青年と処女・・・三国統一志
【第7節】
ーーセクハラ時代・女だって生きるーー
この時代の女性達は・・・現代の我々には、想像も着かない様な、
苛酷な社会
環境下に置かれていた。
では一体、具体的には、どんな様子で有ったのか? ーーその、
生活実態・態度、行動範囲、そして又、その社会規範などについて
とくと観てゆこう。
当時の女性は、家庭の《奥》に在
るべきものとされ、
絶対に人前に出てはならなかった、のである。
(だから、卞夫人が行軍の供とは謂え、老兵に直接、声を掛ける
などは、異例中の異例、特筆すべき事であったのである。)
〈妻〉として、当時の女性が求められていた、家庭内の姿が、
『正史』に、唯一ヶ所だけ出て来る。貴重なので、紹介して置こう。
『呉書・顧雍伝』中に出て来る、彼の一族・顧悌を称讃する事柄
としてーーわざわざ〈妻二接スル態度モ、礼儀ニ適ッタ
モノデ〉と
言う、前書きの後に、具体例が記されている。
『・・・・いつも夜遅く妻の部屋に入り、明け方
にはもう、出て行った
為、妻も彼の顔を見る事が殆んど無かった。或る時、病気が重く
成った為、妻が奥から出て、見舞いにやって来た事があった。
顧悌は側の者に命じて扶け起こさせると、頭巾を被り、寝間着の
上に衣服を羽織って起き上がって対面し、妻に『奥に戻るように』
と促した。彼が常に《行いを正して》、揺るがせにしなかったのは、
こうした風であったのである。』
女(妻)は、家の奥に在る以外、決して表・『人前』に出る事が
有ってはならなかったのだ。つまり、男達は基本的に、他人の妻
(奥方・奥様)に会う事は出来なかった、と云う訳である。
と同時に、己の妻を他人に見られると云う事は、大恥を掻かされ、
夫としての面目丸潰れの屈辱を受けた事になるのであった。
現代の感覚で言えば・・・・
《全裸の妻を人前に見せる様
な、破廉恥な行為》に当たるそうだ。
ーー高島俊男博士ーー
然し、三国志の中には時々、その禁忌を敢えて犯す場面が記さ
れている。異例だからである。その場合それは、己の深い感謝の
念や、強い友情の気持を、特別に相手に示す手段として、即ち、
破格の待遇の一つとして、秘蔵の?妻を紹介するのである。
但し男達は、自分より身分の高い人の妻は、例え眼が潰れ様とも
ゼ〜ッタイ見てはならなかった。見てしまったら・・・殺される。
ーーこんなエピソードーー
後の或る時・・・・文人達との宴会で、酒も廻ってメチャ
盛り上がった頃合いに、曹丕が奥に人を遣り、甄夫人を呼びだし、
声を掛けた。当時、一方では・・・・《型破りを持て囃す気風》・・・・
いわゆる ふうこつ
所謂、【建安風骨】も生まれつつあった。
超時代の男・曹操孟徳の
影響である。後の曹丕は、その旗振り役的存在とも成るのである。
「ちょっとこっちへ来て、皆んなに、軽る〜く アイサツしてごらん。」
ーー「ドヒェ〜〜!?ッ!」・・・・
びっくら仰天!流石いい加減な文士連中も、胆を潰して這い蹲った。
見てしまったら首が飛ぶ。
処が、カワリモノが一人居た。劉禎(木扁)と云う。
「では、お言葉に甘えまして・・・・」 とばかり、顔を下げずに、
絶世の美女を、カブリ付きで、マジミエしてしまったのである!
《絶世の美女と謳われる、その高貴な女性を拝めるなら、
死んだってイイヤ!》・・・と思ったかどうか?
シアワセ〜〜!ってな顔
をしている、ブサイクなオジンと、高貴
この上もない甄夫人との顔と顔が、バッチリ合ってしまった。
其の事を曹操に話したら、流石の曹操も大爆発。即刻逮捕されて、
裁判に掛けられた。貴婦人を丸々見ちゃったのだから、当然死刑!
・・・・の筈だったが、仕掛けた曹丕の執り成しで、何とか命だけは
助かった。その代り、士人としては最大の恥辱である、肉体労働者
に落としめられた。
〈石切り場の石工として、其処で一生トンカチやっておれ。
恥しくば自殺せよ!〉・・・・事実上の死刑である。
ーー処がこの男・・・何を考えて居るのやら、居無いのやら、平気な
顔で一生トンカチやって居た、とか居無いとか・・・・
「ワオ!カッコイイ〜!!」
と、その曹丕の真似をしたのが、何と、あの独眼竜・夏侯惇。
彼にもそんな、建安風骨の気風が濃厚だった。
ーー部下との宴会・・・・
『各れ各れ、婦人を同伴させるように!』 との布令。
* 現代のパーテイでは寧ろ、その方が当
たり前だ。
その布令を伝達するよう、計吏の「衛臻」に命じた。すると衛臻、
ゆでダコの様に真っ赤に成って、猛烈に抗命した。
「それは!それこそ末っ世の俗であります!」
自分の妻を、他の男の目に晒せとは、許し難い暴虐・士太夫への
最大の恥辱である!
然も集団で、と来た。
『素っ裸の女房を連れて来て、見せ合え!』 と、
言われたに等しい。
だが、たとえ同僚・上司であろうとも、他の男には絶対見せては
ならぬ【奥】の存在・・・・それが《妻》と謂うものの、この世の
定位置・在るべき姿なのであった。
然し、夏侯惇は、命令不服従の罪で、衛臻をその場で逮捕させた。
だが、どう見ても夏侯惇の方が分が悪い。そこで結局、この一件は
ウヤムヤの儘・・・その命令も、衛臻への罪も、自然消滅した・・・・。
ーー『正史・衛臻伝』−−
トニモカクニモ・・・・女は奥のみに居て、人前に出る事
など思いも寄ら無い・・・・と云う世の中であったのである。
また、一番肝腎な女性の経済力・財産権については、
《九品官人の法》を創り上げる、時代の大改革者・【陳羣】が、こう
上奏している。ーー古典の文章を調べてみまするに・・・・
『女性に
領地を分け与え、爵位を授ける制度はございません。
礼法におきましては、妻は夫の爵位に従属する事になっております。
この原則は、永く後の時代の典範とすべきです。』
〔時代の大改革を推し進めた人物〕にしてからが、こう言っている
のだ・・・。いかんせん、三国志における女性達の存在は、飽くまで
男社会の隷属物としてしか、看做されていない。
それが「究極・儒教社会」ーーピラミッド型支配体制の基礎構造の
骨格を形成していた。そもそも悠久五千年の原初より、中国世界は
《はじめ、一人の男と、四人の女ありき!》
・・・・の認識でスタートしている。
一夫多婦制
すなわち、〈蓄妾制が当然!〉の歴史の中に暮らし
続けて来ていたのである。・・・又、その一方・・・・
〔父一人を除いた他の男性は、悉く夫である!〕と云う、途方も無く
大らかにして不逞な、性の開放的思想も併存して居た。 初めは
特別に女性だけに貞節が求められていた訳でも無かったのである。
然りながら、女性(人間)が一人の相手を独占したい、愛されたいと
願うのは、洋の東西・時代に関わり無く、万国共通の普遍性を持つ
ものらしい。 従って、一夫多婦制の古代中国の女性達の嫉妬心は
桁外れの
物凄さであった。と同時に其の、夫への嫉妬だけが、彼女
達の唯一の武器でもあった。だが、そんな有り難迷惑な女性からの
独占欲に辟易とした男ドモは、後に・・・・・・『女子と小人は養い難し。
およそ婦女子の性、佳ならざるものには』 として、
しつ りん よう
らい せつ ぐ こく やす
ーー《妬・吝・拗・懶・拙・愚・酷・怒り易さ・多疑・
はんさい きい できあい
軽信煩細・忌諱・邪教崇拝・溺愛》・・・・などの項目を
縷々論うのだが、『そのうちでも、最も甚だしきは【妬】なり!』と
音を挙げた? そこで、その抑止策として考え出されたのが・・・・
「儒教」の説く 《婦道》 である 。
儒教では婦女子が守るべき「婦徳」として、
貞節・服従・誠実など
が挙げられる。そして之等はやがて極端な社会規範・道徳規定
として浸透させられてゆく。例えば・・・・一旦嫁いだ娘は、実家に
帰った時にも、たとえ血の繋がった兄弟と雖も、男とは一切席を
同じくしてはならず、また同じ食器で食べてもならない・・・と、云う
事に迄なっていった。
更には、同じ女性軍の中から”裏切り者”が出て、この《婦道》を
徹底的に礼賛した。 (高島俊男博士)
女学者の『班昭』
である。彼女はかの有名な『漢書』の著者班固の
妹で《女誠》と云う書を著し、その中で《女の三従四行》を讃美礼賛
した。ーー嫁ぐ前は『親』に従い、嫁いでは『夫』に従い、夫亡き後は
『長男』に従う・・・・【三従の
道】。そして【貞操・貞節】が、女達
だけに
枷られていった。 こうした ”男ドモの作戦” が完全達成の暁を見た
のは、儒教が国教と定められた〔後漢時代〕だったと謂われる。
つまり三国志世界は、女性軍全面撤退期とも言える、
セクハラ時代のド真ん中だったのだ・・・・・
ーー呉の国も末期の頃・・・・・
陸績の娘で【鬱生】と云う女性が居た。
女性なのに、姓・名ともに伝わるケースは、極めて稀なのだが、
上表文が残っていて呉れたのである。ーーその上表文に曰く・・・・
うつせい
『鬱生は、年端もゆかぬ頃から、正道をひとり
履行し、幼少時から
決して自らを曲げる事のない節操を持しておりました。
彼女は13で張白の元に嫁ぎましたが、三か月間は、先祖の廟に
奉仕すると云う、嫁としての礼が終らぬ裡に、張白は一家共々に
事件に巻き込まれ、配流されて其処で死にました。鬱生は夫への
節操を守る事を言明して、正道を守ろうとする気概は顔色に溢れ
ており、有力者達からの使者が、しばしば訪れても決して再婚する
のを、承知する事がありませんでした。
彼女は、困難な生活中に在っても、亡夫の姉妹達を大切にし、
水火をも履み越え、心中には霜雪の如き、厳しくも清らかな志を
抱き、義を守ろうとする心は金石よりも固く、信を行って神々とも
通いあい、その様にして、礼の定め通り、死者への供養をやり
とげて、立派な男子達も心を寄せる模範と成ったのでございます。
どうか朝廷におかれましては、鬱生を表彰する
為、「義姑」と云う
号を賜わり、未だ歳若い者達の節義ある行動を奨励して下さい
ますように。』ーーーと、あ
る。
また「文士伝」と云う書に曰く・・・・
ちょうお
ん
『張温の姉妹たち3
人は各々に節操の正しい女性達であったが
張温が失脚すると、既に嫁に行っていた者達は、みな身分を
奪われて、官の奴隷に当てられた。
そのうち次女は官から許されて、丁氏と再婚
する事になった。
その婚姻の事が日取りに登ると、彼女は毒薬を飲んで死んだ。
呉の朝廷の人々(敵対国に当たる)は、彼女の行動をほめ讃え、
郷里の人々は肖像を画き、彼女の為に、ほめ歌である
《賛》や《
頌》を作ったとの事である。』
♪(大地賛頌)
ーー更に凄まじい女性もいる。珍しくフルネームが伝わる。
彼女の姓名は【夏侯令女】と言う。結婚早々、夫が死んでしまう。
ーー皇甫謐の『列女伝』は言うーー
『彼女は子供もいないし歳も若いから、実家
ではきっと自分を
再婚させるだろうと心配したので、令女は髪を
丸めて、亡夫への
変わらぬ真心を示した。その後予想通り、実家では、彼女を再婚
させようとした。令女は其れを聞くと即座に、刀で両耳を切り落と
し
てしまった。』
ところが・・・・亡夫の一族は政争に破れ、皆殺しにされてしまう。
『彼女の父親は、娘が若いのに、操を立て通
しているのを可哀想
に思い、こっそりと人を遣って、それとなく彼女に再婚を勧めさせた。
令女は悲嘆に暮れて涙を流しつつ、その者に答えた。
「ーー私もそう思っています。承知するのが正しいのでしょう・・・。」
実家では本心だと思って、彼女への警戒を、やや怠った。
そこで令女はこっそり寝室に入り、刀で鼻を削ぎ落とし、布団を
被って横になっていた。家中の者は駆け付けて、その様子を見ると
びっくり仰天して、みな悼み悲しんだ。或る人が彼女に訴えた。
「人間がこの世に生きているのは、ちょうど軽い塵が、か弱い草の
上に乗っているのと同じです。どうして辛い目をして、そんな事まで
するのです。それに、あなたの御主人の一門は皆殺しにされて、
もう誰も居無いのですよ。 一体、誰の為に、操を守ろうとなさるの
です!?」 言われると、令女は答える。
「仁者は盛衰によって節義を改めず、義人は存亡によって心を
変えないものだ、と聞いております。私は一門が隆盛であった頃
でさえ、最後まで節操を貫きたいと願っていたのです。ましてや今
滅亡してまったのです。なんで平気で見棄てられましょう・・・。
獣同然の行為を、どうして私が為しえましょうか。』
ーーー哀れを通り越して、凄まじい。
こうやって、女性にだけは強固な節操が求められる片方で、
男どもは勝手放題であった・・・・。
りゅうび げんとく
第3章で描く【劉備玄徳】と云う男などは、
その半生で3度も4度も
妻をおっぽらかし、手前独りだけで敵前逃亡を繰り返し、女達が
捕虜になってもアッケラカンとしている 〔とんでもない男〕 だが、
そんな彼にも彼なりに、ちゃんとした女性観が有った。
義兄弟の【張飛】が、主君とする劉備の夫人を守りきれず、城内に
置いたまま逃走して来た時の事ーー
【関羽】は怒鳴りつけて叱責するが、
御本尊は、こう、のたまわる。
「ーー兄弟は手足の如く、妻子は衣服の如し・・・
と言うではないか。
衣服は破れても、繕う事が出来る。だが、手足は、ひとたび絶たれ
れば元へは戻らぬ。」
・・・・女などと云うものは、幾らでも取っ替える事が出来るんだから
気にせんでもいい。それより、お前が無事で居て呉れた事の方が、
何倍も嬉しいぞ!!ーー無論、部下を慰める為の、男同志だけの
泣かせる話であるから、何割かはオフしなければならないが、この
女性観は、決して劉備個人だけの、特殊な倫理基準では無い。
ーー『妻子は衣服の如し』・・・と云うのは、この時代の極く一般的な
モノの観方であり、慣用句的言い廻し、社会通念で在ったのである。
だからと謂って、3度も4度も、妻を見殺しにしていい、と云うもの
では無いのだがーー。
人前には一切出れず、
家庭内でさえ、奥の一隅に留まるのが美徳
とされ、
危機に際しては置き去りにされ、
再婚すれば、後ろ指さされる。
夫が死ねば、主君に殉死を強要され、
(孫権ハ陳武ガ死ヌト、心ヲ込メテ、其ノ側室ヲ殉死サセタ。)
もし親戚に罪人が出た場合には、男は他の氏族の罪に連座する
事は無いのに、女は両家の処刑に引っ掛けられた。
挙句の果て、飢えれば、まっ先に殺されて、
そして・・・・ 喰われて しまう・・・・
ーー『正史・臧洪伝』の記述ーー
「・・・・城中では糧米が底を尽き、臧洪は絶対に
助からないと覚悟して、官吏と兵士達を呼び集めて言った。
「儂は大義の上からいって、死を免れる訳にはゆかぬ。だが
考えてみると、諸君達は何の因縁も無いのに、徒らに此の災禍
を引き被る事になる。城が落ちない内に妻子を連れて脱出する
がよかろう。」 将軍・官吏・兵士・人民は、みな涙を流して答えた。
「殿は、袁氏(包囲している相手)とは、本来なんの怨恨も仲違い
も無かったのに、今、朝廷と旧主の事から、みずから敢えて破滅
を招かれました。我々官民とて、殿と同じ様に、忠節の心を持って
おりまする。何で殿を見捨てて立ち去る事など出来ましょうか!」
ーー最初は未だ、鼠を掘り出し、獣の筋や角を煮て食べていた
が、後にはもはや、食べられる物は、全く無くなってしまった。
主簿(副長官)が、《内向きの台所》に米三斗(日本の10分の1強の量に相当)
が有るから、半分に分けて少しずつ、粥(かゆ)を作りたいと言上した。
臧洪は溜息をついて、「儂だけが、これを食べて何とする」と言い、
薄い粥を作らせ、みんなに分けて啜(すす)らせた。
これで城内には本当に、食べられる物は米の一粒も無くなった。
ーーそこで臧洪は・・・・
【自分ノ愛
妾ヲ殺シテ、将兵達
ニ食べサ
セタ。】
将兵達はみな涙を流して、顔を上げられる者は、誰一人として
居なかった。男女7、8千人が枕を並べて死亡したが、離反した
者は一人も居無かった。』
この【臧洪】と云う人物は、決して野蛮な異常者ではない。
いな寧ろ、義に厚く忠心烈々たる英傑であった。だから、正史の
筆使いには、彼に対する深い哀惜の念が察せられる。
* (詳しくは第4章・亡びゆく超人達にて)
そんな人物でさえ、いよいよと成ればこうなり、そして其れはーー
〔美談〕と成ってしまう。
慮るに・・・・ハイソサイテイ(名士・士太夫クラス)の女性達には、
なまなかに厳しい時代であった。 此の世の極楽に浸れる反面、
まっ先に地獄を体験するかも知れなかったのだ。
一方、我々が属する 一般庶民の母チャン達はと謂えば、
ここ迄シツコク規制されてはいなかった。と謂うより、一般庶民は、
礼儀作法の対象たる〔人士〕=〔人間〕とは見做されて居無かった
・・・のである。儀礼の原典である『礼記』の「曲礼(上)」には、
《礼ハ庶民ニ下サズ》との(有難い?)例外規定が、ちゃ〜んと
記されているのである。ちなみに、庶民とは、〔農・工・商と庶民〕
とされていた。即ち、総人口の98%は礼儀無用だったのである。
第一、母チャン達に、そんな戒律が在ったのでは、いろんな意味で
毎日を暮らしてゆけない。父チャンも困るし、そもそも生活にならない。
土台、〈奥〉などと云うものが無い。〔奥〕へ向かって10歩、いや
5・6歩も歩けばーー奥ではなく・・・・《裏》の、お他人様の家へ、
突き貫けてしまう。(自嘲気味な半笑い)
我々庶民は、いつの世に在ってもーー・・・飽くまで、
【一夫一婦制!】・・・・中国では 【匹夫匹婦制】 なのだ。
だから、 《どうしよう!?》 な〜んて余計な心配は一切要らない
のだ。知らんぷりしていて、全然ダイジョーブなのである。
・・・・さて、イイトコナシの女性像ばっかりだったが、ここらで一つ、
威勢の良い女性 も紹介して置こう。
彼女の名は【瓏娥親】、もしくは
【瓏娥】と言う。
名前は、〔女〕遍に〔我〕だから・・・・
「アタシャ女さ!女のドコがイケネエってんだい!」
・・・・の意も込められているものと察せられる。
後世に当て字されたかも知れ無い。 名前からして威勢が好い?
(※ 姓のホウ
は广に龍
が正字だが、都合により【瓏】の字を当てる)
キャッチコピーは、ちょっと恐い。
【女や言うち、ナメたらいけんゼ
ヨ!】
・・・・・・・筆者の女房、いえ奥方様
の
お国言葉だそうで御座居ます。
* * * * *
曹操の掾(副官)に【瓏育】と云う人物
が居る。出身は西の
奥地の奥地、涼州・酒泉郡である。なぜ、そんな僻地の男の
事が、曹操の耳にまで届いたかと言えば、中々に忠烈な者と
云う噂の所為であった。・・・上司の仇討を試みたり、主の身を
救う為に命を張ったりする。又、その主が死ぬと、その遺体を
本籍地まで送り届け、その墓の近くで3年間、きっちり喪に服
したのである。(最も重い3年間の喪を ”糸衰 麻” と謂う)
「フム、気に入った。召し出せ。」
そんな、彼の母親が、【瓏 娥親】である。
この母親にしてこの子在り・・・・とにかく凄まじい。
娥親の父親・趙安は、同県の権勢者【李寿】に殺害
された。(理由は不明だが、たぶん勢力争いであろう。 とかく
涼州の地は荒っぽい。)
残された趙家には、3男1女が在った。娥親は長女で弟が3人。
みな復讐に燃えるが、たまたま疫病の為、弟達は3人とも、無念
の裡に死んでしまった。 それを知った李寿は大喜びし、親族を
集めて慶賀の宴まで張った。
「趙氏の強壮な者は居無くなった。残りは、弱い女が居るだけだ。
何をもう心配する必要があろうぞ。」
防備を解いたが、その言葉を幼い「瓏育」が
市中で聞き付け、
母親の娥親に伝えた。其れを聞いた娥親は眦を決した。
「李寿、お前は喜ぶでないぞ!絶対にお前を生かしては置かぬ。
天を戴き地を履み、私の3人の弟は恥じていたのだ。どうして私が
刃を手に、お前を殺さないと思い込み、幸運だなどと考えるのだ!」
密かに名刀を買い、長刀を小脇に、短刀を手にして、昼も 夜も
悲しみ悼み、李寿を殺す事だけが希望となっていった。
李寿は元々凶暴な人柄で、娥親の言葉を知ると、牛車で出歩く
のをやめて馬を使い、腰には帯剣する様になった。 郷人は皆、
そんな彼を恐れ憚った。近所の除夫人などは、逆り討ちを心配
して諌める。だが、娥親は言い切った。
「父母の仇は、天地日月を共にしないものです。李寿が病死など
してしまったら、娥親は此の世で物を見、息をし、 生き長らえて
一体何を求めると言うのでしょう。いま3人の弟は早死にし、お家
は断絶しましたけれども、私が未だ居ります。どうして人様の手を
借りられましょう。 もし貴女の心で、私の力を推し測られるならば、
李寿を殺す事なんか不可能と言う事になりましょう。でも私の心を
中心に考えれば、李寿が私に殺される事はハッキリしている
のです!」
夜間しばしば刀を研ぎ澄まし、終ると己の、か細い腕を悔しがり、
歯ぎしりしては涙を流し、長嘆した。近所の者は皆、一緒になって
指をさし、そんな娥親を嘲笑った。
「あなた達は今、私を笑っていますが、それは唯、私が弱い女の
身で、李寿を殺す事など出来無いと考えているからに過ぎませぬ。
きっと李寿の首を、この刀の刃で血に汚し、
お前達にそれを見せてやります!」
かくて娥親は家の仕事を棄て、小さなカーテン付きの牛車に乗り、
剣を袖に隠しては、連日、仇と出会う為、市中へ出た。
ーー 時に光和2年(179年)2月も上旬の頃・・・・
白昼すみきった時間(ちゃんと年月日時まで記録されている)、
城内の都亭前に於いてーー
ついに李寿と遭遇した!
『娥親は直ぐさま車から下り、李寿の馬を引き止め、彼を怒鳴り
つけた。李寿は仰天し、馬の向きを変えて逃げようとした。
娥親は刀を振るって彼に斬り付け、同時にその馬を傷つけた。
馬は驚き騒ぎ、李寿は道端の溝の中に振り落とされた。此処ぞと
ばかり、娥親は地面に向かってきりつけた。 ーーが無念にも、
振るった刃は木蓮の木に突き刺さり、持っていた刀が折れた。
李寿は傷を受けたが、未だ死ななかった。そこで娥親はグイと
進み出て、李寿が下げている刀を奪い取って、それでトドメを
差そうとした。
李寿は男だ。刀を守り、眼を怒らせて大声で喚き、飛び跳ねて
立ち上がった。そこで娥親は身体ごと突っ掛かり、手を振り廻し、
左手で男の額を押さえつけ、右の素手で彼の咽を突き、何度も
繰り返したので手応えが有って、男は倒れた。
かくて彼の刀を抜き取り、李寿の頭を切り落とすと、それを持って
都亭に行き、役人に罪を届け出、静かに獄に向かって歩いて行った。
だが、言葉も顔付も、いつもと変わらなかった・・・・。』
なんか講談のようで、後味スッキリ! 溜飲の下がる話である。
正史・補注の『列女伝』に記されているが、男であるところの息子・
瓏育の2倍以上のスぺースを占めている。 下手な男の《伝》より
詳しい。 ーーその後の彼女・・・・
ゆっくりと県庁に赴き、顔色も変えずに言った。
「父の仇に報復いたしました。・・・死刑を受けたいと存じます。」
禄福県の県長・「尹嘉」は心打たれ、官印とその綬とを解き去って
辞意を示すと、娥親を釈放した。だが娥が去る事を承知しなかった
ので、結局むりやり車に載せて家に帰した。
折しも恩赦があって免除を受ける事が出来た。州や郡では挙って
感歎し、その事を石に彫りつけて碑を建て、彼女の閭の入口の門
に置いて顕彰したーー。』
メデタシ、メデタシ・・・のん、のん!
男どもを手下にした、【女盗賊】のボス
だって居た。
ちやんと正史に出ている。『正史・周宣伝』の中に・・・・
【女賊】として、【鄭】や【羌】が討ち平らげられたーーと云う
記述がある。最後は軍隊が出動してゆかなければならない程の
リッパな?大盗賊団の女親分・女首領であった。 こっちの方が
スケールがデカイ。但し残念ながら、何と言っても、相手は【賊】
であるからして、詳しく書き残す訳にはゆかない。だから、その
規模や人柄・風貌・エピソードなぞは伝わら無い。いずれにせよ、
極々一部ではあるが、中には 〔オッカナイお姐さん達〕 も、
居るには居たのである。
だから・・・「女や言うち、ナメたらいけんゼヨ!」
最後にもう一つ・・・《呉の国の女性達》
について。
(詳しくは第5章で述べるが、)
華中・華北の所謂・先進諸国とは、その扱われ方の質が、チト
違うのである。若く、新しい国だけに、男も女も、もっと もっと
溌剌としている。 『美女将軍』なんて言われる女性まで居る。
また特に、母親となった女性は、女神の如くに尊敬され、
大切に崇められている。ーーと云う訳で、苛酷なセクハラ時代
に生きて居る、大多数の女性達の艱難辛苦に、ちょっとだけ
明るい話題を提供しつつ、「三国志の女達」 についての、
此の節を閉じる事とする。
《女》の次は《男》であろう・・・と云う事で、次の節では、
男も男・・・・とびっきりの超一流・超弩級の、
ーー実は、「三国志の真の主役」であり、
すぐれて〔三国時代にだけ〕現れる、ひとつの〔時代を築いた〕、
〔三国志独特の〕、男群像について識ってゆこう。
さなきだに・・・・長く、永〜い『三国統一志』
である。やがて
ストーリーが生き生きと動き出す前に、その「序の序に過ぎない」
この第1章では、単にストーリーを追って焦る事無く、じっくりと、
その基礎的知識や時代背景を、きっちり蓄積して置こうではないか。
そこで是非、三国統一志の読者諸氏に、お願いして置きたい事は
・・・・第1部の最終章となる、第10章の《赤壁の戦い》に辿り着く
前に、筆者の仕掛けた 《辟易の戦い》 に破れ去られぬよう、
大河の流れの如く悠々
と、またユーラシアの大地の如くゆったりと
構えて、大らかに、じっくりと読み進んで行って戴きたいーーと云う
事である。 我々、島国の民には、なまなかに難しい事ではあろう
とは思うのだが、果てさて何うなされますやら・・・・・
【第8節】 時代の主役「名士」の実力 へ→