【第11節】
《ーー此処を取って、新しい軍事拠点にしよう!》
曹操の頭の中に、その経営戦略が描かれたのは何時の頃で
あったろうか?
ーー【業卩】・・・・『許』に較べ、全てに於いて、規模が
格段に上なのだ。何と謂っても、あの袁一族が営々と築いて来た
城市である。取り敢えず、直ぐ使える。
なかんず
く
就中、その在る位置が戦略上好ましい。 「許」から北に深く、
「河水」(黄河)を越えた東に在る。今迄つねに懸念していた「南」・
「東」に対し、脇腹を晒さなくて済む。黄河が、敵の急襲を阻んで
呉れるだろう。ーー【業卩】・・・・
それが、覇業の足場と成る・・・!
4月ーーほぼ1ヶ月間の猶予を
取り、曹操軍はいよいよ、
袁一族の本拠地・業卩城めざして進軍を開始した。
この間に、論功が行われた。目立つ処では・・・・
裨将軍だった【張遼】が中堅将軍に、 偏将軍に任じられた
もののズッと出番を待っていた、降将【張郤】にも一軍が与え
られた。五星将
が出揃ったの
だ!兵数も更に増強され
その軍容は、まさに天地を怒寄燃すばかりの威容であった。
ーー然し、袁氏側にも後は無い。それこそ全力を糾合し、各地
恩顧の勢力をも呼び寄せ、死に物狂いの戦いを挑んで来るで
あろう。拠って立つ敵の城砦も、歴戦の比では無い。
《ーー敗れる事は無い。》 が然し、《何を以って勝利とすべきか?》
・・・・何とも謂えぬ戦いと成ろう。落城させられるとは限らない。
どれだけのダメージを与えたら 【勝ち】 と観て、一旦退くか・・・・
様々な局面が考えられる。いずれにせよ、難儀な戦さに成る
事だけは必至である。
ーー《曹軍、来襲ス!》の報が飛んだ。
「狼狽えるな!守りは鉄壁じゃ。ここ業卩城は父祖ゆかりの地ぞ!
命を賭して守るのじゃ!後方には黒山衆10余万も控えておるわ!」
「オ〜ッ!!」 と将兵の志気も高い。
「来るなら来い。眼に物見せて呉れるわ!」
ーーところが、ところが・・・であ
る!!
地表が見えぬ程にビッシリと、城を囲んで居た曹操の大軍勢が、
突然クルリと背を向けると、アレアレ 地平の彼方に消え
去って
しまったのである!
「ーーこ、これは、これは何とした事か?」
つ まさ
狐に抓ままれた、とは当に此の事である。・・・・実は昨夜、緊急の
幕僚会議で、重大な決定が為されたのである。それは、司空軍師
祭酒(上級参謀)の【郭嘉】の進言に始まった。郭嘉は曹操に説いた。
『袁尚と袁譚は後継者を巡り、長い間争い、憎
しみ合っております。
二人には【審
配】と【郭
図】が夫れ夫れの謀臣となっており、その間で
必ずや争いが起こり、離れ離れとなるでしょう。 今、我が軍が事を
急いで攻撃すれば、彼等は却って助け合います。攻撃の手を緩め
ますれば、やる事も無く、又争いの心を起こします。ですから此処は
ひとつ、南方・荊州に向かい【劉表】を征伐する様な振りをして、
彼等の変化を待つ方が宜しいでしょう。 変化がはっきりした後に、
彼等を攻撃すれば、一挙に平定できます。』
曹操自身、元々、意識の下に抱いていた考
えであった。
「ウム、尤もじゃな。奴め等の畜生道を待つか!」
そこで急遽、幕僚会議を招集して諮問した処、全員が賛同した。
この【郭嘉奉
孝】と云う男ーー荀或が見つけ出したキラメキ型の
天才で、いま32歳と、曹操幕下では格段に若い。但し、私生活は
破茶目茶で《酒とバクチと女》に乗めり込んでは溺れ、それを
全く隠そうともせず、まして恥じる様子なぞ気振も見せぬ。
一種の『破滅型天才』であった・・・・そう云う男を曹操はこよなく
愛した。己の若き放蕩時代を見る、親の様な温かい眼差で放任して
いる。だから今も、この重大時だと云うのに酒臭い息で言していた。
然し中味は濃い。
曹操は本気で事後を若い彼に託そうとさえ考えている。
「よし、方針は決まった。何時でも北へ転進できる陣立てを工夫し
つつ、南進する!【賈ク】等を「黎陽」に残し、我々は一旦「許」に
帰還する。尚、【張遼】と【楽進】は陰安を陥とし、住民を全て、
黄河の南へ移住させた後、帰還せよ。」
ーー6月、曹操本軍は「許」に帰還した。
帰り着くや曹操は、将兵達の気を引き締める様な、布令を発した。
『功ある者に賞を与えるのは当然であるが、戦いに敗れた者は罪に
該当させる!』《儂は、ただ無闇に褒めるだけの君主では無いぞ!》
と、喝を入れたのである。
ーー7月、
《学制》(学令)を発布する。
一種の「公教育の導入」政策である。既存する官営の『太学』とは
別系統の、もっと庶民レベルな、いわゆる『学校』の設置を企図した
ものである。・・・・残念ながら詳しい記録は遺っていないが、正史に
2、3カ所、この時に創られた 『学校』 と云う文言が、のちに見受け
られるから、決してお座なりの、一時的な思い付きでは無かった様だ。
無論その内容は高度なものでは無く、主として礼節・忠節の類に
焦点を置いた、権力者お得意の〔徳育教育〕であったろう。
『
動乱以来15年間、若者達は仁義礼譲の気風に接していない。
予はそれを甚だ痛ましく思う。よって、郡国に命じ、夫れ夫れに
学問を修めしめよ。500戸以上の県には「校官」を置き、その
郷の俊才を選抜して教育を施せ。
願わくは先主の道が廃れずに、天下に利益あらん事を。』
ーー約二千年も前の話である・・・!!
さて、一方の【袁
尚】と【袁
譚】の袁一族・・・・・
思いも寄らず、曹操軍が眼の前で踵を返した時、実はもう、その
瞬間から仲違いが始まったのである・・・・暫し茫然としていた業卩
城内に在って、兄の【袁譚】が「追撃じゃ!追撃するんじゃ!」と、
息巻き始めたのである。
「見ろ!奴等はトボトボ帰ってゆくではないか!一旦帰途についた
兵達は、望郷の念に狩られて志気など皆無に成る。今こそ敵を撃
滅する絶好の機会ぞ!ええい、何をしておる!」
後継者レースで、弟に水を空けられた袁譚は、ここで武功を挙げて
立場を逆転させようと焦っている。
「ええい、儂の手勢だけでは足りぬわ。袁尚、直ぐ兵を貸せ!
儂に兵を出させろ!」
「兄者、何をカリカリしているのだ。今は兵も民も疲れ切り、弱って
おり申す。少しは、兵や民の事を思い遣りなされよ!」
「くそ、臆病者め等が!」 袁譚は、地団太踏んで悔しがった。
《俺が兵馬の権さえ持っていれば、
この好機を逸する事も無かったろうに・・・・!》
しんはい
「ーーあれは【審配】の指金ですぞ!」
かくと ささや
袁譚の怒りに油を注ぐ様な事を【郭図】が囁く。 総帥であった父・
袁紹が没すると同時に噴き出した、跡目争いの確執は、袁家の
家臣団をも真っ二つに引き裂いていたのである。こうなればもう、
両派とも憎しみだけの対立となり、感情だけで物事を決しようとする。
ーーそして、ついに・・・・
【袁譚】が【袁尚】を襲った!!
城の外、館陶の地で激戦となり、一時は袁尚が窮地に陥るが、
逆転して、襲った側の袁譚の方が北方の『南皮』へ逃げ込んだ。
すると、その結末を待っていたかの様に、青州(袁譚の領地だった)で
様子見をして居た諸将達が、次々と袁尚側に寝返った (旗幟を
鮮明にした)のである。それを見逃す袁尚では無い。ここぞとばかり
兄を攻め立てた。堪らず袁譚は、今度は南の『平原』に逃げ込んだ。
北へ南へと、一族の領内を逃げ廻った訳である。
・・・・そしてとうとう袁尚は、兄の袁譚を『平原城内』に追い詰め、
ついには大軍を以って、兄を完全に包囲してしまったのである!
ーー【袁譚】、絶体絶命の大ピンチ・・・・!!
8月ーー曹操軍は、荊州(劉表)
を討つと云う旗幟を掲げて
南征の途に就き、ゆるりと進んで『西平』と云う町に駐留して居た。
其処へ【袁譚】からの使者が来た。
「ーーズバリ、読み通りでしたな!」 荀ケがニヤリと笑った。
「いやはや、まさか此処までするとは・・・!」
提案者の郭嘉自身がビックリする様な、想わぬ展開に成ってきた
のであった。ーー使者の名は【辛ピ】と言った。曹操が以前から
招聘し続けていた名士であった。(※ピは田へんに比の字)
その持参した書状には、くどくどと、弟・袁尚への恨み辛みが書き
立てられていた。 が、要は・・・・
『私と貴方が手を結び、一緒に袁尚を討ち亡ぼ
し
て戴きたい!』 と云うものであった。
何と、絶体絶命の窮地に追い込まれた【袁譚】が、半ば暴自棄・
破れかぶれとも謂える嘆願書を、彼の腹心に持たせたのである。
兄弟が骨肉の争いをする事自体、儒教社会では忌まれる事なのに、
あるまい事か、〔仇敵と手を組んで弟を殺そう〕と言うのであった!
ーー然し、
曹操陣営は、却って迷った。余りと言えば余りである。
《・・・・謀略か・・・・??》と、誰しもが疑った。
もろて
曹操も最初は両手を挙げて大喜びし、直ちに同盟の意志を示した。
・・・・だが、数日すると気が変わって、もう少し袁譚と袁尚を勝手に戦わせて疲弊させて置く方が得策だとも考える様になった。
《ーー100パーセント信じて良いものか・・・・??》
しんぴ
そんな不信感の蔓延を、使者の辛ピは直ぐに察した。そこで彼は、
次の宴会の時、隣りの席に着いた郭嘉に、その事を語った。
郭嘉が曹操に取り次ぐと、曹操は辛ピに向かって言った。
えんた
ん
「袁譚は信頼できるか。それに今、袁譚を包囲している袁尚は、
この儘だと必ず勝つと決まっているのか、どうなんじゃ?」
前々から
曹操の招聘を受けていた辛ピは、もう二度と再び袁譚の
元に返る心算りは無い。気持は既に、すっかり曹操の臣下に成り
きっている。だから、その答えも、曹操の参謀としての立場からの
ものであり、自分の忠誠心と才能とを売り込む為にも
必死の長広舌となった。
「明公には信義と詐術について質問されずに、ただ其の
情勢のみを論ずるべきでありましょう。袁氏はもともと兄弟が攻撃
し合っておりますが、他人がその間に介在できると思っている訳
ではありません。天下は自分によって平定されるべきであると思っ
ているのです。今になって急に明公に救援を求めた事から、その
事は理解できましょ
う。又、顕甫(袁尚)が顕思(袁譚)の苦しんで
いるのを見ながら、一気に城を抜けないのは、それこそ力が尽き
果てているからです。軍隊は外において敗れ、謀臣は内において
殺され、兄弟が悪口を言って鬩ぎ
合い、国は分裂して2つに成って
おりまする。連年戦闘に明け暮れて、鎧兜には
虱が湧きそれに
加えて旱魃と蝗の害が有って、飢饉が一斉に襲い掛かり、国
には
穀物蔵も無く、行軍には携帯食糧も有りません。
上に在っては天が災害を下し、下に在っては人間の行うべき事柄が
行き詰
まり、人民は愚者と智者の別無く、皆、土の壊れる如く崩れ、
瓦の砕ける如く
砕け散る運命を知っております。是こそ天が袁尚を
亡ぼす時期です。兵法では石の城と熱湯の池が巡り、鎧武者百万
を擁しても穀物が無い場合には守る事が出来ないと申しております。
との
今、明公が業卩城攻撃に出向いた場合、袁尚は平原城の包囲を
解いて、救助に引
き返さねば、自領を保持する事が出来ず、救助に
引き返せば、袁譚が其の背後を追
う事になります。
明公の御威光を以って、困窮している敵に対応し、疲弊している
賊を攻撃
するのは、疾風が秋の葉を振るい落とすのと変わり無い
でありましょう。天が袁尚を明公に与えているのに、明公には受け
取らずに荊州を討伐されようとされています。荊州は、物は豊かで
人は楽しんでおり、国には未だ隙が御座いません。
春秋左氏伝に
『乱れた国を取り、亡びかけている国を侮辱する』 と云う言葉が
御座います。現在、両方の袁氏は共に将来の計画に努めず内部で
互いに攻め合っており、乱れていると言ってよいでしょう。家に居る
者は食が無く外に出掛けた者は糧が無く、亡びかけていると言って
よいでしょう。
朝に夕べの事を考えられず、民の命の綱が断ち切れていると云う
のに、彼等
を落ち着かせる手も打たず、次の年を待つ心算りで居り
ます。次の年になって或いは実りが有りその上、自から亡びかけて
いる事に気付き、心を入れ替えて其
の徳を修めたとしますと、兵を
用うべき必要な条件を失う事になりましょう。今その救援の要請を
利用して彼を労りますれば、利益は莫大であります。
それに四方からの侵略は、華北(袁氏)が最大です。
華北が平定され
れば、六軍(天子の軍)は盛んになり、天下は震え慄のきましょ
う。」
この辛ピの、必死の
熱弁を聴いた曹操、「なるほどナア〜」と頷いた。
だが・・・・未だ決断の踏ん切りが着かない。
会議は珍しく揉めた。話が出来過ぎてしまい、気味が悪い。躊躇い
が、まとわり着く・・・と、その時【軍師】の荀攸がモソリと立った。
『ーー
そもそも思いまするに・・・・』
猫背のショボくれた小男が、鼻を咬みながら、こう置きすると、
〈来たな!〉 と、曹操も耳を澄ます。
『天下に騒動
が起こっていますのに、荊州の【劉表】は長江・漢水を
保持するだけで動こうとはしません。彼が周囲に対して野心を持た
ぬ事は察知できましょう。』
確かにどの情報を総合してみても、領土的野心家ではないらしい。
〔州牧の枠〕を踏み越えようとしない。
『袁氏一族は4つの州を根城として武装兵10万を擁し、亡き袁紹は
寛大さと厚情によって、人々の気持を把握しておりました。万一2人
の息子が和睦して、父の成し遂げた事業を守るならば天下の兵難
は、未だ未だ終息しないでありましょう。今、兄弟は互いを憎み合っ
ております。これは、どちらかが倒れる形勢です。もし、どちらかが
一方を併呑する様な事があれば、その力は1つに纏ります。1つに
纏まれば、手を下す事は難しいでしょう。彼等の混乱に乗じてその
地を取れば天下は平定されます。この機会を逃してはなりませぬ!』
《劉
表》の人物など、曹操は初めから相手にもして
いない。それに
何うやら、近頃は健康上にも重大なトラブルを抱え込んでいるらしい。
《恐れるとすれば、それは【劉備】の方だ!》・・・・と観ている。
【劉備】と云う
男は、フラフラと群雄間を渡り歩き、今も天下を大放浪
しては居るが、その分したたかである。いっ時、曹操の処にも転がり
込んで来たが、結局うまうま飛び出していった。
《ーー人の下に就くタマでは無いな・・・・》
現在は劉表を頼り、荊州内で人望を得ているらし
い。 だが劉表を
出し抜いて、兵馬の権を完全に掌握するには、未だ数年は掛かる
だろう。第一、ろくなブレーン・まともな参謀が一人も居無い。
【関羽】【張飛】のアクが強過ぎて、誰も居つかない様だ。だから、
南は安心だとしてよい。ーーこれは大軍師(荀攸)のお墨付きだ。
「よし!反転し
て、
袁尚(業城)を討つ!」
断が下った。するや曹操軍の南からの反転はスムーズに為された。
それもその筈、元々その段取りで陣立てして措いたのだから当たり
前ではあった。(曹操軍が駐屯して居た西平は未だ自国領内の国境都市に過ぎない)
ーー実は・・・袁譚に、其のブッ飛んだ奇策を進言したのは、郭図で
あった(と『英雄記』は言う)。 逃げ込んだ「平原城」を袁尚に包囲された
袁譚にむかって「郭図」は進言した。
「今、将軍には国は小さく兵は少なく、糧は乏しく勢いは弱く、顕甫
(袁尚)が来攻して長引けば敵対できません。
愚見では、曹公を呼んで来て、顕甫を攻撃
させるのが善かろうと
存じます。 曹公は到着すれば、必ず先に業卩を攻撃し、顕甫は
救援に引き返すでしょう。将軍(袁譚)には兵を率いて西に向われ
れば、業卩より以北を全て獲得できましょう。もし顕甫の軍が敗れ
れば、その兵は逃亡しますから、亦それらを収容して曹公に抵抗
する事が可能です。 曹公は遠方の地から来て、兵糧は続かず、
必ずや自分から逃げ去ります。かかる事態が来れば、趙国以北は
全て我が国の所有と成り、また曹公と敵対するに充分ですな。
さもなければ、上手くゆきませぬぞ!」
「・・・!!然しなあ・・・曹操は我が
袁一族の怨敵だぞ。儂としては
仇敵に其処まではしたく無い・・・」
袁譚は流石に最初は受け容れ無かった。悩み抜いたがーー
綺麗事を言っていて、自分が殺されてしまったのでは、元も子も
無くなってしまう・・・・
《一時的な方便としてなら、郭図の策も許されよう。》
結局、外に手だても見つからず、袁譚は其の郭図の説に従った。
「誰を使いに遣ればよかろう?」 「辛佐治がよろしい。」
しんぴ
かくて袁譚は、辛ピを曹操の元に派遣したのであった。
「あの馬
鹿!!
袁一族の魂ま
で売りおったか!!」
《曹軍反転、北上ス!!》・・・・との報が届くや、【袁尚】は素速く
平原城(袁譚)の包囲を解き、曹操との決戦に備えるべく、本拠地
業卩
城に取って返す。
「ワハハハ、ざま〜見ろ!何だ、その狼狽え振りは!」
一方の【袁
譚】は、《してやったり!》とばかり、腹を抱えて大笑い。
一息も二息もつける。いや、憎っくき弟・跡目争いのライバルを、
これで確実に屠れる・・・・!!
曹操軍が「西平」を発ち、賈クらが守る《黎陽城》に着いたのは、
その年(203年)初冬10月の事である。
曹操は念の為、息子の曹整(幼児)と袁譚の童女との間の縁組み
を承諾してみせた。・・・・*【裴松之】
先生は、父親(袁紹)の喪が
明けぬ2年以内の結婚は道義に外れている!と怒っていらっしゃる
が、今はソンナ事言ッテル場合ジャ無イでしょに!
黎陽での作戦会議で【業城への進撃開始は新年早々!!】 との
決定をみた頃、新たな投降者が出頭して来た。
袁尚の配下であった東平の呂曠と呂翔とが、陽平城の軍勢ごと
降って来たのである。 主たちの余りの浅ましさに嫌気が差し、
見限ったのだ。曹操にしてみれば、結構な事だ。大喜びして見せ、
さっそく”列侯”に封じた。
《何事も、最初が肝腎じゃ・・・》 その優遇措置を知り、この後に
投降者が増えれば、それに越した事は無い。処がこの二人、モソ
モソと、妙な物を届け出たのである。それは袁譚の『
将軍の印綬』
であった。どうも手当たり次第に配りまくっているらしい。
【・・・・君達は、
もともと儂の配下武将であり、曹操は飽くまで仮の
同盟者である。ゆめゆめ、そこの処は間違わぬ様に!念の為では
あるが、我が陣営勝利の暁には、必ず大きな恩賞を与えると云う
保証として、貴君には先に【将軍】の地位を保証して措く事としよう。
・・・・呉々も儂の為に奮励努力して欲しい!】
密かに、自軍の勢力確保を画策しているらしい。その証拠品が出て
来たのである。 然し曹操は、そんな些細な事は知らぱっ呉れて、
涼しい顔をした儘であった。今更、分かり切っている事である。何も
事を荒立てる必要は無い。
ーー年明けて、翌204
年(建安九
年)1月・・・・
凍てつく大地を踏みしめて、先遣の工兵部隊が黄河を押し渡った。
糧道確保の為に先ず、黄河から北へ向け、長大な【運河】を開設
するのである。当時は、黄河の北に平行して『淇水』が流れていた。
つな
その「黄河〜淇水」間を斜めの角度で繋ぐ、大運河を掘り抜いて
しまおうとする、ビッグ・プロジェクトであった。完成すれば、黄河
南岸の曹操領内から、船舶に依って、大量の糧秣を、敵(業城)の
眼の前まで、確実に搬送できる。
ーー畢竟、《戦いは
食に在る!》
はっきり言って、多くの兵が集まるのも 『食えるから』 である。
食えなくなれば、兵卒の類は平気で去るものとされていた。兵卒は
基本的に、貧しい農民階層なのだ。「兵隊にでも成るか?」「兵隊
で
しか食えない」からと言って募兵徴兵に応じる者達が殆んどであった。
それにつけても、50万人分の胃袋を満たし続けるのは、容易な事
では無い。想像するだけでも、ため息が出る・・・・
1人当たりオニギリ2個と仮定しても100万
個!
それを1日2回
とすれば200万
個・・・・
10日でさえ2000万個・・・・2ヶ月でも1億2千万
個?
人間ばかりでは無い。武器(特に消耗品である弩弓の矢玉)の
補充や、馬や牛のエサだとてバカには成らない。
《糧道の確保!!》・・・・既に其処から、戦いは始まっているのだ。
華々しい戦闘だけが戦いでは無いのだ。
この年、黄河は氷結せず、渡河はスムースにいった。
(なまじの氷結だと却って危険な為、砕氷作業に難渋させられる。)
とは謂うものの、延々50キロ以上にも及ぶ大工事である。完成迄に
丸々1ヶ月を要した。周辺の農民も徴用して、軍民一体の突貫工事
と成った。当時の事とて人海戦術である。延べ人数だと百万に近い。
(*当時は人間そのものが消費者で在ると同時に、唯一の貴重な
【生産手段】でも在った。農業は無論の事、機織り・鍛冶・工芸に至る
迄全て人
力以外に無かった。だから戦勝すれば数万単位の男女を
捕虜として追い立て、ゾロゾロと連れ歩く光景も稀では無かった。)
ちなみに当時、土を掘り返す鍬は、全て木製であったが、曹操軍
だけは財を惜しまず、鉄製品を大量に保有していたと想われる。
些細な事の様だが、能率が10倍は違う。平時は農耕の生産性を、
飛躍的に高める。目先の武器だけに限らず、そんな斬新なアイデア
を採り上げ実行してしまう・・・・こんな処にも曹操の凄味が在る。
ーー2月・・・・運河の完成を待って、
いよいよ曹操本軍の進撃が、北へ向けて開始された。
その報に刺激された業城の【袁尚】は、自ら軍を率いると北へ出撃。
北東200キロに位置する【袁譚】の居城 『平原城』 を衝いた。
業卩城の守将には、最も信頼している【蘇由】と【審配】とを残して
曹操軍に備えさせた。
だが、この袁尚の戦術は上策とは言い難い。何故なら、手薄に
成ったと判るや曹操は、その全力を〔業卩城〕に集中して来るのは
自明の事であったからである。だが袁尚は其れを承知で、敢えて
出撃したのだった。彼には彼なりの成算があったのだ。
そのキイポイントはーー業城の西方に居る《黒山衆10万》の動向
に在った! 『胡騎』 と呼ばれる騎兵の突撃を得意としており、
そのド肝を抜く機動戦力は”天下最強”とされ、世に轟いていた。
《自分が一時〔業卩城〕を空けても、黒山軍が来援して呉れれば
何とか成る。俺が黒山衆と合流して、一緒に攻め帰れば、その
騎馬軍団の力で、歩兵中心の曹操軍を撃退できよう・・・!!》
【黒山衆】ーー異民族である。一般に謂う『匈奴』である。
匈奴と云うと、我々は遙か彼方のモンゴル草原を想起する。そして
袁尚が向かおうとしているのも、まさにその匈奴なのである。無論
モンゴル迄ゆく訳では無い。ーーこの時代・・・・戦乱に明け暮れる
『中原盆地』の至る所には、「過疎地帯」・「無人地帯」が出現して
しまっていたのである。その見捨てられた無人地帯に、北方から
異民族が大挙入植(侵入)を果たしていたのである。
彼等が其の地に住み着いてから既に久しい。最初の頃『黒山』と
(業の南西約200キロ)云う地を根城にしていたので、そう呼ばれている。
彼等・匈奴は、かなり前に南北の大集団に分裂し、いま『平陽』
(司州の山間部)の辺りに在るのは【南匈
奴】である。
彼等は17年前、霊帝の時に帰化・帰順を認められ、 (実際は、
漢王室に異民族を駆逐するだけの力が既に無かった為、仕方なく
宥和政策を採ったのだが)、それ迄は『黒山賊』
であったものが、
今では立派に?、”諸侯”と並列視されている。
因みに彼等は、自分達の王を『単宇』と呼んでいた。亡き袁紹が
懐柔策の為に、勝手に付けた呼び名である。 この時の単宇は
【張
燕】と云う、歴っきとした中国名を名乗っていた。その張燕・・・・
迷い、そして動揺していた。
《ーーどっちに付くか・・・!?》である。
南匈奴族(黒山)最大の正念場・危機を迎えたと言ってよい。
選択をひとつ間違えれば、民族の破滅に繋がる。此処・平陽の
地は、長く袁家(袁紹)の支配下に置かれていた。特に改めて
《主従関係》を結んだ覚えは無いが、勢い、そう見做されて来て
いた。放って置けば当然、曹操にもそう視られる。
確かに多少の借りは有る。袁紹存命中には、食料援助を何度か
受けた事がある。余りにも人口増加率が急で (北部からの入植
者が依然続いていた)、山岳の多い盆地では食糧自給が追っ付か
無く成って来ていたのである。
《余剰人口のうち、その半分位は、兵士として”高値で”放出して
トントンかな・・・?》 とさえ思う、近頃の単宇・張燕であった。
その取引相手はーー袁尚か、はたまた曹操か・・・??
部外者(異民族)で在るだけに、よりシビアに、抜け目なく、将来を
見通してゆかねばならない。
《手遅れに成らず、然も一番高く売り込むには・・・・
今の、此の機会を見逃す手は無かろうな!》
ーーそんな相手の事情を斟酌する余裕も無い儘にーー
弟の【袁尚】
は、己からの支援要請が届けば、直ちに、その南匈奴
【黒山衆】の来援が有るものとして、本拠地の〔業卩城〕から出撃し、
〔平原城〕に籠る兄・【袁譚】を包囲したのであった。
一方【曹操】は、業卩城が手薄と成り、然も主将たる袁尚が不在
と知るや、その主力全軍を、真っしぐらに業卩城へと急発進させた。
途中、「カ
水」まで進むと、ニヤリとする様な朗報が入って来た。
袁尚が己の右腕と頼みにし、業城の守備を任せていた【蘇由】が、
何と軍勢ごと降伏して来たのである!
ーー実はこの【蘇由】・・・・曹操からの密かな謀略に乗り、城内から
”内応する”手筈に
していたのだった・・・。が、もう一人の守将である
【審
配】に見破られ、業卩城内で市街戦と成って破れ、曹操の元へ
逃げ込んで来たのだった。 この存亡を賭けた、浮沈の瀬戸際に
来ての、致命的な重臣の離反であった。
・・・・それにしても、袁兄弟の人望の無さこそ哀れである。
これで『業卩城』の守備能力は、更に半減した。だが、袁氏の家臣
にも、節義を重んずる烈士は居た。主君不在の拠城を唯一人守る
事となったのは、別駕(副官・相談役)の【審配】である。
《ーー審配こそは、真に頼むに足る人物だ・・・!!》
〔蘇由叛逆!〕の報に接した袁尚は、そう何度も己に言い聞かせた。
《黒山衆よ、早く動いて呉れ!多年の恩義に応えるのは今だぞ!!》
出撃はして来たものの、独力では業卩城に帰還する事も出来無く
成った袁尚に、生き残る途は唯一つ。この平原城を一刻も早く陥して
袁譚を殺し、その城兵 (元々一族恩顧の将兵) を再結集させ、
〔業卩への再入城〕を果たすしかない。
ーー弟と兄が、自分だけの生き残りを賭けて、
今まさに、本気で殺し合いを始めようとしている。
骨肉相喰む【畜生道の世界】である・・・・・
ついに【袁尚】は、平原城の完全包囲体勢に
入った。だが・・・・
心、此処に有らず・・・・己の、いや一族の本拠地である「業卩」
の
事が気になって気になって堪らない。城内の守備兵力が少ない
上に、この儘だと守将・【審配】との連絡さえ途切れた状態となり、
内外呼応しての再入城も不可能になる。そこへ、
『曹操ハ全テノ軍ヲ以ッテ、業城ヲ完全包囲ス!』 との早馬が
やって来た。こう成るともう、此処を退き払い、引き返して業卩を
助ける事の方に心は傾く。取り敢えず使者を城内へ送り込み、
『間もなく戻るから頑張れ!』、と 此方の様子を知らせてやりたい。
又その折の手筈・合図なども、綿密に打ち合わせて措く必要がある。
そこで袁尚は、その使者には誰が適任であるかを、主簿(参謀)の
【李
孚】に相談した。
「今、つまらぬ者を行かせれば、恐らく内外の事情を知らせる事が
出来ぬ上、到達する事さえ不可能でしょう。私が参ります。」
「おお、そうして呉れるか!何が必要か言って呉れ。」
「聞けば、業卩の包囲は非常に堅固です。人数が多ければ
気付かれます。ただ3騎を連れていけば充分と考えます。」
李孚は、穏やかで信頼の置ける3人を自分で選ぶと、目的地を
知らせぬ儘、3人に命じて携帯食料だけを用意させ、武器は身に
帯びてはならぬ と言い渡す。そして各人に、駿馬を支給した。
「では行って参ります。」「うん呉々も頼んだぞ!必ずや役目を果たし
無事帰って来て呉れよ・・・!!」
50万の大軍にビツシリ包囲されている業卩城内に入り込み、そして
再び脱出して来なくてはなせないのだ・・・・
《成功の見込みは殆ど有り得無い・・・》 と観るのが普通である。
判っているのに、部下を死地へと送り出す辛さに、袁尚は一瞬、
涙ぐんでしまった。 「心配御無用、必ず帰って参りますから。」
李孚・当人は至って楽天的に言い置くと、飄然として出立していった。
そして200キロを走破して、「梁淇」まで来た時、李孚は従者達に
【問事の杖】 30本を作らせた。それを10本ずつ各自の馬腹に
繋がせると、自分は【平上サク】(巾へんに責の字)を身に着けた。
※
《問事の杖》と
は・・・皇帝直属の巡検視の先払いをする役人が、
その杖を地面に突き立てては、巡検視の通過を予告する為の杖。
その杖の周囲は聖域と見做され、将軍は勿論、三公九卿と雖ども
道を空けなければならない、と云うモノであった。又《平上サク》とは
巡検視が頭に着ける、上が平らな頭巾(帽子)である。
り ふ
李孚は此処で初めて3人に、その役割と目的を明らかにしたが、
流石に李孚が選んだ3人だけに全て先刻承知していた様であった。
夜を待った4人は、放牧者達の一団に紛れ込み、うまうまと業卩城
の近くまで到達した。やがて明るくなって観てみると、案の定、
〔業卩城〕の四方八方は蟻の這い出る隙間も無い程に、ビッシリと
完全包囲されていた。
「ーー・・・・!!」
3人の従者は思わず、互いの顔を見合わせてしまった。
暫くして、時を告げる太鼓(以鼓一中)が一度鳴り響くや、身なりを
整えた李
孚は、俄に豹変した!
「余は、新たに任じられた『都督』である!」
と称するや3人を先払いさせつつ、
何と、敵軍50万の真っ只中に繰り出して行ったのである・・・!!
先ずは、北の包囲陣内を悠然と通る。
「コラ、貴様!武器はどうした!なぜ常に携帯しておらぬ。
タルンでおるぞ!」 と、馬上から炊事兵の一人を怒鳴りつける。
「鞭打ち3回に処す。ケツを出せ!」 とブチはたいて行く。やれ、
軍服が肌けているだの、槍に泥が着いているだの、軍旗が巻き付
いているだの一歩ごとに将兵を叱責しては、即座にその咎の軽重
を指摘し、罰を執行してゆく。その姿や態度が余りに堂々としている
ので、まさか其れが〔ニセ者〕だとは誰も思わず、皆、直立不動で最
敬礼しては道を空ける。下士官や将校にも容赦は無かった。
「ウムこの部隊は、中々気合が入っとる。今後も気を抜くでないぞ!」
「おい、出迎えが遅いではないか!本官をナメておるのか!?」
貫禄充分、涼しい顔で伸し歩いてゆく。そして立てて在る道路標識
(大軍故の雑踏の為に、混乱を避ける措置として、各部隊に一方通行を励行させていた)に
沿って東に向かい、東の包囲陣の標識を通ると又、城壁に沿って
南へと向かう。 こうなると3人の従者も益々演技に自信を持ち、
「都督様のお見廻りじゃ〜!!」 と呼ばわっては問事の杖を地面に
突き立て、〔露払い〕していく。
その様子は何処から観ても、朝廷から派遣された巡検視の一行が、
全軍に気合を入れ廻っているとしか見え無かった。
業卩城の北から
始まり東へ、更
に南へと進
むその間も、ひっきり
なしに事の大小を怒鳴りつけていく。・・・・やがて曹操の本陣前をも
悠々と通り、その角を折れて西へと進んだ。曹操の帷幕はそんな事
とは露知らず、特に変わった様子も無かった。
50万の軍兵で埋め尽くされた業卩城をグルリと一周して、西の
包囲陣まで来ると、其処に『章門』が在った。此処でも亦、包囲の
兵を怒鳴りつけ、その者を捕縛させた。
次にはやおら、この門担当の部隊長を呼びつける。
「本官はこれから、城側と秘密交渉するよう命じられておる。
交渉の邪魔にならぬよう、兵どもを門から遠ざけよ!」
更に耳元で、小声に囁いてみせる。
「もし兵供の中で、交渉の中味に聞き耳を立てる様な奴が居たら、
そいつは間者じゃ。直ちに斬り殺せ! そしてな・・・・もし、兵達が
余計な動きをして交渉が決裂したらーー
それは、貴様の責任だと思え。よいか!」
「ハハッ!畏まりました!」
恐れ入った将校は、触らぬ神に祟り無しとばかり、思い〜っ切り、
部隊を後方に退がらせる。充分に”敵”が退がり、城内との遣り
取りが聞こえぬと観た李孚は、城壁の下まで馬を走らせると、見張
の者に呼び掛けた。 するとその物見兵達は一旦姿をけしたが、
今度は手に手に長縄を持って再び現れた。
「ーー?ーー??」
何事が始まるんだと注目の中、あれよ、あれよ・・・・4人は一斉に、
城内に引き上げられてしまったではないか。
《ーーん・・・んん・・・??》 包囲の軍は半信半疑、これも秘密交渉
の一部なのかと、ただ見守っているばかり・・・・ーーと、城内から、
派手に鐘太鼓が打ち鳴らされ、ドッ歓声やら万歳の声が沸き起こり、
城壁上に並んだ敵兵達が、こっちを指さし囃し立てて来た。
「バーカ、間抜け〜、脳足り〜ん!!」
「・・・や、まんまと一杯喰わされたか!?」
気が付いた時は後の祭り・・・・地団太踏んで悔しがっても、もう
追っ付か無かった。この快挙に
【審配】も大喜びし、城内の志気は
大意に盛り上がった。
・・・・片や、この”椿事”を知らされた曹操・・・・怒るどころか腹を
抱えて笑い転げ、手足を叩き、涙まで出して面白がった。
「ウァワッハハハハ、曹軍50万、み〜んな騙されたか!!
いや〜、大した役者よのう!イ〜ヒヒヒヒ〜・・・・!!」
周囲は一緒になって笑う訳にもゆかず、何う反応してよいやら
困惑する中、尚も独りウケまくる曹操は、更に言ってみせた。
「こいつはただ入っただけではないぞ。まあ見ておれ。
今にまた何とか出て来るぞ!」
余裕と絶対の自信が、曹操を底抜けの洒脱家へと誘っていた。
そうで無くとも、元々、曹操はこうした茶目っ気が大好きであった。
たとえ、今が負け戦の真っ最中であったとしても、恐らく曹操は、
同じ様に吹き出した事で在ろう。
−−この男には、如何なる時でも、そうした心のゆとり・幅を生む
〔可笑しさ・洒落っ気〕があった・・・・
ーーさて、李孚は用事が済んだので、帰る事にした。
彼の使命は、城に入る事ではなく、飽くまで、再び袁尚の元へ
戻って告する事である。・・・だが出る事は、入る時より数段難しい。
同じ手は使え無いし、大恥掻かされた敵は、警戒の眼を何倍
にも強めているであろう。そこで李孚は【審配】に持ち掛けた。
「いま城内は穀物少なく、老人や子供の為に使うのは無駄と云う
ものです。この際は追い出して、穀物の使用を節約するに限ります」
兵糧不足は、審配にとっても深刻な問題であった。だから審配は、
得たりとばかりに、その計略を採用した。
・・・・夜を待って、一般市民数千人を選び出し、全員に白旗を持た
せると、同時に3つの城門から一斉に出して、降伏させた。この時、
一人一人に火を持たせた。李孚は一緒に来た従者3人と共に、
老人に化け、降伏者用の服に着替えると、皆の後に付いて、夜の
裡に城外へ出た。
包囲の将兵は、民間人1万人が降伏すると聞かされていた上に、
火焔が照り輝いて乱反射していたので、その光景に思わず気を
取られ、注意力が散漫になってしまった。・・・・李孚は狙い通り北門
から出ると、そのまま西北の隅から包囲を潜り抜け、まんまと
再度の敵中突破に成功してみせたのであった・・・・
ーー翌朝、李孚が既に脱出し去ったと聞いた曹操は、手を打って
笑いながら言った。 「どうだ、やはり儂の言う通りじゃったな!」
李孚は無事袁尚に会うと、袁尚は驚くと同時に、大喜びして感歎した。
ーー『魏略』・列伝ーー
・・・・もし、このエピソードが無かったならば、袁氏滅亡の経緯は、
余りにも重暗く、限り無く陰鬱なトーンの儘に、破局を迎えるだけの
ものに成り涯てていたであろう。
この【李孚・子
憲】(元の姓は馮)の痛快な話はーー
その後に起きる凄惨な状況を想う時、
《天》がせめてもの〔清涼剤〕として、人々に与えた
《史
劇の隠し
味》であったのかも知れない・・・・
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