第46節
デビュー戦
           

勇み立って参陣した「黄巾討伐戦」に於いて、劉備関羽 張飛の三兄弟は、何処でどう戦い、どんな軍功を挙げたのか!?
ーーーそれは・・・・・





                     
一切、不明である。




 
『正史』には唯、単に、
        
  【功アリ と、しかない。
但し、その後の関羽や張飛の天下無双ぶりから推して、このデビュー戦はイイトコロを見せようと、必死に闘ったであろうから、眼を見張る様な凄まじい活躍であった事に、先ず間違いは無かろう。
演義は、 この「史書の空白」を利用して、3人の、眼のめる様な大活躍を創り出している。
ーーけだし・・・・その活躍の地理的コースは、ハチャメチャ である。真っ直ぐ南下しさえすれば目指す『魯植ろしょく』に 行き着くと云うのにわざわざ其の「魯植軍」を避ける様 に遠回りして青州へと東南下させる。其処でひと暴れさせた後、今度は、『曹操』と出会わせる為に西進させ、 其処でも大暴れさせた後に、やっとこさ北進させ、目的 の「魯植・先生」の所へ赴く・・・・と云う、お粗末・ムチャクチャな設定・・・・・ 劉備・演義コース 即ち、仮空な敵将(無論、官軍の誰もが手に 負えない様な超豪傑)をズラリと並べ、彼等の出番を用意する。そうして措いてから、やおら、いよいよ、超人的な強さを、思う存分に発揮させるのである。関羽には敵の総大将を斬らせ、張飛には副将の首級くびじるしを挙げさせ、非力な劉備には弓矢を用いて敵将を射殺させるなどなど、その戦功を大々的に読者にアピール・印象付けさせる。−−実は是れが
次に起こる(起こす)、
或るマズイ事件糊塗ことする為の、伏線であるとは気付かせぬ様に、 また、『起こして当然』と、読者に、アピールして措いてもある・・・・・のである。

−−・・・ま、其れはさて置き、兎に角、
劉備部隊は大活躍したのである。 そして、その結果その甲斐あって、劉備は念願の に就いたのである!
安喜あんき県ノニ補ス!】と云うものであった。期待に反する微々たるもの・・・・と、言わざるを得無い。 「え〜〜っ!あれだけやったのにイ〜!?」と云うのが本音であった。とてもの事、この先、部曲を維持できるものではない。いっそ、此れまで通り、用心棒稼業を手堅くやっていた方が、実入りがいい位だ。
ちなみに、《県の》 とは・・・・・1万戸以下の小さな県の長官(県長)の、又その下の次官に過ぎ無い。一万戸以上の大きな県の県れい・県じょうよりガクンと落ちる。中山国ちゅうざんこくの小県(安喜あんき)の警察署長・・・・と、謂ったところであった。俸禄ほうろくは200石位か?
安喜県 同じ戦場で、碌な働きもしていない連中が、ただ正式な官位に就いて居ると
謂うだけで、自分よりずっと大きな恩賞を得ているのもショックだった。(曹操は済南さいなん国のしょう=郡太守と同格・と成り、二千石)バカ正直にやっていたら、とても集団は維持できない。そこで普通なら、賄賂でそれを補填する。だが彼等は、そんな事を想い着きもしない。
「まあ、そうムクれるな張飛。低いとはいえども、とにかく、官職には就けたのだ。ひとまずは好し!としようではないか。」 口をとんがらせている張飛に、一応兄貴分として劉備はそう言ってみせた。
「そうだな。未だ未だ、功名のチャンスは、幾らでも有りそうな天下の形勢だしな。」 関羽もそう言ってはみるが、どうも空気がパッとしない。期待と自負が大きかっただけに、どこか湿っぽい雰囲気になってしまう。
「それにしても二人とも、改めて見直したぞ。強いとは想っていたが、まさか、あれ程とは実の処、思って居無かったよ!」
劉備は気分を変えようとして、話題をそっちへ振った。
「まさに鬼神の如し、だったな。最後は2人の姿を見ただけで、賊は逃げ出していたからなあ〜!」
存外、戦さとは他愛無いものだったな。」関羽の感想であった。

「うんあんなもんなら片手で充分さ」張飛もすっかり自信を持ったらしい。誉められて悪い気のする者は居無い。2人とも少し良い気分に成った。
「兄者の死んだ振りも、あれでなかなかの名演技だったよな!」 張飛は本気で誉めている心算だ。彼なりに此の場を和ませようとしたのだった。−−劉備は、田野で敵と遭遇戦となった時、負傷してはぐれてしまい、敵が去る迄、ズ〜っと戦場の草っ原にひっくり返り、薄目を開けては、死んだ振りをし続け、やっと助け出して貰ったのである。関羽と張飛が暴れまくっていた時、劉備はもっぱら死んだ振り作戦で、大の字になって、青空に浮かぶ雲の流れを眺めて居たのだ。いかにも劉備らしい。笑える。
正史・補注、『典略』に拠るが、黄巾戦ではなく、張繍ちょうしゅう戦とある。これは3年後となる。
「玄徳兄はそれでいい。大将は、とにかく生きて居る事が一番だ。武勇は我らに任せて、後ろでデンと構えて居るべきだな。」

「ああそうとも。長兄に無理は禁物だ。危なく成った時には構わず逃げて欲しいな。何てったって、俺らの旗印なんだからさ。俺や関兄イは、放っといても心配いらねえよ。ちっとやそっとじゃ、殺られはしねえから」
「うん。いざとなったら、そうするかも知れんが、二人が居て呉れれば、そんな事にはなるまいさ。ま、逃げるが勝ち、と云うこともあるしな・・・・。」
ガハハハと張飛が大笑いした。関羽もそれに連られて声をあげた
「−−クソったれ〜〜!!」
突然、劉備がわめき散らした。「弟達があんなに活躍したってえのに、こんなチンケな県の尉 だと〜〜?
馬鹿にすんじゃあねえ〜!
関羽と張飛は思わず顔をみあわせ、プッと噴き出した。
「何でえ、1番トサカに来てんのは長兄じゃあねえかよ」
「そうさ、俺は頭に来てるんだ!だって、口惜しいじゃあねえか!何処をどう観たって、関羽・張飛以上に活躍した奴など居やしなかったじゃないか・・・!!」
「まあまあ、兎にも角にも、お役人様に成れたんだから、ここは抑えて抑えて・・・・。」   喜びも半分、と、謂う処であった。−−処がその半分の喜びを吹っ飛ばし、怒り心頭に達する事態が発生したのである・・・・!!

先般、軍功ニ拠リテ長吏ト成リシ者達ニツキ、宜シク再吟味致スベシ。』朝廷(中央政府)からの、「お達っし」であった。
ついつい戦捷気分で、大盤振る舞いしてしまった『霊帝』であったが、思えば、高く売り付けられる官職をタダで渡すなど、急に惜しくなったのだ。無論、宦官達の入れ知恵で、彼等こそ最大の受益者である。与えたアメ玉を、しゃぶられる前に、大急ぎで取り返そう と謂う訳だった。「再審査」などた言って来ているが、先ず一番先にターゲットにされるのは、身分が曖昧な私兵集団に決まっている。とりわけても、それ以前には無位無官だった者達が、その標的にされる。再吟味=剥奪せよ・・・・と云う事だ。免官の上、お払い箱にされる運命にあった。
ーーやがて、その審査と称して督郵とくゆう(郡の監察官)が廻って来た当然、自分達がリストラ対象者であろう事は、劉備にも見当がついている。そっちがその気なら、こっちだって考えが有る。力ずくでネジ込むしかない。関羽と張飛の二大巨人を従えて乗り込んでやるのだ。脅しならお手の物であった。つい先日迄、それを稼業に生きて来た義兄弟である。
ナメられてたまるか・・・!!−−だが然し、敵も然る者
会見を申し込んだが、仮病を使って応じ様としない。もし会ってしまえば、天下無双の大男に挟まれて、グウの音も出せ無くなるのを、相手も察知して居たのだ。 賄賂を渡せば、事はすぐ済む。
だが、もう手元に資金は無かった。土台、褒美を与えておいて金を出せなど、理不尽にも程がある!再三再四、会見を申し入れるが門前払いの繰り返しで、上奏文を受付ようともしない。
 命がけで戦った3兄弟にしてみれば、そもそも今度の 恩賞には不満が一杯であった。寧ろ再吟味して昇官させられて当然、それを何とか我慢して居るのに、この態度である。こっちの言い分は聴こうともしない。何が再吟味だ!

門前払いされる事数次に及び、ついに劉備はプッツンしてしまった。関羽・張飛は勿論の事、ガラの悪い部曲の連中を総動員すると、督郵とくゆうの官舎へと乗り込んだ。
この野郎〜!大人おとなしく下手したてに出てるとナメやがって!人を馬鹿にするのもテエゲエにしやがれ!俺達を一体何んだと思っていやがるんだあ〜。よくも此処まで、人を虚仮コケにして呉れやが ったなあ!!
この時の劉備、すっかり「お里帰り」してしまって、血の気の多いヤクザの若親分に戻っている。何事かと飛び出してきた警護の兵達にむかっては、関羽が怒鳴りつけた。
「我等は、府君ふくん(郡太守)の密命を受け、収賄しゅうあい容疑かど督郵とくゆう(巡検使を)逮捕に参った!」勿論デマカセだが、一応こちらは警察署長なのだから、 そうドヤしつけられれば、衛兵も一瞬ひるむ。しかも相手はガラのワリイ、完全武装の大集団である。さわらぬ神にたたり無し・・・・我、関せずとばかりに、早々に消え去っていった。

ドアを蹴破り、寝室まで押し込んだ。
「な、何をする!わしを誰だと心得る。恐れ多くも皇帝陛下直属の督郵であるぞ!この紋所が眼に入らぬか〜!ええい、頭が高い!控えよ、控えおろう〜!!」

「・・・・そんなデカイもんが、眼に入るかってんだよ。このタ〜コ。」
「バ、バカ!なぜ、へへ〜〜とつくばらんのだ?だ、だ、台本どおりにやれ!!」
「ーー〔あ〕・〔の〕・〔なあ〜〕。
            水戸黄門は・・・中国には居無いんじゃい!」
ボカッ!! 「ひぇ〜〜!」
「何が、ひぇ〜じゃ!」 ボカ、ボコッ!! 有無を言わせず縛り上げると、表に引っ張り出した。そして馬つなぎの柱にくくり付けさせると劉備★★みずからが★★★★☆持っていたつえで督郵をブッ叩いた。「テメ〜、よくも俺等をコケにして呉れたな!」
1回、2回、3回と、思いっきりブチのめす。
「バカにするんじゃねえぞ、このヤロウ!!」更に、繰り返しブチ続ける。一同、胸のつかえが取り除かれた様な、スカッとした、爽快な気分だった!ーーだが・・・そのうち、皆の顔が引きり始めた
劉備の顔付きが異様に成っていた。理性を完全に 失った劉備は本気で叩き殺す心算の様である!既に百回以上も、つえを振り下ろしていた。肥満した中年の督郵は、泣き叫んで許しを乞うが、若親分の眼付はケダモノの様に残忍な光を宿し、形相が一変している。
−−−!!」流石の張飛もド肝を抜かし、思わず関羽と顔を合わせた。もう半殺し状態の督郵はグッタリして、呻き声も挙げ られない。それでも劉備は、更にブッ叩き続けていた。
かれこれ200回近い。
「−−兄者、殺しちまったらヤベエんじゃねえのか!?  兄じゃ!もう、いいだろう!」
「−−聞こえて居ない・・・。」 常軌を逸した鬼畜である。
兄者!劉アニイ!!」 張飛の、割れ鐘の様な大声に、ようやく劉備はハッと、我に返ったようだった。

《−−・・・これが、劉備玄徳・・・と、云う男か・・・・》
関羽は、今更の如くにつぶやいた。
もう虫の息になっている督郵のくびに、劉備は己の『県尉』の官印を外してブラ下げると、ペッと唾を吐きながら、のたくった。最下級の【銅印黄綬どういんおうじゅ】だ。(※印は金→銀→銅。綬は、
→黒→の順。3×6=18の位階があった。)
「ほれ貴様のお望み通り、こんなモンは、こっちの方からけえしてやらあ。殺されずに済んだ事を有り難く思え!だがな、これ以上、余計な事を報告してみろ!今度こそ、命は無えもんだと思いな、解ったかア!?」
−−余程ビビったのであろうし、世間体もあったのであろう。この後、劉備達が大々的なウオンテッド(指名手配・御尋ね者)にされた形跡は無い。元の用心棒集団に戻った一行は、そのまま県境まで突っ走った。もはやクソ面白くも無い安喜県あんきけんの如きみみっちい官職なんぞに未練は無かった。
「スマン、このザマとなった。一旦、琢県くにへ引き揚げ て、次の機会に備えよう・・・・。」あれほど意気込んで臨んだデビュー戦であったのに、終わってみれば何の事はない。元の木阿弥もくあみ、又これ迄と同じ、用心棒稼業へと逆戻りしただけの事であった。
全く、何とも後味の悪い、ほろ苦い★★★★デビュー戦となってしまった・・・ 督郵とくゆう、公事ヲ以テ県ニ至ル。先主えつヲ求メ、通ゼズ。ただチニ入リ督郵ヲ ばくシ、じょうスルコトニ百。じゅヲ解キ、ソノくびつなギ、馬杭ばごうク。
官ヲ亡命ス。       ーー『正史』−−
それにしても、寸での処で思い留まり、相手を叩き殺さずに措いたのは、将来にとって重大な事であった。もし此の時、若気の至りで監察官を殺してしまっていたら、この先に生まれるキャッチコピー・・・徳の人・劉備!』・・・は出現しなかった可能性が強い。【殺人】となれば、官もおざなりには放って置け ぬであろう。正史が「逃走」と記さず「亡命」と記したからには、一応は《お尋ね者》になった・・・と謂う訳だ。後に回想すれば、冷や汗モノの一件ではあった。

               

『演義』は苦しまぎれに、打擲ちょうちゃくしたのは「暴れ者・ 張飛」の仕業とし、「聖人・劉備」を止め男=いさめ役にスリ替えて、やっと面目を糊塗ことしている有様である。張飛こそ、いいツラの皮である
『劉備玄徳』と謂えば・・・・温厚で茫洋ぼうようとし、己の感情をグッとおさえて耐え続けるイメージが定着しているが、ドッコイ、生身の劉備は激情に駆られると、見境も無い暴挙を仕出かしてしまう一面を、その基本体質の中に潜めて居たのである。彼が聖人君子と成るには、未だ未だ時間が掛かりそうである。又、この本質的激情の噴出は、この男の最晩年にも露われる事となる。
 未だ危なっかしく、とても手放しでは見ていられない、ダメ男の第一歩であった・・・・・。

ーーーほろ苦いデビュー戦から3年ーーー劉備3兄弟は、再起の時をうかがい続けていた。例の 『督郵打擲とくゆうちょうちゃく事件』は、却って庶民の快哉かいさいを浴びる事となっていた。 「よくぞ、やって呉れた!!」
常日頃、役人の圧制に苦しめられ続けて居る、下々しもじもの者達にとっては、スカッと溜飲りゅういんの下がる、一大快挙と映ったのだ。
《−−ヤバイ事、仕出かしちまった・・・!》 と、内心ホゾを噛んで居た劉備だったが、予想外の展開にチャッカリ乗っかって『不正を憎む庶民達あっしらの若統領』 とばかりに人気を集めてしまった。それだけ世の中に、悪辣あくらつな役人がのさばって居た、と云う事なのだ。それにしても、巡り合わせ(運気)のいい男でもある。

一旦、故郷で部曲の兵数を回復させた(張世平らの再融資も受けたのであろう) 彼等は、再び世に出るチャンスを掴む為、とにかく都・洛陽へとコマを進めた。
ーー187年、劉備26歳の時の事である。
《都に居れば、何かイイ「」が出るかも知れん・・・・》と云う、至極大雑把おおざっぱな考えであった。だが、このが図に当たった。
折りしも・・・・ 黄巾の乱以後、全国に飛び火した賊徒の叛乱に手を焼く、大将軍の「何進かしん」は、都尉の『母丘毅かんきゅうき』に、大規模な傭兵集めを命じた。(※西方では「韓遂かんすい馬騰ばとう」が長安を攻略、北辺では張挙ちょうきょが天子を称し、南方では区星おうせいが蜂起。「孫堅」が長沙ちょうさ郡太守に任じられて是れを討つ、etc.etc)

この当時、政府が眼を着けた、兵員の供給地は、中原からは遥か南方の長江下流域・「東呉の地」であった。この時点では未だ、いわゆる【呉の国】は成立していない。小豪族がひしめき合って居るだけの混沌(カオス)の中に在った。然し、中央の戦乱からは無縁である為、人々は疲弊しておらず、イキのいい男供がウヨウヨ居た。特に長江南岸の丹陽たんよう郡は、傭兵ようへい部隊最大の供給源で《丹陽兵》と言えば、屈強で勇猛な兵士の代名詞とさえ成っていた。金さえ出せばイキのいい新戦力が幾等でも手に入った。ただ難点は、遠過ぎる事であった。都からは直線距離でも700キロ(東京〜広島・函館)あった。道のりでは、1000キロ近い。それを今回、強行しようと云うのである。都にたむろって居た劉備集団には勿怪もっけの幸い・絶好のチャンスであった。これ幸いとばかり、早速是れに応じ、「母丘毅かんきゅうき」と共に、呉の地へと向かった。

丹陽で募兵に成功した母丘毅軍は、そのまま討伐軍として北上、除州の黄巾勢力鎮圧へと向かった。(※ 3年前に潰滅した黄巾本軍ではあったが、逆に各地に分散・飛び火していた。)
除州中部・州都の「下不卩かひ」で 黄巾軍と遭遇戦となった。ここで劉備部隊は、『力戦りきせんシテ功アリ』 の大活躍をした。初陣とは異なり、同じ奮戦でも今度はツボを心得ただ闇雲に、馬鹿正直に暴れるのではなく、よく目立つ様に要領よく戦った。ーーその軍功により劉備が得たのは・・・・せい州北海国・『下密かみつ県ノじょう(副長官・副知事)と云う地位であった。前回の「尉」(警察署長)に比べたら大県の副長官だから、かなりの昇進とも言える。大遠征の初めから行動を共にして呉れた御苦労賃として、母丘毅かんきゅうきの温情も働いたであろう。
下不・下密・高唐位置・・・だが劉備達は一旦受けたこの地位を捨てた。今度は、自主的に返上したのである。
「関兄、長兄は何故この地位を捨てんだ?俺は別に文句なんか無いが、折角の苦労が、又フイになっちまうだろうになあ〜。」

「−−器さ。」  「どう言う事だ?」

「−−野心だ。」  「どんな、だ?」

「玄徳兄は、スカスカする・・・・と言っていた。」

「なんだ、そりゃ?」

「劉備玄徳って云う器にゃあ、この程度の現実じゃあ、
                      小さ過ぎると謂う事だよ。」
「じゃあ、どんな現実なら、収まるってんだい?」

「そいつあ、自分で直接、玄徳兄から聴くんだな。」

「関兄は、聴いた事あるのか?」

「−−いいや。聴かずとも、それとなく、俺には分かる。」


「ーー今、此の世に男と生まれたからには、せめて、
      ”群雄”と言われる様になりたいものではないか。」
「うん、それは、その通りだ!」

20歳を迎えた張飛の眼が、キラキラ輝く。
「その為には、都から700キロも離れた、こんな片田舎 でくすぶって居ては、ビッグなチャンスにはぶつからぬだろう・・・・と、判断したのさ。」
ここら辺の嗅覚は、劉備独特のモノであろう。

「・・・・どこ迄ゆくか・・・・どこ迄いったらスカスカしなくなるのか?ーー玄徳兄は、【】を俺達に呉れるのさ!」

この後の詳細は伝わらないが、傭兵集団として転戦し、 より都に近い、州・平原郡・高唐こうとうの「尉」から「れい」=長官へと、僅かずつではあるが、地歩を高めていった。注目すべきは、彼等が自分達の「位置取り」に気を使い、少しでも中原・都に近い場所を望んでいる点である。何はともあれ、時局の中心部である。−−ところが・・・・なけなしの軍資金を使い切って、ようやく獲得したこの地歩も、結局、失う羽目になった。都に近づいたのは、一応の着眼点ではあったが、それだけでは、考えが足り無かった・・・・のである。其処は、黄巾勢力が最も強力な地域でもあったのだ 押し寄せる黄巾軍に攻め込まれ、またまた尾っ打ち枯らして、遁走とんそうする仕儀となってしまった。「・・・・あ〜あ・・・・!」 で、ある。又しても元の木阿弥、逆戻りであった。
 デビューから7年間、ただグルグルと己のシッポを追い廻し、貴重な時間だけを喰い潰したに過ぎない。ーー備集団の泣き所
大局を見通す、軍師不在】の悲しさが露呈している。この7年もの間、誰一人として、『名士』は声も掛けていない。こちらの方から声を掛けた形跡も見られ無い。注目させる様な業績も無く、出会いも無い。ーー全く、集団の中身に成長が見られない。関羽や張飛の折角の武勇も、世に知られる事も無く史書の空白にくすぶって居るばかり・・・・・

            
「ーー仕方ない。公孫こうそんの兄貴を頼ろう・・・・。」
劉備は、15歳のみぎりに「魯植塾」で学友(?)となった公孫讃こうそんさん を頼って、落ち延びるしか無かった。
《公孫の兄貴には俺等と同じ『きょう』の血が流れて居た。義理堅い処が有ったから、15年ぶりでも、きっと温かく受け容れて呉れるだろう・・・・。》
191年(初平2年)・・・・劉備はもう、青春の20代を使い果たしはや 30歳 と成っていた。片や、この時、【公孫讃(正字は王へんに贊)は、「袁紹」・「袁術」と並び称される《天下の3英雄》の一人であった。(※曹操は未だ、だいぶ水を開けられた有象無象の小勢力に過ぎ無かった)騎都尉から中郎将(将軍に次ぐ実働将官)へと昇進し、都亭侯の「爵位」さえ持つ、押しも押されもせぬ英雄の一人に伸し上がって居たのである。『白馬将軍』と謂う、 カッコイイあだ名まで冠せられており、魯植塾時代からみれば、2人の境遇には雲泥の差がついていた。白馬5000頭だけで編成された〔白馬義従〕と謂う、ド派手な騎馬軍を率いて、華々しく世にデビューしていた。(※三国志演義が、黄巾討伐の最初から、両者に共同行動をさせているのは全くの虚構である。)逆立ちしたって鼻血も出ない劉備集団とは、毛並みが 違うのだ。 とは言え、魯植塾時代のスタート時点ではこれ程の大差では無かった。いかに「起家きか」=最初の任官が重視された時代とは謂っても、同じ此の15年間に、何故これ程の違いと成ったのであろうか・・・?
ちなみに、この公孫讃こうそんさん と云う人物・・・・・数多の英雄の中でも、実に奇抜な発想をして、それをまた実際に押し通してゆく誠にユニークな栄光と亡びを兼ね備えた男でもある。
                       (面白そうなので、別節で詳しく追う事としよう。)
「おお玄徳!よく来たな!魯植先生の元で共に学んだ頃が懐かしい。もっともお前はちっとも勉強せず、女遊び(音楽)と賭け事ばっかで、遊び呆けておったがな!」公孫讃はワハハハと如才なく大笑し、心よく劉備を迎え入れて呉れた。
「お久しゅう御座る。この度は面目ない仕儀となり、お恥ずかしい限りで御座います。」 「よいよい何も言うな。万事、俺に任せておけ。悪い様にはせん。」
 この時、公孫讃は、すぐ南面する州牧の『袁紹』との開戦に踏み切り、優れた部将は幾らでも欲しい時であった。そして部下の『田楷でんかい』を青州刺史に任じて、袁紹を牽制させていた。劉備は、その配下に入れて貰った。肩書きは別部司馬(別働隊司令)として呉れた。だから形式的には、劉備は「田楷の下に付いた」事になる。昔の好みで、袁紹軍に当たる、〈独立守備隊長〉と成った訳である。ーー劉備達はその礼遇に応え、関羽・張飛を押し立てて袁紹軍との鍔迫り合いに、幾度となく戦功を挙げた。それを評価した公孫讃は、試しに劉備を「平原県令の代行」に任じ、やれると観ると、平原郡のしょう(執政長官)に抜擢した。「平原郡」は袁紹勢力圏内とも言える、冀州南部、青州とも東接する要地であった。その平原国(郡)の民衆は飢饉に苦しみ、寄り集まっては略奪を働いていた。ーー其処で劉備は、「外」に対しては暴徒の侵入を防ぎ、「内」に向かっては経済上の恩恵を与えた。何をしたら、民が最も喜ぶか、下積み生活の長く豊かな経験が、ここで ようやく役立ったのである。郡内は見違える程に善く治まり民は感謝した戦さとは違った面白さが、《まつごと》の中に有る事を、劉備はここで初めて味わうのであった。・・・そして、この為政者いせいしゃとしての体験と、評判の良さが、この男を次のステップへと押し上げる、大きな要因と成るのだった。初めて治める郡(国)単位の大仕事である善政を心掛け誠心誠意、軍・政に取り組んだ。

−−やはり、この男にも・・・・
 ハッタリ無しの地道な時代は在ったのだ・・・・・。

この平原郡に、劉平と云う男が居た。彼は少し前迄は、平原県令であった劉備より上位の地位に在った。そして平素から劉備を軽んじては馬鹿にしていた。処が今回の人事異動で立場は逆転、劉備の風下に立たされる事となった。彼はそれを恥じ、また仕返しを恐れて刺客しかくを放った。その刺客は食客に化けて、易々やすやすと劉備の元へもぐり込んだ。そんな事とはつゆもしらぬ劉備は、普段通り食客(刺客)を厚くもてなし、客人として礼を尽くして迎えた。劉備は常に、身分の低い士人に対しても必ず席を一緒にして座り、同じ食器で食をとって、肩書きや身分に惑わされず、同じ一人の男として、差別や選り好みをし無かった。・・・・そんな劉備の人物に痛く感銘した刺客は、刺し殺すに忍びず、ついに有りのままを語ると深く叩頭こうとう供揖きょゆうの礼を残して立ち去っていった・・・・。
客、刺スニ忍ビズ、コレニゲテ去ル。
       ソノ人心ヲ得タルコト カクノ如シ。

この平原郡での治世・善政家としての評判や人望の高さが・・・・やがて、棚ボタ出世の伏線・基盤になってゆくとは、流石に劉備自身も想いもし無かったであろう。又、思わずに、ただ只管ひたすらコツコツと地道な努力を続けていたからこそ、見る人は見ていたのである。
             
 188年の或る日・・・・平原国のしょうと成っていた劉備の元へ、突然、一人の若武者が現われた。その者は、隣国・北海国からの、緊急使者である、と告げた。
その男の名は太史慈たいしじ・・・・のち、呉の「孫策」と一騎打ちした後、臣下となる勇将の若き日の姿であった。この時23歳。その若い使者は、劉備に目通りして言った。
「私めは青州東莱とうらい黄県こうけん)の田舎者であって『孔北国こうほっこくどの』とは親戚でも、同郷のよしみが有る者でも、御座いませぬ。ただ、孔北国どのの、立派な御名声と御志操しそうとに心をかれ、わざわいと憂いを共にする関係を結んで戴いておる者に御座います。」
孔北海こうほっかい殿・・・とは、北海国のしょうの任にあった孔融文挙こうゆうぶんきょ を指す。既述の如く、聖人「孔子」の第20代目の直孫で、天下に 知らぬ者とて無い大名士中の大名士であった。のち、献帝に請われて宮中の少府となり、後漢王朝にとっての、最後の砦となって曹操と拮抗きっこうしてゆく人物である。その『孔融』は今、領国内に侵入して来た黄巾反乱軍を討伐しようと出陣したのであるが、逆に都昌としょうの軍営で叛乱側に包囲され、明日にも全滅されかねない窮地に陥って居たのである・・・・だが、そんな重包囲の都昌城内へ敢えて単身かけつけたのが、この『太史慈』であった。 そして、救援依頼の使者役を買って出るや、再び単騎あつい包囲網を突破して、劉備の元へ遣って来たのである。
太史慈図然し、この「太史慈」と云う男・・・・・「孔融」の臣下でも親戚でも、同郷人でも無いと言う。それ処か、つい半月前までは、互いに顔さえ知らぬ全くの赤の他人でしかなかった。都昌城内で初めて互いが対面しただけの間柄であったのだ。では何故、この太史慈と云う男は、一面識も無い孔融の為に、孔融自身が無理だと制止する様な、命を賭けた単独決死行動を為したのか!?(※詳細は第6章・颯爽たる男組で述べるが)ひとことで言えばーー彼が或る事情で出奔した為、独り 故郷に置き残した母親に与えられた《恩義に報いる為》の、士大夫たるべき者の《返礼》であったのだった。
ただいま管亥かんがい(黄巾の首領)めが暴虐を行い、北海殿は、其の包囲を受けて孤立無援、今日か明日かと云う危機的状況に在ります。」だから是が非にも急援軍を直ちに差し向けて戴きたい!と言うものであった。但し、劉備と孔融の間には一面識も無い。となれば、太史慈の最大任務は、孔融が以前から如何に劉備と云う人物を高く評価していたか、決して窮したから「おべっか」を使っているのではない!・・・・と云う真実を伝えるかに掛かっていた。 「あなた様が仁義を行われる事で名が有り、よく他人の危急を救われると謂う事から、北海殿は心より、あなた様をお慕いし、頸を伸ばしてお頼りせんと、私めを遣わし、白刃を冒し、厳重な包囲を突破して寄越したので御座います。
世の誰もが未だ、「劉備」などと云う、取るにも足らぬ軽輩の名すら知らぬ此の時期、この孔融文挙だけは、密かに劉備に注目し、その人物を高く評価していて呉れて居る・・・・と言うのである。
名声だけを頼りに生きざるを得無い劉備にとっては、それは思いも寄らぬ、〔有り難い話〕であった。
孔北海どのは、万死の中から『ご自身の命をあなた様にお託しする』とお伝えするよう、私に命じられました。今、あなた様だけがこれをお救い戴けるので御座います!
そうまで言われて、無名の軽輩は大感激した。
おお!孔北海どのは、この広い世界のうちに、劉備と云う男が居る事を知って居て下さったのか・・・!!」 思わず口を突いて出た、この劉備の言の葉は、此の時期の、この男の心情を余す処なく言い表していよう。
劉備は直ちに精兵三千を太史慈につけて派遣した。都昌としょうの黄巾反乱軍は救援軍が来たと聞くや、包囲を解いて逃げ去り、かくて孔融は死地を脱した・・・・。
この一事は、この後に、劉備にとって、途方も無い僥倖ぎょうこうもたらす事になる。天下第一の大名士・『孔融文挙』から絶大な支持を受ける〔有資格者と成った〕訳であり事実その時に、最大の恩恵をこうむるのである。・・・・だが、よく考えてみれば、太史慈に付けてやった、三千の精兵は、劉備自身のものでは無い。公孫讃から貸し与えられていたヒト様の兵隊である。劉備はチャッカリ、他人様のふんどしで相撲を取り、美味おいしい処だけを頂戴した・・・とも謂えるかも知れぬ。

その翌年、霊帝が崩御し、天下は(第2章で詳述した如く)大激震に見舞われる。 そして董卓やその残党政権によって、後漢王朝は、その幼帝(献帝)を長安の奥地に拉致されたまま、事実上の無政府状態・群雄割拠時代へと突入していく

そして其のカオス(混沌)こそが、

信じられぬ奇蹟を、
        劉備の身の上に与えるのであった。


ほろ苦デビューからは丁度10年目★★★に当たる、194年


劉備玄徳33歳関羽雲長32歳
 張飛益徳26歳の時の事である・・・!!   【第47節】 棚ボタ式大出世 (1夜にして大スター)へ→