【第8節】
曹操の陣営は勿論のこと、どの群雄・君主の陣営にも在って、
それでも尚足りず、各君主達が血眼になって探し求め続けて
いる天才・異才・奇才・秀才たち・・・・
ーーその男達を称して【名士】と謂った。
そもそも「名士」とは、一体何者であるのか!?なぜ曹操は、
これ程までに「名士集め」に狂奔して已まないのであろうか?
その問いに、より正しく応える為には先ず、三国時代そのもの
を大きな歴史潮流の中の一つとして、巨視的かつ客観的に
見て置く必要があろう。
そして、そうした時わかるのは・・・この壮大な『三国志』と雖も
中国五千年の歴史の中でではほんの一瞬の光芒に過ぎない
・・・・と云う事の認識である。 ちょっと口惜しいが、動かし難い
事実である。また当然の事だが歴史潮流に於いて「三国時代」
と云うものがポツンと、独立して完結している訳では無い。その
前の時代の影響を受け、そして亦その後の歴史にも影響を
与えつつ経過する、一つの「時代の流れ」に相違ないのである。
つまり・・・三国時代は、時代としての或る役割を果たし、次の
時代へとバトンタッチしてゆく《或るもの》を有していたと云う事
である。 ・・・・従って、此処での主題は、そのバトンリレーした
《或るもの》 についてである。
ちなみに、三国時代に続くのは・・・・実に400年間にも及ぶ、
統一王朝無き、「魏晋南北朝時代」(六朝時代)であった。そんな
抗争うち続く400年もの間・・・皇帝の首がすげ替わろうが、国が
次々に興亡しようが・・・・ 常に各国権力基盤の中枢に根を張り
巡らせ続け、連綿として、その繁栄を謳歌してゆく、
したたかな支配階層があった。
時代潮流が要求して已まぬ「大土地所有制度」
(ラティフンデュウム)
を基盤とし、その権力独占を本質とする処の共通利益集団ーー
所謂・・・・【貴族】であ
る。
故に此の時代は、謂わば《貴族の時代》・貴族文化全盛の時代
とも言えるのである。尚、六朝時代における【貴族】は、官僚とし
ての「権力者の顔」と、郷里社会における「民衆の指導者」として
の顔を併せ持つ。
処ででは、その【貴族】は、いつ生まれたの
か?・・・・と言えば
実は、その前の『三国時代』の中に、既にその萌芽をみていた
のである。
※尚、後漢・
三国時代には未だ『貴族』と云う言葉も、『豪族』と
云う確定した言葉(認識)さえも無く、上流支配階層の者達は、
敢えて言えばケースバイケースで、『良家』だの『世家』だの
『冠族』『甲族』『右姓』などと様々な呼称で言い表していたそうだ。
つまり、貴族の濫觴(発生)と成った此の若芽こそが・・・三国時代
独特の存在である【名士】と云
うものなのであった。
ーーだから、そうした歴史潮流的な意味では、
《三国時代とは・・・・
大土地所有制を、その中核と成って推し進めてゆく、
名士の時代であった》とも言えるのである。
・・・・然し、三国時代の【名士層】は、この時まだ、確固たる地位を
その社会の中に獲得してはいない。
ーーさて今、現実的に、曹操の《名士集め》を観てみると、彼の
人材確保に対する貪欲さは、異様ですらある。既に、充分過ぎる
程の人材を得ているではないか?
じゅんいく ゆう
かくか ていいく かく ちんぐん こうゆう おうろ
う
荀或・荀攸・郭嘉・程c・賈ク・陳羣・孔
融・王朗・董昭・滿寵・司馬朗
司馬懿などなど、超の付く《一流名士》は未だ未だ枚挙に暇もない。
だが、こんなに多くては、「舟、山に登る」事に成りはしないか?
・・・・余りにも遮二無二過ぎないか?
処が、この〈人狩り〉とも謂える光景は、ひとり曹操に当て嵌まる
だけの事では無かったのだ。 此の時代に【群雄】と呼ばれる
全ての者に観
られる、顕著な時代傾向なのである。
ーーなぜか??
その本質を了解した時、この「三国統一志」
には、更なるトーン・
深味の有る実質が、その基調に流れ始める事となる・・・・。
これは決して大袈裟な言い様ではなく、それ程までに重大な、
歴史視点の一つである。・・・・さて、本題に移ろう。
勿体ぶらずに結論から記そう。ーー端的に言えばーー
【名士】には、《絶大
なパワー》が有ったからである。
では、どんなパワーか? 先ず、4つの力が挙げられよう。
1つには・・・旧来の国家秩序を破壊
しつつある群雄達の
その存在自体を、世の中に認知させてしまう、と云う
【政治的な力】である。
これは、社会的に名声を得ている名士達が、彼等の陣営に参入し
身を置く事で、自ずと成し遂げられる。
2つには・・・領土を拡大させた時に、
その地方・地域を
実質的に治め、地元民を支配すると云う、より直接的・直截な
【現地支配力】を保有
していたのである。
この地域社会での協力を得られない限り、群雄は己の根拠地を
保つ事が出来ない。その好い例が【劉備】である。劉備には其の
幕下に、名士が一人も居無い。 折角、参入して来た名士達も、
【関羽】・【張飛】と云った義兄弟を差し置いては献策も儘ならず、
結局は、嫌気が差して次々に去って行ってしまう。
そうした《任侠的・
武装集団》である為、未だに根拠地を持てず
単なる〔傭兵部隊の親分〕止まりで、各地を流浪っているではないか・・・・。
処で、【名士】は必ずしも、その地域に大土地を所有する豪族
そのものでは無い。寧ろ地方豪族達は、単なる経済的支配者で
あって、社会的身分としては低く視られ、世の人々からも、尊敬
され支持されている訳ではなかったのである。
そんな彼らは、何とかして自分たちの地位を、質的に、より高い
ものにしたいと願っていた。そこで彼らと、既に社会的名声を得て
いる【名士】との接近が始まった。
豪族達は名士を支持し、経済的援助も惜しまない。名士と交わる
事に拠って、己の社会的地位を高め、将来的には(見返りの多い)
官界への自己進出を期待してゆくのである。
無論、名士達にとってもメリットが有った。 自己の才能を地域
社会に於いて発揮し、豪族を指導する立場を通じて、社会に己の
影響力を行使し、《名士の権威》を益々不動のものとしてゆける。
その指導力が、いかに大きなものであったかを示す、
1つのエピソードが有る。
曹操の参謀である陳羣の祖父【陳寔】
は・・・・党錮の禁事件
で《党人》として禁錮(官職への就任禁止)され、後漢国家からは
罪人とされた人物であった。 陳寔は已むなく野に下り、郷里で
【名士】へと変貌していった。彼は公正な心で物事に対処し、争い
事などの裁定を委ねられても、道理を以って解決した為、郷里の
人々は誰も彼を怨む者が無かった。その結果、郷里社会の人々は
『国家の刑罰は受ける
事が有っても、陳寔様に謗られる事だけは
したく無い!』 と言い合った・・・・と正史は記す。
【名士の社会的権威】は、かように迄、人々の
心を捉え、
支持と畏敬の念を獲得していたのである。
このエピソードでは・・・・国家権力すら超越した存在として、
《名士の権威》が、地域社会で受け止められている様子がよく判る。
つまり【名士】
とは、必ずしも直接的には大土地を所有している訳
ではないが、地方の指導的支配
層なのであった。だからこそ、豪族
の経済的支援を受けて、日がな一日、天下国家を論じ、人物評価を
為し、宴を設けては接客三昧できたのである。無論、豪族の中には、
名士社会への参入を果たす者も出現して来る。
他方、名士を得た【群雄達】にとってみれば、彼等を得ると云う事は、
その郷里の土地と人民とを確実に傘下に治めた事を意味する。
名士が多ければ、支配地域も亦、自ずと広く確
保し得たのである。
遠隔地の者であれば、土地を売り払い、その財貨と民衆とを引き
連れて、ゴッソリやって来て呉れる名士さえある。
処で、考えてみれば・・・・この『名
士』と云う存在は、
〔いつ〕 発生したのだろうか?
ーー答えは・・・・《つい最近》ーーである。そもそも地方豪族の
発生自体が、そんなに昔の事では無いのである。
漢(前漢)以前の中国社会は未だ、それほど貧富
の差の無い
郷里
社会であった。(郷村社会ではない。) 人々は全員、城壁に
囲まれた郷や里と呼ばれるム
ラ(
邑)の中に住居し、城壁の外に
ある田畑へ出入りしては暮らして居た。だから当時は未だ・・・・
農村風景に由来する【村】と云う漢字そのものが無い!
貧富の差がつき、地方で財を成す者が出て来るのは、前漢・
武帝の時期だと謂われている。・・・・その原因は、国家の専売制
(塩・鉄など)や、土地への重税、商業収益に対する利権の統
制
から生じた。 そして此の時期に、その独占性や排他性を逆手に
とって、上手くやった者達
が、他の人々の困窮を尻目に蓄財し、
没落してゆく中小農民の土地を買い漁っては、大地主へと伸し上
がっていったのだ。ーーそして
其れが、今の地方豪族達の先祖
なのである。
成功者は、同族繁栄をもたらし、やがて当然ながら、その地域
一帯を取り仕切る統制力を有するに至る。金力に物を謂わせて
養っているヤクザや食客(任侠的暴力団)達が、それを担当させ
られた。・・・・然しながら、富を満たせば、後は名声を得たいのが、
人間の業・欲と云うものである。彼等・地方豪族が政界への進出、
官職に就くのは時間の問題であった。だが、直に中央政界入り
するのは難しいから、多くは地方政治の官僚を兼務しながら、益々
蓄財にも拍車が掛かった。
ちなみに、後漢王朝の始祖【光武帝】(劉秀)
は、自身が南陽郡の
大豪族出身であった。処がいざ、自分が皇帝に成ってみると・・・・
地方豪族の力は、やはり支配統治の邪魔者・障害物であった。
ーーそこで、大土地所有を禁止しようと、大弾圧を試みるが、
却って豪族連合の猛反発を喰らって、その目論見は大失敗す
る。
〈ーーされば・・・・〉と、発想の大転換を行い・・・・
【大土地所有を黙認する代りに彼等を官僚として
支配体制内に取り込む】 事にしたのである。
その際、官僚登用制度として捻り(考え)出されたのが
ーー『選挙』(郷挙里選)であった。これは、既述した如く、
推薦のみに拠る人材登用制度である。更に、その推薦基準を、
国教と定め
た 【儒教倫理に基づくもの】 としたのである。
ちなみに、『儒教』は、春秋時代に【孔子】が唱えた思想である。
だが、皇帝支配の正統性を後回しにして、主に個人としての《仁》
(愛や思いやり)を中核に据えた為、(君主権の強化を主張する)
法家思想に押し退けられ、それまでは鳴かず飛ばずと云う状態
であった。だが、光武帝(劉秀)は若い時、太学(国立大学)で
儒教に興味を覚え、その政治要項である《尚書》の研究に没頭
した経験を持つ、学研肌でもあった。
だからハタと閃いた彼は、己の支配統治に好都合な《寛治》と
云う理屈と、その新システムを編み出したのである。
ーーさて、その新システムとは・・・・
【豪族は、民衆
の代りに国家への税を負担する。が、その代りに、
儒教の徳目である「清」とか「仁」と云う 《名声》 を手に入れたと
見僻す。その上で、その徳目の有無や程度を吟味し、登用する時
の資格基準とする】 ・・・・よくもまあ、考え出したものである!
ーーその結果・・・・地方豪族達は、官僚として、より高い政治地位に
就く為に、儒学を修得し、更に高い人物評価を得る事に躍起となって
ゆく。 やがては、売名行為が、公然と実行されてゆく事になる。
税負担に文句を言っている処では無い。
貯め込んだ財貨をばら撒いて、《賑恤》(あわれみ、めぐむ事・施し)
を行うのである。それが名声を得て、「選挙に高得点で合格する」
唯一の途ともなれば、全国至る所で〈美談〉が生まれる。やがて、
その美談・名声には、それなりの呼称が付与される事になる。
《清》とか《廉》とか《仁》などと云う、儒教の根本理念の一文字が、
当て嵌められてゆくのである。かくて、儒学を修得し、世の名声を
得て、晴れて官職に就いた地方豪族のことを【士大夫】と呼んだ。
これが『名士の原型・母胎』と成る。
だが、後漢も末期になると、この「士大夫」の前に、強敵が現れて
来る。ーー【宦官】であ
る!宮廷(政治中枢)内に隠然たる権力
を持ち始めた宦官達は、士大夫を排除して、己達の専権、政治の
独占を目指した。是れに対し士大夫達は、宦官勢力を憎むべき敵
として蔑視し始める。
そして、自分達を『清
流』と呼び、宦官を『濁流』と視た。一方、宦官
側も、士大夫達を徒党を組む者・《党人》として敵視していく・・・・
ーーそして遂に、両者は激突した。
《党錮の禁》 と呼ばれる、天地を揺るがす、大事件の勃発で
あった!・・・・当時朝廷では、専制的君主権を望む皇帝の意向を
察した宦官達が、すっかりその寵愛を勝ち取っていた。
幼帝の即位が相次いだ後漢王室では、皇帝の母方一族である
【外
戚】が、皇太后の臨朝政治を補佐すると云う名目で、永く権力を
振るって来ていた。・・・・だがやがて、無事、成人し得た皇帝も出て
来る。成人すれば皇帝は、政治の実権を【外戚】の手から取り戻そう
とする。その際、皇帝が相談し得たのは、二十四時間、常に身辺に
侍っている、宦官達でしか有り得なかった。そして皇帝は、彼等を
頼りに宮廷内クーデタ
アを起こし、【外戚】を打倒した。(第2章に詳しい)
宦官に対する皇帝の寵愛が強まるのも、当然の成り行<きとなる。
それを良い事に宦官達は《辟召》や《徴召》(皇帝が直に人材登用する)に
割り込んで、士大夫の官僚登用を阻止し、自派勢力の拡大を図ろう
とした。更に宦官達は、《皇帝の勅命》と云う伝家の宝刀を利用して、
官僚組織(士大夫層)の頭越しに直接、政治を動かし始めてた。
ーー問題は、その政事の〔中身〕である・・・・が・・・・
去勢された宦官の多くは、彼等特有の「異常な物欲」を満たす為、
私利私欲に突っ走ってゆく。(宦官については第2章で徹底解剖する)
『宦官ノ
兄弟一族ガ、ミナ州ヤ郡ノ支配者ト成ッテ、
民衆カラ税金ヲ搾取スル様ハ、盗賊ト何ラ変ワラ
無イ』・・・・状況と成り果てていた。
ーー処が166年、そうした宦官勢力を告発し、一部を処刑した男が
現れる。【李膺】であった。彼こそは、清流官僚(宦官に言わせれば
徒党を組む者・・・すなわち党人)勢力のホープであった。
彼をバックアップして呉れる超大物としては・・・・太尉の(国軍最高
司令官)の【陳
蕃】が居た。 この動きを知った学生3万余人は、
熱烈にそれを支持した。(首都・洛陽に在る太学の学生達・・・即ち、官僚の卵)
『天下ノ模範ハ
李元禮(李膺)、強禦(宦官勢力)ニ
畏レザルハ陳仲舉(陳蕃)』 ・・・・と尊敬した。
特に、最初に立ち上がった李膺に対しては、《神》に近い存在として
の畏敬の念が寄せられた。
ーー『士の
其の容接を被る事有る者、
とう りゅう もん
名付けて登竜門と為す』ーー
李膺と面談し、人物評価を得る事が、士大夫社会への《登竜門》と
されたのである。(※ 登竜門の語源・由来)
又、学生達は、彼等が指導者として仰ぐべき者達の、ランキング
表を作って、支持の表明を一層鮮明にした。ーーそれには・・・・
上位3人は別格として、〔4グループ各8名ずつ〕を列挙している。
三君・八俊・八顧・八
及・八厨と称される、3+8×4=35名。
その一人一人に、四語から成る評価まで付けられた。
例えば三君の
評価は上位から「天下忠誠」「天下徳弘」「天下義府」
と云った按配である。然しよく見ると・・・・
【陳蕃】は三君の末席、【李膺】は三君にも入らず、格下の八俊筆頭
にランクされているに過ぎない・・・・ここに、《士大
夫層》の限界点も
露呈されている。(新秩序を構築すると言いながら、やはり旧態依然
皇帝の外戚をトップとナンバーツーに挙げるのである。)
ーーだが然し・・・・166年、
かんて
い
後漢王朝第10代目、時の皇帝・劉志(桓帝)は、宦官のお陰で
宮廷内クーデターに成功した経緯も在り、彼等の進言を容れて
李膺を逆賊とし、それに連なる(党人)百余名を逮捕・投獄した
のである。 所謂、【第一次・党錮の
禁】事件であった。
だが流石に桓帝も、己の遣り過ぎを悔やみ、清流士大夫の巻き
返し工作も功を奏し、桓帝は翌年、彼等を許す。
驚愕したのは宦官であった。彼等はその報復を恐れ、又しても
桓帝を動かして、清流士大夫を終身禁錮 (登用の道を永久に
閉ざす)と、し続けた。・・・・それにつけても、桓帝のこの馬鹿サ
加減はどうだ。ーー宦官を、己の父や母とまで言い切った彼の
人間的弱さと、その特異環境が生んだ政治の歪み・混沌である。
その桓帝が没し、霊
帝(14歳)擁立に成功した清流派は、再び
政権を奪還した。 と同時に、今度こそ宦官勢力の一挙誅滅を
図った。 そのリーダーは謂わずも哉、やはり太尉の【陳蕃】で
あった。彼は霊帝の外戚に当たる【竇武】を戴き、169年に決起
しようとする。
(魏の曹操14歳。蜀の劉備8歳。呉の孫堅14歳の外は、未だ誰も生まれていない頃)
ーーだが・・・皆殺しを恐れた宦官達は、竇太后(竇武の妹)の持つ
ぎょくじ
ずさ
ん
玉璽を用い
(杜撰な管理)、詔書を偽造した。
しょうちょく
そしてその詔
勅を、異民族討伐から帰還したばかりで政情を識らぬ
【張
奐】に渡し、彼の大兵力を利用して【陳蕃】と【竇武】を殺害した。
(※第2章に詳しい)
・・・・奸計に拠る、宦官達の一発大逆転であった。
【李膺】ら200余名が処
刑され(妻子は奴隷として辺地へ流罪)、
700余名が《逆賊》のレッテルを貼られて終身禁錮される結末と
成ってしまう。ーー【第二次・党錮の禁】事件である。
然も今回は、本人ばかりでは無かった。周辺の郎党・家来達に迄
押し拡げて禁錮され、全土の士大夫層は官職を失わされたのである!
・・・・こうなればもう、国家の政治は滅茶苦茶。
かんがん ろうだん
【宦官勢力】に
拠って壟断され続けてゆくしかない・・・・ 一方、
地下に潜った「士大
夫層」は、腐敗しきった国家秩序に対抗して、
士大夫層独自の秩序を守り徹そうとした。だが、やがて・・・・
この、士大夫層が目指す、「国家権威の尊
崇」と云う価値基準・
倫理観は、国家権力機構みずからの現実的な腐敗と共に、その
輝きを失ってゆく。ーー皇帝自らが、官職の叩き売りで蓄財するに
及んでは、守るべき理念そのものが、消滅してしまったのである。
そして是れはーー《士大夫の歴史からの退
場》を意味した。
これに代わり、新しく登場して来るのが、腐敗仕切った国家秩序に
対抗する、士大夫とは一線を隔くする、期待の新星・・・・
【名
士】と呼ばれる者達の原姿であった。
蓋し《名士》とは・・・世論・名声のみを拠り所として、
新しい価値秩序を樹立せんとするかつて
中国史上
に存在した事の無い、〈不思議な存在〉であ
る。
《ええっ?!世論に拠って、本当に政治が左右されるのかあ〜?
第一、いまから2000年も昔の話だぜ。デモクラシイーなんて
ものは、欠片も無い時代だゼヨ? 》
《ーー然り!!》
【名士達】が
拠って立つ根拠は、
非常に
曖昧で不確かなものであった。
たぐい
何等の武力・権利も持たない世論・名声の類が、政治に直接機能
して、天下に直載な影響力を及ぼすなど・・・・とても我々には合点
がゆかぬ。ーーだが此処で我々がもし、その頃の、曹操の父親
(曹嵩)の行為を想い出したとすれば、《宜なる哉!》と腑に落ちる
事となるであろう。
そうすう たいい
「曹嵩」は何と、『太尉』と云う国家最高の官職を、一億銭という
《金で》買っていたではないか。国家の最高官僚たる太尉職が、
売買されている位だから、後は推して知るべし。
『国家の秩序』などと云うものは、何処を探しても見当たらない
ではないか・・・・人々の怨嗟の声が挙がらぬ方が不思議であろう。
かつて【士大夫】達が、先を競って求めた、《栄誉ある官職》などと
云うものは、今や何の権威も無くなり、とっくに単なる虚名・只の
飾り物へと失墜し去っていた。実在するのは唯、ひたすらに蔓延
する腐敗だけであった。
ーーこうして、益々悪化するばかりの社会状況の中で、人民の
期待と支持は、もはや士大夫から離れ去
り、新しく登場して来た
【名士
達】に集中
していったのである。
と同時に、こうした社会的土壌こそが、《名士層》を育て上げてゆく、
根元的な要因となるのであった。
・・・・処で【曹操】
はこの頃、世に出る寸前を迎えていた。
だが若い彼は、最初から、実態の無い官職の保有などには興味を
示さない。それどころか、父親が買い取って来た太尉職をすら、全く
有り難がたがらない。・・・・そんな彼の関心は唯一つ・・・・
や
《名士社会への参入!》を熱望して已まぬ事だった。
だが此処で、我々の誰もが抱く、ごく初歩的で、基本的な疑問が
発生して来る。
ーーそもそも、誰が一番最初に『君は名士である!』
と決定したのか?
また一体、どうやって《名士第1
号》は、2号・3号・・・そして・・・28号
・・・を生み出していったのか?
はたまた具体的には、何を根拠
にして【名士認定】がなされるのか?
ーーと云う素朴な疑問である。
そして実は、この疑問こそが・・・《名士》と呼
ばれる新・社会階級が
誕生した瞬間からの、彼等自身最大の弱点・泣き所でも有ったのだ!
あいまい
土台、『名声』などと云う《抽象的かつ曖昧なもの》を、唯一の選考基準・拠り所としているからであった。
そこで此の時「士大夫から名士への
バトンタッチ役」を自覚して、
登場したのが【郭泰】と云う人物である。彼はかつて、李膺の龍門を
登った実績を持つ『士大夫』であり且つ、誰からも文句の付けられ様の
無い、レッキとした『名士』 とも世間から視られていた。
謂わば《名士の第1号》である。そんな郭泰は、彼なりに、時代の
要請・社会変革の必要性を痛感する。そして、自ずからが
「名士階
層の産婆
役に成
る」事を決意したのである。
そこで【郭
泰】は、全国を巡り廻って、人物評価を施し、中国各地に
「名士の層を形成す
る」、取り上げ役を、果たしまくったのである。
この時、彼のゆく先々では、各地の豪族
達が手ぐすね引いて、
その来訪を待ち受けていた。
《我こそは名士の評価・認定を貰わん!》とばかりに、人々が先を
争って面会を求めた為、彼の牛車は、常に名刺の山で一杯になった
と言う。・・・・かくて郭泰の、この「全国行脚」に拠り、ここに初めて、
一応の、《名士達の層》が誕生したのである。
以後は・・・・郭泰の認定を受けた【名士】から、次に新しく人物
評価を受けた者が、更に名士社会への参入を認められゆく・・・・
とする”自己増殖”を繰り返しながら、逐次、勢力の拡大を図って
いったのである。
だが然し、ここには既に名士層の《危弱
性》が内包されている。
その判定基準が主観的なものであるだけに、恣意や派閥などと云う、
不透明で不安定な要素が、必ず入り込む。さなきだに・・・・この事は、
彼等自身が、最も強く意識している弱点であった。
故にこそ余計に、名士達は己の【地位の確率・安定】を求めて、
国家や群雄の中に食い込み、《現実社会に於ける不動の地位》の
獲得に乗りださざるを得ない事となってゆくのであった。
・・・・と云う次第で、若き曹操が『名士に成る』唯一の手段は、高名な
先輩名士に、己の《人物評価》をして貰う事だけであった。
因みに、名士の行う人物評価を 【月旦
評】とも呼ぶ。
『許劭』と云う大名士が、月毎の朔に定期的に、人物評価を行った
事に由来する。・・・・つまり、定期的に人物評価を実施する事が、
己達の勢力拡張を兼ねた、既存名士に課せられた責務でもあった
のだ。(恐らく、それとない収入源にもなった事であろう。) 但し、
認定者が多過ぎても、これまた有難味が薄れてしまうのが世の常
ではある。 これを曹操の場合に当て嵌めてみれば・・・・
未だ無名の曹操としてはーー何はともあれ、その中味がヒドイモノ
(清平の姦雄、乱世ゆえに英
雄)であっても、人物評価を受けたと云う、
その事実こそが重
大なのであった。月旦評をして貰った (と云うより、
無理矢理させた) 事イコール(即)、名士合格なのだった!
ーーさて、このように、曹操父子のエピソードを観た時、我々は
其処に、当時の世相(社会秩序の
新旧の姿)を、明瞭かつ端的に
把握し得る。
ぎゅうじ
濁流・宦官達が牛耳を取る人材ではなく、徳を積んで名声を得た
名士達が推挙する『清良なる人材』に拠る、新たな国家秩序の回復
・・・・腐敗仕切った今の
社会秩序に対するアンチテーゼ・・・・
これこそが、人々の支持する《名士達の理想》と合致してゆく。
ーーそしてやがて、これが少しずつ実現されだしてゆくと、それまで
地位的に不安定だった【名士層】は、現実社会の中で一定の権威
を持つ様になった。 より具体的には、朝廷や各地の群雄幕内に
任官して、高い地位に就くと云う、実質的利益とも直結してゆく。
他方、彼等を迎え入れる側からすれば・・・・より多くの名士達が
参入を果たして呉れた者(陣営)こそが、世論を獲得した事となり、
天下に正義を具現し、世を治めるに相応しい、
「有資格者として是認
された」 事となるのだった。
故にこそ、群雄達は先を争う様にして、【名
士】を己の政権に
招き入れるのであった。
長くなってしまったので、もう一度、結論を整理しておこう。
ちまなこ
ーー曹操はじめ、群雄達が血眼になって名士を集める理由
(即ち、名士の有する実力)とは・・・・・
〔1〕、 世論の
形成者である彼等を迎え入れる事に拠って
己の社会的認知・《正統性を獲
得》出来る為である。
〔2〕、 彼等
の有する、地域社会での《現地支配
力》を
利用する事に拠り、領土拡大時には、以後の恒
常的な安定経営を、現地に永続し得たから。
〔3〕、 軍事・
経済などの各分野に於いて、彼等の才能
を発揮させ、《自国政権の拡大強化に寄
与》させる。
〔4〕、 実際の
戦争に於いて、彼等を軍師・参謀として
用い、その戦略・戦術を参考にする事に拠り、
《必勝が期待できる》から。
ーーと云う事になる。
ーー最後に・・・・・
【名士】にも、2つの潮流があった、と観てよい。
前期
(後漢末の群雄割拠時代)の者達と、
後期
(三国の成立過程時代)の者達とでは、
ひょうぼ
う
明らかに、彼等の標榜する理念の質が異なってゆく。
本書における現段階(曹操の荊州侵攻以前)の、名士達の基本
理念は、《漢王室の健全化》であり、《漢王朝の復興》である。
ーーだが、曹操はいずれ、そうした古い理念を持ち続ける、
『保守的に成ってしまった名士
層』との相克に打ち勝たねばならぬ
・・・と云う、緊迫状況に直面するであろう。
何故なら、その克服なしには、《新王朝の樹
立》など、およそ為し
得ぬであろうからである。
そして更に重大なのは・・・・政権内に於いて、曹操の【君主
権】に
対して、〈強大化した名士層の権限〉 から生ずる、両者の深刻な
葛藤が避けられぬだろうと云う事である。
これは【皇帝権力】バーサス【貴族勢
力】の対決
と云う、三国時代に続く四百年間に渡る時代潮流を先取りした、
すぐれて歴史上の大問題となる。
三国志独特の【名士】の存在は、その《皇帝と貴族》と云う構図の、
本格的対立の原点・原初である事を銘記しておくべきであろう。
ぎ
ご しょく
ーー事実、こんご【魏】でも【呉】でも【蜀】でも、そして其れを
統一する【晋】でも、この根本的対立は、深刻なものとなって姿を
現わして来る・・・・・
ほか かんぱ
処が既に、この危険性を、外の誰より一早く看破していた群雄が
在る。白馬将軍こと【公孫讃】である。 公孫讃は幽州を支配するに
当たり、官僚の子弟や才能の有る「名士」を必ず抑圧して、恒に低い
地位に置いていた。或る人がその理由を尋くと、彼はこう答えた。
「官僚の子弟や才能有る名士を優遇しても、彼等は皆、己は自分の
名声や能力に因って、当然その職を得たと思うだけで、人の好意を
感じ無いからだ。」・・・・つまり《名士》達は、君主への忠誠心が薄く、
自分達だけの自律秩序を最優先し、君主権からも自立しようとする、
危険な本質を内包する者
達である、と薄々ではあるが認識していた
のである。ーーだが結果は・・・袁紹に攻められ、いよいよ孤立した時
幽州の人士(名士)で彼を助けようとする者は皆無であった。そして、
亡んだ。
よく言われ、定番になっている言い廻しだが、
「名士の居無い」劉備は流浪し、
「名士を抑圧した」公孫讃は孤立し、
「名士を相手にしなかった」呂布は亡んだ。
「名士を優遇し過ぎた」劉表は国を盗られた。
誠に【名
士】
は、君主にとって『両刃の剣』である。
無論、名士達の全員が、ただちにアブナイ者では無い。然して
曹操は、それを意識してか、《異質な高
才》を求め続けている。
この異質とは、一体何なのか・・・・
思うに、三国時代を実現していくのは寧ろ、そうした理念を逸脱
(超越)した『第二世代の名士
達』に拠ってこそ切り開かれてゆく
のである。
彼等は一体、如何なる展望を抱き、どんな人格を持ち、どの様な
生き方をしてゆくのか・・・これから続々と登場して来るであろう、
ーー新しき時代の真の主人公
達ーー
その一方で、夢破れて消え去っていく人物も多い。彼等【名士】
の
生と死、その成功と失敗を分かつものは果たして何か?・・・・
筆者は今、これを書き進めながら、わくわくドキドキしているのである。
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