第51節

世の中全て血で血を洗う戦乱の最中に、『お前ら、勝手にってれば!オレは此処で、昼寝でもしてるから!』・・・・と云う態度を実際に採り始めた群雄が居た!!
十重二十重の防御壁で、グルグル巻きにした巨城を築き その中に
300万石の食糧を貯め込んで、外界との交渉を完全に遮断。10年間を遣り過ごそうと考え、実行した男が居る!!
その男は、敵の侵入を防ぐ為、己の居城の周囲全てを、グルリと深い塹壕ざんごうで囲ませた。一種のカラぼりと想えばよい。そして其の塹壕の内側にはこれ亦グルリと高さ13メートル(六丈)もある、分厚い土の城壁を築かせた。更に其の城壁台地上に、防城用の戦闘楼閣を建てさせた。塹壕の底から見上げれば、その高楼は眼の上はるか30メートルの絶壁の上に在る。

1重では心配だから、その外側に2重目の、「
塹壕」と【土の城壁】と「戦闘用高楼」を築かせた。2重でも未だ不安なので、更に3重目、そして4重目を築く。 それでも絶対とは言えないから5重目、6重目、いやいや、何年もこもるのだから7重目、そして8重目。
《お前なあ、普通そこ迄やるかあ〜?》で9重目・・・・
《ええい、キリのいいトコッ!》で、ついに10重目・・・・!!

十段構え・十重じゅうじゅう土の巨城→どんどん拡張した結果
実に何と
一辺が20キロ!!周囲は80キロに及ぶ超怒級の巨大城塞じょうさいが此の地上に出現したのである戦術としてなら籠城ろうじょうと云う事は有り得るが、それを長期に 渡る「戦略」として掲げ、それを実行した「英雄」は、この男だけであった。やるからには徹底的である。本気なのだ。その巨大要塞の中央に位置する、自分の居住棟(本丸)は、土台となる基礎地盤を他の2倍の高さ・なんと23メートル(十丈)にさせたのである!!
その上に巨大な本丸を建たせたのであるから、20キロ四方の城塞の中央に、ひときわ豪壮な雄姿(50階建てのビル!に相当)がそびえ建った。彼の諸将も夫れ夫れに、城壁上に高い楼閣を築いて陣取った為、楼閣の数は四桁(何千)にものぼったと、『英雄記』等にはある。ーー彼は本丸に
鉄製の重く頑丈な門を作り、側近も遠ざけ侍女や側室を含めた女達と家族だけとで暮らし続けた。
そして驚くなかれ・・・・
公文書決裁などの遣り取りは、家族以外の人間との接触を一切シャットアウトする為籠を吊り降ろして長い縄の先で吊り上げ昇降させたのである!!

この異様な城とその異常な行為
その全ての根源は・・・・言い知れぬ、極度の
     『人間不信 であった!!
・・・想像してみて欲しい。何とも異様な城の姿である。ユニークと言えばユニークだが、美しくない。土を掘り、土を盛り上げ、土で固めた、何か乾ききった感じの、殺伐とした光景である。遠くから眺めれば、地上に低く垂れ込め、低く浮かんだ
空中都市・・・・古代オリエントの幻の伝説
バベルの塔を、平面上に押し広げた
                       如くではないか・・・・!?
然もそれは、希望に満ちた理想都市では無く、人間不信に満ちた
絶望の城と言えた。その男の哀しい心象風景を、そのまま地上に現出させた様な、薄気味わるい城構えである・・・・。彼はこの、巨大迷路の如きバベルの巨城に、何と300万石!の穀物を貯蔵させた。1石(1せき)は19.4リットルだから・・・・10万人でも3年間、5万人なら数年間は裕に暮らせる・・・・と云う、途方も無い物量であった。そして此の男は、自分の戦略を、こう説明して見せるのだった。
「・・・・わしは昔、天下の事態は指でさし示しながら平定出来ると思っていたが、今日に至って判断すると、天下の事は、今の儂に決定できる問題では無い事が判った。だから今は、とにかく兵士達を休ませ、農事に励み、穀物を貯えるに越した事はない。兵法には〔百の城楼ハ攻撃セズ〕と述べられているが、いま儂の城楼は千重にも成っているのだから、この穀物を食い尽くして間に、天下の事態がどうなるか、知る事が出来よう。」
更に此の男は、こううそぶくのであった。
「現在、四方では激しい戦闘が続いておる。だが進軍して来て、儂の城下に居座り、長年に渡って儂と対峙できる者がいない事っは明らかである。儂の備えは鉄壁であるからだ。袁紹ごとき、儂をどうする事も出来まい!」
・・・・一見、理路整然!こういう考え方も有るのかなあ、と思えるがーーよく(いや、ちょっと)考えれば、それが如何に手前勝手で自己中心、相手の存在を無視した暴論であるかは、疑問の余地も無く解ろうと謂うものではないか。時代状況や刻々と移りゆく時勢の流れ、人心の変化には眼を背けた詭弁である・・・・それなのに誰1人として諫言する者も無く、それ処か一緒になって閉じ籠る。
・・・この時すでに、彼の周囲には、いさめて呉れる忠臣は誰も居無かったのだ。いや、彼自身が、全て追放し去っていたのである。と言うより、そもそも此の男は、『
名士めいし』と言われる人材を根本的に忌避し、採用しなかったのだ。
その
名士層の態度〕は、君主に伸し上がった此の人物にとっては、確かに一理有る方針ではあった。
君主権】に対抗する【貴族勢力たる名士】の対決は、時代を超えた根本的な《階級闘争》であるからだ。だが、それにしても極端に過ぎる。よく言えば徹底している。群雄あまた在る中で、其処まで徹底した君主は、誰一人いない。極めて稀な、いや、唯一のケースである・・・・然し此の男とて、若い頃からこうだった訳ではない。寧ろ、人から愛され、信頼されて、とんとん拍子に出世して、曹操がやっとこ台頭する頃迄には、《天下の3英雄》の1人であったのだ。然も、此の男にはーー『白馬将軍』と云う、美々しくも雄雄しい凛呼りんこたる綽名あだなが冠せられさえして居たのだ。かつて劉備の学友でもあり、劉備がデビュー戦に失敗した挙句、一番最初に頼りとしてやって来た時、豪快に笑い飛ばして受け容れて呉れた、あの★★人物である。ーーその人物とは・・・・もう、お判りであろう・・・・
あの、公孫讃こうそんさん、その人なのである。・・・・だとすればあれ程溌剌はつらつとして居た、「公孫の兄貴」の姿は一体どこへ行ってしまったのか?とても同一人物とは思えない。
・・・果たして、魯植塾の劉備と別れた後の彼の身の上には、どの様な半生が在ったのであろうか・・・・?

                
ーー公孫讃こうそんさん−−字は「伯珪はくけい」・・・・

容姿スグレ頭ノ回転モ、キビキビシテオリ特に人より声が大きく、活力ニ溢レル若者デアッタ。 (※讃の正字は、偏に)初め、遼西りょうせい郡の役所で小役人(令史)をしているに過ぎぬ低い身分の若者であった。が彼は、その声のデカさを郡太守の「侯氏こうし」に見込まれ、一人娘をめとらせて貰った上、『魯植塾』へも遊学させて貰った。彼は《侠気》の強い、親分肌の処があったので劉備とは特に親しくなり、塾の兄貴分として、一緒に結構なワルサもやったものだった。処が帰ると、そんな彼の男気おとこぎいたく刺激する事件が起きた。直属太守の劉基りゅうき讒訴ざんそされて捕われ、廷尉(法務長官)の元へ連行される事態となったのである。他の家臣達すべてが及び腰となり、「我れ関せず」と云う態度を採る中で唯一人、若き公孫讃だけは旧主への恩義に報いる心根を貫いたのである。当時の法律では、地位の高かった囚人には、下役人が近づく事は特に厳しく禁じられていた事もあって、皆が皆冷たく去っていくのを見て、彼の義侠心は一層揺さぶられたであろう。彼は官服を脱いで雑役夫ざつえきふになりすまし自ら護送車(檻車かんしゃ)の馭者ぎょしゃとなり、囚人の身の回りの事や雑役を買って出ながら、誠意を尽くして都まで供をしたのである。今更、首になった社長にくっ付いた処で、何の役にも立たないし、寧ろ睨まれて将来マイナスに成るが、彼の男気おとこぎは、そんな打算を度返しした、純粋そのものであった。判決は、日南郡への流罪であった。公孫讃はそれを聞くと、北芒山の上で、米と肉を供え物として捧げると、先祖を祭って盃を掲げて祈願した。
「私はかつては只の人の子でありましたが、今は人の臣下であります。故に、御恩を蒙った旧主と共に、日南にゆかねばなりませぬ。日南には毒気が充満しており、もしかすると帰って来られないかも知れませぬ。ここで御先祖様にはお別れを申し上げます」
主が亡くなるその日迄、この地で仕え通そうとしたのだ。これを見て居た者達は、みな感動してすすり泣いた・・・・だが劉太守は下向途中で赦免され、主従ともに無事帰還する事が出来たのである。ーーこの、公孫讃の忠節は高く人々に評価された。当然、「孝廉こうれん」にもトップで推挙され「郎」と成り、遼東りょうとう属国の長史(副官)に任命された。公孫讃は元来、義侠の士であったのだ。そしてここから、彼の「武人」としての活躍がスタートする。

遼東属国りょうとうぞっこくとは、「異民族との混在地」を指す。
鮮卑せんぴ=モンゴル民族や烏丸うがん=ツングース族が国境を犯して中国北辺の幽州東方に、一部進出していたのである
鮮卑・烏丸その北辺の長史(副長官)
と成った公孫讃は、さっそく数十騎を従えて、辺境の砦を巡視して
廻った。彼は
白馬が好きであった。目立つから白馬に乗る武将は
結構いるが彼の場合は何事も徹底している。自分が率いる近衛の
数十騎を、全て白馬だけで揃えさせていた。
この巡察中に、数百騎の
鮮卑せんぴ部隊を、遥か彼方かなたに発見した。当然相手も、この目立つ敵影を視認したであろう。こちらは僅か数十騎、敵は名うての「胡騎」数百である。そこで公孫讃は、部下達を人気の無い物見台の下に集結させ、喝を入れつつ指示した。
「いいか、敵中突破するぞ!今これを突き破らねば、一人残らず此の場で殺されよう。いいな、覚悟を決めよ!俺が先頭で突っ込むから、怯まず遮二無二突き進め!運がよければ又会えよう。ゆくぞ!!」 物見台の陰に密集隊形をとらせて窺がって居ると、敵は数を頼んで散会したまま近づいて来た。
「−−−突撃ィ〜〜!!」
公孫讃は、両側に刃の付いた矛を手にすると、敵のド真ん中めがけて突進した。まさか真っ正面から来るとは想っていなかった敵騎は、一瞬ひるんで左右に割れた。そこへ決死となった白馬の群れが踊り込む。この無謀とも言える突撃によって、敵・数十騎を殺傷したが、味方も半数を失った。ーーだが、この白馬部隊によるデビュー戦は、鮮卑せんぴ烏丸うがん側に大きな恐怖心を植えつける事となった。これ以後も公孫讃は白馬部隊を中核として、幾度となく出撃したが、やがて烏丸・鮮卑族では、『白馬を見たら戦うな!』と言い合うように成っていった。その情報を耳にした公孫讃は、それを逆手に取って、「白馬だけの大騎馬軍団」を編成した。その数なんと、六千騎!
白馬 彼は、この自慢の白馬軍団に 
白馬義従と謂う、彼好みの名を冠した。そして彼自身は、敵味方双方から白馬将軍と云う、何ともカッコイイ綽名あだなを付けられる事となった。ーーこの後、弥天びてん将軍・安定王などとホザイテ異民族を引き込み、各地を荒らした「張純」らを討つなど軍功を積み重ね公孫讃は後漢朝廷(霊帝)から正式に『騎都尉』を拝命、更には『中郎将』へと昇進していった。そんな陽の出の勢いの頃、折角手に入れた県令の地位を、黄巾軍に破られて失い、すがり付いて来たのが劉備一行であった・・・・。その後、劉備3兄弟は、この公孫讃の兄貴の元で、公孫讃が「北の覇権」を賭けて、『袁紹』と激突する様をその軍中に在りつつ、体験する事となる。
処で・・・
公孫讃の人生に直接的に関わる 主たる人物は、袁紹えんしょう劉虞りゅうぐの2人だけである。 両者ともに敵対関係であるが、たった2人だけとは意外に少ない。北辺に在った故である。【劉備】や「韓馥かんぷく」などは脇役となる。このうち、公孫讃の宿敵は袁紹である。だが、この袁紹も、最初の頃は、公孫讃の敵では無かった。名声ばかり高くて兵力は少なく、袁紹の方がオドオドして居たのであった。ところが袁紹は、州・乗っ取りに成功して、一躍、覇者候補ナンバーワンと成る。ひいては、公孫讃の強敵と成っていったのであった。
−−表向き(公式)には・・・・袁紹が前任者から、州牧の座を譲られた★★★★事になっているーーが・・・・その実態は、「
おどし取った」、又は「だまし盗った」 と謂えるものである。
袁紹が手に入れたの前任者(州牧)は、韓馥かんぷくであった。彼は器が小さくやたら臆病で、とても群雄と言える人物では無かった。自分でも内心、それを自覚している程に、自信が無い。そんな小心者の人物を冀州牧に任命したのは、霊帝崩御の混乱に乗じて朝廷を壟断ろうだんしている【董卓】であった。《奴なら俺の言いなりになるだろう》と観て任命したとしか思えぬ人選であった
片や
袁紹の方も、やはり董卓から《渤海ぼっかい郡太守》に任命されていた。然し、袁紹任命の事情は、韓馥の場合とは全くの逆であった。四世三公の大名門・御曹司としての影響力と潜在能力を恐れられた為、懐柔しようとして無理矢理 (一方的) に与えられたモノであった。董卓が、劉弁(少帝)を廃して劉協(献帝)を擁立しようとして、彼に相談した時には、 『天下は広い。貴方だけが英雄では無いのですぞ!』と言い放ち、刀を抜かんばかりの気概を示していた。また実際に、【宦官皆殺し】をやって退けたばかりの男であった。「韓馥」と『袁紹』では、土台、人間の出来が違っていたのである。
−−ここで、この時点での、
中国北方に限った【勢力圏】を確認して措こう。最北の、横長の幽州のうち、遼東りょうとう半島(朝鮮半島に近い)寄りの東部・即ち遼東属国に、白馬将軍と恐れられている公孫讃は居る。その左(西)の幽州には、州牧として劉虞が着任して来たばかりであった。その幽州に南接する冀州の渤海ぼっかい郡の小さな地に袁紹が居た。そして冀州全体の長官(牧)が韓馥であった。
渤海郡つまり、【袁紹】は、この時点では未だ、冀州の北の隅にへばり付いて居るに過ぎず、4者のうちでは、(位置こそ悪いが)公孫讃は寧ろ、最強であったのだ。ところが袁紹は、韓馥の小心さを見抜いたのである。幕臣の逢紀ほうきが、州乗っ取りの具体策を進言して呉れた。
「現状の如く、物資を他人に頼っている有様では、何も出来ませぬ。是が非でも、一州を自分のものにしなくてはなりませぬぞ!その一州とは、申す迄も無く、冀州ですな!」
「それは其の通りであるが、冀州の兵は強大だから手が出せん。何とかせねばとは苦慮しておるが、どうにもならん・・・・。」 
何か策を示してみよ、と云う訳である。
「お任せ下され。妙策が御座います。」と、『
逢紀』が示したのは
武力自慢の公孫讃をそそのかして冀州を攻撃させ小心な韓馥かんぷくが縮み上がった処を見計らい、どうするのが己の為かを言い聴かせ、冀州を譲り渡させる・・・と云う策略すじがきであった。ーー事は、お膳立て通りに進行した。逆賊・董卓の討伐を名目に、公孫讃が「白馬義従」を率いて南下し始めたと聞くや、韓馥はおびおののいた。そこで段取り通り、陳留国の「高幹こうかん=袁紹のおい」と潁川えいせん郡の荀ェじゅんしんが説客として、お為ごかしに説得に乗り出した。

「今、公孫讃は勢いに乗って南下して来ました。これに呼応する郡も少なくは無いでしょう。一方、袁将軍も兵を率いて【
東へ】向かったと聞きますが、袁将軍の意図する処が我々にも判りませぬ。」 と、とぼけつつ脅しを掛ける。
「いずれにしても、貴方様にとっては容易ならざる緊急事態だと
憂慮して居ります。」
「−−どうしたら善い?教えて呉れぬか!」 と、韓馥かんぷく
「・・・・う〜ん、此処が思案の為所しどころですな・・・・。」
と、気を持たせておいて、いよいよ本題を持ち出す。
「公孫讃か袁紹か、どっちを取るか・・・それが問題ですな。」 
ー−ゴクリ、と韓馥。
「・・・つらつらおもんみまするに、袁紹は閣下とは旧知の関係にあり、尚かつ董卓討伐の同盟を結んだ仲であります。・・・ここは一番、思い切りよく、冀州を袁紹に譲ってしまうのが得策でしょう。冀州が袁紹のものと成れば、公孫讃も、もはや手が出せ無くなりまする。袁紹は袁紹で閣下を厚く徳とするでありましょう。こうして冀州を友好の裡に渡すならば閣下は有能者に譲ったと云う名声に加え、その身は泰山(たいざん)よりも安全と成るでしょう・・・もはや、迷う時ではありますまい!」
「ーー・・・そうじゃの・・・・。」両者とも恐ろしいが、現に今、攻めて来ているのは「公孫讃」の方である。彼とは面識も無い。それに較べれば、四世三公の袁家とは因縁浅からず、袁紹個人との付き合いも長く気心も知れている。先代同様、粗略には扱うまい。
「−−・・・わかった。諸兄らの言う通りにするとしよう!」
元々、自分は、この様な乱世には向いて居無いと思っている。韓馥かんぷくぼくの座を袁紹に譲る事にした。ビクビクしながら暮らすよりは、いっそ、その方が気が楽だ。考えてみれば・・・・本来、「冀州の牧」は袁紹のものなのだ。6年もの間、袁紹は喪に服して居たから、タマタマこっちにお鉢が廻って来ただけの事で、言ってみれば主客転倒していたのだ。それを元に戻すだけの事ではないか・・・・
だが、重臣達は反対した。当り前だ。
「冀州は僻遠へきえんの地とは申せ、帯甲の兵が百万、穀物は10年を支える事が出来ます。袁紹如きは、空きっ腹を抱えた宿無しではありませんか。きゃつなど膝の上の赤児も同然、こちらが乳さえ呉れねば、一日たりとも生きては居られませぬ。そんな相手に、どうして、一州を呉れてやるのですか!」
長史の
耿武こうぶ・別駕の閔純びんじゅん・治中の李歴りれきらがいさめた。
「いや、儂は袁家には取り立てて貰った恩義があるし、才幹も袁紹の方が上だ。優れた人物に位を譲る・・・・これは古人も称賛して来た行為だ。何も諸君らの様に之をうれえる事もあるまいぞ。」
又、従事の
趙浮ちょうふ程奐ていかんは、任地から船で1万の軍勢を率いると、わざと袁紹陣の前を通過。是れ見よがしに軍鼓を打ち鳴らしつつやって来て、交戦を進言した。だが、韓馥は、これも却下。

−−−かくて・・・・
袁紹は、まんまと冀州の牧の座に就く事に成功した。(※191年→「江東の虎・孫堅」が独り
                 瓦礫の洛陽へ入った後の頃である)
けだし、
公孫讃は、その策略のダシ★★に使われた結果と成ったのである。ーーだがこの時、椿事(?)が発生した。袁紹は「朱漢」と云う人物を都官従事に任命したが、この男、以前、韓馥に冷や飯を喰わされていた為、恨みを持っていた。それに袁紹の本心をおもんぱかって早手廻しに、韓馥の邸宅を襲撃した。独断であった。
朱漢は先頭に立って屋根に登り、韓馥は楼閣に立て籠もった。すると朱漢は、長男を捕らえて大槌おおつちで両脚を叩き折る行為に出た。この事件を聞いた袁紹は、直ちに朱漢の方を死刑にした・・・・が、この一件で韓馥はすっかりビビってしまい他国への移住を願い出てきた。結局、陳留国の
張獏ちょうばくの元へ身を寄せた。・・・・或る日、其処へ袁紹からの使者が来て、相談事の為に張獏に耳打ちした。同座して是れを見て居た韓馥は、真っ青になると、かわや(大きな個室)に駆け込んだ。 《さては、俺を始末する気だな・・・・!》
韓馥は勝手にそう思い込むと、厠の中で自害して涯てた・・・。
小心さも、ここ迄くれば、只もの悲しく哀れである。


こうして
袁紹は、冀州を丸ごと、無傷のまま手に入れた。それは豊かな経済力とおおきな軍事力を、ごっそり加えた巨大勢力として、一朝にして袁紹が英雄に伸し上がったと云う事であった!!公孫讃にしてみれば、してやられた!である。形勢を一気に逆転され、マズイ状況と成った。これと対抗する為には、自分も亦、強大に成るしかない。
《袁紹が冀州★★に拠るなら
俺は幽州を完全に掌握せねばならん》そう決意した公孫讃は《幽州支配》に乗り出す。今、公孫讃が本拠地にしている遼東属国りょうとうぞっこくは本来的には幽州牧の管轄下にあった。その幽州牧に就任しているの劉虞りゅうぐである。
つまり、
下剋上を成功させ、劉虞を討たねば、幽州は手に入らないのだ。宿敵・袁紹と対決する前に、 先ず
劉虞であった
この幽州牧の
劉虞・・・・字は伯安はくあんーー実は、つい最近〔皇帝〕になる一歩手前、いや、半分なり掛かった人物である。その人望・名声の高さと王室の宗族として、袁紹ら有力者に担ぎ出され、本人が固辞しなければ、今頃は『皇帝陛下』と呼ばれて居たかも知れぬ、経歴の持ち主であった。彼は以前、既に幽州刺史ししとして赴任しており、その時は異民族の心を掴み、功績を挙げていた。だが病気で辞任して故郷に帰った。その時のエピソード・・・或る家で牛が居無くなった。劉虞の所にそっくりな牛が居てこれは自分の牛であると言った。そこで彼は気持ちよく持ち帰らせた。すると牛が見つかり、主は劉虞に謝った。太っ腹で清貧であった。あの霊帝ですら、宮殿焼失の助成金強要に際し(拠出できず自殺者まで出る中)、特令で彼だけは免除させる程であった。
188年(既述の如く)霊帝は地方に頻発する叛乱に備え「刺史しし=巡察使」に代わって、軍事権を持たせた『ぼく』を新設し、その第一号として劉虞を【幽州牧】に任命した。幽州刺史時代の人脈と手腕、平和的態度で 異民族と上手くやっていた実績も買われたのである。公孫讃にとっては、一応、上司・上官と云う事になる。だが実力 (軍事力) は断然、公孫讃の方が上であった。
(※州牧は原則、単身赴任・現地調達)然も、異民族に対する態度は全くの逆であった。
『(公孫讃は)
烏丸うがんトノ衝突ノ報有ルごとニ、憤怒ノ形相ぎょうそう凄マジク、仇敵きゅうてきニ対スル如ク砂塵ニ向カッテ追撃シ、時ニハ夜戦ニ及ブ。
りょ(異民族)ハ讃ノ声ヲおぼエ、其ノ勇ヲ恐レ、逆ラウ者無シ
。』
一方の「劉虞」は、徹底的な友好・和平主義を採った。水と油・・・・そんな上司の言う事など全く聞かない。朝廷から態々わざわざ、指揮に従え(節度を受けよ)との命が届くが、そんな事は御構い無し。それどころか軍事力に物を言わせて自分勝手に部下を「青州」「冀州」「兌州」の刺史に任じ、郡太守や県令も全て自分で任命した。

(
こう云うハミダシタ実力者、即ち、一旦朝廷から正式な官位・官職を受けた地位・肩書にありながら、自分勝手にバンバンやる者を群雄と呼ぶ。官職・肩書が無いのに同じ事をやれば、そっちは盗賊』『××賊』と呼ばれる。黄巾賊・黒山賊・白波賊などなどetc・・・)

だから、公孫讃の行為は格別非難されるものでもなく?多かれ少なかれ、「群雄」と呼ばれる者達は皆やっている事なのだ。その結果、例えば【冀州】なぞ、州の親分・長官が3人!も居た。(董卓任命の牧・自称牧の袁紹・公孫讃任命の刺史)とは言え、当事者の劉虞にしてみれば、この公孫讃の態度は甚だ面白く無い。−−そんな状況の中、然し劉虞は「幽州牧」として、農業振興・産業の育成・鉱山(塩・鉄の増産移出)開発などを着実に推し進めていった。
(ちなみに鉄と塩は官の専売で、最重要な財源) その結果、それまで超赤字大国だった不毛の幽州は、美事に再建され、百万の流民が入っても、全員が生業に就けたと言う・・・とにかく『劉虞』を悪く書いた史書は一つとして無い。みな清廉潔白、温厚寛容さを非常に讃えている。
189年、霊帝が没し董卓が専横すると、袁紹は反董卓連合の盟主として、その旗印に新皇帝奉戴を画策した。無論、己の勢力拡大に利用する腹ではあった。
名声高く、王族にも当たる
劉虞に白羽の矢を立て推戴しようとした。・・・だが、あっさり失敗する。周囲(曹操・袁術等)からはそっぽを向かれた。致命的だったのは、肝心な、当の「劉虞」本人が、頑として固辞したのである。
「国には正統と云うものが有る。皇位は、臣下たる者が口にすべきではない。」  袁紹からの、再度の使者がやって来ると、
「そんなにも言うなら、私は匈奴きょうどに亡命する!」 と言い切り、関わり合いになる気の無い事を、きっぱりと断言した。

こうして評判の高まる一方の劉虞ではあったが
公孫讃にしてみれば、この「幽州牧・劉虞」の、異民族に対する融和方針は、断じて承服しかねる憤怒の種であった。
公孫讃はここ十数年来、ひたすら戎狄じゅうてき討伐に命を張って戦って来ていた。折角、永年かけて苦心惨澹の末、ようやく平定しかかっている己の庭に、その敵を呼び返されるのに等しい。とんでもない事である。だから、事々に反発し、邪魔した。劉虞が異民族融和の為に送った財貨や物資を、悉く途中で奪い去った。使者の往来も妨害した。会見を申し込まれても、仮病を装い、無視した。 ーーそんな折も折、両者の確執を見透かした様に董卓は公孫讃を「けい」に封じた。
けい」は幽州の州都(現・北京)であり、当然の事ながら、州牧の【劉虞】が居る。
薊・けいそこで【公孫讃】は、是れ見よがしに、劉虞の居城のすぐ★★東南に己の城を築いて入城した。両者は以後、毎日を角突き合わせる格好で、睨み合いモードに突入していった。一触即発の敵意が、両城に充満してゆく・・・・。
一方、そんな両者の葛藤を脇から観ていた
袁紹も、ただ手をこまねいて居た訳ではない。着々と河北一帯に、その勢力を拡大していた。その戦略の基本構想を示して呉れたのは参謀の『沮授そじゅ』であった。彼は冀州乗っ取りの折そのまま袁紹に仕えた参謀軍師である。この沮授こそ、袁紹を群雄中最大勢力に育て上げ、天下を取らせようとした袁紹陣営の名軍師である。(何故か字は伝わらない)
沮授そじゅの戦略はこうであったーー先ず、東へ向かい、黄巾賊を討って【青州】を平定。引き返して西の黒山賊を討ち、【へい】を従える。然る後に北上して【公孫讃】を亡ぼす。そうなれば、他の北方異民族など、ひと睨みで屈服するであろう。
こうして河北に勢力を拡げ、冀・幽・青・并の4州を1つに合わせ天下の逸材を集め百万の衆を収め、献帝を長安から迎え、再び洛陽に漢室の宗廟を打ち立てるのです。皇帝を擁して天下に号令を発し、未まだ帰順しない者を討伐すれば、敢えて刃向う者も現われますまい。何年も掛からずに、天下を平定できるかと存じます。」 「ーーわしも、そう在りたいと願っている!」

・・・・だが、公孫讃も「白馬将軍」と、世にその武勇を知られる英傑である。そんな「沮授のスケジュール」通りの展開を許さなかった。(董卓が呂布に暗殺される4月以前の)
192年、公孫讃は大軍を率いて南下、(劉備3兄弟も軍中に在った筈である)
一大決戦を仕掛けたのである!!口実は従弟の弔い合戦であった。(その事件の背景はゴチャゴチャと混み入っているので省略するが、「袁術」がらみの偶発的出来事で、流れ矢に当たって戦死したものであった。) 「我が弟(公孫越)は、袁紹に殺されたようなものだ!」 と言い掛かりを着け、報復を大義として出陣したのである。

これに対し袁紹は、公孫讃と袁術から挟み撃ちにされる不利(両者は同盟締結)を悟り、公孫讃の怒りを静めようと動いた。即ち、彼の従弟(公孫越)が戦死して空白となった渤海郡太守に、別の従弟 (公孫範) を任命した。それで現状回復し、事件を帳消しにしようとしたのであった。だが何と、公孫範は着任するや、郡兵あげて公孫讃軍に合流してしまった。従って、この時の公孫讃軍は、青州と除州の黄巾軍の一部を麾下きかに収めて大軍と成っていた。・・・・つまり公孫讃は、決して一時の激情に駆られて、無謀な戦いを挑んだのでは無く、兵力は互角で、成算あっての出陣であったのだ。こうなっては袁紹としても、もはや決戦のホゾを固めざるを得無い。沮授も決戦を勧めた。
「公孫讃とは、いずれ雌雄を決せねばなりません。向こうから仕掛けて来るのですから、又と無い絶好のチャンスです。2度と立ち上がれぬ様、叩くべきです!」

−−かくて両者は、全力フルパワーの数万ずつを擁して、冀州
中央部の
界橋(かいきょう)の北20里の地点で激突した。
界橋位置
世に言う
界橋かいきょうの戦いの始まりであった。





北の王者を決める
           大決戦である・・・・!!
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