第19節

           


三位一体が成立したばかりの此の時期、曹操が置かれ
て居た軍事的状況は、非常に厳しいものだった・・・・
                         と、仲達は聴いている
西の山岳地帯を除いた3方面(北・東・南)全てで、強力な敵対
勢力と直面していたのである。
中でも最大にして最強の敵は、曹操の5倍とも10倍とも謂わ
れる総兵力を有するの「袁紹」であった。
                                     りょ ふ
そして には死闘を繰り返す「呂布」が在り、
                         ちょうしゅう
には更に, 小煩い「
張繍」が居た。 其の張繍の背後には、
                 りゅうひょう
彼を支援する「劉表」が控えて居る・・・と云う塩梅であった。
−−だが此の時期の曹操は、至って意気軒昂。恐れる処か、
逆に覇道に向かって、旺盛な野心を煮えたぎらせていた。
攻める!今の俺には、攻める以外に道は無いのだ。》と
腹を括り、全身全霊に大いなる野望を漲らせて居るのだった。
・・・・無論、其れだけの周到な準備を、営々と為し続け、やっと
三位一体に明日を見出す、自信の裏付けが有っての事では
あった。  ーーそして、大きく成った自軍を統括する、本格的な
軍師を招く事にした。 ・・・・出て来たその男は、曹操より
2歳年下の39歳。ひ弱そうでショボクレた、うだつの上がらぬ事
この上もない外見だった。而して話してみれば、
外怯内勇、外弱内弱ニシテ、善ヲ伐ラズ、労ヲ 施ス無ク、智ハ
及ブベキモ、愚ハ及ブ不可ラズ。顔子・寧武ト雖ドモ、過グル
能ワズ
』であった。ーー其の5年前・・・・幼帝を拉致して暴虐の
限りを尽くす薫卓の政権下に在った彼は、『強力な軍隊に依拠
しているとは言っても、所詮は只の一人の男に過ぎない』と言っ
て、敢然と董卓暗殺に立ち上がった実績が有る。凡そ、其の冴
えぬ風貌とは結び着かぬ豪胆さであった。会見後、曹操は荀或
と鐘瑤に言ったそうだ。
  こうた つ
「公達は、並々ならぬ人物じゃ。儂が彼と事を計る事が出来れば、
 天下に何の憂うる事が在ろうか!」
直ちに”
軍師”とした。爾来じらい、曹操軍団の軍師と言えば荀攸じゅんゆう】、
と長くその大任を果たしてゆく。
ちなみに、荀攸に与えられた、この《
軍 師》の称号ーー公式な
官職名であり、世間一般の言う、広い意味で使う策略家とは訳
          ★ ★ ★ ★ ★                     ★ ★ ★
が違う。正式な
軍師は、この荀攸公達唯一人だけである。
尚、軍師が参謀総長だとすれば、一般の参謀に相当するのが
軍師祭酒さいしゅ】と云う官職名で、員数も可成り多く2年後に置かれる。
       さいしゅ                            ごうゆう  
(※ 
祭酒とは妙な名だが、元々は郷邑社会において、行事で
  最初に神に酒を捧げる父老の役名である。人々を指導する
  と云う意味合いを持つ。漢中地方の五斗米道ごとべいどうと云う宗教組織
  でも、リーダー達を”祭酒”と呼んでいる。)
荀攸を【軍師】とした曹操は同時に、荀ケを【侍中】に、郭嘉を
【司令祭酒】(軍師祭酒の前身)とした。曹操本人は【大将軍】を
袁紹に譲渡して【司空】となっていた。
荀ケじゅんいく33歳(侍中)、荀 攸じゅんゆう39歳(軍師)、
郭嘉かくか26歳(司令祭酒)と、
ここに曹操政権の代表的ブレーンが出揃った訳である。

その〔
軍師〕 が、早速、曹操に進言(諫言)した。この時の曹操は、
三位一体が成立したばかりで、あたかも、いきり立つ悍馬かんばが暴走せん
とするかの如き鼻息であった。それに冷水を浴びせたのである。
「ーー
張繍ちょうしゅう劉表りゅうひょうは、互いに助け合っているから強力なのです。
然しながら、張繍は遊撃軍として劉表に食糧を頼っております故、
もし劉表が兵糧を供給できなければ、勢い離反するに違いありま
せぬ。
軍の出動は見合わせて機会を待ち、誘いを掛けて味方に
引き入れるに越した事はありませんな。」
ここで荀攸が言う 『
張 繍ちょうしゅう』 とはーー曹操領の直ぐ下腹(南西)、
許都からでも僅か180キロの『えん』に蟠踞ばんきょする”董卓系残党軍”
・・・・で、あった。食糧危機の長安では喰えなくなった「張済ちょうさい」が率
いて、此処に割り込んで来て居たのだ。だが本人は略奪行為中
に落命し、それを従子いとこの『
張繍ちょうしゅう』が引き継いでいたのである。
元々は西方の”胡騎こき”部隊だから、けっこう強くあなどれない。
東の 『
呂布りょふ』 も、先に長安から流れ落ちて来たもので、その年
(建安元年)の春、徐州を『劉備』から乗っ取っていた。そして行き
場を失った劉備は、つい先日、曹操の懐に転がり込んで来たば
かり、と云う状況にあった。
        (劉備は、人集めの看板・広告塔として厚遇された。)
196年勢力図
但し『
袁紹えんしょう』は、 彼の北に在る『公孫讃こうそんさん』との対決を残し、地形的に
も黄河の向こう側に居る。 又、『
呂 布』(徐州)とは、ややバッファ
緩衝かんしょう・空白)地帯が在った。 又、「寿春」の『袁術えんじゅつ』には実力無く、
長江の南で急速に版図を拡大している『孫策そんさく』は、「江東平定戦」
に没頭しており、差し当たりの脅威には成り得無い。
ーーとなれば、この北・東・南の三敵のうち、最優先すべき今の
相手は・・・・《
南の張繍ちょうしゅう》であった!!
張繍ちょうしゅう】 の依拠する南陽郡の《えん》と〔許都きょと〕の在る潁川えいせん郡とは
同一経済圏内に在り、下腹と云うより喉元と言った位置関係に
当たっている。国境線からは僅か100キ ロ・・・・。許都防衛上
も、〈次の次〉の 【呂布つぶし】 に専念する為にも、絶対に制圧
して措かねばならぬ、厄介な敵であったのだ。 ーーそれに対し、
軍師・荀攸は、出兵せず持久戦で臨んだ方がベストである、 と
進言して来たのである。・・・・だが曹操は、これを採用せず無視
した
。曹操にしてみれば、〈そんな悠長な事はしておれない〉と云う
切羽詰まった戦術眼があったのだ。急いでいた。
袁紹による許都攻撃を、非常なる脅威として最も警戒し
畏れていたのである。だから、大将軍の官位を渡せと言われれば
ハイどうぞ!と渡して御機嫌を取った。そもそも袁紹は、曹操など
2枚も3枚も格下の子分みたいに思っている。
《子分の癖に大親分を差し置いて、皇帝を奉戴するとは何事だ!
献帝は儂が面倒みるから、近く
の甄(けん)城へお移しせよ!》と、
しきりに言って来ていた。当然曹操は、のらりくらりと、言を左右に
して拒否しているが、埒が明かぬと視て、実力で奪いに来る可能
性も高かったのだ。
その袁紹が動き出さぬ内に、その他の敵は全て片着けて措か
ねばならぬ。
先ずは、今すぐ南の張繍を叩き潰しておきたい

ごわいと言っても、たかだか万に過ぎぬ相手である。荊州の劉表
と連合されると厄介だが、張繍を単独に急襲すれば、間違い無く
叩き潰せる。  ・・・そう踏んだ曹操は、決断すや間髪を置かず、
明くる建安2年(197年)正月早々、ほぼ其の全力を以って、
えん城攻撃に撃って出た
一方の【張繍ちょうしゅう】・・・・同郷の
ドエラい男★★★★★ と手を組んでいた。彼の
参謀に迎えられている、50歳に成る男で、のち《
希代けだいの策士》と
謳われる、”鬼才”とのコンビを結成していたのである。
                   か   く    ぶん  わ   
その男の名はーー
言羽 文和 (ク はべんに
                                  ちょうりょう   ちんぺい
何しろ、前漢建国の2大策士「張良」・「陳平」に次ぐ奇才であると、
『正史』でも評されている逸物なのだ。
   
さん遺策いさく無ク、権変けんぺん経達けいたつス。レ良・平ノカ!
何を考えているのか主君・張繍にすら判らぬが、《死なば諸共!》
と完全に信頼しきり、子孫の礼をとって厚遇していた。
賈クかく・・・出身は 中国最西端・りょう武威ぶい姑臧こそう県。
          こうれん
若い時、孝廉に選ばれて都に出ているからには、秀才の誉れも
高かったに違い無い。だが病を得て官(郎)を辞し、涼州へ帰る。
その途中、氏族ていぞく(氏の下に一が正字)の叛乱集団と出喰わし、
同行の数十名は全て捕らえられた。 そして全員が殺されたが、
唯一人、賈クだけは丁重に送り出されると云う事件があった。
「私は段公(太尉の段ケイ)の外孫である。お前達は儂を殺したら
他の者達とは別に埋葬せよ。儂の家の者は必ず充分に礼をして
引き取るだろうからな。」

若者は咄嗟の機略で 大物の名を語り、てい族をだました(脅した)ので
あるが、余りに堂々としていた為、彼等は盟約まで結んで見送った
のだった。・・・・この場面、ただやたら、大物の名を出せばいい、と
云うものではない。ましてや相手は、価値観の違う異民族である。
彼等が誰を一番畏れていて効果があるかを、的確に選択しなけれ
ばならない。そして何より、彼自身の態度や風貌が、相手に信用さ
れなければ一巻の終わりである。些かでも不信を抱かれる様な言
動を見せていたら、殺されていた。それに、言った言葉が憎いでは
ないか。命乞いする様な素振りは微塵も見せずそれでいて相手を
ジンワリと威嚇し平伏させてしまっている・・・・そう云う意味で、この
若き日のエピソードは、彼の在り方や風貌までを、よく伝えていると
言えよう。
ーーその後何十年間、彼の名は青史に現れぬが・・・・
やがて、「
董卓」が洛陽宮を占拠して、献帝を即位させると、董卓
と同郷(涼州人)の賈クは呼び出される。
      えん                     
太尉掾・平津都尉・討虜校尉と栄転する。董卓が暗殺されると、
                      り かく    はんかい  ちょうさい
同郷の校尉だった「李催」「郭氾」「張済」等は軍隊を解散し、間道
伝いに涼州へ逃げ戻ろうとしてパニくっていた。
ーーその時、賈クは言ったものだった(単に同郷の好みで)・・・・
「聞けば長安(新政権)では、我ら涼州人を皆殺しにしようと議論し
ている由。それなのに諸君らは、兵隊達を棄てて単独で行かれる。
それでは亭長一人で、諸君を捕らえる事が出来ますぞ。
軍勢を率いて西へ向かい、行く先々で軍兵を集め、それで長安を
攻撃して、董公の復讐をする方がよいでしょう。 幸いにして上手く
事が運んだ場合には、天子を奉じて天下を征伐すればよし!もし、
上手く運ばなかった場合には、それから逃亡しても遅くは無いでしょう。」彼等は皆もっともだと思い、そこで「
李催・りかく」はその提言どおり
動き、逆クーデターに成功する。(※事の詳細は第2章にて述べる)
・・・・だが、この件に対しては、正史補註の斐松之が、えらく立腹
している。確かに正鵠せいこくを得ている。『賈クの片言へんげんのせいで、国家は
衰微の憂き目に遭い、人民は周時代末期と同様な苛酷さを味わさ
れる事となったのだ。賈クの犯罪の、何と大きい事よ!

      り かく
だが李催らは大感謝・大喜びで、彼を侯に封じようとした。「あれは
生命を救う為の計略でした。どこに功績などありましょうや」と固辞。
      ぼくや  
尚書僕射に任じようとすると、「尚書僕射は諸官を取り仕切る首長
であり、天下の人々が期待を掛ける官です。私は元々、人を抑え
る名声はありませんから、人々を心服させる事にはなりません。
たとえ私が、名誉と利益に盲目であったとしましても、国家をどうし
たらよいのかは考えます。」と、之も固辞。
此処には賈クと云う人物の、本音と処世の術との原形が窺えよう。

《・・・同郷仲間の為に、少し我が才を示してやったが、どうせこんな
連中では又こんなドン詰まりの辺境政権では長く持つまい。ここは
一つ、朝廷に恩を売っておく役回りに徹しよう。そうして居れば、
おのずから天下に我が名声も高まろう・・・・》そこで尚書の官を引き
受け、主として官吏の登用を司る。又、影ながら献帝周辺に気を配り
帝が強く洛陽への帰還(東行)を望んでいる事を知り、その実現に向
けて密かに策を練った。献帝も彼を頼りにした。
                   り かく      はんか い
ーーやがて・・・「李催」は「郭氾」と仲間割れ。その政争が長期化
して市街戦が繰り返されると、自派を強化する為に、チベット系の
きょう族部隊1万近くを呼び寄せた。そしてその歓心を得る為、皇帝
用の品々や絹織物を横流しして与えた。 更にはいずれ、女官や
女達も与えると約束して戦わせた。だから羌族は再三再四、宮門
までやって来ては、中を窺いながら、女達を出せと喚き立てた。
献帝はすっかり頭を痛め、賈クを密かに呼んで対策を構ずるよう
依頼した。・・・・そこで賈クかくは「李催りかく」に気付かれぬように、きょう族の
大将達を呼び集めて供応した上で、密約を与えた。
今直ちに兵をまとめて故郷へ帰るなら、女などより何倍も価値の
有る、《爵位》と云うものを、朝廷から貰ってやろう。之は中国人で
さえ、滅多に貰えるものでは無く、之を身に付けていれば、将来、
漢人とのトラブルも起きない。それに朝廷から宝物も出させよう。
女など何処にでも居よう。異国の地で、兵を失い傷付かせて留ま
るのと較べて、どっちがいいと思う?

理に叶う説得を受けた羌族達は、間もなく全て 故郷へ引き上げ
ていった。これに因り、李催りかくの衰退は決定的となり、郭氾かくわいとの和
睦が成立。〔
献帝東行けんていとうこう〕のお膳立てが整う事となった。
又、《東行》での撤退戦(追撃戦)で、危うく処刑されそうに
なった司空の趙温ちょうおん・太常の王偉おうい・衛尉の周忠しゅうちゅう・司隷校尉の栄邵えいしょう
等の命を救ったのも、李催政権内に居た賈クの主張が有った為
であった。 ーーこの後、賈クは李催の元を離れ(見切りを付け)、
同郷同郡出身の将軍・
段 猥だんわいの元に身を寄せる。 段猥は表面上
大歓迎したが、内心は、権力を乗っ取られはしないかと戦々恐々
であった。にも拘わらず、十全の礼を以って厚遇し続ける段猥の
態度に、賈クは次第に不安を募らせていく。
そんな処へ、
張繍ちょうしゅうからの招きが届けられたのであった。
「段猥はあなたを手厚く待遇していますのに、どうして立ち去られ
るのです?」
段猥だんわいは猜疑心の強い性格で私に対して警戒心を抱いています。
礼は手厚いとは言っても、この先長く頼りにする事は出来ず、将来
生命を狙われる事になるでしょう。私が立ち去れば喜ぶに違いあり
ませんし、又、私が外部に於いて強力な支援者と結び付く事を期待
し、必ず私の妻子を大切にして呉れるでしょう。 張繍の方も参謀が
居無いからとて、私を手に入れたいと願っています。ですから家族も
私自身も、共に安全を保てるに違いありません。」 
・・・・まさに、その通りと成る。
賈クかくは、張繍ちょうしゅうの元に到着するや、直ちに、
              《劉表との同盟 を進言した。
ーーこちらは流れ者部隊の宿命で、慢性的な兵糧不足であるが、
荊州には豊かな経済力が有る。あちらはモンロー主義で戦争は
したくないが、張繍軍は実戦を積み重ねて来ている精強軍である。
荊州軍に成り代わり、曹操の北からの侵攻を、その入り口で防い
でやろう。その代わり、食糧補給の方は宜しく・・・・互いの利益が
一致しているのだから、必ず成立すると読んだのである。
・・・・と云う事で、トントン拍子に《劉表との同盟》は成立し、これで
ひと先ず、張繍の懸案は解消された。
後はさて、曹操が実際に押し寄せて来た時の作戦・戦術である。
希代けだいの策 士・賈クかく】 に、何の策も無い筈はあるまい・・・・

処でここに、道ならぬ恋が有った。
賈クかくは、その事を張繍から打ち明けられた。ーー実は張繍には・・・・
戦死したばかり★★★叔父おじ・「張済ちょうさいの妻」であった、未だうら若い
愛人が居たのである。その2人の”関係”が、何時から始まった
のかは定かで無いが、まあ、未亡人と成った直後からであったろう。
その、問題の★★★、妖艶な未亡人の名は・・・鄒氏すうしと言った。
         
なぜ”問題”なのか?と謂えばーー当時の、厳しい儒教倫理社会
に於いては、未亡人とは言え、「叔父おじの妻」と不義密通する事は、
ケダモノ以下の外道げどうの所業とされたからであった。ましてや人の上に
立つ一国一城の主君たる身分ともなれば、部下に示しがつかず
事が知れれば人間失格・総スカンに会い、身の破滅に直結する。
だから無論の事、入り浸ったりは出来ぬから、素知らぬていで人目
を避け、程遠からぬ処にカモフラージュして住まわせていた。
《ーーいずれあきらめさせねばならぬが、どうせなら・・・・》
この男に掛かっては、他人の”邪恋”も、謀略上の一要素として、
その脳髄にインプットされてゆく。
・・・だが然し、禁断ゆえに異常に高まり、燃え上がる愛欲と云う
ものが在る。相手が絶世の美形で、妖艶な女体を開花したばかり
であれば尚の事、それは理性や言葉で止められるものでは無い。
人目を忍ぶ罪悪感は、二人の逢瀬を、一層激しくも狂おしく燃え立
たせていたであろう。不純とされる故に、純粋で有り得る・・・と云う
妙に生々しい愛欲図絵に陥った主君。 その人間臭い不謹慎さが、
策士の策士たる戦術ごごろいたくすぐった・・・
197年(三位一体が整った翌年)1月早々・・・・
曹操は、〔張繍討伐〕の為、「許都」を出撃した。許都防衛の為に、
最も信頼する【荀ケじゅんいく】と【夏侯惇かこうとん】の2人を残す以外、自らが全軍を
率いての急進撃であった。先鋒には【
于禁うきん】と【楽進がくしん】の肝っ玉コンビ。
別動軍として【
曹仁そうじん】と、汝南の【李通りつう】が不測の事態に備える。
曹操本軍(中軍)には軍師【
荀攸じゅんゆう】が随行し、その身辺を最強の
猛将【
典韋てんい】と、虎痴こちこと【許 猪きょちょ】が守護していた。
ーーその兵力およそ3万、勝利には絶対の自信があった。
その証拠に曹操は、嫡男ちゃくなん・『
曹昂そうこう』や、おいの『曹安民そうあんみん』は本より、
更には10歳の『
曹丕そうひ』まで初陣させていた。
(※ちなみに此の時期、魏の五星将のうち、未だ3人がこの軍中には欠けていた。
 『徐晃じょこう』は帰順したばかり、『張遼ちょうりょう』は呂布<軍内に在り、『張郤ちょうごう』もまた袁紹軍中に居た。)
さて処がーー国境をおかして南進し、敵勢力圏内に踏み入ったの
だが・・・・アレレ??何の抵抗を受ける事も無かった。そればかりか
敵の斥候せっこう騎兵の姿さえ唯の一騎も現れないではないか。
「張繍め、何を考えておる?」
「ご油断めさるな。何せ希代の策士・賈クが付いております。この
儘すんなりゆくとは思えませぬ。」
「ウム、充分承知しておる・・・。」
然し、張繍の 〔降伏・帰順〕 は本物であった。
程cていいく】ら、 目端の利く者達を先行させ、十二分に探知させ、裏切
や奸計の有無を徹底的に調べさせたが、結論は《
シロ》 であった。
そこで曹操は念の為、張繍の軍兵を拠城から遠ざけさせた上で、
宛 城えんじょうへと乗り込んだ。そして早速、張繍・賈クのコンビを呼び
出して、その眼で直に真意を問い質してみるのだった。
「無益なあらがいを棄て、朝廷(曹操)に仕えようとは殊勝である。して
尋ねるが、何故こう決断したのか、返答してみせよ。」
「ハハ〜!そもそも我が叔父おじ張済ちょうさいは、洛陽時代から既に朝廷に
お仕え致しておりました。たまたま私が跡を継ぎ、此の地に留まる
事とはなりましたが、新たに献帝を奉戴された司空(曹操)どのの
御威光を眼の当たりに致し、この張繍、そのお志しの一端に加え
て戴ければ本望と思い、帰参する事とした次第に御座いまする。」
「・・・フム。では賈クに尋く。ーーその方・・・・
            わしたぶらかす魂胆であろう
ズバリ、斬り込んだ。が、相手もさる者、涼しい顔で平然と答えた。
彼の鉄面皮は、〔てい族脱出〕以来の筋金入り。
「滅相も御座いませぬ。主君(張繍)に事の理非を説き、帰順を敢えて
勧めたのも、この賈ク文和に御座います。その事情は、誰に尋ねて
戴いても結構。私自身、司空様の下で思う存分、我が才を振るって
みたいと、前々から願っておった者で御座居ます。」
・・・・暫し、視線を切り結ぶ両者・・・・
「よかろう。その方等の帰参を認め、厚遇致すであろう。以後、忠勤
に励んで呉れ。」  「ハハッ、有り難き幸せに御座いまする

これで、正式な謁見は終了した。だが別れ際、曹操は軽口を叩い
て退出して行った。
「ところで張繍。此処には、佳き女が居ったぞ。既に”味見”させて
貰ったが、得も言われぬ美味でな。これから又、ジックリ存分に
楽しませて貰うところじゃ。」
ーーそ、其れは、もしや・・・!!
「なに、どうせ張済の未亡人★★★じゃ。儂が囲ったとて、何の問題も無
かろうがな・・・・」曹操は嫌味を言った訳ではない。二人がまさか、
〔禁断の関係〕にあったなど、知ってはいなかった。ほんの軽口の
つもりであった。
《ーー
あ!ああ・・・・!!
何時、どう云う形で『その情報★★☆☆』を、曹操の耳に流し込ませるか?
それが問題であった。極く自然に、それとなく教えなれれば警戒
されようし、又、張繍との信頼関係にヒビが入る。その時ちょうど、
上手いチャンスが巡って来た。
曹操が入城する前、下見検分に『
程cていいく』がやって来たのだ。彼は
元気ビンビンの男ではあったが、何せ此の時、既に70に近い老
境に在った。まさか此の老体なら、《
その玉》を自分のモノにして
しまう事はあるまい。他の者なら、曹操に知らせるより先に、直ち
に己のモノにしてしまうであろう。策士の眼からみても、それ程の
であっ た。 ーーそこで賈ク、程cの爺様を、素知らぬ顔で
鄒氏すうし】の隠れ館に案内して見せた・・・・読みはズバリ適中
『佳い女が居りましたぞ!』 と、曹操に伝わったのであ る。

策士の賈ク、平伏した儘チラと傍らの主君・張繍の様子をうかがえば
・・・・隣の張繍。ブルブルと全身を戦慄わななかせ、顔面蒼白。歯を食い
縛り、両の拳を握り締め、煩悩ぼんのうと屈辱にブチ切れそうになっている。
そうです。憎みなされ!殺してやりたいと本気で思いなされよ!
その無念・怨みをバネに、不退転の決意を固めるのです。そして、
この賈クの狙い通り・・・・曹操は女の股の中で寝首を刈かれ、
天下の物笑いと成ってーー・・・涯てるのです!

        
鄒氏すうしーー 曹操の人並み外れた女性遍歴の中でもかつ
これ程の「女体」に出会った事は無かった。
凄艶と言おうか妖艶
と言おうか、性欲の対象としては、これほど極上な女体は初めて
であった男を狂わせる凹凸と表情と声、そして姿態の乱れ方の
全てを具えていた。拒もうとするが、ついには秘所に男を吸い寄せ
あられも無く、くねって見せる妖しき女体。切ない喘ぎと啜り泣きが
いつしか歓喜の表情へと変わる征服感。美少女の様に可憐な恥じ
らいの咲く顔立ち。その癖、衣を剥ぎ取られれば現れて来る、熟れ
きった成女の体。言いなりの格好にされ、哀しくも狂おしく身悶えする
淫らな美しさを持った知性。裏も表も、前も後も、男を歓ばせぬもの
一つとて無い、愛欲の器・・・・それが、鄒氏すうし であった。
その日も次の日も、その度ごとに異なった姿態と反応を見せる、
尽き無い愛欲の泉・・・ーーこうして曹操は、42歳にして初めて
女に溺れる と云う言葉の意味を実感して已まなかった
のである・・・・
             
「賈クよ、嘲笑あざわらって呉れ!煩悩ぼんのうに焼き尽くされる小人しょうじんの、この儂を
さげすんで呉れ!」  張繍ちょうしゅうは壁を拳で叩き、額を床に打ち付けて、
身悶えして叫んだ。「だが、だが、どうしても儂には我慢できん!
見っとも無くてもよい! 曹操めを八つ裂きにして、殺してやる!
鄒氏をこの手に取り戻すぞ!」
言うや張繍、ガバと賈クの前に土下座した。
「ーー頼む!何とかして呉れ!所詮しょせんわしはこれだけの男じゃ。だが
何と言われようと、今の此の苦しみには耐えられぬ。頼む、どうか
儂に怨みを晴らさせて呉れ!鄒氏は誰にもわたさぬ!何時までも
ズッと、我が手で抱き締めていたいのじゃ!」
「ーー心得ました・・・・」  賈クが静かに言うと、主君・張繍はすが
様な眼で策士を見上げた。
「既にこの胸に、その策は出来ております。もう暫 くだけ、ご辛抱
下され・・・」 「おお、我が胸中、察して呉れるか!有り難や、頼む!
一生恩に着ようぞ!」
ーーその翌日、曹操はこの帰順を大いに喜び、張繍とその
指揮官達を招き、酒盛りの大宴会を催した。
曹操は余ほど御満悦と見え、みずから徳利を持つと、張繍側の
諸将一人一人に酒を注いで廻る、パフォーマンスを見せた。普通
なら、これで座はなごみ、その雰囲気は一段と盛り上がって、にぎ
かな親交の場と成る。・・・・処が、この日の大宴会は、華やいだり
くつろいだ空気は全く生まれ無かった。張繍がこの場で己の感情
を表に現わす筈は無いから、張繍側にその原因があった訳では
無かった。
ーーその理由とは・・・・曹操に酒を注がれる相手は、その直前、
大斧おおおの持った山の様な巨人に、ギロリとめ付けられた上、刃
の部分だけでも一尺(23センチ)の幅が有るバカデカイ”大斧”を振り
上げられるのだから、堪ったものでは無かった。生きた心地もせず
酒の味など判ろう筈も無かったのである。
ひと廻り注ぎ終わっても、その巨人はピタリと曹操の背後で大斧
を構え、眼をランランと怒らせては、諸将の一挙手一投足を睨み
続けていた。 こうなるともう、ワイワイやっているのは曹操側の者
達ばかり。張繍側の者は眼を上げる事も出来ず、終始黙りこくり、
丸でお通夜の様な有様であった。 降伏の儀式なのだから当然の
事ではあるが、『俺達は未だ、お前等を、完全には信用して居らん
のだぞ!
』 という家臣団の意志表示でもある訳だった。
《フフ、これは丁度よい・・・変に眼を合わせて、気を 使わずに済む
と云うものじゃ・・・。》 独り、賈クだけが、ほくそ笑んでいた。
この、2メートルを裕に超える巨人ーー誰あろう・・・・
帳下ちょかノ壮士ニ典君てんくん在リ、 一双戟そうげき八十きん
ーーとはやされる男・・・・典韋てんいその人であった。(字 は伝わらず)
 
容貌ハ立派デ、筋力ハ 人並ひとなはずレテすぐレ、
              かた節義せつぎト 侠気きょうきノ持チ主

だった。重く大きい〔牙門旗がもんき〕=(大将旗)は、数名掛かりで掲げる
ものなのだが、典韋は其れを片手で建てて見せた。
酒食を好み、飲み食いの量は人の2倍だった。 御前で食事をたまわ
 るたびに大変な飲みっぷりで、右と左から勧め、給仕を数人に
 増やしてやっと間に合った。太祖
(曹操)は、その爽快・豪快な
 健啖けんたん振りを見事だと感心した。典韋は好んで大きな双戟そうげき長刀おおがたな
 などを持っていた。その為に軍中では、

 〔
帳下(曹操の幕 下)の壮士に典君有り、一双戟八十斤を提ぐ と、
 囃した。
』                  ーー『正史・典韋伝』ーー
彼がその怪力と武勇を世に知られる様になったのは、若い
時に、他人の為に”仇討ち”をしてやった事件がきっかけであった。
相手は元県令で、警護の厳しい館内に住んで居た。そこで典韋は
牛車に鶏と酒を載せ訪問者を装い、門が開くと同時に飛び込んで
ふところ匕首あいくちで夫婦を刺殺した。ーーその後ゆっくり退出すると、車
の上の刀と戟を取り、歩き去る。 追っ手が数百人迫ったが、その
巨体と迫力に手が出せない。そのままゾロゾロ4・5里歩くと、加勢
がやって来て、追っ手の数は1000人となった。 これで心強くなっ
た追っ手達は、一斉に撃ち掛かった。
掛け値無しの一対一千 であった。 だが結局、あちこちで
戦って脱出してしまったのである・・・!!
その武勇伝がきっかけとなり、夏侯惇に招かれ、曹操に目を掛けら
れる事となった。
先年の「VS
呂布りょふ」ではーー未明から日暮れまでの激闘・
死闘となったが、其処での典韋の活躍は、鬼神を欺く凄絶なもの
であった。・・・・曹操が敵陣を陥す決死隊を募るや、典韋は真っ先
に応じ、隊士数十人を指揮した。全員、二重の衣服に2枚のよろい
着込ませ、防御用の楯は棄てさせ、攻撃専用とする為、長いほこ
げきだけを両手にして出撃した。 西に東に激闘しては、敵を求めて
北へと奔り、そして再び南へ戻る。 やがて日没直前、敵が最後の
総攻撃を仕掛けて来た。 ・・・・だがこの時、典韋の両眼は、吹き出
す鮮血の為に全く視力を失い、敵影すら見えなくなっていた。だが、
典韋はひるむ事無く、手に10余本のげきを持つと、草村に身を潜め、
等人とうじん(選抜隊士)を傍らに控えさせて、己の眼の代わりをさせた。
「敵が十歩の所まで来たら、そう申せ。」
ワラワラと敵兵が押して来た。 「十歩です
」 「五歩で申せ。」
遂に伏せた二人の直前に敵兵が来た。恐怖に叫ぶ等人。
敵が来ましたあ〜
大声と共に立ち上がった巨人が、手にした戟をズンと振るうや、
確かな手応えと共に敵の絶叫が挙がる。
「左に一歩!」、「右に二歩!」、「正面!」 「右!」
怪力で振るわれる双戟は、鎧ごと骨までブッタ斬る。 十数人斬り
裂くと、戟も刃こぼれしてゆく。敵を斬る音の変化と切れ味の鈍り
具合に拠って、また新しい得物に持ち代えると、更に踏み込む。
「左!」「正面!」 「右!」ーーそして2刻後、敵は退いていった・・・
曹操は典韋を〔都尉〕として側近くに留め置き、親衛隊士
数百を率いて常に大天幕(本営)の廻りを見張らせた。そして最近
では〔校尉〕とし、曹操の身辺警護の全てを一任していたのである。
性質は極めて忠義で慎み 深く、常に一日中
  かたわら侍立じりつし、夜は天幕の側近くに泊まり、
      自分の寝所に帰る事はまれであった。

今回も曹操本人は、別邸の奥で女体に溺れきっていたが、そんな
事は意にも介さず、典韋は何時も通り、きっちりと、その門の前に
寝起きし、食事も大小便も其の場で済ます徹底ぶりであった。

その数日後、曹操の元へ、張繍からの許可申請書が届けられた。
軍を (曹操軍団に編入させる為)移動し、大道だいどう方面に向かいたい
 のですが、その際、曹公の陣営内を通過致す事となりますので、
 宜しく御許可願いたし。
ーーこれは、ちょっと解説を要する。
今、曹操が進駐しているのは、張繍の本城であった宛城えんじょうである。
それに対し張繍の軍は、降伏した時、 その「宛城」の60キロ南の
じょう》に、退かせた儘になっていたのである。無論、降伏の儀式
や大宴会が行われ、曹操が鄒氏すうしを囲っているのは、北寄りの《

である。・・・・つまり、降伏したが、未だ《穣城》に留まって居る張繍
配下の軍勢を、曹操軍団へ組み入れる為に、南(穣)から北上させ、
許都方面へ行かせる手筈となっていたのである。その際、《宛》を
通過するので宜しくーーと云う許可申請であったのだ。
降伏した折の誓約だったから、直ちに許可した。この時、張繍は、
輜重しちょうが多いのに、手持ちの車が少ないので、荷物を減らす為、
兵達に、めいめい鎧を着けさせる事も、お許し願いたい
」と、言い
添えた。軍装や武具まで車に積んでしまうと、他の輜重が積めなく
なってしまう。だから、
運搬目的の為、兵士には鎧を着込ませ、手
にも各自、武具を携行させたいと思いますが、宜しいでしょうか?

・・・と云う事であった。 確かに、万余の人数分の軍装・武具を全て
積むとなれば膨大な量となる。
「ーー前例も在る事だし、仕方あるまい。」
これ亦、認められた。・・・・が・・・完全武装の、昨日まで敵だった
軍団が、曹操本陣の脇を通過するのである。
通常の曹操なら、《面妖あやしい!》と直感、警戒する筈である。だが、
ここで【
鄒氏すうし】が効いていた。すっかりヤニ下がって、政務も軍務も
そこそこに、別邸の「女の館」に入り浸り、女体の悦楽に溺れきっ
ている曹操であった。腎虚じんきょ所為せいで、いつものえが見られ無い。

(※『正史』は・・・・この時、張繍の不倫関係を知った曹操は、張繍
 の怨恨による裏切りを恐れ、密かに彼の暗殺を指示したのだが、
 其の情報がいち速く張繍の耳に漏れ、其れが原因で、事態が急
 変した・・・・としている)

ーーそして、降伏から10日経った其の日、
 
    ついに・・・・・

 その事件は勃発した・・・・
!!

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