第54節
義兄弟、分裂
           

199年(建安四年)、覇者サバイバルの群雄達は、次々と脱落し姿を消していく。世は「群雄割拠の時代」を終えようとしていた。前年の呂布の滅亡に続き、3月・白馬将軍公孫讃易京にて自殺、6月・僭称皇帝袁術、放浪中に頓死。勝ち残った超英雄は黄河を挟んで南の曹操北の袁紹 だけとなった
劉備などおこがましくて、とても並記できる筋合ではない。但、遥か南方・呉の地に【孫策が着々と地歩を固めて居るのが不気味ではある。あ!そう言えば、戦乱に取り残された別天地・荊州には「劉表も居た。あとは全て、C級D級の者どもである。
と言う事は・・・
曹操袁紹 の両雄が、その雌雄を決すべき 決戦が、刻々と迫って来ていると云う状況を示す。
さて
劉備だがーー曹操からの異常とも言える厚遇方針は、一段とエスカレートしていく。「呂布」を「下丕城」に亡ぼして「許都」に帰還するや否やの199年・年明け早々・・・・劉備は上表されて左将軍に昇進していた。いや、昇り詰めた・・・と
言った方がよいであろう。ーー何故ならこの「左将軍」の官位は、群雄が勝手に配下に与える「
雑号将軍・名」ではないのである。由緒正しき、国家(漢朝廷)体制・軍事機構に組み入れられているれっきとした漢王朝400年来の、軍人の最高尉官であり、皇帝の前・後・「左」・右を守る、「4大将軍号」の1つなのであった。肩書だけとは言え、実働将軍号としては、これ以上は無いから、以来10有余年、この〔漢の左将軍★★★〕は劉備の一般的呼称・代名詞★★★となっていく。又曹操は『外出スル時ニハ劉備ヲ同ジ輿こしニ乗セ、座ル時ニハ席を同ジニサセタ。』・・・丸で、曹操と同格扱いであった! 《−−俺が、どんな手柄を立てたと言うのだ?
             ただドジを踏み続けただけなのに・・・・?》
無論、劉備にだって、己が曹操の箔づけの為に、
人寄せパンダ・宣伝広告塔に利用されている・・・・と 云う根本認識くらいは理解されて居た。だが流石に現実には、初めは気色悪くて、何か落ち着かぬ劉備であった。だが、どうやら単にそれだけでは無く、何がし曹操は粋狂にも、劉備との「器くらべ」を楽しんで居る様な「大人たいじん」としての風雅・風流を持ってもいるようだった。それにしても曹操の重臣達はこぞって劉備を警戒して 居たし参謀の「郭嘉かくか」や「程cていいく」などはハッキリ 『殺してしまいなされ!』 と、危険人物視していた
び、雄才ゆうさい有リテはなはダ衆ノ心ヲ得、ついニ人ノしもラザラン。早クレヲはかルニカズ。』   これに対し曹操は答える。
方今ほうこんハ英雄ヲおさムルノ時ナリ。一人ヲ殺シテ、天下ノ心ヲ失ウハ不可ナリ。 ・・・・との問答が「正史」にはあるが、 一体、彼等はどんな顔付や態度で 劉備に接して居たのであろうか? 地方に居たであろう程cはともかく、少なくとも、幕僚長の「荀ケじゅんいく」や総参謀長・軍師の「荀攸じゅんゆう」などは「許都」に在住して居た筈である。そこの処が一文字も 記されていないのは、筆者としてはいたく歯痒い。ツンケンして居たのか?表面上は鷹揚に振舞って居たのか?
互いに人間同士、「色に出にけり」の雰囲気は有ったとは想像されるのだが・・・・そんな環境の中、そのうち段々、劉備には曹操の腹の裡が見えて来た。

《居心地を良くして、俺の覇気を削り取り、
飼い殺しするか・・・・》 《こうして衆目監視の中に引き留めて措いて、いつか使い捨てにする気だな・・・・》  最初はその程度に思い、曹操と云う男をそう観ていた劉備だった。−−だが或る日、朝廷に参内した帰り道、ふと、もっと重大な陰謀に気が付き、劉備は思わず身震いした。
《−−やっ!献帝か・・・!!
左将軍であれば、皇帝の謁見は自在である。一々曹操に断らなくとも、いつでも、直接呼び出せる。
《俺をにワザと陛下の近くに置いたか・・・!?》
浮かれて居る場合では無い!!
さては献帝にクーデターを起こさせる魂胆か!?
そこに思い至ったとすれば、劉備と云う男、只の極楽トンボでは無い・・・・。 「こりゃ、長居は無用!・・・・だな・・・・。」
曹操は
3年前196年に、献帝を奉戴していたが政治の実権を朝廷に返上する気など毛頭ない。飽くまで飾りである。勅令・詔書とは言い状、すべて曹操の許可が要る。 本質的には「董卓」と変わりはない。董卓より慇懃いんぎん鄭重ていちょうな分、或る意味では余計に始末が悪い相手と言える。
 然し、
献帝20歳と成り、立派な大人に成長していた。国情を理解し、己の意思を持つように成っている筈だ。その上、もともと資質は聡明な人物である。若く血気も盛んな年頃であった。このまま黙って居る筈は無かろう。それは当然の事・・・・と曹操は観ている。問題は献帝自身より、裏に潜んでいる、その取り巻き勢力である。それを一網打尽にするには、敢えてクーデターの密謀を企図させる★★★事である。その為には帝や首謀者が、【その気に成る様な】、忠節で頼り甲斐の有る人物が居なくてはならない
《−−その役回りを、この俺に
         押し付けようとしている
・・・・!?》 アッ!と劉備は、改めて、曹操と云う人間の空恐ろしさ に背筋が氷りついた。と同時に、己の浅はかさを後悔した。固辞すれば、幾等でも出来るのに、有難く頂戴してしまったのである。
《−−やはり、俺の本心なんざあ、
        すっかり見透かされていた
・・・・!》
実は・・・・劉備の心の中に、
曹操暗殺】の考えが無くは無かったのである。 群雄たらんとすれば、当然の選択肢の一つではあった。

(以下の曹操暗殺未遂★★事件の一部始終は第2章
44節・「曹操暗殺の密勅」で詳述したが)・・・・実行部隊の首謀者は劉備ではない。曹操のターゲットにされたのは(結果論からすれば)献帝の叔父に当たる車騎将軍の董承とうしょう等、朝廷派の忠臣達であった。
劉備は〔曹操暗殺〕を董承にそれとなく★★★★★教唆きょうさし、すっかりその気にさせておいて、その後は知らぬ顔の半兵衛を決め込んで居た可能性が強い。−−『正史・蜀書、先主(劉備)伝』−−には・・・・
先主(劉備)未マダいでザル時(その理由は直ぐに述べる)献帝ノしゅうと車騎将軍・董承とうしょう、辞シテ帝ノ衣帯いたい中ノ密詔みっしょウヲ受ク。まさニ曹公(曹操)ちゅうスベシと有リ。先主マダ発セズ。ノ時、曹公従容しょうようトシテ先主ニイテいわク、「今、天下ノ英雄ハただニ使君ト操トのみ。袁紹ノやから、数ウルニ足ラザル也」ト。
袁紹との最終決戦を目前に控えた曹操は、酒宴の席でメートルを挙げて言ったものだ。
「今じゃあ、さしずめ、天下の英雄と言えるのはアンタと俺の2人だけと云うとこかな。袁紹なんざあ、てんでメじゃ無えやな!」
それを聞いた隣の席の劉備、ビックリ仰天して思わずブッと飯を噴き出す。
先主マサニ食シ、匕箸ひちゃくヲ失ウ。
ついニ、(劉備は)(董承)及ビ長水ちょうすい校尉仲輯ちゅうしゅう・将軍呉子蘭ごしらん王子服おうしふくラト謀ヲ同ジニシ、会見ス。・・・結果は・・・と云う事になってしまうのだが、我々は、(此の54節では)劉備達の動きに注目してゆこう。
演義」は第20回〜24回にかけて、献帝を愚弄し尽す曹操に対して、関羽が曹操を斬り殺そうとして劉備が押し留めたり、献帝が指先を噛み切って認めた密詔を載せている。無論すべて羅漢中の創作だが余りにも有名なので、参考に掲げて措く。
『 ちん 聞くに、人倫の大なるは、父子を先とし、尊卑のことなる処は、君臣を重しとなすと。近日、曹操 権をもてあそんで、君父をあなどり圧し、徒党を組んで朝網ちょうもうを破り勅賞封罰ちょくしょうふうばつ、朕を主とする事なし。朕、夙夜しゅくや憂慮し天下のまさに危うからん事を恐る。なんじはすなわち国の大臣朕が至戚しせきなれば、まさに高祖皇帝が創業の艱難かんなんを思い、忠義両全の烈士を糾合きゅうごうして奸党かんとうを滅ぼし尽くし、 社稷しゃしょくを安きに復せしむべし。祖宗の幸いはなはだしからん。指を破り血をそそぎ、しょうしるしてなんじに付す。よくよくこれを慎み、朕が意にそむく事なかれ。                     建安四年春三月、みことのりす。
劉備が、その密勅の内容を、董承から耳打ちされたのは「袁術」が未だ存命中で、その北上を阻止する為に出陣する直前の事であった。・・・・→それが『先主、未マダ発セズ』の内容である。董承は、劉備が当然自分達と一蓮托生の同志であると思って居た訳である。・・・と云う事は・・・建帝も了承している筈である。
〈−−ナムサン・・・・!!〉
 マズイ!非常にヤバイ。寝耳に水だが、劉備は突然、のっぴきならぬ立場に立たされてしまったのだ。冷や汗が流れた。〈それにしても、何と言うズサンさか!失敗するに決まっている・・・・!!〉※その行き当たるバッタリの杜撰さ・実行部隊の当てなどは44節で既述 劉備は素知らぬていで、これ幸いとばかりに、そのまま出陣していった。「薄氷を踏む思い」であったろう・・・。
                               
 
  ※            ※           ※

折しも此の時・・・・皇帝を僭称せんしょうした【
袁術】は、食事にも事欠く有様(第4章・エセ皇帝の成れの涯てにて詳述)の流浪の涯てに、最期の悪あがきを目論もくろんだ。今迄あれほど憎悪し、犬猿の仲であった弟(義理)の「袁紹」を頼ろうとしたのだ。それには北上して除州を通過しなくてはならない。だが曹操は、その北上を阻止する為劉備にその任を与えたのであった。 目付け役として、曹操は「朱霊しゅれい」と
路招ろしょう」を同行させた。除州の地勢には何と言っても劉備が誰より詳しい故の人選であった。と云う事は・・・曹操は未だ密勅には気が付いて居無い事になる?
《・・・・フウ〜、危機一髪じゃな。剣呑けんのん、剣呑・・・・。》
処が、この出陣の目標であった袁術は、劉備軍が捕捉する前に、除州の南で吐血して頓死とんししてしまったのである・・・・!と、なれば、あとは又、もと来た道を、「許都に引き返すだけである。
「朱霊どの、申し訳ないが、お先に帰って下され。儂は何ヶ所か、恩人の墓参りなどしてから帰りとう御座る」
劉備にとって此処・除州は、確かに州牧ゆかりの地であった。 「数日後には帰還する心算ですから・・・・。」
朱霊らは了承して、先に退きあげていった。
劉備軍は粛々しゅくしゅくとして
下丕かひに入った。劉備達にとっては、様々な思いが交錯する因縁の城である。
曹操が任命した除州刺史の「
車冑しゃちゅう」が出迎えた。が、その時・・・・劉備の両脇に侍立していた関羽・張飛の口から、予想外の言葉が、静かに浴びせられた。
「−−天誅でござる。」 「・・・・え?いま何と申された!?」
「だから、すまんが、我らが独立の為、何の恨みも無いが、御貴殿には此処で今、死んで戴く!」
「−−!さ、さては貴様等、曹公を裏切る魂胆か!」
「裏切るとは片腹痛し!元々漢王室をないがしろに致すは曹操の方ではないか。それに第一我々は最初から曹操の臣下では無い! 「ウグググ・・・誰ぞ、出会え!出会え!!謀反じゃ!むほん・・・」 その叫び声が終わらぬ裡に、車冑の首は飛んで、謁見の間に、血飛沫が上がった。
我等は今から、この除州の地に、
               再び独立いた〜す
!!」 3兄弟、久々の揃い踏みであった・・・・。
劉備が初めて、明ら様に牙を剥いた。曹操を裏切り自立する決意が、全軍に発せられた! 許都を発つ前から覚悟し決めて居た事であった。その証拠には「」・「かん」の両夫人も、おっつけ合流しているのである。事前に仕組んで措かねばそう易々と曹操の元を脱出できまい。つまり、暗殺計画の発覚を恐れて逃げたのでは無く、日頃から常々、独立の機会を狙って居た事が判る。両夫人が無事脱出して来たのを確認すると劉備は
この州都の
下丕城を〔関羽〕に託し
自分は”両夫人”と〔張飛〕を伴い
          最前線と成る
小沛城」へ入った。 普通に (曹操との遠近距離を)考えれば、両者の位置は逆であった方が望ましいと思われるのだが・・・・かつて善政を敷いた経験の有る「小沛」の地を、劉備は敢えて選んだのであろう。人民の海が自分を守って呉れる筈だ、と。・・・・ここら辺が戦略眼の微妙な処である。其の選択が最善であったかどうかの答えは、間も無く現実が、シビアに解答を示す事となる・・・・さて、劉備は此処で早速、外交戦を展開−−先ずは東海の「昌霸」と提携。昌霸は劉備に呼応して、曹操に叛旗を翻し、郡県の多数が反乱を起こした。そして、その連合軍の兵数は数万に達した。外交戦に関する一応の成果と謂えよう。更に劉備は「孫乾そんかん」を使者として冀州に派遣し、袁紹との同盟を成立させた。
劉備は本気で勝負に出たのである!!
《−−やれる・・・》 と、読んだのである。何故なら、ついに袁紹が、黄河を押し渡って南下の軍を発し、曹操の本拠
許都攻撃に動き出したのである曹操は、こちら(徐州方面)には動けないと観た。大敵・袁紹に対しては、半端な力では対抗できないであろう。その対応・防戦に掛かりっきりとなり、とても背後の除州などに構っているヒマなど無い筈だ。願わくば(あわよくば)巨大な両雄が黄河の南岸でヘトヘトに成るまで死闘を繰り広げ、両者共が弱体化していって欲しい。其処にこそ自分の生きる道が生じて来る。 《此処で放浪人生に終止符を打つのだ!》そして・・・・事は、その様に展開し始めていた。
その一方、曹操はホゾを噛んで居た。
劉備の除州派遣 については、「郭嘉かくか」らが口を揃えて諌めていたのである。だが曹操は、未だ未だと踏んでいた。
《あ奴め、この曹操を出し抜くとは、中々の役者であったか・・・・》
然し、曹操は激怒はしなかった。 何故なら、それなりの成果は、ちゃんと得ていたのである。素知らぬ呈で放うって居たが、どうやら
劉備ダシが効いて来た様で、朝廷内の空気が緊迫しているのが、たなごころを指す如くに察せられる。 結構な流れだ。とは言え矢張、丸で放って措く訳にもゆかず、曹操は「劉岱りゅうたい」と「王忠おうちゅう」に
兵を与え、劉備を攻撃させた。 然し言っては何だがこの2将は
二流以下である。それを承知で派遣せざるを得無い程に袁紹の圧力は巨大であったのだ。この2将のうち、特に「王忠」の方は、かつて曹丕から《笑い草》に使われてしまう様な人物であった。−−「王忠」が若く亭長をしていた時、動乱と飢饉とで飢えに苦しみ、彼は人肉を喰った体験があった。それを知っていた曹丕が、曹操の供をして外出した時、芸人に命じて墓場に転がっている髑髏を取って来させ王忠の馬の鞍に結び付けて、 笑いの種にしたのである・・・・曹丕とて人物眼は有る。してはならぬ人物にはすまい。王忠は、そうされても仕方の無い様な人品だったと云う意味であろう。

劉備は、張飛を先鋒軍に指名した。張飛にしてみれば、名誉挽回、久々に自分が主将となって戦う晴れ舞台である。今迄、兄弟達に迷惑ばかり掛けて来た罪・鬱憤を晴らせる、絶好の機会であった。燃えに燃えた。張飛益徳は思う存分暴れまくり、敵を蹴散らし、突き崩し、誰にも文句が無い程の大勝利を獲得して見せた。それを観て居た劉備は大はしゃぎに喜んだ。
ザマ〜見ろ!お前ら如きザコ将など、百人来たとて儂をどうにも出来ぬわい。悔しかったら、総大将自身が出て来るんだな。そうすりゃ、どうなるか判らんがな
丸でガキ並みの発言 (劉備39歳) だが、『正史』に書いてある。
余っ程、己の読みが正しかった事に対する安堵感が、つい、こんな言葉に成ったのであろう。幾つに成っても無邪気に喜ぶ大兄貴の、そんな姿を見るのが、張飛には是れ亦、堪らなく嬉しい。
一方、劉備に『アッカンベ〜、お尻ペンペ〜ン』とはやし立てられても、曹操は動け無かった。
袁紹は此の時すでに「公孫讃」を亡ぼし、青・冀・幽・并の4州を併呑し、その軍勢は、実に20万余に達していたのである!!

12月ーー曹操は、大軍の襲来に備えるべく許都の真北の、黄河南岸に布陣した。いわゆる官渡である
許都から官渡迄は僅か80キロ、眼と鼻の先である。 此の頃の曹操軍の総兵力は、恐らく5万前後だろうか? (諸説紛々)・・・・いずれにしても、とても手を抜く余裕は無い。劉備は左ウチワで、除州の再経営に専念できる・・・・。

200年の世紀末(建安5年)・・・正月早々曹操はゴーサインを出した。例の某重大 暗殺計画 事件に連座した一味の全てを検挙捕縛させたのである。 『使、未マダ発セズ。事あらワレ、承ラ皆 伏誅ふくちゅうセラル。』・・・その処置・処断は電光石火で、峻烈を極めた。献帝の叔父・車騎将軍の董承とうしょう、その腹臣の呉磧ごせき、長水校尉の仲輯ちゅうしゅう、将軍の王子服おうしふく呉子蘭ごしらんをはじめ、妃だった董承の妹・董皇后とうこうごうまでもが殺害された。彼等の三族の皆殺しとされた為処刑者の数は3ケタにのぼった。ーー〔大魔王〕と呼ばれた董卓でさえ、ここ迄はやらぬであろう。だが、是れも亦、曹操の真実である。董卓ではなく、曹操だからこそやったのだ。董卓なら煮え滾る様な私的感情が移入されるが、曹操には個人的感情などは無い。 有るのは只に、非常な権力闘争と云う、シビアでリアルな現実だけである。 従って此の場合には、曹操にムゴイと云う感覚は無い。 法に照らして、処断すべき者は、必要だから冷厳に処刑した迄である。だから、特別にコメント布令を触れ出す事もしない。当然の帰結だと思って居る。−−『魏書・武帝(曹操)紀』には・・・
建安五年春正月。董承ラ謀泄ぼうもシ、皆 伏誅セラルとのみある。
「演義」では・・・曹操の悪玉ぶりを、此処ぞとばかり強調する為に、処刑者数を700余名とし、董皇后の腹には赤子がいたとし、医者の「吉平」なる人物(口を割らぬ忠臣)まで登場させている。反面、善玉・劉備の狡猾さには全く触れていない。
「−−イタズラは、度を越してはなりませんな・・・・。」 きのうまで周囲に居た者達が全て消え涯て、ガランとした宮殿に、唯一人、献帝・劉協だけが残された・・・。

劉備を討つぞ!儂みずから参る!」
「−−!?」
「お止め下され。殿と天下を争っているのは
袁紹ですぞ。今まさに袁紹の大軍が攻め寄せようとして居るのに、それを放置して東に向かわれる・・・・。袁紹が背後に付込んで来れば、どうなされるのですか!」 帷幕の諸将は口を揃えて諫言した。

劉備は儂を出し抜く程の人傑じゃ。今の内に攻撃しなければ後々の災いと成るに違い無い。それに較べ袁紹は、大きな志望を持ってはいるが、機を見るに敏でない。奴の事なら若い頃からよ〜く識っておる。必ず、行動は起こさないだろう。」
一同、半信半疑で居ると、若き軍師参謀の
郭嘉かくかが、大ロジックを披瀝・展開して見せ、曹操の見解に強い支持を示して見せた。(※ 詳細は第6章にて)ここら辺りの「見切り」具合は、曹操一流の勘の鋭さ、総合判断力の優れた点である。
人は是れを、
曹操の【神威と呼んだ。他の凡将にはとても真似できぬ、果断な実行力であった。
な、なにィ〜!曹操が自分で来ただとお〜?馬鹿者!そんな筈は絶対に無い。もう一度ちゃんと見直して来い!
斥候騎兵の急報に、劉備は思わず腰を浮かした。そして次の報告が来る迄、部屋の中をグルグル行ったり来たり廻っては、独り言を吐き続けた。《驚かしやがって。寿命が縮まったわい。曹操が、こんな所まで来られる訳が無いではないか!袁紹軍は20万以上の大軍なんだぞ・・・・!》
「−−間違い御座いませぬ。曹操の牙門旗がもんきが見えまする!」
「まさか!とても信じられぬ。」だが相手は曹操だ。もしかすると
「ええい、この儂が確かめてやる!10騎ほど付いて参れ!」
劉備は陣の外へ出ると、駒を進めて丘の上に立った。
「−−ゲゲ!!ほ、本物じゃ
 指揮旗を見分ける迄も無かった。一糸乱れず突き進んで来る、その騎馬軍団の群れの動きは、間違うこと無く「胡騎」を吸収した曹操の虎豹騎=本軍そのものであった!前回迎え撃った、散漫な敵影とは格段の違いである。美しいほど見事に《武威・神威》が押し寄せて来る。幾ら
軍事オンチ劉備にでも、それが判る程の猛進撃の姿であった!!もう一刻の裕余も無い距離であった。転瞬、劉備の逃走本能に火が着けられていた。
「−−へ?え!あ〜、と、殿、何処いずくへ??」
決まっておる逃げるんじゃ!」言うなり劉備は、もう城とは縁の無い方角に走り出していた。
「お前達は急ぎ引き返し、城内へも逃げよと知らせておけ〜!」
この逃げの「見切り」具合は、劉備一流の勘の鋭さ・自己保存の優れた点である。人は是れを、
劉備神技と呼んだ・・・・か、どうかは判らない。他の凡将にはとても真似できぬ、果断な実行力であった。確かに真似は出来まい。何しろ、何もかもウッチャッラ かして、真っ先に総大将が逃げ出すのである。それも初めてではない。なまじ学問教養が身に沁みて居る君子であったり、恥を感じる常識人には、とうてい成し得る芸当ではない。一種の天才であろうか?
−−結果・・・・
小沛しょうはいは、何が何だか判らぬ儘に、瞬時にして落城、降伏していた。城兵の多くは捕えられた。「」・「かん」の両夫人は又しても置き去りにされ、捕虜生活へと逆戻りさせられてしまった。脱出した将兵もバラバラになって四散し、張飛の行方もようとして知れなくなってしまった・・・・
曹操はその儘
関羽が守る下丕かひ へと軍を向けただが戦う心算は無かった。城より関羽が欲しかった★★★☆☆☆☆☆のだ!使者を送って、有りの儘を伝えさせた。関羽は、劉備・張飛が行方不明となり、2夫人が捕えられた事を知ると、戦う事の無益さを悟り、開城して曹操に降った。但し、条件を付けた。その条件とは両夫人を賓客として是れ迄通りに遇すると云うものであった。曹操は二つ返事で了承すると、帰って関羽を「偏将軍」に任命して、殊のほか手厚く礼遇するのであった。−−こうして・・・・
劉備3兄弟の【大放浪】は、ついに義兄弟3人がバラバラに離散してしまうと云う、最悪の状況にまで追い込まれてしまったのである・・・・。
劉備逃走中、張飛行方不明、関羽軍門に降る・・・


《一体、何が悪いんだ・・・・?》
           
〈何で俺は、こう何時も逃げ廻らなきゃあ、ならねんだ・・・??〉 劉備は暫く落ち込んだ。そして道々、武具を投げ棄てては「左将軍」から「只のオジサン」に身をやつした。
−−ホント、何で俺は何時も、こうナルワケ??〉 その答えが何故だか解らぬ。それが劉備軍の弱さの由縁であった。その癖、一難去ると其の問題をコロリと忘れて、放ったらかした儘にして措くのが又、劉備の劉備たる所以でもある。つまり、本人はチィッとも応えて居無い、と云う事になる。真剣さが足らない。真面目にやれ!と言いたくなる?・・・が、もし、真面目にやっていたら、彼はとっくに死んでいたであろう事も亦言えるのだ。土台、どう仕様も無い人物なのだ。
〈それにしても、あのグズ野郎!!〉と、劉備は思う。
「何で動かなかったんだ!曹操を背後から襲い、献帝を奪い取る絶好のチャンスだったじゃねえかよ!そうすりゃ俺も、こんな見っとも無えザマしなくて済んだってぇのにヨオ〜! ったく、何の為に同盟結んだか分かりゃあしねえじゃねえか・・・・!」
自分の事は棚に上げて、
ダメ男はしきりに袁紹を罵しりながら、馬を駆った。
−−で、劉備はどうするかと言えば・・・・ちゃっかり自分だけは、
袁紹』に厄介になってしまおうと謂うのであった。関羽・張飛の義兄弟も後廻し、麋夫人や甘夫人などは、その又あとの後廻し・・・・。

極楽トンボ、劉トンボ、楽々天を泳いでく・・・・・
頼られた
袁紹−−なんと、わざわざ鳴り物入りで、お出迎えに馳せ参じて来た。尾羽打ち枯らしての落ち武者ずれが、丸で凱旋将軍並みの大歓迎ぶりであった。−−何故か?これ亦曹操と同じく、アドバルーン・宣伝広告用の為であった。事実・実力に相違して、劉備玄徳のキャッチコピーはすっかり世間に定着してしまって居た証拠であったと言えよう。
「劉備は英雄、仁徳の士」・「戦さは下手だが人望家」・「民草思いの善政家」・・・・と謂うのが、
齢40にして得た、世間に定着した〔劉備像〕と云う財産であった。その一番の仕掛人は、「曹操であった」としてよいだろう。・・・・己の手持ちの動産を転がして、その付加価値を吊り上げていく。狙いは、そのオーナーである己自身の、評判の底上げであった。・・・・つまり、
劉備像は
土地転がしされ地上げされたバブル・虚像なのであった。・・・・・だが、折角、曹操が資本投下して吊り上げて呉れた目玉商品だ。それを転用しない手は無い。袁紹は更に価値を付加しようと演じて見せたのだ。そして、こうして、バブルは益々ふくれ上がっていく・・・・バブルの当人も、この頃になると、すっかり其のカラクリを理解し、敢えて其れを逆に利用して胡坐あぐらを掻き始めているのである。

その結果・・・・
劉備関羽〔袁紹VS曹操〕の敵・味方に分かれてしまった。血盟の義兄弟は、散り散りになっただけではなく、ついには敵対する関係に迄なり下ってしまったのだ!一体あの美しき男同士の誓いは、何処いずくへ消し飛んでしまったのか?

今迄なら、おっつけ合流して呉れた
張飛 も亦、とうとう姿を現わさない。彼は血盟に愛想づかしをした かの如くである。それもそうだろう。

劉備は余りにも身勝手を繰り返し御都合主義である。


その仕儀は、とても主君として仰ぐに足るものでは無かった



桃園の3兄弟、血盟崩壊の
      最大の危機が訪れた・・・。
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