【第48節】
「ーーもはや《兄者》ではないな。・・・・我等の【御主君】だ!!」
その道々で州民の歓呼を受け、小沛城を出発した
劉備一行は、州都の〔下丕卩城〕へと向かう。
劉備の左右に轡を並べる関羽と張飛は誇らかに
胸を張り、威風堂々たる将軍ぶりである。
「これからは、人前では決して《兄者》と呼ぶまいぞ。我等こそ第1の家来として、臣下の礼を尽くそうぞ!よいな、張飛!!」
「おおズンと承知!押しも押されもせぬ立派な我等の【殿】じゃ!」
関羽と張飛は互いに眼を合わせて頷くと、すぐ前を行く劉備の背中を、尊敬の念を持って見やるのであった。大耳が頼もしい。この思いは、付き従う兵卒の一人一人も同じであった。まさか用心棒集団だった自分達が、こんな晴れ姿で、万余の人々に迎えられようとは、夢の様であった。皆が皆、誇らしさに顔が紅潮している。 こそばゆい様な晴れがましさであった。甘夫人の車駕もつましく従う。やがて城の内外を埋め尽くす黒山の州民から熱烈な歓迎を受けつつ一行は下丕卩の本城へと入城した。
城内でも、新君主を迎えるべく、文武百官が彩やかに左右に居並び、 劉備一行を礼拝して出迎えた。劉備はこれが当然の如く鷹揚に堂々と振舞っている。とても 俄に除州の君主に成ったとは思えない美事な挙措である。小さい場所なら小さいなりに、大きくなれば大きいなりにどんな位置にも嵌ってしまう。特別構えて肩も張らずに、すんなり納まってしまう。
《−−やはり、器だ・・・・!!》劉備が単なる兄者・親分では無く、己達の主君である事を、今更ながらに実感する関羽と張飛の弟達であった・・・・。
これが194年の事である。劉備にしてみればせめて2、3年はじっくり除州の政治に取り組み、軍の強化もしたい処であった。 だが、時局はそれを許さない。《州牧・陶謙死す!》・・・の情報は近辺の群雄を いたく刺激し、 領土拡大の野望を惹起させた。
「どこの馬の骨とも知れぬ《劉備?》如きが治める除州など、この俺が真っ先に奪い取ってやるわい・・・!」 曹操も 呂布も 袁術もそう思って居た。−−陶謙の死を境に、除州の覇権を巡る攻防戦がまさに始まろうとしていたのである。
この 『除州攻防戦』で、 やがて群雄は淘汰され、劉備は、
【負け逃げ人生渡り鳥】の〔大放浪〕を、おっ始めるのである。劉備玄徳、すなわち関羽・張飛の3兄弟は、今迄すでに、『公孫讃』ー→『陶謙』と渡って来た。今後、『呂布』ー→『曹操』ー→『袁紹』ー→『劉表』ー→そして『孫権』・・・と更に天下相手の〔逃げまくり人生〕を送る事になる。
目星しい群雄すべてに、一度は身を委ねてワラジを脱ぎ、 一宿一飯の恩義を蒙りながら、しぶとく、したたかに負け残っていく途中でポシャらずに、残り続けていく。 他の群雄が悉く亡びていく中を、巧みに泳ぎ廻って、ついには、『軍師・孔明』との邂逅を果たす!ーー負け続ける途中ブザマに妻女を置き去りにして たった独りで逃げ出す事3回。関羽・張飛ともバラバラになったり 相手を裏切ったり、 何ともみっともない事のオンパレードである。だが、へこたれない。ポキンとは折れない。そして生き残っていった・・・・壮大な負け逃げ人生 と、謂えようか!?
では、劉備と関羽と張飛達による、天下相手の【大放浪】を追ってみよう・・・・・
就任早々、はやくも「除州」を取り巻く周辺諸国の動きが慌しくなった。翌195年になると、早速1月に【曹操】が仕掛けた。相手は【呂布】であった。この2人は前年、例の蝗の大軍に因るサスペンデッドの儘、睨み合い状態にあった。が、両者共に食糧が無い。 何しろその年、飛蝗の害は全国各地に及び、米1石が50万銭、人は相い喰らい、野辺には白骨が山を成した・・・・と記された程だ。結果、呂布は食糧を求めて兌州内をウロついた後、東へ百キロ移動して「山陽郡」に駐屯した。曹操も亦、甄城を捨て北の「東阿」に緊急避難した。「東阿」は、冀州(袁紹領地)との州境に在る小都市に過ぎない。そんな曹操の元へ、冀州の袁紹から、『援助してやるから、俺の下につかぬか?』と云う誘いが来た。
(一応慣例として人質は預かるが・・・と云う条件付き) 流石の曹操も、この時ばかりはマジで、その気になった。それ程の窮地であった。
袁紹と曹操は、未だ気ままだった青春時代を、ポン友として過ごした間柄でもあった。だから今でも袁紹の心のどこかには曹操の兄貴分・庇護者を任じている心情があったのである。無論、己の後背を安泰・慰撫させる為であり、いずれは己の配下部将の1人に加える心算でもあったが。
「・・・現状では仕方あるまい。援助を依頼しよう。」
だが、参謀のひとり、60歳の「程c」が諌めた。
「曹操様らしくもありませんな。窮地のあまり気遅れ召されましたな?さもなくば何で、こんな浅知恵な事を言い出されるのです。袁紹如き男の風下に甘んずる御心算なのですか?兌州は呂布めに荒らされたとは言え、なお3つの城が残って居りまする。兵力も精兵一万を下りませぬ。 殿の神武に、荀ケや私供がお力添え致し、 この精兵を よく用うれば、天下統一の覇業も必ずや成就いたします。どうか弱気の虫を追い出されて、御熟考下されたし!!」 励まされ、曹操は、これを取り止めた。
※留意注目すべきは、2年前、傘下に収めた青州黄巾党100万青州兵30万は、この時点では未だ、何の役にも立っていない事である。寧ろ、この時点では、曹操のお荷物・大きな負担と成っていたと思われる。曹操の手持ち兵力は1万余に過ぎない。
ーー諫言を受けた直後の(195年)正月、曹操は俄に軍を発して南へ100キロ余進撃、《定陶城》を包囲した。定陶は郡都であり、大きい食糧があるらしい。−−が、守りが堅くてなかなか陥とせない。すると、東から呂布が救援の為に出撃して来た。曹操は城攻めを止め、急遽、呂布を迎え撃ち野戦となった。
所謂、世に【定陶の戦い】と呼ばれるミニ決戦である。曹操は巧みに兵を折り敷かせてこれを撃退した。夏、次の「鉅野城」でも同じ形となり、呂布は再び撃退される。
「呂布め、これで可也応えたろう。よ〜し、呂布は後廻しだ。除州を奪ろう!」 だが、逸る曹操を、今度は「荀ケ」が諌めた。
「その昔、漢の高祖は本拠に深く根を下ろし、基礎を固めてから天下制覇に乗り出したのです。兌州は北に黄河、南に済水を控えた天下の要地です。此処に居る限り恐れる心配は有りませぬ先ずは、此の地を確保せねばなりません。 もし呂布をこの儘にして除州攻略に向かうとします。後方に備えて多くの兵を割けば攻めるに攻められませぬ。 呂布がその隙に攻め込む様な事態ともなれば、民心は一層動揺し、 3城しか保てぬでしょう。これは兌州を失ったも同然で御座居ます。 もし、除州攻略に失敗したら殿は一体どこへ帰る御心算なのですか!?」
「−−−・・・・。」
「除州は、そう簡単には落とせますまい。先年の敗戦に懲りて、守りを固めておりましょう。 麦の刈り入れも終わり、迎撃準備も備蓄も万全でありましょう。攻略も出来ず兵糧も奪えぬでは10日も経たぬうちに 10万の兵が、 戦わずして窮地に落ち込むのは眼に見えております。加うるに、前回きびしい懲罰を科した為(大虐殺をした為)除州の子弟は父・兄の受けた辱しめを 忘れてはおりませぬ。 進んで戦い、降伏など 断じてしないに違いありませぬ。こんな民心では、たとえ勝っても、 なお保持するのは困難です。」
「−−ウムムム・・・・。」
「・・・・全ての物事は、2つに1つです。大を以って小に当たるか、安全を以って危うきに臨むか、勢いに乗ったら基盤の弱さを気にせず進むか・・・・処が今は其3つ共が、どれも当てはまりませぬ。どうか、よくよく、この事を御熟考ください。」
曹操はハッとして、眼から鱗が落ちた。 彼は幕臣の意見をよく聴いた。その通りだと思えば、直ぐ実行した。又、言って呉れる超一流の相手が居た。劉備には居無い。曹操は逸る気持ち・進撃を抑えて内政の充実に取り組み、着々と力を貯える事に専念した。
そこへ呂布が、軍師の陳宮を伴って、1万余の兵力で3たび攻め込んで来た。然し、兵を伏せ、誘い込んで大勝した。
呂布は今度こそ大敗し、潰走した。
「な、何にィ〜!?あの呂布が此処へ来るだと〜〜!!」
【張飛】が眼をひん剥いた。
「そうだ。儂を頼って落ち延びて来たい・・・・と、言って寄越した。」
「それは止めた方がいい。あいつは虎や狼の朋2度も主(義父)を殺した奴を引き入れたら、ロクな事にはなりませぬぞ!!」
【関羽】も強く反対した。 関羽をして猶、「虎」とか「狼」、「人では無い」と言わさしむる男ーー
呂布奉先・・・・・
だが、劉備の考え方は違った。
「いや、そうとも言い切れまい。先に、我等が危うく曹操に破られそうになって助かったのも、呂布が背後を付いて、兌州を襲ったからではないか。そして今、彼が行く処も無くこの儂を頼って来るというのに、もし受け容れなかったら、《信義》を失う事になるではないか。」
《信義》を出されたら、この義兄弟達は弱い。自分たちの本分でもあり、実際今迄の人生は、他人の信義によって生かされて来ていた。流石に劉備は弟達の「落とし処」をよく識っていた。何か言おうと口ごもっている両人に、劉備は更に言った。
「よいではないか。呂布の勇名は、天下に鳴り響いている。その呂布が、劉備の下に身を寄せたとあらば、儂の【貫禄】も上がろうと言うもんではないか!」
劉備は呂布が欲しかったのだ。呂布の有するネームバリューを利用したかったのだ。彼が居るだけで、曹操への抑止力に成る。又、現実にも、もっと直属の武力が欲しかった、のである。・・・・今、確かに劉備は、除州の牧ではある。だが実力が伴っていなかった。 陶謙の旧部将達が多く、肩身が狭い。劉備が引き連れて入城した直属部隊は、彼等の10分の1にも満たないのが現実であった。そこに呂布の軍勢が加われば、一挙にグーンと威令が効こうと言うものだった。又、使いこなせれば、呂布の強さは関羽や張飛を凌ぐかも知れない。
《・・・・さて、どうする・・・・?》どんな態度で迎えるべきか?己の陣営に一軍の将を迎えるのは初めての体験である。いつもは、こっちが迎えられているばかりだった。然も相手は、天下無双の超大物である。はっきり言って、評判は悪い。長安を落ち延びて以来、呂布と云う男は、袁術にも、袁紹にも、他の群雄からも、門前払い同様の扱いを受け続けて来ている。(詳細は後述)
《−−それ程、手に負えぬ人物だろうか・・・・?》
世の噂ほど当てにならないものは無い。実際に会ってみなくては判らない。それに、《人誑し》なら自信は有る。
「−−ま、何んとかなるだろう・・・・。」最後はいつも是れである。
取り敢えず、歓待する事にした。何せ社会的名声ネームバリューでは、呂布の方が「数段上」だ。劉備などは、駆け出しのペイペイに過ぎない。《どうせ迎えるなら、いっそ歓ばしてやろうか・・・。》
劉備は、呂布到着を聞くと、賓客用の豪華な邸を従僕付きで、丸ごと宿に提供してやった。その上、翌日・・劉備の方から表敬訪問に出向いたのである。これは異例中の異例の事だ。礼儀としては当然、呂布の方から挨拶に出向いて来るべき 筋の話である。
「たかが落ち武者ずれに、甘やかし過ぎではありませぬか?」
関羽・張飛は不満そうであった。
「な〜に呂布とて人の子じゃ。俺は俺流でいくさ。」
《−−ほう・・・・!?》会うと劉備は意外の感に打たれた。中々の美男子であった。 巨人であるのに均整がとれ惚れ惚れする様な「男」の匂いがする。 獰猛極まりない顔付きの、抜き身の刃の如くにギラついた人物かと思いきや、『呂布奉先』は、純な一面の有る快男児に見えた。
デカイ!日頃、関羽や張飛と云う、巨人を見慣れている劉備でも驚く程に巨大である。巨人族特有の、やや顎のしゃくれた顔付も歴戦で引き締まり、表情も明瞭であった。ーー呂布は、劉備の来訪を聞きつけるとドカドカと飛び出して来た。そして不器用だが、感激の色を、精一杯に表わそうとしているのが判った。恐らく彼の人生の中で、他人に謝意を表わすなど生まれて初めての体験であるだろう・・・・どう振舞ってよいのか判らず、何処かぎこちない。言葉もたどたどしい。よ〜く聞くと、ラ行の発音が舌足らず気味だった。
「オデ(俺)は、あんたと同じ、辺境の出身だ・・・。」
だから共通点があり、互いに相通じ合うものが有り、解り合える筈だと言いたいらしい。この巨神は喋る方は苦手の様だ。2つの事柄を接続詞でつないで、同時に語る事が出来無い。きっと頭の中の思考回路も、単純明瞭をベースに組み立てられているに違い無い。
「・・・・関東で群雄が兵を起した・・・・。俺は董卓を誅殺する決意を固めた・・・・。董卓を殺した・・・。その後、東へ出た・・・。だが、関東の奴等は、誰も俺を迎え容れ無かった・・・・逆に俺を殺そうとした・・・・俺を迎え入れて呉れたのはあんただけだ。俺は嬉しい。本当だ。こんなに嬉しい事は無い!」呂布の顔はニコリと動いたが、眼は鋭いままの、凄い笑い方であった。彼にしてみればそれが満面の笑みであるらしい。呂布は劉備の手を取ると何と寝室(張中)まで誘い己の寝台の上に座らせ、自分は床に胡坐をかいた。(アグラは中国では稀有の所作であり胡人=ペルシャ人の風習) 然もその上、妻を呼び寄せ挨拶させたのである!
(本書読者には、もう充分お解りの事だが)妻を人前に出すなど、古代中国では、殆んど考えられぬ接客法であった。そのタブーを敢えて破ってまで、呂布は破格の謝意を示したかったのだ。
「−−おお、これは・・・・!!」
劉備は更に驚いた。挨拶に出た呂布の妻はハッと息を呑む様な眼の醒める如き、超美人であったのだ!劉備がこれまでに接した女性の中では、別世界のズバ抜けた美形であった。
劉備はこっちの方は淡白な部類に属するがそれでもドキリとしたそんな劉備でさえも、つい閨房の姿を想起してしまう程であった。もしこれが、曹操レベルの男なら(そうで無くても)、ムラムラッと情念の炎を燃やすこと必定な妖艶さであった・・・・!
※ 小説では、この美女を『貂蝉』だとして扱うものが殆んどである。だが既述の如く、彼女は「演義」の架空の美女であり、劉備の前に現れる筈が無い。とは言え、呂布の妻が美貌の女性であった可能性は高い。 何故なら・・・・のち、呂布が最期の苦境に陥った時、彼女の一言に心を乱される故である。愛妻が必ずしも美人とは限らないが まあ一般的にはそう推測してもよいであろう。
「傾城」の美女とは、よく言ったものである・・・・・
呂布は次々に料理を勧め、頻りに酒を勧めては、ひたすら黙々と飲食した。それがこの男の、精一杯の感謝を伝える表現方法であった。
「・・・・弟よ・・・・俺は本当に嬉しい。さ、もっと呑んで呉れ!弟には、いつか必ず俺は恩を返す。」
酒が廻って(当時の酒は、アルコール度が極めて薄かったから、相当な勢いであおり続けてから)、すっかり呂布は打ち解け、気を許すと、引っ切り無しに、劉備を「弟」、「弟」と呼んだ。
《−−こやつ、矢張どこか、常識外れだな・・・・。》
顔には出さぬが劉備は内心ムカッと来た。世間一般では、たとえ少し年長であろうと、相手を敬い「兄」と呼ぶ。まして立場が立場だけに尚更であるそれを平然と、「弟呼ばわり」して居る。同じ年頃で相手を「弟」と呼ぶのが許されるケースは「完全に身分が下」 の相手に限られているのである。
《ま、義兄弟になろうって事だろう。悪げも無く出る言葉だ。呂布流の友好の情と受け取っておこう》
劉備は、だいぶ人間が練れて来ていた。
劉備は呂布に、【小沛(しょうはい)の城】を与えてやった。今まで自分達が居たこの城は、現在、事実上の空き城となっていた。正式な (漢王朝が定めた) 行政区画では、豫州内に少し飛び出しているが、除州の勢力下に在る。ーーそして・・・・『曹操』に近い。曹操が攻め込んで来たら、先ずは、お先棒の盾となって、バッチリ戦って戴こうと云う腹づもりであった。 呂布にとって曹操は、もはや、ノッピキならぬ「宿敵」と成っている。
《ーーまさか寝返りの心配は無いであろう・・・・。》
この年(195年)の10月・・・曹操は朝廷(長安政権)から正式に「兌州牧」に任命された。曹操はその以前の8月に其れまで呂布の盟友として戦って来た張超を「雍丘城」に包囲した。そして12月に城を落とし張超は自刃し、その一族は抹殺されてゆく。・・・・つまり、一旦呂布(及びその連合)に乗っ取られて荒らされた、己の本拠地を、完全に回復し、周辺の雑魚(?)どもを、着々と平らげつつあったのである。その実力の証明書が、「兌州牧」と云う訳であった。
翌、196年は改元されて、いよいよ三国志の代名詞とも謂える【建安年間】が始まる。この「建安元年」は、大激動の一年となる。なかでも【曹操】が風雲児となって、大きく時代を方向づけその動きが一際クローズアップされてゆく。そして又、『劉備』の 〔大放浪〕が始まる年ともなるのであった・・・・・。
劉備は決して「お人好し」ではない。だから、好意だけで呂布を迎え入れた訳ではない。ちゃんと其れなりに計算しているこのアブナイ巨獣を飼いならして曹操に当たらせた場合と、野に放って置いた場合のバランスシートを天秤に掛けている。そして新米長官としては、時局逼迫状況に鑑み、その措置をプラスと判断した。だが、必ずしも、その必要性があったかと言えば、そんな事も無かろう。・・・・やはり何処かに、人の善さ・大らかさが感じられる。「義侠・仁侠の風」を実践して居た、小集団の親分的肌合から脱却していない。蓋しこの事は、『時局認識の甘さ』と同義語でもある。・・・・然して、この時の劉備の心理分析は難しい。今迄常に他人を当てにしていた境遇から一転、初めて大物から頼られる事となり、《舞い上がり現象》 が在ったやも知れぬ。だが最終的には、心理と言うよりは、やはり、人格的理由が大きかろう。己の器を過大評価するような、ハッタリ傾向は在ったであろう。
又、これを《面白い!》と感ずる大らかさ、無頓着さに因るものであったかも知れぬ。いずれにしても、判らない男だ・・・・・!
そして、この【呂布受け入れ】がーードジの踏み始め・ケチの付き始めとなる。関羽や張飛のマトモな諫言を蹴って迄、危険な〔貫禄ごっこ〕に手を出したツケは、直ぐに廻って来る・・・・。
この、我が友・呂布との器くらべは、奇妙な「侠」に拠る、
『裏切り合戦』の様相を呈してゆく。
だが、どちらも陰険ではなく単純明快
何処か互いに憎めない・・・・・
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