よ こ う ち り ん ど う
第1部
《乱世の英雄達》
第3章
プロローグ
悠久の大陸が産み落とした男
・・・・・と、しか言い様が無い。
負けても負けても、失敗ばかりの連続なのに抜けしゃあしゃあと
悪びれない。寧ろ、負け続ける事に拠って「大人」の風格さえ具え
てしまう・・・・そんな話は普通、在り得ないし、許され無い。周囲が
そんな大らかさを持たないし、第一、本人自身が、自己嫌悪で参っ
てしまう。ーー旗揚げ以来20有余年・・・・その麾下に天下無双の
勇将達・「関羽」・「張飛」・「趙雲」 と云う贅沢なコマを揃え
ながら、齢47に成ったと云うのに、未まだ寸土を得る事すら出来
無い奴・・・こう云う《ケタ外れなダメ人間》は
狭っ苦しい島国の風土では生まれ得まい。 又、それに愛想づかし
もせず、虚仮(こけ)の一念よろしく、くっ追いて行く奴も、行く奴だ。
馬鹿馬鹿しくて、やってられない・・・のが普通だ。
それなのに、この負け組の男達は、実力に反して、どんどん名声
だけは高まって行く。その様は恰もーー下層庶民の声無き声ーー
『我等の英雄』を待望する、儚い夢とダブッてゆくかの如くに・・・・・
然し現実は、ザマも無く逃げまくりの、かっこワリイ人生であった。
負け逃げ人生・渡り鳥・・・この、ちっともスゴクない男の凄さ→其れは
唯1点・・・測り知れない、無限大の屁こたれなさであろう。
失敗を、当たり前の金看板にしてしまう。したたかな大らかさと
でも謂おうか。兎に角へこたれない。メゲない。
『ーー折ケテ撓ズ、終ニ人ノ下 為ラザル者・・・・』
劉備玄徳は、曹操に遅れること6年、孫権よりは21年早い
161年に 幽州琢郡琢県(さんずいが正字)で生まれた。
・・・が、そもそも、この生まれた位置取りからして既にツイテいない。
いずれ中原に覇を唱えようとするならば如何にも「地の利」が悪い。
中国大陸では最北端の、辺境に属する。
当人は、前漢・景帝の第九子『中山靖王・劉勝』の末裔だと称した。
だが既に、ここら辺からして胡散臭い。ーー何故なら、この200年も
前の劉勝サマ・・・大変な艶福家で、御1人で頑張っちゃて、男児だけ
でも「130人」も残していらっしゃる御仁なのだ。然も其の本家は途中
三度も断絶し、養子を迎えてかろうじて復活したり消えたりする、誠に
以って「怪しからざる代物」なのだ。何せ、傍系はネズミ算式に増殖?
し続け、今や其の末裔たるや何十万居るか、全く判らない・・・・と謂う
塩梅であった。だから劉備の自称も、あながち嘘八百とも言えない。
七百位だろう。中山国は琢郡の西隣りであるし、ま、目敏く、イイトコ
ロに眼を着けた・・・・とでも言えようか。(※帝室では毎年、諸王の系図を調査
するが、然し、何十万にも可能性が有るのでは、文句の付けようも無いし・・・)
『先主(劉備)少クシテ孤。母ト履ヲ販リ、蓆ヲ織リテ業ト為ス』・・・・
(約30年後、孔明との出会いの時、ヤク(ぼう牛)の尻尾で旗飾りを
作って居た、手先の器用さも、この頃、身に着けたものであろう。)
家の東南の隅に五丈(12m)もある桑の巨木が在って、まるで車の
蓋の様に見えた。 (桑の木は当時、神聖なる貴人の象徴とされていた。
貴重で優雅なシルクの元に成る故である。)
幼い劉備は、よく其の桑の樹の下で遊び、常々言いふらしていた。
「吾レ必ズ 冨ニ此ノ羽保蓋車(羽飾りの付いた皇帝の車)ニ乗ルベシ。」
それを聞いた叔父の劉子敬は仰天して言う。
「汝 妄語スルナカレ。吾ガ門ヲ滅ボサン。」
(※この逸話は、前漢=司馬遷 『史記』の二番煎じである。即ち・・・
秦末期の覇王・若き「項羽」が、始皇帝の行列を前にして、「きゃつめ、
取って替わって呉れるわ!」 と嘯き、叔父の項梁が「しっ!滅多な
事を言うものでは無い。一族皆殺しにされてしまうぞ。」・・・・・と云う、
記述のコピーである。)
だが、「劉一門」などと云う程の、御大層な家柄では無い。何故なら
実際、劉備の挙兵以来、彼の親類縁者は、完璧と言ってよいほど、
誰一人として史書に登場して来ないのだ。
冒頭に、母ひとり・子ひとりが記され、前出の叔父の名と、次の
縁者一人が出て来るだけで、其れ以外は、ネコの仔一匹登場して
来ないのである。他の群雄の豊かな縁戚・縁者の存在と比較した時、
その不運は、無惨ですらある・・・・。
その母親(名・生没年ほか一切不明)が15歳の彼を、前・九江太守で
賢者の名も高い『魯植』の元へ遊学させた時、(魯植はこの時、宦官
勢力による公職追放・党錮の禁を受けて、野に下って居た)一族の
劉元起と云う者が、我が子(徳然)の分と一緒に学資を出して呉れた。
彼の妻は「各自一家ナリ。何ゾ能ク常ニ爾ルカ!」と苦言を呈するが、
「吾ガ宗中、コノ児有リ。非常ノ人ナリ!」 と、制した・・・・
これ以後は、見事なほど完璧に、彼の生涯には一人の親戚・縁者の
名も挙がらなくなる。 「地の利」の悪さ以上に、此の『孤』は、非常に
重いハンデイキャップである。 兄弟はおろか、頼りとなる血族・血縁
者がゼロと云う状況は、他のどんな群雄にも例が見られない。
誠に切なくも辛い、人生の出発・スタートと成る。それは、悲愴とさえ
謂える程の気の毒さである。まあ、天涯孤独と言ってもよいであろう。
さて、その「魯植塾」で、彼は『公孫讃』と親友と成る。
このとき公孫讃は、地元・幽州刺史の娘婿と成ったばかりで、将来を
嘱望される有力株の青年であった。
【その地声のバカデカさが見込まれた】と云うのだから面白い。
マイクなぞ無い時代、声のデカさも、人の上に立つ者には、貴重な
資質であった訳である。(大体いつの世でも、溌剌としている者の声は気持ちがよい)
だが・・・のちの史実から思えば・・・・この公孫讃との出会いは、彼の
その後=《負け残り人生》を暗示していた事になる。 (公孫讃はやがて、
『袁紹』に攻め立てられ、一族・妻子を根こそぎ道連れにして、自ずから放った業火の裡に、
この地上から消滅してゆくのである。 (※詳細は【第4章】 『亡びゆく超人達』にて)
ーーさて、学資まで出して貰った『劉備』だが・・・・・
どうにも勉強嫌いで、ろくろく本(竹簡)も読まず、違う道の方に身を
入れてしまったようだ。・・・はっきり言えば、「落ちこぼれの遊蕩生」!
学校(塾)はダチと遊ぶ為の口実だった。たぶん、塾へも殆んど顔を
出さぬ不良・問題生徒で、いつの間にやら退学して、郷里へ帰って
しまった・・・と、云うのが本当らしい。 然も家には寄りつかず(さぞ
母親が嘆き悲しんだ事であろうから)、悪ガキ仲間とツルんではゴロ
つき暮らしに浮き身をやつし始めてしまう。
『甚はなはダシクハ読書ヲ楽シマズ、狗馬こうば(闘犬や乗馬)
音楽(女遊び)、美ナル衣服ヲ好ム。』
派手な衣装を身に纏い、賭け事や、怪しげな場所に入り浸り、男だて
(任侠)を気取ってはバサラ(ヤクザ)稼業に精を出していたのである。
今さら、生半可な学問を身に着けた処で、到底、『士大夫』なんぞに
成れる筈も無い。 第一、嫌いな学問で飯を喰うなんざあ、まっぴら
テメエらしくも無い。こんなちっちゃな塾でさえ、テメエより学才の有る
奴等がウジャウジャ居る。《どう観ても、俺の才は学問じゃあ無えな。
学問じゃあ俺は、とてもの事、人の上になんぞに立てやしねえヤ。》
そこで劉備は、一大決心をした。
《よ〜し、こいつぁ一番、俺は高祖に成るしかあんめえよ!》
凡才・劉備玄徳でも望みを抱ける、巨大な先例・モデルケースが
存在していた。それまで幾千年の間、皇帝は全て「貴人」の独占物
であった慣例を打ち破り、初めて、「庶民」が皇帝と成った手本・・・・
劉備と全く同じ境遇から天下人と成った、漢の高祖『劉邦』が居る
では
ないか!劉邦もスタートはヤクザ稼業の頭目で名前すら書けなかった。
のちに大将軍と称賛される『樊曾はんかい』だってその子分で元は犬殺し、
大功臣・名宰相の『蕭何しょうか』だって葬儀屋の親爺だった。
『(劉備は)無口で人に謙へりくだって高慢にならず、感情に
流される事は無く』、いつの間にか、人から頼りにされていった。
『言語少ナク、善よク人ニ下くだリ、喜怒ヲ色おもてニ形あらわ
サズ、好ンデ豪侠ごうきょうト交結こうけつシ』・・・・劉備が魯植塾で
唯一学んだのは、恐らく、この前漢の高祖・劉邦の成功術(ひと誑たらし
ひと使い・よく言えば帝王道) であったに違い無い。 それさえ解れば、
あとの事など何うでもよかったのだ。そして直ちに実践し始めた。だが、
考えてみれば(考えなくても)何処の馬の骨とも判らぬ、無い無い尽くし
の若造が、いっぱしの英雄気取りで、天下人に成ろうなどと夢想する事
自体、チャンチャラおこがましい.。身の程知らずもいいとこで可笑しくて
誰もマトモに聴こうとはすまい。ーーだが、だが然し・・・当人は大まじめ
本気でそう思い込んで居るのだから仕様が無い。 偉いと言えば偉い。
阿呆と言えば、その通りでもある。
然し、この無茶苦茶な思い込みが無ければ、一切は
始まらなかったと、謂う事も亦、事実ではある。そうした志が
実現可能かどうかは、ひとえに時代の状況と、彼自身の行動の中に
こそ在る・・・・・
劉備は取り敢えず、不得手な学問より己の肌に合った「仁侠集団」
づくりに励み出した。目標は、高祖・劉邦の道を辿る(真似る)事で
あった。 ーー・・・・・・10年を掛けた。
『弘毅寛厚ニシテ、人ヲ知リ 士ヲ侍ス。
蓋シ 高祖ノ風、英雄ノ器アリ。』
劉備自身・・・・己の財産は唯一つ、生まれ以って具わっている、
【人たらしの魅力】・【人間力】 である事を、自覚したよう
である。専ぱら其れに磨きを掛けてゆく。
先ず手始めの相手は、若者連中であったが・・・・10年も経って
30歳近くともなれば、その近隣一帯(琢郡あたり)ではチッタア名の
売れた、用心棒集団の、いっぱしの親分サンに成った。
中国には古来より、〔仁〕と謂う徳目が社会認知されていた。
揉め事やゴタゴタを、当事者同士の間に立って、両方に不満無い様に
円満に解決して見せる能力・人格を謂う。問題を八方丸く治める処理
能力の事でもある。その問題やイザコザだが、小はヤクザの親分程度
であり、中は1国の太守・君子クラス、大ならば国家・皇帝にも通ずる、
公正公平な統治能力・・・それが〔仁〕なのである。それに対し〔義〕は
一方の側だけに徹底的に尽くし味方する徳目である。その意味では
劉備は〔義の人〕では無く、〔仁の者〕を目指した・・・と謂う事に成る??
『年少 争ッテ 之ニ附ス。』
17,8歳からの、この十年に亘る、仁侠・義侠の親分生活の歳月は
・・・のちの劉備玄徳の生涯に、多大な影響・過分と謂える程の財産
を与える事と成った(と推測される)。
ーーその「過分な財産」とは・・・・彼に冠せられる、
《人物評価の良好さ》、《風評の善さ》に他ならない。既述
の如く、この時代の立身出世は、壱にも弐にも、参にも四にも、兎にも
角にも【人物評価に拠った】。蓋し、彼の場合は上(名士サイド)
からの評価ではなく、下(庶民サイド)からの評判の良さであった。
そしてやがて、その風評を無視し得無く成った世間(上層支配階級)が
逆に彼の風評を取り込み、迎え容れられてゆく・・・そうした構図の基盤
部分・原型(コア)を形成したのがこの20代後半までの任侠・義侠生活
であったに違い無い。
折りしもこの頃・・・・余りにもハンデイの多い彼を憐れむ、天の配材が
如くに、劉備は、『関羽』・『張飛』と云う、同じ星を持った、しかも
〔義〕を人生観とする男達との出会いを果たすのである。彼の、その
スタートにおいて、天は恰も、一族の援護無き劉備を励ますかの様に
天下最強の武神二人を与えたかの如き、運命的・宿命的邂逅・
出会いであった。
その三人の出会いの経緯や場面は、如何なる史書にも記述は無い。
・・・・それどころか、
関羽と張飛においては、身長や風貌に関する紹介
記事は、2・3級の史書においてさえ、
一文字も無いのである!
(※正確に言えば、関羽だけは、のちに正史の中に
『ヒゲ』とだけ一ヶ所のみ出て来るが・・・・
一方劉備にかんしては、流石に一国の皇帝に成った人物だから
それに相応しい?奇貌=貴貌が述べられている。)
・・・・と、言うことは、本当の関羽と張飛の風貌は、今となっては誰
にも判らず、逆に言えば、
「我々は各自が夫れ夫れ、全くの自由さで」、誰に
気兼ねする事もなくこの武神達の風貌・佇たたずまいに
想いを馳せて構わないのである!
(※但し、当時の成人男子は、宦官以外は全員が争う様に、豊かな
ヒゲ(髭=くちヒゲ)、(髯=ほほヒゲ)、(鬚=あごヒゲ)をたくわえていた。
その風貌の見事さ(=儀表)も、登用試験や昇進時の重要な合否判断
材料とされたから、現代人の様に顔の輪郭が、くっきり現われて居ない
のではあるが・・・)が、それでは余んまりである。小説としては身も蓋も
無い。そこで以下、その(劇的な)巡り会いの場面を、『三国志演義』の
第1回・「桃園ニ宴シ、豪傑三人義ヲ結ブ」の演出=(創作)の妙で見て
措こう。所謂【桃園の誓い】として世に知られる、美しいプロローグ
ではある。無論、風貌も含めて、全て千年後の『羅漢中』の創作であり
同時に「関羽」と「張飛」のキャラクターが、読者に強烈に印象づけられ、
《爾来、二人の風貌を決定付けてしまった》、羅漢中(らの
集団創作?)の美事なエンタティナーである。
『其の日のこと・・・・黄巾党討伐の義勇軍募集の立て札の前で、
劉備は己の無力さに、思わず長い溜息を吐いた。
するや背後から、「大の男が国家の為に何もせず、ただ溜息を
吐いて何とする!」と大声が浴びせられた。
振り返れば、その声の主は、身の丈八尺(180センチ)、
豹の如き頭にドングリ眼、燕の如き顎に、茫々の
虎ヒゲ、落雷の様な大声で、まるで暴れ馬の威勢があった。
劉備はその尋常
でない風貌に感心して姓名を訊ねた。と、その男は言った。
「儂は、姓は張、名は飛、字は翼徳(益徳が史実)と申す。先祖
代々、琢郡に住まい、田地も有るが、酒を商い、豚肉を売りながら、
専ぱら好んで天下の豪傑と交わりをむすんでおり申す。今、貴殿が
溜息を突いているのを見て、思わず声を掛けてしまったのじゃ。」
劉備も名乗った。 「私は元もと漢王室の血筋を引く者で、姓は劉、
名は備と申します。いま黄巾の輩が叛乱を起こした事を知り、賊を
破って民を救いたいとの気持ちに成りましたが、残念ながら今、私
にはその力がありませぬ。それで溜息を突いて居たのです。」
「そうであったか。儂には些か財産が有る。それでは、此の辺りの
腕っ節の強い連中を集め、貴公と共に旗揚げしようではないか!」
劉備は大いに喜び、連れ立って居酒屋に入った。飲んでいる最中、
ふと外を見やると、一人の大男が車を押しながらやって来る。大男は
店先に車を止め中に入って腰を下ろすや呼ばわった。「早く酒を持て!
儂は今から至急城内にゆき、義勇軍に入るのだからな。」
劉備は、その人物に眼を止めた。
身の丈九尺(203センチ)、顎ヒゲの長さニ尺(45センチ)、
熟したナツメ(重棗)の如き赤い顔、紅を差した様な唇、
鳳凰の眼と蚕の様な眉・・・・見め容姿は堂々とし、凛々たる
威厳に満ち溢れて居る。
劉備はさっそく彼を招いて同席し、姓名を訊ねた。
「私は、姓は関、名は羽、字は長生、のち改めて雲長と申す者。
河東郡解良県の出身です。郷里の豪族に、権勢を嵩に着て悪事を
働く者が居たので、そやつを殺してしまいました。為に難を逃れて
他郷に出奔し、はや 5、6年になり申す。いま当地で、義軍を募り
賊を討伐すると云う噂を聞き、わざわざ志願しに来たのです。」
劉備が自分の計画を打ち明けると、関羽は大いに喜び、かくして
三人は、打ち揃って張飛の家にゆき、旗揚げの相談をした。
その時、張飛が言った。
「うちの裏には桃園がある。ちょうど花が満開だ。明日、そこで、
天地の神々を祭って、吾ら三人、義兄弟の契りを結び、力を
合わせ心をひとつにする誓いを立てようではないか。旗揚げの相談
は、それからにしよう。」
劉備と関羽は、声を揃えて賛成した。 「大いに結構だ!」
翌日、桃園に黒牛・白馬などの供え物を整えると、三人は香を焚き、
再拝して、誓いの言葉を述べた。
「われら劉備・関羽・張飛の三人は、姓を異にするとは雖え、既に
義兄弟の契りを結んだ以上、心をひとつにし、力を合わせて、困難な
状況に在る者を救い、危険な状態に在る者を助け、上は国家に報い
下は民衆を安らかにしたい。
同年同月同日に生まれなかった事は是非も無いが、
ひたすら 同年同月同日に死なん事を願う。
皇天后土の神々も、何とぞ此の心を御照覧あれ!我らが義に背き、
恩を忘れる事あらば、天罰を受けるであろう!」誓い終わると、
劉備を長兄、関羽を次兄、張飛を弟と定めた。
天地の祭りを終えたあと、もう一度、牛を殺し、酒の仕度をして、村の
腕っ節の強い者達に招集を掛けた処、三百人以上が集まったので、
もろともに桃園で痛飲し、酔いつぶれた・・・・』
−−−と・・・以上が、『演義』の創作(名スタート)である。
但し、創作とは謂え、「演義作者・羅漢中」のベースも亦、矢張り
『正史・三国志』なのであるから、史実も幾分かは含まれている。
三人の出身地は本当(正史どうり)である。・・・と謂う事は・・・
【関羽雲長】は、何と、1000キロも離れた
河東かとう郡・解かい県からの登場であった!
是ればかりは、「事実は小説を超える」驚きである。広大な
中国大陸の中で、ピンポイントの邂逅であったと謂う事なのだから・・・
正史にはただ、 『亡命シ 奔はしル』 とのみ記されている。
※ 関羽の故郷「解」には、解池と云う塩湖(ソルトレイク)が在り、
塩の一大産地であった。ちなみに塩と鉄は官営(朝廷直轄)の専売で
皇室の最重要な財源であった。巨額な利権が絡み易い土地柄とも
言えよう。関羽も、そうしたシンジケート間の揉め事に関わり、出奔
したと想像する人々が多く居る。
『張飛益徳』は、劉備の地元・琢県の産である。
「関羽ヨリ数歳、年下」とある。巷間(演義が)、翼徳とするのは誤り
(創作)である。この三人の関係について、正史はこう記している。
『先主(劉備)、二人ト寝いヌレバ則すなわチ
牀とこヲ同ジウシ、恩ハ兄弟ノ若ごとシ。
而しかシテ稠人広座ちゅうじんこうざスルモ、侍立スルコト終日。
先主ニ随したガイ周旋シ、艱険かんけんヲ避ケズ。』
と記しているが、その具体的な有り様は、是から追い追いに顕われて
来る。尚、先述した通り、「関羽」「張飛」の風貌は、一切記述無しなの
であるが、唯一ヶ所、《孔明の手紙》の中に、【髯ヒゲどの】とあり、陳寿
正史は其れを解説して、
『羽(関羽)、美鬚髯アリ。故ニ亮(孔明)コレヲ髯ト
謂ウ』 と、している。(※鬚=シュ・あごヒゲ、髯=ゼン・ほほヒゲ)
是れが(是れだけが)、後にも先にも、関羽と張飛の
風貌に関する全てである。従って・・・・
『関羽』が2メートルを超える巨人で、たわわな顎髯をたくわえ、
【名馬・赤兎】に打ち跨り、【青龍偃刀】を引っさげる勇姿
と、伝えられる のは、全てが全て演義作者『羅漢中』の《創作》である。
(※ ちなみに赤兎馬は実在の名馬だが、史実の乗り手・持ち主は
『呂布』であり、関羽ではない。演義は、呂布が滅んだ時に、関羽が
頂戴したことに事にしてある。
又、関羽の《美髯》だが・・・・「演義」はチャッカリ、「正史」に記された
別な人物の風貌から、関羽の髯を 2尺=45センチ にしてあるが、
本家本元はモット凄い。何と4尺=90センチの鬚を有する大名士が
実在するノデアル。第U部に登場して来る【崔 王炎】が其の人なのだ。
まあ羅漢中も流石に、90センチも有ったら戦闘の邪魔になると思って
その半分にした?ノカナ)
←←(之が本家の 崔 王炎デス)
同じく、トラ髭巨眼で、雷の如き大声を発し、【蛇矛】を振るう
『張飛』像も亦、演義の美事な創作である。
−−つまり・・・・両雄の本当の姿が、実際いかなるものであったか
については、我々の自由な想像力が許される、
愉快しい範疇なのである・・・・!
もう一人の『趙雲子龍』には、正史に風貌の記述がある。
(補注の別伝ではあるが)
『趙雲は身長八尺(180センチ)あり、
姿や顔つきが際立って立派だった。』
威風凛呼たる美男子だった事が覗える。
又、『劉備』の風貌は、正史に・・・・
『身長七尺五寸(169センチ)。手ヲ垂ルレバ
膝ニ届キ、顧リミテハ自カラ其ノ耳ヲ見ル。』とある。
また、「正史・周羣伝」の中に、『先主ニハ鬚ガ無カッタ』
との記述が在るから、鬚シュ=あごヒゲは無い風貌だった
事が知れるのである。
但し、『手長・大耳』の記述部分は、割り引いて読む必要がある。
皇帝に成った様な大人物の風貌を伝える時には、凡人とは違う
尋常でない事を記すのが、慣例・歴史家のマナーであったからだ。
※晋の司馬炎の記述にも、『髪ハ地ニ着キ、手ハ膝ヲ過グ』とある。
もっとも、呂布が最期の時に、劉備に向かって【大耳野郎!】 と
罵っているから、【デカ耳】ではあったに違い無い。
ちなみに、筆者の感想であるが・・・・・三国志に続々と登場
する人物達の身長について、些か疑問の念を抱かざるを得無い。
武将は勿論、文官も含めて、殆んど全員が【八尺近い大男】 と、
されている。 我々は一尺を22.5cmと換算しているが、
(是れ自体に誤りは無い・・・・とされている)、八尺と謂えばー→
22.5×8=180.00cmとなる。21世紀の現代でも大柄である。
一体、2000年も昔の時代に、そんなにゾロゾロと、2メートル近い
アジア人が居たものであろうか!?
ペキン原人は直接には漢民族の祖先ではないが、身長は140cm
以下である。身長の高いヨーロッパ系の直接の祖先であるクロマニ
ヨン人は、180〜200センチの大型人類ではあるが、中国大陸には、
影響は無い。・・・・・だとすれば、首を傾げざるを得無い。
大体、現代の漢民族でも180センチの身長のは稀であろう。
史書を鵜呑みにすれば、三国志は【巨人族物語】である。
些か割り引いて観た方が至当ではないか・・・・・と、思ってしまう。
無論、登場して来るのは、広大な大陸から選りすぐられた者達の
話ではあるし、巨人であったからこそ大活躍した・・・・・とも謂えるが、
文官(後方担当官)の多く迄もが長身(巨人)と記されると、
ホントかなあ〜?・・・・と、思ってしまう。
『七』、とか、『八』の数字には、『超怒級・超大物』=ビッグな
人物と謂う、外見以外の要素を併せ持たせた意味合が濃厚である。
(昔の中国人は、一つ一つの数字に多様な意味を持たせ、神聖視
していた。3・7・8・9などは聖なる数であった。)
ま、英雄・豪傑が余りチビでも困って(イメージが崩れて)しまうし、
やはり、壮大で勇壮な物語には、大男達の方が相応しくはある・・・・
−−さて、話を『劉備集団』(と言っても、劉備・関羽・張飛の三人
だけではあるが)の、門出・スタートに戻そう。
23歳の劉備玄徳が、関羽雲長・張飛益徳と云う、
一人で一万の軍に匹敵する(万人ノ敵)豪勇との巡り会いを
果たした直後のーー184年ーー・・・・・
中国全土を揺るがす《大乱》が勃発した。
劉備達も、この乱に乗じて名を挙げ、世のデビューしてゆく。
いわゆる 【黄巾の乱】 である!
この大乱の勃発に因り、後漢王朝は事実上滅亡したと謂ってよい。
と同時に、それは、「誰にでもチャンスが有る」と云う、
新たな時代の幕開けでもあった。
ーーー激動の序曲である・・・・・・・。
まさに劉備ら、三国志の英雄達は、この黄巾の大乱の「落とし子」・
「申し子」達なのであった。
反乱軍勢力は中核だけでも数十万、それに呼応する者達を含め
れば300万とも500万とも言われた。当時、後漢朝廷には、それに
対抗し得るだけの、常備軍は持てていなかった。ーー必然、民間の
『義勇軍』にも頼らざるを得無い。
ーー《チャ〜ンス!》である。ゴロツキ集団でも、用心棒の
ヤクザでも、誰でも官軍に参加できるのだ。
大手を振って戦場に駆けつけ、あわよくば手柄の一つも立てられる
・・・かも知れない。そしたら褒美に、正式な「お役人様」に成れる!?
学も無く、家柄・名声も無い 「有志」 にとって、これは人生最大の、
大ジャンプ・栄光獲得の唯一絶対チャンスに他ならない。
聞けば、塾の恩師であった『魯植先生』は、現役復帰を果たし、
北部方面軍・最高総司令官に成っているとか・・・・!
ますます、《大チャ〜ンス!》
幽州の片田舎で、ゴロツキ集団の親玉に納まりつつ、世に出る
機会を窺がって居た劉備達にも、ついに《その時》がやって来た
のである・・・・・。
ーーー但し、軍資金が無い。武器も武具も軍馬も揃わないから、
行きたくても行けない。 行くからには、たとえ小粒でも、一軍の将
としてデビューしなければ、行った意味が無い。
《−−困った・・・・!!》
時だけが、無為に過ぎていった・・・・・・
《第45節》 義兄弟、勇躍出陣す! →へ