【第14節】
人はその生涯において、必ずしも最愛の人と結ばれるとは
限ら無い。結ばれぬ故にこそ、高められ、深まる愛も在る・・・・・
生まれて初めて、愛する人と巡り会えた時、その人が既に
人の妻であるなら、それは悲劇でなくて何であろう。
《ーー女神だ・・・・!》 今、哀しい愛が始まろうとしていた。
兄が得た『甄
洛』の余りの美しさに、
【曹植】はただ茫然としていた・・・・・
14歳は純真である。10歳で漢賦数十万語を朗誦出来る程なら
ば、人として、充分人を愛す資格と認識とを有するだろう。まして
人一倍繊細で、感受性の鋭い、自我に目覚めたばかりの青年で
あれば、プラトニックな愛は崇高さを持つであろう。
初めのうちは甘酸っぱい、仄かな恋であろう。美しい異姓への
憧れであろう。ーーだが、やがて・・・・桃の花の下で、菖蒲 咲く
水辺で、息の白い朝に、蛍飛ぶ夕べに・・・・時々にしか会えぬ故
妖しくときめく我が胸の鼓動。
その昂ぶりに、自身で狼狽える日がやって来る。淡雪の舞う
その向こうに、その女を想っただけで、息苦しくなる様な日々が
巡って来る。梨の花が咲き、それが己の愛だと気づいた時・・・・
青年は己の不条理に抗おうとするであろう。雁音を聴き、告白
出来ぬと識った時、遣り切れない苦しみと切なさを、文芸の中に
紛らわせようとするに違い無い。その癖いつも、せめて己の気持
に気づいて欲しいと願う。何とか認めて欲しいと祈る・・・・それは
成就し得無い真実であるだけに、彼の心の中で永遠に生き続け
ていく大切な女となる。ーーやがて成人し、女体を抱いても、人が
羨む栄達を得ても、それは虚ろな歓びでしか有り得ない。何をして
も、何もしなくても、心の奥底で恒に叫んでいるのは、その女のこと
ばかり・・・・
これは後年、
【曹植】が創る『美女
篇』と題される、美しくも切無い詩賦である。
美女
篇
か
美女妖且閑
美女 妖にして且つ閑なり
と
采桑岐路間 桑を采る 岐路の間
ふん
ぜんぜん
柔条紛冉冉 柔条 紛として冉冉たり
へんぺん
落葉何翩翩 落葉 何ぞ翩翩たる
かか
攘袖見素手 袖を攘げし 素手を見れば
こうわん
皓腕約金環
皓腕 金環を約す
かんざし
頭上金爵釵 頭上 金爵の釵
お
すいろうかん
腰佩翠琅干 腰には佩ぶ 翠琅干
ぎょくたい ま
と
明珠交玉体 明珠 玉体に交い
さんご ま
じ
珊瑚間木難 珊瑚 木難に間わる
らい ひょうよ
う
羅衣何飄遙 羅衣 何ぞ飄遙たる
けいきょ したが
めぐ
軽裾随風還 軽裾 風に随って還る
こはん
おく
顧盻遺光采 顧盻すれば 光采を遺り
ちょうしょう ごと
長嘯気若蘭 長嘯すれば 気は蘭の若
し
も が
やす
行徒用息駕 行徒は用って駕を息め
さん
休者以忘餐 休者は以て 餐を忘る
なんじ
いず あ
借問女安居 借問す 女は安くにか居る
すな
乃在城南端 乃わち 城の南端に在り
青楼臨大路 青楼 大路に臨み
ちょうか
ん
高門結重関 高門 重関を結ぶ
容華輝朝日 容華 朝日に輝く
ねが
誰不希令顔 誰か 令顔を希わざら
ん
ばいし
媒氏何所営 媒氏 何んの営む所ぞ
ぎょくは
く
玉帛不時安 玉帛 時に安んぜず
佳人慕高義 佳人 高義を慕う
まこと かた
求賢良独難 賢を求むる 良に独り難
し
いたず ごうご
う
衆人徒嗷嗷 衆人 徒らに嗷嗷たり
いずく
安知彼所観 安んぞ 彼の観る所を知ら
ん
お
盛年処房室 盛年 房室に処り
中夜起長歎 中夜 起ちて長歎す
この詩は、〔或る特別な人〕に読まれる事を念頭に置いて
創られている。しかし、《君に捧ぐ》と云うストレートな形態を憚ら
れる為に、〔桑を摘む美女〕と云う、古い楽府『陌上桑』の設定を
採用 している。因みに、桑は神が宿る木として神聖視されていた。
愛の舞台は神々しく聖なる場所なのである。
詩の大意はーー完璧な女性(前半部)であるにも拘わらず、
《媒酌人・媒氏》 の不手際で、彼女に相応しい夫に巡り会えず、
その宿命の不条理を悲しみ嘆く理想的な美女・・・・と云う事である。
【甄氏】は、まさしく【玉
体】であるーー
この詩の中には、【曹植】
の心の叫びが潜む。
《ーー美女よ、甄洛よ・・・・あなたは自分の意に反して、不条理な
結婚を強いられたのです。そんな貴女は今、本当に幸せですか?
そんな事は有り得ぬと、私には解っています。貴女の様に気高く
素晴らしい女性を、真に理解し、心の底から愛せる者は、今、夫と
成っている人物では無いのです。・・・・宿命と云う仲人(媒氏)の
不手際で二人は結ばれる事はありませんでしたが、全宇宙の中で
私こそが、貴女を真実愛せる、唯独りの男性なのです。
嗚呼それなのに、今二人は、不本意な日々の中に生きて居る!
私は一体、この身も焦がれる様な慕うしき想いを、
如何にしたらよいのでしょうか・・・・》
直接には告げる事もならず、その相手にも語れず、独り、己の
真実を、ひっそりと墓の下まで抱き続ける人生・・・・
それを己の唯一の愛と信じて貫き徹すーー
もどかしく、恰も薄衣越しに手を取り合う様な愛の在り方・・・・
それ故にこそ燃えたぎる、尽き無い想いーー。
【曹植】が己の死の瞬間まで、〔その女〕への愛に恋い焦がれて
いた証拠を示そう。・・・・『七哀』と云う題を付けた、この男の心の
切なさと、《愛の永遠への達観》が美しい。
ーーその『七哀』の詩賦から、二人の真実を解ろうとするなら、
我々はその背景と成る、残酷な歴史的事実を識って置かねば
ならない。
この詩は【曹植】が40歳で、失意の裡に死んでいった、その年の
ものである。ーーそしてその時、愛する【甄洛】は、既に此の世には
居無かった・・・・その10年前の221年、事もあろうに甄氏は、夫
(曹丕)の手によって、自殺を強要され、服毒自殺していたのである。
夫の心は、とっくの昔に別の女(郭氏)に向けられていたのである。
その以前の幾年間、いや10幾年と云うものは、甄洛の結婚生活は
愛の不毛に堪え忍ぶものでしか無かった・・・・甄氏の亡骸を冒涜・
陵辱する悪女の演出を止めようともしない夫ーーと同時(直後)に
曹植も亦、兄である曹丕によって都を追われ、事実上幽閉される。
そしてその儘、屈辱と落胆に満ちた後半生を強要されたのである。
この『七哀』は、政争に破れ、愛する人をも殺された男が、失意の
裡に没する間際の、此の世の最期の叫びなのである・・・・
【曹植】の死はまさに詩の如く、甄洛の死から『十とせを踰え』た時
であった。(232年) もはや己の死期を待つばかりとなった今、
何の憚る事あろうか、何を畏れる必要の有る事か! 但、今更に
生涯秘めて来たわが愛の姿を、白日の下に晒す如き、軽薄な詩賦
だけにはしたくない。それが【曹植】と云う男のアイデンティなのだ。
だから、この詩に託され、擬された男と女とは、〔互いを逆に〕、
入れ替えた形で詠まれている。
【甄洛】はまさに『清路の塵の若く』殺害され、全てを剥奪され幽閉
された曹植も亦、『濁水の泥の若く』の境涯に、生きる望みを失って
いた。ーー病を得て、余命幾ばくも無きを識り、やっとあの世で愛う
しき甄洛に会える日が来る・・・・『願わくば西南の風となり、長逝して
(永遠の眠りに就いた後)君が懐に入らん』ーーこの身は一陣の風
となって、初めてあの女の素肌にも触れられようか・・・・
『君が懐、良に開かずんば、賤妾は当に何れにか依らん』
ーー嗚呼でも、あの世でさえも、この愛が受け容れられないならば、
俺は一体どうすればいいのだ・・・・?
そんな事は無いだろうね、我が心の妻よ・・・・!
・・・・そう想って2、3回じっくり、この『七哀』を詠んだ時、それが、
せめてもの、愛を神聖な精神世界の高みへと昇華させながら
死んで逝った、生涯純粋だった男への手向けになろう。
又、若き曹植が時として見せる、
彼の奇行や虚無的行動を理解してやる事にもなる筈である。
しち あい
七
哀
明月照高楼
明月は 高楼を照らし
まさ おぼ
ろ
流光正徘徊 流るる光の 正に徘徊なる
に
おんな
上有愁思婦 上には 愁い思う婦有りて
さら
悲歎有余哀 悲歎して 余なる哀しみ有
り
こころ
借問歎者誰 歎ずる者は誰なるやと借みに問えば
とうし
言是蕩子妻 是れ 蕩子の妻なりと言
う
こ
君行踰十年 君行きて 十とせを踰え
ひとり
わらわ い
孤妾常独棲 孤なる妾は 常に 独り棲
ぬ
ちり
君若清路塵 君は 清路の塵の若く
妾若濁水泥 妾は 濁水の泥の若し
おの こと
浮況各異勢 浮沈 各おの勢いを異に
し
いず かな
会合何時諧 会合は 何れの時にか 諧わ
ん
願為西南風 願わくば 西南の風とな
り
とお ゆ
むね
長逝入君懐 長く逝きて君が懐に入らんと
願えど
むね も
君懐良不開 君が懐 良し開かずんば
いや
まさ たよ
賤妾當何依 賤しき妾は 当に 何にか
依らん
ーーそもそもこの愛は、最初から危険な香りに満ちていた。男女の
純粋な営みとは無縁な冷酷な《権力闘争》が、それぞれを支配して
いたのである。 男には男の、女には女の権勢欲があった。そして
二人ともが善人である余りに破れ、愛も命も奪い去られたのである。
雑詩六首
その四
南国有佳人
南国に 佳人有り
容華若桃李 容華は 桃李の若し
あした
朝遊江北岸 朝には 江北の岸に遊び
ゆうべ みぎ
わ
夕宿瀟湘沚 夕には 瀟湘の沚に宿す
かろ
ん
時俗薄朱顔 時俗 朱顔を 薄ず
た こうし
ひら
誰為発皓歯 誰が為にか 皓歯を発か
ん
ふぎょう ま
さ
俛仰歳将暮 俛仰にして 歳 将に暮
れんとす
えいよう た
の
栄耀難久恃 栄耀 久しくは恃み難し
南国の佳人に託して、美しい女性が世に受け容
れられぬ悲しみ
を伝える。 世とは・・・・儘ならぬ状況。美しい女性は甄氏であり、
曹植自身に外ならない。 ーー彼は当時、どの詩人達よりも多く、
『美女の悲しみの賦』や『美女礼賛の詩賦』を創出している。
抑え難かったのだ。と同時に、彼には詩賦の中でしか愛を告白
し得無い、残酷な状況に在ったのだ。
《−−何もわざわざ、頼によって年上の、
然も実の兄の人妻を選ばなくてもよかろうに・・・》
《−−美女は曹魏の国内には、甄氏一人しか居無くて、
後はみんなブスばっかしだったのか?》
《−−曹植ほどの高い身分であれば、どれ程の美人だって選り
取り見取りではなかったのではないか。
それを横恋慕する方が不可しい・・・!》
そう無粋な事を言ってはならない。所詮《人間の業》とは、そうした
ものなのである。かの有名な楊貴妃だって、後宮に美女2万人
もいるにも拘わらず玄宗皇帝は彼女等には眼も呉れず、兄の
妻を奪ったのだし、そもそも人様のものを横取りする快感は、一種
権力者のステータスシンボルの面が強いのであろう。また禁断の
愛ほど燃えやすい?・・・但し、夫である【曹丕】にしてみれば、この
曹植の”純愛”も、不愉快極まりない忌み事となる面を失念しては
なるまい。
(たとえ結婚の裏側に、どんな禍々しい隠し事が潜んでいたにせよ)
逆に言えば、曹丕はよくも長い間、表沙汰にしないでいたものだとも
言えよう。甄洛にしても、内心迷惑だった時期も在ったであろうか?
【甄氏】の、それぞれの男性への思い(前夫の袁煕も含めて)を示す
史料は、当然な事ながら、何ひとつ遺されては居無い・・・
因みに、では【曹植】と謂うのは一体どんな人物であったのだろう
か?・・・・と言う事になってくる。
変にそっちばかり早熟で、詩なんぞに現を抜かす、戦国乱世に
あるまじき軟弱者?? ・・・・決してそうでは無い。父・曹操からは、
総合点では寧ろ、長男の曹丕よりも、資質に於いては前途有望の
逸材として、高い評価を受けていたのである。
〔詩を創るから軟弱者だ〕とするのは、お門違いも甚だしい。
そもそも五言詩を生んだのは曹操であり、横槊の詩人・文武両道
が当たり前の気風であったのだ。
曹丕にしても、やがて世に有名な、《文学の独立宣言》ーー
【蓋し文章は経国の大業、
不朽の盛事なり!】
の名文句を世に発し、
『年寿ハ時アリテ尽キ、栄楽ハ其ノ身ニ止マル。
二者ハ必至ノ常期ナリ。未マダ文章ノ無窮ナルニ若カズ』 と、
詩文学の永遠的価値を認めてゆく。三国時代に生きてゆかんと
する人々は、そう云う新しい、時代の息吹の裡に在ったのである。
【曹
植・子建】ーー曹操の
第3男である。
(植=の読み方をちとする方が、より原音に近いとする向きもある。)
10歳にして『論語』・『詩経』・『楚辞』・漢賦など、数十万語を朗誦し、
文章を創るのは天才的であった。或る日、その文章を読んだ曹操は
余りの出来映えに舌を巻いて尋ねた。
「お前は、これを誰に頼んだのじゃ?」
「どうして私が人に頼んだり致しましょう。言葉が口をでれば論議と
なり、筆を下ろせば自然と文章に成るのです。どうぞ父上、目の前で
お試し下さい。」公式の場での難しい下問にも、すらすらと答えるのが
常で、衆目を驚嘆させた。
『言 出ズレバ論ヲ為シ、筆ヲ下セバ章ヲ成
ス』
性格はーー権力者の子に在りがちな、傲慢で偉ぶった処が無い。
そして、さっぱりと大まかであり、堅苦しく形式張った事が嫌いで
あった。又、殊更に着飾ったり、派手な車駕を乗り回したりするが
如き華美を好まなかった・・・蓋し芸術家的肌合いを持つ若者には
鹿爪らしく取り澄ました習慣を茶化したくなる様な、邪気も有った
・・・・と謂う訳だ。
とは雖え、曹植と云う若者は決して自堕落な、だらしない人物では
無かった筈である。恐らく、スラリとした貴公子的な雰囲気は持っ
ていたろう。何故なら、恋する者はみなオ洒落には気を配る。
『性、簡易
ニシテ威儀ヲ治メズ、
輿馬服飾、華麗ヲ尚バズ。』
曹操は、この文才に秀でた快活な3男を、殊の
外に愛でた。
その資質や才能のキラメキは、三兄弟の中では最上ランクだと
視ている。ーーだが・・・・〔卞夫人が生んだ三人の内では〕と云う
枠の中に於いての評価である。
いずれの息子達も、《神童・曹沖》には遙かに及ばない・・・・
「ーーゲッ、それは真か!」
その報告を仲達から聴いた時、絶世の美女(甄氏)を得たばかりで、
気もそぞろに在る曹丕も、思わず顔を引きつらせた。
「・・・・私も、すっかり毒気を抜かれてしまいました。」
司馬懿の情報網は蠍衆により、着実に各分野に及び始めていた。
「・・・あの様に上品に見えた女がなあ・・・!」ーー諸氏はご記憶に
お在りだろうか?美女盗りの際、甄氏と抱き合って居た中年の女性を?・・・・袁紹の後添えの妻・『劉夫人』の事である。
「それだけでは御座いませんでした。」
それだけのそれとはーー夫・袁紹が吐血して急死した直後、未だ
葬儀も済まぬ裡の出来事であった。袁紹の妻であり、袁尚の母で
ある『劉氏』は何と・・・・亡き夫が寵愛していた他の夫人達5人全て
を
殺したのである!そして更に、後の報復を恐れて、その5人に
纏わる親族の全てを、我が子袁尚に命じて、悉く根絶やし(三族
皆殺し)にさせていたのであった。
「げに、女の悋気はおぞましゅう御座る。」
《あの世とやらでも、私を差し置いて寵愛させてなるものか!!》
5人の遺体を丸坊主にし、ふた目と見られぬ様、
顔中に入れ墨をさせた。 更に遺体をコマ切れに
切り刻ませ、目茶目茶にした上で、城外に投棄させ
たのである。
「そこ迄やるか・・・!?」「袁兄弟の人望の無さ、袁一族の余りの
もろさ、今となって、改めて解る気がするではありませぬか・・・・」
袁紹と云う巨星が墜ちた時、それ迄、その瞬きに隠されて居た、
亜星の諸星の、その歪んだ姿が見えて来た。そして今、其処に
はっきりと現れて来たのは・・・・【宿
業】と云う、
おどろおどろしく
禍々しい、人間ならではの、獣の姿であった・・・・ 本物の、野に
生きる獣達には、こんな所行の生まれる筈も無い。人間こそ此の
世の最も危険なケダモノなのだ。薄皮一枚の下に潜む獣性ーー
こんな事が起きる位だから、当時の刑罰ときた比には
【車裂・八つ裂き】だとか、【ノコギリ引き】・【火焙ぶり】・【釜茹で】・
【皮剥がし】【串刺し】etc.さぞや、おぞましい処刑法が多々在った
ろうと想われ勝ちである。
だが然し、事実は全く逆で、当時の中国の正式な国家の法律は、
残酷さを排除せんとする、人類史上最も穏やかな刑法を持つ時代
であったのである。
ーー冨谷 至博士によれば・・・・
究極刑の【死刑】でも、
ようざん
《腰斬》・・・・〔
胴体切断〕と
《棄市》・・・・〔打ち首〕 の2種のみであった。
世界史的に観ても、あっさりしている。儒教の穏やかな倫理観に
基づく。どちらも再発防止の為、市中で公開処刑され、見せしめと
された。斬られた首は晒される。『梟首』と呼ぶが、梟はフクロウ・・・
親を食う不孝な凶鳥とされていた。
一般の死刑が《棄市》であった。《腰斬》は、
大逆不道の罪に
のみ科せられた特別刑である。この「腰斬」刑には、縁座制が適用
され、その家族も同時に〈棄市〉された。ーーちなみに、大逆不道
(大逆無道とも言う)の中味は、【大逆罪】と【不道罪】の2種を指す。
【大逆
罪】とは
ふも
う
〔誣罔〕・・・皇帝を欺く
ひぼ
う
〔誹
謗〕・・・皇帝や国家の悪口を言
う
むほ
ん
〔謀
反〕・・・国家転覆を図る
など、皇帝や国政に対する反逆行為を指す。
【不道罪】と
は
めいこく
〔迷国〕・・・国政を惑わす言動
こうか
つ
〔狡
猾〕・・・官費の横領や浪費
きお
ん
〔虧
恩〕・・・皇帝の恩を損なう行為
など、人の道に反する行為を指した。
ーー又、それまで有った3種の【肉
刑】も廃止。
げい
顔面への入れ墨《
黥》、
鼻削ぎ《ギ》・・・(鼻へんにりっとうの字)
脚の切断《ゲツ〉・・(月へんにりっとうの字)
この3種は前漢五代の文帝の時以来廃止され、その代わりに
髪を剃られる《コ
ン》・・(髟の下に兀の字)
かせ は けん
首枷を嵌められる《鉗》ーー総称《
コンケン》
むち
鞭打ち《苔》の三つが追加されたが、これ等は、
残酷刑
を無くす為の措置であった。かように、漢〜三国時代は、
残忍な行為は、社会から払拭されている時代であった。
【死刑】の他は全て【労役刑】のみで、
【罰金刑】は廃止されていた。
刑期5年が
最も重く、《コンケン城旦》 と云う。
《城旦》ーーとは、男性受刑者に対する、辺境地帯の修築
労働を意味したが、転じて城市・王宮・陵墓などの土木工事への
就役を云う。女性受刑者は既述した如く、『春』と云う脱穀作業に
就かされた。・・・・尚、「コンや鉗」は、この5年刑期の刑徒だけに
科せられた。それと区別する為、〈コンケン免除の者〉を『完』と称
して、刑期も4年以下とした。
しょう
刑期4年が
『完城旦』
(女は春)、
刑期3年が『鬼薪』・・・・宗廟の霊(鬼神)を祀る時に使う薪や
蒸を集め運ぶ労役。女性は同目的の
為に精米作業をする『白粲刑』となる。
刑期2年が『司寇』・・・・男女とも他の労役刑徒を監視。
ーー以上、刑期が4・3・2年の者を総称して【完
刑】と呼んだ。
刑期1年以下の者は総称では【作
刑】と呼ばれた。
じゅばつさく
『戍罰
作』・・・・辺境防備として1年・半年・3ヶ月の期間
別があった。
女囚は『
復作刑』呼ばれる雑役に就く。
と云う如く、刑罰の世界ですら、残虐性を排除しようとしている世
の中であった。又、受刑者の処遇についても、今から55年前の
149年11月15日に、桓帝(献帝の2代前)の詔が出されていた。
『刑徒ノ作部
ニ在リテ、疾病アラバ医薬ヲ与エ、
死亡スレバ厚ク埋葬セヨ。』
洛陽の南郊の荒涼たる原野に、刑徒の死体
は一体ずつ棺に納め
られ、釘打ちされ目張りが施されて埋められていたのが発見され
ている。ーーだから尚更、今回の私刑(リンチ)事件は、三国志の
人々にとっては大ショックだったのである。
過去には
有名な事件も稀には在った。
ーー例えば【人ブタ事件】・・・・
漢の高祖・劉邦の正妻
『呂皇后』は、高祖の側室であった戚夫人
の両腕両脚を切断。更に両眼を抉り出し、耳を削いで塞ぎ、舌を
抜いて口をきけなくさせた上で、ソレを厠の中に置き、《ひとブタ》
と称し、毎日眺め罵っては、積年の怨みを晴らした事件。
し ぎゃくま しょうしん
ーー異常嗜虐魔の【
昭信事件】・・・・
皇族広川王・去とその后の『昭信』は、14人の側室を次々と惨殺
した。全員が無実の罪ながら、夫の寵愛を受けた側室達への、
正妻による誣告だった。 そのうちの一人『陶望卿』と云う美人は、
全裸で夫婦に鞭打たれ、真っ赤に焼けた鉄棒を押しつけられ、
苦痛に井戸へ投身自殺する。その遺体の陰部に杙を打ち込み、
鼻と唇を削ぎ取り、舌を切る。更に手足を切断、大釜に放り込んで
桃の灰と毒薬を混ぜて、ドロドロに溶けるまで何日も煮続けた。
『栄愛』と云う美女は投身したが、蘇生してしまった。彼女は全裸で
柱に縛られた儘、真っ赤に燃えた鉛を口の中に流し込まれ、刀で
両眼を潰され、両股を裂かれた。バラバラの遺体は棘で包んで
埋められた、などなどーー14人全てが凄惨に殺された・・・・
ーー然しこれ等は、遠い昔の歴史上の”逸話”として存在するだけ
であった。今の時代の人々の記憶からは、もう既に完全に忘れ去ら
れた、《人と云う獣の持つ業》 の恐ろしさであったのだ・・・・
その様にして阿鼻叫喚の中、恐怖と怨念の裡に消し去られる者も
在れば・・・・決然として、自ずから消えて逝く者も居た。
【審
配 正
南】ーー最後の最期まで、
曹操軍に徹底抗戦し
続けた袁軍の忠臣・一代の烈士である。
もし、この審配の敢闘無かりせ
ば、一連の【袁家滅亡物
語】は唯の
卑怯者の集まり・採るにも足らぬ芥話しと成り涯てたであろう。
孤立無援、食する物とて無く、水攻めに遭う絶望状況の中、名門と
謳われて来た主家の名誉を守るべく、亡びの裡に唯一輪、くっきりと
咲いた武将の華・・・・業卩城に『審配正南』なくば、袁一族は一戦に
すら及ばず、敵の軍門に降っていたやも知れず、孤軍奮闘、
鬼哭啾々たる市街戦の末・・・・刀折れ矢尽きて審配は捕われた。
だが審配は、捕われてた後も、傲然と胸を張り、
曹操の下へ連行
される途中も終始堂々たる態度で在り続けた。
後ろ手に捕縛された、その勇将をひと目見ておこうと、その道ゆき
の両側は黒山の人だかりとなった。 そんな中、その行列を手薬煉
ひいて待ち構えている、一群が在った。城内の監獄に捕われて居た
弟の一族を皆殺しにされた【辛ピ】達であった。 落城の折、彼等は
真っ先に監獄に駆け付けたのだったが、審配の命令の方が僅かに
早く、弟【辛評】一族は悉く処刑され、斬り殺されていたのであった。
両者は同じ袁家の重臣で在りながら、先君・袁紹が没した瞬間から
【不倶戴天の敵】となり、その関係は抜き差しならぬものと成って
来続けた。審配は『袁尚の擁護者』として、辛ピは『袁譚の庇護者』と
して、それぞれ互いに跡目の正統性を主張し、事々に敵対、兄弟
相克の実質的主役と成ってしまっていたのであった。
ーーだが今や、この両者の心根・臣下としての生き様・死に様には、
大きな開きが露呈されていた・・・・傷付き捕われた審配に対して、
片や、ちゃっかりと曹操の家臣に変身して、積年の恨みを晴らそうと
待ち受けている辛ピ・・・・過日、【袁譚】の使者として、曹操と同盟を
結びに来たのだったが〈魚心に水心〉、そのまま曹操に請われる
格好で仕官していたのである。
《今の機会なら、袁譚も公認した形と成り、
主君を裏切った事にはならぬ・・・・》
絶妙なタイミングでは有った。無論、もう二度と袁氏に仕える心算
など毛頭無い。ーーその辛ピの前に捕縛された審配の行列が来た。
「おのれ、審配め・・・・我が一族の怨み、今こそ晴らして呉れるわ!
見よ、あの無様で情け無い格好を!」
指さし嘲る辛ピの手には、罪人打擲用の一振りの鞭が握り締めら
れていた。・・・・するや辛ピは行列の前に踊り出し、その鞭で、後ろ
手の審配の頭を二度三度と、思いっきりブチ叩いた。
それを避け様ともせぬ審配の眉間が裂けて血が滴る。
「この野郎!貴様は今日こそ命が無いぞ!」
尚も鞭打つ辛ピに対し、審配が大喝した。
『犬め!貴様ら
卑怯者の為に、我が冀州は敗けたのだ!今、
貴様をブチ殺せないのが残念じや。偉そうな事をほざいているが、
貴様に今、この儂を殺したり生かしたり出来るのか!』
そうドヤされると、辛ピの手は止まらざるを得無かった。曹操に
鞍替えしたばかりの辛ピには、今や何の公的権限も無く、この私的
な行為は、曹操軍の軍令違反にすら問われ兼ねない身分でしか
無いのだった。そして何より、裏切りの負目がグサリと辛ピの心を
刺し貫いたのであった。
ーーやがて審配は、曹操の前に引き据えられた。
「誰が、内から城門を開けたか、知っておるか?」
余りにも泰然自若として、一切動ずる風も見せぬその人物に、
意地悪い質問を浴びせて、その反応を観ようとする曹操であった。
「知らぬわい!」 「・・・・君の兄の子の『審栄』だ!」
《まさか親族が裏切ったとは思いも寄ら無かったであろう、さあどうだ?》
然し審配は、たちどころに反応した。
「フン、小僧めが。役立たずの癖に、そんな事をしくさりおって!」
彼の忠心は、身内ですら許さない。曹操は質問の矛先を変える。
「先日、余が包囲した折、なぜ弩を盛んに射掛け続け、最後まで
降伏し無かったのだ?」
「その少なかったのこそ残念じゃ。」
「ウム、お前は袁氏に忠義であった故、当然な事であったろうな・・・」
曹操は何かを思い、ふと口を噤んだ。ーーすると、既に投降して居た
『張子謙』が、脇から嘲笑して言った。
「正南(審配)よ、そうして幾ら強がって見せても、結局あんたと儂との
先見の明の差はどうじゃ?え、おい、縄目を恥辱とは思わぬのか?」
だが、勝ち誇った様に見下す変節漢を、審配は怒鳴り飛ばした。
【黙れ下衆野郎!キサマは降人、この審配は忠臣だ。
死んだとしても、お前の生きているのとは
訳が違うぞ!】
曹操は、この忠節の烈々たるを惜しんだ。今、捕われた相手を罵り
喚いている雑魚どもと較べたら、人間としての性根が違う。こう云う
者こそ、一旦味方と成れば、心底から信頼し得る、大忠臣と成る。
偶々、仕える相手が不運であっただけの事である。
《ーー欲しい漢じゃ・・・!!》
と、その曹操の心の変化を敏感に察知した者がいた。例の辛ピと
その一族達であった。此処でもし、審配が赦され高位高官にでも
取り立てられたら、自分達の立つ瀬が無くなる。それ処か、今度は
審配から逆襲され兼ねない。・・・・そこですかさず辛ピとその一族の
者達は、グルリと曹操の廻りに平れ伏すと、ワアワアと声を挙げて
哭き出し、裳裾に取り縋って哀願し始めた。
「我ら一族の怨みと悲しみをお解り下さい!」
「何としても、我々に成り代わって奴を殺し、仇を取って下さいませ!」
こうなるともう、生き残った方が見苦しい。
「馬鹿どもめ!
何で泣き喚く必要があろうぞ。 この審配正南、
助かろうなどと云うさもしい心など毛程も無いわい。見苦しいから、
そんな猿芝居は止めにせイ!」
曹操は、これ以上の誘降は彼の信条を汚
すものと了解し、直ちに
処刑を命じた。処刑の際も、審配は飽く迄マイペースであった。
首切り役人が位置につくと又しても大喝し、己の座って居る向きを
北に変えさせ、最期に言った。
【わが君は、北におわすのだ。】
ーーかくて【審配正南】は、その烈しい生を閉じたのであるが、
大名門と謳われていた袁家の面目は、かろうじてこの男の《死に
様》
によって保たれたーーと謂えようか・・・・?
権謀術数を駆使してでも、何とか生き延びようとする者の多い
三国志世界の中に在って、馬鹿な奴と言われようと、ただ只管、
一直線に己を貫き駆け抜けていった、爽やかな一陣の風も有れば
こそ、我々は何かホッとし気持になれるのかも知れ無い・・・・
「士たる者、かく在りたいものだね。」
命の遣り取りをする戦場と云う極限状況下では、様々な人間の
【業】が、より一層クッキリと現れては、また消えていく・・・・
「左様。されど若君、これは『士たる者の道』であり、
『王の選択』ではありませぬぞ。
《王》とは〔最後まで勝ち残る者〕の事と覚し召されませ!」
甄氏強奪(?)の後、仲達と曹丕の仲は益々親密の度を深く、
そして濃くしてゆく様であった。
ーー9月・・・・業卩の地(冀州)に、布令が出された。
『袁氏の政治
では、権勢ある者を思いの儘に振る舞わせ、親戚
には兼併を許した。下積みの民は貧しく力弱いのに、肩代わり
して租税を出しており、家産を売り払ってさえも、命令に応ずる
には不充分であった。
審配は親族でありながら、罪人を匿い、
亡命者の親分に成る程だった。住民が親しみ懐つき、軍事力が
強大と成る事を希望したとしても、どうして可能であっただろうや?
さて《田地に対する税》として『一畝に4升』を取り立てる事とし、
《戸税》としては『絹2匹と綿2斤』を差し出すだけのものとして、
その他を勝手に徴発する事を許さぬ。
郡国の太守・相は、きっちり是れを監察し、豪
民(在地豪族)に
秘匿無きようする一方、弱き民に二重に税を課す事無きように、
この命を厳守せ
よ!』
ーー打ち続いた『積年の民の疲弊』を癒す
一方、現地に依然と
して過度の勢力を保ち続けようとする『河北豪族層』への牽制と
規制強化を狙った、緊急布告である。それ迄の徴税を、一挙に
半分以下に減免された人民の曹操支持の声と期待の大きさは
言う迄もない。 ・・・・蓋し、それを実施しても尚、余力有る曹魏
政府の底力が、その背景に在ってこその事ではあった。
《土地は逃げない。然して民は、圧政を逃れて流動する。人民を
其の地に安堵させる事、それが先ず、経国治世の第一歩である。》
いかに広大な領土・版図を手に入れようと、その土地を耕すのは
民であり、機を織り、道具や武器を作るのも、名も無き民草・人間
達なのである。
民の心を掴むーー詰まる処、それこそが覇道の奥義であることを
曹操と云う人物は、己の多くの失敗や教訓の中から、身にしみて
学び取り、それを肝に銘じて決して忘れない齢に達しつつあった・・・・
その上で曹操は、『兌州牧』を返上し、改めて、この業卩城を含む
《冀州の牧》に就任して見せた。
折しも曹操幕府内では、政治の機構改革・人心の収攬について、
大胆な建議が為されていた。覇業のゆくてが大きく切り開かれた今、
この時を以って、他の大敵達を出し抜いて一気にその政治戦略の
ヘゲモニーを独占してしまおうとする、大改革案であった。
即ちそれは・・・・
〔現行の13州制を廃し、古代の9州制と
すべき〕
であると謂う、驚天動地の思い切った提言であった!
これは、天下の第一人者を自負する曹操にとって、限り無く魅惑的
な響きを有する、『覇王の勲章』とも言うべき献策であった。
のみならず之を実施した場合の現実的利得としても、新『冀州』は
河東・憑翊・扶風・西河の諸郡と、現在は未だ手を着けていない
北と西の「幽州」・「并州」の2国をも含む、巨大な地域の支配権を、
居ながらにして公認される事に成るのだ。
《時代は既に変わったのだ。
新時代を切り盛りする担い手は、この曹操孟徳である!》
そこで曹操は、既存勢力からの猛反発を覚悟の上で、之を断行
しようとした。ーー・・・が、【荀ケ】が諫めた。
『現在、四海の内は、我が軍の戦果に震え上がっております。
曹公に順次、領土や軍勢を奪い取られるのではないかと、恐れ
をもって見守っている最中です。孫権・劉備などは、密かに西方
諸将に対し、函谷関や武関を閉ざし、魏の侵入を防ぐべきと説
得・脅迫工作をしておりましょう。
それなのに敢えて今、この事を断行したなら、親魏的な態度を
保っている者達迄が一転し、〔反魏〕の旗幟を鮮明にしてしまい
ましょう。そうなれば袁尚は死を免れる事が出来、袁譚は二心を
抱き、劉表はこのまま荊州を保有し続けまして天下平定の事業は
未だ簡単にはケリを着けられ無いでしょう。
どうか曹公におかれましては、先ず、この華北平定を完璧に
成し遂げ、 しかる後、旧京・洛陽を修理復興なされ、南下して
荊州に臨まれ、劉表をお討ちなされますように。
さすれば天下はこぞって安堵し、人々は自然に落ち着くであり
ましょう。天下が大いに安定してから初めて、古えの制度について
論議する事こそ、国家を永続させるに有利なやり方で御座います。』
ーー目先の、安易な皮算用に浮き足立ち、濡れ手で泡
を掴む如き
妄想を抱く主君の頭に冷水を浴びせ掛け、時期早尚だとして君主を
現実世界に引き戻す荀ケであった。やって出来ぬ事はないが冷静
になってみれば、荀ケの監察は至言である。そして其れを、素直に
受け容れた曹操も流石である。
群臣に盛り立てられる・・・・【孫
権】。
のち、天才・諸葛孔明に全てを託す・・・・【劉
備】。
それに対し、常に己が先頭に立ち、群臣を引っ張って
使いこなす・・・・【曹操】。
3者3様であるが、現時点では、
巨人と謂えるのは曹操孟徳ただ独りだけであった。
《天下》 は 今、
曹操の為にのみ用意されている。
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