第47節
棚ボタ式大出世
        


棚からボタモチ・・・時として世の中には信じられぬ様な「美味しい話」が転がっているものだ。それも「昨日までは只の人、一晩明けたら大英雄!」と云う、夢の様な、本当の話である。
それまで鳴かず飛ばずの手詰まり状態だった劉備集団が・・・・・突如一夜にして、【一国のあるじ】・【群雄の一人】と成り上がってしまったのだ!然も、な、何と、人口百万10万の軍隊まで付いた中原の大州を、そっくり丸ごと其の儘プレゼントされたのである策謀や戦闘は一切無し。ただボ〜っとして居たら、人柄だけを見込まれて、正式に譲られてしまった、のである。
嘘の様な、本当にあった史実★★−−である!
まさに《棚ボタ式大出世》であった。世の中、こうでなくては面白く無い。それにしても、信じられぬ様な、〔ケタ外れの話〕ではある。

ほろ苦デビューから10年間、結局は何を得る事も出来ず今もヒト様(公孫讃)の御厄介ごやっかいになって居る劉備3兄弟であったのだが・・・その当時、劉備の周辺では青州刺史しし2人出現★★★★すると云う異常事態が起きていた。先に就任していたのは、公孫讃が任命した『田楷でんかい(劉備の直属上司)であった。 それを承知で、後から『袁紹』が新たな青州刺史ししを任命したのである。長男の「袁譚えんたん」を、青州刺史と名乗らせ、「田楷でんかい」を攻撃させたのだ。本来の任免権は、朝廷だけにしか許されず、皇帝権力の重大な専権事項である。だが、もう此の時点では後漢王朝の権威は地に落ち、群雄達が自分の都合で、勝手に自前で任命し始めていたのだ。・・・・「田楷」・「袁譚」の両者ともが、そうした自前の刺史であった。勝った方が世間から其れと認められる−−時流は既に、実力本位、より力の強い者だけが勝ち残ってゆくと云う【シビアな乱世】に変貌していたのである。・・・・攻撃された田楷に対し公孫讃は隣接する平原郡で「しょう」を任されていた『劉備』を、独立遊撃軍として救援に向かわせた。(公孫讃本人の本拠地・ゆう州は、青州との間に、州を挟んで300キロも離れており、自分自身からは手が出せなかった。)出撃した劉備軍は、そのまま暫く、この青州・斉国さいこくに駐屯する事になった。

ーーすると193年の秋・・・・今度は、その劉備と田楷に対して、南接する
じょ陶謙とうけんから、救援依頼が飛び込んで来た。除州の北西・えん州に根拠を持った曹操が、その全力を率いて「陶謙」を攻撃して来たのだった。−−その曹操、陶謙の配下に父親(曹すう)と末弟(曹徳)を殺害されてしまったのだ。(陶謙自身には全くそんな気すら無かったとする記述と、陶謙の指示とする記述など、詳細は不明。) 退官して故郷の言焦しょう県に隠居していた父親の曹嵩そうすうは、董卓にまつわる戦禍を避ける為、除州北部の瑯邪ろうや国に移居していたのだ。曹操は烈火のごとく激怒した。全ての軍事行動をストップして、その復讐の為にだけ全軍を注ぎ込み、雪崩れ込んで来たのだ!肉親に対する愛情の人一倍強い曹操である。しかも、自分を世に出す為に、その人生を傾けて、育てて呉れた父親が殺されたのだ。猛り狂った!!その報復たるや大魔王・董卓も真っ青【史上最悪の大虐殺】となった・・・・・。
曹操のとした10余の城市には、鶏や犬すら消え去り、生きとし生ける生物は皆無と成り涯てた。虐殺された男女数十万の死骸で、泗水(しすい)の流れが止まる程であった。(本書・劈頭に既述)
61歳陶謙すくみ上がり、「炎乃たん」に籠城して、敢えて出撃しようとしなかった。ひたすら田楷・劉備の来着を待った。この時、劉備は、救援に際して、非常手段を採った。ーー飢えた農民数千人を狩り立て、無理矢理に配下に組み入れたのだ!彼の手持ちの兵力と謂えば、千の歩兵と、烏丸うがんの雇われ騎兵(雑胡騎)5百ばかりで、大軍に当たるには余りにも弱体であったからだ。(太史慈に3千の救援軍を送った時より弱小化している。)
にわか仕立ての飢民兵でも、盾代わり位には成るだろう・・・と謂う訳だ。自分が直接治めていない他領の農民には、非情で冷酷である。背に腹は替えられなかった。(※15年後、赤壁戦直前に曹操の侵攻を浴びた際に、数十万の農民が劉備を慕って一緒に逃走するのとは雲泥の差である)
劉備】が、そのオンボロ集団を率いて除州に入ると、『陶謙』は直ちに出迎えて会見した。 すっかり脅えきって居た、体調不良
(61歳)の陶謙は感謝大感激。劉備に会って言葉を交わすやたちまちその人物を信頼して見込み、彼の親衛隊・虎の子とも言える4千の丹陽兵(精強兵)を供与した。
貸したのではなく、
呉れたのであるそれはそうであろう。危急存亡の時に、ケチな事は言って居れない。その上、老衰に因る健康不良で、己の余命にも不安を抱いて居る、今日この頃でもあったのだ。
《いずれ近々、他界するにしても、此れまでの業績を踏み躙られ殺されて終わる様な羽目にだけは遭いたくない・・・・!》
イキのいい丹陽兵が加わり、田楷部隊とあわせれば、これでどうにか、見た目には1万を越える陣容となった。
いよいよ
曹操との、初の★★対決である−−思えば今・・・・劉備は雑多とは言え、1万と云う大軍の指揮を司る司令官である。これ迄の人生では5百とか千、多くても3千どまりの部隊長でしかなかった。こうなると、【関羽】・【張飛】の存在は頼もしい。今、大軍を率いても、全く〔位負け〕していない。 生まれながらの大将軍の如く、威風堂々、凛毅泰然。いや未だ未だ役不足とさえ思える程の底知れぬ武勇を感じさせる・・・だが果たして、この寄せ集めの1万で、猛り狂った曹操軍団に太刀打ち出来るのであろうか?
内心、些か危惧する劉備ではあった。

ーー果たして・・・・除州北部・父親殺害の現場となった瑯邪国ろうやこく深くまで侵攻した曹操は、その周辺を虐殺し尽し地上から全ての生物を消し去った。更に、怒りをぶつける対象が無くなってしまった曹操は、次なる獲物を狙って南下を開始。その進む先の「炎乃たん」城には陶謙が居た。そしてこれを守る形で、その東に、劉備軍は陣を敷いて居た。ーー両軍は激突した!!・・・・・が、相手は強過ぎた。寄せ集めの劉備軍は、ガッタガッタにボコされて、見るも無残に潰走した。ところが、である。曹操はこの戦闘でやりたい放題やると、サッと本拠地のえん州へ引き揚げてしまったのである。 《−−−??・・・・???》
一時の激情に駆られて出撃したものの、曹操も、そうそう長期間本拠地をカラッポにして置く訳にはゆかなかったのだ。いつ
袁紹などに、その隙を突かれ、攻め込まれるか心配になったのだ。又激昂に任せての、無計画な急出撃であった為、兵糧も底をついてしまっていた。
こうして陶謙の除州は、かろうじて曹操の復讐戦に耐えた。だが陶謙は心配で心配で堪らない。猟犬の様な曹操だ。狙った獲物は決して諦めまい。再侵略は直ぐにでも有るだろう・・・・。そこで「陶謙」は【劉備】に泣き付いた。懇願して、是非にでも、此のまま除州に留まって呉れるよう要請した。 タダとは言わない。正式に上表した形をとって《
豫州刺史よしゅうしし》に任命し、「小沛しょうはいの城」も差し上げよう・・・・・大判振る舞いである。よっぽど自信が無い。
(※以後、劉備は
豫州よしゅうと呼ばれる事となる。官位が高くなった人物の呼称は、「姓+字」ではなく「姓」の下に官職・官位を付けて呼ぶ。)

劉備は田楷とは異なり、一応は公孫讃の「客将」であり、正式な家臣では無い・・・・とも言えた。謂わば、根無し草の傭兵部隊であるから、多少後ろめたくても
公孫讃から陶謙へと、ちゃっかり、シッカリ鞍替くらがえする事にした。この「ダメ男」の人生に於ける、第1回目★★★主人替え・(背信行為?)であった。尤も、御本尊は、そうは思って居無い・・・・に違い無いが・・・・・。
そこで「仕方あるまいな。」とか何とか言いつつ、結局は、陶謙の元に身を寄せる事にした。
194年(興平元年)、劉備玄徳33歳の時の事である。
              (献帝が長安を脱出する前年に当たる。)
劉備・関羽・張飛は、
小沛しょうはい に入った。
「ゲヘヘ、兄じゃ、やったな!〔劉豫州よしゅう様〕だぜ!これで俺等も鼻が高いや!」  張飛は単純に喜んでいる。

「ま、名目だけの肩書き、と云うやつだな。だから、
                     嬉しさも半分ってとこかな?」
「とりあえず目出鯛が、この小沛しょうはいでは油断は出来んぞ。」
関羽が言う迄も無く、小沛しょうはいの位置は、誰が観ても、【捨石すていし弾除たまよけ】でしか在り得無かった。曹操の「えん」と陶謙の「除州」の間に、細長く割り込んでいる「」の最北端に位置していた。
ーーつまり、曹操軍が除州へ侵攻する時、真っ先に★★★★襲われる。
  小沛
ていのいい防波堤・盾がわりの番犬、用心棒である。こう云う尖兵せんぺいの役割・立場を爪牙そうがと呼称して、おだてた。
「・・・ま、用心棒稼業に変わりは無いが、今度は守るべき相手がデカイのだ。ひとまず善しとしようではないか!」 何がし、曹操のお陰で、思わぬ拾い物をした様な、変な具合ではあった。一方、『陶謙』としては、何が何でも劉備を引き留めて置きたかった。彼には有望な跡継ぎも無く、と言うより、2人の息子のゆく先を案じて、父親陶謙は、敢えて君主道を教育して来なかったのだ。我が子等に、苦労・心労ばかり多く、前途多難な「除州」を継がせるに忍びなかったのである。但し、陶謙本人は決して凡庸な人物ではない。然し、如何せん、彼は「
前世代」の人物で在り、若い野心や気力は既に使い果たしていた。黄巾の乱の時でさえ53歳であり曹操や劉備達とは29〜23歳も年長の、「過去の人」となりつつあった。かと言って、群臣を見廻して見ても、除州を取り仕切れる人物の顔も浮かんで来ない。62歳となった自分は、病魔に犯されつつある・・・・・・
そんな陶謙の寿命を更に縮めさせるかの如くに、曹操が再び★★除州に侵攻して来た。今度こそ陶謙の息の根を止め除州を奪い取る腹である。前回より更に大軍を率いていた。 曹操は面倒な小戦闘で時を浪費する事を避け、「
小沛城」を少し迂回うかいして直接に★★★
下丕卩かひ】の陶謙を狙った。(お陰で劉備は、何の痛手も蒙らずに済んだのだが、) 除州の支城からは、次々と陥落の悲報が飛び込んで来た。劉備も機を窺がうが、おいそれとは手が出せぬ猛進撃であった。陶謙の除州は、まさに風前の灯となった・・・・・

−−だが・・・・曹操軍の快進撃が、ピタリと止まった。
「我等をなぶり殺しにせんと一息入れ、総攻撃に備えて力を溜めて居るのか!?」 と、誰もが怪しみ、いぶかしんだ。・・・・と、今度は曹操軍・・・・クルリと反転するや、もと来た方へと一目散、退却し始めたではないか!? ーー原因は、
呂布 であった。
ほぼ全軍を率いて来た為手薄になった曹操の本拠地・えん州を「呂布」が乗っ取って★★★★★しまったのだ!! それをそそのかせたのは、曹操の参謀の一人、『
陳宮ちんきゅう』であった。
陳宮は、曹操を裏切ったのだ。(※詳しくは、後に「史上最強のさすらい者」で述べる) むしわれ、人ニそむクトモ人ヲシテわれそむク事ナカラシメン! と、言い放つ曹操にしては、寝耳に水・一生の不覚であった・・・・陶謙討伐どころでは無くなった。己の本拠地を奪われそうになった曹操は、急きょ全軍を反転させ呂布の居る 濮陽城(ぼくよう)へと向かわざるを得無くなったのであった。
濮陽
(※荀或じゅんいく夏侯惇かこうとん程cていいくによる、「三城死守」については、第2節で既述
かくて除州は、そして劉備は、又しても危うく、曹操の牙から逃れどうにか命脈を保つ事が出来たのである。
ちなみに、この後の曹操と呂布だがーー「濮陽」で交戦すること100日以上に及ぶ。そして其の決着は・・・
いなごによるサスペンデッド=引き分け再試合と云う、前代未聞の椿ちん事態となった。・・・・戦場は突如、黒雲に包まれたかと思うや、辺り一面、眼も開けて居られないほどの「いなごノ大群」に襲われ、食料は勿論、植物と云う植物を喰い尽くし、戦争どころでは無くなってしまったのだ!!ーー古代中国の人々が、イナゴにむしたちの皇帝の字を当てたのもうなずける猛威であった。両者、退き上げざるを得無くなった。ポッと出の呂布りょふには(2年前に長安から逃走した経緯は既述)足場が無く、やむなく新たな地歩を求めて東へと去っていった。結果、曹操は、一旦失った(叛旗を翻した)えん州を復元するのに2年を要する
その間、除州は、まがりなりにも平穏を保証★★★★★される事となる・・・・


              
さて危地を逃れた「
小沛しょうはい」の劉備だが・・・・この地で、地元出身の或る女性を迎え入れた。
(この歳=35・6に成るまで、妻が丸っきり居無かった筈は無いから、次々に亡くしたか?若しくは子=男児が産まれなかった。いずれにせよ、この間の女性関係は史書に無い。)トドノツマリ
・・・やもめだった(と云う事になる)ので「そばめ」として奥に入れたのだ。特別に美人ではなかったが、ふくよかで心根が優しかった。
(劉備と云う男の1つの「取り柄」は
女に対して淡白である点かも知れない。生涯、女狂いや艶聞が無い。
              その代わり、淡白過ぎて困るのだが・・・)
かん夫人と呼ばれる女性である。
男盛りの劉備にとっては甘夫人のポートレートむろん”性”の対象ではあったが、寧ろ、至って慎ましやかな品性が気に入ったのである。以後、奥向きの事は、彼女が取り仕切り切り盛りしてゆく事になる。−−だが【甘夫人】は、死ぬまで★★★★正妻の地位を欲しがらず、あくまで《そばめ》→《》の儘で在り続ける。
その地位の低さ故に彼女の名も出自も伝わっていない。死んだ後、やっと諸葛亮によって 「
昭烈しょうれつ皇后」 の諡号しごうを贈られ、大行皇帝(劉備)と合葬される。正史は仕方なく、〔皇思こうし夫人〕・・・・劉備に思われた大切な夫人・・・・と云う表記をしている。ーーやがて(と言っても何と13年後=劉備47歳の時だが)跡継ぎの一粒種劉禅りゅうぜん=幼名・阿斗あとを産むが、その控えめな姿勢は変わらない。後から娶られた年下の正妻達にも唯々諾々として仕えながら、
波風を立てる事も無く、実質的な「奥方」で在り続けていく。・・・・それだからこそ、そんな人柄を欲した劉備の眼に叶ったと言えようか。一見、茫洋として極楽トンボの如くにも見える劉備だが・・・・だからこそ余計に、人知れぬ悩みや苦しさを、溢れる程に持っていた・・・・・せめて寝所では、ホッとくつろげる、心の安らぎを求めたかった。外見が美形であるよりは、その内面の在りようの方が、この男にとっては、より必要であり大切なものであったのだ。
(そう謂えば、最初から絶世の美女を得ている者で大成した男が居たためしが少ないのはどうした事実であろうか?最初から目的を果たした(?)者は、それで満足して意欲が薄れるからか?もしそうであるなら、世の男性諸氏は、余りの美人には御用心・・・?
また、世の女性諸氏にも、外見をいじくるよりも内から溢れる美しさを・・・筆者失敬)
この 甘夫人 はこの後、夫の最も波乱に満ちた大放浪時代−−その宿命に翻弄され、途中何度も何度も幾度となく見捨てられながらも、ついに添い遂げてゆくのである・・・・・。そんな劉備の身の上に、更にビッグな幸運が訪れようとしていた。
  
この年
194年の末、ついに陶謙とうけん 恭祖きょうそは、62歳で他界した。彼は、生まれた時が30年ズレた早過ぎた男であった。呉の「張昭」の哀悼の辞には、〔御本性ごほんしょうは剛直そのもの、温厚、慈愛の態度を貫かれた・・その遺愛は民にいつ迄も慕われ・・・〕 とある。ーーが、『正史』はーー
道ニそむキテじょうまかス。形政けいせい和ヲ失イ、良善りょうぜん 多ク其ノ害ヲこうむリ、是レニリテようやク乱レル。』・・・と手厳しい。その「陶謙」は、病が篤くなった時点で、別駕べつが刺史しし副官)の【麋竺びじく】に遺言を託していたのである。
「・・・・劉備でなければ、この州を安定させる事は出来ない。この除州を任せられる者は、劉備をおいて外に無い。宜しく劉備殿にこの除州を引き継いで貰うように・・・・。」
劉備ニあらズンバ、此ノ州、やすンズルあたわ
陶謙には、「陶商」・「陶応」 と2子が有ったが、2人とも官職には就かない。四周を全て野心に満ちた猛獣どもに囲まれ、常に神経をすりへらし、 精も根も尽き涯てた父の姿を見、又その言葉に従ったのだ。
麋竺びじく 子仲しちゅう地元の★★★大豪族で僮客とうきゃく万人・資産巨億と謂われる、天下に知られる大富豪でもあった。(この資力が、のち劉備を救う)彼の、州民への影響力は極めて大きかった。その麋竺びじくが、州の主だった人々を率いて、〔小沛しょうはい〕に居る、劉備の元を訪れた。と同時に、城の周囲を万余の州民が押し包んで、出迎えようとしていた。動員もあったが、殆んどは、噂を聞いて自発的に集まった農民達であった。 それはそうだ。「曹操」は、自分達を皆殺しにやって来るのだ。家族全員、いや生き物すべてが虐殺されるのだ!命懸けの懇願であった。

「劉豫州さま、我ら除州の民の、新しい御主君として、御迎えにあがりました。城の外では幾万もの州民が貴方様のお出ましを、心からお待ち申しあげて居ります。さ、どうぞ、御出立の御用意をなされて下さいまし!」
「−−・・・。」
「これは、亡き陶謙様の御遺言でも御座います。」
「・・・・・・。」
「我ら州民一同、貴方様の徳深きを知らぬ者は御座いません。何卒、私達を宜しくお導き下さいますよう、伏してお願い申し上げます!」
「いや、とんでもない話です。私ごとき不徳の人間に、その様な大任は、とても無理でござる・・・・。」
劉備は固辞した。と言うより、君子のたしなみとして遠慮してみせた。だが半分は本心でもあった。

《−−欲しい!!》人間である以上、そう思う。まして自分達は、これを目標に若き日から走り続けて来たのだ。「豫州刺史」などと云う名目だけの肩書では無く、これは実体の詰まった【本物】である!
《−−だが・・・・》と、考えざるを得無い。
今までは、いざとなれば逃げる事も出来た。所詮しょせんやとわれ者だったから、気楽な面もあった。−−だが・・・・一旦引き受けたら最後もはや逃げ出す訳にはゆかなくなる。曹操の標的は、この自分と成る。眼の色変えて襲い掛かって来よう・・・・曹操だけではない。袁術、呂布など除州を狙っている猛獣どもがウヨウヨ居る。こっちを新米素人と観て、必ず攻めて来るだろう。
194・群雄図《保てるか・・??》自問すれば、答えは→「否!!」である。時間がたっぷり保証されているなら、州の1つや2つ、治めてみせる自信は有る。だが、どう観ても時間は無い。直ぐにでも攻撃されるだろう。−−・・・とは謂え、そうした危険と引き換えでなければ、こんな美味しい話の有ろう筈も無い

《どうせ人間、いずれは死ぬのだ。命を賭けて闘って来たのだ。何を今更ビクつく事がある?−−男ならやってみろ!州の1つや2つ保てなくて、何が、「天下を目指す」・・・・だ!!》
下丕卩かひ」の本城(州都★★)に控えて居た重臣の【陳登ちんとう】も、百余キロを疾駆して説得に出向いて来た。言いていわく、
今、漢室陵遅りょうち(衰退)シ、海内かいだい傾覆けいふくス。功ヲ立テ、事ヲ立ツルハ今日こんにちニ在リ。州(除州の謙称)殷富いんぷ戸口ここう百万アリ。使君しくん(劉備)ヲ屈シテ、州事ヲ撫臨ぶりんセシメント欲ス。
それに対して劉備は、万事心得ているのに、敢えて300キロ南の寿春じゅしゅんに落ち延びて来ていた袁術の名を出す。
公路こうろ(袁術)近ク寿春じゅしゅんニ在リ。コノ君ハ四世五公、海内かいだいノ帰スルトコロ。君、州ヲ以ッテコレニ与ウベシ。

すると陳登は、とんでもないと云う素振をしながら言う。
公路ハ驕豪きょうごう、乱ヲ治ムルノ主ニあらズ。

そして、劉備がいざの時の「軍事力」を懸念して居るものと察してそれを保証しますと約束してみせた。又、我々家臣一同、全面的に支援するから、必ずや功業は成りましょうと力説する。
今、使君(劉備)ノ為ニ、歩騎ほき十万ヲあつメント欲ス。かみもっテ主ヲただシ、民ヲすくイ、五覇ノ業ヲ成スベク、しもハ以テ地ヲキ境ヲ守リ功ヲ竹帛ちくはく(青史)ニ書スベシ。
「−−・・・・。」なおも劉備が煮えきらず黙して居ると、陳登は退出する際に「これだけ申し上げても、私の誠意が通じぬならば、もはや主君とは仰がない事にもなりかねません。どうか我が心を察して下されませ!」・・・・と、最後通牒つうちょうを残していった。
モシ使君、聴許ちょうきょセラレズンバ、とう(私)モまた、未マダ使君ヲゆるサズ・・・・。』 だが、劉備はウンとは言わない。その代り、断るとは一度も言っていない。・・・・劉備の腹は、とっくに固まって居るのだった。黙って居れば保証がどんどん増えていく。軍も10万用意すると言う。袁術には決して傾かないとも誓った。州の主だった重臣・豪族達も、次々と進んで、忠誠を誓いにやって来る。こちらから要求したい事が、ボ〜ッと構えていればこそ着々と実現していく
・・・もし初めから飛びついていたら、こうはゆかぬであろう。流石に劉備は苦労人、そこら辺の機微きびには通暁つうぎょうしている。−−彼等地元豪族達も亦、自分の既得権益・現在の心地よい地位や身分を、失いたくは無いのだ。

「玄徳兄、何で引き受けないのだ?理由が解らん。我ら3兄弟は人々のこう云う危難の時、こう云う日の為にこそ、我らの義侠を役立たせる為に、身を興したのではないのか?!」 
・・・・と、関羽。 張飛も不満げに言う。
「そうだとも!その眼で城の外を見てみろよ。何万と云う民衆が、もう3日も露天で、助けを待ってるぜ。俺がちょっと城壁に出てみたら、もうそれだけで、大歓声だった。あれに応えなきゃあ、男(漢)じゃ無えだろう!!」

《ーーお前達には、そんな事も判らんのか・・・!》
関羽と張飛の言葉に、劉備は内心ガックリ来たが、顔には出さずとぼけて答えた。
「そうだなあ、そろそろ答えを出す潮時かな・・・・?」
「俺ら弟は兄者の決定には従う。だが然し、今迄の苦労も、よ〜く考えて欲しい。」
「ああ、そうしよう。」 余り長びかせて熱が醒め、臆病と思われてしまっては、元も子も無い・・・・最後の仕上げは国外からの、然も当代一流たる人物からの保証であった。内外そろっての推挙とならば、これはもう、今後将来の、足場の確保は揺るぎ無くなる。
 −−はたして、予想にたがわず・・・・・隣の青州・北海国のしょう孔融こうゆう文挙が説得に乗り出して来て呉れたのであった。これ以上の著名人は居まい。もともと孔融は、劉備を高く高く評価していたが、あの★★太史慈がらみの、「黄巾軍からの救出劇」 が、決定的であった。ここでその借りを返さなくては、魯国ろこく生まれ(昔から仁侠で有名)の男がすたる。
「劉豫州、袁術は一体、国を憂いて家を忘れる男でありましょうや?彼なぞ、墓の中の骸骨(家中ノ枯骨)同然、意に介する程の男ではありませんぞ。今日の事態は、万民が有能な人物の側に立って居ります。今もし、天が与えたもうた物を受け取らないと、後から悔やんでも追いつきませんぞ。此処はひとつ、ドンと引き受けるのが人の道に適うと謂うもので御座ろうよ。」

天ノ与ウルモノ取ラズンバ、悔ユルトモ追ウベカラズ

これだけ役者が出揃い、待ち望んでいた、『天命!』と云う言辞まで出て来たのであれば、もう充分であろう。
不肖ふしょう、この劉備玄徳、確かに除州をお引き受け致しまする!」
先主せんしゅ(劉備)、ついニ除州ヲ領ス!!
人生有為転変ういてんぺん・・・とは言うものの、これ程迄に熱望されて迎えられた、州のおさは無いであろう。劉備とその兄弟が望楼に立つや、城の内外を埋め尽くす数万の民は、一斉に歓呼の声を発して、その轟きは天地を覆って鳴り止まなかった・・・・・。

これと言った学歴も無く、まして名門の出身でもなく、全くの無一物からスタートした男。武にしても、戦場では死んだ振りする程度の、取り立てた膂力りょりょくが有る訳でも無い。その前半生を観ても、これと言った華やかな業績一つ有るでも無い。それなのに何時しか人望を得て、ついに33歳にして除州一国をてに入れてしまった男・・・・・劉備玄徳・・・・誠に以って、摩訶不思議な人物である。・・・・・蓋し、棚ボタだけではない。

−−とは言え、人生そんなに甘くはない。・・・・実は・・・・この超ラッキーな僥倖ぎょうこうの直後からこそが、この「ダメ男」の、ダメ男たる所以ゆえん始まり★★★と成るーーのである・・・・!


その何とも覚束おぼつかない、彼の人生に於けるフラフラとした足取りは、やっと晩年に成って、『或る若者』との出会いが果たされる迄・・・・実に十数年にも及び、関羽・張飛、そして甘夫人達を、

大放浪の中へと道連れ★★★にしてしまうのだ。 
これは未だ、其の波乱万丈の、ほんの入り口に過ぎなかったのだ・・・・・
【第48節】  危険な火遊び・貫禄かんろくごっこ →へ