第10節
   ぎ     ご  せいしょう         りょう じゅん くん
五星将
                           





先ずは、のちに曹操自らが至宝の五星将と称賛した、
5人の武将・将軍達を紹介して貰おう。

但し、いずれの5人も、これからこそが、彼等の真の活躍期を迎
えるのであり、詳細はその都度紹介できる。又部将と云うものは
〔戦場で働いてナンボのモノ〕であるから『正史』が専っぱら戦場
での活躍にスポットを当て個人的な生活を述べた史料が少ない
のは、致し方あるまい。
五星将》の 筆頭・ナンバーワン武将は・・・・・
 何と言っても、この男を置いて外にない。
      (と、筆者は思うのだが、無論それを判断されるのは、読者諸氏である。)

張遼ちょうりょう字は・・・・文遠ぶんえんーー最強・騎馬軍団の、
実質的統括責任 者であり、その指揮能力は、
                   天下一、二と言ってよかろう。

近衛騎兵である『虎豹騎こひょうき』の権限は、曹操の親族である曹仁・曹純・曹休が引き
 継ぎ、最終的には曹操直属とし、誰にも手を出させなかったから、張遼といえど
                                タッチする事は出来無かった。
万里の長城に近い、へい雁門がもん馬邑ばゆう県の人である。ここで注目
すべきは〈馬邑★☆〉と言う地名で、軍馬の大産地である事から推して
彼は幼児期から 馬と一緒に育つ環境に在ったに違い無い。
 尚、張遼の本来の姓は『
じょう』であった。が、或る理由から姓を
』と云う、何処にでも在る(現在約1億人・第3位)ものに変えていた。
--その理由とは・・・・何と、異民族の《
匈 奴きょうど》から眼のかたき・復讐の
ターゲットとされ、命を狙われていたからであった。とは言え、その
責任は、直接本人に有る訳では無かった。 実は・・・・前漢時代の
彼の祖先『聶壱じょういつ』が、匈奴との交易で相手を騙し込んで、しこたま
巨利を貪った為であったのだ。世紀を越えて迄、その子孫が狙わ
れるとは余っ程あくどい事をしたのだろう。
だが考えてみると、遙か彼方かなたの異民族におびえるとは、些か常軌を
逸している?・・・・と言うなかれ。
現在、分裂した匈奴は、その一部が《南匈奴》としてへい州に侵出。
力の衰えた後漢王朝は駆逐する事あたわず、宥和ゆうわ政策に依った為、
彼等は正式に帰化・永住を認められていたのだ。
・・・・だから【張遼】の廻りは〔匈奴だらけ〕だったのである。
              へい    し し     ていげん 
ーー最初は并州刺史の【
丁原】に、その武力が人並み外れていた
事から見い出され、その配下となった。・・・・だが、激動する時勢と
共に、彼の主は目まぐるしく変わらざるを得無かった。(詳細は後述)
             かしん       とうたく
【丁原】→【
何 進】→【董 卓】と次々に皆暗殺されてしまい、その延長
上で、【
呂布りょふ】の麾下きか部将となる。 然しこの間、一貫していたのは、
《騎馬将校としての高い指揮・戦闘能力》 を、常に認められている
と云う事だった。 だから【呂布】が下丕卩かひ城で亡ぼされた時、
曹操】は降伏 した張遼を直ちに中郎将(副将軍)に任じ、
かんだいこ う
関内侯の爵位を授けている。  
 曹操が、天下無双を冠される【呂布】の武勇を惜しまず、直ちに
くび                                     ちょうりょう
縊り殺させたには、彼に劣らぬこの【
張遼】が居たからともされる。 

ーー今から5年前(196年)、張遼34歳の時の事であった。
以後はこれ迄、次々と武功を挙げ、現在は《
将軍》にまで昇進
している。
武力、人ニ過グ・・・・
武力は諸将に抜きん出て、騎兵軍団を率いては右に出る者なし。
 或る時、遠征中の陣内で、敵と通じ反乱を企てた者が
夜間に火を放ち、騒ぎ立てた。だが張遼は、親衛隊士数十人を
率いると、陣営のド真ん中に剣を突き立てて微動だにせず、
周囲を睨みつけるだけで、その混乱を終拾 した。
また或る時、山岳の狭い道を行軍せざるを得無くなり
他の将軍達がビビる中、
『これは、
一与 一いちよいち(一人対一人の闘い)と云 うやつじゃ。勇者は進む事が
 出来る筈だ!』と言って陣頭を進み、敵を山岳中に撃滅させた。

 だが張遼は、単に武勇のみの将では無い。官渡決戦勝利の直後、
別働隊として魯国ろこく平定に派遣された時・・・・
 東海の【昌キしょうき】を包囲したが、数ヶ月後に兵糧が尽きて来た
ので、撤退が論議された。その折彼は、方面軍司令官(曹操は軍司令官
には必ず自分の一族を任命)
夏侯淵かこうえん】に進言した。
「数日来、包囲陣を巡行する度に、昌キは何時も私をジッと見詰めて
いる上、矢を射掛ける事も無くなっています。これはきっと昌キの考え
が、グラついており、その為に力の限り戦わないのです。私はうまく
気を引いて、彼と話をしてみたいと存じます。或るいは味方に引き入
れる事が出来るかも知れません。」
繊細な観察力・洞察力も具えている。夏侯淵は、それを認めて、
一任した。・・・・だが、ここからは張遼の独断専行であった。曹操の
名を勝手に使い、自分の行動は全て曹操の指令に拠って為されて
いるものだと、相手に伝えたのである。先ず使者を送って、
『曹公からの御命令で、《張将軍は貴殿に会って、我が意を伝えよ》
 と申されましたので、是非面談して戴くきたい。』 と、もち掛けた。
すると果たして、昌キは山砦から降りて来て、張遼と語り合った。
「曹公は神の如き勇武を持たれ、今し徳義を以って四方をてなずけて
 おられる。先に帰服する者は、大きな褒美を戴けまするぞ。」
昌キは降伏を決断した。すると張遼は、単身で三公山上に在った
昌キの家を訪れ、その妻子に挨拶した。これは当時の慣習としては、
破天荒な好意の示し方であり、《前言に違約無し!》と、張遼が命を
賭けて世間に公約した事になる。昌キの歓ぶまい事か!
張遼に付いて曹操の元へ出頭した。
 曹操はニコニコして昌キを許し、地元へ帰らせた。だが、張遼に
対しては激怒してみせた。
是レ、大将ノ法ニ非ズ!』・・・・お前がやった事は、君主の
統帥権とうすいけん干犯かんぱんした重罪なんだぞ!絶対に許せぬ仕<儀である!』
                                           かた
 配下の部将達が、勝手に君主の命をり、独断で事を為し始め
たら、それこそ収拾が着かなくなり、君主権はその権威を失墜して
ゆき、ついには国家の滅亡につながる重大問題なのである。だから
公然ととがめ、激怒してみせたのである。
 そこら辺は、張遼も百も承知しているから、素直に謝る。むろん
曹操とて、張遼が忠節心からした行為である点は、よ~く判っている
から、それ以上は何も言わなかった。
(・・・・陳寿先生が言いたいのは・・・)
『張遼は単なる猪武者では無く、この様に、いざとなれば知謀も
発揮できる人物なのだぞ』 と、云う事であろう。

 また張遼には、己を内省・自省する心が有った。
 ーー或る時期、彼は同僚の【武周ぶしゅう】と反目し合っていた。
そんな折の事、【胡質こしつ】と云う優秀な人物の噂を聞き、自分の元に
置きたいと思ったが、胡質は病気を理由に応じて呉れない。そこで、
張遼は自ら出向いた。
「私は君に心を委ねているのに、どうして、
                    そんな風にソツポを向くのだね?」
「古人の交友では、分け前を多く取っても貪欲でないと理解し合い、
戦いに負けて逃げ出しても卑怯でないと理解し合い、流言を聞い
ても信用しない故に、最後まで付き合えたのです。ーー私が観るに、
武周どのは正しい人物であります。将軍も過去には、口を極めて
彼を称揚しておられました。処が今では、僅かな恨みから憎しみ、
仲を違えてしまわれました。 まして私など、武周どのには及びも
着かぬつたなきき才能の者に過ぎません。どうして最後まで将軍と
上手く付き合えましょう。その為に出仕を希望しないのです。」
「・・・ウ~ム・・・!!」
張遼はその言葉に強く心を動かされ、再び武周との仲を以前の
様に回復した。                ーー『正史・胡質伝』ーー
更に、この張遼と云う人物は、天下にその武勇と義侠とを
轟かす・敵将【
関羽雲 長かんううんちょう】とは、互いを超一流として尊敬し合い、
個人的に友情を交わし合える唯一の人間でもあった。
 互いが投降した相手を惜しみ、一度ずつ曹操に助命嘆願し合って
いる。(無論、曹操は初めから活かす心算では有ったが)そして一時、
関羽が曹操の配下部将になった際には、共にくつわを並べて、官渡の
戦場を駆け巡った。この折曹操は、関羽の人品を高く評価し、正式に
自分の家臣にしたいと強く願った。だが”義”に生きる関羽の心は、
此処に長く留まる気持は無いと推測した曹操は、張遼にその本心を
聴き出すように依頼した。無論、引き止めて呉れ!との主命である。
初メ曹公、 羽ノ人為ひととなりヲ壮トシテ、其ノ心神、
     久留きゅうりゅうノ意無キヲ察シ、張遼ニ謂イテいわク、
            「
けい こころみに情を以って これ に問え」 ト。
周囲の者達も、張遼と関羽との間には男の友 情・超一流同士の
友誼ゆうぎが結ばれている事を、みな承知していたのだ。 関羽も亦、
数多いる部将の中で張遼となら合った。
既ニしこうしテ、 遼以テ羽ニ問ウ。羽、たんジテいわク、
われ 極めて曹公の我を待つこと厚きを知る。然れども吾、劉将軍
(劉備)の厚恩を受け、誓うに共に死するを以ってす。これそむ不可べからず。
吾 ついとどまらじ。吾 かならず まさこうを立て以って
                 曹公にむくいて はじめて去るべし
」  ト。
張遼は、それを聴いて悩んだ。もし、その儘を 伝えたら、曹操は
関羽を殺してしまうかも知れなかった。だが、伝えなければ君臣の
道に背く事になる。ーー義理と人情をはかりに掛けて・・・・そこで
張遼は歎息し、決意した。
嗚呼ああ、曹公は君であり父であり、関羽は兄弟に過ぎ ぬ・・・・。

「そうか。君に仕えてその根本を忘れないのは、天下の義士
である。・・・・いつ頃、立ち去ると思うか?」
「関羽は公の御恩を受けております故、必ず手柄を立てて公に
恩返しをしてから、立ち去るでありましょう。」
然し、張遼の心配は杞憂きゆうに終わった。曹操は逆に関羽を絶唱し、
その去りゆく背中をよみしたのであった。
彼 ことごとク 其ノあるじノ為 ニス。追ウカレ。
(あれも一つの、美しい男の生き様であろう・・・・。)
そして亦そんな曹操の背中を、張遼は畏敬の 念で見詰めていた・・・
将来は対呉国戦のエースとして、合肥がっぴ戦や濡須口じゅすこう戦で要石かなめいし
重きを担う事になろう。曹操からは《
国家の爪 牙そうが》と讃えられる。

 (以下は甲乙付け難いので順不同だが)
ーー2人目は・・・・
楽進がくしん・・・・字は文謙ぶんけんと言い、州陽平郡衛国県の人で
ある。身体つきは
小柄(チビ)であったが、肝っ玉の激 しさ
よって、早い時期から曹操に付き従い、維幕の吏 (小間使い)に
取り立てられた。
    
曹操は彼を出身の郡に帰して兵を募集させたが、千余人を
手に入れ、帰って軍の
仮司馬陥陣都 尉かんじんといとなった。
濮陽ぼくように於ける【呂布りょふ】攻撃、雍丘ようきゅうに於ける【張超ちょうちょう】攻撃、
於ける【橋ズイきょうずい】攻撃に参加し、
全て 一番乗りとして戦功を
立て、〔広昌〕に取り立てられた。安衆に於ける【張繍ちょうしゅう】征討、
下丕かひに於ける【呂布】包囲に参加し、別将を撃ち破った。
スイ固すいこ】を射犬に攻撃し、【劉備】をはいに攻め、全てそれらを撃ち
破り、
討寇とうこう校尉に任命された。(寒門かんもんの出身だから大出世)
黄河を渡って【獲嘉かくか】を攻撃、帰還すると官渡戦に出撃。力戦奮闘
し袁紹の将軍【淳于瓊じゅんうけい(若き日には西園の八校尉だった勇将)を斬った。
曹操の草創期から、獅子奮迅、息つく暇も無い程の暴れん坊ぶり
だが、現在も発展途上中で、『将 軍に成る一歩手前に在る。
やる気満々である。
驍勇果断ぎょうゆうかかんーー兵士達を可愛がり、計略ゆき届き、忠烈にして
純一なる性質を持ち、固い節操を保持している。寒門かんもん(貧しい境遇)
拾われた恩義からも、己の度胸ひとつで乗し上がってゆかんとする
根っからの軍人・生粋きっすいの武人である。
      (戦場以外の史料少なし・・・・恐らく”字”も碌に読めなかったと想われる。
3番目はーー
于 禁うきん・・・・字は文 則ぶんそく
えん泰山たいざん鉅平きょへい県の人である。

10年前、曹操が(えん刺史ししを自称し、初めて独立した時に出頭し、
以来全ての戦いに従軍して来ていた。
 張遼・楽進らに越し、進撃の時は先鋒、帰途は殿軍を代る代る
任める。現在は
将 軍から『へん将 軍』へと昇進している。
軍を保持する態度は厳格できっちりしており、敵の財物を手に入れ
ても個人の懐に入れる事は無かった。この為賞賜は特に手厚かった。
    (・・・・と云う事は、ふつう部将達は、戦利品は各自の物に出来た、と云う事である)
于禁には威厳があり、皆から一目置かれている。
それにまつわるエピソードを2、3紹介して貰おう。
《エピソード・ワン》
張遼が温情で誘降させた「あの★★昌キ」が再び反逆した時、曹操は
今度は于禁を派遣した。昌キは二人が旧知の間柄だったので、   
于禁が急行して攻撃するや、直ぐに降伏・出頭して来た。諸将は皆、
降伏して来たのだから曹操の元へ送るべきだと言ったが、于禁の
執った態度は厳しいものだった。
「諸君は公の常令を知らぬのか。
包囲されて後 に降伏した者は赦さず》・・・とある。そもそも法律を
奉じて命令を実行するのは、上に仕える者の守るべき節義である。
昌キは旧友ではあるが、私は節義を失ってよいものか!」
自身出向いて昌キに別れを告げると、涙を落としながら旧友を斬った。
「昌キが降伏する時、儂の元に来ず、于禁を頼ったのは、
                            運命ではなかろうか。」
曹操は感歎し、いよいよ于禁を重んじた。然しながらかように『法』に
拠ってのみ、下の者達を統御してゆく姿は、必ずしも兵士や民衆に
敬愛されてはいない・・・・。
《エピソード・ツウ》
曹操は、軍勢ごと投降して来たばかりの【
朱霊しゅれい】から彼の軍を取り上
げようとした事があった。直属の親衛隊の増強を図ろうとしたのだ。
だが朱霊自身は、袁紹を見限った際、
私は多くの 人物を観察したが、曹公のような方は居無かった。これ
こそ真の名君である。いま出会ったからには、もう何処へも行かぬぞ!

と言っていた。そのうえ彼はこの直前、
男がひとたび身を投げ出して、人(曹操)に与えたからには、二度と
家族を考慮しようか!
と言って、人質に捕らわれている母と弟の在る
敵の城へ、敢えて猛攻撃を仕掛けていた。 無論、彼の家族は全員
殺された。ーー・・・・曹操に対して、これ程の入れ込み方を示している
豪の者から、その軍兵だけを接収し、尚かつ、彼の忠誠心を損なわせず、プライドも傷つけぬ様にしながら、納得させるには・・・・
と云う事で白羽の矢が立ったのは【
于 禁】だった。于禁には有無を
言わせぬ威厳があり、諸将からも一目置かれてはばかられいたからで
ある。ーー・・・・命ぜられた于禁。命令書を渡されるや、僅か50騎
ばかりを引き連れ、委細構わず朱霊の軍営に乗り込む。
 そして、上座に仁王立ちして命令を読み上げると、直ちに軍を取り
上げた。だが、朱霊もその部下達も、誰一人として異議を唱えたり、
行動を起こそうとはしなかった。そこで曹操は、朱霊を于禁の配下の
一指揮官としたが、やはり人々は于禁を畏れて服従した。
   (その後【朱霊】は、五星将に次ぐ名将と成り、最後は
将軍にまで昇進活躍する
《エピソード・スリー》
5年前の197年、【えん城攻防戦】で、一旦降伏した【張繍ちょうしゅう】が、
10日余りで再び叛逆した時の事。(
詳細 は後述)
・・・・曹操は 敗北を喫し舞陰ぶいんに引き返した。この時軍は混乱し、
夫れ夫れ間道を通って曹操を探した。大パニックの中
于禁だけは、
彼の部隊数百人を指揮して、戦いつつ引き上げた。死傷者は有っ
たが、離散する者は無かった。やがて敵の追撃が次第に緩くなると、
于禁はおもむろに隊列を整え、軍鼓を鳴らして帰途に着いた。曹操の
居る所に行き着かぬうち、道中で、傷を受け裸で逃げる10余人の
兵士に出会った。于禁がその理由を訊ねると、兵士達は言った。
せ、青州せいしゅうに略奪を受けました!」
「おのれ!
青州の 兵は、同じ曹公の部下でありながら、
                           また悪事を働くのか!」
そこで彼等を討伐し、彼等の罪を責め立てた。青州の兵は慌て
ふためいて、
曹操の元へ逃げ込み、訴え出た。
 于禁は到着すると先ず陣地を設け、直ぐには曹操に謁見しなかっ
た。或る人が、于禁に向かって勧めた。

「青州の兵は、既にあなたを訴えておりますぞ!直ぐに曹公の元に
 行って、この事をはっきりさせなければなりません!」
「いま賊軍が背後に居る。追撃が来るのも間も無いであろう。先ず
 備えを立てなければ、どうやって敵に対処するのだ!それに、
 公は聡明であられる。出鱈目の訴えが何の役に立つ!」
おもむろに塹壕を堀り、陣営を施き終わると、やっと入って謁見し、
詳しくその実情を説明した。曹操は喜び、于禁に向かって言った。

「シ水に於ける苦難は、儂にとって、それこそ危急の状態だった。
将軍は混乱に在りながら、よく乱れず、暴虐を討ち、砦を固めた。
動かす不可べからざる節義をそなえている、と言ってよかろう。
古代の名将であっても、これ以上であろうか。」 そこで、 
【于禁】の前後に渡る戦功を取り挙げ、
益寿亭えきじゅていに取り立てた。
              
                         ーー『正史・三国志』ーー
     
*     *    *
《ーーん?ん?・・何じこり!?
敗走中に、同じ味方の兵を襲って略奪し、丸裸にしておっぽり出す。
ヤバクなると、事もあろうに曹操本人のトコへ逃げ込んでゆく。
おまけに直訴の権利まで持ち合わせ、相手を讒訴ざんそしまくる。然も、
于禁ほどの部将でさえ、曹操から譴責けんせきされぬと心配する。
やりたい放題 のヤクザ兵 団!】                           
一体そんなものを、曹操は野放しに容しているのか

・・・・実は、これこそ、曹操の秘蔵部隊・・・・魏の最精鋭歩兵軍団
青州兵せいしゅうへい】 の、ひとつの顔であったのだ曹操陸軍の中核には
・・・な、なんと、天下御免の
はみ出し軍 団が収まっていた
のであ る
では、そもそも、味方にさえ恐れられ、戦死すら、もの
ともせぬ、この 《青州兵》 とは、一体何者ぞ?
                    こう きん ぞく
ーー答えは・・・・《
黄巾賊 の生き残 り》 である。即ち、今から
18年も前(184年)に勃発して鎮圧された【
黄巾党の 乱】の流れを
受け継ぐ、《
太平道たいへいどう》と云う宗教(道教)を信奉する大貧民群(叛乱
農民達の大集団)であったのだ。(
黄巾党 の乱については第2章で詳述する。)
今から丁度10年前(192年)、曹操にとっての、飛躍的
大転換劇が起こった。天が、運命の女神が曹操に微笑んで、彼を
一躍、《覇者レースの有資格 者》にまで押し上げて呉れたのだ。
就中なかんずく、その栄光の転機を与えて呉れたのが、この青州兵すなわち
〔黄巾農民軍〕達であった。
 その年、青州の黄巾軍は、西方の黒山こくざん軍(南匈奴きょうど族)との合流を
目指し、えん州に進攻。兌州刺史ししの【劉岱りゅうたい】が敗死、主を失った兌州は
大混乱と成った。・・・・だが、この時、曹操の参謀だった【
陳宮ちんきゅう】が、
待ってましたとばかりに曹操に進言した。
「いま兌州えんしゅうは主を失ったのに、朝廷からの沙汰も無く、動揺しており
ます。御主君(曹操)は刺史に成られるべきです。
兌州を足場に天下を取る!これこそ覇王の業と謂うものですぞ!」

 そこで曹操は、勝手に『
兌州牧を自 称』し、独立を宣言した。当時
既に後漢王朝に実力無く、各地の群雄達は皆、官職を自称し始め
ていたのである。兌州の幹部達もこれを受け容れ、ここに曹操の
覇業の基盤が成立したのであった。つまり、最初は間接的にでは
あるが、こうして青州黄巾軍は、曹操に栄光の第一ステップを踏ま
せる役割を演じたのであった。その後、曹操と青州黄巾軍の両者は
大激戦の死闘を繰り返すが、同年冬・・・曹操は彼等を済北に追い
詰めた。ーーそして終いに・・・
戦士30万・その家族男女100万 人
黄巾軍を、丸ごと投降させたのだった。
(但しこの当時は戦果を公表する場合、実数の十倍とするのが普通だったとする史家も居る)

ーーこの、前代未聞の大量投降劇については・・・・

曹操との間に、何らかの妥協・条件提示が為された、と観測する
べきであろう。それも非公式で、飽くまで〔対・曹操個人〕との間に
交わされた【密 約】であり、その条件・恩典を曹操個人が生涯保証
する事を確約して、条件付きで彼の軍内に参入した・・・・

それを裏付ける様に、曹操は事実、生涯に亘って彼等に異様な迄
に気を使い、特別扱いしてゆく。 だから略奪行為まで黙認されて
いるのだった。一方、青州兵も、曹操が洛陽で死去するや、周囲が
唖然とする中、軍鼓を轟かせつつ整然と、ゴッソリ抜けて郷里の
青州へと帰ってしまう・・・・。
 彼ら青州兵達は、飽くまで《
曹操個人に仕え る》のであり、魏の国
に仕える者達では無かったのである。
 これは、大規模ではあるが、一種の任侠的結合・私的恩顧関係で
ある。それ故に、整然と厳格な曹操軍の軍事機構の中に在って、
明らかに異質な『はみだし軍団』で在り得たのである。
 だが、メッチャクチャ強い!それもその筈、彼等の思想背景・バック
ボーンには、《死をも恐れぬ教義》が刻み込まれているのであるから。
   じらい                     
 爾来【
青州兵】は、曹操の覇業にとって、無くては成らない、軍事力
の中核歩兵軍団で在り続ける。表現上、「はみだし」とは記したが、
その重要性は決してはみだしでは無く、
軍の主力いな、〔曹操軍そのもの〕であった。
ーーさて、肝心の【
于 禁うきん】だが・・・・
『三国志世界』の中で、彼が占めるべき最大の存在意義(話題性)は、
何と謂っても、彼の後半生に於ける《武将の悲劇性》に尽きる。
対【関羽】との戦いに於いて、現時点では夢想だにし得ぬ、
運命の流転翻弄され、于禁の生涯は一気に暗転してゆく・・・・・

4番手はーー
張 郤ちょうごう・・・・字は儁 乂しゅんがい
 
つい2年前迄は、袁紹の主力部将であった。だが官渡決戦敗北
の責任を、参謀の【郭図かくと】に讒言ざんげんされ孤立した為、思い切って
曹操に寝返った。すると曹操は大喜びし、直ちに
偏将 軍に任命した。
あの【楽進】でさえ、未だ将軍に迄は成っていないのに、破格の
評価であった。「この事は、微子びしいんをさり、韓信かんしんが漢に帰服した
様なものであろうか
」 と、曹操。
 流石に未だ、兵馬を与えられては居ないが、一軍を率いて
大活躍する日は間近に迫っている・・・・。
ごうハ 変数ヲ識リテ、善処ニ陣ヲ営ミ、戦勢地形ヲはかレバ、
計ノ如ク成ラザルハ無シ。
郤ハ武将 ナリトいえどモ、儒士ヲ愛楽ス。
巧変こうへんヲ以テ称セラル。 変化の法則をわきまえ、よく陣営を処置し、
戦闘の状況・地形を考慮し、計略通りにゆかぬ事は無かった。武将
ではあるが、学問の士を敬愛する一面もあった。
 のちの漢中戦の折、総司令官であった【夏侯淵】が戦死し、全軍
色を失った時、参謀の【郭淮かくわい】は言う。
「張将軍でなければ動揺を防げぬ!」 そして彼を総大将に推し、
難局を乗り切る。この時、敵の君主【劉備】は、
『一番の大物を手に入れねばならぬのに、こんな事で何うする!』
と、【
張郤ちょうごう】を評したと伝えられる。

ーー5人目は、
徐晃じょこう・・・・・字は公 明こうめい

          ようほう             けんてい 
初めは【楊奉】に従い、《
献帝》と共に長安から洛陽まで行を供に
する。(7年前の195年の事) その道々、曹操への帰伏を進言し
続けた徐晃だったが、楊奉が採用せぬ為、業を煮やして、自分
だけで曹操の元へ帰順した。以後次々と戦功を挙げ
裨将 軍から
現在は
偏将軍に昇進している。
せい倹約ニシテ畏慎いしん、軍ヲひきイテハ常ニ遠ク斥候せっこうシ、先ズ勝ツカラ
ザルヲシ、しかル後ニ戦ウ。追奔ついほんシテ利ヲ争ウ時ハ、士 食ラウニ
いとまアラズ。

つつましく、慎重そのものの性格で、軍を率 いている時は、いつも
遠くまで物見を出し、あらかじめ勝てない場合の配慮をして措き、
その後で戦った。中々に出来る事では無い。その一方、逃走する
敵を追い勝利を確定せんとする時には、兵士に食事を取る暇さえ
与えず、徹底的に追求した。
「名君(曹操)に遭遇し幸いである。個人の名声など二の次ぞ」
と、常々に言っている。 そして死ぬまで交友を広げたり、後ろ盾を
作ったりし無かった・・・・とある。主君に無用な警戒心を持たせず、
己も亦、不要な政争に巻き込まれたくは無いと云う、純粋に武人と
しての身の処し方を貫く。
のち、【関羽との死闘】を制する事に成る。
儂の30余年の経験の中でも、馬駆して敵の包囲陣にまっしぐらに
突入した者は、徐晃の外に存在しない。 彼の功績は、孫武そんぶ・司馬
穣苴じょうしょ以上である!
』 と、曹操をして言わしめる程の、剛胆さをも
併せ持つ。 又、その凱旋の大宴会の折、諸軍は全て集結し、士卒
達も自陣を離れてその様子を見物していたのであるが、ただ徐晃の
軍だけはビシッと整い、将兵は誰一人として持ち場を離れず、微動
だにしなかった。 曹操は更に感歎して【
徐晃】を絶賛する。
徐将軍ニハ 周亜夫しゅうあふノ風有リ ト謂ウシ!

ーー以上、魏の五星将だけを紹介して貰ったが、曹操軍
には未だ未だ、勇将・猛将は数知れ無い。 だが今はひと先ず、
この5人迄に留めておこう。・・・・但、そんな武将達を動かしている
参謀・軍師の方にも強い興味が湧く。そこで、その頭脳とも謂うべき
〔幕僚〕達の一人、二人は紹介して貰って措こう。
先ずは、最大のブレーン・
司 馬(参謀総長)。
尽きる事の無い「
王佐の才」を有する、御存知
・・・・
荀彧じゅんいく 文 若ぶんじゃく
ーー10年前【袁紹】の元を去り、29歳で曹操に身を寄せた。
    
吾ガ 子房しぼう(前漢高祖の臣・張良ちょうりょうデアル!と、直ぐ
司馬に任じられた。曹操の信頼絶大にして、大事ある度に先ず
彼に相談して来た。ーー涼やかな風貌、道理をわきまえた態度・・・・
王者ヲスクの風格を具える。容姿端麗な美丈夫で
清廉せいれん潔白、私利私欲無く、財貨はことごとく人々に分け与え、どんな人
にもへりくだり、誰に対しても敷物を重ねて座る事をしなかった。
                       (当時、上位者はそうやって己の権威を誇示した)
ーー5年後の論功行賞では・・・・
忠義公正、 ヨク緻密ナル策略ヲ立テ、国ノ内外ヲ鎮撫シタ者ト
シテハ
文若これニ該当シ、公達(荀攸)ガ其ノ次ニ位置スル。 と、
認められている。
又、曹操の上表文(家臣の功績を朝廷に報告する公式文書)に曰く、
『私は荀彧と力を合わせ心を一つにして、国家の計略を助けて参り
ました。荀彧の述べた意見・授けた計略は、実施する度に効果を
挙げました。荀彧の功業に頼って私は成功を収め、お陰で浮雲を
打ち開いて、日月の光を輝かせられました。天下が安定したのは、
まさに荀彧の力に依ります。

ーー然し荀彧は〔実戦の労苦を経験して居無 いから〕として固辞、
曹操の上表文を皇帝に差し出さなかった。
そこで曹操は、彼に手紙を送る。
君と一緒に 仕事をして以来、朝廷に立って君が行って呉れた補佐・
君がやって呉れた人材推挙・君が立てて呉れた計画・君が図って
呉れた策謀は、何と多かった事だろう。 そもそも功績と謂うものは、
必ずしも実戦でのみ立てられるとは限らない。
                        どうか、辞退しないで呉れ!

荀彧は、やっと爵位を受けた。
ここで注目すべきは、曹操の管理職として の、水際立った勤務
評価基準の着眼点である。ともすると、華々しい実戦の武勲者に
眼を奪われがちな中、しっかりと、何が根本的に最重要なのかを
押さえて逃しはしていない。
ーー別の上表文に曰く、
・・・・荀彧の 計策は、滅亡を存立に変え、禍いを福にじたもので、
その謀り事は傑出し、功績は非常なもので、とても私の及ぶ処では
御座居ません。だからこそ過去の帝王は、獲物の足跡を指摘する
人間の功績を尊重され、実際に獲物を捕らえる犬の恩賞を軽くされ
たので御座居ます。古人は軍幕の中で立てる策略を尊び、戦闘に
おける勝利を低く見做みなしました。 先に下賜され記録された爵位は、
荀彧のずば抜けた勲功に相応しくありません。どうか重ねて公平に
論定なされて、彼の領邑を古人並みにして下さいますように。


荀彧は又しても深く辞退した為、曹操は彼に申 し送る。
・・・・君の 策謀は、今回上奏した二つの事柄に留まらない。何度も
辞退するのは魯仲連ろちゅうれん先生を慕うお考えか?然し、その様な態度は
人の生き方をわきまえた聖人の尊重するものでは無い。昔、介子推かいしすい
言に、『人の財産を盗む者でも、尚これを《盗人》と謂う』 とある。
君が辞退すると、私は君の功績を盗んだ事になる。ましてや君が、
人に知られぬ策謀を立て、民衆を安全に導き、私を栄誉の光に輝か
せて呉れた事は、3ケタの数に登るではないか。2つの事柄だけを
考えて、再度辞退するなど、謙虚な態度をとる事、何故にかくも
はなはだしいのだ。
曹操は上表して、荀彧を三公に任 じようとするが
荀彧は【荀攸】を使者に立てて深く辞退し、それが十数回にも及んだ
為、流石に、曹操もやっと沙汰止めにする。
ーー同僚の【
鐘 遙しょうゆう】の回想・・・・  『荀彧別伝』
九 徳寛栗かんりつ・柔立・愿恭げんきょう・乱敬・擾毅じょうき・直温・簡 廉・剛塞・彊義きょうぎ
完備
し、過失を二度と繰り返さない者は顔回がんかい(孔子の高弟)没後は、
ただ荀 君一人のみ。
・・・・ そもそも、〔名君〕は臣下を〔師〕として扱い、それに次ぐ
”君主”は臣下を”友”として扱う。太祖の聡明さが有りながら、
大事が起こる度に何時も先ず、荀君に相談を掛けておられた
のだから、これは古代の《師友》の建前に相当する。我々は命令を
受けて事を行うのだが、それでも尚、任務を尽くせ無い場合がある。
その差は何と遠い事ではないか!

 
ーー『別伝』に曰く、
 じゅんれいく ん
荀令君は、 仁愛をもとに徳性を樹立し、聡明さによって賢人を
推挙しました。 その行動にはおもねった処や不正な処は全く無く、
計策は変化によく対応した。【孟子】は、《五百年後に必ず王者が
登場し、その間には必ず一代を覆う人物が現れるであろう》 と
言ったが、それは
荀令君のことであろうか!
ちなみに、荀彧の才をズバリ、一言で見抜いていたのは、
あの★★禺頁ぎょう】であった。未だ若い荀或を特別に評価して
王者輔佐の才能を持つ者であ る』 と言い切る。荀彧の定冠詞
と成った《
王佐の 才》の名付親は、奇しくも、世間から蔑視されて
いた曹操を初めて《
英 雄》と評した同一人物であったのだ・・・

いま現在も、荀或自身は只管ひたすら、王佐の才を振える事だけに充分
満足し、世俗の事は一切眼中に無い。

・・・・
だが・・10年 後ーーまさか・・・
これ程までに互いを信頼し合い、人々からも礼賛されている、
この荀彧が・・・・こともあろうに、
【曹操から 自殺を強要される】とは・・・・・

ーーちょっとショックが収まらないが・・・・

最後に、歴っきとした《官職としての★★☆☆☆☆
軍 師》を紹介して貰い、
このコーナーを締め括ろう。
さなきだに【軍師】と言えば・・・・
《頭に
綸巾かんきんを戴き》、《身に は
鶴裳かくしょう をまとい》、《手に白羽扇はくうせん
くゆらす》、《ダンデイな》、
《スラリとした
痩身長躯そうしんちょうくの》、《凛然りんぜん たる人物》・・・・すなわち、
諸葛亮孔明】の専売特許なのだが・・・

ーーここに登場する曹操の 軍 師 はーー

間抜け面のショボくれたオジンで、チビで頭でっかち、ひ弱そうで、
いつも鼻をグチュぐちゅさせており、風采の上がらぬ事、この上も
ない人物である。

その名を
荀攸じゅんゆう 公達こうたつと言う。荀彧の従 子いとこに当たる。
荀彧より6歳上、曹操からは2歳下で、現在45歳。初めは霊帝期に
権力を掌握した【
何進かしん】に召し出されたが、彼が宦官達に暗殺され、
董卓とうたく】が権力を乗っ取り、暴政を行うに及ぶと、議郎の【何ギョ ウ
らと謀議して、〈董卓の暗殺〉を企てた。だが実行直前に事が露見し
何ギョウと荀攸は逮捕・投獄された。何ギョウは董卓の残虐極まり
ない処刑法を想うと、その恐怖の余り自殺した。 然し荀攸の方は、
言葉つきも食事を取る時も泰然自若として、動ずる風も無かった。
折しも董卓が、【
呂布りょふ】に裏切られて斬り殺され、荀攸は命拾いし
官位を捨てて帰郷した。
現在、 天下は大いに乱れており、今こそ知謀の士が心を働か
せる時である。 それなのに、蜀漢の地で変を傍観したまま、
君が野に在る状態は、もう随分長くなるではないか。直ちに
                   儂の処へ顔を出して呉れ賜え!

と云う、曹操からの招聘しょうへい状が届いたのは、今から 6年前の196年、
曹操が【
献帝】を許の城に奉戴ほうたいした直後の事であった。

曹操は【
荀攸】と直に面談した後、大満悦で【荀彧】と【鐘遙】に
言ったものだ。
公達こうたつハ 非常 ノ人ナリ。われコレト事ヲはかルヲ得バ、
                 天下 まさニ 何ヲカ うれケンヤ!

そして直ちに〔
軍師〕とした。この地位は、世に言う処の、いわゆる
参謀に冠する形容詞としての呼称ではない。大曹操軍の軍事機
構に於ける、歴っきとした官職名☆☆☆☆☆★★★の一つである。
(軍師祭酒・中軍師・前軍師・後軍師・左・右・ただの軍師がある)
尚、書物によっては、〔軍〕と表記する場合も有るが、それは、
のちに三国を統一するしん・世宗・景皇帝、司馬(仲達の長男)
いみなと、同じ字★★★に重なる事を避ける為に用いた”アテ字”である。
又、この 《軍師》 と云う官職は、呉国では用いない。
のち、曹操は【荀攸】を評して次の如くに述べている。
公達ハ外愚内智がいぐないち外怯内勇がいきょうないゆう外弱内強 ニシテ、ほこラズ、労ヲ
施ス無ク、智ハ及ブベキモ、愚ハ及ブベカラズ。顔子がんし寧武ねいぶいえど
過グルあたワズ。
 荀攸は、 表面上は愚鈍に見えて、内実は英知を
有し、表は臆病そうで実は勇気に溢れ、表面はひ弱であっても内実
は剛気である。善行をひけらかさず、面倒な事を人に押しつけない。
その英知には近づけるが、愚鈍さには近づけない。
(【荀彧】は善を推し進め、
       【荀攸】は悪を除去し、除去し終わる迄やめなかった。)
ーー上表文に曰く、
私は荀公達と 天下を巡り歩くこと20余年になるが、非の打ち処は
 些かも無かった。彼はまことの賢人である。
  所謂・・・・(おだやかさ)・(素直な心)・(うやうやしさ)・
        (慎ましやかさ)・(控えめな態度)
                ・・・・と云う五つの徳によってこれを得た。
人々との交際が立派で、交際が永くなっても、敬意を失わなかった。

ーー同僚の【鐘遙しょうゆう】に再び回想して貰お う。
私は何か行動 しようとすると、何時も繰り返し考慮を巡らし、
これでもう変更の余地が無いと確信してから、彼に意見を
求めたが、荀攸の意見は、人の上をいくのが常であった。


風采の下がった、只のオジン・・・・
   しかしてその実体は・・・・と云う人物の典型である。
二人の 荀尚書令しょうしょれい (両荀君) の人物鑑定は、
          時間が経てば経つ程、ますます信頼に価する。
 儂は此の世を去るまで、忘れないぞ!


   ーー【五星 将】と【両荀 君】・・・・・


   

      
以上、曹操陣営のちょっとした人物紹介でした。
正史・三国志の著者【陳寿大先生】、それに途中参加で、
                   はいしょうし
史書評論家の【裴松之】先生、どうも有難う御座居ました。
いずれ又ご登場戴く折には宜しくお願い致します。
ハイ ショウシ しました!」
ーー実は筆者は、コレが書きたくて、この第10節を起こした
・・・・と言ったら、読者諸氏はお怒りになられますか?
                           (筆者の病気だと思ってお許し下され)

それにつけても曹操と云う人物ーーよくまあ、人を誉め千切ること!


                            

ーーさて、人物紹介の間に 時間は5ヶ月ほど流れ・・・・
今は(翌)
203年 (建安八年)の2月となり、籠城する
袁兄弟〕を包囲した曹操軍の、総攻撃の場面を迎えている。
ーー場所は
黎陽 城れいようじょうであった。この、堅固な構えの黎陽城を
攻め落とす事には、流石の曹操も手を焼き、只ズルズルと5ヶ月
もの時を費やして来ていたのだった。

「引っ掛かったぞ!」 曹操がほくそ笑んだ。
《ーー敵を城外へ誘い出せ。その誘い出す策を示せ!》
曹操の指令に応え【軍師】荀攸が案出した『おびき出し』作戦
とは・・・・ここ黎陽城の囲みを解き、敵一族の本城である
業卩ぎょう》への総攻撃を仕掛ける! (と見せる。)
業卩ぎょう』には、袁一族の妻子全てが居る。城の規模も格段に大きく、
まさに袁兄弟の生命線である。
見せ掛けの、飛び石作戦〕ーーこれであった。
《奪われてはならじ!》 と、全軍で〔業卩城〕へ駆け向かうであろう。
そこを待ち伏せ、〔野戦〕に引っ張り込む・・・・そしていまーー案の定
敵は泡を喰らってその全軍が黎陽城から出撃して来たのである。
かくて黎陽城の東、数里の地点で会戦となった。
「ーーしまった。謀られたか!」
だが、気付いて振り向いた時には、後の祭りであった。
もぬけからにして来た黎陽城の城壁には、既に【】の軍旗が林立
していたのである。
「くそ、こう成ったら致し方無い。何が何でも、相手より先に、
 業卩城へ駆け込むのじゃ!妻や子を守らずに何とする!」

その業卩城には、国中に喧伝されている【
絶世 の美女】が居る。
可憐にして凄艶、昼は処女の如く、夜は清婉に喘ぐ・・・・
2男・【袁煕えんき】の珠玉の妻である。
(但し彼は現在、其処から更に北東へ300キロの〔南皮城〕に単身赴任(駐屯)中。)

ーー袁軍の突破戦は苛酷なものとなった。
曹操軍があらかじめ待ち構えていた大軍の中へ、もろに突っ込んで
しまったのだ。激戦となった。降り注ぐ矢の雨の中、声を励まし、
げきを振るい、槍を突き立て、剣をぐ。
激闘十刻(2時間半)・・・もはや誰の眼にも、勝敗の帰趨は明らか
と成った。最後はもう、戦闘と云うよりなぶり殺しの状況にさえなり
果ててしまった。
袁兄弟は夜陰に乗じて戦場を離脱。それでも窮地を知って来援
して来た、本城から救出部隊の助けを借り、這々ほうほうていで《業卩城
へと逃げ込んでいった・・・・・

ーー片や曹操軍、大勝利である。恐らく 3万以上を討ち取り、
半数は四散し、業卩城内へ逃げ込めたのは、総兵力の4分の1も
無いであろう。捕虜も万余である。
   
「よし、充分だ。余り深追いは、すまいぞ。」
ここでは殲滅せんめつの必要は無い。黎陽の城を取ればよいのである。
そして何より先ず、【大勝利の金看板】が欲しい処なのだった。周辺
諸国に 《やっぱりな!》、と思わせる事こそが肝腎なのである。
理想的な勝ち方と言える。
こうして《
黎陽れいよう》は、曹操の手に入った。だが、反省・課題も残った。
《ーー存外しぶといのう・・・》この五ヶ月の間、様々な手を打った。
然し、諜略や心理作戦に依る誘降に応じて来た将兵は、ほんの
一握りに過ぎ無かったのだ。
かえって、ホゾを固めさせてしもうたか・・・・?》

ーーその夜・・・・
「それにしても長引きましたね」と曹丕。応える仲達。
「若君なら、何うされました?」
「予なら火じゃ。火攻めで城ごと焼き尽くして呉れる」
「それは、『下の下』の策ですな。」
目先の勝利を焦って、城を火攻めにすれば、城も街そのものも
消滅してしまう。いずれ自国領に成る都市、つまり折角の経済
基盤を、むざむざ失う事になる。復興には、途轍もない手間暇と
巨額の財貨が、新たな負担と成ってのし掛かって来る。
これでは勝っても、負けたに等しい。就中なかんずく、これから攻め落とさん
とする、袁一族最大の巨城【
業卩城】は、董卓による洛陽炎上の
現在では(前漢の都だった長 安は200年前の赤眉の乱以来荒廃)、天下最大の
巨大城市と成っている。是が非でも、無傷で入手しなくてはならな
かった。
「では、水攻めにすべきだったかな?」
「ーーここ黎陽城は袁氏の支城・出城の一つに過ぎませぬ。次の
 《業卩城》こそが敵の本拠!その折にこそ、水攻めを提案めされ。
 地形・水脈ともに適しておりまする」
「詳しく調べて呉れぬか?
 幕僚会議で皆をオッと言わせてやりたいのだ。」
「既に此処に、地形図も、築くべき堤の位置・規模・軍の配置とも
                            準備して有ります。」
「ーーまことか!」
「但し、若君は、此のまま提案しない方が宜しいでしょうな。」
「ーー?」
「申し上げにくくは御座居ますが、これでは完璧に過ぎましょう。」
「ははあ~、予の策ではない事がバレてしまうか?」
仲達が、何とも済まなそうな顔をした。
「そうじゃの、その通りじゃ。予には未だ、これ程の緻密な軍略を
   立てられる筈が無い。いや仲達どのの言われる通りじゃ!」
曹丕は、明るく笑い飛ばした。
「では、何うすれば善いかな?」
「原則的な方針のみ提案され、後は幕僚達に任せる事ですな。」
「ちと惜しいな・・・折角の傑作を!」
「いえ、いずれ此の様に落ち着きましょう。それに荀君のことです。
 最後には私の処へ参られると思います。」
「荀令君とは特に親しいのか?」
「見習う事の多い御仁かと・・・・
          それに若君が、私めをヨク売り込んで下さる故。」
「なあ~んだ、知って居たのか!でも、これからも、そうする心算りだよ。」
「では、詳しく説明して置きましょうか。」

二人は、机上に広げられた次の戦場、
業卩城ぎょうじょう】の地図を覗き込んだ・・・・。
 【第11節】 骨肉あいむ『地獄篇』  へ→