【第50節】
劉備の「大放浪」は、未だ未だ、是れからが本番である・・・・・
一旦、呂布の仲介で助けられた劉備は、その後小沛城で、着々と兵力を増強させていた。何といっても小沛の地は、劉備がかつて、心血を注いで善政を敷いた地である。又、呂布に乗っ取られはしたが、人々の心は呂布を認めて居る訳では無かった。劉備の方がズッとましだと思って居る。出来るなら呂布を追い出して、再び州牧に就いて欲しいと願っている。その民心の潮流は、呂布にも押し止どめられない。劉備の求心力が、徐々に軍兵を惹き付け、3ヵ月後には早くも1万を突破した。
「このまま見過ごして居れば、取り返しの就かぬ事態に成りますぞ!全力で、不意を突きましょうぞ!」
陳宮に言われる迄も無く、呂布も面白く無かった。
《恩を仇で返そうと言うのか・・・・!》そんな事を言えた義理では無いが、生まれて初めて他人に恩義を施した呂布にしてみれば憎まずには居られ無い。又、現実問題としても、除州の民心がいつ離反するかも油断できない。 高まる軍事力を背景に、どんな外交戦略が仕組まれるかも判らない。禍根は断つべきである。
呂布は「小沛城」の『劉備』を討つ覚悟を固めた。そうと決まれば「陳宮」の出番である。
−−折りしも、恰好な「言い掛りの材料」を・・・・又しても【張飛】が作り出して呉れていたのである!
いわゆる、〔張飛の馬泥棒事件〕であった。呂布の主力は騎馬軍団であるが、この地では馬は産出されないので、北方まで調達に行かせたのである。だがその帰途を襲われ、軍馬千頭近くが強奪されると云う事件が発生していたのだ。賊は名乗った訳ではないが、その風貌からして主犯は張飛に違い無かった。無論、張飛は知らぬ存ぜぬの一点張りで、証拠も無く両者水掛け論に終始していた。今し、それが抉れて、両軍一触即発の事態にまで成ろうとしていたのである。又しても張飛は、トラブルメーカーに成ってしまったのだ。張飛とすれば、軍馬不足を嘆く劉備を喜ばせ【前回の大失敗】を少しでも償おうとした心算だったのだが・・・・・
その険悪なムードを逆に陳宮が利用して、「和解使節団」を送り込む事にしたのである。友好の雰囲気を高める為と称して、しきりに使者を往来させ、何時しか、すっかり宴会続きの毎日となっていった。
この建安元年(196年)の7月・8月・9月・・・・・後漢王朝と、それを取り巻く群雄達にとって、大激震が発生する。(既述の如く) 曹操が、さすらいの果てに洛陽に辿り着いた献帝を奉戴したのである。7月に洛陽で献帝に謁見した曹操は、8月には「許」への動座を達成。9月には朝廷政府を樹立し、官位官職の自在の任免権を誇示し始めた。
その同じ9月・・・・劉備の「小沛城」は、蜂の巣を突っついた様な大混乱に陥っていた。ーー何の疑いも無く、いつも通り歓待した呂布の友好使節団が・・夜の間に・・・内側から城門の全てを開けておいたのだ!呂布の大軍が、全門から一斉にドッと雪崩れ込んだ。寝込みを襲われたのだから堪ったものでない。
小沛城内は、各個人が自分の為にだけ血路を求めて闘うと云う全く非組織的戦闘状況に追い込まれてしまったのである!!
ーーー劉備が逃げる。脱兎の如く、速い、速い!無我夢中である。・・・・気がつけば、暗闇の中に従う者は誰一人も居無い。単騎、鎧も着けず、普段着のままで、剣一振りだけを握り締めて逃げて来たのだ。
妻女も義兄弟も返り見ず、とにかく逃げた。
「−−しょうがねよな。今度捕まったら、呂布は本気で俺を殺すに決まってんだからな・・・・。他の連中は、降参すりゃあ、命までは取られまいワサ・・・・・。」
それにしても惨めな姿だ、と自分でも思う。いっそ余りにも見っとも無くて、笑いたい位であった。
《なんで俺は、こうも逃げてばかりの親分なんだ??こりゃ丸で、高祖そのまんまだなあ〜・・・!》
簡単に、己を漢の始祖に直結させてしまう、この図々しい発想が、唯一この男の取り柄なのか?
「−−さあ〜て、何処へ行く??」 と、口に出して言ってみたが、 最初から馬首は 無意識に、其の方向に向かっていたのである。
ーーー曹操!・・・・しか居無いではないか。
《きっと今頃は献帝を迎えて御機嫌はさぞ麗しかろう。俺に「鎮東将軍号」を贈り付けた位だから、ムゲには扱わぬだろう。それに一見では無いしな。》 かれこれ10年前、反董卓連合の戦いでは共に突っ掛かっていき、コテンパンにやられた仲だ。
《散り散りになっちまった家臣達が、安心して戻って来るためには目立つ所がいいしな・・・・。》 「−−ま、何とかなるだろう・・・。」
そして・・・・・何とか成ったのである。
曹操は、予想以上の厚遇で迎えて呉れたのだ。今、曹操は全ての群雄から反感を買っている真っ最中であった。
《してやられた!》 と云う妬みと、曹操如きがおこがましいと云う反発との、十字砲火を浴びていたのであった。そこへ、まがりなりにも「元・除州牧」だった人物が、曹操を頼って来たのであるから勿怪の幸い・・・・「それ見てみよ!こうして俺(曹操)を認め、やって来る者がいるんだぞ!然も彼はVIPなんだぞ。どうだ!それでも文句があるのか!?」・・・・と云う次第なのであった。 そして又、(曹操政権を認め)頼って来れば、こんな優遇とメリットが得られるんだぞ!・・・・と云う、恰好の宣伝広告塔としても使える訳でもあったのだ。その宣伝効果を大きくする為にはーー遣って来た人物が大物であればある程、曹操の株が上がり、箔がつく・・・と云う方程式になる。だから曹操は直ちに上表(皇帝への意見具申)すると、なんと劉備を〔豫州牧〕に就けて呉れたのである!!これが曹操自慢の【裏テク】であった。何しろ献帝を擁したのだから、上表は思いのまま。どんな高位高官でも自由自在に任命出来る。然もそれは、皇帝直々の正真正銘、れっきとした勅命によるものなのだから誰にも文句のつけようがない。
ーー更にその上、関羽・張飛ら脱出組が、おいおいに集まって来ると、何と今度は、曹操みずからが出陣して呉れたのである。
「小沛城を取り戻してやろう!」 と云うのであった。
『曹操は頼りになる!』・・・・と云う実績を、周辺に見せつけて措く必要があったのだ。勿論、宿敵・呂布に備えさせる事が最大の狙いであるが、一石で3鳥くらいの効果があろう。
さて、呂布本人が「下丕卩本城」に引き揚げた後の小沛城は、まさか曹操自身が直々に出撃して来るとは思っていなっかた
何せ曹操の周りは「敵だらけ」であったし、献帝を放ったらかしたまま、「許都」を空ける事はあるまいとタカを括って居たのである。まあ、それが大方の観る処・常識の線と謂うモノであろう。足手まとい・厄介者の献帝などと云う代物を抱え込んだ為に、身動きも儘ならず、機動性はガクンと落ち、守りの姿勢を採らざるを得無くなって居る・・・・だが、曹操の凄い処は、本来なら不利だと思われる、そうした苦しさを、逆に利用して己の有利に転換してしまう点だ。動けまいと思われている時に動けば、それはおのずから奇襲と云う効果に成って現れる。 −−果たして、見通しの甘かった小沛の駐屯軍は、その大軍団と曹操自身の大将軍旗を見ると、抗戦を諦め開城・降伏した。その結果、「麋夫人」・「甘夫人」ともそろって無事生還し、散り散りになったり、投降していた将兵も、その多くが再び終結する事が出来たのである。ばかりか曹操は、小沛城の劉備に軍糧を供与し、新たに兵員まで補充して呉れたのである。呂布に対する抑えの為とは言え、尾羽打ち枯らして逃げ込んだ劉備は、見事その思惑どうり、曹操によって厚遇されると云う離れ業を演じて見せたのであった。
コケたダメ男は、又起きたのである。一見、破茶目茶に見える、その咄嗟のハッタリも、その実世渡りのツボをちゃんと心得たものなのであろうか?とにかく、その復元力だけには恐れ入る?
−−『呂布を攻め立てよ!』程なく、小沛城の劉備に対して、曹操からの指令が齎された。曹操の意図する処は支城を劉備に潰させて、呂布を本城(下丕卩)に孤立させる事にあった。だが劉備は、これを逆手にとって、己の為に利用しようと目論んだ。あわよくば此の際、独力で除州を奪い還そうと考えたのだ。 《もしダメであっても、いざとなれば、曹操が援軍を送って寄越すだろう》・・・・と、読んだ。だから、成功した場合、妻達が曹操に捕らえられぬよう、小沛城は捨てる心算でカラッポにして、全員を引き連れての出陣となった。 夫人達も、今度ばかりは夫に途中でオッポカされる心配だけは、しなくて済みそうだと、胸をなでおろした・・・・事ではあった。
劉備は直接、呂布の下丕城を目指し南へと進軍を開始した。兵力は1万数千であった。劉備にしてみれば、彼の人生の中で、最大の軍事力を持った瞬間であった。これを逃す手は無かったーーのである。其れに対して呂布は、張遼と比肩される猛将の高順を派遣して迎撃させた。こちらは3万で、しかも天下最強の胡騎軍団が中心であった。
「ーーそれは誠か?あのアホが!何をトチ狂っておるのだ。直接下丕へ向かうらしい。あの兵力では勝てぬ。夏侯惇を援軍として直ちにゆかせよ!それにしても、どう仕様も無い戦術眼の無さよの・・・・!!」
曹操は、其の報せを聴いて状況を知るや、《儂の将兵を無駄死にさせる心算か!》とばかり、急ぎ【夏侯惇】を救援に赴かせた。−−だが・・・曹操が予想した通り夏侯惇が到着する前に戦いの火蓋は切られ、劉備軍はキッチリ、大敗北していた。
「あきれ果てた戦さ下手だな・・・・!」
夏侯惇から報告を受けた曹操は、信じられんと云った顔付きで、左右に漏らしたものだった。
「麋」・「甘」の両夫人は、又しても敵の手に落ちた。それ程のボロ負け・・・・と云う事である。捕虜にならせぬ為にと同道したのが、全くの裏目に出てしまったのである。両夫人は下丕の呂布の元へと送り届けられた。
「・・・・お帰ん・・・なさい・・・・。」「又、御厄介になりますわ・・・・。」
流石の呂布も、口アングリだったであろう。【甘夫人】に至っては、早くもこれで捕虜3回目、尚も記録更新中であった・・・・。
劉備一行はスゴスゴと、再び曹操の面前にガン首を並べるしかなかった。 「−−申し訳ありませぬ。折角の御厚情、全て無駄にしてしまいました・・・・。」
「まあ、気を落とさなくてよい。 勝ち負けは兵家の常と申すではないか。」
曹操は詰る景色も無く、サバサバしている。ハナから劉備が勝つなどとは、思って居無かったかの如くであった。そしてその後も、劉備を厚くもてなす事をやめなかった。気味悪い位の賓客待遇であり続けた。−−が、それに対して、重臣達の間からも反発が出始めた。
「劉備と云う人物は危険ですぞ。英雄たらんとする資質が有り、人の心を掴むのが巧みです。その上関羽張飛といった一夫万人に匹敵する勇将が居ります。 いつ迄も人の下に立って居るとは到底考えられぬ人間ですぞ。今のうちに殺してしまうべきです!」
−−梟雄ノ姿ヲ以テシテ、関羽・張飛ノ熊虎ノ将ヲ有ス。必ズ久シク屈シテ人ノ用ヲ為ス者ニ非ズ。
長老参謀の「程c」はじめ、そう進言する者も多かった。観る者によっては、このダメ男も、只者では無いと映っていた事になる。
「いや、今は、英雄を我が手に収めるべき時じゃ。
一人を殺して天下の心を失うのは良策とは言えぬ。」
曹操はそう言って、己の方針を変えない。こちらも亦、ケタ外れの人物である。ケタ外れ同士、凡人には解らぬ土俵・フィールドが有るらしい。
この年(建安元年)の10月、曹操は〔屯田制〕にチャレンジしている・・・つまり、この年を以って、「曹操軍の強さの秘密」が、基本的に3つとも出揃った事になる。
〈1〉、軍事面・・・4年前に【青州兵30万】をゲット。現在訓練中
〈2〉、政治面・・・・・【献帝奉戴】に成功。
〈3〉、経済面・・・・・【屯田制】導入に着手。
この3要素が〔三位一体〕となって有効に機能するのは未だ先の事であるが、劉備がボ〜っとして居る間に曹操と云う男は、既にこれだけの事を着々と推し進めていたのである。かくて建安元年は、この両雄にとって、記念すべきスタートの年となった。
【曹操猛徳】にとっては・・・・覇業の始まりとして、又、【劉備玄徳】にとっては・・・・本格的大放浪・逃げまくりの始まった年として。〔ダメ男元年〕、建安年間のいつ迄それは続くやら・・・
ーー翌197年(建安2年)正月早々・・・・絶好調の波に乗っていたと思われた曹操が、コケた。
荊州北部の「宛城」に【張繍】を攻め、降伏させたが、美貌の女・
『鄒氏』を巡って裏切られ、大敗した。(既述の如く) 嫡男・「曹昂」、豪将・「典韋」、従兄弟の「曹安民」等々を死なせ、命からがら遁走すると云う大失態を晒したのである・・・・。
ーー同年の春・・・・次には袁術がピエロになった。
念願の《帝位》に就き、【チュウ皇帝=禾に中の字】とか何とか僭称したのである。無論、誰も認めては呉れない。(※袁術伝は第4章中にて詳述する)そこで「袁術」は「呂布」と組んで、曹操=劉備はその客将・に対抗しようと考えた。呂布の12歳になる娘を息子の嫁に欲しいと政略結婚を申し入れたのだ。僭称(勝手に名乗った)ではあるが、娘が皇太子妃となり、20万石事件以来あやふやでギクシャクしていた同盟関係も修復されるとあらば、呂布には文句は無い。呂布はOKを出した。・・・・だが、この動きに待ったを掛けた人物が現れる。仕方なく呂布に仕えていた「陳珪・陳登」の父子であった。彼等は前々から曹操に心酔し、密かに好みを通じていた。だから讒言 (説得)して、これを破談にしてしまい、逆に両者間は一気に敵対ムードとなった。
「皇帝に対して不遜・生意気であろう!」とばかり、
袁術は「聖戦」と称して呂布へ軍を向けた。呂布はカンカンになって陳珪をなじり、責任を取れと脅した。すると陳珪は、袁術と連合を結んでいた「韓暹・楊奉」(一時、献帝東帰行に貢献した、白波賊の残党)に対し、裏切り(内応)工作を仕掛け、成功させた。ありったけの軍需品を提供するのが、交換条件であった。 ーー5月ないし6月、袁術軍は
この裏切りに因り、呂布軍に大敗北して潰走した
9月・・・・破れかぶれとなった袁術は、何と事もあろうに、曹操の本拠地・豫州を突っ切り、その奥の兌州に鞍替え・居座ろうと考え、北上を開始したのである!己の実力を無視して、前後の見境も無く「皇帝ごっこ」で贅沢三昧を尽くした余り、食糧備蓄がスッカラカンになっていたのである。挙句の果て・自業自得のヤケッパチ・・・・とは言え、確かにチャンスではあった。曹操は半年前、「宛城」で大敗北したばかりーーだが、基礎体力・治世基盤がケタ外れの曹操、一度くらいの敗戦ではビクともして居無かった。折りしも、「張繍へのリベンジ」の為に、バッチリ軍容を整え終わっていた時であった。飛んで灯に入る夏の虫とばかり、手薬煉しいて待ち受ける曹操陣の中へ、アホ皇帝は突っ込んでしまった。元々、半分以上はやる気を失っている袁術軍の将兵であったから、曹操親征のこの【拠の戦い】は戦さにもなら無かった。これ以上は負け様が無いと云う結末となってしまった。袁術はピュ〜〜ッと、真っ先に逃げた。淮水を飛び越して、南へ南へと大潰走・・・・だが逃げこんだ淮水の南域全体は、大飢饉の真っ只中であった。『袁術帝?』は食糧を求めて無謀な賭けに出たのだが、結果は自分が作り上げた飢餓地帯への転落であった。将兵達は「チュウ皇帝さま」を見限って、集団でゴッソリ去っていった。戦闘で既に半減していた袁術軍は、此の地において事実上消滅した。一時はA級軍団と観られていた袁術軍は、一挙にC級を飛び越えて、DからE級へと没落していった。もはや再起は不可能である。
一方【曹操】はすっかり立ち直っていた。殊に、前年から取り組んだ《屯田制》は、驚異的な大成果を上げていた。何と百万石!
こちらはA級から超A級へと昇格する勢いであった。だが、「モグラ叩き状態」は相変わらずで、東奔西走、忙しい事この上なしではある・・・・。
198年(建安3年)・・・・曹操はついに、
〔呂布との決着をつける〕腹を固めた。
最大のライバル【袁紹】が、河水(黄河)以北の全土
を統一し
そうな気配が濃厚となって来た為である!!
曹操も今のうちに、黄河以南の敵を平らげて措かねばならない。今は未だ、曹操も袁紹も《大黄河》のお陰で、直接ぶつからずに済んでいる。だが、冷静に観てこの両者こそが、いずれ覇権を賭けての大決戦の主役に成るに違いない。その激突の時までに、後顧の憂いを絶っておかねば、決戦には破れるだろう・・・・。
曹操は先ず、小手調べに劉備を進出させた。だが呂布は又しても「高順」を派遣して来た。曹操も前回同様に「夏侯惇」を増援させた。そして、その結果も・・・・劉備軍の敗退と、全く同じ
パターンとなった。 「ったく役に立たん奴だ・・・・!」
9月・・・・ラチが明かぬと見た曹操は、今度は自らが軍を率いて出陣していった。直接「下丕城」へは向かわず、先ず其の手前の「彭城」
(下丕の西60キロ)を包囲した。
−−10月・・・・彭城陥落
−−11月・・・・曹操が下丕城へ向かうと、呂布は迎撃の為に出撃。自慢の騎馬軍団を駆使するには野戦に限る。城に籠っては、その威力を発揮しきれない。 だが曹操は飛び道具を揃えて
これを撃破。「下丕城」へと追撃。包囲態勢に入る。しかし呂布も自ら城外に撃って出て来た。滅茶苦茶強い!天下無双の四文字は、この男の為にだけあった。雑兵など束になって掛かっても、てんで相手にならない。呂布奉先がゆく所、忽ちにして血の海と化す!
「射るな〜!」 余りの強さに曹操は、一瞬、《この男を欲しい!》・・・・と、思った。「あやつは生け捕りにせよ!!」だが、命じてはみたものの、それは無理な注文と云うものであった。捕らえるどころか、呂布が振るう、たった一戟に、兵の数名が撥ね殺されされていく。其処には唯、
−−馬中ノ赤兎、軍中ノ呂布・・・・だけが在った。
そして何時しか、呂布の周囲には、ポッカリと、無人地帯が出現してしまった。(以下の場面は筆者の創作であり、史書に既述は無いので悪しからず)
ーーと、其処へ唯一騎、長い髯を颯爽と靡かせて、巨馬を乗りつけた武人があった・・・・・『関羽雲長』 その人である。
「−−呂将軍、一騎打ちを所望致す。」
「・・・・関羽か。よかろう、参れ!」2つの巨神が今まさに、
三国志上、最強にして最大の一騎打ちを
実現せんとしていた!!
「参る!」 「おう、存分に来い!」
両者、馬腹を蹴るや、擦れ違いざま、渾身の力で得物を振るい合った。ガシーン!!と刃の間から火花が飛んだ。
《ーーこれは!!》両者、その一撃で、互いに相手の底の力を識った。かつて出会った事の無い感触!
《これは全力あるのみ!》更に一撃、どちらが撃ち、どちらが受けたかも判らぬほどの、力と力、武と武の激突であった。筋肉と云う筋肉が盛り上がり、血管が最大限まで膨れあがる。猛り立つアドレナリン。一刹那の弛みも無く、撃ち合うこと数合・・・・数万の将兵は全て戦闘を止め、その視線の悉くが、この2人の激闘に釘付けとなった。凄まじい光景であった。間違う事無く、其処には
【武の巨神】が居た!! 両者一歩も譲らず、引けも取らぬ。もはや技量の優劣ではない。気力と気力、真の力と力だけが、純粋にして単純な形となり、真っ向からぶつかり合う。
互いが男の全存在を賭けて、ただ只管に闘っていた濛々と巻き上がる土煙の中、2大巨神の激闘は、いつ決着がつくとも無く繰り広げられた
−−が、やがて、関羽の受けが多くなり始めた・・・・馬の差であった。両者、力量伯仲・ほぼ互角となれば、差はその騎乗する愛馬いかんに懸かって来る。
『赤兎』は天下随一の名馬。これだけの酷使にも、息さえ乱していない。それに較べて関羽の愛馬は、脚元がフラつき出している。危うし関羽・・・・!
「兄者〜俺と替わってくれ〜!」この注目の場に、もう1つの巨神が駆け出して来た。言わずと知れた『張飛益徳』であった。
「や、張飛!邪魔立てするでない!」 叱り付ける関羽。
「呂布の野郎にゃあ、この俺が一番頭に来てんだぜ!それに兄者の馬はへばってる!」
張飛は怨み重なる呂布に向かって咆哮した。
「やい呂布!この前もその前も、よくも欺し討ちにして呉れたな〜!兄貴が馬を代える間、この俺と闘え!報仇雪恨の我が大矛を受けてみよ!」
言われた呂布、ニヤリと笑った。
「構わん。2人一緒に掛かって来い!」
「な、なにィ〜〜!この俺を愚弄するってのかア!!」
「ゴタゴタぬかさず・・・・」呂布は問答不要とばかり、張飛に撃ち込むや、返す刃で関羽をも狙った。
「・・・掛かって来い!!」
「上等だ。そっちがその気なら遠慮無く、兄弟で、その素っ首頂戴させて貰うぞ!よいな?」
「やれるものなら、やってみろ!」
さあ、えらい事になった!!国士無双の呂布奉先バーサス、1人で1万の敵に匹すると謂われる関羽と張飛の、世紀の大決闘が出現してしまったのだ。
「ウオーリャアーー!!」
3者の中で最も激昂し、猖獗したのは張飛であった。先に寝込みを襲われた怨みと、今また小馬鹿にされた憤怒とが、この男の力を更に増幅させていた。普通の武人なら、我を忘れて激高したら其処を相手に付込まれる隙を生じさせてしまうのだが・・・・張飛だけには、それが当て嵌まらない。そんなレベルは超越してしまっている。この武神の場合は、怒りや怨みは直にパワーアップに繋がり、却って無限大の強さを発揮させた。しかも全く疲れていないと来た。《ヤ、ヤバイ!!》張飛の一撃を受け止めた呂布は、流石に顔色を変えた。関羽の武には、謂わば気品・風格があるのだが、張飛のそれは粗野・凶暴そのものであった。呂布はその両方を兼備している分、夫れ夫れに秀逸な2人に掛かられては手に余る。「デェ〜イ!!」張飛の猛撃。関羽は手を出さない。
《こりゃ、二人は無理だ!》今、関羽は攻撃を控えて居るが、もし本気で2人同時に来られたら、ちょっと手には負えまい。
「ーー今日は、これ迄だ。愉快だったぞ!」
言うや呂布は、赤兎の腹を蹴った。
「あ、この野郎!キッチリ闘え!」
「止せ、追うでない張飛!2対1では誇りにはならん」
これ以後、呂布は二度と出撃せず、城内に立て籠もった。
「ひゃ〜、驚いたぞ!」と、劉備。
「関羽も張飛も、こんなに強かったとは・・・!!俺は、こんな凄い将を独り占めしていたのか!?」今更なにをのたくって居るのかこの劉備と云う男・・・・・
(↑フィクション終了)
その後、戦況は一進一退。一時は呂布が降伏を考えたり、曹操も兵を退こうかと迷う程の、きわどい根競べとなった。・・・・が最後は、『荀攸』と『郭嘉』の軍師・参謀の計略が勝敗を決した。泗水と沂水を決壊させて、下丕城を水中に半ば水没させてしまったのである。−−12月・・・・ついに呂布は捕らえられ、下丕城は陥落した。曹操は、門の下でグルグル巻きにされて居る呂布を眼の前にして、一瞬、その処遇を躊躇った。
《生かして使うか、やはり殺すか・・・・!?》
その時、傍らに居た劉備が、突然、大声で進言した。いつもは煮え切らぬ態度(茫洋とした態度)の此の男にすれば、ビックリする様な明言・主張であった。
「生かしてはなりませぬぞ。
こんな、危険で信用出来ぬ者は、
すぐさま殺してしまうべきです!!」
よっぽど怨みが骨髄に沁み込んでいた。
−−縊り殺される寸前、呂布奉先は、天に向かって、
最期の言葉を叫び残して逝った・・・・。
「この大耳野郎こそ、
此の世で一番
信じられぬ奴だぞ〜!!」
※「呂布伝」は第4章で詳述するが、余話を2題ほど紹介しておこう。
〔その1〕関羽が、名馬・『赤兎』を手に入れた・・・とされる理由
どの歴史書にも、関羽が「赤兎馬」に乗っていたとは
一行も書いて無い。では何故「演義」作者の羅漢中は
関羽に赤兎を与えたのか??実はチャンと「ネタ」
が、『正史』に載って居るのである。
但し、陳寿の本文では無く、斐松之の補注の中で、しかも「他人の伝」の関連話として、チョコッと出ている
与太話の類である。ーー魏の明帝(3代目の曹叡)紀に出て来る、驍騎将軍「秦朗」の父親を説明する為の
補注・・・・『献帝伝』=(著者など一切不明のシロモノ)の記述・・・・・
『秦朗の父は名を宜禄という。呂布の使者となって、袁術の元へ至ったところ、袁術は漢王室の一族の娘と(宜禄を)結婚させた。彼の前妻の『杜氏』は「下丕」に留守を守って居た。呂布が包囲された時、
関羽は何度も太祖(曹操)に願い出て、『杜氏』を妻にしたいと頼んだ。だが、太祖は彼女が美貌かどうか怪しんだ。城が陥落してから、太祖は彼女を目通りさせ、自分の
方で (関羽を出し抜いて) 側妾に入れた。』ーーヒドイ話である。又、いかにも女好きの曹操らしい逸話でもある。・・・・で、羅漢中は、これに眼を付け、関羽のキャラクター上、
『関羽は何度も願い出て、戦功の褒美として「赤兎」を
欲しいと曹操に頼んだ』 と、置き換えたのである。余りにもヒデエ話だから、流石に曹操も気が引け、きっと「美女の代わりに赤兎を与えた」であろう・・・・と考えた・・・・訳である。
だが筆者は「赤兎」うんぬんよりも
《ナマの関羽》・《関羽の懸想》=【関羽の恋】の方に、より生き生きとした、彼の実像・親近感を覚える。後世、《神》にまで祀られ、崇められる人物が、「ヒトづま」に一目惚れして日参していたのでは、矢張どうも具合が悪い?だろうが、関羽だって生身の人間・・
そうそう何時も、毅然堂々として居た訳ではないのだ。こっちの方が、何だか嬉しいではないか。
〔その2〕 呂布の軍師【陳宮】の最期について
陳宮は捕縛され、呂布と並んで曹操に対面した。旧主である曹操が問う。「公台(陳宮)よ、君は常々あれほど己の才を自認して居たのに、この仕儀を何と説明するのかね?」
意地の悪い質問だが、散々煮え湯を飲まされ続けて来た曹操にしてみれば、これ位は許容範囲だろう。
「此の男(呂布)が、儂の言う事を聴かなかった為に、こんな事に成ったのだ。もし言う事を聴いていたなら、必ずしも生け捕りに成るとは限らなかったものを!」
「では、今日の事態を、どうする心算かな?」
「臣下としては不忠者であり、子としては親不孝者だったのがから、殺されるのは自業自得だ。」
「君はそれでいいだろうが、君の年老いた母親をどうする心算か?」
「私は〔孝〕の倫理を以って天下を治める者は、人の親を害さないと聞いている。老母の生命は、貴方の心に掛かっている。」
「君の妻子はどうする?」
「私は〔仁〕による政治を天下に行う者は、人の祭祀を断絶しないと聞いている。妻子の生命は、貴方の心に掛かっている。」
「−−・・・・。」
「さあ、どうか早く表で処刑して、軍法を明らかにして戴きたい!」
言うと陳宮は立ち上がり、振り向きもせず、表へと走り去っていった・・・・。
『麋』・『甘』の両夫人が救い出された。丸2年ぶりの対面であった。2人とも長い軟禁生活で、やはり大分やつれている。いつ殺されても仕方の無い【命の保証無き日々】の連続であった。ともすると絶望しそうになる心を、互いに励まし合い、慰め合って、耐え忍んできた数百日であった・・・・。
「誰を恨みますまい。これが私達の戦いですものね・・・・!」
「ああ見えても、夫は強たかです。必ず又、迎えに来てくれます。ですから私達も図太く生き残りましょっ!」
まさか、「妻女は衣服の如きものだ」などと言われていたとは思っても居無い。幸い、呂布もその妻も、丁重な扱いで接して呉れてはいたが、 戦況いかんでは、どうなるか・・・・心の安まる日は、1日とて無かった。ーー1年・・・・そして2年と時が移ろえば、このまま生きて帰れぬかも知れぬと幾度も、何度も思った。
夫の顔を見るなり、若い正妻・「麋夫人」の方は、人目も憚らず、劉備の胸に飛び込んでいって、不甲斐無い夫の胸板をドンドンと叩いた。はしたない・・・・などとは言わせまい。この2人に限っては、どの様な振る舞いも許されよう。
「−−・・・長い間、すまなかった・・・。おお、こんなにやつれて・・・苦労をかけた・・・・!」
優しく肩をだかれて、耳元で息を掛けられると、さすが
気丈な麋夫人も、夫の胸の中で泣きじゃくった。
思えば彼女は未だ、新婚早々の【新妻】なのであった。それなのに、共に過ごした日々は、ほんの数ヶ月あとの2年以上は、〔捕虜生活〕を強いられて来たのだ・・・・「甘夫人」 も亦、薄っすらと涙ぐんで居る。こちらはツマしい女だから、只ただ立ち尽くして啜り泣いていた。彼女の方は、トータルの捕虜生活が更に長く、既に3回も置き去りにされていた・・・・。
ひどい夫である!信用度はゼロである・・・・でも此の世で唯一人の夫であった・・・・かくて劉備は2夫人を取り戻して貰い、曹操にくっ付いて、「許都」に帰還したのである・・・・。
武勇なら関羽・張飛をも凌ぐ、
天下最強の男・【呂布奉先】は消滅し、
天下最大のダメ男・〔劉備玄徳〕は、
生き残った・・・・・。
【第51節】 夢か現か、バベルの城→へ