第53節
周囲が全て敵だらけの様に思えて来る。その挙句、自分は誰かに命を狙われているのではないかと恐れ始める。
〈どいつもこいつも、信じられん・・・・。〉
公孫讃は以後、袁紹軍との小戦闘にも全て敗れる。支城から救援の依頼が届いても、絶対に援軍を送らなくなった。その措置も、この人間不信の妄想・落日の愁波の産物であった。
「一人を救援すれば、のちの大将達が救援を当てにして、力の限り戦わない様に成ってしまう。今これを救援しなければ、のちの大将達は肝に銘じて、自ずから励む様になる筈だ。」
つまり、彼の大将達は誰一人として本気では戦おうとせず、人を当てにしている・・・との不信が根底に在る。戦況を一切無視したこの方針は、敵にどうぞ各個撃破して下さい、 と言っている様なものである。何があっても援軍は来ないと判れば、全滅するより降伏帰順の途を選ぶ将が現われるのは当然であろう。ーーだが公孫讃は、それを又、新たな裏切り、背信と観る。・・・明らかに、以前の彼とは変わり始めていた。 そして事態は悉く、悪い方へ悪い方へと回転していく。
何事も自分自身で取り仕切らねば、気が安まらなくなっていった。軍務と行政の両方ともを一手に統括し、直接口出しした為、当然どちらも上手くゆかなくなる。そうすると又、誰か足を引っ張っている奴が居ると邪推する。優秀な若者が居れば圧迫して追放した。
人材が不足するから、行政は益々遅滞混乱し、巷には怨嗟の声が上がっていく・・・・。
堪りかねた或る人物が、公孫讃本人に其の訳を尋ねた。ーーその、後世有名な、彼の返答・・・・
『今、役人の家の子弟や立派な人物を取り立てて、彼等を富貴にしてやったとしても、みな自分がそう成ったのは、自分の才能によって当然だと考え、君主たる儂が、よくしてやっている事に対して誰も感謝しないからだ・・・・。」
この発想の中には、君主権とそれに対立する家臣団との、ヘゲモニー争いが浮かび上がって来る。公孫讃と云う男には、君主とは、仁侠集団の親分が巨大化したものであると言った風な、スッキリした【君主権の絶対性】を望む性向が他のどの群雄よりも極めて強く現われている。君主を君主とも思わず、恩恵を得るのは当然とだけ考え、君主権に制限を加えて、己達の利益拡大を狙うハイエナども・・・・だから、劉虞を殺害した時には、彼の政庁に居た名士と云う名士、文官と云う文官は、有無も言わさず即刻、皆殺しにしていた。ーー結果、彼の周囲にはこれと言った人材は一人も居無くなった。必然、地元名士の協力を得られ無くなった郡や県は、次々と袁紹側に鞍替えしていった
地方豪族を指導する地位に在る【名士】を敵視した反動・シッペ返しであった。
そんな今、公孫讃が唯一信頼し、義兄弟の契りを結んだ人物が3人だけ居た。劉備3兄弟より一人多い、豪華4兄弟と謂う訳であった。−−だが然し・・・彼が選んだ相手とは・・・占い師1人と大商人2人の、3人=4兄弟であった。名はそれぞれ劉緯台・李移子・楽何当と言った。公孫讃は己を長兄として「伯」と呼ばせ以下を順に「仲」→「叔」→「季」(末弟)と呼び合った・・・・。何とも見当はずれで、如何にも「らしく無い」義兄弟と謂わざるを得まい
《おい、一体、公孫の兄貴は、どうしちまったんだ??》
そんな彼の心を触発したのはーーな、なんと、当時流行っていた【俗謡・わらべ歌】であった・・・!!
占い師を義兄弟にする位だから、さも在りなん??
ーー『俗謡・童謡』とは・・・・民間伝承のことで、中国人は(人類は)近世になるまで、この俗謡には必ずそれに対応する現実が存在するものと、知識階級にも信じられていた。如何に文明先進国・中国とは雖も、今から2千年も前の2世紀の事である。文字すら持たぬ日本列島では、かろうじて「卑弥呼」が占卜によって、小国家らしきものを形作り始めた原始の時代である・・・・。此の世には魑魅魍魎や怪異が横行すると真剣に信じられて居た。又、「讖=シン」と謂われる「神秘的予言書」が、彼ら知識階級の間で広く厚く信じられ、実際にも重要事項の決定を左右していた
(董卓の長安遷都や王朗のベトナム逃亡などなど)
−−その俗謡にいわく・・・・
『燕の南の果て、趙の北の果てに、中央が裂けた大きな砥石の様な場所が在る。この中だけが世の中から身を隠す事の出来るトコ・・・・!!』
公孫讃は、この「世の中から身を隠す事が出来る」と云う主題に強く惹き憑けられた。 《−−これだ!これぞ天の啓示じゃ!!》精神的に追い詰められていた彼は、本気でそう考え、そしてこのなんともあやふやな言い廻しの特定に躍起となった。やがて苦心惨憺、占いと研究の結果、俗謡に言う「砥石の様な場所」を確定する。−−それは・・・・幽州と冀州の国境線上に在る
易(えき)の地であった。其処に、本気で、己の生き残りを賭けた《大戦略構想》=『十年間の高みの見物・作戦』 を、展開してゆくのであった・・・すなわち、第51節で記した如き
十段構え十重の土塁と塹壕で囲んだ、1辺20キロ・周囲80キロに及ぶ、地上数十メートルの超巨大城砦・・・・何とも異様な
『バベルの城』を完成させる!!
そして、有りっ丈の穀物を掻き集めも集めたり、実に300万石を其の中に持込み、備蓄した!そして、それを【易京】と称した。(※ 京とは、人工の丘を意味する)
ーーさて、この巨大な土のバベル城では・・・・・
『王贊ハ万一ヲ慮おもんぱかッテ高京(特に高い土丘)ニ住イシ、鉄デ門ヲ作ッタ。左右ノ者ヲ退ケ、7歳以上ノ男ハ易ノ門ヲ入ルヲ許サズ、周リニ居ルノハ姫妾ダケデ、文書類ハ吊リ上ゲタ。
女達ニ大声ヲ出ス訓練ヲ成シ、数百歩ノ向コウ迄、聞コエル様ニシ命令ヲ伝エサセタ。賓客』
公文書類は紐(縄)で吊り上げ命令は女達の斉唱で叫ばせる
「いいこと?いくわよ、せえ〜の〜、
ソ・イ・ツ・ワァ〜、シ・ケ・イ〜〜ッ!」
「判ったかしら?」 「あ、判ったみたいよ。よかった、よかった。」
遥か数百歩かなたの重臣は、耳に手を当て、了解したら旗でも
振ったのだろうか?それとも両手で頭の上にマルでも作ったか?そこまで史書には書かれていない・・・・。
処が、この十段構えの【易京城】に、袁紹は結構手を焼く。何年間か陥す事が出来無かった。
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この数年の間・・・・劉備は、この5年前の
194年に除州を譲られるも、
196年には呂布に乗っ取られ、曹操の元に転がり込んだ。
197年には袁術が皇帝を僭称するも、曹操に破られ没落。
今から1年前の198年には、劉備は折角 取り返して貰った小沛城を失い、又もや夫人達を置き去りにして逃亡するが、年末には曹操親征により、呂布は下丕城にて亡びていた。
これにより曹操は河南一帯をほぼ制圧。劉備一行は現在★★(易京城完成後)、曹操の客将として「許都」に滞留し続けて居る。尚、南方では、新興勢力の【孫策】が、僅か5年間で江東を平定し切り、〔呉の国〕が完成していた頃の事である・・・・。
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だが、ついに199年・・・・袁紹みずからが、全軍・十数万を率いて、本格的な【易京】攻城戦へと出陣した。
攻城用の「大型秘密兵器」を運び込んでの、最終的撃滅戦である。その以前に、『袁紹』は「公孫讃」に誘降の書簡を送っている。(恐らく記室の『陳琳』の手によるものであろうが、長文の一部を抜粋して措く。(2人の関係、立場の変化が窺がい知れる)
『私と足下そっかは、以前に同盟を結び、その上に董卓討伐の誓約を交わした間柄であり、互いの友情は伯夷はくい・叔斉しゅくせい兄弟のそれより深く・・・・途中で足下が志を改め、
友情を怨恨に振り替えて乱暴を働こうなどとは、思いも寄ら無かった。・・・・私は引き下がろうにも引き下がれず、界橋の戦役に出陣したのである。 この時、足下の軍兵の意気は 雷が轟く如く、駿馬は稲妻の走る如き有様であった。 私の軍隊はやっと寄せ集めたばかりで、大型兵器は整備されておらず、 強さから言っても格が違い、兵数から言っても問題に成らなかったが、天の佑けによって、ちょっと交戦しただけで大勝利を得、敗走する足下の軍を追撃し、足下の築いた城を得、足下の貯えた穀物の中に住む事となった。これは、天の御威光は誠実な人間を助け、礼に従う人間に幸福が豊かに授けられる、明らかな徴しるしではなかろうか。・・・・(その後の龍河の戦いで大敗北も) 是れまた足下が自分で招いた事であり、私には何の罪も無いのである。
・・・・然るに足下は其の態度に一貫性が無く、彼我ひがの強弱によって考えを変え、追い詰めればペコペコと頭を下げ、弛めれば勝手気ままに振る舞い、行動には原則が無く、発言には基準が無い。壮士たる者が、実際こんな事でいいのか。
・・・・ちょうど私に処刑された菊義の残党が暴れ廻った際、 (界橋決戦のヒーローとなった『菊義』は、その直後に粛清された事が判る) 足下はこれに援軍も送らず見殺しにした。・・・・足下だけが何故に狭い領土にしがみ付き・・・・悪名に甘んじつつ滅亡を早め、永続する美徳を捨て去ろうとなさるのか?
・・・・どうか怨恨を忘れ、疑いを解いて、私との旧交を復活されるように。もしこの言葉に誤りが有るならば、大いなる天が御承知ある筈である。』
無論、公孫讃がこれに従う筈もない。
【易京攻防戦】とも呼ばれる、公孫讃の最期が近づいて来た・・・・易京城の周辺に在った支城では、援軍が来ない事を熟知していた為、力戦するどころか下士官らの反乱に会い、戦わずして次々と陥落していった。そのお陰で袁紹軍は、一兵を失う事も無く、全軍がすんなりと易京城を包囲してしまった。そしていよいよ、本格的な「城攻め」が始められた。先ず、一番外側の十段目の深い塹壕(空濠)に対して、
それを埋めにかかる。数万の兵卒を動員しての大プロジェクトであった。単に埋めて平らにするのでは無い。地上十数メートルに位置する敵の高楼の基礎・土台部分の土塁の高さ迄、手前側から長〜いスロープを築き上げてしまおうと謂うのである。自慢の攻城用秘密兵器 衝車しょうしゃと雲梯うんてい を注ぎ込む為であった!
ーー【衝車】とは・・・・巨木をエンピツ型に尖とがらせ、その先端部分を鉄で覆ってロケット型にし、それを台車に載せ、坂の傾斜を利用して城門にブチ当て破壊してしまおうと云うものである。
また【雲梯車】・・・・とは、巨大な直方体(ビル型)山車=ダシの様な物で、最上部には兵員が乗り組む為の1室が在り、敵の高楼の、その上の位置・空間から弓矢攻撃が出来、機に応じては其処から敵の高楼へ乗り込む目的にも使う・・・・と云う、移動式巨大ハシゴ車であった。−−但し、特に《衝車》の方は、下りの長いスロープが必要となる。その為、この大プロジェクトは、敵高楼の手前に「長い下り坂」を作り出す必要がある為、その発進位置となる坂の頂点に《衝車》を運び上げる「上り坂」も必要になる。つまり、敵城の手前全面に、〔人工の峠〕を構築してしまおうと云う、何とも迂遠かつ壮大な戦術であった。
【土の城】に対しては【土の峠】で応ずる・・・・。
だが大土木工事の結果、一旦「峠」が完成するや、その最新大型兵器の威力は絶大であった!
ドス〜ン、ズシ〜ン と次々にぶち当てられる重量破壊兵器の前に、さしも公孫讃自慢のバベルの外壁も其処かしこで崩壊し始める・・・・・
一方、公孫讃は事ここに至ると流石に不安を覚え、支城に居る、息子の「公孫続」の所へ行人(使者)を遣り、今後の方針についての重大指令を伝えさせた。
『袁氏の攻撃ぶりは鬼神の如くであり、軍鼓や角笛の音が地の底から聞えるかと思うと、雲梯や衝車が我が方の城楼の上で活躍する。日に日に追い詰められ、頼む当ても無い。お前は張燕に、砕けるほど頭を地に打ち付けて頼み込み、速やかに軽騎兵を寄越し、到着したならば 北の方角においてノロシを上げよ。
儂は城内から撃って出よう。 そうしないと、儂が亡びた後、天下広しと謂えども、お前が安住の地を探しても、見つからないぞ!』
ここに言う『張燕ちょうえん』とは、黒山賊こくざんと呼ばれる「南匈奴きょうど族」の首領である。山岳盆地の并へい州に南下して居座ったが、強力であった為、朝廷は討伐出来ず、ついには融和方針に転換。 彼を「平難中郎将」に任じ、その領有を認めるに至る。強力な胡騎軍団がそれを保証していた。その《黒山衆》に援軍依頼し、是が非でも連れて来い!・・・・と云う指令であった。−−だが・・・・息子の公孫続は途中で袁紹軍の斥候に捕われ、その書状も発見されてしまった。そんな事とは、つゆ知らぬ中、日を経ずして、易京の北の方角にノロシが上がった。
「よし、黒山軍が来て呉れたぞ!出撃じゃあ〜!!
挟み撃ちにして、一挙にケリを着けてやる!!」
飛んで灯に入る夏の虫・・・・手薬煉てぐすねしいて待ち受ける敵の真っ只中へと突っ込んでしまった・・・・命からがら城内へ逃げ込んだ公孫讃は、以後、一歩たりとも出撃する事をしなくなった。
袁紹側はやがて、この土で固められた【バベルの城】の弱点を見切った。手間ばかり掛かり、非能率な「峠作戦」に代わる、新戦術を編み出したのである!−−城楼は全て、厚い土壁の上に築かれて居る。その土台である土塁を削り取ってしまえば、其の上に乗っかって居る幾千の城楼は、見るも無惨に崩れ落ちるであろう・・・・
「大トンネル作戦・地下道戦術」が、開始された。・・・・バベル城の真下へ向かって、東西南北全方向から、何十本ものトンネルが一斉に掘り進められる。そして坑木を当てがいながら何キロものトンネルが貫通すると、いよいよ、最後の仕上げに取り掛かった。夫れ夫れの城楼の真下の土を削り去り、その代りに巨木を支柱に当てがうのだ。単に土だけを削れば、その下で作業している者達が、崩落の下敷きになってしまうからであった。
城楼の基盤であった土塁が全て削り去られ、その代りに、剥き出しの丸太材が、何本も其の屋台を支えた。そして、その支柱に油を塗りつけ、点火して燃やす。丸太が焼き崩れる間に、作業兵達は安全区域に避難するのだ。
一挙にケリを着ける為、1段目から9段目までの全ての城楼にその作業が施される迄、決行は控えられた。
・・・・やがて、公孫讃の居る最後の10段目、すなわち本丸だけをワザと残し、全ての城楼に対する破壊準備が完了したーーそしてついに、「その時」がやって来た。・・・・・バベル城の幾千もの城楼を支えていた坑木に、一斉に火が放たれた!
固唾を呑んで見守る袁紹軍十数万・・・・
・・・・ド ド ド ド ド ド ど〜〜・・・・
天地をどよもす地鳴りと共に、地が割れ、壁が裂け、眼の前一面に大崩壊・大陥没が起こり始めた・・・・!
耳を劈つんざき、大地が揺れる。塹壕の内側、土塁上に築かれて居た何千もの高楼が次々と地底の奈落へと消え沈んでいく濛々と立ち昇るキノコ状の土煙・・・・
人工のフォッサマグナ・・・・!!チロチロと火の手も見え隠れする。−−余りの凄まじさに、袁紹軍は歓声を挙げる事も忘れ、暫し茫然と立ち尽くした・・・・その様は、恰あたかも一代の英雄の最期を飾るに相応ふさわしい、凄まじい終末ともみえた。
−−やがて、天を覆っていた黄色い砂塵が静まり落ちた中に・・・唯一つ、公孫讃が籠る本丸の超高層だけが、ポツンと姿を現わした。 周囲が全て平地と化した光景の中、その数十メートルの塔の高さは、ひときわ哀れに聳そびえ建って見えた・・・・。
中央にそそり立った巨大楼閣上、眼の前で信じられぬ光景を見下ろして居た公孫讃伯珪はもはや己の運命を見誤る事は無かった。
「・・・やんぬる哉かな・・・面白き我が生涯ではあった・・・・」
公孫讃は自ずからの手で妻子を悉ことごとく殺すと、高楼に火を放ち、自刎じふんして涯てた・・・・・。
北の王者・白馬将軍と恐れられた男の最期であった。1時は天下の三英雄と讃えられた人物・・・・徹底したユニークさ、その独自路線ーー「白馬義従」と言い、君主権確立の為の 「名士層の排除」と言い、十段構えの「易京城」と言い、あまた群雄の中でも、極めて毛色の変わった、風変わりな (時代を先走った)人物であった。だが彼は所詮、北辺の一豪雄に過ぎず、井の中の蛙であり続け単なる武闘集団の親分以上には成れ無かった。その原因は、改めて述べる迄もなかろう。
〔公孫讃伯珪こうそんさんはくけい〕 享年不明。
−−199年3月、
業火ごうか の中に 消えて 逝った・・・・・・・
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