神童現わる
               ビリケン

ーー世紀の対面から数分後・・・・独りになった仲達は思う。
『曹操やや押し気味なれど、仲達よくそれをしのぐ』・・・とでも評され
ようか? まさか一気に長男の教育を任されるとは己の予期せぬ
展開ではあった。流石に、韜晦とうかいの達人・人誑ひとたらしの名人である。
然し一方、仲達も仲達で、ただ驚き入っている訳では無かった。
ちゃんと、曹操の思惑おもわくには裏が有る、と云う事に気づいていた
のである。《曹操のオヤジ、俺の人物を、半ば警戒したな・・・・》
と、見切っていた。今、冷静になって考えれば、補任に際し
曹 丕そうひと言い、曹沖そうちゅうとは言わなかったではないか・・・・
そこに曹操の仲達に対する、半信のあとの半疑が存在していた。
ーーなぜか・・・・??
その辺の事情を探る為に、インターネットで、曹操の
子供達(男児だけが【子】であり、女児は子とは看做みなされなかった)
にアクセスしてみよう。
ーーーゲッ、何じゃこれは! すっげえ〜
ええと・・・・一人、二人、三人、四人、五人・・・10人・・・20人・・・
・・・・な、なんと25人も居る〜〜!
メゲそうなので、取り敢えず二、三人みてみよう。
ええと・・・矢張り、正妻【卞氏べんし】の子は見逃 せない。4人か。
一番目が【
曹 丕そうひ】ーーあざな子桓しかん・・・・いま14歳
正史『三国志』の著者・《陳寿ちんじゅ》大先生の評 によれば、
曹丕は文学的資質を具え、筆を下せば文章 になった。広い
知識を持ち記憶力にすぐれ多方面に渉る才能を有していた。
もしこの上に、広大な度量が加わり、公平な誠意を以て勤め、
道義の存立に努力を傾け、徳心を充実させる事が出来た
ならば、古代の賢君も、どうして縁遠い存在であったろうか。

・・・・とある。読み方に依っては、後半部分はかなり辛辣しんらつであり、
反語的だが・・・・まあまあである。
又、百年後に、歴史評論家の《裴松之はいしょうし》先生が、正史に補注を
加える為に集めた風聞集によれば・・・・
曹丕は5才から父・曹操に射術を学 ばせられ、6歳で射術をわきま
た。又、父に手ずから騎馬を教えて貰い、8歳で騎射が出来る様に
迄なった。此の頃より、常に父と供に行軍させられ、実戦を積んだ。
10歳の時には、異腹の長兄【曹昂】等が戦死する激戦の中、父と
共に各々が馬に乗って、命からがら死地を脱出する様な体験まで
している。騎射が得意で、剣術を好み、多くの師匠を遍歴した。又、
軍中に在っても常に手から書物を離さぬ父の薫陶を受け、若い時
より書物を歴観し、八歳で既によく文書をかく。
』・・・・云々とある。
2番目は【
曹 彰そうひょう】ーー字は・・・・子 文しぶん11 歳
・・・・同じく『正史』によれば・・・・
曹彰は若い頃から弓射と駆車が上手で 筋力は人並以上、自ら
猛獣と格闘し、嶮岨な所も平気であった。たびたび征伐の供をし
激しい気性を示した。或る時、父・曹操は、彼の気性を抑える為に
言った。
「お前は、書物を読んで聖人の道を慕う事を考えず、汗した馬に
乗り、剣術ばかり好んでいるが、それは匹夫の働きであって、
人の上に立つ者としては、どれほど尊重する程の事があろうぞ。」
そして武芸一辺倒の曹彰に、『詩経』と『尚書』の読書を課した。
「男子たる者、10万の騎兵を率つれ、戦場を馳せ巡り、功績を
 揚げ、称号を打ち立てるべきじゃ!なんで博士なんぞに成れ
ようか!」・・・とうそぶいた。又、幼い頃、子供達に好きな事をたずねた
父に対し曹彰は即答した。
「将に成る事です!」  「ほう。で、どうする?」
よろいを着、武器を手に、危険を前にひるまず、士卒の先頭をきります
る!」 と、幼い目を輝かせたと謂う。 同じ母親から産まれたのに、
他の子達とは異なり、専ら戦場に出る為にこそ生まれた様な【武】
の者であるらしい・・・曹操は、そんな鬼っ児の曹彰を『黄髭きひげ』と呼ん
で、手元に置くことになる。だが学問嫌いの彼に、次代の政権担当
は無理だ、と観ている。当人も、そんな事は眼中にない。
3番目は曹 植そうしょくーー字は・・・・子 建しけん。いま10歳
同じく陳寿氏(正史)の評に謂わく・・・・
歳10才余りで『詩経』・『論語』・ 『楚辞』など数十万字を朗誦し、
 文章(賦)を操るのが上手だった。
 或る時、その詩賦をみた曹操は、その作品が父を超える程の、
 余りにも素晴しい出来映えであつた為、思わず尋ねた。
「お前、これを人に頼んだのか??」すると曹植はひざまずいて言った。
「言葉が口を突いて出れば議論となり、筆を降ろせば文章と成る
 のです。どうか父上、眼の前でお試し下さい。 私がどうして、
 人に頼んだり致しましょう。」
ーー言出げんいデテ論ト為リ、筆ヲくだセバ章ヲ成ス。
       かえりミ テ面試めんしセラルベシ、奈何いかンゾ人ヲたのマンヤ
ーー
曹操は彼の秀れた才能に、ひどく感心した。
曹植の性質は大らかで、細かい事にこだわらず、威儀を整えず、
車馬・服飾は華美を貴ばなかった。堅苦しく派手がましい事は
嫌った。その代り、衆目の中で父と対面し、難しい質問をされた
時には、質問の声に応じて即座に答えるのが常で、曹操からは
特別★★ 寵愛された・・・・。
同じ我が子ではあるが、父・曹操としてはどうやら【曹丕】よりも、
この【曹植】の方に、より己の肌合いに馴染むものを感じている
らしい。二男・曹彰とは対極をなす、天才型の人物のようだ。
後世、中国文学史上で《詩の神》と位置 づけられる事となる。
芸術家肌に在り勝ちな、型にまりたくない、アマノジャク的
要素を持ちながらも、心根の優しい、多感で繊細な貴公子・・・
と言った処であろうか・・・・。
のち、その生地きぢままに振舞い、自己を人前に飾る事に努力
したりもせず、何より、政治的に自派勢力を固める様な事には
消極的で、飲酒にも節度が無くなる天才気質が、父の特別な
寵愛を嘆かせる事にもなるのであろうか・・・・・・
又、長兄・曹丕の美しい妻甄氏しんしへの、清く 哀しい愛を、
ひたすら密かに、墓の下まで抱き続ける、
      純な男の〈恋の歎き〉にとりつかれるでもあろうか・・・・。

4番目の【曹熊そうたい】は、早くにして亡くなっているので、検索をカット。
ー→従って、正妻【卞氏べんし】を母に持つ者は3人。
【曹丕】・【曹彰】・【曹植】の男児である。
異腹の劉夫人に曹昂そうこうと云う長兄が在ったが、既に戦死
している・・・と云う事は、現在、仲達がその教育一切を任された
曹丕】は、25人中、押しも押されもせぬ跡継ぎ・嫡男である。
では一体、なぜ仲達は、曹操の補任に対して、半疑を抱いた
のであろうか・・・・??
ーー実は・・・・
トンデモナイ、それも桁外れの神 童が居たのである!
第3夫人の環氏が産んだ子ーー
   曹沖そうちゅう・・・・字は倉舒そうじょ。ことし5歳の幼児である。
なんとこの児は、歳わずか五才にして、3人の兄達を遼かに
超える知識を修め、その言動は時として、成人に逼る事すら
あったのだ!!!
3世紀、人類の総人口の殆んどを占める、広大な中国大陸の
事である。時として、この様に、信じ難い《神の童》が出現する
事も有ったのであろうか?
『正史』によれば ーーこの年、その神童ぶりを裏づける、次の
エピソードが在ったとされる。
某日、呉国の孫権が外交辞令で、巨大な象を送り届けて来た。
 実は驚くべき事に・・・・・
この当時の中国大陸には、黄河や渭水いすいの辺りに迄、象が生息
していたのだ!象ばかりではない。サイや水牛、虎や大鹿といった
現在では赤道付近のジャングルにしか見られぬ獣達が、豊かに
野生していた事が判明している。現代では到底信じられぬが、大
食漢のアジア象が群れを成して生きてゆける、豊かな森が広
がっていた、と云う事である。
長安も洛陽も、そしてこの許都きょとも、周囲は緑したたる森に潤っていた
のだ。 そして、その大森林は北西の黄土高原をも覆い尽くして、
治山治水役を果たし、黄河の 水も濁ること無く、
             清らかに澄んでいたのである。
 だから、この時代には、【河】と云う呼称は 存在せず、単に
かわ』とか『河 水かすい』と呼ばれていたのである!
まして南方の長江一帯(呉の国を含む)では、それこそ肥え太った
巨大な象たちが、我が物顔でのし歩いていただろうと想像される。
わざわざ                    
態々送りつけて来る位だから、超弩級の巨象であったろう。
曹操も臣下の面々も、その重さを知りたいと思いガヤガヤと談じ
合った。 然し、こんな巨獣を測るはかりなど有ろう筈も無い。ただ
推測するばかりであった。すると、チョコチョコ、五歳の曹沖そうちゅうが歩み
出 て来た。そして、こう言った。
                   
「この象サンを、大きなオ船に乗せてあげるといいよ。オ船の
水の跡が付いている所に、目印を付けるの。象サンが降りたら、
目印の分まで石を積めば、計算して判っちゃうよ。」
曹操はじめ一同感嘆して、早速その通りに切り石を積ませた。
                         ・・・・(アルキメデ〜ス!)
又、囲碁いごでは、十面打ちされても、この五歳児に適う大人は、
曹操幕府内には、既に誰一人もいなかった・・・・
父親たる曹操の、その喜悦ぶりたるや如何いかばりであったろう!
わずか五歳ーーいくら自慢しても、し足りぬ程の天才児である。
うとなく《神童しんどう》の誉れが冠され た。
然もこの幼な児は、天才に有りがちな、心の冷たさが全く無く、
誰に対しても仁愛に満ちた、優しい心根を示すのであった。
陳寿氏は、『正史』の中で更に語る・・・・
曹操陣営の刑罰の適用は、峻烈を極めていたのであるが、
ーー或る時、倉庫に置かれていた曹操の馬 のくらが、夜中に
ねずみかじられてしまった。倉庫係は、死罪に違い無いと心配した。
それを知った曹沖は、彼等に向かって言ってやった。
「三日間、待っててね。その後で自首して下さい。ボクに考えが
 有るから、心配しなくってもいいでチュよ。」
     
幼い曹沖は、刀で自分の単衣チョッキに穴を空け、鼠にかじられた如く、
ガックリした表情で、心配そうな素振りをして見せた。元気の無い
愛児を心配した曹操が尋ねる。
「世間では、ねずみが服をかじると、その持主に不吉な事が起こる、と
 謂います。今、ボクの単衣が齧られちゃいました。だから心配で
 心配で、たまらないんです。」
「な〜あんだ・・・!そんな事はラチもない、いい加減な迷信じゃ。
 少しも苦にする事は無いぞよ。」
そこへ倉庫係から、くらかじられた一件が報告される。
曹操は、二重の意味で快笑して言う。
「子供の衣服は傍らに置いて在っても、なお齧られている。まして
 や鞍は、柱に掛けてあるのじゃ。苦しゅうはない。」
                   ・・・・と、一切責任追求しなかった。
曹沖がこっそり取りなしてやったお陰で救われ、赦された者達は、
合わせると数十人に及んだ。
ーー裴松之(正史補証) は更に、次の如く伝える・・・・
勤勉な官吏が、過失の為に罪に触れた場合、曹沖は父親に
対して、に大目に見てやるべきだと『進言した』と、云うのである。
 いかに自慢の我が子とは謂え、歳10才にも満たぬ、幼な児の
言葉である・・・然し曹操は、この童児に神秘を感じたのであろうか
曹沖の進言にだけは、いつも二コ二コと応じたと云う。

是非の判断力と仁愛の情は、生 まれながらのものとして具わって
おり、その容姿はことのほか美しく、衆に抜きん出ていた。

この戦乱の世に、神から遣わされ、天より舞い降りて来た妖精
ーー全ての家臣から好かれ、愛される【曹沖そうちゅう】・・・・!
当然の事ながら、父・曹操も、彼を珠玉の如くに寵愛し、大事に
している。そして、その愛うしさの余り、時として人目もはばからず、
我が世継ぎは、この曹沖をおいて外に在ろうか!」
と、公言しているのであった。

それにしても、余りにも凄ご過ぎる弟である。三人の兄達も、
それを認めざるを得無い程に、懸け離れた存在であり、他の
男児たちの存在など霞んでしまう。
《曹沖倉舒そうじょさえ居れば、魏国の将来は磐石である!この曹沖
 だけは、誰にも、たとえ仲達といえども触れさせはしないぞ!!》

と云う訳で、仲達の〈半疑〉の理由が、ここで氷解するに至った。
 ・・・・故にアクセスを終了する事にしよう。

             
『司馬仲達どの、曹丕ぎみの教育官に任ぜらるる〜!!』
ーーこの報は、瞬く間に城内を駆け巡った。
当然、まっ先に、【曹丕】本人にも伝えられた。

「若君いイ〜!司馬懿仲達、参りましたぞぉ〜!」
晴れ渡った碧空の下、馬場全体に響き透る青年の大音声だいおんじょうであった。
「おおぅ〜〜!」 それに応え、ただ一騎。
彼方かなたに在った青春の騎影が、小気味良く疾駆して来る。
なかなかに見事な騎乗ぶりである。

「お待ちして居りました!」
手綱をさばいて馬を寄せると、馬上の少年は、明るい声で言った。
そしてヒラリと下馬すると、くつわを取って歩み寄り、つと威儀を正した。

「私が、曹丕子桓です!」 折り目正しい少年らしい。額が広い。
「司馬懿仲達で御座でございます。」 片膝を折って名乗る。 
若い二人の眼が、初めて交差した。両者共に、わくわくしている。
「良い駿馬ですなあ?! 」
「八尺ある故、飛と名付けました。」
謙虚さもある。 (※ 八尺=187センチ以上を龍 馬と呼ぶ)
「佳い名前です。」
「でも、父上の【絶影ぜつえい】には叶いませぬ。二代目ですが、素晴しい
血統馬ですよ。」 話しつつ、互いに互いを理解しようとした。
14歳23 歳・・・君臣と云うより、頼りになる兄と歳の離れた弟、と
謂った取り合わせである。
仲達にとっても、この九つの歳の差は、心地よい開きである。
「早速ですが若君、一つお願いが御座います。」
「何でしょう?」
少年は、その眉を開いて仲達を見上げた。利発な光がある。
「私、ではなりませぬ。これからは、父君以外の者には、全て
》とおっしゃられませ。」  「その方が善いか?」
「はい。御嫡男ごちゃくなんで在られる若君に、相応ふさわしゅう御座いましょう。」

「そうか。では、そうしよう。」

 素直に受け入れると、尋ね返して来た。

「では、《予》は、貴殿を何んと呼べばよいかなあ?」
「《仲達》、でよろしいかと・・・」

「いや、それはならん。年上の、然も〈〉と成 られる方を、
                  呼び捨てには出来ないな・・・・。」
この人柄は、生来のものであろうか。

「《仲達先生》では、チトそぐわないしな・・・。」
 生真面目きまじめに考える少年。

「ーーそうだ。《仲達殿》、ではどうかな!」

「結構で御座いますな。」

《気持ちのよい少年だ!》・・・・と、思えた。

顔立は眉目秀麗とは言い難いが、何処となく落ち着きのある、
佳い相をしている。
    若き曹丕
《秀才では無いが、この謙虚さが在る限り、見処みどころは有りそうだな。》

「若君、天気も好いし、早速、野駆け致しましょうぞ!
 それとも、部屋で講義を?」

「うん、行こう、行こう!」 14才の、少年の素顔がパッと輝いた。

「仲達殿は、馬は得意か?」 「乗りまする。」

「では、あそこの栗毛に乗って下さい。『烈風』と言って、なかなかに
気性の荒い奴ですが、自分では、名馬だと思っています。」

「取り敢えず、西の門まで、競争致しましょうぞ!」
初めての荒馬を、いとも美事にさばく仲達に、少年の目には尊敬の
色が現われている。

「ーーいざ。」 「予の飛龍は速いぞ!」

「若君こそ、遅れ召さるな!」ーーそれっ
と若い二つの 馬影は、
土煙を蹴立てて青空の彼方へ消えていった・・・・。

爾来じらい26年間に渡り、君臣の間柄あいだがらを超え、互いに誠意と親愛に
結ばれた【名コンビ】の誕生である。



三刻(45分)後・・・・二人の姿は、許の城を遥かに見降ろす、
 緑の丘の上に在った。

草の上に仰向けに転がって、吹き渡る涼風に、身を委ねている。

「ーー予は・・・仲達殿が好きになった! 」

そう言うと少年は身を起こし、独り、崖の端まで駆け出して行った。
きょ』の城邑まちが足の直下に迫り上がって来る。その上方の大空に
向かって、少年が全身で叫んだ。

「ヨワ、チュウダツガぁ〜好キ二い、ナッタゾぉ〜〜!!」

何の駆け引きも無い、純真な叫びであった。
 ーー傍らの飛龍がいなないた・・・・

23歳の仲達は近づくと、黙って14歳の少年の肩を抱いた。

「・・・若君、あれを御覧なさい。」

 眼下に広がるパノラマの一角を指差した。

「その場に居ると判りませんが、こうして離れた処から観れば、
許の城も、只あれだけの物です・・・何事も、其処だけで物を考え
てはなりませぬ。時にはこの様に、遠くから物を広く観る事も
                                肝要です。」
「ハイ!」

「然し、この丘とて、未だ未だ小さなものです。もっともっと高くから
巨きく深く、物事を観なくてはなりませぬ。その為に必要な事は
                               何でしょう?」
「ーー学問、ですか?」

少年は肩を抱かれながら、仲達を見上げた。

「そうです。学ぶ事です。常に謙虚な心を持って、全てが己の師
と思う事です。 曹丕ぎみには、それがお出来になられる方と、
仲達には思えて参りました。」

「ーー全てが己の師・・・よい事をお聴きしました。」

「この仲達、必ずや若君を、天下の名君にして差し上げます!」

「有難う。予は、最良の師に巡り会えた気がする・・・」

「仲達も甲斐があります。」

 夕陽が、二人の若者の横顔を、赤々と染めていた。

「ーーでは、そろそろ帰城致しましょうか。きっと今頃は、城内、
 大騒ぎしておりましょうな。」
「愉快だね。野駆したと聞けば、子丹したん(曹真)や文烈ぶんれつ(曹休)達、
 さぞ悔しがるだろうな!」

「これからも、時々まいりましょうぞ。」

騎乗すると、曹丕が言った。

「予の、初めての願いを聴いて欲しい。」

「ハ、何なりと。」

「では命ず!司馬懿仲達、その方は、今後もず〜っと予の元に
在って、常に遠慮無う振る舞うこと。堅苦しい言葉遣いは不要じゃ。
吾が兄の如くにして貰いたい!」

ーー何と云う健気さか・・・!

かたじけないお気持・・・。仲達、決してその様に心得えまする。」
肝胆相照かんたんあいてらす仲となりましょうぞ!」

曹丕少年は言いざま、飛龍の馬腹を蹴った。

「得たり!」

仲達も叫ぶと、烈風にひと鞭くれ、後を追った。
 全速力で疾駆する曹丕に追い付き、くつわを並べて見るとーー
少年はポロポロと、大粒の涙を風にねつけていた・・・・・



 仲達には、その涙の訳がよく解っていた。

【第五節】 孫子の兵法書 (人知れぬ地中の根) へ→