【第54節】
199年(建安四年)、覇者サバイバルの群雄達は、次々と脱落し姿を消していく。世は「群雄割拠の時代」を終えようとしていた。前年の「呂布」の滅亡に続き、3月・白馬将軍「公孫讃」易京にて自殺、6月・僭称皇帝「袁術」、放浪中に頓死。勝ち残った超英雄は黄河を挟んで南の〔曹操〕 と北の〔袁紹〕 だけとなった
【劉備】などおこがましくて、とても並記できる筋合ではない。但、遥か南方・呉の地に【孫策】が着々と地歩を固めて居るのが不気味ではある。あ!そう言えば、戦乱に取り残された別天地・荊州には「劉表」も居た。あとは全て、C級D級の者どもである。
と言う事は・・・〔曹操〕 と 〔袁紹〕 の両雄が、その雌雄を決すべき
決戦が、刻々と迫って来ていると云う状況を示す。
さて【劉備】だがーー曹操からの異常とも言える厚遇方針は、一段とエスカレートしていく。「呂布」を「下丕城」に亡ぼして「許都」に帰還するや否やの199年・年明け早々・・・・劉備は上表されて〔左将軍〕に昇進していた。いや、昇り詰めた・・・と
言った方がよいであろう。ーー何故ならこの「左将軍」の官位は、群雄が勝手に配下に与える「雑号将軍・名」ではないのである。由緒正しき、国家(漢朝廷)体制・軍事機構に組み入れられているれっきとした漢王朝400年来の、軍人の最高尉官であり、皇帝の前・後・「左」・右を守る、「4大将軍号」の1つなのであった。肩書だけとは言え、実働将軍号としては、これ以上は無いから、以来10有余年、この〔漢の左将軍〕は劉備の一般的呼称・代名詞となっていく。又曹操は『外出スル時ニハ劉備ヲ同ジ輿。』・・・丸で、曹操と同格扱いであった!
《−−俺が、どんな手柄を立てたと言うのだ?
ただドジを踏み続けただけなのに・・・・?》
無論、劉備にだって、己が曹操の箔づけの為に、人寄せパンダ・宣伝広告塔に利用されている・・・・と
云う根本認識くらいは理解されて居た。だが流石に現実には、初めは気色悪くて、何か落ち着かぬ劉備であった。だが、どうやら単にそれだけでは無く、何がし曹操は粋狂にも、劉備との「器くらべ」を楽しんで居る様な「大人」としての風雅・風流を持ってもいるようだった。それにしても曹操の重臣達は挙って劉備を警戒して
居たし参謀の「郭嘉かくか」や「程cていいく」などはハッキリ
『殺してしまいなされ!』 と、危険人物視していた
『備び、雄才有リテ甚ダ衆ノ心ヲ得、終ニ人ノ下為ラザラン。早ク之レヲ図ルニ如カズ。』 これに対し曹操は答える。
『方今ハ英雄ヲ収ムルノ時ナリ。一人ヲ殺シテ、天下ノ心ヲ失ウハ不可ナリ。』 ・・・・との問答が「正史」にはあるが、 一体、彼等はどんな顔付や態度で 劉備に接して居たのであろうか? 地方に居たであろう程cはともかく、少なくとも、幕僚長の「荀ケじゅんいく」や総参謀長・軍師の「荀攸じゅんゆう」などは「許都」に在住して居た筈である。そこの処が一文字も 記されていないのは、筆者としては甚く歯痒い。ツンケンして居たのか?表面上は鷹揚に振舞って居たのか?
互いに人間同士、「色に出にけり」の雰囲気は有ったとは想像されるのだが・・・・そんな環境の中、そのうち段々、劉備には曹操の腹の裡が見えて来た。
《居心地を良くして、俺の覇気を削り取り、飼い殺しするか・・・・》
《こうして衆目監視の中に引き留めて措いて、いつか使い捨てにする気だな・・・・》
最初はその程度に思い、曹操と云う男をそう観ていた劉備だった。−−だが或る日、朝廷に参内した帰り道、ふと、もっと重大な陰謀に気が付き、劉備は思わず身震いした。
《−−やっ!献帝か・・・!!》
左将軍であれば、皇帝の謁見は自在である。一々曹操に断らなくとも、いつでも、直接呼び出せる。
《俺をにワザと陛下の近くに置いたか・・・!?》
浮かれて居る場合では無い!!
さては献帝にクーデターを起こさせる魂胆か!?
そこに思い至ったとすれば、劉備と云う男、只の極楽トンボでは無い・・・・。
「こりゃ、長居は無用!・・・・だな・・・・。」
曹操は3年前の196年に、献帝を奉戴していたが政治の実権を朝廷に返上する気など毛頭ない。飽くまで飾りである。勅令・詔書とは言い状、すべて曹操の許可が要る。 本質的には「董卓」と変わりはない。董卓より慇懃で鄭重な分、或る意味では余計に始末が悪い相手と言える。
然し、『献帝』も20歳と成り、立派な大人に成長していた。国情を理解し、己の意思を持つように成っている筈だ。その上、もともと資質は聡明な人物である。若く血気も盛んな年頃であった。このまま黙って居る筈は無かろう。それは当然の事・・・・と曹操は観ている。問題は献帝自身より、裏に潜んでいる、その取り巻き勢力である。それを一網打尽にするには、敢えてクーデターの密謀を企図させる事である。その為には帝や首謀者が、【その気に成る様な】、忠節で頼り甲斐の有る人物が居なくてはならない。
《−−その役回りを、この俺に
押し付けようとしている・・・・!?》
アッ!と劉備は、改めて、曹操と云う人間の空恐ろしさ
に背筋が氷りついた。と同時に、己の浅はかさを後悔した。固辞すれば、幾等でも出来るのに、有難く頂戴してしまったのである。
《−−やはり、俺の本心なんざあ、
すっかり見透かされていた・・・・!》
実は・・・・劉備の心の中に、
【曹操暗殺】の考えが無くは無かったのである。
群雄たらんとすれば、当然の選択肢の一つではあった。
(以下の曹操暗殺未遂事件の一部始終は第2章44節・「曹操暗殺の密勅」で詳述したが)・・・・実行部隊の首謀者は劉備ではない。曹操のターゲットにされたのは(結果論からすれば)献帝の叔父に当たる車騎将軍の董承朝廷派の忠臣達であった。
劉備は〔曹操暗殺〕を董承にそれとなく教唆
『先主(劉備)未マダ出いでザル時(その理由は直ぐに述べる)献帝ノ舅車騎将軍・董承、辞シテ帝ノ衣帯中ノ密詔ヲ受ク。当ニ曹公(曹操)ヲ誅スベシと有リ。先主未マダ発セズ。是ノ時、曹公従容トシテ先主ニ謂イテ曰ク、「今、天下ノ英雄ハ惟ニ使君ト操ト耳。袁紹ノ徒、数ウルニ足ラザル也」ト。
袁紹との最終決戦を目前に控えた曹操は、酒宴の席でメートルを挙げて言ったものだ。
「今じゃあ、さしずめ、天下の英雄と言えるのはアンタと俺の2人だけと云うとこかな。袁紹なんざあ、てんでメじゃ無えやな!」
それを聞いた隣の席の劉備、ビックリ仰天して思わずブッと飯を噴き出す。先主マサニ食シ、匕箸