【第12節】
建安9年(204年)2月・・・・・
曹操の包囲体勢は今度こそ、蟻の子一匹たりとも通さぬ完璧な
ものと成った。その兵力50万が、十重二十重の重陣を折り敷き
その眺めは恰も『人の海に孤立した巨城』さながらである。
これに対し、【袁氏一門・その妻子の全て】が立て籠もった拠城を
守るのは・・・・
『一代ノ烈士
ニシテ、死ヲモ惜シマヌ袁氏ノ忠臣』
であった。(斐松之)
その名を 【審配 正南】 と言う。
この地の生まれで、若い頃から激しい忠義心に燃え、是れを犯し
曲げる事の出来ぬ節義の持ち主であった。
少クシテ忠烈慷慨、犯ス不可ラザルノ節有リ。
但し《忠義一途ではあるが知謀は少なく、一直線的な人物である》
と、【荀ケ】には観られてもいる。
ーー専ッパラナレドモ謀無シーーだが之れは、荀ケと云う
超一流から観ればの事であり、先君・袁紹は彼を一級の人物と見て
《治中別駕・最高補佐官》 に任じた。そして全ての策略を立案させ、
同時に幕府を統括させると云う重責を任せた。その前任者であった
【逢紀】とは上手くいかなかったが、審配が讒言された時、
『審配は天性激烈にして素直、古武士の如き節操を持っております。
彼を疑うのは宜しくありません。』 と褒めた。
袁紹が、「君は彼を憎んでいたのではないのか?」と言うと、
「先日、争ったのは個人的感情によるもの、今申し上げているのは
国家の事です」と逢紀は答えた。袁紹は之を愛で、結局審配を罷免
せず、審配も改めて逢紀と親しく成っていく。その後、その袁紹が
後継者を決定せぬま
ま急死した為、【審配】の袁家への忠義心は
俄に悲劇性を帯び
てゆく。彼の一途な忠義心は、先君(袁紹)が
最も可愛がっていた《袁尚》に注がれる。が、・・・・これは却って兄弟
不仲の火種に油を注ぐ結果と成った。審配が袁尚に忠節で有れば
有る程、家臣団の亀裂は深まり、分裂を促進してしまう。
《袁家の為に!》 と、尽くせば尽くすだけ、逆に一門間の亀裂は
深まり・・・・袁家は衰亡してゆく・・・・そこに、彼の悲
劇が在った。
《業卩城の攻防戦》が、火蓋を切った。
戦いの主導権は、圧倒的な戦力を持つ、攻撃側の曹操に有る。
だが一方的な戦闘状況にならぬ様にと、袁氏側も必死に対応
する。 ・・・・先ず曹操側が先手を打ち、城壁の真下に何本もの
〔地下道〕を掘らせた。そのトンネルから秘密の部隊を潜り込ませ
内側から城門の鍵を開け、四方の各門から一斉にドッばかりに
攻め入ろう・・・・とするモノであった。それに対して審配も亦そうは
させじと〔城壁の内側に深い塹壕〕を掘って之に対抗。
〈迎え水〉をしこたま流し込んでトンネルに溢れさせ・・・・
結局は、曹操の 『地下道作戦』 を阻止する。
次に起こったのは、亦しても内
応であった。 今度の内応者は、
審配の配下部将の【馮礼】であった。ーー突門 (守備側が奇襲の為に、
城壁に穿った小さなくぐり門)を開いて曹操軍を城内へ引き入れてしまった
のである!然し【審配】は之に対しても素速く対応した。情けない事
だが何しろ、いつ誰が裏切るか油断も隙も無い状況であったのだ。
つい先日は、 同僚で車の両輪だと思っていた、副将の【蘇由】が
内応者だったと判り、市街戦の末、城外へ駆逐したばかりであった。
信頼していた同僚の司令官が裏切るとなれば、後はもう誰が叛逆
しても不思議では無い。 劣勢な味方の現実を眼の当たりにした
可成りの者達が、【落ち目の袁一門】を見限り、
《内応を手土産に曹操に鞍替えしようと考えている》 と審配は
腹を括って臨んでいたのである。だから、こんな事も有ろうかと、
予め用意させて措いた大石を、城壁の上から落として、突
門の
通路上の柵門に命中させた。 そのため柵門は潰れて通行不能
となり、城内に入り込んだ敵兵は退路を断たれて分断され、あえ
なく全滅の浮き目と成った。その数は300余名であったが、もし、
此の素速い対応と事前の準備が無ければ、城内に雪崩れ込んだ
敵兵により内側から各主要門が開けられ、致命的な大崩壊に成る
処であった。この様に、腹心の部下が突如寝返るのだから【審配】
としては敵と味方の両方、城の内と外と
を常に警戒して居無くては
ならなかった。神経をピリピリさせた異常な事態の中に、審配は、
四六時中置かれていく事と成る。
ーー4月(包囲4ヶ月目)・・・・
審配の目配りに因り、内応者が途切れたと観るや、曹操は新たな
動きに出た。城の包囲を従弟の【曹洪】に任せると、曹操自身は
大軍を率いて業卩城の西50キロに在る小さな出城である《毛城》
を急襲した。獅子は小ネズミにも、全力を振るったのである。なぜか
と言えば・・・この《毛城》こそ、業卩城の生命線であると云う事実が
判明したからであった!
この《毛城》
は、業城のすぐ北を東西に流れる『シ水』の上流に
在り、更に上流(西)の壺関(并州)から送られて来る兵糧を備蓄・
確保していたのであった! こんな小城ひとつに食糧を備蓄して
置くとは、
官渡決戦・敗北の教訓が丸で活かされていない。
(但し、袁尚が黒山軍を率いた場合の為であったとは想像が着く。それにしても、である。)
この小城を守っていたのは武安県の長【尹楷】であったが曹操の
猛襲に遭っては一日と保たず陥落してしまった。(そんな事でイインカイ!?)
この曹操本人の一撃に因って、袁尚側・もっと言えば、袁一族の
〔命運は尽きた〕・・・・と言ってよかろう。
【兵は食に有り!】と謂う大前提が、無惨にも突き崩され、
業卩城内へ兵糧が届けられる『可能性』すら、絶望的と成り涯てて
しまったのである・・・・。
だが、曹操の電光石火は、是れだけでは終わら無かった。曹操は
直ちに業卩へ帰還するや、今度は又、疾風の如く真北に15キロ
進撃し、《邯鄲城》を急襲した。守将は【沮鵠】(沮授の子)であったが、
降伏を許し其の儘ひき続き守将に任じ、士卒の悉くも全員そっくり
そのまま残置させた。
※曹操は何故こうした措置を採ったのか?賢明なる読者諸氏には、
もうお判りであろうが・・・・念の為カンタンに付記しておけば、
この 《邯鄲城》ーーもし、袁尚が業卩城救援の為に引き返して
来るとすれば、ひと先ず立ち寄り、体勢を整え直す可能性が
非常に高い、業卩城の属城的な意味を持っていた・・・・。
再び〔業卩城〕包囲に戻った曹操の元に易陽県令の【韓範】から、
城を挙げて降伏すると云う書状が届けられた。然しよく探らせて
みると、実際は城を守って抵抗し続けている事が判った。そこで
激怒した曹操は、急遽、【徐晃】を派遣して、韓範を攻撃させた。
【徐晃】は到着するや、城内に矢を射込んで恫喝すると同時に、
事の結果について、その理非を説得してやった。元もと帰順に
傾いていた韓範は、これで決心がつき後悔を表したので、徐晃は
直ちに彼の降伏を受け容れた。そして、未まだ激怒している曹操
に進言した。
『今、二袁(袁尚・袁譚)は未だ撃破されてはおりません。態度を
決め兼ねている諸城は、この件の仕置に耳を傾け、情報を聴いて
おります。 今日、易陽を滅ぼしますれば、明日は全てが必死に
成って守りましょう。恐らく河北の地は、安定する時が在りますまい。
どうか公には易陽の降伏をお容しになり、それを諸城にお示し
下さい。さすれば噂を聞いて、従わぬ者は御座居ますまい。』
曹操は之を聴くと怒りを静め、【徐晃】の進言
どおりにして見せた。
すると忽ち、その効果が現れた。渉県令の【梁岐】が県を挙げて
帰順して来たのである。
こうした事例は今後益々多くなっていくに違い無い・・・・
ーー5月、(包囲五ヶ月目)・・・・
【審配】が最も心配し、警戒していた筈の、守備側最大の危機が、
突如、一夜の裡に出態した!
・・・・実はその以前、曹操は城の周囲に四十里(16キロ)に渡って
《空濠》 を掘らせていたのであるが、それは極めて浅い堀り方
だったので、審配は一笑に付し、その土木作業を阻止する為の
出兵をしていなかった。審配は、その深さが余りにも浅かった為、
之を城側の奇襲予防用の空濠と解釈していたのである。
だが、この策略については、曹操の方が一枚上手であった。
・・・・城側がそう思いこむ様に、わざと浅く掘ったまま、放ったら
かして置いていたのだった。そして、相手が気にも留めなくなった
頃合を見計らって、その夜、突如として大プロジェクトを発動して
見せたのである。
城兵全て寝静まった真夜中の事・・・真っ暗闇の地の底を、よ〜く
眼を透かして見てみると・・・・うわぁ〜、居るは居るは!!
黙々と鍬を振るう兵士達がウジャウジャ蠢いているではないか!
その数は実に10万人以上。猛烈に突貫作業しては、疲れると
直ぐに控えの者とタッチして入れ替わる体制で、見る見るうちに、
あの浅かった空濠がズンズン深く成っていく。
・・・・そして城兵達が、生ま欠伸をしながら下を見た時には何と、
深さ
二丈余(5メートル)、幅四十丈(100メートル)に及ぶ大空濠が
城のグルリ16キロに渡って、完成してしまっていたのである!!!
それも、一夜の裡の出来事であった。
《ーーしまった、してやられたか!》
だが審配は、内面の動揺を決して表には見せ無かった。
「何も今更、騒ぐ事では無い。」
然し、その空濠に、『シ水』を決壊させた濁流が躍り込んで来た時
・・・・城内の空気は一挙に暗く、重苦しいものと成っていった
・・・・掘り返された夥しい残土は、そのまま堆い大堤防と化し、
その結果、業卩城の一部には浸水が発生。業卩城は一夜にして、
人造湖上に浮かぶ【浮き
城】と化してしまったのである!
万歳を叫ぶ曹操軍とは、余りにも対照的な袁軍側の沈鬱であった・・・
ーー6月(包囲6ヶ月目)・・・・
降り続く雨の中、業卩城に対する水攻めの効果は一段と厳しさを
増し、城兵側は全く身動きが出来無い状態と成った。
それに対し曹操は、〔城内の食糧備蓄の残量〕を、投降して来た
【蘇由】などから聞きだし、ほぼ正確に割り出していた。
《ーー持って後1ヶ
月、8月になれば城内は全て飢え、
城の中の者達は、全員が死に絶えよう・・・・》
信じ難い事であったが、何と業卩城内には、戦時体制用の兵糧米
備蓄が為されて居無かったのである!
通常、一族の拠城であれば、平時に於いてさえ、半年や一年分
位の備蓄をしてあるのが常識であった。にも拘わらず、とっくの昔
に、自分達が包囲され、〔籠城戦に直面させられる〕かも知れない
事態を予見し得た筈なのに、城内備蓄を怠り、小さな出城(毛城)
の方なんぞに集積して置くとは・・・!!
曹操軍を甘く観、事態をナメて掛かったしか言い様が無い?
ーーいや、そうでは無かった。官渡戦の大敗北が如何に大打撃
であり、その後遺症がどれ程深刻であり、痛手であったか!!
・・・・と云う事の、今更ながらの証明である。
即ち、(人的被害も勿論だが) 営々として備蓄して来た、有りっ丈の食糧
(軍糧)を全て失った(焼き払われた)!−−と云う事の重大性
が、
ジンワリと今でも効いており、爾来、国家的な備蓄を不可能にして
いたのである・・・・。
その所為で、業卩城内では既に飢餓が発
生し始めていた。
内向き(最上流階層向け)を除く、非戦闘員の老若男女への食糧支給
は、通常の5分の1以下に制限され、将兵への支給さえ3分の1を
確保するのがやっとの状況に追い込まれていたのである。
ーー7月・(包囲半年目)・・・・業卩城内でも特に、
一般市民の居住地区は【飢餓地獄】と化していた。
流石に審配の威令で、《人肉食》までには至っていないが、配給を
兵士の後回しにされてきた老人・子供・女達が、朽ち木の如くに
死んでいった。 城の南半分・市民の住む市街地では、死体の
腐臭が一面に漂い、風向きによっては城外にまで流れ出て来る
のであった・・・・(李孚の進言により、6千人の市民を追い出して
さえも尚、この有様であるのだった。如何に業卩城が巨大な城市
であるかが判る。と同時に、李孚の進言なくば、この悲惨な地獄
絵図の到来は、もっと早くから生まれていたと云う事である。)
・・・・この時になって漸く、【袁尚】は業卩城救援の為に引き返
して来た。だがそれは、全軍を率いてのものではなかった。兄の
【袁譚】に背後を襲われぬ為には、平原城包囲を完全に解く訳
にはいかなかったのだ。そして又、救援は急がねばからなかった
から、足の速い騎兵中心にならざるを得無かった。結局、袁尚の
率いる救援軍は、1万余の規模に留まった。
但もし、この兵数の少なさを補うものが有ったとしたら、それは
将兵一人一人が心に秘める望郷の念・家族への愛の強さであった。
彼等が此の世で帰るべき場所は、本貫の地・業卩城でしか有り得
無かった。命を賭して戦うであろう。・・・・〔袁尚来援〕の報に接した
曹操の陣内では、参謀達がその点を指摘していた。
「袁尚の軍は、本拠に帰ろうとする軍で、各自が死に物狂いに、
自発的に戦いましょう。之とまともにぶつかるのは、味方の損耗が
激しく、避けた方が宜しゅう御座いましょう。」
それに対して曹操は答えた。
「袁尚が『大道』から来れば避けねばなるまいが、もし、『西山』を
通って来れば、それは負けに来る事だ。
何しろ彼処に在るのは《邯鄲
城》じゃからな!」
この曹操の指摘は・・・袁尚の焦る心理を見抜いたものであった。
ーー餓死者が出る迄の5ヶ月もの間、袁尚がモタモタして駆け付け
られ無かった理由・・・・それは、【黒山衆】との遣り取りに明け暮れ
ていたからであった。救援の為の出陣要請を幾ら出しても、相手は
のらりくらりと言い訳するばかりで、何ともラチが開かない。
そのうち 《黒山衆は曹操側に附いた!》 と云う噂が流れて来た。
・・・実は噂だげはなく、とっくの昔に【張
燕】は、曹操に帰順する事を
申し入れていたのであった。そしてそれは、或る条件付きで、既に
了承されていたのである。ーーその条件とは・・・・
袁尚を謀り、グズグズと交渉を長引かせる事であった。
民族の王(単于)としての張燕には、どう考えても選択肢は1つしか
無かった。南匈奴民族の運命が賭かっているのだ!
《・・・・兄弟相喰らう如き衰勢にある側に、
その未来を託する訳にはゆかぬワイ・・・。》
その上、張燕を安心させる前例が、曹操の戦史の中に存在していた。
《その前例が、民族の明日を保証して呉れるだろう!》
ーーその前例とは・・・・【青州兵】達の事である。元を糾せば、
『黄巾賊の農民ども』である。敵対していた癖に、喰えなくなって、
ゴッソリと、戦士30万・その家族100万と云う大集団ごと投降して
いた。兵力不足に悩んでいた曹操は之を優遇し、最強歩兵軍団
にまで育て上げて来ている。
《奴等が歩兵なら、こっちは数段上の【騎兵】(胡騎)が売りだわい。
曹操も今後は騎兵が大量に欲しかろう。先ず粗略には扱うまい。》
彼我の立場を入れ替えて考えて観れば判りそうなものなのだが、
藁にも縋りたい心境に追い込まれた人間には、それが出来無い。
《ーーウヌ、袁家への恩を忘れ去り、我等を裏切りおったか!!》
気が付くのが余りにも遅い。 希望的自己推測に拘泥し過ぎた
『お坊ちゃん育ち』の為せる業・限界であったろうか?
【黒山軍】が合流しないとなれば、遠回りして『大道』を経ず、最短の
『西山』伝いに限る。そこで【袁
尚】は軍を西山ぞいに進め、業卩から
17里(7キロ)東の〔陽平亭〕に辿り着いた。 そして眼の前の『フ水』
越しに、城内へ狼煙を上げさせた。【李孚】のお陰で打ち合わせ通り、
業卩城内からも狼煙の返答が上がった!
「み、見よあれを!殿が、殿が戻って来られた
ぞ!」
この半年間、好い事の一つも無かった業卩城内も、この時ばかりは
皆、歓喜の涙に暮れ、希望に夢を燃え上がらせた。
「よし、手筈通り、こちらからも撃って出て、袁尚様を迎え入れようぞ!」
意気天を突く勢いで、審配は兵を率いて城の北門から出撃した。
これは李孚との、事前の打ち合せであった。 未だその段階では、
袁尚は北の黒山軍と合流して、一挙に曹操軍包囲網の一角を喰い
破り、城の「北側から」入城する事としていたのてあった。
だから審配は「北門」から出撃したのである。ーーだが、曹操は、
そんな事は先刻承知で、ぶ厚い重陣を北面に配置した上に、カモ
フラージュした隠密部隊を待ち伏せさせていた。 と同時に自身も
【虎豹騎】を率いて、袁尚軍殲滅に向けて発進して行った。
ーーそして・・・・【審配】は破れた。気持だけでは、何うにも成ら
なかった。ヒョロヒョロの兵達の体力は、一刻の戦闘にも耐えられ
無かった。袁尚との合流は敢え無く阻止され、審配は断腸の思い
で城内への撤退を下命せざるを得無かった・・・・。
又、袁尚も奮戦激闘したが、所詮1万余の兵力では、曹軍20万
以上の強襲・奇襲には耐えられるものでは無かった。
陽平を敗走し、シ水の曲がり角(曲シ城)に沿って陣を立て直した
が、曹操は之を殲滅すべく大包囲網を組みに掛かった。この時既に
袁尚軍は半数以下に減っていた。あの【李孚】とも此処で離れ離れ
となり、ついに永遠の別れと成ってしまう。
〔李孚の其の後〕については、気に掛かる諸氏も居られよう
から、簡略に記しておく。
・・・此処で四散した李孚は仕方無く、一門の【袁譚】の処へ出頭し、
即座に主簿(副官)に任じられるが、その袁譚もやがて戦死する。
そこで李孚は「平原城」に戻る。城内は既に、降伏に衆議一決して
いたが、曹操の反応は不明であり、皆、動揺し混乱していた。そこで
李孚は、独り曹操陣営に向かい、曹操と面談する。
「今、城中では強者と弱者が凌ぎあい、皆落ち着きませぬ。考えます
に、新たに降伏した者で、平原城内の人が見知り、信用している者に
お命じになり、明白な御命令を宣布して下さるべきかと存知ます。」
「では、卿は直ぐに帰って、儂の命と伝えよ。」
李孚は跪いて命令を求めた。
「・・・・まあ、差し詰めは、卿の考えによって宣布せよ。」
曹操は、あの問事の杖事件の主人公を高く買っていたのだった。
その期待通りに善処して、復命に来た李孚を、曹操は、
《実際、役に立つ奴じゃな!》 と考え、取り立てた。・・・・司隷校尉
(都の警視総監)や各地の太守を歴任し、その命を全うする。
ーー『魏略』ーー
ーー着々と閉じられてゆく包囲の環。
《・・・最早これ迄か・・・この儘では殺られる!》
自軍の惨状と相手の巨大さとを実感した【袁尚】は、此処で俄に
『怖じ気の虫』 に取り憑かれてしまった。それ程迄に、曹操軍の
攻撃力は凄まじいものであった。
な しぼ
ひとたび気力が萎え凋むと、もう駄目であった。そこで袁尚は、
もと豫州刺史の【陰キ】と記室(祐筆・代筆担当書記官)の【陳琳】
とを”降伏の使者”として曹操の元へ派遣した。
「ーーあの陳琳
が、ぬけしゃあしゃあと投降の使者に立てられ、
参っております。直ちに斬り殺しましょうか!」
「ホウ、それは・・・いや殺すな!会ってやろうぞ・・・。」
ーー実はこの【陳琳】・・・・曹操個人にとっても、
《とんでもない野
郎》 であったのだ!
〔記室〕と云う職責上、やむを得ぬ事とは雖もーー
この陳琳の手に拠る【檄
文】は、その内容 (曹操への罵詈雑言
誹謗中傷・悪罵の限り=ネガティブ・キャンペーン)が余りにも激越で
然も、名文であった為、今や天下で其れを知らぬ者は誰一人も
居無いと云う、恨み骨髄の相手なのだった!
過ぐる官渡決戦の直前、天下に向け【ゲキを
飛ばす】為に書かれた
其の一文こそ、【曹操孟徳と云う人物の評価】を、後世に至るまで
決定づけてしまった、諸悪の根源なのである。
【悪玉・曹操のイメー
ジ】は、実にこの
「陳琳」の手に依って創り上げられ、その強烈なレッテルは二千年
たった現代でさえも払拭し得無い程の強烈かつ鮮烈であるのだ!
※ (詳細は〔第17節〕にて後述する)
「陳琳よ、君は今、投降の使者として参っておる。だから、例の
檄文については一切触れまい。直ちに帰って、我が言を一字
一句違えぬよう、袁尚に申し伝えよ!」
曹操は怒りを抑えつつ、袁尚の申し出を一蹴し去った。
陳琳らは帰陣して、曹操の言葉をそのまま伝える。
『バカめ、自分
だけ助かる心算で居るのか!! 己がどんな星を
背負っている人間か、よ〜く考えてみよ!』・・・・と申しました。」
「ウググ・・・・おのれーッ、曹操め〜!!」
おんてき
さげす
怨敵にそこまで蔑まれれば、流石に袁尚も気力を取り戻した。
憎悪が人間に力を蘇らせ、袁尚を此の世に踏み留めさせたので
あった。 ・・・・改めて見廻せば・・・・それでも尚、自分に付き従う
将兵が居て呉れた。初めて涙が溢れ出た。
《 クソ〜う!この儘では死んでも死に切れんぞ!!》
包囲の環が完全に閉じられる寸前、袁尚は夜陰に紛れて、辛うじて
濫口(キ山)にまで落ち延びた。 ーーだが、尚も曹操は之を追求、
再び前進して厳重に包囲網を構築し始める。・・・・と今度は、戦う前
に、配下の【馬延】と【張ギ】等が投降してしまい、兵力は激減。もはや『軍』としての威令を保て無くなってしまった。
だがシツコイ曹操は、飽くまで総攻撃・撃滅戦を下命して来た。
「くそ、くそ、くそ〜〜!」
馬上で気狂いの如くに叫ばざるを得無い。
《ーー生きてやる!!生き抜いて、あのチビ曹操に、
一泡だけでも吹かしてやるぞ・・・!!》
この屈辱感・惨めな思いが呪いと成って、袁尚を再生させた。今に
なってやっと、不退転の気概を持たされる敵の総大将であった・・・。
「ーーおお、そうだ!」
此処から更に北東へ300キロ、憎っくき【袁譚】が立て籠もる平原
城の北100余キロには、血を分
けた実の兄が居るではないか!
異腹の兄・袁譚とは違い、同じ父と母の血を100パーセント共有して
いる本物の兄・【袁
煕】が居る。 然も彼の『故安の城』(南皮)は、
全く無傷の儘である。 《ーーウム、未だ先は有るのだ・・・!!》
こう思い定めれば、もう恥も外聞も有ったものでは無かった。袁尚は
近衛の騎馬隊に守られると、もし発見された時に、本人では無いと
シラを切り通す為・・・軍を統帥する者の証である『印
綬』も、『節
鉞』
をも捨て置くと、ただ己の身一つを保って、遮二無に包囲網を突破
していった・・・・・
節鉞の
《節》は符節。《鉞》は斧しるし
として、皇帝から特別に与えられる。だから、あだや
疎おろそかには出来ぬ、何ものにも代え難い由々しく貴重な物であった。
《節》は2メートル程の〔旗竿ざお〕で、旗の先端部には、飾りの三重の
房ふさが付いている。 ・・・・前漢・武帝の時、匈奴きょうど征伐に派遣された
『蘇武そぶ』は、捕虜となって19年間抑留よくりゅうされたが、片時もこの「節」を
手離さず、牧羊生活をさせられた時も此の「節」を使って羊を追った
から、先端の「房」は全部抜け落ちてしまった。またシルクロードの
開拓者・『張騫ちょうけん』も同様に、10数年間匈奴に囚われるが、 やはり
「節」を守り通して帰還した。二人とも敵に降る事無く 「節を守った」
のである。 もし敵に降って、この 「節」を奪われてしまったら、
その者は「節を失った」のである。
従って『忠節
を尽くす』・『守節の臣』の語源★★でもある。
それ程に重要な《節》には3等級ある。(使持節・持節・仮節)
使持節ーー
二千石(刺史・郡太守)以下を殺す★★権限を顕わす。
持節ーー官位の無い者を殺す★★権限を
顕わす。
仮節ーー軍事に関する事柄に限られ、軍令を犯
した者を殺す★★
権限を顕わす。
尚、仮鉞かえつ
(仮黄鉞かおうせつ)は、黄金製の、斧おのと鉞まさかりを型取ったミニュチュアの
置き物レプリカで、内外諸軍を統帥する権限を示すものである。
ーー従って、戦さに征く時、軍の統帥者は必ず之等を携行した。
又、『印綬いんじゅ』は、各自の身分証明書の如き大型
の印(鑑)で、己の
分身として肌身離さず(綬ヒモで肘にくくり着け)、所持しているのが
原則であった。 それを捨て置き、敵の手に奪われると云う事は、
将帥として最大の恥辱、天下に赤っ恥を晒した事と成り、おめおめ
と生きては帰れぬ重罪に該当した。
袁尚は今、それすら覚悟の上で身軽と成り、とにかく逃げ延び
ようとして居るのであった・・・・取り敢えず北へ、兎も角北へ。
そして僅か数十騎と成り果てた供廻りに付き添われ、やっとの
思いで辿り着いたのはーー《邯鄲かんたん城》 であった。
先日、業卩城救援に向かう途中、《邯鄲は既に降伏した!》と云う
気懸かりな情報も伝わっていたが、守将である【沮鵠そこく】は、忠臣・
【沮授そじゅ】の息子であり、出迎えた諸将下士官に至るまで皆、顔見
知りの者達ばかりであった。
《やはりニセ情報であったか。邯鄲はカンタン
には落ちぬわい!》
激戦の労ねぎらいを受け、ホッと安堵の休息を取ろうとしたその夜・・・・
ーー事態が急変した。
「なんだ、どうしたのだ?この騒ぎは!」
「騙だまし討ちです!此処はとうの昔から、曹操に降って居りました!
我等が時を稼ぎまする。 どうか殿には、お独りだけでも落ち
延びて下され!おさらばで御座る!」
《・・・・??ーー謀かられたと言うのか!》
闇夜であった。そして又、如何に寝返ったとは雖え、つい先日迄は
『御主君』であった忍び無さの手心からか・・・・袁尚は邯鄲の城を
抜け出し、兎にも角にも脱出する事には成功?した。軍衣を脱ぎ
捨て、農民に身をやつして、更に北の方・中山ちゅうざん方面に向かって姿を
眩くらました。今度こそ本当に、たった独りの逃避行であった・・・・
曹操が腹を抱えて笑い転げる様が、
袁尚の脳裏に何回も浮かんでは消えた・・・・
ーー孤立無援の【業卩城】内・・・・・・
その上空が、黒く不気味な物ものの怪けに覆われている。 そしてその、
死を告げる不吉な使者達が舞い降りてゆく先には、骨と皮ばかり
と成った屍しかばねが累々るいるいと横たわっていた。死肉を啄ついばむ烏カラスどもだけが
黒山の様に道端に群れなしている・・・・ 既に城壁内のうち、一般
庶民の住んで居た市街地は、完全な飢餓の墓場と化していた。
風向きによっては城壁外に迄、気持の悪く成る様な、動物性蛋白タンパク
質の腐臭が漂って来る。ーー城内総人口の半数以上が、この8月
までに餓死していた。かろうじて生きて居るのは、特別配給を受け
続けて来た将兵達と、上流階級の住む、ひと区画だけとなっていた。
そんな飢餓状況の中、【審配】だけが躍起になって志気を鼓舞して
いる。
「未だ、南皮の城には袁煕えんきどのが居られるではないか!袁尚どの
とて生きて居られるぞ!実の兄弟で力を合わせ必ず駆け付けて
下される!それ迄は、壁の土を喰らってでも頑張ろうぞ!」
だがーー城外では・・・・敵兵達が、ただ独りで逃げ去った袁尚の
『印綬』を棒の先にぶら下げては、からかいの囃し声を立て、その
腰抜け振りを嘲あざけり笑う。 城内には日に日に怨嗟の声が渦巻き、
絶望感だけが充ち
満ちていく。
《こう成ったのも全て、〔辛ピしんぴ〕と〔郭図かくと〕の奴の為だ!》
《何としても、3人の御兄弟は力を合わせられるべきだ!》
袁3兄弟の決裂が決定的と成った時、【辛ピ】と【郭図】の家族達は
密かに呼び寄せられ、うまうまと「平原城」へ脱出していた。 然し、
辛ピしんぴの兄の【辛評しんひょう】の家族だけは捕らえられ、今もこの業卩城の
地下牢に押し込められていた。ーーだが審配は彼等を餓死させる
様な事はさせず、自分と同じ物を与えていた。そこが如何にも審配
らしい処ではあったが、独り 【徹底抗戦・玉砕も辞さず!】 と云う
彼の立場は、日に日に孤立していかざるを得無くなってゆく・・・・・
* * *
ここに、骨肉あい食はむ兄弟の相克を痛み、その
兄弟の
双方に、《諫いさめの手紙》 を送った同盟者が居た。 荊州牧の
【劉
表りゅうひょう】である。 決して積極的な同盟者とは言い難く、寧ろ非
協力的なモンロー主義者ではあった。 だが然し、当時、世間
一般はこの兄弟をどう観ていたのか・・・その臣・【王
粲おうさん】の手に
よる手紙が遺っている。
あて
ーー袁譚
(曹操と手を組んだ長男)へ宛た書簡ーー
『天の下し賜
うた災害は重く、禍いは盛んに起こっております。父君(袁紹)は他界され、
天下の人々は哀悼しております。賢明な御子孫が血筋を継がれた為、遠きも近きも
期待を抱き、みな腕力を発揮して、盟主(袁氏)に身を投じたいと願っておりました。
死ぬ日に当って、なお生きる願いが叶えられた様なものでした。
処が、干旌に青バエがたかる様に、邪悪な臣が徘徊つき廻り、費無極の様な
讒言を
専っぱらにする臣が、お二方の砦の間を泳ぎ廻り、股と肱を分けて二つの身体とし、
背と膂を断ち切って別の身体とする様に、兄弟の仲が割かれる事があろうとは、どう
して悟る事が出来
たでしょうか。
昔、三王五覇の時代から、下って戦国時代に至る迄、父子相克と云う事は、有る事は
有りました。然しながら、或る者は王業を成就したいと願い、或る者は覇業を定めたいと
願い、或る者は本家の地位をはっきりさせたいと願い、又或る者は世子を確固
たるもの
にしたいと願ったものでした。親を見捨てて他人につき、その幹や根とも言うべき同族を
揺さぶりながら、
功業を高め、功績を成し遂げて、位を子孫に伝えた者は、未まだ嘗て
存在しませ
ん。 例えば斉の襄公は遠祖九世の復讐を遂げ、士カイは荀堰の仕事を
やり遂
げさせたのですが、この為『春秋』では、その道義を賛美しているのです。
そもそも荀堰の斉への怨みも、亡き父君の曹操
への憤怒ほどではなく、士カイが仕事
を引き継
がせたのも、仁君(袁譚)が血筋を継
いだのには及びません。
その上、君子は危難を逃れて敵国に行く事はしないも
の、いったい先君の怨みを忘れ、
至
親(弟)への
情愛を棄てて、万代の後まで鑑戒となる様な事を
行い、同盟者に対して
恥辱を与えていいものでしょうか。
冀州(袁尚)が弟としての道義を尽くさず傲慢である事は、確かにその通
りですが、
仁君
(袁譚)には志を曲げ、身を辱しめても、国家
を正しく救う事を義務となさるべきで
しょう。夫人(母)に憎まれるとは言っても、鄭の壮公
に対する羌夫人ほどではなく、兄弟
仲が悪いとは言っても、舜に対する象の傲慢
さほどではありません。この様でありながら、
荘公には大隧(トンネル)の中の喜びがあり、象は
有鼻を領地として受けています。
どうか古い怒りを棄て、旧来の恩義に遠く思いを馳せられ、母子兄弟元通
りの姿に
立ち戻られますように。』
ーー袁尚(先に跡目を自称した三男)へ宛あてた書
簡ーー
『変事は辛評・
郭図によって引き起こされ、兄弟の間に災禍を生じたと伺っておりますが、
互いに攻め合った閼伯・実沈兄弟の跡を追い、常棣の死を心配すると云う建前を
忘れ、
みずから干と戈を用い、倒れた屍から血が流れているとの事。それを聞いて涙にむせび、
生きた心地も致しません。
昔、黄帝(天帝)には蚩尤(大魔王)とのタク鹿の戦いがあり(神話)、周の
武王には
商奄との戦いがありましたが、いずれも悪人を駆逐し、王業を安定
させんが為であり、
強弱を争い、喜怒の感情
によるものではありません。 だからこそ、身内
を滅ぼしても
非難を受けず、兄を誅殺しても道義に悖る事はないのです。
いま二君(袁尚・袁譚)は大業を受け継がれ、前代の跡を継承されたばかり
で、
公的には国家危機の打開を考慮する必要
があり、私的には亡き父君の遺恨を晴らす
責任があります故、ただ道義を守る事のみに努め、国家を安定なさるべきです。
何故ならば金と木、火と水は、剛と柔
とによって互いに補い合って初めて調和を得る
事が出来、民衆に有用となるからです。
青州(袁譚)は天性短気で、曲直に暗い方です。 だが仁君(袁尚)には
度量広大、
ゆったりと余裕を持っておられますから、大は小を包み込み、優れた面を以て劣った
面を受け容れるべきかと存知ます。
まず曹操を滅ぼして、父君の恨みを晴
らされ、事が終わった後はじめて、曲直を
はっきりさせる態度を採られる事
こそ、望ましいのではありませんか。
もしも遠大なる計画に留意され、みずからの
欲望に打ち克って、人の守るべき道に
立ち帰られるならば、軍旗を振るって遠征
され、協力して王室を盛り立てられるべきです。
もしも迷いより醒める事が無く、人の道に背いて改める事がなければ、夷狄
すら
非難の言葉を浴びせる事になりましょう。
まして我ら同盟国は、どうして君の戦いに協力
する事など出来ましょうか。
それこそ昔、韓廬(足の速い猟犬の名)と東郭(賢い兎の名)が追いかけ合って、目の
前で疲れ果てた為、百姓爺じいの獲物と
成った様な始末になるでありましょう
いらいらと首を長くして、仲直りの声を聞く事
を待ち望んでおります。
もし、『君子の道が長じ、小人の道が消滅
すると云う』泰の卦に相当するならば、袁氏
一族は漢王朝と共に隆盛となるでしょう。
もし、『小人の道が長じ、君子の道が消滅すると云う』否の卦に相当するならば、
同盟国の希望は、永遠に絶たれてしまうでありましょ
う。』
ーー【袁譚】と【袁尚】は全く聞き入れなかった・・・・
と、
『魏氏春秋』には、短いコメントが添えられている。
《ーー絶世の美女が居る!》・・・・
これはもう、知らぬ者の無い天下の噂さであった。女好きの曹操は
勿論、全軍が知っている事である。世に絶えて二人とない美形・・・
その名を【甄氏しんし】と謂う。
芳紀22歳。人妻である。まさに
熟れ頃、〔女としての真の歓び〕に目覚め始めたばかりであろうか?
名までは伝わっていないが、遙か300キロも北東の『南皮城』に
居る、袁三兄弟の2男・【袁煕えんき】の妻である。
何で袁煕の正妻なのに、ここ業卩城に居るのか?・・・・それは
当時のしきたりで、夫が出陣する場合、一族の妻子は、一門の
本城に留まる事が不文律とされていたからであった。こんな危急
の時なのに、名門意識が強過ぎて、旧来の習慣を破る事が出来
無い儘にいたのである。
(尤も、業卩城以上に安全な城など無かったが・・・・)
誰一人、公然と口には出さぬが、その世にも美しい女体は、いずれ
《曹操の生いけ贄にえとな
る》 運命と、皆が当然視していた。
ーー7年前、長男を亡くす迄に【鄒氏すうし】と云う女体に溺れた程の
好色家である事は、今や天下で知らぬ者はない。ましてや今度は、
〔中国一の美女!〕 と、世に知れ渡っている若き人妻である。
曹操の密かな愉しみが、業卩城陥落の直後に果たされるであろう・・・
「ーー若君、そろそろ、世間をアッと言わせてやりましょうぞ。」
「ーーー?」 「妻を娶られませ。」 「甄
氏しんしか!」
直ぐに跳ね返って来たと云う事は、下心充分である。
「父上も★、狙っているぞ!」 「承知の上でござる。」 「何うやる?」
興奮の為、18歳は顔が真っ赤で、心臓がドクドク高鳴っている。
「一番乗りするしかありませんな!」
「父上の事じゃ、自分の前には誰も『奥』へは入れさせまい?」
度重ねて来た曹操の《漁色の手口》は、とうに知れ渡っている。
「布令の届かぬ所に潜み、落城寸前に『奥』へ突き進む事ですな!」
「衛兵が居るかも?」 「残敵もウロついて居るでしょうな。」
「ちとヤバイな!」 その気満々である。
「父上から盗み取るのですぞ!それ位なんです!」
「・・・戦さより難しいな!」
「どうせ父君は、いつも通り格好をつけて、
ゆるゆると入城されるでしょう。そこが付け目です。」
「まるで謀反だな!」 「大謀反でござる。」
「いいのかな?」 「絶世の美女
ですぞ!」
「ーーいいなあ〜〜!」
涎れが垂れそうである。未だ見もせぬ相手だが、想像しただけで
血液が股間に集まり、18歳のイチモツは早くも勃起している。
「全て、渡りはつけて措きましょう。」
「一緒に来て呉れるな!」 哀願調になっている。
「若君の一大事なれば、当然のこと!」
「心強いな!」 「直ちに手を着けてしまいなされよ。」
「えッ、城内でか?」 仲達が苦笑した。
「相応しい場所は、この仲兄イが、バッチリ設らえて措きまする。」
「頼むぞ!ああ〜、何だかやたら興奮して、燃えて来たぞ・・・!」
『結構、けっこう、し〜っかり頂戴して下さりませ。」
血生臭い戦場で、
とんでもない話しである・・・・・
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