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強さの秘密
            ーー三位さんみ一体論ーー


《ーー曹操はなぜ強い!?
仲達は今、それを考えている。何事にも、原因や理由と云う
ものは有る筈だ。曹操軍、その強さの秘密は一体何処どこに在る

群雄割拠している時代に、なぜ彼だけが、強大に成って来れたのか
!? 既に、多くの英傑達が、覇者レースに敗れ、此の世から
去って いる。
 大将軍にまで昇り詰めた、肉屋出身の 『
何進』、
                        ふう び                  そんけん
 長駆北上し、一世を風靡した江東の虎『
孫堅』、
                                                    とうたく 
 幼帝を監禁し、世紀の大魔王と恐れられた『
董卓』、
                                     とうけ ん
 劉備に国を譲ろうとした徐州の『
陶謙』、
                                     りょ ふ  
 史上最強の武勇を誇った巨神『
呂布』、
                                                   こうそんさん
 十段構えの巨城を出現させた白馬将軍の『
公孫讚』、
                                      えんじゅ つ
 実力も無いのに皇帝を自称した『
袁術』、
                                おび                 そんさく 
 呉国を建国し曹操の背後を脅かした小覇王『
孫策』、
            よんせ さんこ う                    えんしょ う
 そして、四世三公の大本命だった『
袁紹』ーー
           現在

この他、多くの名の有る者達が攻めぎ合っては破れ、そしてーー
消えていった・・・・消えずとも、己の野望を封印し、諦め、そして
覇者レースからはリタイアし今や曹操の家臣と成っている者も多い
                       さんみ  いったい
《ーーそうか、三位一体 だ・・・!!
【仲達】はやがて、重大な3つの要素に気付いた。 曹操個人の
優れた資質は勿論だが、それとは又別の次元で、より具体的な
理由を把握した。『
政治』・『経済』・『軍事』の三大分野に於いて、
他の群雄達とは明らかに異なる、
斬新なアイデアを、着々と築き
上げて来ていたのだ

ーー未だ専門的用語すら成立して居無かった が、【仲達】の頭脳
は今、それら諸々の事象を、ひとつの”概念”として把らえ、その
事実の錯綜の中から、事の本質だけを認識しようとして居た。
其のT・・・・三角形の頂点は・・・・
曹操が実際に手に入れ、彼が伸し上がって来た過程からしても、
先ず最大の課題は
軍事力であった。
これは戦国乱世のサバイバルに勝ち残る為の、絶対条件であり、
最優先事項である。 ーー曹操はその軍事的大発展を、今から
10年前★★★の192年(初平3年)に果たした。
現在、曹操軍の中核軍団として、敵からその精強ぶりを恐れられ
ている
青州 兵せいしゅうへいを手に入れたのである。
それも一挙に
30万と云う大兵力であった。
                   (当時は、10倍の水増し報告が常識とされてはいたが)
この時点では、最大勢力でも単独で〔5万〕の兵力を有する者は
居無かった。曹操にしても、〔1万〕を維持するのに汲々としていた
頃の事である。・・・・この《
青州兵の獲得・吸 収》に拠って、それ迄
殆んど鳴かず飛ばずに在った曹操は、一躍、覇者レースの主役
の座へと躍り出る事となった。無論、30万全部が直ちに使えた訳
ではないが、その潜在能力として備えた力は、他の群雄を睥睨す
るに十二分な、脅威的兵数と見込めた。
ーーそも、この【
青州 兵】とは何者ぞ
・・・・実は・・・その正体は
飢餓農民の群 れであったのだ。もう、
此の世では生きる希望とて持て無い、飢えに苦しむ
反乱農民軍で
あった。 彼等の地元は青州で、自らを
青州黄巾党と呼んでいた。
                                こうきん
三国志の幕開けとも成った【
黄巾の乱は今から20年前の184年
に勃発した。後漢王朝に事実上の止めを刺し、中国全土を揺るが
す大反乱であった。
  たいへいどう              ちょうかく  
太平道》の組織者・『張 角』等の指導の下、同志の目印に黄色い
巾を頭に巻いたため【
黄巾の賊】と呼ばれた。
彼等の合い言葉は、次の十六文字に込められた。
  そうてん         こうてん 
蒼天已死 黄天当立 歳在甲子 天下大吉
           すで               まさ   
  蒼天已に死す 黄天当に立 つべし
                            とし    こう し 
               歳は甲子に在り 天下は大吉とならん

 あお                                    きいろ
】は漢王朝のシンボルカラー。【】は彼等の大祖神・黄老君
と次の王朝のシンボルカラーを示す。
  
           (これらについては、〔第2章〕で詳述する)
この
太平 道と結び付いた大農民反乱は、その年内に本軍主力が
(想いの外の短期間で)壊滅させられてしまう。・・・・だがそれ以後
連綿として、全国各地に黄巾党を名乗る農民勢力が蜂起し続け
た。この『
青州黄巾 党』も、そうした流れを受け継いだ大勢力で
あった。彼等は皆、家族諸とも動いた。だから、先頭には30万の
男達が軍事部隊と成って展開していたが、その背後には100万
人の家族が付き従っていたのである。
彼等は生きる為に、食糧を貯め込んでいる官庁や地方豪族を
襲った。 ・・・・打ち続く飢饉と疫病に戦乱、政治の圧制と冷酷、
豪族による搾取、異民族の侵入・・・・
 ーー
人生わずか20 年、6歳にして税の対象とされ、15にして
老人
・・・此の世では、生きる喜びも望みも無い生き地獄ーー
人口の殆どを占める一般の民草にとっては、そう云う時代であっ
たのだ。・・・・人生の闇夜に一条の光を求めて集まった農民達が、
『太平道』と云う大義と、死を恐れぬ教義とを付与された時、それ
は蜂起軍と成っていった。
死ヲ恐レズ、父ヤ兄ガ討チ死ニスレバ、子 ヤ弟ガ群ガリ起コル

問題の【
青州黄巾党】は、原初本軍が殲滅された4年後、188年
に青州・徐州で蜂起した。 ・・・・
軍ではあるが、それに数倍する
非戦闘員の 老若男女と共に動いた。途中、膨大な難民・流民
(農民はほぼ百%太平道の信者だった)をも吸収していった。
1年後には州を襲って帰還し、その2年後にはえん泰山たいざんを攻撃
更に異民族の黒山軍(南匈奴)との合流を目指して、渤海ぼっかい
に転じ、192年に青州へ侵入した。
この4年の間に【
青州黄巾 党】は、130万と云うケタ外れの巨大
勢力と成った。これはもう一つの、《移動する国家》とも謂い得る。
(※ちなみに、此の当時の日本列島・倭の総人口は約200万!)
さて、肝腎な【
曹操との関 係】はどうであったかだが・・・・
青州に入った黄巾軍は、同じ年の192年、えん(六の下に兄の字)
攻め込んだ。兌州牧の【劉岱りゅうたい】は、『敵の弱点は軍糧不足だから、
籠城して城を固守すべきだ!』 と言う、【鮑信ほうしん】の諫言を無視して
出陣し、戦死した。・・・・兌州に〔
ぼく〕=(州の長官)が居無くなった
事に眼を着けた参謀の【
陳宮ちんきゅう】が、曹操に《えん州乗っ取り》を進言
した。未だ確たる領土も、肩書きも持たぬ曹操 にすれば、政治的
飛躍の大チャンスであった。
ーーだが、今、兌州の長官に就くと云う事は・・・・猛威を振るう
130万の大農民反乱を、己が独りで引き受けて、戦い抜くと云う
事と同じ意味でもあった。 一歩間違えば、前任者同様、落命の
憂き目に遭い、「ジ・エンド」に成ってしまう危険性も大きかった。
それ程までに青州黄巾軍の力は巨大であった。 余程の覚悟と
自信・見通しが無い限り、それは暴虎馮河ぼうこひょうがの道と言えた。
一方、州の主を失った鮑信ほうしん(地元豪族の代表者)にしてみれば、
このまま長官無しの状態で、一州を維持してゆくのは到底無理だ
と判っていた。
《結局は黄巾軍に蹂躙され、全財産と既得権益の全て失い、
                ゆく宛もなく逃亡するしか無くなる・・・・》
それは
大土地所有者たる地元豪族層の破滅を意味し た。
ーーとなれば、是が非にでも早急に、頼りに成る新長官を迎え
ねばならなかった。・・・・そこで白羽の矢を立てたのが、すぐ西隣
に割拠し居た・・・外ならぬ曹操孟徳の存在であった。
この年曹操は、すでに黒山の賊徒討伐に成功しており、その
神威的武略の程は、つとに彼の耳にも聞こえていた。そこで鮑信ほうしん
は、その曹操の実力を買い、州を挙げて全面的に支援するから
是非、兌州の牧に就任して欲しいとの熱烈なる要請をしたので
あった。ーーかくてここに、両者の思惑は合致し、曹操は就任を
果たした。朝廷の任命したものでは無いが、 (11歳の献帝は 、
長安の奥地に拉致された儘) もうこの頃は、皆が勝手に官職を
名乗っていたから、何らの問題も無かった。

曹操にとっては、初めての一州掌握、州牧就任であった。
政治的な大前進である。・・・・だが、それと引き替えに、曹操を
待ち受けて居たのは、【
青州黄巾党】との死闘・苦闘であった。
敵・黄巾軍は、元々死を恐れぬ宗徒軍としての精悍さが有る上、
全国各地の黄巾軍の中でも歴戦を経た、最強さを恐れられる大
軍団であった。 史書には一言も現れて来無いが、余程優れた
指導者(乃至は指導層)が存在して居たと想われる。
曹操は州兵を加えて「寿張」の東へと進軍したが、忽ち、息つく
暇もない大乱戦・死闘の連続となった。ーー倒しても倒してもワラ
ワラと、次から次へと現れて来る、新たな敵兵力の巨大さ・・・・
曹操の軍略・知謀を以ってしても、追っ付く次元の問題では無か
った。幾度となく敗退の瀬戸際まで追い込まれた。そして遂には
逆包囲され、降伏勧告状まで送り付けられて来た。
ーーその書状に曰く・・・・
貴公はかつて「済南さいなん」に居た時、淫祀いんし神壇しんだんを破壊すると云う政策
を推し進めた。それは、我々の〔
中黄太一ちゅうこうたいいつの道〕と一致するもの
である。貴公は道を知りながら、今は惑わされている様だ。漢王朝
の運命は既に尽き、黄家の立つべき時である。天の大運(行)は、
貴公の力で変える事の出来無いものではない・・・。

ーーだが曹操は、その勧告状を受け取るや、 何故か逆に猛攻撃を
敢行し始めた。自ら陣頭に立って将兵を叱咤激励し、賞罰を明らか
にして志気を高め、敵の隙を衝く咄嗟の機略を効かせては、猛襲
を続行した。また鮑信も、命の限りに勇戦し、遂には討ち死にする
程の敢闘振りを発揮した。そしてとうとう、苦闘・激戦の末、かろうじ
て、敵を戦場から敗走せしめたのであった。 完勝とは言えぬが、
兎に角ひとまずは撃退出来た。
 その結果、暫しの間、息をつく暇が生まれた。そこで改めて、先の
『降伏勧告文』を注意深く読み返した曹操は、そこに或る種の
”暗号”
が隠されている事に、確信を抱いたのである。 降伏勧告としては、
異様な書き 方であった。 《ーー何か在るぞ・・・!?》
当初は困惑し直感としてのみ、其れを感得した曹操だった。そして
其の己の直感を信じて、猛反撃を敢行したのであったが、果たして
・・・・敵は意外にあっさり兵を退いた。
《ーー俺を
頼りにしているな・・・・

其の行間に、敵の真意と実情とが、暗に訴え掛けられている事実が
今は正確に解読し得る。
《・・・・敵の首脳部内には、抗戦論と、もう無理だと判断している論
とが在るようだな。それも殆んど不戦に傾き掛けている様じゃぞ。》
恐らく敵の内情は、100万を超す人間の
胃袋を満たすには到底
及ばぬ、抜き差しならぬ食糧危機に陥っているのに違い無い・・・・

そう見切った曹操は、その後は硬軟二本立ての態度で黄巾軍に
臨んだ。尚も激しく敵を追撃させる一方、以前にも増して懇ろに、
誘降・和睦の使者を遣り続けた。
黄巾軍指導層の中に、一種の親近感を抱いていて呉れる者の
居る事を意識した曹操は、未だ見も知らぬ其の者に対して、
食糧の提供今後の生活の保 障などを提示し続けたのである。
そして ・・・・こうした飽く無き交渉努力の結果、「済北」まで征き着
いた時、ついに黄巾軍の方から、講和の為の使節団がやって来た
のであった。
ーーどの様な約束が取り交わされ、如何なる契約が結ばれたのか
・・・・その内容は一切伝わっていないが、【
青州黄巾軍】 はこの冬、
正式に降伏した。矢張、喰っていけなく成っていたのである。

曹操はこの時、必ずや個人的な【
密約】を交している筈だと
仲達は考える
現在《
青州兵》達は、近衛親衛軍とも呼ぶべき、特別優遇措置を
受け続けている。他の部隊とのいざこざを起こしても、曹操は常に
寛大であり続けている。(
于禁紹介の折に既述)
単に歩兵の中核軍だからと謂うだけでは納得し兼ねる、大曹操
には似つかわしく無い、甘い態度である。恐らく・・・・宗教団体と
しての面目を保てる様な、信徒達を心情的にも大感激させる如き
超法規的な
私的密約が在ったと、仲達は観る
例えば其れは、信仰の自由の保障であり、全家族の生涯に渡る
生活保障であり、兵士に対する特別な身分・地位の保証であった、
と想われる。その交渉相手だった指導者を
仲達は知らない。既に
他界していた。・・・だが、あれだけの人間の群れを統括し、130万
もの生命を美事に生き残らせたのだから青っちろい理想主義者では
無く、人の世の酸いも甘いも、人生の裏も表も識り尽くした、しぶとく
現実主義的な《長老サマ》とされる年長者であった可能性が高い。
存外、女性であったりしたかも知れ無い。・・・・然し曹操はこの件に
ついては、誰にも一切語ら無い。

ーーとまれ、曹操はここで一挙に、
兵士30万と男女100万人を
直接その支配下に収めたのである。
 (その時点では、兵士と言ってもヨレヨレの栄養失調ばかりで、
   直ぐに使える者の実数はガクンと落ちたではあろうが・・・・)
かくて曹操の兵力は、あっと言う間に、天下に割拠する群雄達を
抜き去って凌ぎ、
覇者としての資格も十二分にクリアーしたのである。
時に
曹操38歳。今から10年前の事であった。ーーこの後曹操は、
青州黄巾軍の中から精兵を選りすぐって【
青州兵】と命名し、軍団
の 中核部隊として鍛え上げてゆく。
又、戦闘に専念出来るよう、兵士の家族の生計は保証され(土地
や耕牛の供与、生業の斡旋など)、子弟への世襲も認められ、この
精鋭軍団は30年近く維持され続けるのである。
ーー
青州兵破レレバ、即チ曹軍敗 ルーーと言われる程に、軍事の
推進中核と成っていく。
・・・・後年、曹操死去の報に接するや、業卩城内に在った青州兵達
は、制止の命を無視して、
軍鼓ヲ打チ鳴 ラシ一糸乱レヌ行軍隊列ヲ敷イテ郷里ニ帰リ去ッタ
                                  ・・・・と、いう。
これは尋常な事では無い。 曹操の跡を継いだ新君主にすれば、
反乱に近い。だが彼等にしてみれば、ただ曹操との最初からの
約束を、そのまま実行したに過ぎ無かったのであろう。
ーー
青州兵達は魏の国に仕えるのでは無く、曹操と云う”個人”に
仕えていたのである
逆に言えば、いかに 曹操との個人的絆が
強固なものであったかが判る。
俺が死ぬ 迄は、儂の配下として付き合って呉れよ。お前達は元々
土の民であるのだから、俺が死んだら郷里に帰って、自由にして
いいからな。その代わり、儂が生きている間はひたすら忠誠を誓い、
儂の手足と成って命を惜しまず、わが覇業の尖兵と成って呉れ。
無論、それに見合うだけ報いは約束する。』
                ・・・・そうした遣り取りが有った筈である。
ーー飢餓農民の大軍を討伐するのでは無く、其れを丸ごと受け容
れてしまう・・・・と云う、誰も考え付かぬ途方も無い発想を、即座に
為し得た処に、曹操と云う人物の偉大さが在ろう。
更に其れを再組織化し直し、新たな命を吹き込んで蘇らせた処に
こそ、軍事分野に於ける、
曹操軍の強さの秘密》が、在ったのである・・・・
ここで見逃してはならぬ点が在る、 と
仲達は観 る
誰も意識して居ない様だが、今後に関わる重大な事だ。それは
ーー彼ら青州兵は、現王朝(後漢朝廷)を倒す事には、何らの
罪悪感も躊躇いも持って居無い
と云う点である。いな寧ろ、彼等の
思想の根底には・・・・
漢王朝は既 に亡んだも同然もっと言えば、
漢王朝は倒されるべきであり【新王朝は樹立されるべき だ!
との思想を持つ集団である。現時点では曹操自身よりブッ飛んだ、
時代の最先端をゆくさきがけ的存在、理論武装した思想集団である、
とも謂える事だ。ーーつまり彼等は、儒教思想を金科玉条の如く
信奉する保守反動 (士大夫層・名士層)とは正反対に位置する、
超リベラルな改革層でもある。
《将来、曹操は必ずや帝位に就こうとする》と、
仲達は観ている
ーー曹操は【
魏王朝の樹立】を目指していよう。
とすれば、その時、最大の障害と成るのは、名士達に代表される
世論の動向』と云う事になろう。 自分自身の陣営内からも当然、
批判・反発も生じるであろう。ーーだが然し、少なくとも曹操は、
権力の実態である処の、《
軍部》からは、絶対の支持が確約されて
いる・・・・と、今から既に保証を得ているに等しい。
この軍事力に拠るバックアツプは、どんな論説よりも強大であり、
曹操の自信の裏付けと成り得た。

その曹操軍 の軍紀・・・・峻烈を極める。
定められた『
軍律』に違反した者には、容赦ない《》が待っていた。
本人は無論だが、その家族まで厳しく追及され処罰された。『正史・
高柔伝
』 には、
逃亡兵を出した家族の処断が述べられている。
兵士ガ逃亡シタ時ハ、其ノ妻子ヲ徹底的ニ取リ調ベタ。ソシテ全員
 ガ、男女トモニ身分剥奪サレテ、官(国)ヘ
奴婢ぬひトシテ支給サレタ
                                 ・・・・のである。
それでも逃亡が無くならないので、曹操は旧法を改めて刑を重くし、
家族全員を死刑にしようとした。それに対し『高柔こうじゅう』が諫言している
のである。(高柔は法の番人・魏の御意見番で曹氏3代に仕え、90歳の天寿を全うする。)
士卒が軍から逃亡するのは、誠に憎むべき 事で御座居ます。
然しながら密かに聞く処では、その中には時々後悔する者が
居るとか。愚見を申せば、その妻子を寛大に扱うのが宜しいかと
存じます。一つには、賊軍(敵軍)の中に不信の念を起こさせる
事が出来ます。二つには、その者に帰心を誘う事が出来るから
です。 全く旧法のようですと、完全にその希望を断ち切る事に
なります。而も無闇にこれ以上重くすると、今後、軍中に在る
兵士が一人の逃亡者を見た場合、処刑が自分にまで降り掛かっ
て来ると思い、そんな気も無かったのに、連れ立って逃亡する
結果を招き、死刑にする事さえ出来無くなる、と私は心配致します。
これでは刑を重くしても逃亡を止めるに役立たず、却って増す
事となります。
曹操は「成る程」と言って家族への死刑は廃止した。

だが、こと
戦 闘 における軍律違反は将軍か ら一兵卒に至る迄、
一人の例外無く【
】だけが与えられ例外は一切認められ無かった。
                                         ざん
  一、
合図に従 わなかった者はーー
  
一、敵前 で臆したる者はーー
  
一、命令 なく戦線離脱したる者はーー
  
一、逃亡兵 を出したる上官はーー
  
一、危地に 在る友軍を救わぬ指揮官はーー
        以上は、故意・過失の別を問わず適用 されるものとす
つまり戦闘は金鼓の合図に拠って一糸乱 れぬ動きを要求された。
そして一旦戦闘が始まれば、どんな強敵であろうとも、ビビッたり
逃げたりしてはならないのだ。 もし部下の中に逃亡者が出れば、
直属の上官も死刑である。よって各部隊の部隊長は後方で抜刀
して眼を光らせ、ビビッた兵卒・下士官あれば、その場で斬り殺した。
ーーたとえ乱戦状況下の過失であっても、酌量の余地は無かった。
だから、尉官の上下を問わず全員が、命令には神経を尖らせつつ
も、遮二無二闘うしか無いのである。又、如何に大きな戦功を立て
ても、其れが勝手な行動の結果であれば、寧ろ処罰された。
曹操軍は飽 くま迄、総司令官からの指揮命令に依ってのみ、
整然と進退しなくてはならないのである。 功名争いの為の単独
行動や売名行為は、厳に戒められていたのである。
如何なる極限状況下に在っても
曹操軍 は、統帥者の意志通り、
その作戦遂行の為に、末端の各個人に至る迄が命令の遵守を
義務づけられていたのであった。
こうした指揮命令系統の、徹底した峻烈さこそが、曹操軍団を
更なる『
強兵』にしていたのである。
そして、之をそっくり裏返せば、それは即ち、敵に対する苛烈な
処断へと通ずる。
包囲シタル 後ノ降伏ハ、是レヲ一切認メズ となるのである。

(魏の五星将・【于禁】の所で既述したが)・・・・旧友であった昌稀
が降伏して来た時、二人の間柄を思い遣った周囲が、「この場で
処断せず、曹操本人の元へ送るべきだ」 と主張したが、于禁は
飽く迄この
軍 律に従って言った。
「諸君は公(曹操)の
常 令を知らぬ訳では在るま い。包囲されて
後に降伏した者は赦さない、とある。抑も法律を奉じ命令を実行
するのは、上に仕える者の守るべき節義である。昌稀は旧友で
はあるが、私は節義を失ってよいものか。」
自身で出向いて昌稀に別れを告げ、涙を落としながら彼を斬った。
ーーこの、〔敵に対する原則〕は、徐州大虐殺の年(193年)以来
20 年間、『天下がほぼ安定した』 として廃止される迄、ビシリと
実行され続けていくのである。
自他共に対する峻烈な軍紀・・・これが、曹操軍の強さの秘訣であろう!
               さんみ いったい
ーーかくて、
三位一体 のうちの最重要課題であった
第T番目の
軍事分野は、 兵力30万と100万の民を得て
クリアーした・・・・かに見えた、が・・・・然し其れは、単純に喜べる
状況では無かったのである。何故なら今度は、その巨大化した
人口を養い、喰わし続けてゆかねばならぬ・・・と云う新たな、かつ
深刻な重大事案を背負い込む羽目に成ったからである。
つまり、三位一体の
第U番目の課題である経済分野との
闘いが同時に開始 されると云う事なのであった。
その解決策が無いからこそ、群雄達の誰しもが、和解など念頭
にも置かず、ひたすら
として討伐に専念していたのであった。
現状を維持してゆくのでさえ苦しいのに、そんな難題を抱え込む
なぞ、狂気の沙汰に等しかった。
 ーーだが曹操には、
そ れを成し遂げるメドが在っ たればこその
降伏受諾だったのだ。また一方、その〔
秘策〕を聴かされて初めて、
黄巾軍首脳達も、生活の保障が口約束で無い事を了承理解し、
かつ全面協力を誓ったのであった・・・・。
其のU経済分野に於け る秘策とはーー
当時の全国の食糧事情を示す記録。
連年ノ凶作ノ為、何処いずこモ深刻ナ食糧不足ニあえイデイタ。各地デ
蜂起シタ軍ハいずレモ食糧ノ調達計画ナド持ッテ居ラズ、飢エレバ
略奪シ、余レバ捨テル。最後ニハ、バラバラニ崩レテ流民ト化シ、
戦ワズシテ自滅スル軍ガ無数ニ出タ。
華北ニ拠ル
袁紹えんしょうデサエ、ソノ軍隊ハ桑ノ実デ命ヲつなグ有様デ
アッタ。 長江・淮河わいがノ穀倉地帯ニ在ル
袁術えんじゅつニシテモ、がまト貝ヲ
ッテ補給シナケレバナラ無カッタ。
人ガ人ヲ喰ライ、郷村ハ荒レ果テ、
                 廃墟同然ト化シタ。

ーー然る時に、ひとり曹操の領土(魏国) だけは、何と、
   穀物100万ごくこくを収穫し、
      その倉々は溢れんばかりに充ち満ちていたのである


・・・・その魔法 とは・・・・一重に・・・・曹操新機軸の、
中国史上初の屯田 制とんでんせいに拠るものであっ た
屯田制〕は大別すると、 《軍屯ぐんとん》と 《民屯みんとん》の2種。
このうち《
》はーー既に前漢の時代から、辺境を守備する
軍隊内で行われて来ていた。自給自足と迄はゆかずとも、それ
なりの成果が見られたと言う。 今後、三国時代の諸国でも、
本格的に採用されていく事になる。だが・・・・、
民屯みんとん=(民間の一般農民による 田地の開墾・農作
経営)だけは、すぐれて
魏国独特 の、曹操政権を根本から支え
続ける『最大の強み』と成って、国内の経済生活や財政の長期
安定を保障し続けている。
民屯》・・・・正式には、典農部てんのうぶ屯 田 と言う。
曹魏政権はその年(192年)、人口爆発に直面した。元々住んで
居たえん州人口に加えて、青州からの軍民合わせて130万の過剰
人口の胃袋までをも満たさねばならなくなった。 ーーだが曹操の
頭脳の中には以前から、うっすらと朧気おぼろげに『軍屯の拡大』ないしは
『その変種的発展方法』についての腹案が芽生えていた筈である。
それが此の人口爆発に触発されて、具体的な指示・諮問となって
姿を現したのであろう。
曹操からの指示を受けて、その打開策を立案したのは
棗 祗そうし
韓 浩かんこう
等であった。そして、3年間の研究・準備期間を措いた
196年、(青州黄巾軍を取り込んでから4年目★☆☆)、ついに正式に
大規模な
民屯が開設されたのである。
ちなみに【棗祠そうし】は、その模擬実験として前々年に、東阿県令と
して『軍屯』をやらせている。 又、前年には曹操の叔父に当たる
独眼竜の
夏侯惇が大寿水をき止め、自らが兵卒等に混じ
って土を起こし、モッコを担ぎ、稲を植えさせている。夏侯惇のさば
けた人柄を示すエピソードでもあるが、大将サマまでもが率先して
その重要性を領内に認知徹底させていた事が窺い知れる。
ーー兎に角、気合いが入っていたのである。 
 さて、《民屯の仕組み》であるが・・・・
土地・人・用具・徴税・統括組織の〔5つの要素〕から構成される。
〔1〕:土地はーー  放棄された荒れ地と、戦勝で得た新領地
 (旧敵地)を対象とした。新規の開墾は割が合わぬので後回しと
 された。逆に言えば、戦禍の中で放棄されていた田地が、いかに
 膨大であったかが判る。
〔2〕:はーー  流民や敵の降民 (青州の民は之に当たる )を、
 半強制的に募集して、入植開墾させつつ (水利事業を含む)、
 定住を図る。 そして此処がポイントなのだが・・・・旧来の、
 〔地方豪族を経由して納税する〕 と云う徴税方式を排除して、
 〔曹操直属の徴税対象者とする〕 新機構を 設立したのである。
  謂ってみれば、『軍屯に似るが、
主眼を農耕 に置く』 と云う、
 未まだって無い画期的な
農政(経済)改革に踏み切ったので
 ある。経済の根本的な大革命と言ってよいであろう。そして是れ
 こそが、『曹魏民屯制』の真骨頂であるのだった。
 平時は予備役軍人として耕作に従事し、緊急時には軍人に変身
 して軍役に服する事になる。
〔3〕:用具はーー  必要な者には耕牛や農具・種子などを国
 から貸与して、その生産性を高めさせる。牛を持てば、耕地を
 更に広く開拓・経営する事が認められた。当然収穫高も増える。
〔4〕:徴税は ーー五公五民 (ないし六公四民)を原則とし、
 被災時には免除も考慮される。一見、高率の負担のように思わ
 れるが、地方豪族に隷属する小作人よりはマシである。また中小
 零細の自作農民と較べても、豪族の中間搾取や労役が無く、
 盗賊団の襲撃に怯える事も無しに、安心して暮らせると云う福を
                                   もたらす。
〔5〕:統括組織はーー従来の行政組織(郡・国・県)から完全
 に分離独立させ
典農部てんのうぶとして曹操の直轄下に置いた。 故に、
 屯田農民は、〔
戸籍に載らない〕 事となる。(=幽霊人口)
 漢朝廷の戸籍からは独立した、別系統の典農部の頂点=
 中央政府には【
大司農だいしのう】の官が置かれ、以 下、
 郡には【
典農中郎 将ちゅうろうじょう】、国には【典農校尉こうい】、県には【典農都尉とい
 が置かれた。その附属する権限は、郡国太守や県令と同格とした。
 無論、それらの下には上級農吏や諸小吏が配置される。
 ーー『賈逵かき』伝には・・・・
 『
彼ガ郡太守在任中、屯田ノ都尉ヲ処罰セシガ、越権行為トサレ、
  太守ヲ罷免サレタ
 との記述がある。
 屯田に拠る曹操政権の農民支配(経済統制)の形態は、斯様に
 既存する漢朝廷の戸籍登録とは峻厳に区別され、
         全く別個に実施されていた 事が判る。

処でこの民屯政策も、初めは試行錯誤があった。特に税率(徴収
方法)においては、大議論となった。 当初は耕牛の数によって、
徴収計算の基準とした。が、立案者の棗祠そうしは、之に強く反対した。
「豊作や凶作の実態に対応できず、農民間にも不公平感を与えて
しまいまする!」・・・・困った曹操は、知恵袋の『荀或』に彼と議論
させた。官牛の数に拠る案も出たが、結局、棗祠の『
分田ぶんでんじゅつ』が
採用された。私牛の 所有者は五公五民、官牛の貸与者は六公四民
と、分けて★★★徴税する事に最終決定されたのである。
ただ単に、土を耕させれば済むと云うものでは無い。 戦場での
決戦同様、緻密かつ粘り強い闘いなのである。

ーーさて実際に、中国史上初の【
民 屯】が実施されたのは196年
(建安元年)お膝元の「」の一帯であった。
この年の初め、曹操は首都・洛陽に近い穎川・汝南の黄巾軍を
破り、『
』の城市を手に入れて、之を己の拠城としていた。その際
得た 『
賊ノ資業』・・・・土地・耕牛・農具・降民・・・をその対象として、
実施したのであった。
先ずは、復旧し易い、土地と水利施設から手が着けられた。その
結果は既述の如く、百万石(斛)を得る大成功となった。之に自信を
強めた曹操は、以後次々に『民屯』を中原一帯に拡充させていく。
そして5年後には、自給自足体制が完全に確立され、更に備蓄も
順調に進み、『
穀倉ハ一杯ニナリ、人民ハ喜ビ競イ合ッテ仕事ニ励
ム様ニナッタ
』 のである。
この曹魏独特の『民屯の成功』は、主目的の食糧確保の他にも、
様々な副次的メリットを産んでいった。ーーその最大のものは・・・・
〔軍事的
機動力を保 障させた〕 事である。各地に備蓄され、置かれ
ている穀物は、遠征に際して食糧輸送の省力化に直結し、広域に
渡る素速い軍事展開を可能にしたのである。・・・・つまり天下統一
に向けて、何時、何処へでも、軍糧の心配無く、思い通りに大軍を
派遣させ得る体制が整った訳である。
『民屯』は単に経済力を高めたに留まらず、軍事面でも、覇業の
成就に大きく貢献する事になる。
此ノ年、民ヲ 募ッテ許下ニ屯田シ、穀百万斛を得タ。ソコデ州郡ニ
田官ヲ例置シ、所在ニ穀物ヲ積ンダ。 四方ヲ征伐スルノニ食糧ヲ
運ブ苦労ガ無クナリ、遂ニ群賊ヲ併呑滅亡サセ、ヨク天下ヲ平定シタ。
もう一つのメリットは、民政(政情)の安定 である。民屯の成功に
依り余裕が出て来ると、一般農民への税も低率に抑えられ、然も
一定に設定された。・・・・すると、わざわざ募集せずとも、噂を聞き
つけた各地の流民・難民達が、挙こぞって流入して来るのであった。
そして自発的に、屯田周辺の農地までをも回復し、人々の帰農を
促進する効果が現れて来るのであった。
ちなみに、民屯で生産される物は、主として『
あわ』と『いね』であった。
黄河以北では粟(畑作)、以南の地域は稲を中心に作付けした。
曹操の領土位置から推して、全体の比率では四対六で稲の方が
多かったろう。
飽くなき遠征により、領土は拡大の一途を辿るが、民屯実施の
地域は、根拠地である華北中原に集中させた。敵地に近い地域
には『軍屯』が併用され、食糧備蓄は全国規模に及んでいくので
あった。ーー強い筈である。《曹操軍の強さの秘密》の第2は、この
経済分野に於ける【
民屯の経営にあったのだ
あとから真似しても追い付かない。一番必要な時に、必要な事を
成し得る者こそが、真の強者なのだ・・・・。

尚この屯田民達は、有史以来の城壁内での生活形態〕から外れ、
開墾地と共に〔
城壁の外に居住〕する事となる。
                            むら 
そして、これこそがーー
村の誕生なのであった。
         ソン                          そん 
初めは『
』と書き、のち同音の『』の字を用いる。・・・と謂う事は、
ーー曹操と云う人物は、中国史上にかつて例の無かった

     〔村落そんらくを発生させた男なの だ
つまり現代の我々が当然の如くに馴染んでいる、牧歌的な
農村風景の生みの 親でもあったのだ

曹操は、中国の過去三千年をも変えてしまった・・・・

其のV〕・政治的分野についてーー
この民屯成功の196年 建安元年)と云う年は、曹操が政治
的分野
に於いても、他の 群雄達をグーンと引き離す、大勝利を
収めた年でもあった。
ーー
献帝奉戴けんていほうたい・・・・後漢王朝の 『皇帝』を、己の陣営内に
迎え取ったのである。これはスゴイ
抜群の政治センスであった。
群雄の誰しもが、そこ迄は手を廻し兼ねていた時の事だったのだ。
言い換えれば誰にでもそのチャンスの有る時だった。
何故ならこの時、後漢王室は、庇護する者の到来を待ち侘びて
いたのである。 『
董卓』に引き廻された挙句、7年ぶりに懐かしき
洛陽に帰り戻った 『
献帝16歳)』 一行の暮らしぶりは、
百官ハいばらヲ背負ッテ牆壁しょうへきノ間ニ身ヲひそマセ、群僚ハ自ズカラ野草・
ひこばえ(切株から出た芽)ヲ採取シ、ニスル者アリ。』 ・・・・と云う
惨状であった。前後400年間に渡る、大漢帝国の皇帝とも在ろう
ものが何故、こんな事態に陥っていたのか・・・・

(この〔悲愴皇帝〕の数奇な運命は、第2章『悪と影の伝説』で詳しく辿る。先ずは荒筋。)
ーー7年前の189年、『霊帝』が崩御した直後に、後漢王室は
大激震に見舞われた。 この際、宦官達を誅滅してしまおうとした
大将軍・『何進』が、逆に宦官の奸計に嵌って暗殺されたのが、
そのきっかけとなった。何進に宦官誅滅を進言していた『袁紹』が
部隊を宮殿に突入させるや、宦官二千人を皆殺しにしたのである。
この大混乱の中、14歳の『少帝・劉弁』と9歳の『劉協・陳留王
の兄弟は、宦官の長老らに連れ去られるが、行き場を失った彼等
は集団自殺し、二人だけが見知らぬ荒野を、蛍の光を頼りに彷徨
う事となる。 この時、実権を握ったのが、西方(涼州)に根拠地を
持つ『
董卓』であった。彼は直ちに、出来の悪い少帝を廃位すると、
弟の劉協(現・献帝)を帝位に就けた。 僅か9歳にして皇帝と成っ
た人間の、悲哀に満ちた人生のスタートであった・・・・
 この暴挙に対し翌年、
反董卓の群雄連合軍が結成されて攻めら
れると、ヤバイと察した董卓は『洛陽の都』に火を掛け、献帝を西方
の『長安』へと連れ去った。 ーーその2年後(192年)に、董卓は
腹心(養子としていた)『
呂布』に暗殺されるが、呂布も破れて逃亡。
然し献帝は、残党達の手によって尚も長安に軟禁され続ける。
ーー3年後の195年、やっとの思いで長安を脱出し、懐かしき洛陽
を目指すが思うに任せず、僅か350キロの距離を丸一年の間、彷
徨い続けた。  そして念願叶って7年ぶりに帰り着いた洛陽宮は、
見るも無惨な廃墟と化していた。時に
献帝劉協』16歳・・・・
折しも曹操は丁度この時、洛陽から南東120キロの『許』を奪取
したばかりであった。丸で曹操を頼るが如く、そこに献帝一行が現
れた事になる。その報に接するや、曹操は《皇帝》を自政権に取り
込む(招き入れる)事を決断した

        けんてい ほうたい
ーー
献帝奉戴のメリットは測り知 れない・・・・と
仲達は思う。その最大のメリットは何と言っても、己の意 思・命令
が、アッと言う間に全国に伝達されると云う事に在る。詰り、何百
年も掛けて朝廷が培って来た《命令伝達系統》の全国情報ネット
を、そっくりその儘利用出来る点にあった。居ながらにして確実に
然も最高の権威を以って、上から下へと自動的に、全国に行き渡
らせる事が可能に成ったのである。これはデカイ。一朝一夕には
構築できない、巨大な遺産である。他の群雄達には真似の出来
無い芸当である。 この一点だけですら他をグーンと引き離して、
覇業の達成に近づく事になる。炯眼この上ないと、
仲達 は思う。
       ぜいえん   いしゅう  
又、『贅閹の遺 醜』として、未だに好感を持たれぬ曹操に、その
蔑視を打ち消す箔を付け、その人物評価を一変させる一助とも
なる。「名士・支配階級の支持を獲得する」と云う、社会の頂点に
君臨する者の必須条件を満たす事にも通じてゆく。
衰えたりと雖ども、漢王朝の権威はいまだ巨大な星として四海に
輝きを失ってはいない。
曹操の号令は、即ち 皇帝の命令となる
勅命ちょくめい】に刃向かう者は、『逆賊』としての汚名を蒙り、討伐の大義
名分となるのだ。  そしてその究極は・・・・権力の象徴でもあり、
その実質でもある 《殺生与奪ノ権》 を独占行使し得る事だ。
三公九卿の中央官僚をはじめ、州の牧や郡県の太守に至る迄の
任免権を独占し、意のままに動かし得る。
               じょうひょう       
形式的には『
上 表』と云う、皇帝へのお伺いを立てるが、献帝が
己の意志を持つ事は許される筈も無い。全て曹操の意志の儘に
追認され、公式な『
勅令ちょくれい』となって発せられる。その快感を味わう
かの様に曹操は先ず、自分を
大将軍とし、ライバルの「袁紹」には
一段格下 の
太尉を与 えた。痛くプライドを傷つけられた袁紹が
激怒する場面を産む。
 
              けんてい  ほうたい  
かくて曹操は
献帝奉戴 によって政治分野に 於いても、
他の群雄達の上位に立ち大義と権威とを身に着けたのであった。
これこそ、《曹操軍の強さの秘密》 の3つ目の要素である、と
仲達は理解し た。ーー処が仲達の知る限りでは、その時、幕下の
多くの 者達は”反対した”という。その実力からして、いずれは曹操
みずからが帝位に就くべきだとの考えもあったろうし、献帝周辺の
側近達がそれを拒むだろうとも観測したに違い無い。
関東地方が未だ平定されておらず、洛陽では韓暹や楊奉といっ
た連中が、帝を洛陽に遷した功を鼻に掛け、勝手な振舞いをして
おります。俄にこれを制する事は出来ぬでありましょう。

         こしぎんちゃく  
皇帝の腰巾着と成り、折角手にした 既得権を、そう易々と他人に
手放すものか・・・・口々に時期早尚であると諫めてきた。そんな
中で荀ケは進言したそうだ。
漢の 高祖・劉邦が、項羽の殺した義帝の為に喪服を着、その
仇を討つと宣言した事は、天下の人心を劉邦に集めさせました。
殿は既に、献帝が長安に連れていかれた時から、義兵を起こ
されました。ただ関東の地が未だ混乱しておりますから、献帝の
方に赴いていられないだけです。今、皇帝は洛陽に還って来られ
ましたが、その地は荒れ果てております。義士達は漢室を存続さ
せようとの思いを持ち、人々は漢のことを懐かしんでおります。
この機会を利用して主上を奉じ、民の望みに従うことが、大きな
流れに順応することです。公平な立場をとり、英雄達を服従させ
るのが、大なる策略です。義を弘める事を扶け、優れた人物を呼
び寄せるのが、大きな徳と申すものです。
誠ニ此ノ時ニリ、 主上しゅじょうヲ奉ジテ以テ民ノ望ミニ従ウハ大順たいじゅんナリ。
至公リテ以テ雄傑ヲ服スルハ、大略たいりゃくナリ。 弘義ヲたすケテ以テ
英俊ヲ致スハ、大徳だいとくナリ。天下、逆節有リトいえ ドモ、必ズるい
あたワザルコト明ラカなり
  韓暹かんせん楊奉ようほうが、なぜ害を為しえましょう。
もしこの機会を失って天下の大勢を定めず、却って四方に野心を
持つ者が出て来れば、その後で皇帝を迎える事を考えても、既に
追い付かぬでありましょうぞ!」
そこで曹操は一段と意を強くして、己の考えを断行した・・・・と、
                                聴いている。
躊躇ためらっていて、他人の後塵こうじんを浴びてはなりませぬ!
         厄介な事態にならぬ裡に、素速く行動なされよ!

これは仲達が、荀ケ本人から直に聴かせて貰った話しだから間
違いない。・・・・但、
仲達 は、曹操と荀或と云う〔天下統一コンビ〕
の間に、
幽かなスタンスの相違を感ずる。
ーー片や曹操は、いずれ自身が帝位に就く野望を胸に秘め、
                 朝廷を利用する事だけを念頭に置く。
一方の荀ケは、必ずしも、そうとだけは考えていない様だ。無論
荀ケとて曹操の臣下であり、漢朝の『純臣』とは言えぬが、その
拠って立つ基本の処は、やはり【名士層】の枠内に在る。
今は未だ表面化していない、ほんの僅かな相違だがーーいずれ・・・・
処で実は・・・曹操の決断以前に〔献帝奉戴〕を考え着いた
英雄が居たのである。それは未だ献帝が長安に居た、早い段階
での事であった。ーー袁紹である。
この時袁紹は、曹操に数倍する兵力を擁し、四世三公の大名門
の統領として、押しも押されもせぬ覇者候補ナンバーワンであり、
やろうと思えば決して実現不可能では無かった。
・・・・だが、曹操の時と同様、彼のブレーン達の大多数は反対した。
奉戴すれば、 いちいち全ての行動に『上聞じょうもん』を待たねばならなく
なりまする。軍事行動に重大な遅延を招くばかりか、側近どもに
よって、殿の権力が弱体化いたしますぞ!それよりは殿ご自身が
帝位に就かれるか、こちらのの意の儘になる別の皇帝を擁立する
のが、現実に即した考えと云うもので御座いましょう。

言われた袁紹は献帝は董卓が勝手に指名擁立したのであるから
正当性は無い、
として別の人物(劉虞) を新帝に擁立しようと動く。
が、手前勝手で杜撰ずさんに事を進め、当人に固辞されて挫折。折角の
好機を逃して、曹操の後塵を浴びる事になる。 新時代の指導者
たるに相応しい、先見の明と決断力の有無、果断に実行する者と
躊躇う者・・・・そこが曹操との決定的違いであった。
《ーーしてやられた・・・・
》 奉戴が成功した直後、袁紹は未練
がましく、曹操に要請書を送っている。
献帝を甄(けん)城に移して、其処を都にすべきである。
己の近くに帝を呼び、今更ながらに奪取 しようとの魂胆であった。
曹操に嘲笑われ、きっぱりと拒ねつけられている。事が終了して
から、己の不明を恥じても始まらぬと云うものだ。
チャンスは常に一度しか無いの だ・・・・
この196年(建安元年)と云う年は、特筆すべき年である、と、
仲達は観る。・・・・特に曹操(魏国)にとっては、その後の覇権を
決定づけたと云う意味において、記念すべき年となるに違い無い。
乱世を制する為の権力基盤・・・・
軍事・政治・ 経済の3要素が、
全て出揃った
年であったと言えよ う。
  青州兵の【
軍事】に加うるに、
  民屯による【
経済】の確立、
  献帝奉戴による【
政治】の優越性、
   さん み  いった い
三位一体が初めて姿を現わ す年となったのである。
ーーかくて196年、献帝を迎えて新しい都と成った
   きょ と            けんあん
許都」から、建安元年が始 まったのであった。この元号は
曹操が強いたものではない。偶然の符合だが、献帝は曹操に会う
以前に、この年の初めに改元していたのだった。
  けんあん
建 安の年号は、まさに曹操の覇道に於ける本格的なスタートと
一致して始まり、そして建安25年・・・・
曹操による覇業の完成を以って終焉するのである・・・・

【第19節】希代の策士、登場!(曹操を嵌めた男)へ→