姦雄との出会い



ーー仲達はドキリとした。
      何故か判らぬが、心がざわめいた。


視線の先、一番奥まった位置で執務している人物・・・・両脇に
副官を侍らせ、大テーブルに向かい筆を執っている小柄な男・・・
彼こそ、治世ナラ姦雄、乱世ナレバコソ英雄 と
謂われる、其の人に違い無かった・・・・!!
ゆったりとした軽い絹のほうをまとい 、頭には金色の恰 帽かんぼう (幅の狭い
絹制の冠)を置いている。 水色の衣には、金の縁取りがしてある。
なかなかのダンデイー
である。だが御世辞にも『押し出しが良い』
とは言えぬ。昨日会った人物群像が余りにも皆、立派過ぎたせいか・・・・?
荀或に従い、間近へと進む。座ったまま執務し続けている相手の
横顔が、はっきりと見て取れる距離である。
曹操孟徳そうそうもうとくーー47歳の割にはほほが薄く、若々しい。
歴戦の馬上暮らしが、中年の肥満を許さぬのであろう。
鼻梁びりょうは高いが、顎髭あごひげ
まばらである。くち髭の両端は、胸まで届く程に長かった。いわゆる
泥鰌髭どじょうひげであった。「殿、お待ち兼ねの仲達殿が見えられましたぞ!」
荀或が、気付かせる様に、やや声を強めて告げた。
「ーーおお!」 と、相手は声をあげて立ち上がった。意外に背は
低かった。七尺余・170センチ程であろうか?だが不思議な
事に、周囲が巨漢ぞろいだけに、却って存在感がある。
「おお、おお、来たか、来たか。首を長〜くして待って居ったぞ。」
満面に明るい笑みを見せると、曹操は気さくに歩み寄り、仲達の
手を取り、その若い肩を叩いた。
「ウン嬉しいぞ!これで我が国の行く末も安心じゃ。」
周囲によく通る、ややかん高い歯切れの好い声であった。部屋に
居る全員が仕事の手を止め、この光景を温かく注目している。
リーダーには、どこか周囲がホッとする様な処がなければならない
であろう。 全てに於いて完璧であつてはならないのである。それ
では周囲の者が息が詰まり、伸び伸び力を発揮し得無い。下手を
すれば反発を産み、謀叛へと繋がり兼ねない。ましてそれが、国を
率いるリーダーともなれば、尚更である。容貌で言えば曹操の背が
低いのも、一見した風采がパッとせぬのも、周囲に居る者達にとっ
ては、安心出来る事の一つである。もし曹操が二メートルも有る様
な巨人で、然も美丈夫であれば、周囲は畏縮してしまうであろう。
項 羽こうう】の途を辿たどったかも知れない。
「ーー畏れ入ります。」卑下する事無く、程良い落ち着きで、仲達は
返礼して見せた。臆した処なく、堂々と見える。
「ほう〜、なかなかの威丈夫じゃな。そちの秀才ぶりは、筍軍師
 からよ〜く聴いておるぞ。これ程の者、またと有ろうか!」
曹操一流の面接術に、室内の面々も目を細めている。
 リーダーは又、時たま人間らしい、小さなへマをしたり、子ども
じみた振舞いを見せる事も必要であろう。
 曹操は女好 き】である。行儀も良くない。笑う時は、皿の中に
顔をつっ伏せてまで笑う。お陰で、折角のダンデイがビトビトに
成ってしまう。当人は、自己発明した携帯図汰袋ずたぶくろ(ポシェット)から、
これまた特許のハンカチを取り出して、適当に拭いて平気の平左
だが、お付きの者は気が気で無い。 仕方無い人だなと思いつつ、
だから自分の補佐が必要なんだと思われ、部下自らが積極性を
持つ。無論、周囲が《凄い人だ!》と自然に畏敬するだけの実績と
実力を持った上での事ではあるが・・・・そして曹操は善く聴き、よく
褒める。怒られるより、褒められる方が人は断然伸びる。ーーだが
最後に決<めるべき時は、ズバッと果断に己が決断する。
「ところで風痺ふうひえたか?」
茶目っぽく、痛い処を突いて来た。
「殿の、若き頃と同じ症状でありました。一種の若者病だと
                              想われます。」
「ーーン??」一瞬、曹操は視線を宙に漂わせたが、直ぐ合点が
ゆくと、思わず膝を叩き、あとはもう、辺りはばらずの大笑いとなった。
身をくの字に折り曲げての、腹の底からの大笑であった。
ーー曹操は放蕩ほうとう時代・・・・おとこだて気取りで、深酒と女遊びに明け
暮れていた。(鷹を腕に乗せ、闘犬や犬レースを好んだ。)
そんな或る日の事、その無軌道ぶりを心配して、父親に訴え続ける五月蝿うるさ叔父貴おじきと道でバッタリ出喰わした。咄嗟に曹操顔面を崩し
口をじ曲げて《中風ちゅうふう》の演技をして見せる。たちまち叔父貴は父親に
報告する。仰天した父は、息子を呼びつけ、問い訊ねる。
「いえ、私はこの通り、ピンピンして居りますよ。全体あの叔父貴は
何時も、在らぬ噂を立て歩く人物と、世間ではもっぱらの様ですね。」
・・・と謂う訳で、父親を瞞着まんちゃくし以後も益々その放蕩の限りを尽くした
と、伝えられていたのである。 ※(装病誣叔そうびょうぶしゅく

「こやつめ、抜けしゃあしゃあと、よく申すわ!」
ワッハハハハハ・・・・未だ可笑おかしさの抜け切れぬ息使いの中で
曹操はポンポンと仲達の肩を叩いた。
「益々気に入った!い奴だ。ささ、こっちへ来い。」
自ら、直ぐ脇の私室へといざなった。

其処は小ざっぱりした応接室、と云った処であった。どっかと座に
腰を降ろすと、曹操が改めて仲達を視た。親しい空気の中で一瞬
だけ、曹操の予知レー ダーがフル稼働していた。
仲達は、その視線を泰然たいぜんとして受入れた。部屋には、曹操と仲達の
二人だけが居た。ーー曹操の見てくれは、決して威厳に満ちている
とは言い難い。むしろ、全体の印象としては、撫肩なでがたで小柄、顔が大きく
一見、貧相にすら映る。・・・・だが、対面して時間が経つに連れ、
仲達の眼には、その第一印象とは別なものが見え始めていた・・・・
   
面長おもながの顔ーーその全体の中に光る、切れ長の双眸そうぼうは【機略】に
溢れている。広いひたいには【知性】が詰っていた。又、下顎したあごの張り
には、【不屈の意志】が示されている。 口元はオチョボぐちで、
陽性の【女好き】にも見える。左眼だけが二重で、眼窩がんかには矢張、
とし相応のたるみが、貫禄充分に浮き出ている。責任の持てる顔で
ある。 「・・。・ウム、さて、どうしたものかな?」

曹操は脚を組み、手で顎ヒゲをしごきながら、この若者の
                       〈収まり処〉を考えている。
《こやつ、確かに人物じゃぞ!然も桁外けたはずれの逸材だ・・・・若く実績
こそ無いが、この儂と互格に並んで退けを取らぬ。この存在感は
底知れぬ【何か】を秘めておる。儂の息子にも欲しい資質じゃな。》
仲達も相手を考えている。
おごり高ぶって、そっくり返りそうな独裁官と聞いていたが・・・・
どうやらそれは、随分若い頃の事らしい。ここは一つ、俺の中に
在った曹操像を、全て無にして、事実だけを観ていこう。風聞は
当てにはならぬぞ・・・・》 曹操も亦、更に思う。
《こやつは是非、儂の陣営に置いておかねばならんな・・・・
敵方にでも付かれたら、それこそ事だぞ。どうする?出来過ぎる
奴は、若芽の内に摘み取るか?いや、この曹操とも在ろう者が、
御せぬ相手など居る筈は無い。だが・・・・何処か引っ掛かる。
一番肝心な【何か】が、いまひとつ判らん奴じゃ・・・・》

「ーーよし、決めたぞ!」
遠くに放たず、暫くは側に置いて、そいつを見極めてやるか・・・・
「長男、『』の教育を担当せよ!」
《ーー何っ 予想外の大抜擢ばってきである。
「ハハッ!誠心誠意勤めまする!」
流石の仲達も、思わず深々と叩頭こうとうしていた。
「そちとは歳も近い。覇業と王業の道をわきまえさせよ。」
嫡男【曹丕】を、武と仁とを兼ね備えた名君に 仕立て上げよ!
                          ・・・・との厳命である。
曹丕そうひ 子桓しかんーー今年、十四 歳の筈だ。
上に【曹昂そうこう】と云う異腹の長男が居たが、父を救う為 あの【典韋】
と共に、健気にも若い命を捧げて、既に亡い。四年前の事だ。※(後述)
故に今、【曹丕】は押しも押されもせぬ、曹操の第 一後継者であった。
然も、この時代の中国は、特に《幼長の序列》が厳しい『儒教一尊
社会である。と云う事は当然、曹丕 は次代の王である。
その近くにはべり、彼を支えよ!
ーー儂はそれ程、お前を信頼し、買っているんだぞ・・・・
「身に余る光栄、この司馬懿仲達、身命を賭してお仕えつかまつり
ます。」 問題ばかり多い宮廷の、文書役人とは大違いである。
流石の仲達も、何と考えてよいか判ら無い。完璧に、一本取られた
格好である。
「ーーウム、しかと頼んだぞ。」
事を決済すれば、後はもうサッパリするのが曹操流である。相手を
恐懼きょうくさせた己の決定に満悦でもあった。
「処で、父上の建公(司馬防)どのは御健勝であられるか?」
若いと云う事は、それだけで年長者を和ませる愛敬を持つ。何がし
曹操も浮き浮きした調子に尋ねる。
「はい、少し歳は取りましたが、元気に致して居りまする。」
「相変わらず、頑固一徹じゃろうの?」
「よく、御存知で。」
「ウン、そなたの父上は、儂の恩人の一人じゃからな・・・・!」
若かった曹操には、【三人の恩人】が居 たのである。
ーー曹操、未だ十代の若き日々・・・財産的 には裕福でも、
宦官かんがん》・《 異姓養子》の子、と云う世間からの 、
二重の蔑視が彼を苛み苦しめ続けてい た。思いあぐねた
曹操は、自分が『宦官派』では 無く、それを憎む『清流派』である事
を証明 しようとして、思い切った行動を取った。宦官の総帥である 中常侍ちゅうじょうじ張譲ちょうじょう】の私邸へ 潜入し、ひと泡吹かせようとしたのである。
                            ーー異動雑記ーー
具体的には何をしようとしたのか迄は記されていないが、権力の
絶頂に在る宦官の、然もその総帥の私邸へ忍び込むだけでも
見つかれば死罪である。単なる悪ふざけでは無く、命を賭けた
切羽詰まった、已むに已まれぬ行為であったのだ。それ程迄に
曹操は追い詰められ、社会的に疎外され た存在でしか無かった
と云う事である。
だが中庭に潜んでいる処を発見され、げきを振るっての大活劇と
なってしまう。相当の気魄と、武芸にも長けていたのであろう。
誰も彼を斬る事あたわず、へいを乗り越え脱出している。 恐らく、
曹操はこの折、何人かを殺傷しているとも想像されるが、事が
穏便おんびんに収まったには、祖父の取りなしが在ったと想われる。
穿うがった推測をすれば、曹操は、祖父が張譲の何らかの弱味を
握っている事を計算の上であったかも知れない。多分、そうで
あったろう。権力の中枢に在って、不正腐敗の総本山であった
のだから、叩かなくてもホコリは幾らでも出て来る相手だ。
 然し、そんな事位で、世間の評価が変わるはずも無かった。益々
放蕩と勉学に明け暮れる曹操だった(放蕩だけで無い処がエライ!)が、
そんな彼の苦悩を理解し、更に彼の秀れた資質とその才能を
認めて呉れる人物が、たった三人だけ居たのであ る。
そしてその三人の理解者は、今にして想えばーー
曹操を《世に出して呉れる》恩人とも成って呉 れたのであった。
その三人とは・・・・禺頁かぎょう と 【橋玄きょうげん、そして・・・・
司馬防である。
 この時代、《世に出る》とは官職に就く、官僚に成る・・・・と云う
事であった。そしてその為には、一定の原理法則が存在していた。
すなわち孝廉こうれんと云う、推薦入試制度である。

ちなみに、合格の為には二段階の手順・手続きが必要であった。
ーーどんな手順かと謂えば・・・・
 〔1〕、 まず本人が【名士めいし】と呼ばれる有徳博識 の
      名声者に成ること。
 〔2〕、【名士】である事を保証して呉れる、現役の高官
    (身内でない第三者)の推薦状を提出する 事。

基本的には一にも二にも・・・・・
  高名な他者からの評価・名声を得る事である。
では一体、そもそもこんな仕組みを考え出したのは誰かと謂えば、
大もとは・・・・・
 後漢王朝の始祖・光武帝劉秀りゅうしゅうその人 であったのだ。
                            ※ (詳しくは別章で)
つまり後漢時代は、その初めから一貫して、
他薦によって登用された人材が官僚と 成って
 国を支え、その採用権を皇帝が握る事に拠って
 国を支配する・・・・・仕組みだったのである。
だから、これから世に出たいと切望する曹操には最底でも二人の
推薦人「理解者」が、絶対に必要だったのである。然し、いっかな
資力が有っても、「宦官の養い孫」と謂うレッテルに因り、誰ひとり
彼を推薦しようとする者は現われ無かったのだ。第一関門である、
名士からの人物評価を受ける事、即ち=「アナタは確かに名士
デス!」と認定される事すらクリア出来ずに居たのだ。それで曹操は
暴れすさんだのであった・・・・・。
だがそんな時、先ず一人、曹操孟徳と云う人物を
『君は乱世を安定させられる者だ!』と評してくれ、
袁紹が主宰する《奔走ほんそうの友》のグループに加えて呉れた人士が
居た。それが何禺頁かぎょうであった。 ※(後 述)
これで曹操は、ひとまず〈名士のヒナ★★〉と成った。即ち、名士から
人物評価を受ける有資格者と成った事になる。

次に曹操を認めて呉れた大恩人は・・・・太尉(国防相)の
橋 玄 公 祖きょうげんこうそであった。ーーここで注目すべきは、何やかや
言っても、橋玄ほどの高官に近づけたのは、やはり祖父や父親の
宮廷人脈がモノを言っている点であろう。【宦官の養い孫】は、世の
蔑視だけではなく、現世利益をもたらして呉れる一面も有していたのだ。
その宿命を活かすも殺すも、結局は曹操自身と謂う事になろうか?
この橋 玄と云う人物・・・・・                               
厳正公明二シテ才略アリ、人物鑑識二グ ル
                             ーー続漢書ーー
内外の職を歴任し、剛毅果断ごうきかだんによって知 られる一方、謙虚な
態度で士人にへりくだり、王爵や親戚・個人の関係で動かされる
事は無かった。霊帝時代に太尉となったが長わずらいを理由に
辞職を命じられ、太中大夫に任じられ、亡くなった。家は貧しく
財産も殆んど無く、ひつぎを安置する場所も無かった。ー漢紀ー
と云う・・・・・凄まじくも清々すがすがしい人生を貫いた人物である。
そんな彼が、或る日、しみじみと言った。
天下まさに乱 れんとしている一世を風靡ふうびする才能が 無ければ
 今の世を救済出来 ぬであろう
よく乱世を鎮めるのは、君であろう か
御世辞など一切言わぬ、欲も得も無い人物の、重い言葉であった。
《ーー嗚呼ついに、我を識って呉れるひとに会えた!
このひと言が、どれだけ曹操を励まし、勇気づけた事であったろうか? しゃに構え、何をしても鬱勃うつぼつ として晴れぬ、青春の暗雲を、跡形も
無く吹き払ってくれた【天の啓示】 とさえ思えた。
曹操は、すっかり橋玄の人物にき込まれ、己の師と仰いでは
日参したものだ。橋玄はめるだけでは無く、かなり厳しい苦言や
注文も与えた。だがそれも、この一風変わった青年を愛するが故で
あった為、曹操は懸命に身を修め続けた。ーーやがて・・・・

「儂は随分、天下の名士に会った。だが、君の様な者は初めてだ。
 君は自分を大切にせよ。儂は歳を取った・・・・。
 妻子を宜しく頼みたいものだ。」          ーー魏書ーー
などと、心を通わせ合う間柄と成ってゆく。そしてついに・・・・・
曹操の人生を運命づける事となる、次の言葉を、彼に与えて
呉れたのであった。
君には、未だ名声が無い
  許子将きょししょうと付き合うが善いで あろう!」
                                ーー世語ーー
許子将とは・・・・・《
月旦 評げったんひょう》と呼ばれる人物評価をくする
名士で、謂わば名士認定の達人・・・と言 われていた
許  劭きょしょう 子将ししょうのことであ る。
彼を橋玄から紹介されたと云う事は、出世の第一関門である、
【名士】への仲間入りが決定されたに等しい。
 ーー曹操よ、さあ胸を張って、世にはばた・・・・・
だが・・・・事はそうそう上手く運ばなかった。肝心な 【許劭きょしょう】が、
頑として曹操を認めようとしないのだ。
 いかに曹操が辞を低くし礼を尽くしても、門前払いの繰り返し
であった。いらつき、腹わたが煮えくり返る思いの曹操・・・・だが、
あの《宦官の養い孫》と云 う出自・家柄は、世の名声を第一義
とする名士社会には、絶対受け容れ難い禁忌きんきであったのだ。

ーーそこで・・・・ついに曹操、非常手段に出た。ひと気の無い処を
みすますと、強引に踏ん込んで、抜き身を振りかざすや、許劭を
脅迫したのである
もし駄目なら、本気で相手を斬り殺すぐらいの
迫力があった。身の危険を感じた許劭は、仕方無く、曹操に
人物評価を与えた。
だが、許劭も精一杯の抵抗として、その内容は辛辣しんらつを極めた。
    
「ーー君は・・・・ 清平せいへいの世なら姦賊かんぞく
                乱世じゃから英雄
・・・・
 と・・・・でも云うべき人間じゃ!」
それを聞いた曹操。怒る処か、呵々と大笑するや、それを紙に
書いて貰らい、小躍りしながら帰っていった。
「やったあ!これで俺も晴れて【名士様】
     だぞ〜!第一関門突破じゃあ・・・・
だが、矢張このやり方には無理があった。最後の関門である
孝廉こうれんへの推薦状》を書いて呉れる 者が、誰一人として居無い
のだ。今度は、脅して解決できるものではない。だが、【橋玄】
には頼めない。それだけは人間として、絶対したくなかった。
もう一人の【何禺頁かぎょう】は、【党錮とうこの禁】事件で指名手配され、
地下に潜伏 する身であった・・・・・

流石にガックリし、途方に暮れかける曹操。又しても、世間
からの蔑視と云う、厚い社会規範の壁に跳ね返される己。
《・・・・俺が一体、何をしたと言うのだ・・・・・》
ひと知れず嘆き、ともすると天を呪いたくなる青春。
そんな彼に、救いの手を差し伸べて呉れた第三番目の恩人
こそ、誰あろうーー仲達の父・司馬防であったの だ!

過ぐる27年前(174年)、曹操孟徳20歳の時の事であった。
世間の悪意をものともせず、彼を【孝廉こうれん】に推薦してくれた
司馬防のお陰で、曹操は晴れて都・洛陽の北部尉として、
世にデビューする事が出来たのである。想えば・・・・それが、
現在の覇業の第一歩になったのだ。
 当時、尚書右丞しょうしょうじょう(尚書台内の庶務)の任に在った司馬防は、
曹操を、都の北半分を管轄する警察長官『都尉とい』として推挙
して呉れたのである。決して高い地位とは言えぬが、ともかく
宿願の中央官界へのデビューを果たせたのだ。
「有り難や、後は俺の才覚ひとつ! どの様にも出世して
 見せようぞ。そしていつか必ず、俺は此の手で、天下を
 動かせて見せる!」
まさに『時を得た』デビューであった。もしこの歴史時点で
世に現われていなかったなら、曹操は他の群雄から大きく
出遅れ、その後塵を浴びる事と成っていたであろう。
ジャストミート、まさにドンピシャな司馬防の恩義であった。
当時、都の部尉は定員二名で、一人ずつが南と北の地区を
担当、『孝廉出身者』に限られていた。

孝廉こうれん】とは、人口20万に1人の割合で、州や国から俊秀を
集める為の、後漢王朝の「人材登用制度」の一部であった。


     
*        *         *
後漢王朝の人材登用制度は、大別して三種類あった。
へきしょう     ちょうしょう  せんきょ
辟召』・『徴 召』・『選挙』の三本立である。  

《1》ーー辟召へきしょうと は・・・・・
三公から県令に至る迄の各・職官組織の、夫夫の長官が
自己裁量で、自由に人材を採用できる制度であった。
 これは上級職ほどメリットが有り、自派勢力拡大には好都合
なものとなった。そしてついには後漢末期、この【辟召】こそが、
人材登用の主流となっ た。
最後には【宦官】がこれを悪用して、権力を握る迄に至っていく。
それに対して、【士大夫したいふ】と呼ばれ る正規の官僚達もこれを乱用。
 互いが自己の勢力拡大のみに使う事態となり、本来の機能は
完全に失われてゆく・・・・・。
尚、この【辟召】によって採用された者には、 大きな特典が有った。
一旦採用されたら、生涯に渡って、招き主・長官の縁故官吏として
生活の保障が与えられるのである。
 完璧な《終身保証制度》であったのだ。これは他の制度には無い
辟召】独自 のものであった。老後の心配も無く、一生遊んで
                                  暮らせる?
《2》ーー徴召ちょうしょうは・・・・・
  皇帝自らが、自身で行う人材登用制度だが、
                 使用頻度その他、明らかではない。

《3》ーー選挙せんきょ・・・・・
 これは、更に二種類に区別される。
 曹操が合格した【孝廉こうれん】も、その一部に属す る。
    じょうか
  『常科』ーー毎年、定期的に実施される。
     せいか
  『制科』ーー天変地異(皇帝への天からの 警告)や吉兆出現
         など、時に応じて臨時的に行われる・・・・
                              の二種である。
このうち、『常科』は更に2系統に別れていた。
   こうれん
 【孝廉】ーー郡の太 守による推薦制度で、定員二名。
        人口20万につき一名の割合で採用した。
                              (国の相も同じ)
    ※ 司馬防は、その為の推薦状を提出してくれたのである。
 【茂才もさい】または【茂 材もざい】ーーこれは州の長官が採用を決定する
                     もので、定員は一名であった。
  (※ 中国では
が最大の行政単位。その長官は刺史しし
      のちぼくと言う。・・・州以下は→「郡」→「県」→「里」)

制科・・・・は当然、皇帝が臨時に(人材を推挙させて)、
  自らが採用の決定をする。謂わば、不定期登用制であった。        
  (とは言え、天変地異はしょっちゅう起きたから、
                  寧ろ頻度は多かったと想われる。)
ーーその「制科」採用に当たっては、《賢良けんりょう》・《方正ほうせい》の科目に
適した人材を推挙させる方法と、《博士・弟子の選》と呼ばれる、
国立大学の卒業試験の結果による採用とが併用された。
この、政府直属の官吏養成学校は【
太学たいがく】と呼ばれ、常時
3万〜6万人もの学生達が、出世の機会を求めてひしめき合って
いた。(前漢武帝・発足時の定員は、たったの50名だったが。)


・・・・・以上、いくぶん博識を得たが、後漢末期の主流は
 へきしょう     こうれん
辟召】と【孝 廉】だったという。つまりーー【孝廉によっ て任官の
きっかけ
(起家と言う)を作り、【辟召によっ て昇進する・・・・と云う
出世コースが出来上がっていたのである。曹操も、この出世街道
に乗った一人であつた訳である。こうして採用され、中央・地方で
官僚として働く者の総数は、実に15万2千余人だったと推定
されている。
ちなみに、その官僚たちの
給料 は・・・・・
三公の一万石・約1億円(月俸350石)が最高で、
九卿が中二千石(月俸180石)、郡太守が二千石(月俸120石)。
・・・・最低は、斗食の月俸十一石・約15万円、
                  佐史の月俸八石・約10万円である。
給料の支払いは月毎で、銭と穀物の二本立であった。官吏達は、
妻子と離れて官舎に住み、食事も支給され、五日働き一日の休日
が与えられる。ちなみに、一般兵士の月給は、精米で二石が基本
だった。官吏の最低が佐史の八石であるから、流石に正式採用の
正規官僚サマは違う!・・・・・と云う事になる。
 一石(一斛)は19・4リットルであるから、一日一人三合として、
九人を養える。夫の食事はほぼ支給されているから、銭の方は
丸々残せる
計算になる。  これが最低なのだから、みな争って
官僚への道を目指した。
ところで、月俸の中身はふつう《
あわ》で、籾殻もみがらを脱穀した後の
精製済みの物であった。そうでなければ、直ぐに食べられない。
『大官の高級取りは、貯蔵用にもみ付きの稲・米だった
                          かも知れない』と言う。
ーー想えば・・・・月毎に国・朝廷から支給される穀物の総量は
莫大ばくだいである。加えて、日々の給食の物量(太学生分も 含む)も
                          膨大ぼうだいなものであった。
それを全て、脱穀しなければならないのだ。 半端な量ではない。
ちなみに、当時の脱穀法は、全て人力であった。二人一組で、
きねうすの中のもみを突くのである。非能率この上ない。従って、
中国大陸お得意の、人海戦術となる。
多大な人手が必要となるので、その労働力には、膨大な数の
《囚人達》が使われた。と云うより、必要に応じて、罪人を創り
出してはそれに当てた、と云う方が正しいであろう。
しょう』と呼ばれる、女性囚人の労役は、正にこの脱穀作業で
あった。 付記すれば、男性囚人には『城旦じょうたん』と呼ばれる、土木
工事(城市建設・宮殿造営・陵墓修築など)が課せられた。
洛陽宮跡の南郊の地中からは、大量の刑徒の髑髏どくろが発掘
されている。時には数十万人を使ったとさえ言う。

但し、完成の暁には、恩赦によって解放される場合も多々
あった。事が済めば人手は不要となり、許す。必要となれば、
又罪人を創り出す、と云うのが真相らしい。
官僚・学生を養う為、また自身が食う為に、その数に匹敵する
女性囚人達が、都の一角で日々脱穀作業に追い立てられて
いた訳である。
 一般民衆を使えば怨嗟えんさの声が挙がるが、微罪を押し付けて
罪人にしておけば、それは起こり得無い。 歴史の裏側には、
そうした権力者達の悪知恵が常に働いているのである。

ーー・・・・さて、話は二十歳の曹操にもどる。

司馬防の推挙を受けた曹操は、みごと【孝廉】をパスして、
首都・洛陽の北部尉(北町奉行)に任官する。

合否判定に際しては、三つのポイントが存在した。

  ・・・・家柄いえがら』・『人 柄ひとがら』・『風貌ふうぼう の三点である。
このうち、現実的には、家柄が最も重要視 される事となる。
             (本来は、人柄・人物本位であるべきだが)
ーーこの3点を、曹操本人に当てめてみれば、
《風貌》・・・・(儀表ぎひょうと言った)は、パッとせず、Cランクであろう。

《人柄》・・・・は、一応、名士と認定されたからには、
              ひとまずBランクと云う事にしておこう。
評価ー→『C』と『B』・・・・これでは合格ラインに達していない。

では、最重要ポイントの《家柄》・・・・は??

お答えシマス・・・ANSERー→宦官の養い孫ではDランク・・・・・

 う〜む、む、ム・・・・『C』・『B』・『D』

ーー総合すればーー→不合格・・・・! 


になってしまうではないか??


ここで、曹操の父・『曹崇そうすう』の裏技がモノを言った。
 この時、曹崇の官職は・・・・な、なんと国防軍最高総司令官・
国防大臣サマ
なのであった!
「恐れ入りましたア!!」→→→即、
 合格!

・・・・タネを明かせば・・・・・
父・曹崇は、金の力で、この国家最高官職の《太尉たいい》の地位を、
買い取っていたのである。
ーーえ!そんなバカな事が出来るのか?・・・・って、
出来たのである。
現に曹崇は、この直前にも《大司農だいしのう》・(総合経済大臣職)を
購入していた。丸でバナナの叩き売りの様な事が、皇帝公認
(と云うより皇帝おん自らの発案で)、公然と行われていたのである!
そのバカ皇帝とは、一代前の霊帝れいていであった。
彼は元々、極貧宗族の出身で在ったから、貧乏暮らしの辛さが
身に染みていた。たまたま、子の無い先帝が崩御し、幼年で扱い
易いだろうと云う理由で帝位に就けられるや、この母子は、直ぐ
さま個人的蓄財に血眼となっていった。
 『その 母太后はケチに徹し、毎にち粟飯を食べ続け、とうとう
                死ぬまで白い米の飯を食べ無かった。

揚げ句の果て、臣下に官位をタダで呉れて遣るのが惜しくなった。
そしてついには・・・・三公九卿と云う国家中枢の官職まで、その
金儲けの対象にしてしまったのである。
〈掛け売り〉や〈分割払い〉まであった、と云うのだから恐れ入る。

もう滅茶苦茶ではあるが、一応、言い訳は出来た?

ーーそれまで国家機構・官僚制度を支えて来た、
三公さんこう(太尉・司徒・司空)九卿くけい》は形骸化けいがいかし、現実政務は、
後発の【尚書省しょうしょしょう】に 移っていたからである。三公九卿制は古来より
《集議》して国策を決定し、皇帝の信託に寄与し続けて来ていた。
皇帝はこれを、「善きに計らえ」と、そのまま承認して、最終決定と
するのが原則であった。これだと皇帝は楽珍らくちんで楽しむ(遊ぶ)時間を
充分に確保できた。ーーそして、この衆議体制を【外朝がいちょう】と言った。
とは謂うものの、己の意志がちっとも反映されないから皇帝には
不満も残る。そこで、2代前の桓帝かんていは考え た。
己の意志がより直接的に発揮できる、別系統の組織を新設した。
と言うより、以前から在った尚書省に、その実権を移管させた。
そして、これを【
内 朝ないちょう】と称させた。以後、その下部組織を着々と
充実拡大し、今や、中央政府そのものと成っていたのである。
だからもう、半ばお飾り物となっている、総理大臣職や国防大臣
職は売り払ってもいい、と云うものではなかろうが、曹崇は其れに
眼を着けて購入したのである。
三公の〈定価★★〉は一千万銭だった。だが、曹崇 はその相場の10倍、
1億銭を吹っ掛けられた。【宦官の異姓養子】と云う、出自の弱味に
付け込まれたのである。ところが曹崇、これを即金で★★☆払って見せる。
《曹家には凄い資力が有った!》 と云う証明だろう。
だが、こんなモノは何の実質も無い、只の飾り物に過ぎ無い。では
何故、曹崇は敢えてこんな〈銭失い〉的な買い物をしたのかと言えば
・・・それは、一にも二にも、可愛いい息子の、将来の為でしか無かっ
たのである。この世に産まれ落ちた瞬間から【宦官の養い孫】と謂う
打ち消し様の無い宿命を背負わされた曹操の、その苦悩の深さと、
現実的被害の大きさを、その父親自身がまた痛い程まざまざと、味
わせられ、あえいで来ていたのであった。だから、それを少しでも軽く
してやろう、その為には譬えムダと思える様な事でも、虚飾・虚勢と
言われようが、父親として出来得る限りの事は、して措いてやろう
一粒種の我が息子への深い愛情の発露に外ならなかったのである。

こうして、何人かの理解者のお陰で、勇躍世にデビューした曹操は
翼を得た若虎の如く、雲に乗った龍の如くに、それまでつちかわれ、
わだかまっていた己の才能を、一挙に開花させ始めるのである。
首都の北部尉に就くや、曹操はたちまちにして、衆目をきつける
派手なパフォーマンスに依って其の才腕の一部を示して見せた。

先ず、前任者達が誰も眼に着け無かつた四門の完全修築を
断行。更には宮殿に通ずる禁門の取締りを徹底的に強化した。
その為に、《五色ノ棒》と云う、犯人を打擲ちょうちゃくする為の、極色彩の
ブッ太い鉄の棒を用意させ、各門の左右に夫れ夫れ10余本ずつ
吊り下げた。そして、禁令に違反する者 (時間の厳守・通行時の
下馬・下車など)は、たとえ権勢有る者といえども、容赦・躊躇する
事無く、全てこの《五彩棒》で打ち据え た。その為、中には死亡する
者さえ出し、ついには、泣く児も黙る、と言われる程になった。
 だが曹操は、そのうち必ず、権勢を笠に着た大モノが、この網に
引っ掛かると読んでいた。そしてその読み通り、網に引つ掛かって
来たのは、霊帝が寵愛ちょうあいしていた宦官の若きエース【蹇碩けんせき】の、その
叔父であった。彼はタカをくくって禁じられていた夜間通行を敢えて
破って見せたのである。《都尉ごとき下っっぱ役人風情ふぜい生意気なまいきに!》
身の程を思い知らせてやらんとばかりに傲然ごうぜんと、ふんり返って
現われた。曹操の部下達は、彼の身分を聴かされるや皆へへーッ
とばかりに平れ伏した。だが曹操本人は、畏れ入るどころか、その
超大物を即刻なぐり殺してしまったのである!さあ宮廷は大騒ぎ。
だが、法の正義は曹操に在る。 宦官達は歯軋りして悔しがるが、
直接手を下す事は出来無い。そこでていよく、曹操を地方官『頓丘とんきゅう
の長官』へと昇進させて、都の中央から追い払った。

だがこの一件で、曹操孟徳の威名は一躍、全国区へと
広まった・・・・・
【法の持つ絶対的な効力】を逆手に取った曹操の荒業であった
が、ここで我々が留意しておくべきは・・・・この時の、彼の若き
原体験(法の威力は、のちの《曹操戦略の基本》的な方向を、
既に内包している点であろう。
 以後、再び中央に呼び戻され、議郎・騎都尉・西園せいえん八校尉はっこうい
(皇帝直属の、若き八人の近衛部隊長) と、覇業への階段を
昇り続けてゆくのであった。

「君の父上とは、何時いつかゆっくり、酒でもみ交わしながら、
 改めて礼を尽くそうと思っておるんじゃよ。」

15年後、曹操が【魏王】と成った時、それは実現される。

「そのお言葉、是非父に伝えまする。あの頑固な父も、さぞや
 感激致しましょう。」
「うん、そうして呉れ。折りを観て、〈司馬の八達〉、ことごとく、この
 曹操の帷幕いばくに召し抱えようほどにな。」
長兄の司馬朗しばろう伯達はくたつは既に9年前に一度、司空掾属えんぞくとして直接
曹操に仕えていた。一旦病を得て下野したが、現在は元城げんじょう県の
長官・令を務めている。
重用され、いずれ《丞相じょうしょう主簿》の大任に就く。
 また次弟・三男の司馬孚しばふ淑達しゅくたつも、やがて召し 出されて、政権
中枢の《尚書令》の重責に就いてゆく。 この弟は全く野心とは
無縁な人柄で、のち仲達が三国を統一する上で、 (その存在
自身が相手を無意識裡に油断させると云う意味で)重大な援護
者と成る・・・・・
だが、司馬一門 VS曹一族】とのせめぎあいが
表面化するのは、未だ未だ三十数年も先の事である。
知るや知らずや、司馬一族中で最高の人物が今、その
曹一族の中へ、正式に招き入れられたのである・・・・。
「司馬一門にとって、これにすぐる栄誉は、他に御座居ませぬ。
 父に成り代わり、心より御礼申し上げまする。」
ちなみに四男以下は・・・・(李達)・じゅん(顕達)・しん(恵達)・
つう(雅達)・びん(幼達)である。 みな、逸材と謳われてゆく。
「うん、では今宵、席を設けて、【
】に会って貰う事にする。
 それ迄ゆっくり、城内の見物でもしておるがよい。」
「有り難き御心遣いでは御座居ますが、この仲達、直ぐにでも
 若君にお会いしとう御座居まする!」
「ハハハ、結構な事じゃ。佳い。では好きに致せ。」
「お会いするのが愉しみで御座居まする!」
本心から、仲達はそう思った。  
「誰か!おい誰か、この者を子桓しかん(曹丕)の元へ案内せよ。」


仲達が退室した後、曹操は暫し、動かなかった。
一度遇ったら、生涯忘れられぬ様な何かが残 る・・・・
そこへ荀或が入って来た。
「ーーうで御座いました?」
「ウム、予想以上の奴じゃ。だが・・・何とも謂えぬ者でもある・・・。」
「ーーと、申されますと?」
「・・・・あやつには・・・・狼顧ころうそうが有る・・・・。」

「ーー
」 曹操一流の造語 であった。
・・・・丸で、狼が首をひねって後を振り返った様な、ゾッとする
凄味の有る奴・・・・群れを成すを好まず、いつも独り沈着に、
機をうかがっている様な、どこか尋常では無い、底光りのする男
・・・・と云う事であろうか?
独り狼

 荀或に謂わせれば、その人柄に測り知れない奥深さがある、
と云う事になるのだが・・・・
わかクシテ奇節きせつア リ
聡朗ニシテ大略多ク博学洽聞こうもん
儒教ニ伏膺ふくよう
 漢末大イニ乱ルルヤ常ニ慨然がいぜんトシテ
               天
下ヲうれウルノ心有リ
若い時から節操高く、聡明で爽やか、壮大な志を 抱き、広く学問を
修め、人の話をよく聴き、藐然ばくぜんと心に期するもの有りしが如くなり・・・

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