【第15節】
《ーーくそっ、あの野郎め・・・・!》
大曹操は歯がみした。曹丕の〔甄氏横取り作戦〕にまんまとして
やられた?ショックを、どうにか笑い事で誤魔化して折角、気分を
切り替えようとしていた矢先の事であった。
許都に居る少府(宮廷の統括長官)の【孔融】から短い書簡が
届けられた。
『むかし
周の武王が、殷の紂を平らげると、紂の愛人の妲己を、
弟の周公に与えたとか謂われております・・・・』
ーー史実に無い出鱈目である。
《名君と呼ばれる人物は、そんな人道に外れた事はしいものだ!》
と云う反語的表現であり、曹丕の甄氏強奪を皮肉り当て付け、貶
したものなのであった。 ・・・・息子の曹丕が、敗れた将の人妻を、
夫が現に未だ生きて居るにも拘わらず、無道にも略奪した事に
対する、世論の代表として、ズケリと言って来たものであった。
《常々、偉そうな布令を出している癖に、
我が子の不行跡を容認するのは面妖ではないか・・・!!》
このクソ忙しい最中に、曹父子の不逞を言い立てる為に、態々
当て付けがましい書面を送り着けて来たのである。然し博学の
曹操も、書かれている様な逸話は聴いた事が無い。後に、その
出典を問い質してみると、孔融は澄ました顔で答えたものだ。
「別に出典なぞ有りませぬ。然しですな、今回の御父子の為され
様を観ておりますれば、必ずや昔にも、此んな事が有ったのでは
ないかと思った訳で御座いますよ。」
ーー今ヲ以テ之ヲ度
ルニ、想ウニ当ニ然ルベキ耳ミーー
これには曹操ムッと来た。二重の侮辱である。 ムカッとしたが、
弱味は、こっちに有る。ブスツとして部屋に籠もってしまった。
あの野郎ーー【孔融文挙】・・・・
こう し
大聖人《孔
子》の20代目の直系子孫である。
生来豪胆で、任侠的肌合を資質に持っていた。
如何にも畏まった、学者サマ然とした男では無かった。
その前歴としては・・・・北軍の中侯・虎賁中郎将・北海国の相を
歴任して来ていた。
堂々と恵まれた容貌を持つ、ややヤクザ先生っぽい、捌けて
気骨の有る人物である。
『孔融ハ骨格・気品トモニ優レ、其ノ見事サハ
他人ノ及バヌモノガ有ル。其ノ文辞ノ秀レタ点ハ
楊雄・班固の仲間デアル。』 ーー『典論・曹丕』ーー
8年前(196年)の9月、曹操が漢の献帝を許に迎え取った時、
朝廷側(曹操ではない)から呼び戻さ
れ【将作大匠】に任じられた。
この時既に、孔融文挙の名声は広く天下に轟いていたからであった。(やがて昇進して【少府】に抜擢される)だから曹操の家臣では無い。
さりとて曹操の認可裁定を経ているのだから丸っきり独立した身分
とも言い難く、その朝廷と曹魏政権との間に在る彼の立場は何とも
微妙なモノではあった。(※ 織田信長に仕える明智光秀に似ているか?)
彼の気骨と才気とを示す、〔前半生〕のエピソードが幾つか伝えられ
ている。
ーー《エピソード・ワン》・・・・
10歳の時、噂に高い洛陽市長の李
膺 (のち清流士大夫のリーダー・
登龍門の本尊と成る)の人柄を観察してみたいと思い立った。そこで
独りで出かけて行った。 だが既に高名な李膺の元へは連日、
面会を求める人々の波で溢れ返っていた。 そのため李膺は
使用人に、当代の優れた人物と通家(先祖代々から付合いの有る家)の
子孫でなければ取り次ぐな、と言ってあった。
そこで小坊主は、『私は李君の通家の子孫である』と、取り次が
せた。まともにやれば、直ぐにでも叩き出される小わっぱである。
「はて?お客人の御先祖は私の家と付合われた事が
有るのですかな?」
「その通りです。我が先祖の〔孔子〕は、あなたの先祖の李老君
(老子・名前は李耳)と、肩を並べる徳義を持っておりまして、弟子で
あり友人でありました。とすれば、私とあなたとは、何代にも渡る
通家で御座います。」
一同、その返答を見事だと思い「えらい子供だ!」と言い合った。
当時は、こうした機知に富んだ会話が大いに重んじられていた。
だが、直ぐ後にやって来た陳イ(火へんに韋)と云う客だけは、
それを聞いて、このひねた小僧っ子を苦々しく思った。
「早熟た児は、得てして成長したら、ロクな者に成りゃしないもんだ!」
ーー人ノ小ナル時ニ了了タル者、
大ナレバ亦 未マダ 必ズシモ奇ナラザル也ーー
すねと、すかさず孔融少年が混ぜっ返した。
「だったらオジさん、オジさんは小さい頃は、
さぞや神童だったんだよね?」
李膺は大笑いをし、振り返って孔融少年に言った。
「お客人よ、成長されたら、きっと立派な人物に成られるでしょう」
だが周囲の人々は感心する反面、その可愛げ無さに、寧ろ
興醒めする思いに狩られたという。ーー『後漢書・孔融伝』ほか
ーー《エピソード・ツウ》・・・・
16歳の時、
宦官勢力(中常侍の侯覧)の逮捕命令に逃亡せざるを
得無くなった『清流』人士の一人(張険)が、兄(孔褒)を頼って
逃亡して来た。だが折悪しく兄は不在であった。玄関に出て来た
子供を見て、真実を打ち明けるべきか逡巡していると、孔融は
「兄は不在です。でも事情はお察っし出来ますから、私が独りで
あなたのお役に立ちましょう!」 と、そのまま家に引き留め、
処刑覚悟
で隠まった。後日、小作人の密告により発覚したが、
縛吏が来る前に張検を脱走させる事が出来た。然し孔融と兄の
孔褒は直ちに捕らえられ、牢獄へ送られた。取り調べに会うと
兄・弟・母親(未亡人)の三人ともが、自分がやったと庇い合い、
互いを助けようとして死を競い合った。
困り果てた郡と県の官憲は仕方なく、ついに【お上】に裁断を
仰ぎ、詔書は兄の孔褒を処刑させた・・・・この事件は、漢朝を
支えて来た「清流士大夫」の間で、命懸けの美談として、
《流石は孔子の子孫!》 と、彼の名を一躍世に知らしめた。
ーー《エピソード・スリー》・・・・
この名声により改革派の『楊賜』の元に仕官するや、折しも進め
られていた汚職の摘発に辣腕を振るい、権勢を誇る宦官と雖ども
恐れる事無く、容赦無しに検挙し続け、処断していった。
ーー《エピソード・フォー》・・・・
かし
ん
『何進』が大将軍となった時、孔融は長官の代理として慶賀の
使者に派遣されたが、余りに待たされるので業を煮やし、名刺を
奪い返して帰って来ると、長官に辞表を出して辞めてしまった。
何進の部下達は、其の無礼な振る舞いに激怒して、刺客を
放って殺そうとした。ーーだが或る者が、
『孔融と謂えば天下の名士ですぞ。彼を殺すのは、あなたに
とって得策では有りませぬ!』 と言い、言われた何進は逆に
孔融を貰い受けると、直ちに自分の直属官に任命した。
『単に天才であるだけでは無く、気力・胆力ともに具わる人物』・・・・
と云うのが、その頃の孔融評であった。
この後、《北海国太守》を8年務める。ここでは彼の
評価が(評価する者の立場にもよるが)極端に分かれている。
人士ヲ尊ビ民ヲ愛シ、兵少ナキヲ以テ
豪胆ニ
戦ッタ と称賛する者も在れば、
『変人奇人ヲ好ミ、法ダケハ善ク整エタガ、
実際
ノ統治能力ハ低ク、結局最後ハ、身一ツデ
逃ゲ出ス羽目ニ成ッタノダ』・・・・と、する者もある。
どちらかと言えば、現地実戦向きではなく、後方幕僚向きの人物
であった様だ。その事は孔融本人が一番よく判っていたらしく、
北海国太守をあっさりと返上して、却って清々としている。
但し少なくとも、天下の勇将【太子慈】との関係では、武人として
の面目をも示している。(詳細は第5章)
「君は私の若き友人だ!」 と、心の交流を深めた。
だが何と謂っても、孔融文挙の真髄は【名士】
と
しての存在感の巨大さである。
《名士中の名士》 として、彼の交友の範囲は州境を超え
全国規模に及び、 (国中の者は全て、等しく漢王室の家臣
であるとして) 敵味方と云う線引きする事無
く、想像以上に
多岐に広大である。
貢朝して来る全土の使者は、みな各国を代表する超一流の
名士達である。少府として朝廷を預かる彼は、そんな名士達
とは更に一段と緊密・昵懇となってゆく。
ちょうこう
5年前、《呉
国》の重臣【張
紘】が使者として来朝して来たが、
現在も親しく文通している。
★『ー(略)ー
ただ離れ離れになっていて、お目に掛かる由も
無く、その事を愁い嘆いて居りますが、いずれお逢いする事も
出来るでしょう・・・・』
『(呉国の)虞翻どのについては、以前から色々と悪く評判する
者達もおります(狂直と呼ばれる程の依怙地さで奇行も目立つ逸材。第5章に
登場)が、優れた宝物としての生地をお持ちなのですから、鑿が
入り磨かれれば磨かれる程、光沢を増すのであって、そうした
非難は彼を損なうに足らないのです。』
『・・・・先にわざわざ御自筆の手紙を戴き、それも
篆書でお書き
戴きました。 お手紙を手に取り、ご手跡を拝見します度に、
嬉しくて独りほほえみ、もう御本人とお会いしておるかの様で
御座います。』
同じ呉
の【虞翻】との遣り取りで
はーー曹操からの招聘に対して
虞翻は激怒の気持を、有りの儘にぶつけて記す。
『盗跖
(大泥棒)が、その余った財貨でもって、
良家の者を汚そうというのか!』
だがその一方、孔融個人に対しては懇ごろな
手紙を送り、自分
の著書(易経の注釈書)をも贈呈している。
ここに、曹操孟徳と雖ども彼に一目置かざるを得無い、
孔融文挙と云う存在の、重大な意義が顕されている・・・・
すなわち周囲も彼を、曹操の家臣とは視ていな
い
事が証明されている。そしてそれが【孔融の政治力】と云うもの
であった。朝廷の権威を前面に押し立て、全国各地の名士層を
後ろ盾にした、膨大なる情報量を持ち、世論形の発信源とも成り
得る程の力量を秘めている存在ーー〔成り上がり者〕の曹操に
とっては、恒に侮り難い相手で在り続けた・・・・
また彼は【劉備】とも交流が有る。
『陶謙』から徐州の牧を引き継ぐよう要請されるも、『袁術』に
遠慮して迷う劉備に、ズバリと大きな進言をし、決断させていた
(第3章・ケタ外れのダメ男に詳述)のである。
『袁術は一体、国を憂えて、家を忘れる男で有りましょうか?
彼は墓の中の骸骨(冢中ノ枯骨)同然、意に介する程の男では
ありません。今日の事態は、民衆が有能な人物の側に立って
おります。天の与え賜う物を受け取らないと、後から悔やんでも
追い付きませんぞ!」
当時まだ軍師・参謀の居ない劉備は、名士層(これ即ち世論)
から同意を得たものとして大いに励まされ遂に徐州を手に入れる。
ーーもはや昔日の面影も無くなっている朝廷に出仕するや、
孔融文挙は、俄然処を得て、活き活きと輝きだす。
『ーー毎日ノ
朝議ノ質疑応答ニハ、何時モ中心ト
成ッテ発言シタ。大臣・高官達ハ、タダ名前ヲ
連ネテ居ルダケデ在ッターー。』
孔融は、曹操側の重臣・将軍達の居並ぶ朝議の場でも是々非々
の道義に基づき、正々堂々の論陣を張り続け、朝廷の権威を
大いに高めていく。そして遂に献帝の絶大な信頼を得て、宮中の
総括者とも謂うべき【少府】の大任を委ねられる。 それまで西の
辺境を彷徨っていた漢王室を切り盛りし、その中核的存在として、
後漢王朝を支える大立者に成っていくのであった。
(その拠って立つ経済的支援の悉くが、曹操から出ている事実を
差し置いて、ではあるのだが)
そして孔融自身は、己を、《曹操個人に仕える家臣では無く》、
《朝廷の代弁者》として位置づけてゆく。 いや寧ろ、孔子の直系
として【皇帝の
師】を自認していたのである。その事を敷衍すれば、
《皇帝の師たる者は当然、為政者の師でもあるべきだ!》
そう自負していれば、先の曹操への手紙ともなろう。
曹操は自分より2歳年下であり、旧知の間柄でもあった。長幼
の序列からいっても孔融の方が上なのである。 まして相手は、
成り上がり者の、〔宦官の養い孫〕である。
一方、己は、中国民族全体が仰ぎ崇める大聖人・儒教の始祖で
ある【孔子】の直孫なのである。せいぜい友人位にしか思わない。
故に孔融には憚る相手は唯一人・皇帝なのであり、あとは恐い者
無しなのである。 そこへ持ってきて、生来曲がった事が大嫌いな
気性なので、理非に照らして自分を押し通し、たとえ相手が曹操と
雖ども歯に衣着せずやり込めてしまうきらいがあった。
『孔融ハ生来、
サッパリシタ気性ダッタノデ、
平生ノ気持ヲ押シ通ス嫌イガ有リ、太祖(曹操)ヲ
馬鹿ニシタ様ナ処ガ在ッタ。』ーー張潘の『漢紀』ーー
この頃曹操は、朝廷内に残存していた古くからの廷臣派の
一掃を狙って、何やかやと理由をこじつけては許都以前からの
廷臣達(朝廷直属の家臣)を、片っ端から抹殺しに掛かっていた。
そしてついには、長安宮以前からの最古参の廷臣・近衛将軍で
温厚篤実な【楊
彪】にも、その手を伸ばそうとしていた。
太尉の楊彪はかねてから袁術(袁紹の弟)とは婚姻関係にあった
が、折しも袁術が《皇帝を僭称》(勝手に皇帝を自称)した。
(※詳細は第4章の第68〜69節)
曹操は、それを口実に楊彪を処刑する腹であった。 その情報を
聴くや、孔融は官服を着る余裕も惜しんで、押っ取り刀で曹操に
ねじ込んだのである。
「楊公は、代々清潔な徳を以って聞こえ、4代に渡って光輝を放っ
た家柄ですぞ! 『周書』には、《刑罰はその身に止まるだけで、
親子兄弟には波及しない》 と有るではありませぬか。まして袁氏
の罪によって罰しようなど言語道断!『易』で《善を積めば子孫に
幸福が及ぶ》と申している事も、ただ人を欺くだけの言葉と成り果
てるのですぞ!」
烈火の如く、噛みつく孔融。 ヤクザ学者の面目躍如たる場面が
近づく。然し曹操も傲然と言い放つ。
「ーーこれは、国家の意志である!」
こちらも負けては居無い。火花の散る様な緊迫感に、一瞬両者
が睨み合う。と、屈してはならじと、再び孔融の舌鋒が飛んだ。
「かりに周の成王が召公を殺そうとしたならば、周公は知らなかっ
たと言って、済まして居られましょうや?今、冠の紐を結び、笏を
大帯に手挟んだ天下の高官達が、明公(曹操)を仰ぎ慕っており
ます理由をお考え下され!明公が聡明で人徳英知を備え、
漢王朝をお
助けし、正しき人物を登用され、邪悪な人物を止
めさ
せて、平和な世に導かれると、期待しているからこそなのですぞ!
今、勝手気ままに罪無き者を殺さば、四海の内に在る人々は、
それを聞き、誰も彼もがそっぽを向く事に成りましょうぞ!!」
初めは穏やかに、然して最後は烈迫の気合を込めた、不退転の
大諫言である。 男・孔融、一世一代の大見せ場であった。
「孔融文挙は魯国の男子
でありまする!
お聴き届けなくば、明日にでも衣をからげて、
此処から立ち去り、
二度とはお目に掛かりませぬぞ!」
美事、大曹操相手に、啖呵を切って見せたのである。(魯国は古来
より任侠・義侠の気風に溢れる土地柄とされていた。又、孔子は魯国の出身であった。)
ーー言っちゃあ何だが、この孔融、男一匹魯国の
生まれヨ!
四の五の言って埒が明かねぇってんなら、こちとらにも覚悟は
有らあ!バカな処でウジウジと、雁首晒して居られるもんけえ。
孔融文挙の男が廃らあ! こっちの方からケツ捲くり、
まっぴら御免とおさらばすらあ・・・!
・・・その場は曹操、孔融の気迫に押し切られ、楊彪釈放の措置に
同意させられた。 ーー『続漢書』ーー
実は孔融、この場面の前、もう一つ手を打っていた。楊彪が逮捕
され投獄された段階で、尚書令の【荀ケ】と共に取調官の『満寵』
に会い、『ただ罪状
についての説明を聴くに留めるべきだ。決して
拷問には掛けないようにして呉れよ!』とネジ込んでいたのである。
ーーこの事実は、非常に重大である!
曹操の第一の腹臣が荀
ケである事は、自他共に認める周知の
事実である。曹操の頭脳とも右腕とも信頼され、主従の枠を超え
た人間同士として、全幅の情愛で睦み合い、その二人の関係は、
人も羨む様な強固な絆で結ばれていた。 更に曹操は、荀ケの
息子に自分の娘を与えて、互いを〔親戚関係〕に迄も引き上げ、
彼を大切にして来ている。その最大の重臣である【荀ケ文若】が、
孔融と行動を共にしているのである。
この事は、読者諸氏
にもよ〜く覚えて置いて戴きたい。
現在は、君臣間の最も望ましく美しい姿を保っている曹操と荀ケ
の二人であるが・・・ず〜〜っと先の後年、孔融誅殺の後、今度は
この荀ケと曹操の間の雲行きが俄に怪しくなり・・・・両者抜き差し
ならぬ事態に追い込まれてゆくからである。
そう言えば、孔融は之までにも何度かヒヤリとする様な言辞を、
曹操に浴びせ掛けて来ている。
例えばーー或る時期、曹操は兵糧米を確保する為に、酒を造る
事を禁止(酒造機の保有者を処罰)した。するやすかさず孔融は
『酒は人の生活に有機性を与えるものである』として絶対反対の
書簡を送り付けた。ーー孔融いわく・・・・、
『漢の高祖が
酒に酔って白蛇を斬らなかったとしたら、漢の国家は
出現
しなかったであろうし、漢の景帝が酔いに乗じて庚姫を愛さ
なかったら、武帝と
云う英主は生まれなかったであろう』 云々・・・・
その他にもうんざりさせられる様な、ズラリと故事やら例を挙げ
つらった、長大な手紙であった。それに対して曹操が『古来、酒は
亡国の元と成った』と書き送ると、又しても速達便が届けられた。
『なるほど酒
による亡国の事例は多々有まする。然しそれならば、
国を亡ぼすものは酒だけではありませぬ。徐の偃王は、仁義を
過度に尊重した故に国を亡ぼし、燕の膾は過度に謙譲
であった
故に亡び、魯は儒学の尊重によって衰弱し、 夏と商は婦人に
よって亡
びました。しからば、道徳・謙譲・学問・男女の愛、すべて
亡国の原因として禁遏
されるべきであるのに、それらは禁圧せず
して、酒だけを禁圧するのは、要
するにあなた達は穀物が欲しい
だけの事ではありませぬか!』
更には、曹操と同道した時、こうまで皮
肉っていた。
『おや?なぜ、
あそこを二人で歩いている男女を捕まえないの
ですか?かれらは亡国の因となる、
姦淫の器具を身に備えて
おりまするものを・・・・』
げきりん あ さか な
ーー龍の逆鱗を、敢えて逆撫でる様な数々の言動、
よくもまあ、これまで無事に来られて居るものだ・・・・
曹操の性向だけから観れば、歯に衣着せぬ傲岸不遜の孔融は、
とっくの昔に始末されていても不可しくない筈である。だが、今も
無事で在り続けて居る・・・・其処にはそれなりの、幾つもの理由
が在るが、その陰に常に【荀ケ】が居たのは、
まさにその重大な
因子の一つで在ったろう。
荀ケも亦、漢王朝復興の願いは人後に落ちない。本質的には、
曹操よりも孔融に近い、儒教社会の名士(後世の貴族発生の源
として)の一員で在ったのだ。
故に、志を一にする孔融に、何呉れとなくアドバイスをし、曹操
側の情報を提供してやっていた事は、十分考えられる。 無論、
それは曹操を裏切る類のものでは無い。同じ名士仲間の好しみ、
とでも謂っておこうか。だから孔融は危ないと見える、綱渡り的な
言辞も吐けたのであろう。 但し限度・限界と云うものは、おのず
から存在する。それは曹操が、孔融の中に、幾ばくかの有用性を
認めている裡の事に過ぎまい・・・・
とは謂え
【献帝】
にとっては孔融ほど忠烈で頼りに成る人物は
他に居無かった事になる。ーーだが皮肉にも・・・・そんな孔融の
《生命の
保証期限》は、献帝のその信任の度合に反比例しながら
進行してゆく事となる・・・・
さて当の【曹操】であるが、彼が孔融を招いたのはーー
(形式上は朝廷が招聘した事にはなっている)彼の人物や才能と
云った、個人の有する存在価値を認めた故では無かった。
そうでは無くて、孔融に付属してい
る、その名声と、漢朝の忠節者
と云う〔レッテル〕に眼を着けたのである。
世間向けの『金看板』としての利用価値にこそ、孔融の存在意義
を認めて、迎え容れたのであった。
ーーかくの如く、そもそも両者のボタンは最初から、掛け違った
儘スタートしていたのである。但し当たり前の事だが、四六時中、
角突き合わせていた訳では無い。
孔融の方から曹操に、丁重で懇ごろな頼み事もしている。
『歳月は留
まる事なく、時節の移りゆきは水の流れの様に速やかで、50の歳も忽ちの
裡
にやって参りました。あなた様はやっと50に成られたばかりですが、私
はもう2つも
越えてしまったのです。 この世の中で面識のあった人々も、もう殆んど逝去してしまい、
ただ会稽の盛孝章どのだけが残って居られます。その彼も、孫氏の圧迫を受け、妻子
を失われて全くの一人ぼっちで、孤立無援の苦境の中に在り、 もし憂いと云うものが
人を傷
つける事が出来るとすれば、この方の生命ももう長くは御座いますまい。
『春秋』に申しております。〈天下の諸侯の中に亡ぼされる者があって、斉の
桓公が
それを救う事が出来無かた時、桓公はそれを恥じた〉と。
盛孝章どのは誠に大丈夫中の大丈夫であって、広く天下の政治に一家言を持つ
人々
も、みな彼のお陰で名を揚げる事が出来たので御座います。
然るに彼自身は囚われの憂き目を免れず、生命も朝夕を期し難いと云った状態に
在ります。このまま見過ごしたならば、我が先祖の孔子様も、益友だとか損友だとかを
口
にする事が出来無くなるでありましょうし、朱穆はこうした事を理由に絶交を申
し入れ
たのでありました。
あなた様がもし、使者一人急ぎ派遣され、ごく短い手紙をお託
しになりさえすれば、
盛孝章どのをお招きになる事が出来、友人として守るべき
道を、広く人々に示す事も
出来るので御座います。
今の若者達は、先輩を謗る事ばかりに熱心で、盛孝章
どのをあげつらったりしている
者も居りは致しますが、
盛孝章どのはそんな事には関係なく、天下に大きな名声を持た
れ、九州の
民衆達が揃って称賛いたします方なのであります。
燕の主君が駿馬の骨を買ったのは、その骨に騎って遠い道を駆
けようとしての事では
なく、そうする事によって、無上の快速馬を招き寄せる事が出来るに違い無いと考えた
からでありまし
た。
ただあなた様だけが、漢の王室を救って、元の如くにする事が
お出来になるのであり、宗廟社稷がまさに途絶えんとしておりま
すのを、正しい有り様に戻す力を持っておいでですが、 正しい
有り様に戻す為の道としては、何よりも賢者を手許に置かれねば
なりません。
珠玉には脚も無いのに自然とやって参
りますのは、人がそれを愛好すればこそであり
ます。ましてや賢者には定が有
るのであって、燕の昭王は台を築き、郭隗を尊んで其処に
住まわせました。
郭隗は小才の者では御座いましたが、こうした大きな厚遇を身に受けて、
賢者
を得たいと云う主君の切なる気持を人々に知らせる事が出来たので御座いま
す。
それ故、楽毅は魏から燕に赴き、劇辛は趙から燕に赴き、鄒衍は斉から燕に赴
きました。
先にもし郭隗が倒懸の苦しみの中に在る時、燕王がそれを除いてやらず、溺
れ掛かって
いる時に、救いの手を差し伸べてやって居無かったとしたら、
ひとかどの人物達の方でも、
高く翔けたり、遠くに招かれて行ってしまい、北
のかた燕への道を採る者は無かったので
御座います。
ここに例として引きました処は、勿論あなた様のよく御存知の処では御座
いますが、
それをわざわざ申し上げましたのは、あなた様に、その道理を特に重
んじて戴きたく考え
たからで御座います。 お手紙ゆえ意を尽くさぬ事、お許し下さい。 』
これを読む限り、二人の間に何か在
るなどとは想像も出来無い。
・・・・だが、じっくり読むと、旧友の招請もさることながら・・・・
孔融が曹操に期待している 『覇者像』 が観えて来る。
【覇者】と
は・・・・帝位には就か
ず、天下を統一して、
政治の実権を握る実力者の事である。
『自分は、
今の王朝を倒して新皇帝にはならない。
現在の王朝を残して、新しい帝国も創らない!』
と、公約し、それを実行する
者のことを指す。
はたして曹操は、現時点で言っている如く、己
は『覇者』『覇王』で
満足する男なのか・・・・!?
ーー尚、曹操は、この手紙を読むと直ちに、『盛憲』を騎都尉に
すべく、任命書を送っている。然し、使者が到着する前に、盛憲は
【孫権】に殺害された。
処で、孔融の〔座右の銘〕は、
『座上 客 恆
ニ満チ、樽中 酒 空シカラ
ズ!』
・・・・と云うものであった。
親分肌できっぷのいい彼の廻りには、常に人々がよく集まり、酒を
酌み交わしては論談した。
『ーー酒なくて何でこの世の論議かな・・・・!!』
(※ちなみに此の当時、1年中常時、酒をストックして置く事は至難の業であった。詳しくは
第23節で述べるが、アルコール度数が極めて薄く、すぐに酸敗してしまった。だから
孔融の願望は、単に言辞的な比喩だけでは無く、切実な現実的欲求でもあったのである。)
『少府』として宮中に君臨する一方、孔融は一種の《文化サロン》も
主宰していた。宮廷名士が産み出した特殊な小宇宙・・・・情報交換
の場でもあり、学研の場でもあり、親交の場でもあった。
そして何より、名士層の自己拡張の根拠であった。 この名士達に
よる文化サロンは、今や荊州の地が天下の隆盛とは成っていた。
とは言え、この『許』は何と言っても【都】なのだ。
ーー然しながら・・・狭い世界に起居し、酒がなくては収まらぬ様な
《議論の為の議論》ともなれば、其処ではおのずと『論』だけがグル
グルと独り歩きし・・・・やがては現実からは乖離した、過剰・余剰の
絵空事に行き着く。ただ外面上は煌びやかな、実は空疎な文化屋
達の集団へと転落してゆく。 そして遂には、シビアな時局の動き
など全く理解し得無い、宮廷特有の『内向的偏狭性』の自家撞着・
自己矛盾を露呈する事となってゆく。
彼ら【宮廷名士】達が拠って立つ思考の基盤とゆき着く場所は、
『栄光の過去』の礼賛と 『限られた現
在』 とだけのものとなり、
『未来への展望』が置き忘れられていく。
それは飽くまで漢王朝の讃美であり、〔現体制の擁護論〕でしか
在り得無い。・・・・なぜなら 『宮廷名士層』 とは、現王朝内でしか
存在
理由が無いからである。そして当然ながら其処では、衰退・
腐敗した時代を突き動かす様なダイナミズムは生まれない。
とは言え孔融は、のち【建安の七
子】と謳われる一代の文化人
であり、確かに新しい風の中には立って居た。
但しその風も、曹操孟徳が巻き起こした大竜巻の”余波”なので
ある・・・・曹操自身、文学を愛した。愛する事を意識し、世に広め
た。ーー蓋しその狙いは、旧体制の価値観に風穴を開ける為の、
勇敢なる価値基準の破壊であり、と同時に、新時代に相応しい
〔新たなる価値基準の創設〕でもあったのだ。
つまり、欺瞞に充ち満ちている、漢王朝指定の儒教倫理・【徳】
のみに拠る人間評価に偏らず、【文学的教養】と云う新たな価値
基準をも認める如き、新時代の設定を企図していたのである。
最初は個人的な愉しみであったものを、今では時代の大きな
うねりとしてしまう事に成功しつつあった。
『建安の七子』 筆頭ともされる孔融も、己の意識しない裡に何時
しか、曹操が起こした新しい風を吹かせてもいるのだった。
《そう言えば、あ奴、この儂に満座の中で
大恥を掻
かせたた事もあったな・・・・》
「是非、お目に掛けたい、天下の賢者が、御城下に御座います。」
孔融はその人物を更に評して、鼻高々に言ったものだった。
「かの者のよき性質は誠実に溢れ、秀れた才能は群を抜いて
おります。学問・文学の世界に通じた当初から、その真髄を理解し
目に一度ふれた文章は、すぐに口誦する事が出来、耳に暫く聞い
た言葉は、心に刻み付けて忘れません。本性は宇宙の原理と合致
し、思考はまるで神が宿っている様に霊妙です。桑弘羊の暗算、
張安世の暗記も、彼を標準にして考えれば、実際不思議とするに
足りないでありましょう!」 ベタ誉めである。
《孔融がそこまで褒め千切る【天下の賢
者】とは、
一体どんな人物であろうか?》
曹操は、非常なる期待と興味を持って、其の男と会う事にしたの
だが・・・・・だが、であった・・・・
ーー・・・前代未聞、空前絶後、
トンデモナイ事と為ってしまうのであった!
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