青年と処女・・・三国統一志
覇王への道
                 



ーー歴史が動き出す・・・・・
              たった一人の男が、歴史を動かす。
けだし、彼が動くと云う事は、50万の人間が、
          軍人いくさびとと成って歴史を動かすと謂う事であった。

ーー仲達が出仕してから半年後の202年・・・・
満を持していた曹操が、遂に天下統一へと動きだした。
そのきっかけと成ったのは・・・・曹操にとって最大の対抗勢力で
在り続けた、袁一族の総帥の死であった。 ーーつまり、2年前
(200年)に《官渡の決戦》で大敗北し、黄河の北へ退きあげて
居た、あの★★袁紹】が、この年の5月、本拠地の業卩ぎょう城で吐血して
憂死したのである。・・・・あのとは、 曹操にとっての感慨 ・・2人は
お互い若い頃からの放蕩仲間でもあった。酔った勢いでヒト様の
花嫁を、式場からカッサラってみては面白がった事もある。そんな
人騒がせな事を考え出すのは勿論曹操だ。こう云う事にかけては
兄貴ぶんの袁紹も凡そ後手を引いた。
ーー或る夜・・・・真っ暗闇を追われて逃げる途中、袁紹がドジって
溝に嵌り込み、腰を強打して動けなくなった。
「アイテテテ、動けん。早く此処から出して呉れ!」
皆で手を貸すが、なかなか這い上がれない。ワイガヤの追っ手の
声が迫って来る。焦る袁紹。すると、それを脇でニヤニヤ観ていた
曹操が、とつぜん大声で叫んだ。
「おーい、皆の衆〜、嫁さらいの犯人は、此処に居るぞぉ〜!!」
〈ーーへっ?〉一瞬、眼が点に成った袁紹。
「バ、バカ、何を言いやがる!」
目の玉飛び出た袁紹は、腰の痛みなど何処へやら、ガバと跳ね
上がるや、脱兎の如くにピュウ〜〜ッ!・・・
           *(袁紹が 主宰した『奔走の友』時代の、おちゃらけバージョン)             
いま想い出しても可笑しい。黄巾党討伐では、袁紹を盟主に共に
闘った事もある。爾来、袁紹(三世四公の大名門である)の方は、
曹操の庇護者を認じ続けた。事実11年前(191年)には、冀州きしゅう牧を
奪った袁紹は、其のオコボレとして曹操を東郡とうぐん太守に任命して呉れ
たものだった。・・・・時移ろい・・・片や中国最高の名門・天下随一の
軍事力と版図を持つ『袁家の総帥』
・・・・一方は、弱小とは言え、
帝を戴く『新進気鋭の旗頭』


 ーーそして2年前。
曹操の余りの急成長ぶりに、さしも坊ちゃん育ちの袁紹も、その
面目プライドと嫉妬心から、曹操討伐の軍を発したのだった。その時点では
全ての面に於いて袁紹側は、成り上がり者の曹操を圧倒的にリード
していた。兵力も10対1であった。〈戦う迄も無く、所詮、結果は見え
ている〉・・・・と、世間の誰もがささやき合った。
ーーだが、昨年の《
官渡かんと の戦い》・・・現実は大方の予想を覆し
曹操側の大逆転勝利となった。袁紹にとっては大敗北劇であった。
本拠地(業卩ぎょう)へ敗走する袁紹の絶望ぶりや如何ばかりであった
ろう・・・・その後、残っている兵力を掻き集めて体裁は整えたものの、
昔日の面影は無い。今更、あれやこれや、己の不徳と無能とを悔や
んでみても、悔いは悔いを呼び、恨みは恨みを喚ぶばかり・・・・
 そして此の5月、後世に『名門の虚名に溺れた 愚かな人物!』 の
汚名を残しつつ、【
袁紹本初】は憂悶の裡に齢50に達せずして涯て
ていったのである・・・・・
インターネット、アクセス!ーー《官渡の戦い》・・・っと、
(こんな面白い話を見逃す手は無いもんね)ええと・・・あった、あった。
オッ!こりゃバッチリ書かれてるぞ。ふ〜ん、【第6章】に出て来るのか。
 ・・・・なになに・・・
 
【第6章】 《官渡の大決戦!》 
   [T]
《白馬の戦い》  
   [U]
《男も惚れる関羽の背中》
   [V]
《危うし官渡城!》
   [W]
《スーパーウェポン登場》
   [X]
《ツキも実力、クリプト入手》
   [Y]
《影の軍団、出撃す!》
   [Z]
《敗れし王者と勝てし超傑》
   [[]
《壮大なる大叙事詩》    ・・・・・・・か。     
  (第6章まで、楽しみに待ってようっと!)  
 と云う事 で、インターネット、アクセス終了! 

さて、ところで・・・官渡の戦いに勝ったとは雖え、曹操側にも
問題は在った。勝つには勝ったが、それは防禦の為の『戦闘』に
勝っただけであり、《戦争》に勝って領土を新たに獲得した訳
ではないのだ。確かに、投降して来た将兵で、軍事力は一段と
強化されたが、こちらも消耗している。それを回復した上で、
勝利と云う『点』を、政治としての《面》に押し広げなくてはならない
 更に、重大な問題も在った。
自陣の【南北側背に関する戦略的基準】を一体どこに置くか、と
云う緊急課題である。現在の軍事力では、南北同時に、二正面の
作戦は展開できない。
ーー
・・・衰えたとは雖え、 いまだ袁一族の底力はあなどれない。
北方深くに、残存勢力が温存されている。主な同盟勢力だけでも、
黒山衆こくざんしゅう】10万、 【烏丸族うがんぞく】30万と言われている。こちらはほぼ50万。 
見方によっては、やっと互角に成ったばかりとも謂える。
ーー・・・己(許都)の脇腹に当るけい州の劉表りゅうひょう勢力。
この荊州は、当時のエアポケットの如く、ここ30年間、戦乱も無く、
今や天下随一の豊饒ほうじょうの地、国力充実している。  

201年勢力図
そして・・・
孫 権・・・・こちらも長江の下流一帯をまとめ
上げ、一大勢力と成りつつある。
は《官渡戦》の最中、その
全軍を挙げて許都襲撃に向かわんとした、キケンな相手でも在った。
(孫権の兄孫策が企図するも、直前に刺客に暗殺され未遂に終る)

『小覇王』と謳われた《孫 策》の熱き生涯は第7章【颯爽たる男 組
  で全て追うが、此処では現時点(202年)での『呉国』の様子を
                                垣間見ておこう。
ーー今からたったの十年前・・・この地上には未だ、
呉の国などと云うものは、影も形も無かったのである・・・・!
                                    そんけ ん
それが、『江東の虎』と呼ばれた【
孫堅】なる人物の出現以来
(37歳で戦死)、息子の【
孫策】の代で、瞬く間に江表(江東・江南)
の地を平定し去り、現在は弟の【
孫権】の時代となっている。
特に2代目【孫策】は気宇壮大で、官渡戦の間隙を狙って許都襲撃を
準備し、【
献帝】を呉の地 へ動座せんとする大戦略構想を実行した。
だが前述の如く、26歳の若さで不覚の死を遂げた。(200年)
然し現在【
孫権】の幕下には、曹操に勝るとも劣らない、キラ星の如き
人材を擁している。超一級の軍政家【
周 瑜しゅうゆ】を筆頭に、
   ちょうしょう  ちょうこう    ぐほん    ろしゅく       
 【
張昭】【張紘】【虞翻】【魯粛】らの名参謀達、
    りょもう    りくそん    ていふ   こうがい   しゅうたい  かんねい  
 【
呂蒙】【陸遜】【程普】【黄蓋】【周泰】【甘寧
 【
太史慈たいしじ】などなど猛将・勇将の枚挙にいとまもない。
ーー202年(建安七年)の現時点では・・・・
3代目の若き【
孫権】(20歳)が、君主権の再確立を目指しつつ、
国内の政権基盤の整備に躍起に成ってはいる。が、それも間もなく
達成されるであろう。国内が整備充実されれば、次は国力の拡大・
領土的膨張を狙うのが当然である。事実、今年に入るや、荊州に
                     こうそ
踏み込み、敵将【
黄 祖】と一戦に及んでいる。
何よりの脅威は、呉国の若さである!
君主をはじめ皆若く、兎に角《上げ潮の勢い》がある。数字だけでは
計り知れぬ、不気味な要素だ。その『呉国』が、西に隣接する
豊饒な大州》である『荊州』に手を伸ばし、併呑してしまうと成ると
一大事である。呉の根拠地『
揚州』一国でも、面積は(日本の3倍)
今の曹操の全領土に匹敵するのだ。その大国が、更に同じ大国・
荊州』を手に入れれば、長江以南の中国南半分は呉国の領土と成る。
もし呉が『
揚州』・『荊州』の二大州を占めると成れば、天下の形勢は
逆転し、こちらが狙われる羽目にも陥いり兼ねないーーと云う重大
局面が出現してしまうのである。然も、呉軍の《荊州侵攻》は、時間の
問題に成りつつある・・・・
 判ってはいるが、曹操には未だ、遙か千里の彼方に在る呉の地に
迄は、手を廻す余力が無かった。歯噛みしながらも、呉の強大化を
傍観して居るしかないのが実情であった。
・・・そこで已むなく曹操は、『呉』に対してはもっぱ ら
慰撫・友好政策
徹して来ていた。
3年前(199年)まだ2代目【孫策】の時、荊州の一部(江夏郡)を
切り取って意気上がる呉国に対して、
政略結婚 攻勢に出ていた。
曹操は弟の娘を、孫策の4番目の弟【孫匡そんきょう】にかしづかせている。
逆に息子【曹彰そうひょう】(12歳)には、孫策の従弟【孫賁そんふん】の娘を娶らせた。
                  そんけん                  そんよく
ばかりか次弟【孫権】、三番目の弟【孫羽】にも高官位を贈与している。
無論、君主・孫策には《討逆とうぎゃく将軍》号を上奏・贈与していた。
                                                   ちょうこう
その返礼の使者として『許都』に赴いた重臣【張紘】は、宮廷の内外
で事ある毎に、我が主君の偉大さを吹聴していた。
我が主君・ 孫策の資質と知謀は飛び抜けて優れており、三つの郡
 を平定した際にも、恰も風が草を靡かせる様に容易に事が運び、
 加えて忠義と敬虔さと誠とを以って、漢王室の為を考えている人物
 でござる!
・・・・これを単なる主君自慢と観てはなるまい。
《]デー》の為の、事前工作の一つであったのだ。孫策が本気で、
献帝の動座を画策していた傍証と観るべきであろう。

ーーだが、それから3年・・・・【袁紹】を官渡戦に悶死させ、袁一族を
北方に追い詰めた【
曹操の立 場】は、俄然揺るぎないものと成って
来ている。もはや今迄の、
慰撫融和政策を破 棄し、その政略の転換
を為すべきメドがついてきた。そこで此の年、ついに呉国への
強硬対決 策が決定され、それが実施されたのである。
『直ちに、孫権の息子を(
人質として)差し出して寄越せ』・・・・
と、言い送ったのである
表向きは、新たな友好関係を樹立する為
とは言うものの、実質的な脅しであった。
これに対し、3代目(孫権)が跡目を継いだばかりの呉国内では 、
大論争を呼び起こす事となった。
               しゅう ゆ  こう きん 
だが結局は【
周瑜公 瑾】の不退転の進言に拠り、
『要求は断固、拒絶する!』との返答がなされて来た。
《ーー孫権め、自信をつけおったか・・・!》
若僧と、甘く観てはならぬ相手に成って来ていた・・・・

これら南方の雄達は、曹操が独り強大に成る事を望まず、これを
危険視、阻止しようと動くであろう。スキをを見せれば、背後を襲わ
れる可能性が出て来ている。
今、荊州で客将に甘んじて居る【
劉 備】の動向も気懸かりである。
劉表
そそのかせて、背後を突かせようと企むかも知れない。
ーー更に
西 方には・・・・小粒とは言え、りょう州に 【馬超ばちょう】・漢中に
張 魯ちょうろ】・益州に【劉璋りゅうしょう】も在る。
然し、やはり気に成るのは【南方】である。
《ーーー北か南か・・・ザッツ、クエッション 
故に、この半年以上の間、曹操の作戦会議は、この一点に議論が
集中していた。だが、なかなか最終決断が下せられないのが本音
であった。
《機の熟するのを見極めよう。但、準備だけは万全にして措こう。》

ーーそして、その機は、向こうの方からやって来た。
敵の『総帥・
袁紹の悶 死もんし』と云う形で。・・・・袁一族の動揺と混乱。
そして何よりも《没落の象徴》として、人心の離反を産み、その陣営
の戦意を著しく削ぐであろう。
《ーーチャンスだ!この機を逃すべきではない!》
それが曹操の決断につながった。それまでの維幕の大勢は寧ろ、
南征論 に傾いていた

ーーだが・・・曹操は、ズカリと決断した。
《劉表の奴は、郭嘉が言う通り、動くまい。》
  かくか
郭嘉】は、劉表を『座談ノ客ノミ』と言い切った。

「ーーで、あろうな・・!」
    ・・・・・これで、決まった。
「やるからには、徹底的にやるでしょう な。」
作戦会議から戻った曹丕から、その決定を知らされ、仲達が言った。
この時仲達は未だ、流石に維幕に出入りはしていない。
「恐らく、地の涯て迄も追い詰め、この地上から袁一族を根こそぎ
消し去るおつもりでしょう・・・。」
  ゆ う
「幽州まで拡がりましょうか?」
                 りょうせい りょうとう
「なかなか・・・遼西、遼東も厭わぬでしょうな。」
   こうく り
「高句麗(朝鮮半島)と言われますか!」
「妥協を許さぬ冷徹さこそ、覇者の覇者たる所以ゆえんおぼされ。
 若君も、この点は敢えて見習い、身に備うべき”徳”の一つの姿と
 心得なさる事です。」
                    きれいご と
「《徳》と申すか?綺麗事では、天下に届かぬか・・・・」
「長引きましょうぞ。」  「何故でございます?」
袁紹には3人の息子が居ります。この3人は、どうも仲が悪う
 ござる故、一つの力には纏まりますまい。」
「予も、それは聞いている。然し、敵の仲違いは、味方にとっては
 結構な事ではないか。」
「バラバラだと逃げ足もバラバラに成ります。故に時間は掛かるかと。」
「成る程・・・だが、いざ我々を眼の前にして迄、そう成るであろうか?」
「一旦はまとまっても、根は深こうござる故、いずれ必ず割れましょうな。
それが、あの袁一族の”ごう”と申すものでござろう。」
「ーー袁家だけの事かの!」
                             う ち
「《それ》は未だ未だ、心の裡にしまって置かれませ。」


「袁家には、上から
たん(顕思)・ (顕奕)・ しょう(顕甫)の3兄弟が
居ります。」 曹丕にせがまれ、仲達は解説してみせる。
「上の2人は先妻の子、末は後妻の子でござる。」
跡継ぎ問題は、曹丕にとって、他人事では無いのだ。

「この後妻の『劉夫人』が、なかなかの女傑らしゅうござる。夫の
袁紹が病床に伏すと、以前にも増して、我が子(袁尚)を跡目にと
迫ったらしい。 そこで袁紹は父として、3人の息子達の力量を
見極めようとしました。
支配する四州のう ち、
長男の たんを【青州】に、
次男のを【幽州】に赴かせました。」
            き                                          しょう   へい   
「すると【冀州】は一族の本拠地ゆえ、
末っ子の 尚は【并州】と
云う事になるな?」
          13州郡図
               へい           おい   こうかん                    えんしょう
「ところが、【并州】には甥の高幹を 任命し、末子の袁尚を手許の
冀州】に置いたのです。」 「フム、母親(劉氏)の指し金だな?」
「その後、死ぬまで、袁紹はとうとう正式な跡目を発表せぬまま
                                急没した由。」
「何とまあ、優柔不断な事よ!」 曹丕は、吐き捨てる様に言った。
                                                         しょう
「父親(袁紹)死去の際、その場に居合わせたのが
()だけ・・・・
 と云う事になれば・・・?」
                            
「これ幸いと、跡継ぎを宣言してしまうだろうな。先君の御遺命とか
 何とか言って。」
                     たん
「駆け付けた長男(
)は、後の祭りと云う訳ですな。これで、収り
 ましょうか?」 「当人達も取り巻きも、ふた派に割れるな!」
             しんぱ い
「袁尚派の【
審 配】あたりが入れ知恵したのでしょうな。《この措置は
 臨時である》と慰撫して置きながらも、袁尚みずからに即刻公表
 させました。」
「我々との戦いが一段落したら、その時改めて、正式に跡目を決め
 直そう、と説得したんだな?」
「流石に、大敵を前にして、仲間割れする愚を悟ったのでしょうな。」
「・・・然し、このまま収まりそうも無いな。」
「そこら辺の事情・情報は、父君(曹操)が一番よく御存知ですから、
 いま軍を起こされたのです。」
いま現在、3男の
袁 尚えんしょうは本拠地(業卩ぎょう)に迎撃の兵を構え、
長男の袁譚えんたんは70キロ南(曹操寄り)の黎陽れいように意地を示している。
2男の袁煕えんきは300キロ北方の南皮なんぴに在る。
華北平定戦01図
「【業卩ぎょう】の袁しょうは、袁たんに不信を抱き、自派の
逢紀ほうきを目付として
黎陽れいよう】内に送り込んでいるそうでござる。」
「我が父上(曹操)が、『以って他山の石』として下さればよいが・・・・」

その父・曹操と共に、曹丕は出陣して行った。9月の事である。
仲達も行を共にした。曹丕担当の文官としてであった。

※ 尚、 曹操は、この出陣に先立って、この年の正月を、故郷の
ショウ』(べんに)で過ごして居る。
言焦しょう』は 許都から東へ200キロ、曹一族の本貫地ほんがんち(本籍地)で
ある。曹操にとって、この望郷の念は、格別のものであったらしい。
この後も、事有る毎に立ち寄っている。
      (位置的に、対・呉国戦の出撃基地と云う意味もあるが)
折しも官渡戦に決着がつき、どうやら覇道の行方にもメドが着いた
歓びを、一族や知人達と一緒に祝したかったのだろう。覇王として、
故郷に錦を飾る〈凱旋〉であった。
 ーーだが、久しぶりに見た故郷は・・・戦乱にすっかり荒れすさび、
見る面影も無く傷付き果てていた。そこで曹操は、己の故郷に対して
特別の布告を出した。
私は義兵を 起し天下の為に暴乱を除去したが旧地(故郷)
の人民は殆んど死滅してしまい、 町中を一日中歩き廻っても
顔見知りに出会わない。私は愴然たる思いに胸を痛ませられる。
さて、我と共に義兵を挙げて以来、死んで跡継ぎの無い将兵の
場合には、その親戚を探し出して跡継ぎとし、田地を授け、官より
耕牛を支給し、教師を置いて其の者に教育を与えよ。跡継ぎ有る
者の為には、廟を立ててやり、その先人(戦死者)を祭らしめよ。
霊魂と云うものが存在するならば、 儂の死せるのちも、何の思い
残す事あろうぞ。
また曹操はこの時、若き日の恩人 【橋玄きょうげん】を丁重に祭り、
太牢たいろう(牛・羊・豕)の犠牲を捧げ、祭文を発表している。
もと太尉の 橋公は、すぐれた徳性を大いに発揮し、広い
愛情と大きな包容力をもっていた。国家(漢王室)はその立派な
教訓を思い起こし、士人はその善き計策を慕っている。
霊魂は小暗く、肉体は幽かに遙けく、そしてまたおぼろなるかな・・・
私は幼年のみぎり、堂(座敷)の奥の室(部屋)に入る事が許され、
特に頑迷固陋がんめいころうな資質ながら、大君子(橋玄)に受け容れられた。
橋公が、盛んな栄誉を受け注目されたのは、全て激励援助の為
であって、ちょうど孔子が顔回に及ばないと称し、李生りせい賈復かふく
たいそう感歎した様なものである。士は、己を理解して呉れる者の
為に生命を投げ出すものだ。私は、この気持を抱いて忘れる事が
無かった。又くつろぎの時に、約束の言葉をうけたまわった。
死去の後、君が路を通り過ぎる事があったら、一斗の酒・一羽の
鶏を持って墓を訪れ、酒を地に注いで呉れないならば、車が通過
して三歩の距離も行かぬ裡に腹痛を起こしても不思議に思わんで
呉れよ。
』  その場限りの冗談の言葉ではあったが、この上ない
親しさの籠もった懇篤こんとくな好意が無ければ、どうして敢えてこの言辞
を発しようぞ。 私は、霊魂が憤り、自分に病気をもたらすと考えて
いるのではない。昔を懐しみ、彼の愛顧を想い出し、その言葉を思
って痛ましく感じているのである。朝廷の御命令をかしこみ東征し、
郷里に駐留し、北方貴公の土地を望見し、橋公の陵墓を心に思い
浮かべた。
僅かに粗末な供物を捧げる。公には、願わくば享受されんことを!


この祭文さいもんの中に、曹操と云う人間の心 もようが、よく表われている。
ーー30年も昔・・・世間の蔑視をモノともせず、
よく乱世を鎮められるのは君であろう か!』 と認めて呉れた恩人
への思い・・・30年経っても尚消えぬ世間の蔑視・・・それを乗り超え、
恩師の墓前に、誓いを新たにする曹操が、ここに居るーー。
 
袁一族討滅に向か う曹操軍50 万、その陣容は
本営に、大将軍
曹操
                          きょちょ                     そうひ
警護軍団長に
校 尉の【許 猪】が侍し、長男の【曹丕】が従う。
                                 じゅんいく            じゅんゆう 
 ーー幕僚としては、
司 馬の【荀 或】、軍 師に【荀 攸
                   かくか
司空・軍祭 酒の【郭 嘉】を擁し、その本営を守る近衛師団長として
              しょうよう
司隷校 尉の【鐘 遙】が睨みを効かす。・・・・軍団は・・・・
                ひ       ちょうりょう   とうこう          がくしん
  
先鋒ーー裨将軍張遼】と討冦校尉の【楽進】、
   
         へん         うきん      じょこう  
  中 衛ーー偏将 軍の【于 禁】と【徐 晃】、
 
                             けんぶ        かこうと ん
  
殿軍(後詰め)にはーー建武将 軍夏侯 惇】。   
また
遊撃 軍としては【曹 仁そうじん】が、議郎の肩書のまま、騎兵軍団を
率いてる。その中核は、弟の【
曹純そうじゅん】率いる《虎豹騎こひょうき》であった。
将校クラスのみを厳選して組織された、最精鋭騎馬師団である。
軍司馬の【夏侯尚かこうしょう】も、これとは別に一軍を指揮する。
又、最重要の
輜 重しちょう(兵糧輸送)担当は督軍校尉代行の【夏侯淵ここうえん】が
取り仕切り、幕僚を兼ねた
振威しんい将軍の【
程cていいく】と将軍の【李典りてん
とが援護する。この外、帰順して来たばかりの
破羌はきょう将軍張繍ちょうしゅう】・
                   か    く 
参司空軍事の【賈・言羽】や、官渡戦で投降し、改めて偏将
任命され軍を与えられた【
張郤ちょうごう】は、此処が忠義の見せ所とばかり、
満を持して控えている。本拠地(許都)に残り、
守りを固め るのは
揚武中郎 将
曹 洪】・【曹 真】などなど。
                      (無論、このほか各地には守将達を配置してあるが)

この、《袁一族討滅戦》に向かう曹操軍団50万は、ほぼ曹魏の
全力を集中しての大進撃と言ってよい。この大軍団の威容、官渡戦
大勝の余韻、敵総の死、更に《
官軍》 として、《》 を討つのである。
志気の上がらぬ筈はない・・・!
一方、それに対する袁一族側の総兵力は・・・・・
友好の同盟者を除けば、実数は多くて20万。それも内紛状態
の儘バラバラに分散している。跡目争いの後遺症が、今もなお
互いの怨念と成って、3兄弟の間に根深いシコリを残し、疑心
暗鬼の不協和音をもたらしているのだった。
 本拠地(業卩ぎょう城)に【袁尚えんしょう】、70キロ手前の黎陽れいよう城に【袁譚えんたん】、
袁煕えんき】は業卩の奥(北東)の南皮なんぴ城に、夫れ夫れが独自に割拠
した儘である。・・・・そして当然(この儘の状態が改善されない限り)、
曹操軍団と最初に戦うのは《黎陽城》に在る長男【
袁譚】と云う事に
なる。ーーだが、とても袁譚単独の軍兵だけでは、黎陽城を守り切
れるものではない。 そこで袁譚は、至急の援軍を【袁尚】に求めた。
すると案に相違して、即刻、援軍が送られて来た。
《何やかや言っても、やはり同じ一族同士じゃな!》
ーー処が・・・いざ出迎えて見ると、援軍とは名ばかり。使い物にも
ならぬ老兵がたったの一千! 然も軽装備の歩兵のみであった!!

『大軍を送れば、それは全て、袁譚に乗っ取られますぞ!放うって
置きなされ。曹操が袁譚を始末して呉れるなら、勿怪もっけの幸いと云う
ものですぞ!』 腹心の【
審 配しんはい】が、袁尚をそそのかせた。
「お・の・れぇ〜〜、袁尚め!!」
怒り心頭に達した袁譚は、目付として派遣されていた、袁尚派の
逢紀ほうき】(重鎮参謀)を斬り殺した。
『これはいかん!直ぐさま大軍を送りましょう!この様子では、
袁譚は曹操と手を結びかねません。カッと成ったら、何を仕出かす
か判らぬ男ですからな。』
『まさか!曹操の奴は、袁一族の仇敵・宿敵だぞ!』
『いえ。いざと成れば、我が身可愛いさに、悪魔にでさえ魂を売り
 渡す男ですぞ!』
そう脅かされると、何か急に不安に成って来る。言われてみれば、
確かに袁譚には、そう云う衝動的な短絡さがある。いや、自分自身
の中にも在る・・・? 何れにせよ、そう成ったら元も子も無い。
        えんしょ う
そこで【
袁 尚】は全軍10万をゴッソリ送る事にした。勿論、自分自身
が引き連れてである。
「兄者、遅れてすまぬ!チト手間取ってな。」
「このド阿呆!一族を亡ぼす心算りか!」
「いや、本当に済まなかった。だが、こうして来てやったんだから、
 いつ迄もゴチャゴチャ言わんで呉れ!」
「・・・来てやった、とは何だ!貴様一体、自分を何様だと思って
 やがんだ!お前などは、只の末っ子に過ぎぬでわないか!」
「ム、何をほざくか!儂こそ袁一門の総帥なるぞ!」
顔を合わせた途端から、こうである。
「まあ、まあ、まあ。お二人とも抑えて抑えて。今は、そんな事を
言い合っている場合では在りませぬぞ。我等の敵は曹操ですぞ!」
上に立つ統領達がこの有様では、志気の上がろう筈も 無い。

ーー2人は「黎陽城」の南に布陣したが、両者とも自分の兵力を
減らしたくないの一心で、互いに様子を見合い、連携する気配など
全く無い・・・・と、それを観て取った
肝っ玉将軍楽 進がくしん】は一直線に
両者の間に割り込むや、チビで小柄な肉体の〔一体どこにそんな
パワーが隠されているのか!〕 と、眼を見張る様な凄まじさで、
縦横無尽に暴れまくり、ついには大将の【厳敬げんけい】を討ち取ってしまう。 《ーーまたしても敗戦か!?》将兵の脳裏を官渡戦の悪夢が横切る。
野戦は我に 利非らず。やはり城に拠って戦おう! こればかりは
2人の意見が一致して【袁譚】・【袁尚】兄弟は、《
黎陽 城》に立て籠る
事となった。
こんな事態も有ろうかと、袁譚が前もって万全に備えた城郭である。
城壁の周囲には水濠が増設され、新たな砦まで増築それていた。
さしもの曹操軍も、一気に抜く事は出来ず、進撃は此処で止まった。

 
 ーーこの時代ーー
おしなべて城とは都市の同義 語であった。詰まり、中国
国内の都市は全て例外なく、十数メートルの高い壁で(ぶ厚い土塀が
普通だが、主要都市になると一部、石垣も用いた)囲まれた、城壁内に存在して
いた。都市全体が、四方をキロ単位の城壁で守られ、幾つかの門
以外からは、一切出入りが出来ない構造に成っていた。田畑は外
に在るが、人々の住居は全て城壁内であった。小さな郷里社会でも
10万以上の大都市でも基本的には同じ構造を有していた。
黎陽城》 クラスになると普段から一年分以上の食糧は備蓄されて
いる。まして今は戦時体制であったから2、3年分は有ると観てよい
だろう。そこは流石に、名門として栄えて来た袁一族の底力である。
然も、城の在る地形は河水(黄河)を利用して背後から船で糧秣を
運び込める様に位置取られている。死んだ【袁紹】も凡庸ではなく、
息子達には《名城》をを遺していった、と謂う事だ。


ーー更に、敵地である。袁氏側の援軍(同盟者)は、
近くに潜在
している。下手をすれば、包囲の背後を突かれかねない。 又、
こちらも50万人分の胃袋を確実に満たし続けなければならない。
                         
 
その調達と輸送と備蓄には、細心の注意を払い続けなければ
ならない。思えば・・・・
《官渡決戦》 勝利の最大要因は、敵の食糧備蓄基地を奇襲し、
全てを焼き尽くした事に在った。
 故に、食糧については互いに
細心の注意を払い、その対策に遺漏は無い。
 ーーとなると、残るは〔謀略戦〕である。
その成果を得るには時間を要するが、その代わり将兵の損耗は
ゼロである。但し成功の確率は、敵の志気が可成り低下してから
でないと、グッと落ちる。だが見込みは相当ある・・・・そこで曹操は
敢えて力攻めを避け、じっくりと対陣する方針を固めた。

 ーーその後、小戦闘は有ったものの、結論から言うと・・・・
この《
黎陽包囲戦》は、翌年2月まで、実に5ヶ月間にも及んだ
のである。一つには、当面の敵を目の前に封じ込めておいて、
その間に、自国領土内の統治を盤石にしてしまう狙いも有ったが
5ヶ月間の膠着こうちゃく状態は結構長い・・・・

我々としては、ジッとして居ても詰まらない。 
    そこで、その幕間を利用して、
曹操軍の主だった部将達を、簡略に観ておこう。

紹介役はーー『
正史・三国志』の著者
                   ちんじゅ
          【
陳 寿】大先生にお願いしよう。

いずれも、曹操自慢の、
超ウルトラ・スーパースター達である!

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