りましょう!!」
そして遂に、何進もその気になった。−−だが妹である「何太后」が、それを承知しなかった。この妹は、権力欲が兄よりも数段強い女であった。未だ幼い我が児を皇帝に就け、女である自分が摂政と成って朝廷で権力を振るうには、宦官に頼るしか無かったのである。また、後宮に入れたのも宦官のお陰であり、その恩義も多少あった。兄・妹とは雖え、権力頂点の座を争う事に於いては、何進と何太后とはシビアなライバルであったのだ。そこで何進は妹を恫喝する為に、大兵力を呼び寄せる事にした。都の西方を本拠地にしていた【董卓】に、招集をかけたのである。
その動きをキャッチした宦官首魁たちは、揃って何進を訪れ陳謝し、「ご処置に任せます」 と、白旗を揚げて見せた。そして恭順さを示す為に、宦官側の若きエースと目されていた「蹇碩」に詰め腹を切らせその首を差し出して見せた。「種族」生き残りの為とあらば平気で身内を生け贄にしたのである。何進はそれに満足し《宦官殲滅方針》を引っ込めてしまう。・・・・それに代わって彼が採った措置は、《宦官封じ込め・武器の取り上げ》と云う、生温いものであった。何進は取り敢えず、袁紹に洛陽城内の武装兵力を取り纏めて、宦官を監視するよう命じた。と同時に「袁術」に命じて、宮中の内門を警護していた〔宦官兵〕と袁術配下の近衛兵
(虎賁)とを交替させようとした。それも出来るだけ温厚な者だけを選抜せよと云うものであった。
〈−−甘い!こんな措置で満足して居る様では、必ずしっぺ返しに会うぞ・・・・!〉宦官滅殺の決心がグラつき出した何進の変容ぶりを危惧した袁紹は、再三に亘り強圧的に脅しを掛けた。
「今や双方の対決状勢は出来上がり、敵対の姿勢は既に露わに成っているのですぞ。なぜ、大将軍は、速やかに誅滅を決行なさらないのですか!愚図愚図して居るうちに変事が起こり、機会を逃せば逆に災いが降り掛かりますぞ!!」
だが、一旦腰の退けた何進は、袁紹の直言を受け入れようとはし無かった。何太后(妹)からの懇願が二の足を踏ませたのである。袁紹は苛立ったがグッとこらえて、せめてものアドバイスを与えた
「よろしいか。絶対に独りで宮中に出向くような真似だけは、なされませぬように。いま先帝の大行(遺骸)は、前殿におわします故将軍は軍を統率して宮殿の外だけを守護され、くれぐれも宮中に参内なさってはなりませぬぞ。」
にも拘らず、何進はノコノコと参内してしまう。宦官の段珪らが、太后の命令と偽って、相談の議があるからと呼び寄せたのである。そして宦官兵達の手にかかり、メッタ斬りに暗殺されてしまった・・・・。
ーーだが然し、これが袁紹の決断に火を着けた。突然、上司が居無くなり、彼を規制する圧力が無くなったのだ。袁紹は電光石火の動きを示した。この時の袁紹は、一級の武人として、果断な行動を押し貫いている。この徹底した処断は、袁紹の評価を大きく高める事となる。(但し、この迅速果敢な姿は、彼の生涯で唯一の事例となるのだが・・・・)
先ず宦官派の司隷高尉・許相を血祭りに挙げるや、
『兵ヲ指揮シテ宦官達ヲ捕エ、老若ノ別ナク彼等ヲ皆殺シニシタ。髭ガ無カッタ為ニ間違ッテ殺サレタ者モ有リ、ひどいノニナルト、裸ニナッテいちもつヲ見セテ、やっと助カル者モ有ッタ。宦官ノ中ニハ品行方正デ分ヲ守ッテ居タ者ガ在ッタガ、ソレデモ免レル事ハ出来無カッタ。死者ハ二千名以上ニ昇ッタ。逃レタ段珪ラモ急追シ、彼等ハ悉ク河(黄河)ニ身ヲ投ゲテ死ニ絶エタ。こうして帝(少帝・劉弁)は、宮殿に帰る事が出来たのである・・・・。』
−−だが此の直後、朝廷を乗っ取ったのは、大兵力を率いて西方から駆けつけて来た【董卓】であった。彼は、たちまち暴政を敷いた。董卓は袁紹を呼び寄せると、〔少帝を廃して弟の陳留王を立てたい〕と相談を持ち掛けて来た。だが袁紹としては、面と向かっての、賛否の明言は避けねばならない。時局は風雲急を告げて、今まさに激動し始めたばかりであった。おいそれと、出来合いの権力に擦り寄るのは危険極まりない。
「これは重大事である故、退出して叔父の太傅(袁隗)と相談しなければなりません。」と即答をはぐらかせた。
「何をビビッておる。劉氏(漢王室)の血統など、後に残すまでも無いものじゃ!」
後漢王朝の権威などハナから認めず、世の評判なぞ、てんで気にも掛けない《大魔王》は、平然と嘯いた。
「−−・・・・。」
袁紹は答えず、刀を横抱きにかかえると、会釈して退出した。そしてその儘、脇目もくれず一目散に冀州へと逃走した。剣呑極まりない相手であった。共に天を戴くなどおよそ考えられない人物である。董卓に比べれば宦官達など可愛い程である
−−『献帝春秋』−−に拠れば・・・・
(裴松之自身、出鱈目だと但し書きしている3級史料)
董卓が言う。「少帝は幼くして暗愚、とても万乗の君主たりえる代物ではない。陳留王(弟)の方が未だマシだから、いま帝に立てたいと思う。人には、若い時は利発でも歳を取ると馬鹿に成る者が居るから、まあ何うなるか判らぬが、一応こうして措こう。お前も霊帝の所業を見ただろう。あいつも年を取って馬鹿に成りおった奴の事を考えると胸くそが悪くなるわい!」
・・・・袁紹は答える。
「漢の王室が天下を支配してから400年ほど経っており、恩沢は深く厚く、万民は久しきに渡って帝として押し戴いて来ています。現在、帝は幼いとは申せ、天下に評判を立てられる様な良からぬ行為が有る訳ではありませぬ。あなたが嫡子を廃して庶子を立てようとなさっても、恐らく人々はあなたの意見に従わないでしょう。」
「小僧め!天下の事が、儂に決定できぬとでも言うのかア?儂が今、これを行なうのだ。誰が思い切って反対できよう。お前は、この董卓の刀が、ナマクラだとでも思っておるのか!!」刀の柄に手を掛け今にも斬り倒さんばかりであった。だが袁紹は怯まない
「天下の英雄は、何も董公一人とは
限らないですぞ・・・・!!」
袁紹は董卓を睨めつけると、剣を引き寄せて横抱きにしたまま退出した。ーーだが・・・・董卓は、逃亡した袁紹を追求しようとはせず、寧ろ逆に懐柔策に出て来た。
『今、彼を賞金付きで厳しく追及したならば、勢い必ず変事を引き起こすでしょう。袁氏は4代に渡って恩徳を施し、その食客や、元配下にあった官吏が天下にあまねく存在して居ります。もし豪族を糾合し、軍勢を集め、英雄が其れを機会に立ち上がったならば山東(東中国)は公の手の届かぬものに成るでしょう。彼を許し1郡の太守に任ぜられるが宜しい。さすれば袁紹は、罪を免れた事を喜び、必ずや心配は無いでしょう。』
董卓は、袁紹を渤海郡の太守に任じ、亢郷侯を贈り突けた。・・・・ここでは、祖先の七光りが、袁紹を保護するシールド作用を果たして呉れている。袁紹はそれを利用して、渤海郡(冀州北東の一角)を根拠
として、機を窺がう。
190年(今からは10年前の)1月・・・・関東諸州郡の群雄は、董卓討伐の兵を挙げ、袁紹はその〔反董卓連合〕の【盟主】に推戴された。 やはり「四世三公」の肩書きがモノを言っている。−−だが・・・・酸棗に集結した諸軍は、自兵力の温存を図るばかりで、互いの腹の探り合いに終始。内部不一致の為、やがて解散・崩壊の危機を迎えてしまう。そこで袁紹は盟主として政治的策動を仕掛けた。董卓政権を否定する為と、己の権勢を高めようとして、【新皇帝推戴】に動いた。幽州牧の『劉虞』を皇帝に立てようとしたのだった。だが(既述の如く)袁紹はここで大失態を演ずる羽目になる。何と、肝心かなめの〔本人への根廻し・当事者の了解〕無しに、天下に公表してしまったのである!
《皇帝に成る事を嫌がる人間など、此の世に居る筈は無かろう》
甘い見通しと自己本位の判断の下に、突然、使者を劉虞の元に送り込み、皇帝の印璽まで用意して持たせたのであった。流石に単独では心許無かったので、冀州牧の韓馥を抱き込んでの説得工作となった。・・・・ところが案に相違して、劉虞は頑として拒み続け、最後には『そんなに言うなら匈奴に亡命する!』 とまで言われて、この計画はポシャッテしまう。−−何とも御粗末な大戦略であった。是れ程に重大かつ存亡の根幹に関わる大問題を、いとも簡単に取り扱い、あっさりと失敗していく・・・・慎重に手順を踏まぬ、軽率の誹は免れまい。自分自身が皇帝を名乗りたい!と思って居る、弟の「袁術」に迄参画を求めている事実からしてもいかに情報不足、身勝手な自己中心的《思い込み》にのめり込んでいたかが窺がい知れる。ーーせっかく質量ともに曹操陣営に引けを取らぬ、贅沢な家臣団を擁しながら、それを使いこなせず却ってマイナス方向に作用させてしまっている・・・・。
この頃になると、流石に袁紹も、名声ばかりで実力の無い己の姿に気がつく。少なくとも1国(1州)を領有しなくては話にもならない
折りしも、軍師の一人、『逢紀』 が進言した。
「殿は董卓討伐と云う重大な行為に踏み切られながら、物資の補給を他人に頼っておられます。一州を支配しなければ、自分の安全すら保てないでしょう。」
「冀州の兵は強力であり、我が軍は飢えに苦しむ有様じゃ。よい知恵は無いものか?」
それに対し逢紀は【冀州乗っ取り】策を勧めて言う。
「公孫讃をダシに使い韓馥を脅しましょう。冀州の韓馥は憶病な小心者です。公孫讃が南下して来れば恐れ慄き、どうしてよいか判らずに、ただ震えあがりましょう。その時に使者を遣って事の利害を説かせ、禍福の理を悟してやれば、韓馥はきっと殿に譲るでしょう。その機に冀州牧の地位をお占めになられますように。」
−−あとは既述の如く・・・・小心者の「韓馥」は、みずから地位を退き、息子に冀州牧
の印綬を持たせ、「黎陽城」において袁紹に渡させた。かくて袁紹は韓馥から【冀州牧】の地位を掠め取り(譲られ)、一国を領有する事に成功したのである。
今から9年前に当たる191年、7月の事であった。而して、この〔冀州乗っ取り〕は、誰も乗っ取りと思わなかった。四世三公の袁氏の御曹司が成って当然・・・・それが一般的な見解であった。そして其れが、この男の強みであった。「董卓」は、袁紹が冀州一国を手に入れたと知るや、詔勅を発して、反董卓連合の解散を命じて来た。これを拒絶し使者を斬り捨てると、怒った董卓は残虐な報復に出た。〔強行遷都〕された長安に随行して行った(行かざるを得無かった)袁一族を皆殺しにした上、その惨殺遺体を送りつけて来たのである!
父を早く亡くした妾腹の袁紹を、我が子以上に薫育して呉れた袁隗は、父親以上の大切な人であったのに!この董卓の蛮行は、世論を袁紹に味方させる事となる。又、是れに因り、〔袁家〕の血脈は唯、袁紹と袁術の2人だけとなったのだった。何がし、北の大地における、袁紹の位置・地位が確定した観もある・・・・。
ーーさて、眼を冀州周辺に転じて見れば・・・・黄河以北に勢力を張る英雄は、『袁紹』と『公孫讃』の両者だけになっていた。が・・・翌192年(今から8年前の)1月、袁紹は【界橋の戦い】で、白馬義従を率いる公孫讃と激突した。菊義の勇戦に拠り、袁紹側が大勝した件は既述した。以後、公孫讃は連戦連敗し、ついには、〔易京〕に十段構えのバベルの城を築いて、籠り切りとなっていく。ちなみにこの菊義、軍功を嵩に着てつけ上がり、勝手な真似をしたとして袁紹に粛清されている。
この年の4月、「董卓」が「呂布」に暗殺された。そして、その1ヵ月後の6月・・・・逆クーデターに遭って長安を脱出した『呂布』が突然、数十の騎兵を従え、名馬「赤兎」に跨って、袁紹の元に流れて来た。一同ビックリしたが、袁紹は門前払いせず、兎に角は受け入れた。呂布は此の直前、長安から一番手前(魯陽)に駐屯して居た「袁術」を訪れたが体よく受け容れを拒否されていた。袁紹陣営でも、誰一人として呂布を歓迎する者は無かった。寧ろ殺害してしまうべきだと言う者が殆んどであった。仇敵だった董卓の養子・右腕だった人物である。土台、袁一族に顔を出す感覚自体が異常である。・・・・だが、黒山賊 (南匈奴)の「張燕」討伐に使ってみたら滅茶苦茶強かった。わずか百騎ほどの呂布部隊だけで敵の大軍を大混乱に陥としいれ、右往左往させた。然し、それをイイことに、呂布の態度が段々大きくなり、その要求が過大になっていった。呂布にしてみれば、袁一族を皆殺しにした董卓を〔暗殺してやった〕のだから、俺には恩が有る筈だ・・・・と言いたいのであろう。だが、その直前までは董卓の手先となっていた事は、すっかり棚に上げている。
《百害あって一利無し。殺そう・・・・!》
その寸前、身の危険を察知した呂布は、サッとばかりに逃走していた。 (※詳述は第4章中の「史上最強のさすらい者」にて)
《一体、何だったんだ、あの化物は?》そんな一場面もあったが、
「冀州牧」に就いてから僅か1年の間に袁紹の勢力は爆発的な急発展を遂げていた。大敵だった公孫讃を北辺の一角に追い込み、黄河以北(河朔)の広大な土地と人民は、全て彼の版図に治まろうとしていた。今からは9年前の191年の事である。
紛れも無く、【袁紹本初】の実力は、
天下随一と成りつつあった・・・・!!
ー−−のだが・・・・・
【第56節】 生涯、笑わぬ賢者 →へ