【第6節】
ーー出仕してから2か月後・・・・仲達の眼には、少年・曹丕の
暗渠がくっきりと観えて来た。今も、学びながら、健気に振舞い
続ける14歳ではあったが、時々ふと、何とも謂えぬ暗い眼付き
になる。《ーーやはり、翳りがあるな・・・・》
奥処に蟠る物怪と、必死に格闘しているのであろう。
「・・・・『尚書』の〈九徳〉とは?」 仲達が、質問の声を励まして尋く。
「ーー曰く、
かん りつ
寛にして栗(寛栗)・・・寛大にして厳格
じゅう りつ
柔にして立(柔立)・・・柔和にして仕事が出来る
げん きょう
愿にして恭(愿恭)・・・真面目にして慇懃(いんぎん)
らん けい
乱にして敬(乱敬)・・・政才あるにして謹厳
じょう き
擾にして毅(擾毅)・・・おとなしくして果断
ちょく おん
直にして温(直温)・・・真っ直ぐにして温だやか
かん れん
簡にして廉(簡廉)・・・大らかにして几帳面
ごう さい
剛にして塞(剛塞)・・・気が強くにして実直
きょう ぎ
彊にして義(彊義)・・・信念・気骨ありて道理に叶う」
曹丕が、倦む事なく答える。
《・・・・天才と謂えずとも、愚かでは無い。
鋭しと謂えずとも、賢しと言えよう。》
既に今年、元服(加冠)を済ませ、父と共に幾度となく出陣して
いる。その砌、幕僚達の制止を振り切って陣頭に出て、実戦に
及んでいる。然も、部下の手を借りたとは言え、敵将の首級を
挙げる壮挙であった。
ーー父の眼の前で、己を示したい・・・・!
その衝動が、無謀とも謂える、この挙動を取らせた真相であろう。
《この少年自身にも解っているのだ・・・・》
巨大な父の存在・・・・長男である己・
・・普通なら、その関係は
親愛に満ち、全家臣からも祝がれ、敬われる存在である。だが、
現実は違っている。
『ーー曹彰はいいな・・・・』と、漏らした事がある。3歳下の弟は、
武辺一点張りでケロリとしている。自分から『俺は頭が良くないさ』
と公言して憚らない。自他共に、端っから野生児で平気である。
《気楽でいいなあ〜、それに引き換え此の俺は》と云う訳であった。
父・曹操には20人もの男児がいる。 これからも増え続ける
可能性は、充分過ぎる程に有る。一人・二人減った処で、どうと
云う事は無い・・・と、憶われるフシさえ有る。
曹丕の上の嫡男【曹昂】は、捨て殺しにさえされているのだ・・・・
とは言え、《身内が一番》である。今、父の陣営を見渡せば、主
たる将軍は悉く曹一門でしかない。 と謂うより、一族で固める
必要がある。離合背信あいつぐ此の乱世の事、《血》は、何よりの
保険であった。
ーー父の実家の【夏侯一族】・・・・族長の【夏侯
惇】・【夏侯淵】・
【夏侯覇】。そして従弟の【曹仁】・【曹純】兄弟と【曹洪】。族子の
【曹真】等である。ーー少ない。版図・戦域が拡大すれば、とても
足りる数ではない。だから・・・・今、父にとって何より欲しいのは、
信頼できる武将達である事も解る。 《官渡の大勝利》の要因は、
敵将の相次ぐ寝返りにあった。だが・・・・「逆もまた真」である。
《一体、父上は、この自分を何と看ておられるのか?
この俺の存在を、どの様に評価しておられるだ!?》
「ーーハア〜・・・」 と、曹丕が吐息を突いた。
「本日は、此処迄と致しましょう。」
言われた曹丕は、ホ〜っと手足を伸ばした。そして席を立つと、
傍らのゲーム盤の所へ行って、独り遊びを始めるのだった。
《棊》と云う、チェス的おはじき遊戯であ
る。囲碁と並んで、当時の
室内ゲームの主流であった。駒の代りにオハジキを使い、メンコや
ビー玉の様に、敵を弾き飛ばしながらコマを進める。頭も使うし、手
先の器用さが必要とされるから、結構ムズイ。相手が居無い時には
独り検討も出来る。
曹丕は懐から手拭きを取り出すと、その角を使って、ピシッ、ピシッ
と、棊を弾き始めた。相当うま
い。そして、その手筋をメモっては
『弾棊賦』を作り溜めてゆく。いずれ一流の打ち手と成る。・・・だが
そんな独り遊びに熱中している曹丕の背中には今、何とも言えぬ
孤独の影が滲み出ていた・・・・。
「若君、本日の勉強は此処までと致しましょう。学問ばかりでは、
体が鈍(なま)りまする。チト表で汗を流しましょう。」
仲達は身振りで、剣を引き抜き身構える格好をして見せた。
「思いっ切り、打ち込んで参られよ。」
「・・・思いっ切り、打ち込んで良いのだな?」
「宜しゅう御座居ます。」
「よ〜し、では、今日は真剣で参るが、それで良いか?」
心の中に鬱屈している”何か”を吐き出す様な、曹丕の語気であった。
「お望みと有らば、如何様にも・・・・。」
「分かった。未だ未だ全てに於いて未熟なる私だが、剣術だけには
些か自信が有る。本気で参るぞ!」 「参られよ。」
曹丕自身の著作である『典論』・「自叙」には、若き日々の
彼の思い出が記されているが、その中に〔剣術への姿勢〕も詳しく
出ている。一種、自慢話しであるから、多少割り引いて読む必要は
あろうが、曹丕が”一流の剣の使い手”で在った事が知れる貴重な
史料ではある。 又、同時に、当時の〔剣客〕の様子が窺い知れる
面白い史料でもあるので、全文を紹介して措く。
『余(曹丕)は剣術も学び、多くの師匠を遍歴したが、四方(全国各地)
の剣法は夫れ夫れ異なっていた。その中で唯一、都の流派だけが
秀逸であった。桓帝・霊帝の頃には、虎賁(近衛)の【王越】が剣術に
長じており、都に於いて有名であった。その王越は没したが、弟子
の【史阿】は彼の剣法を会得・伝授されたと称していたので、余は
史阿に就いて学び、其の流儀に精通した。
又、余は、かつて、平虜将軍の劉勲、奮威将軍のケ展らと一緒に
飲んだ事があった。 【ケ展】は以前から手練の持主で、5つの武器
(戈・殳・戟・酋矛・夷矛) に精通していたと聞いており、また彼は
武器を持たずに白刃の中に入る事が出来る・・・と称されていた。
余は彼とかなり長く”剣”について論じ合った。其の折、余は言った。
『将軍(ケ展)の法は間違っている。余は以前から剣術を愛好して
居るが、お主に劣らぬ優れた術を会得している!』 と。
するとケ展は、『此の機会に是非とも余と手合わせしたい!』 と
要求して来た。折りしも、酒は充分に廻り、耳は熱くなり、互いに、
酔い覚ましの砂糖キビを喰って居る処だった。 そこで早速、その
砂糖キビを棒(竹刀)代わりに、殿を降りて試合となった。 が、数合
交えた後、余は続け様に3度とも彼の臂に打ち当てた。左右に居た
者達は大笑いしたが、ケ展は心穏やかならず、もう1度やる事を求
めた。その時、余はまた言った。
『儂の剣法は動きの速いものだから、面には当たりにくく、だから
全部コテ(臂)となったのだ。』 と。 其れを聞いたケ展は、更に
『もう1度手合わせを願いたい!』 と言った。
余は彼が”突き”を入れて勝を収める心算だなと予知した。そこで、
深く進み出ると見せかけると、果たしてケ展は応じて進んで来た。
余は素早く却きつつ、その額を切った。 座中の者達は驚き、目を
見張った。余は座に戻ると、笑いながら言った。
『昔、名医の陽慶は、淳于意に、彼の元の医術を放棄させ、その後
改めて秘術を授けたとか。 今、余も亦、ケ展将軍が元の技法を
棄て去り、改めて立派な教えを受ける事を願うものだ。』
かくて、一座の者達は歓を尽くしたのである。
そもそも物事は、自分から優れていると思い込んではならない。
然し今でこそ、そう言えるのだが、実は余は若年の頃、武器を両手
で扱う事に精通しており、天狗になって居た。ちなみに、俗称では、
両手に戟を持つのを”坐鉄室”=鉄の部屋に坐す・・・と謂い、双手
に楯を持つのを”蔽木戸”=木の戸を蔽う・・・と謂ったのだが、自分
では敵対者無し!と思い込んだものだ。 然し、そんな折、陳国の
【袁敏】に就いて学んだ時、彼の、1つの武器で両手の武器を攻撃
する方法は、いつも神の如き技であり、相手は対抗策が見当たら
無かった。それを目の当りにした余の鼻っ柱は、見事にへし折られた
訳なのであった。』
この【曹丕】ーー後世に於いては、文学面にのみ評価が傾いて
いるキライが有る(無論、偉大な功績ではある)のだが・・・・・実は、
剣法に限らず、弓馬全般に於いても、なかなかの武人でも在った
のだ。同じく『典論・自叙』には、こう有る。
(※註 そもそも『典論』は、曹丕の文学論的著作である。「自叙」は謂わばオマケである。)
『余は当時5歳であったが、お上(曹操)は世の中が動乱の
只中に在る事から、余に射術を学ばせ、6歳で射術を弁えた。又、
余に騎馬を教えて呉れ、8歳で騎乗して弓射できる様になった。
多事な時代であった為、遠征のたびに、余は何時も御供をした。
建安の初め(197年)、お上は南方・荊州の征討に「宛」まで行かれ、
【張繍】は降伏したが10日して反乱し、亡兄の孝廉・子修(曹昂)と
従弟の安民が殺された。 その時、余は10歳でしか無かったが、
幼い時からの修練のお陰で、馬に乗って危地を脱出する事が
出来たのである。』
『余は中平の末(187年)に生れ、遠征の中に成長した。その為に
若年より弓馬を愛好し、今になっても衰えない。 鳥獣を追えば
何時も10里を走り、走りつつ百歩の距離から常に射る。 日時を
重ねても身体は健康で、全く嫌気は起こらぬ。
建安10年(205年=本書の進行より先走るが、この際、紹介してしまう)初めて
冀州を平定した時、シ歳・貊(満州に居た蛮族)は良弓を、燕・代は
名馬を献上して来た。 その時は晩春に当たり、勾芒(春の神)が
季節を司り、和やかな風が万物に吹き渡り、弓は乾燥し、手は
柔らかく、草は萌え出たばかりで獣は肥えていた。 余は族兄の
子丹(曹真)と業卩の西で狩猟したが、1日かかって手ずから鹿章・
鹿を9頭、雉と兎を30羽捕獲した。
のちに軍が南方に遠征し「曲蠡」に宿営した時、尚書令の荀ケが
献帝の使者として軍を労ったが、余と会って談論した末に、訊ねた
ものだ。「聞けば若君には左右いずれでも弓を射られるとか。之は
実際むずかしい技術ですなあ!」 余は答えて言った。
「執事には項や口の辺りから放ち、馬蹄(標的の1種)を俯して見、
月支(標的の1種)を仰ぎ見る・・・・そんな様子を見た事が御ありに
ならぬかな?」 荀ケは喜びに笑いながら 「成る程!」 と言った。
余は更に言った。
「埒(馬場の囲い)には一定の通路があり、標的も一定の場所に置か
れている。だから発射する度に命中したとしても、至妙の事とは
言えぬ。もし平原を馳駆し、茂る草の中へ向い、狡猾な獣を狙い、
軽やかな鳥を遮り、弓を空しく引き絞る事無く、命中したものは
必ず貫通するとならば、それこそ素晴しい事だ。」
その座には、軍酒祭の張京も居たが、荀ケの方を見て手を打って、
「如何にも、御尤も!」 と、言った。』
・・・・と、以上、【曹丕】は中々の武人でも在った・・・・事がお判り
戴けたと思う。
「−−さあ、打ち込んで参られよ・・・・。」
互いに抜き身の正眼である。
「−−・・・・。」
あらぬ怒気が含まれている分、曹丕の手元に冷静さが無い。
だから逆に、剣先にはオズオズとした躊躇がこびり付いていた。
仲達がズイと一歩踏み込むと、気圧された曹丕が、
思わず二歩退がった。
「何うされました。思い切って来られるのでは無かったの
ですかナ?」
言われた曹丕。萎縮して居る自分の不甲斐無さに、憤然と力み
返ると、大上段に振り被る。そして・・・其れを振り払う様にして、
猛然と打ち込んで来た。−−仲達、余裕で其れを受け止めるや、
一瞬、相手の全力を透かして措いてから、鎬を滑らせ、剣を
思い切り跳ね上げる。 と、曹丕の剣は、絡め取られた如くに
宙空に飛んでしまった。
「−−アッ・・・!!」 茫然とする曹丕。
「剣技に限らず・・・今の若君は・・・雑念と鬱屈の所為で、
御自分の本当の力を出し切れずに御居でなのです。」
「−−・・・・。」
「若君、この仲達に思う処あり。直ぐ様、外出致しましょうぞ!」
此れ迄、仲達は態と【その事】については、素知らぬ振りをして来た。
《ーー頃合いであろう・・・・》
その3刻後・・・・二人の姿は亦、あの丘の上に在った。
眼下は、白皚皚たる雪景色となっている。
「ーー若君、全てを語られよ。」
下馬し、佇立する二人のマントが寒風を孕んだ。
「若君の心の裡に在る憂さを、全てこの仲達めにぶつけられよ。」
曹丕は前を凝視した儘、口元をギュッと締めている。
「ーーこの2か月余の間、仲達はじっと若君の苦悩を、眼の当たり
にして来ました・・・。 解っておりますとも・・・ だから、安心して
話されよ。心が晴れましょうぞ。」
曹丕の視線が、下に落ちた。
「此処には、曹丕と仲達のほか、誰も居りません。此の景色の如く、
心を真っ白にして、御自分の本心をお聴かせあれ。」
少年の両の拳が、きつく握り締められた。
「ーー予には、曹植ほどの文才は無い・・・」
己の苦衷を、少年はそう表した。
「曹沖は、幼くして神童と謂われている・・・それに対して此の自分
には、曹彰ほどの武威も無い・・・予には、他者に秀でた才が、
何も無いではないか・・・。」
目許に涙が溢れそうになっている。
「ーー父上は・・・父上は予を・・・好いては居られんじゃ・・・!」
とうとう、涙が粒に成った。
「ーー予が長男で在る事を、疎ましく思って居られるのじゃ!」
《やっと心を開いて呉れたか・・・》
「・・・若君、では若君は、父上がお嫌いですか?」
「ちがう!違うぞ!予は父上が
大好きじゃ!」
今は時々しか会えぬが、幼い日々・・・・その膝に抱いて、乗馬を
教えて呉れた父が好きである。
おでこに当たる、父の髭の感触が蘇えった。
「ーー尊敬もしている!」 偉大な父に従い、父と轡を並べて
死命を共にした事には、純粋な感動を覚える。
「それを、何故わかって下さらんのか!」
大粒の涙が、ポロポロ出て来る。
「ーーそれは・・・若君の『心の小ささ』・・・と云うものですな。」
「ーー? 予の心が、小さいと申
すのか!」
初めて、仲達に反発する眼付きを見せた。
「よ〜く考えてみなされ。父上は、何時も何時も、冷たいでしょうか?」
「そうじゃ、何時もじゃ!」 かなり感情が昂っている。
「では父上は、何時も何時も、若君を、憎んでおられますか?」
「そうじゃ!」
「では、その通り、此処で十回言って御覧なされよ。」
流石に曹丕は躊躇っている。
「ーー言いなされ!」
ドキッとする様な、厳しく、大きな声音であった。
・・・1回、2回・・・・ 「もっと大きな声で!」
・・・3回、4回、5回・・・・ 「ーーどうです?」
「・・・よい、もうよい。わかった。」 「何がわかりました?」
「ーー父上は、予を憎んだりしては居られぬ・・・」
「その通り!」 少年の昂りは、少し収まって来た様である。
「もう一つ、お尋ね致します。・・・若君、あなたは、この仲達と云う
人物を、どの程度の者と評価されておられますか?」
曹丕には、質問の意図する処が、よく呑み込めない。
「何を急に今更・・・それはもう、この世では二人と得難いお方だと。
周の太公望・呂尚にも比肩される方と。」
「それでは若君には、ここで今、曹操孟徳に成ってみて戴きましょう。」
「ーー??」「この司馬懿仲達を、一体どの息子に付けられますか?
何故に、曹丕子桓に付けられますか?」
「ーーそうか!そうであるな!」曹丕は、その問いの意味を解した
のである。眼にサッと、明るさが差し込んだ。
「曹操孟徳と云うお人は・・・全てを見通うし、物事を遺漏無く図ら
れる御仁です。お家の行く末を考えぬ道理は御座居ません。」
仲達は、正面から曹丕の両肩に手を置いて、その瞳の真ん中を
見詰めて言う。
「ーーズバリ申しましょう。曹操様の跡継ぎは曹丕!
若君を置いて、他には御座らぬ!」 確乎とした物言いであった。
「では、では何故?」 ・・・俺を跡継ぎとして指名しないのだ!?
この事が全てである。父親・曹操の、其の不明瞭さが、この少年を
苦しめ続けて来ているのだった。
元服した長男・・・その者は正式に、一族の跡継ぎとして、世間に
公表されるのが通常である。 なのに、曹一族には未まだ、何の
発表も無い。だから家臣達も、曹操の「子」として以上の敬意は、
この曹丕に示そうとはしない。ばかりか、他の弟達に期待している
者すら居るのが、実情であった。14歳とも成れば、そんな人間達の
心も観えて来る。堪え難い屈辱感と疎外感・・・そして孤独・・・だが、
自分では、どうする事も出来無い。辛く重苦しい圧迫感が四六時中
のストレスと成って、この少年の心身を蝕んで来ていた。
「ーー今は只、ひたすら時節をお待ちなされ。」
「・・・何時まで、待つ?」 又、雪が降り始めて来た。
「いずれ、若君が立太子される日まで・・・・」
「ーー何?」・・・・これは【重大事】である!
「いま、いま仲達どのは、《立太子》と申したか?」
「いかにも、申し上げました。」
それには先ず、その父親である曹操自身がーー
【皇帝!】に成らねばならない。
漢王室を滅ぼし、魏の【新王朝】を建てると
謂う事ではないか・・!
「まさか・・・」曹丕は、流石に半信半疑で、なかば苦笑しかけた。
が、仲達の真剣な眼差に触れた瞬間ーー《もしや!》とも直感し
た。
「それ位の時間、この仲達と共に、待つ覚悟が必要だと
申し上げているのです。」
曹丕には、二の句が継げ無い。
「ーー夢の様な話じゃな・・・」 「卑屈になってはなりませぬ。」
雪で真っ白になった髪が、恰も仲達を、老成した賢者の如くに、
一段と風格ある者にしている。
「だが・・・だが、この曹丕子桓は未だ、いま何をしたら善いのか
・・・それすらも解っておらん。卑下では無い。 曹沖の天才ぶり、
曹植の文才、いずれも予を、遥かに超えるのは事実であろう。」
又、哀しくなって来た。
「仲達どの、予には父上が認めて下さる様な、取り柄が有ろうか?
予は、予は一体どうしたらいい!」 悲痛な叫びであった。
「文才など、この乱世に何の益が有りましょうぞ!詩歌で天下を
取った者など在りませぬ。仲達が見まする処・・・・父上が詩賦を
愛でられるのは、ひとつの政略・人生の味付に過ぎませぬ。
根源的な処では、飽くまで、覇業に勤しんで居られるではありま
せぬか。大樹で申さば、詩など葉の一枚の如きものです。」
・・・・暗に【曹植】のことを指す。
「また、武辺一途の猪武者では、師団を率いる事は出来ても、
一族家臣を従わせ、国を統べる器には不足で御座居ましょう。」
・・・それが【曹彰】である事は、言わずも哉
であった。
「また、幼くして、余りにも全ての才を具える者は、得てして、その
天寿短きと申します。」 そう謂われて観れば、【曹沖】の肌は、
異様に透けていて、人間離れしている。
「いずれにせよ今は、ひとの事など気に掛けず、先ずは己自身を
磨くことです・・・!」
いつしか仲達は少年を胸に抱え、曹丕も亦、彼に縋っている。
「王たらんとする者、一つの才より、人としてのバランスこそが最も
重要なのです。自分に才無くば、人を重んじて使えば足りまする。」
宜しいですか、と念を押す様に、仲達は曹丕を見詰めながら続けた。
「父上に対しては情。飽くまで寡黙を以って、今の如き涙で接しなされ。」
「・・・父には・・・」
「真心を飾らず、涙を流すのみの愚直さで接しなされ。美辞麗句の
詩の一篇など、真実の涙の前には、ただの紙切れと成りましょう。」
「それなら出来る!」
「また奥向きに対しては、服装と礼儀に気を配り、贈り物を絶やし
てはなりませぬ。」
「うん、分かった!」
「更に臣下の者達に対しては、常に正面に相対して話されませ。
臣で有る事を当たり前と思わず、主で有る事を当然とせず、いつも
犒いの言葉を忘れませぬ様に。・・・そして重要な事はーー
必要以外は、決して宮廷には出入りし無い事ですな!」
「帝に会ってはいかんのか?」
「父上の、本当の心を察して動くべきです。」
「・・・そう、気をつけよう。」
「そして、ほんの時々、衆目をアッと謂わせる事をなされば宜しい!」
「何をする?」
「それは、その都度、この仲達が御教唆致します。この仲達を信じて
居て下されば、全てうまく参るでしょう。・・・いざとなれば此の仲達、
刃を振るってでも、若君をお守り致します故、御安心召されよ。」
よ〜く考えれば、かなり物騒な物言いだが、
曹丕には有り難い気持ちだ。
「此処まで申しました上は、敢えて今、更に申し上げましょう。
・・・曹丕様、あなた様に、取り分けての秀でた点が無い処こそ・・・
実は逆に、あなた様の最大の武器なので御座居ます!
いえ、
武器とするべく身を修めるのです。」
ーー若者が、明確な生き方に辿り着いたとき、どれ程の風格が、
その身に備わるものなので在ろうか?
此の頃から、曹丕子桓の言動が、グッと落ち着きを増した・・・
と、謂われる。
ーーそんな折・・・・我が子の指南役と成った仲達に対して、
その母親である【卞夫人】が、挨拶に訪れた。
無論、曹操孟徳の正妻・第一夫人である!
この時代・・・・女性が【奥】を離れて、
態々ひと前に顔を出すなど、
凡そ有り得ぬ。異例中の異例であった。だから、この訪問は予め
曹操の許しを得た上での事となる。
ーーと言う事は・・・・仲達は、曹一門の身内びとであると看做された
という、正式な通知だとも謂えるのだった。
平伏する仲達ーー貴人(上司)の夫人の尊顔など、許しも無く直に
見たら、もうそれだけで即刻クビが飛ぶ。
「許します。どうぞ、顔をお上げ下さい。」
「ハハッ!」 と言って、首だけをやや上げる。
だが、未だ見てはならない。
「苦しゅう在りませぬ。もそっと、近こうへ・・・。」
「有り難き幸せに御座居まする!」
これでやっと、顔と顔とが、初めて合った。
《ーーおお!!》 ・・・・馥よかで温か味の有る、見るからに
慈愛に満ちた、芯のしっかりした人柄が察せられた。
「我が子・丕が、お世話になります。 ふつつかな養育をして参り
ましたから、さぞ先生には、驚かれた事で御座居ましょうね。」
「いえ、滅相も御座居ませぬ。中々にしっかりとして、素直で、
見込みの有る若君だと心得まする。」
「あの通りの利かん坊です。きっと此の先々も、色々と御面倒を
お掛けするとは想いますが、根は優しい処の有る子です。」
《なるほど、この人の子で有ったか・・・》
「また、丕には直ぐ弟達が出来た為、どうしても弟達に目が行って
しまいました。ですから、寂しがり屋の面も有ります。どうぞ何卒、
宜しくお導き下さい。そして又、先生の御訓育宜しきを得て、あの
子が成長しました暁には、良き兄・善き友としても、ご交情下さい
ます様、この母からもお願い致して置きます・・・。」
【卞夫人】・・・・今から22年前の179年、
曹操25歳の時、20歳の彼女は、側室(妾)として家に入れられ
ている。当時としては相当のウバ桜、名は【厚】と言ったらしい。
元は、《歌妓》であったと記されている。
この時期の曹操・・・・都での役人生活を辞め、郷里の 『ショウ』
(言べんに焦)でブラブラしていた。 既にこの時、曹操は、地元
有力豪族の娘で有る【丁夫
人】と【劉夫人】を、正式に娶っていた。
であるから曹操は、ウバ桜だが、しっかり者で心映えの好い彼女を
気の置ける、半ば身の廻りの世話係兼用の 〈癒し女〉として囲い
込んだ。肩の張らない気楽な雰囲気の相手として又、男の我が儘
をハイハイと軽く受け流しては、好い気分にさせて呉れる、気心の
知れた存在として、彼の側に置いた と云う処だったろう。
ーーやがて、丁夫人が離縁され、劉夫人は2男1女を産んで早逝
した為、今から5年前の建安初年(196年)卞厚は正妻に昇格した。
他にも妻妾達は大勢居り、異郷の出身で、然も商家の出である。
【二重の意味のよそ者】の
彼女が、敢えて正妻に迎えられたと謂う
事は・・・・よほど彼女の人柄が善く、また奥向きの切り盛りをテキ
パキこなす才覚や、一門の大所帯を纏め上げる 《風格有り!》と
曹操に認められていたと云う事だろう。その1例を示すエピソード・・・
董卓が動乱を起こした際、彼女も洛陽に供していたが、
『曹操は董卓に捕まって、殺されたらしい!』 と云う報せが袁術
から届けられた。その為、曹操の側近達は大恐慌を来し、みな国・
郷里へ帰ろうとした。が、卞厚は、これを引き留めて言う。
「曹君の吉凶は、未だ判りません。 今日国へ帰って、明日もし
生きておいでになったら、合わせる顔が無いではありませんか!
万一、本当に災禍が起こったなら、一緒に死ぬのに、何の差し
障りが有りましょうや!」
それで一同は、何とか踏み留まった。・・・曹操はそれを聞いて、
彼女の凛然たる心映えを愛でたという。
ーー処で、仲達にとって意外だったのは、訪ねて来た卞夫人の
身なりの質素さだった。 今を時めく大曹操のファーストレデイ
なのだから、さぞや煌びやかにめかし込んで居るものと思いきや
寧ろ仲達の母親以下と言える様な感じであった。
実は・・・・是れには曹操の意志が反映していたのである。
世間一般の想像に反して、”曹操の大奥に対する態度”は・・・・
実に素っ気ないものだったのである。
『雅性 節倹ニシテ華麗ヲ好マズ、後宮ノ衣ハ錦繍セ
ズ侍御ノ履ハ
二采セズ、帷帳 屏風ハ壊ルレバ補納シ、茵蓐ハ温ヲ取リ、縁飾
アルコト無シ。』 ーー『正史』ーー
生涯馬上に在った曹操にとっては、後宮や身の
廻りを飾り立てる
事なぞには殆んど関心が無く、『寝床は温かければ其れで好い』
とし、寝具に余計な縁飾りなど着けさせ無かった。とかく我々は、
〔後宮〕と言うと直ぐ”ハーレム”を想像しがちだが、天下を狙って
全国を駆け巡る様な男には、其れで充分であったのだ・・・・。
ーーさて、その【卞厚夫人】・・・・・
夫・曹操とは生涯、阿吽の呼吸・ツウーと言えばカーの関係で
在り続ける。覇業の陰に此の妻在り、である。
倹約を旨とし、生活が華美に流れる事を、常に自他に戒め続けて
来ている。国費の不足を念頭に置き、金銀製の道具類を全て売り
払い、器類も全部、黒い漆塗りだけを用いさせる徹底ぶりである。
家具や調度品も質素を心掛け、個人生活でも、衣服は刺繍の有る
物は纏まとわず、宝石・珠玉の類を集める様な事<もしていない・・・
日頃の夫の苦労を識る、創業者の妻たらんとする気概が感じられる
暮し振りである。唯、耳飾りだけは、女性の嗜みとして着けていた。
夫の曹操は、そんな妻を喜ばせようと、時折、入手した何組かの
耳飾りを広げては、先ず最初に彼女に気に入った一組を選ばせる
事にしていた。
その時、卞夫人はいつも、中級の品を選
んだ。
「おや、なぜ厚(卞夫人)は、いつも最上級を選ば無いんだい?」
初めは遠慮かと思ったが、毎回必ず、中級品を選び取るので、
曹操が訳を尋ねた。
「上等の品物を選ぶと欲が深いと取られますし、下級の品物だと
如何にも見せ掛けと取られます故、中級の品を選ぶのですわ。」
ーー其の上なる者を取らば貪と為さん、其の下なる者を取らば
偽と為さん、故に其の中なるを取れりーー
後々になっても、彼女の、この姿勢は、崩れる事が無かった。又、
里方の親戚の者達に対しても、その方針の徹底を求め続けた。
「住まいでは倹約に努めなさい。お上からの下され物を当てに
して羽目を外してはなりません。 私のやり方が非常に薄情だと
訝しむでしょうが、私には、常に変わらぬ原則が有るからなのです。
私はずーっと曹操様にお仕えして来て、永いこと倹約を実行して
来ました。ですから自分から豹変して、贅沢をする事は出来ません。
身内で禁令を犯す者が居たら、私は先ず其の罪を”一等重くする”
事が出来るだけです。金銭や米や恩恵を当てにしてはなりません。
呉々も勤勉に働き、 身内だからこそ一層、人々のお手本になって
下さいね。」
歌妓出身と言っても、実家が苦しくて『苦界』に沈んで居た訳では
無い。お嬢様の手すさびとして、社交界の花添え役を買って出て、
礼儀作法の一つも身に付けて置こうとしたものであった。
実家は裕福な豪商(総合商社)である。 カネにまつわる苦汁を
知らないだけに、却って財宝集めへの執着が無い。 だが一面、
新興財閥だけに、父親(遠)の商人としての、地位の低いシビアな
苦労も身近に識っている。
だから単なる、お嬢様の倹約ごっこでは無い。実質が伴っている。
弟の【秉】が、恩賞を賜った折、一族の祝いを主催したメ二ューが
残っている。
† 粟の御
飯
† 野菜のおか
ず
† お
酒
戒めの意味が有るにせよ、なまなかの事では無い。
ーー未だ、【丁夫人】が正妻であった
頃・・・・・嫡男・曹昂を擁して
いる重みもあって、丁夫人は歌妓出身の彼女をまともに相手に
しない事が縷々あった。・・・・然し、やがて離縁され(詳しい事情は
第8章・女だけの
城) 立場は逆転した。
《これ迄の仕打を恨んで、陰険な復讐をしてヤル!》・・・・とさえ、
思いつかないのが卞厚の人柄である。それ処か正妻と成った後も
夫の留守を見計らい、四季折々に人を遣っては贈り物を届けさせ、
こっそり丁夫人を招待したりもしている。然も、常に丁夫人を上座に
着かせ、自分は下座に座り、送り迎えも昔の儘に振舞っている。
ーー夫・曹操に取っては、本貫地の大有力豪族である【丁氏】との
関係は、今後とも是非、保ち続
けなければならなかった・・・・・
そうした事情を理解し、彼女なりの方法で協力した。とは謂え演技
だけでは、中々出来る芸当では無い。卞夫人の人柄、もって生まれ
た天性の器から自然に滲み出た行いであろう。だから少しも恩着せ
がましい処が無く、最初は薄気味の悪かった丁夫人も、その後何度
となく、招きに応じており、その感謝の念は死ぬまで続いた。死んだ
後も、卞夫人は、夫に頼み込み、ちゃんとした葬儀と埋葬をしてやっ
ている。
又、軍の遠征に供する折には、老年で白髪の兵士を見かけると、
その都度、車を止めては声を掛け、絹織物を下賜した。単なるケチ
では無く、落とし処は、ちゃんと心得ている。
「貴方の御両親が、今まで生きていて呉れなかった事が残念だわ」
と、涙が出て来る。これもパフォーマンスと云うより、卞夫人の心根
の在り様を示す、自然の姿と取りたい。
「曹丕」・「曹彰」・「曹植」の三人の母でも在る卞夫人だがーー
彼女の優しい心根を、一番強く受け継いでいるのは、末っ子の
【曹植】であった。 (※読みは「そうち」、「そうしょく」 とも可) ・・・・「植」は、
軍で武将として振舞うより、どちらかと言えば《詩人》が似合う様な
感性豊かな子である。末っ子の甘えん坊で育っただけに、敢えて
言えば、一番可愛いかったし、気掛かりな子ではあった。
長男の【曹丕】は、夫そっくりの面が多い。・・・【曹彰】は鬼っ子で
豪放一途である。だが、一人の子だけを偏愛するような、愚かしい
母性では無く、3人ともに等しく愛うしんでいる。
一方また、政治の何たるかも正面から受け止め、夫・曹操の公的
活動に口を挟む様な事は、厳に慎んでいる。
【後継者問題】についても、夫への働き掛けは未だ一切していない。
・・・・正妻としての 《風格》 すら身に着けつつある・・・・
ちなみに【卞厚夫人】は、我が子達よりも長生きし、皇太后・
太皇太后となり、孫の代の71歳
で亡くなり、死後は【卞皇后】と
追尊されることとなる。
・・・・曹操一族の奥向きは、実に彼女が、50年の長きに渡って、
その一切を取り仕切ってゆく事となる・・・・
卞夫人も登場して来た事だし、次の節で
は、
この時代の「女性たち」の実態を縷々
レポートして
ゆく事にする。 ちょっと面白い。
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