【第17節】
ーー心にポッカリ、穴があいた・・・・・
宿敵・曹操と手を組んで迄、弟を追放した
【袁譚】。
この5ヶ月間、曹操が業卩城を包囲して呉れている間に・・・・
えんたん かんりょう ぼっかい
かかん
【袁譚】はーー甘陵・安平・渤海・河間と、弟・袁尚派の城を攻め
続け、遂には逃亡中の弟を中山城に追い立てた。もはや丸裸の
【袁尚】は、2男【袁煕】を頼り、その居城である『故安』へと更に
遁走していった。袁譚は、攻め落とした各城で、弟の軍兵を次々
と併呑吸収した。 元来みな袁家の将兵である。自軍への組み
込みは支障なく進んだ。・・・・・こうして、悪名覚悟で
踏み切った
窮余の一策は、思惑通りにケリが着いた。 いま袁譚は、初めて
大軍(曹操に言わせればカスみたいな虚兵)を手にする事となっ
たのである。そして念願叶い、己が袁一族の統領と成った。
ーー然し・・・・目先の目的が達成された今、心に虚ろな空しさだけ
が生まれていた。
《俺は一体、何をしていたのだ?
あの血みどろの、弟との闘いは何だったのだ・・・?》
夢に唸され、グッショリ寝汗にまみれて撥ね起きること連夜・・・・
《ーー曹
操・・・!》 父・袁紹の顔がダブる。
《・・・・俺の憎むべき相手は曹操ではない
か!その為にこそ、
骨肉相い喰らう事までしたのではないか?》
愚かと謂えば余りにも愚かな我が身であった。袁譚は今更ながら
に歯噛みし、頭を机に叩き付け、拳で壁のツラを打った。
《ーーウググ・・・・きゃつの所為だ!全部、曹操の為だ!
我が袁家をズタズタにしたのはアイツなのだ・・!!》
そう自己嫌悪に陥ると、曹操への憎悪が更に増幅され、呪い殺
して遣りたくなってゆくのであった。折しも業卩城は陥落し曹操側も
その目的を達成し終ったばかりである。これで双方とも、俄か同盟
の必要は、全く無くなった事となる。もはや見え透いた、ニセ同盟は
無用と化したのである。すかさず曹操側から、絶交状が送り付けら
れた。政略結婚させられていた袁譚の童女を送り返すや、曹操は
軍を発した。袁譚も軍を平原城から10余キロ退かせ、華北最北端
の『南皮城』に、
《いざ決戦!》と、臍を固めた。
204年(建安九年)12月・・・・・
曹操軍は約200キロを
行軍、袁譚が焼き払う事を躊躇い、捨て
措いた儘の『平原城』に入城した。
《袁譚の奴め、勝って此処に戻って来る気でいるとはなあ〜。
恐ろしい程の楽天家か?》
零下20度を超える極寒の地に在っては、何よりの馳走であった。
かくて両者の間には刻一刻と、戦機が高まってゆく。業卩城陥落
からは、僅か3ヶ月後の事であった。恐らくこれ迄通り総攻撃は
年明け早々となろう。
処で、当時の習慣として、大きな戦いの直前には必ず、
【檄】と称する、公式な
宣伝合戦が展開された。それは公式
なものだけに、その内容は遍く天下に知れ渡る事となる。志気
の鼓舞、己の正当性・大義名分、敵の戦意を削ぐ・味方を募る・・・
等々、掟て無き中傷の応酬となる。
とは雖どもーー武力だけが幾ら巨大でも『徳』(世間を納得させる
大義名分)無き者は《天下に君臨する資格なし》とする古代からの
強烈な倫理観の元に形成されている中国世界であるから、只の
宣伝合戦・ドロ試合とは訳が違った。だから無論専属のプロが書く。
ちなみに【檄】の元の意味は
【簡】から来
ている。
『簡』とは、木簡・竹簡の、あの紙の代わりの簡である。簡は2枚
くっつけると〔割り札〕にも使える。 2枚に股がった字を書けば、
1枚ずつが”合い札”となって、関所の通行手形に使えた。是れを
『符』と言った。日本では勘合符が有名だが、「切符」は其の片方
ずつの証拠と成った。
【簡】は幅1センチ。長さ23センチ(一尺)。
厚さは 2.3ミリ(一寸の10分の1)で、糸で結んだ。
その【簡】を横に繋いだものが『冊』である。是れが専っぱら”紙”
代りに使われた、当時の書簡・ペーパーなのだが、このカサ張る
『冊』では、戦場への命令書としては、不都合であった。途中で
結び糸が切れて、バラバラに成る可能性も有る。
ーーそこで登場したのが、【檄】と呼ばれる《1枚の長い
簡》である。
命令を要点だけに絞り、たて長の1枚の簡に書いて伝送したので
ある。これだと伝令使は安心だし便利だ。
・・・・つまり【檄】とは、《1枚の長い簡》の事であった。
軍事指令や命令は、緊急を要す。馬をブッ
飛ばす。
・・・・『檄を飛ばす』ーーの元意であ
る。
では、この当時の【檄文】とは、一体どんな物だったのか!?
少し長くなるが、或る檄文の実
物を、一回限りで紹介して措こう。
賢明なる読者諸氏であれば、読み進むうちに、この檄文が《何時》
《誰に対して》 書かれたものか、判って戴けるものと思う。
チト長いから、頑張って戴きたい。
蓋し、『名文中の名文!』 と謂われている逸物である。
『司空・曹操の祖父曹騰は、もと中常侍(宦官)であったが、
他の
宦官どもと災いを引き起こし、貪婪な行いは思いのまま、徳を捐
ない民衆を痛めつけた。父の曹嵩は乞食であったが、曹騰に引き
取られて養われ、賄賂によって
官位を買い取り、金や宝玉を運ん
で権力者に財貨を贈り、三公の位を盗み取り、天下の政治を破滅
させた。 曹操は、宦官と姦吏の
醜悪な後継ぎで、もとより秀れた
仁徳など持
たず、すばしこくて狡猾、暴力好きのヤクザであり、
混乱を好み災禍を喜ぶ男
である。
かつてわが幕府は、逆臣董卓討伐の命令を諸国に発した。その
時、欠点を
大目に見て、諸将の能力を活用しようとした結果、曹操
を参加させた。曹操が
犬や鷹の如く人に指示されて格闘する能力
を持ち、牙や爪の任に当たれると考
えたからである。
ところが曹操は愚かで軽はずみ、思慮は浅
く、軽率に前進し、
平気で退却する有様で、
部下を殺傷され、勢力を挫かれ、何度も
軍勢を失った。我が幕府はその都度、精鋭の兵を分かち与えて
取り繕い、補充してや
り、羊の様な男
なので虎の皮を着せ、一軍
を与え、威光と権力が備わるようにしてやり、一勝
でもして呉れれ
ばよいと思っていたものである。
然るに曹操は、その儘その基盤を利用してのさばり、思いの儘
に苛酷な行
いをし、民衆から搾取剥奪し、賢人を傷付け善人を
迫害した。九江太
守・辺譲は、
曹操に対して歯に衣着せぬ厳しい
態度で意見し、その論旨に阿った処が無い為、
その身は晒し首の
浮目に会い、妻子は絶滅の災厄を被った。
これ以後、多くの人士は憤り悲しみ、民の怨みは益々深くなり、
一人の男が腕
を振り上げて呼び掛ければ、一州こぞって呼応した。
そのため曹操自身は徐州
で陶謙に破れ、
領土を呂布に奪
われて、
東の辺境をさまよい、身の置き所さえ無くなってしまった。
幕府は、曹操を滅亡の苦しみから救ってやり、元の位に復帰させ
てやった。
これこそ、曹操にとっては大恩のある点である。
のちに皇帝が流浪した折、幕府は冀州を離れる余裕が無く、その
ため曹操に
出動を命じ、宗廟を修復し、幼い皇帝を護衛させた。
ところが曹操は、忽ち気を大きくして勝手な行動に出、朝廷を
脅迫して遷都
させ、漢朝の官吏を侮辱し、法律を破り秩序を乱し、
座った儘で三公を呼び付
けるなど、朝政を独断で取り仕切り、
恩賞は規定によらず、心の赴くままに
任せ、刑罰は口から出任せ、
寵愛する者は5代まで栄転させ、憎悪する者はその
3族まで
皆殺しにした。集まっただけで処刑を受け、異議ありそうな者は
秘密裏に殺されるので、道往
く者は口もきけず目配せし、百官は
堅く口を閉ざし、役人はただ記録
だけをとり、公家もただ数が居る
だけと成り涯てている。
国家の重責を担って来た太尉の楊彪は、些細な怨みによって
無実の罪を着せられ、苔打ちと棒叩きの上、入墨鼻切り・脚切り・
宦刑・死刑の
五刑全てを科せられるなど、感情に任せて悪行を
欲しい儘にし、法律を顧みな
い。
天子に直言した議郎の趙
彦は、天子への発言の道を閉ざそう
とする曹操
により、上聞し許可の降りるを待つ手続きも踏まずに、
即刻殺害された。また梁の孝王は、先帝の同母の弟で、その陵
(墓)は尊ばれ高名であり、植
えられている樹木にすら敬意を払う
べきなのに、事もあろうか曹操は、文武の
官吏を引き連れ、みず
から墓荒しに立ち会い、棺を破壊し遺体をあばき、金や宝玉を略
奪し、
その結果、天子は涙を流され士民は心を痛めたのだった。
曹操は新たに墓暴きの官(発丘中郎将)・金探しの官(模金校尉)
を任命し、
通過したあらゆる場所で墓を破壊し、剥き出しにされな
い遺体は無かった。
曹操は三公の官位にありながら、凶悪犯の
所業を働き、国家を滅ぼし人民を
虐げ、害毒は人間にも、死者に
迄も及んだのである。
かてて加えて、微細な点まで規制する政治は苛酷を極め、法律
と布令による
禁止条項を併設し、あたかも法律のワナを小道一杯
に仕掛け、落とし穴で通
れなくし、人民は手を上げれば網目に引っ
掛かり、足を動かせば落とし穴に落ち
込んだ。
その結果、兌州と豫州の民は鬱々として楽しまず、首都には
怨嗟の声
が充ち満ちた。古今の書物を歴観しても、貪婪残酷無道
な臣下のうちでも、曹操
ほど甚だしい者は居無い。
わが幕府は、外部征討に追われ、いまだ曹操に教戒するいとま
が無く、特別な
配慮によって大目に見、何とか彼みずからの過失
を取り繕う事を期待してい
た。然るに曹操は山犬や狼の如き野蛮
な心を
持ち、密かに忌まわしい謀略を抱き、かくして国
のむな木
(棟)とはり(梁)に当たる重臣を打ち砕いて、漢の王室を孤立させ、
弱体化し、中正の士を悉く除き去り、もっぱら力に任せた凶悪な行
為をして来
た。
いま曹操は、敖倉(古来から官の穀物倉が置かれて来た地)を占拠し、黄河
を隔てて固めとし、カマキリが斧を振り上げて、大軍の進行を阻
もうとしてい
る。だが我が幕府は、漢朝の御威光を奉じ、天下四方
に使者を出し、一百万の長戟
の士、一千隊の胡人騎兵、中黄・夏
育・烏獲の如き勇士を奮い立たせ、良き弓、強き弩の力を発揮し、
并州の高幹は太行山を越え、青州の袁
譚は済水・トウ水を渡
り、
本隊の大軍は黄河に船を浮かべ、先頭に立って敵に当たり、荊州
の劉表は宛・
葉の地で後詰めを成し、雷鳴を轟かせ猛虎の歩むが
如き勢いで、全員敵地に集結
したのだ。
恰も、燃え上がる火を掲げて風に飛ぶ蓬(よもぎ)を焼き、大海を
覆して飛火
に浴びせ掛ける様なものである。どうして敵を消滅させ
られない事があろう
か!
現在、漢王朝は衰退し、綱(おおづな)は弛み、紀(こづな)は断ち
切れてい
る。曹操は精鋭兵七百を以て、宮殿の廻りを固め表向き
は護衛と称
しているものの、その実、拘禁に外ならない。その簒奪
の災いが、かかる状態
の中で起きる事を懸念するものである。
今こそ忠臣が肝・脳を泥まみれにし、命を投げ打って戦う時であり、
烈士が
功名を立てる機会である!
つとめて励まないでいいものか!』
『贅閹遺醜、本無令徳、慓狡鋒侠、
好乱楽禍』
贅閹の遺醜にして、本
より令徳無く、慓狡鋒侠乱を好み禍いを
楽しむ。
『鷹犬之才、
爪牙可任』
鷹犬『愚佻短慮、
軽進易退、傷夷折衂、数喪師徒』
愚佻短慮ぐちょうたんりょ、軽く進み易やすく退き、傷夷折衂しょういせつじくして数しばしば師徒しとを喪うしなう。
『乗資跋扈、肆行酷烈、割剥元元、残賢害
善』
資しに乗じて跋扈ばっこし、肆ほしいままに
酷烈を行ない、元元げんげんを割剥かっぱくし
賢けんを残そこない善を害す。
『放志専行、
威刧省禁、卑侮王僚、敗法乱紀、
坐召台 専制朝政、爵賞由心、刑戮在口』
志を放ほしいままにし 行ないを専もっぱらにし、威いもて省禁しょうきんを劫おびやかし、王僚おうりょうを
卑侮ひぶし、法を敗やぶり紀きを乱し、坐ざしながら三台さんだいを召めし、朝政を専制し、
爵賞しゃくしょう心に由より、刑戮けいさつ 口に在り。
ーー(略)ーー
『歴観古今書籍所載、貪残虐烈無道之臣、
於曹為甚』 古今ここんの書籍しょせきの載のする所を歴観れきかんするに、貪残たんざん
虐烈ぎゃくれつ無道
の臣しん、曹そうに於おいて甚はなはだしと為なす。
『曹豺狼野心、
潜包禍謀、乃欲橈折棟梁、
孤弱漢室、除忠害善、専為梟雄』
曹操は豺狼さいろうの野心あり、潜ひそかに禍謀かぼうを包み、乃すなわち棟梁とうりょうを橈折そうせつし、
漢室を孤弱こじゃくにせんと欲して、忠を除のぞき善をし、専もっぱら梟雄きょうゆうを為なす。
「ウ〜ム、是れはまさしく、【美事な詩賦】じゃ
な!」
ーー書かれた当の曹操が、感嘆してしまう・・・・まさに、プロである。
日本語発音にしてしまっては身も蓋ふたもないが、韻いんを踏んだ、歯切れ
の良い、メリハリの効いた美文調である。それにしても、これだけ
人の悪口を書き連ねるのは、それだけでもう、一つの立派な才能と
見做みなしていい。試しに、誰かの悪口を書き連ねてみるとよい。
(筆者は勇敢にも、内緒ではあるが、我が女房を対象にチャレンジしてみたが、とてもこうは
ゆかなかった。精々せいぜい単語の羅列に終わってしまう。どうも天下に知らしめるには御粗末に
過ぎる。)矢張り、ひとつの才能である。
このプロの檄文作家、
名は【陳琳ちんりん】・・・・字は孔璋こうしょうと言う。
今、捕虜となり、この業卩ぎょう城の地下牢に押し込められて居る。過日
降伏の使者として謁見した時には、それを拒絶したが、この時は
〔檄文の件〕は不問として、追い返すに留めた事は既述した通りで
ある。 ーーさて・・・書かれた曹操・・・・感心してしまった。
一時は激怒し、今でも憤懣ふんまんやる方ないが、ここまで徹底的に書き
まくられては、怒るどころか、すっかりその美文調に参ってしまった。
曹操自身、こうは書けない。
《ーー欲しい・・・!!》
かくの如き、辛辣しんらつで美しい【檄】を、自軍の方から天下に飛ばして
みたい・・・・曹操孟徳が、一代の文学者・『漢詩のガイア』で
在ったればこその評価である。
これから天下を併呑へいどんし、いずれ天下人に成らんとする曹操にとっ
ては、かくの如く世論を惹ひき付けて已やめさせぬ様な、こうした論客
は是非にでも欲しい。又、書いた当人を召し抱えてしまえば、過去
の檄文の内容が虚偽であったと、薄められる効果も生じて来よう。
「こ奴だけは、断じて許さん!」
と、本人に伝えさせて措いてから、面前に退き据えた。
「ーーそれにしても、なあ〜陳琳よ・・・」
曹操は怒りを抑えて、こう切り出した。
「この檄文はチトひど過
ぎやあしないか?」
わざわざ5年前の実物をヒラつかせて示す。
「この儂の罪状だけを挙
げつらっておけばいいではないか。
悪を憎むにしても、その者だけに留めるべきであろう。
何も父や祖父まで引き合いに出さずともよかろうにのう・・・!」
曹操の家族思いは、つとに有名である。父の曹嵩が殺された時
には逆上し、徐州で何十万の民衆を大虐殺し、今でも恐怖されて
いる。その曹嵩を『乞食であった』と書いていた。
牢から引っ張り出された【陳琳】、さぞや畏れ入ってビビリまくって
居たかと想えば然に非ず。涼しい顔で答えたものである。
「これは私の仕事で御座いまする。私はただ、任務に全力を尽くし
た迄の事。より効果的に筆を進めるのみに御 座います。」
「矢ノ弦上げんじょうニ在レバ、発はっセザルヲ得ズ」・・・・『魏書』
(成り行き・行きがかり上やむを得ませんでした)、とも。
「ワハハハハ、 ウム、いかにも、そうであるな。よく解ておる。
まあ今後は、精々せいぜいその舌鋒ぜっぽうを記室きしつ(秘書室官房<長官)として、この
儂の為に存分に振るって呉れ!」
直ちに、司空軍謀祭酒しくうぐんぼうさいしゅ(参謀)の官に任じた。
「かしこまって御座います。」
多くの側近達にとって、この寛大な処置は意外であった。 檄文を
最初に見た時の、あの曹操の激怒ぶりからは、とても推測できぬ
展開であった。腑に落ちぬ顔付で尋く者があった。
「殿は何故、あの陳琳をお許しなされ、而も厚遇なされたのですか?」
曹操は短く答えて言った。
「全て、是れ才な
り!」
ーーとは雖え、5年前のあのボディブローは、ジンワリと、今でも
効いている。・・・・プロだけあって、〔曹操最大の泣き処〕を、
グサリと刺し貫いていたのである!
特
に此の《檄》の書き出し・劈頭へきとう部分が相当こたえている。
【贅
閹ぜいえんの遺醜いしゅう】・・・・この4文字が全
てであった!
そして、このフレーズこそが生涯、いや2000年後に至る迄、
人々が抱く【悪玉・曹操】のイメージを固定し、彼の全体像を歪める
事となる《諸悪の根源》に成っていくのである。
〔贅ぜい〕ーー疣いぼ・瘤こぶなどの
不要物、無用なモノを指す。
血縁関係を重視する儒教社会では、《異姓を養子にする》 事は、
重大な禁忌タブーであった。・・・・つまり 『贅』 とは、世に不要なもの・
在ってはならない禁断の妖
怪=異姓養子(入り婿むこ)を意味する。
これ一つだけでも充分、もはや世間からの白眼視は決定的なの
である。にも拘わらず、陳琳は更に追い打ちをかけた。
〔閹えん〕ーー宦官かんがんを指す。後宮に在って、政治を壟断ろうだんし、朝廷・
人民に害をなす悪濁した女おとこ。生理的・生物的にすら嫌悪
される醜怪な存在・・・・そしてそれ以上に、公権力を私利私欲の
為に用いて、人民を苦しめ、士民ともから憎悪され、世の濁流と
して怨嗟えんさの的になっていた。
【贅ぜい】と【閹えん】・・・忌まわしき両者が合体し、その背徳と悪徳とが
産み落とした醜怪な申し子ーーそれが、曹操孟徳と云う存在その
ものの正体なのである・・・・!
《フン、幾いくら偉そうな顔をしたって所詮しょせん、贅閹の奴やっこじゃねえか・・・》
この目に見えぬ 〔二重の蔑視べっし〕=
〔二つの禁忌タブー〕こそが、曹操の
前半生に於ける、覇業への最大の障害・敵であるのかも知れ無
かった。陳琳が「檄文」の中に創り出し、遍あまねく天下に喧伝された
此のキャッチコピー(キャッチフレーズ)は、今や隠れた流行語・
〔曹操孟徳の定冠詞〕 とさえ成っている。
曹操が如何いかに振る舞おうとも、どの様に無視しようとも・・・・この、
『時代の呪縛じゅばく』・『社会の規範』から逃れ去る事は出来無い。恒に
附いて廻った。
ーー蓋けだし、その根源を突き詰めれば、こうした蔑視・世の悪評は、
全て【儒教じゅきょう】と謂う大前提の上に成り立ち、生じて来るものである。
抑そもそも禹域ういき(中国)を席巻し、人の心を呪縛じゅばくしている儒教の濫觴らんしょう
(誕生)とは如何なるものなのか・・・・??
この大問題にも、いずれ触れざるを得まい。
【贅閹ぜいえんの遺醜いしゅう】である事・・・・これは己に架かせられた、生まれながら
のハンディである。彼自身には何の責任も無い、謂われ無き宿命
であった。・・・・人はここで、二通りに分かれる。一つは其れに負け、
己自身を呪のろい、自分を憐
れみ、全てを其の所為せいに転嫁てんかして、結局
は、自らを切り開く努力をせぬ儘まま、何をする事も無く、破れかぶれの
荒すさんだ一生の中に朽くち果てる者・・・・
而しかして曹操と云う人間は、このハンディに屈する事を潔いさぎよしとせず、
逆に己の弱味をバネ
にしてしまう、強靱きょうじんな心を身に着けてゆく。
在るが儘ままのハンディを己の特性、他人には無い個性だと考え、
隠そうとする己の卑屈さや、恥ずかしく思う事の愚かしさに気付い
ていった。・・・そして、贅閹の子で在ると云う事実よりも、その事に
萎縮する態度こそを、他人は面白がり、又、囃はやしたてて居るのだ、
と云う事に気付く。
「其れの何処どこが悪いって謂いうんだヨ〜!」と開き直られれば、土台
謂いわれない事なのだから、相手は反論出来ず答えに窮きゅうする・・・・
そうした少年期の体験を経て、却かえって曹操は急速に成長進化して
いった。 時折ときおり見せる幾つかの優しさや寛大さ・慈愛と云うものも、
其の哀しみや辛つらさを味わい尽くした人間だからこそ、発露し得た
ものとも言えよう。
ーーこれを巨視的に観れば・・・曹操には、生まれ落ちた
時から【超えるべき心理の壁】が存在して居無か
った・・・・と云う事である。己を立ち止まらせ、逡巡しゅんじゅんさせる様な
社会的道徳律、悩むべき倫理りんり葛藤かっとうなどと云う、 価値観の自己
矛盾が、最初から無かったと云う事にもなる。
謂わばーー曹操孟徳と云う男の存在は、
『時代の制約から解き放たれてい
る』、
《超新
星》
であったのだ!
一見いっけん、「時代」から蔑視べっしされ続ける曹操なればこそ実は「時代」に
風穴かざあなを空あけ、己を蔑さげすむ「時代」そのものを徹底的に打ち壊こわすべき
強烈なパワーを具そなえてゆくのである。そして如何なる既成の権威
に対しても、何ら躊躇ためらう事無く、【新たな時代】を打ち立てる資格を
与えられた、時代改革のパイオニアで有り続けてゆく。
もし彼が「清流の名門」出身で、大漢帝国の国教である儒教倫理
が、骨の髄まで浸み込んでいるお坊っちゃまで在れば・・・・社会
通念の壁を越える事だけで思い悩み、それを成し遂げるだけに
生涯を費やさざるを得無いであろう。つまり、《時代を超える様な》
〔新しく創造的な大事業に専心する資質〕には欠けてしまうのである。
例えばニーチェが、ゾロアスター(拝火教)の預言者・ツァラトゥストラの
口を借りて(介して)「神は死んだ!」と言わしめた(著述した)後、結局は
キリスト教徒である彼自身は発狂してしまうが如く、その生まれ育っ
て来た社会通念から逸脱する事は、何時の時代・洋の東西を問わ
ずに至難の業であり、ニーチェ自身も成り得無かった〔超人〕の所業
なのである。まあ我々一般人は、下手に「超人」なんぞを目指さぬ方が平和的であろう。
実際この「超人思想」に被れた(悪用した)のがヒトラーだった史実を知れば尚更である。
(ニーチェに責任は無いけれど、ナチスに協力したハイデッガーには、哲学者としての責任は
十二分に在る。) (※但し筆者の如き、極く在りふれた非?宗教(無信仰?)の日本人
(クリスマスでも仏葬でも神前結婚でも教会結婚でも一向にお構い無しの大らかで無頓着なTPOを使い分ける者)にとっては
「神は死んだ!」と言われても、ヘエ〜そうなの〜程度にしか鈍感に感じられないのだが、
先祖代々、生まれた時から信心深い信者にとっては大大大ショックの、許し難い暴言である
に違い無い。筆者自身、学生時代に初めてニーチェを読んだ時には其処ら辺が不可解だった)
その点、曹操は、世間に何と蔑さげすまれようと、他者とは異なる精神
構造=【開明の資質を与えられていた】 と謂う事になる。
荒すさんだ青春の日々の中からその事に気付き、それを自覚し得た処
に、この男の偉大さが在ろう。そして更に、このハンディを己の特性
として把とらえ、その屈強な意志によって「昇華しょうか」させ、美事に自己変革
を達成してゆく。そして今や、その宿命は曹操自身の胸の裡で炎と
化し、【天に選ばれし特異な者の証し】 として、不動の
確信と成って自覚されている。
・・・・何いずれにせよ『曹操悪玉説』や『敵役かたきやく・曹操』のイメージは、この
【陳琳
の檄文】から発生したと言ってよい。
全てのルーツは此処に在る。時代を引き裂く強烈さを有している。
今では陳琳本人は曹操幕下に居るが、一度彼の手を離れた「作品」
は、もはや個人のものでは無く、今更うち消す事は不可能な状態で、
勝手に時空を独り歩きしてゆく。それは二千年の時を超えても未だ
歩き続けている・・・そして恐らく未来永劫みらいえいごうに・・・・
尚、陳琳はのち曹丕と特に親しくなり
文学の世界では、『建安けんあんの七子しちし』として高く評価される。
ーーその後のエピソードとしては・・・・
『頭風とうふう』(強烈な偏頭痛へんずつうか)の持病もちの曹操が、それに苦しめられ
ていた時、陳琳の書き下ろした檄文を読み、その余りの痛快さに、
思わず病気がふっ飛んだ・・・・と、伝えられてもいる。
ーーかくて、204年(建安九年)と云う年は、
【業卩ぎょう城獲得】と謂う、魏
にとっての大エポックを刻みながら
暮れていった。
しんし
『曹丕』が『甄氏』を正妻として迎え入れた事は言うまでもない。
ーーだが之これは、略奪結婚の典型である。少府・孔融が指弾する
迄もなく 〔不義なる結婚〕 そのものである。一体、許されるもの
なのであろうか??
儒教の教典では『不以義交者』ーー
義ぎヲ以もっテ交まじワラザル者・・・・を、《不義》としている。
では曹丕の(略奪)結婚は、敵味方を超えての公式見解としては、
《可》か《否》か?ーー儒教教典の見解は・・・・
『可、なり!』である。
事実は略奪であり、不倫行為であり、悪あし様ざまに言えば姦淫・姦通
に近い。何しろ彼女の夫(袁煕えんき)は今も生きているのだ。つい昨日
まで、貞淑な他人の正妻だったものを、無理矢理むしり奪ってしま
ったのだ。ーーだが、儒教の教典が示す”不義”とは・・・・
結婚の儀式・手続きを教え通りに行わなかった
者
こそが”不義者”なのである。
之は、教典の書き方としては致し方ないと言えよう。
・・・・当然の事ながら教典は一々、千差万別な男女の営みの途中
経過までは網羅できない。原因・理由(出会い)はどうであれ、夫婦
と成って《家》を形成するからには、ピラミッド型の【国家社会の一員
として】、きちんと社会の承認を得る=(決められた儀式・手続きを
完遂する) 事を第一に掲げざるを得無い。 曹操一族は、それを
逆手に取ったのである。つまり、婚儀さえバッチリこなせば文句は
有るまい、と云う訳なのであった。無論、屁理屈・詭弁に過ぎない
事は百も千も承知している。だがこの強弁は、必ずしも独善だとも
言い切れぬぬ。当時は《徳に拠る官吏登用制度の弊害》が世の中
に蔓延し、偽善が持て囃されて横行すると云う、倫理廃退の背景が
一般的風潮として存在していたのであった。
人様の事を、余んまり強くは糾弾できない。
ーー儒者が主唱する『婚姻
の儀式』は、6つの段階を踏んだ手続き
を以って完了する。この〔六つの儀式〕を全て行った者は義に叶い、
手順の一つでも手抜きした者が不義者とされるのであった。従って
曹丕の場合も、この六つの儀式を済ましさえすれば、晴れて世間か
らも立派な結婚・正式な夫婦として認められるのであった。
これ
よ しんし
之に依り、曹丕と甄氏は正式な夫婦と成り、晴れて不義の名も無し
に、世に認められる事となるのであった。儒教の形骸化を示す一例
とも言えようか。尚、彼女の親(一門)も拠城である業卩城に、全部
残って居たで有ろうから、仮親かりおやを立てる必要は無かった筈だ。
但し、結婚式の日時が何時であったかは判らない。直ちに(年内に)
挙げた筈であるが、大々的にはもう少し後だったかも知れない。また
曹操の事であるから、そんな形式張った事は一切無視させた可能性
も無くはない。
折角だから、簡略に紹介して措こう。
現代の我々(日本人)の結婚の儀のルーツでもある。
6段階あるから【六礼りくれい】
と呼ぶ。
のうさい ゆいのう
『納菜』・・・男の家から女家に結納の品を持参してゆくこと。
もんめい
めと
『問名』・・・婚姻の吉凶を占う為に、娶る女性の
うじ
母親の氏を問う儀式
『納吉のうきつ』・・・占いでの吉を得た報告を女家に示す。
かり
その折には雁を男家より納める。
せいき ひさだ
『請期』・・・結婚の日定めを行なう儀式
しんげい むこ
『親迎』・・・結婚当日、婿が女子を迎える儀式。
身分によって、その時に着る服、乗る
車が決められている。
そして、『結婚』・・・・だが、然
しーー
(先にも触れたように)曹丕と甄氏の結婚については、後世、
大問題が
発生して来るのである! 甄氏が孕んだお腹の子に
ついて(つまり実の父親
について)或る重大な疑
惑・解けない
謎が発生する!(詳細は第8章・女だけの城)
ーーいずれにせよ、昨日まで仲睦なかむつまじい夫であった【袁煕えんき】は、
敵として今も生きているのである。如何に戦国の習いとは謂え、
《甄氏の本当の胸の
裡》は、窺い知る事は出来無い・・・・・
ちなみに、では一体・・・・我々、
『庶民の結婚』 は、どんなものであったのだろうか?
食うや食わずで生きるだけでも大変なのに、儒教々典の教え
の通り、やっぱり 〔六礼りくれい〕を行わなければ、《不義者》になって
しまうのだろうか? ?
記憶の良い方は、もうお判りでありましょう。そう、
ただ や ごう
我々の結婚は唯一言、《野合!》で片付けられてい
たので
した。儀礼もヘッタクレも無かったのである。
いっ ぷ た ふ せ
い
『六礼』は飽く迄、【一夫多婦制】の
ハイソサイティが、その後、
彼女が産むであろう男児を、前もって(ゴタゴタを回避する為に)
跡継ぎと認知すべく、正妻を
決定する(娶めと
る)為の儀礼なので
あった。 だから、【一夫一婦制いっぷいっぷせい】=(匹夫匹婦制ひっぷひっぷせい)の庶民達には
土台、《不義》 などと云うものは、発生しようも無かったのであり、
何の関わりも無い、”雲の上の話し”でしか無かったのである。
古来より、『礼ハ庶民ニ及バズ』・・・・と謂う、有り難〜い
附則★★が、儀礼範典にはチャ〜ンと定められていたのでありました。
抑そもそも我々には、そんな金も暇ひまも無いではないか。そんな高邁こうまいな
儀礼を押し付けられても、却かえって往生おうじょう
してしまう。搾取しぼりとれるだけ
取られておいて、儀礼だけはキチンとせよ!など、堪たまったもんでは
無い。だから其処ら辺は、『お上かみ』も先刻承知で、我々を適用外と
したのである。それにしても、
や ごう
犬ッコロではあるまいし、【野合】とは、ちとヒドスギル・・・・
尚、中国では同姓の男女は結婚できない。 《同姓不婚》
ーーさて、この【檄げき】は、敵を徹底的に叩く『謀略戦』に於ける、
その最有力な手段で有った事は謂う迄も無い。然しこれ以外にも
未だ未だ、有効な宣伝手段が存在したのである。
【檄】が主として〔外部〕に飛ばされたものとすれば、主に〔内部〕
向けの手段も在った。
ーー【鼓吹曲こすいきょく】ーーである。
古来、中国の各国軍隊は、兵士の士気高揚の為と、兵士ら自身
のお楽しみの為に、【軍歌】を歌わせていたのである。
(以下は、金 文京博士の研究に拠る)
ちゃんと軍楽隊が附いて、ドラや太鼓(鼓)で勇壮にリズムを取り、
様々な笛(吹)でメロディを伴奏した。 ーー大合唱と成る。平時は
無論のこと、戦場にもこの軍楽隊は同道した。
『正史・呉書』の〈虞翻伝ぐはんでん〉中には、山中で孤立した君主(孫策そんさく)が、
”楽士”の一人と出会い、その角笛つのぶえを吹いて将兵を呼び集め、無事
帰還する話が出て来る。 最も有名なのは《赤壁の戦い》の直前に
曹操が、長江上の大艦隊の将兵等に、自みずから創った詩賦しふを大合唱
させる場面である。大河の水面みなもに展開している何万艘そうもの将兵達
が、ズレる★★★事無く一斉いっせいに歌えたのも、この軍楽隊の大音量が在れば
こそ可能であったのだ。
打楽器(鼓)と笛(吹)の伴奏で歌う軍歌だから、【鼓吹曲こすいきょく】 又は
【鼓吹鐃曲こすいどうきょく】 と呼
ばれる。 三国時代には冨に盛んとなり、その
楽詩は、『宋書・楽志』に収められ、現代にも伝わるという。
〔魏〕は12篇(曲)、〔呉〕も12篇。〔蜀〕にも有る筈はずだが、史書編纂へんさん
の暇いとまも無く亡びたので伝わらない。三国を統一した〔晋しん〕は流石に
多く、22篇。皇帝の直命に拠り、各国一流の文人が、全知全能を
傾けて作詩した。 (※魏は「繆襲びゅうしゅう」、呉は「韋昭いしょう」、晋は「傅玄ふげん」)
一篇(一曲)ごとに『題』と『題詞』が付けられ、その内容は、自王朝
が成立する迄の艱難辛苦かんなんしんくを辿たどり、 幾いく大戦の勝利と栄光を讃えた
もので、《壮大な組曲》・《一大叙事詩じょじし》であった。
歌い易やすいように、韻いんを踏んだ七言句(4・3のシリブル)が多用され
ている。(曹操が漢詩のガイア・パイオニアと成った経緯は既述)
呉の第4曲・・・・題は『烏林うりん』。ーー(即ち、赤壁の対岸)
題詞は『曹操
すでに荊州を破り、流れに従いて東下し来たりて鋒ほうを
争わんとす。大皇帝、将の周瑜しゅうゆに命じ、之これを烏林うりんに迎え撃ち、破り
走さらしむを言うなり。』
曹操北伐 抜柳城 曹操北伐して 柳城を抜き
乗勝席巻 遂南征 勝ちに乗じて席巻し 遂に南征す
劉氏不睦 八郡震驚 劉氏睦じからず 八郡震え驚き
衆既降 操屠荊 衆 既に降るも 曹は荊州を屠る
舟車十万 揚風声 舟車十万 風声を揚げ
議者孤疑 慮無成 議者 狐疑いて 慮は成らず
頼我大皇 発聖明 我が大皇の 聖明を発するに頼り
虎臣勇烈 周与程 虎臣は勇烈たり 周瑜と程普
破操烏林 顕章功名 操を烏林に破り 功名を顕章せり
然し何と言っても、
兵士等の最大の楽しみは、この軍歌の前後に
配されていた《語りの部分》であった!
ーーいわゆる【講談】である。恐らくプロの講釈師が居た筈である。・・・・となれば、その講話の
内容は押し並べて、自国に都合の
好いものと成る。反対に敵は大逆賊・悪辣あくらつ非道の権化ごんげとされる。
(曹操は既に降伏している荊州の民を皆殺しにした=[屠る」事に
なっているが如く。無論、虚実であり、寧ろ曹操は厚遇を与えた
のであるが。) ーー・・・そんな悪い敵をやっつける為に、我が
スーパーヒーロー達が、深謀奇略を縦横無尽に駆使しつつ、その
武勇と忠誠心を以って次から次へ、バッタバッタと敵を薙なぎ倒して
ゆく・・・・痛快まる囓かじりの大活劇である。
それだけでは無い。プロたる講師(講釈師)は時として、しんみり
した涙を取り入れ、また敵の間抜けさやユーモアで大爆笑を誘い、
戦闘シーンでは息を呑ませ、手に汗握らせる様な「語りのツボ」=
「聞かせのコツ」、エンタティメントを心得ていたであろう・・・・
是れが、後の【三国志演義】のルーツで在ったとしても、不思議
ではあるまい。 ーーかくて兵士等は、楽しみながらも自ずから、
愛国心(忠誠心)と志気(敵愾心てきがいしん)とを高揚させ、更には戦闘時に
於ける様々な具体的知識を身に付けていったのである・・・・
血で血を洗う戦場の戦いと並んで、平時に於ける《もう一つの戦い》
は、目に見えぬ処で、かくの如く、推し進められていたのである。
無論、曹操軍の陣中でも、いや覇業を目指す曹操軍なればこそ
殊ことの外、着実にこうした内外に対する措置そちは徹底して施ほどこされていた。
ーーーー強い!
とにかく強い。
曹操軍は殊更ことさらに強い!
・・・・何故か・・・!?
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