【第260節】
ファースト・ファンタジー
人類史上で初めて龍ドラゴンを生み出したのはB・C5千年前の「古代中国人」であった。地球上の他の地域4大文明には 龍と云うアイデアは生まれていない。そしてやがて龍の伝説は地球上の各地へと伝えられ、広まっていったのである。
のちに”三国時代”と呼ばれる様になる 最初の帝国・【魏王朝】の出現は、譲る側も 受け取る側も、両者共に納得づくの、いわゆる《易姓革命の論理》 に従って、 話し合いだけの遣り取りで 事が成就した実に珍しいケースである。この〔完璧な禅譲劇〕は(伝説を除けば中国 5千年の歴史上でも初の、いや其の完璧さから謂えば殆んど唯一の、最初にして最後の、無血禅譲劇で在る。
(まあ、それだけ 曹操の隠忍慎重さが如何に完全なものだったかが証明される訳だ。)
さて此の稀有な史実に遭遇する事となった我々=「時の旅人」は誠にラッキーな「史劇の目撃証人」と成れる千載一遇のチャンスを得た!・・・と云う風に思わねばなるまい。何せ三国志以外では絶対に観られない”禅譲”と云うものの一切合財と 其の進行の一部始終を、独り占めで 検証し まくれる のである。正に宝の山・金の鉱脈にブチ当ったに等しいのだ。何故なら、この遣り取りの中には、人類の永遠のテーマとも謂うべき《権力とは何ぞや!?》と云う重要問題についての手掛かりが、その原初原形の姿で、我々の前に次々と立ち現われて来るからである。と同時に我々の祖先たる古代の人々が、当時抱いて居た「在るべき権力者像」や「権力者の条件」として何を求めて居たのか??更には其の一方で・・・・支配階級とは如何に好い加減なコケオドシや言い包め(予言書・想像上の動物の出現など)を平然と持ち出しては押し通すものなのか!などなど・・・改めて《権力の実態と舞台裏》について識る事が出来るからである。
即ち三国志世界に生きて居た人々が当時 最も重要視して居た 倫理観や、その根底を成して居た 思想の中味とは 一体どんなモノで在ったのか!?ーーその答えとして自ずから、当時最高の思想倫理の粋を集めた遣り取りが、この【皇帝即位と云う史劇】場面に集中して現われて来る訳なのである!
とかく我々ミ〜ハ〜族は、こうした 史料的なテキストに対峙する事を面倒臭がりがちに為る
ものなのだが、実は 此うした 地味な記述の中にこそ、わくわくゾクゾクする様な
貴重な宝玉の原石が 隠されて居るのだ!! その不思議な古代中国人の世界観を、敢えて若者向け風に謂うならば、それは・・・・ドラゴン(龍)出現に代表される空想上の物語、即ち、幻想的大叙事詩の起源・・・・
ファースト・ファンタジーの世界なのでもある!! 現代世界では在り得ない奇跡が、龍や鳳凰・麒麟・白虎・ペガサス(龍馬)etc.の出現を通じて、天上の神々と地上の人間世界の交流・現実に起った歴史事実として、その神秘現象を公式に記録し、国家を挙げて後世に伝えた証言記録集なのでもある。現代、1つの潮流を成している 「ファンタジー」誕生の秘密、その原典・起源と観ても宜しかろう。
ーーいずれにせよ、可也のテキスト量では有る。 だから・・・・
途中を ”飛ばし読み” されても一向に構わない。殊に頻繁に出て来る「故事」や「古人」の列挙に遭遇しては、もう断然この方法が最適であろう。暮れ暮れも、内容を覚えようとか、理解しようなぞとは思わず、ただ面白そうな箇所だけを”摘み喰い”する気持で臨まれるのが一番!いっそ、この節を丸ごと無視して一気に『第2部あとがき』へと云う手も無い訳では無い(スクロールの最後)。そんな中、必読の箇所には 黄色で推奨マーク(・★)を施してある。・・・・でもヤッパシ長過ぎる・・・ので→飽きない様に、前半と後半の2つ(2節)に分割紹介(掲載)する事にしてある。何処で分割してあるかは ナ・イ・ショ!?← 勝手にウケてろ!(怒) 〜〜で・・・、
以下は全て裴松之の『正史補註』に拠る。『正史』には非ず。
中味はー→帝位の譲り受けを固辞し続ける魏王・曹丕を、漢帝を筆頭に全家臣団が入れ替わり立ち代りに アレやコレやの論理で
”説得”し続け、終に根負けした?曹丕は応諾して皇帝に即位!此処に漢王朝は終焉し魏王朝が開闢する!と云うシュチュエーションである。様々な占いや胡乱な予言書・空想上の生き物・瑞兆の出現などなど、結構面白い。時期は曹操が崩じた220年10月の1ヶ月間の事である。
さて、本文を紹介する前に先ず、大雑把な流れを示して措くが、そのINDEX(見出し)こそ正に無用の長物(自分で言うのも不可しいが)。ザ〜ッと流し見て、その次ぎの から読み始めて戴けば充分である。(ま、好事家用 といった処)〜〜で・・・・
史料繧セけは『漢紀』に記されている漢帝の詔勅だが、
以下艨`@迄は全て、『献帝伝』なる不詳史料に拠る。
因みに〔固辞〕とは →彼の意志を逐次、天下に公表する 「布令」
の形で為された。
※ 20回も固辞するから 流石に魏王(曹丕)の布令は短めデスから御安心を!
艨ィ魏王への上書・(左中郎将・李伏)と 魏王の固辞@
蛛ィ魏王への言上・(侍中・劉曄、尚書・陳羣ら)と 魏王の固辞A
(9日)→予言書を示しての魏王への言上(太史丞・許芝)と
(11日)→魏王の固辞B
轣ィ魏王への言上(再び重臣グループ)と 魏王の固辞C
閨ィ魏王への言上(督軍御史中丞・司馬懿ら)と 魏王の固辞D
(13日)→漢帝からの禅譲の詔勅〔1〕
黶ィ魏王への上奏(尚書令ら)と 魏王の固辞E
→再度の上奏(同上)と 魏王の固辞F
→魏王への奏議(侍中ら)と 魏王の固辞G
(17日)→魏王からの布令/固辞H=璽綬返上の申し出〔1〕
→魏王への上書(家臣団120人の連名)と 魏王からの布令/固辞I
→魏王への上奏分(再び120名の連名)と 魏王の固辞J
→魏王への上奏(侍中・劉翼ら)と 魏王の〔固辞K〕
(18日)→漢帝への上書〔1〕/固辞L=璽綬返上の申し出〔2〕
(19日)→魏王への上奏文(博士の蘇林・董巴) と 〔魏王の固辞M〕
(20日)→漢帝からの任命の詔勅〔2〕
→魏王への上奏(尚書令・桓階ら)と 〔魏王の固辞N〕
(22日)→漢帝への上書〔2〕/固辞O=璽綬返上の申し出〔3〕
→魏王への上奏(侍中・劉翼) と 魏王の固辞P
(25日)→漢帝からの任命の詔勅〔3〕
→魏王への上書(相国・華音欠、太尉・賈ク、御史大夫・王朗)と固辞Q
(27日)→漢帝への上書〔3〕/固辞R=〔勅使を召還して欲しい〕
→魏王への上奏(先の華音欠・賈ク・王朗ら)と 魏王の固辞S
(28日)→漢帝からの命令の詔勅〔4〕
→魏王への上奏(尚書令・桓階) と 魏王の応諾
@(29日)→魏王は檀に登って禅譲を受ける。
※『正史』は28日としている。
※ 以下の文中、注目すべき論理や占いの類は赤文字とする。解説は白文字で表記。
→〔漢紀〕・・・【献帝の詔勅】
『朕は 位に在ること32年、天下の崩壊に遭遇したが幸いに祖宗の霊の御蔭で倒れ掛かりつつも 再び立ち直った。然しながら仰いで天文を見、俯いて民心を察するに、火徳の暦数は既に尽き、天命は曹氏の下に巡っている。それ故にこそ 先王(曹操)は 前に神の如き勇武を以って功績を立て、今、王(曹丕)は また明徳を輝かせて 其の時期に応じているのである。そもそも大道の行われていた時代には、天下を私物化せず、賢人と有能者を選んで位を譲った。それ故に堯は其の子を贔屓せずに(天下を舜に譲り)名声は未来永劫に伝わったのである。
朕は其れを羨望し思慕する。今、舜の規範のあとを追い位を魏王に譲るものである。』
※ 是れ以下は、全て補註・『献帝伝』の記載である。
→〔左中郎将・李伏 (元は漢中で五斗米道の教団幹部だった)の魏王への上書〕
『昔、先王(曹操)が初めて魏国を建てたまいし時、国外に在る者は其れを聞いて詳細が判らず、 皆、王位を拝命したと思って居りましたが、武都の
李庶 と 姜合 が 漢中に身を寄せて居て 臣(わたくし)に向って申しました。
「間違い無く 魏公 と成られたのであって、未だ直ぐには 王 とは 成られますまい。
天下を平定する者は、魏公の子桓(曹丕のあざな)で、神の命じ賜う方です。予言書にも合致し、天と人の要請する地位に応じられるに間違い有りません」 と。
臣は姜合の言葉を鎮南将軍の張魯に語りますと、張魯もまた姜合に、出所となる書物を知って居るかと質問しました。姜合は「孔子の玉版です。王朝の運命は百代の後でも知る事が出来ます」と答えました。そののち1月余りして亡命者が参りまして其の文書を写す事が出来ましたが、全て姜合の言葉どおりでした。姜合は神秘的な予言学に優れ、関右(関中)では名を知られた男でした。
張魯は国を思う気持を持って居ましたが、異端(五斗米道)に耽溺し、態度を変え切れずに居りました。姜合の言葉に目が醒め、のちに臣と論議しまして服従を策しましたが、国元の者達は賛成せず、西方(劉備)と通ずる事を願う者も居りました。張魯は立腹して
「寧ろ魏公の奴隷と成るも、劉備の上客とは成らぬぞ!」と言い、その言葉には悲痛の思いが込められており、誠に筋の通った態度でした。姜合は先に立って官軍を出迎えましたが、過ぎし年に業卩で病死いたしました。臣は朝廷に仕えましてから、いつも新しい人達に 此の内容を説明したいと 存じて居りましたが、適当な機会も無いままに、敢えて表面に出しませんでした。
殿下(魏王を継いだ曹丕)には 即位の初年ながら、めでたき徴しるし や 多くの瑞兆が、毎日毎月現われ、天からの命令が存在する事は断然明示されております。しかも聖徳は最高の極みであり予言の書は予め事実を明らかにしており、まことに
乾坤あめつち が 瑞祥を呈示し、万国が信頼を寄せる御方で御座います。臣は常に慶賀を述べ、姜合の予言の証しについて申し上げたいと存じて居りましたが、君に対して礼を尽して御仕えする事を、人は諂いと考えるものです。まして臣は名誉・品行ともに穢れて卑しく朝廷に入ってからも日にちが浅い者ですから、発言は罪咎の種と成りますので、自分を抑えて居たのです。今、大いなる恵みは四方の彼方まで蔽い、御慈しみは天地にまで達し、四海の内は心を寄せ、外国の人は帰服しまして、めでたき前兆と徳に対する応兆が共に集まって天命を宣揚し、全てに渡って誠に申し分ございません。
臣は躍り上がる様な喜びを抑えきれず、慎んで、つぶさに上書にて申し上げまする。』
↓
〔魏王の固辞 =布令@〕
『是れを 外部に示せ。徳うすき人間である自分が、どうして 是れ等の事を招く事が出来ようぞ。
自分が該当する事では無い。 是れは実際、先王(曹操)の至高の徳が神に通じたのであって、
当然、人間の力によるものでは無いであろう。』
※ 固辞し続ける一方で、その禅譲劇の一部始終を 全国放送させる(布令にして出す)所がミソ。
→〔侍中劉翼・辛ピ・劉曄、尚書令桓階、尚書陳矯・陳羣、
給事黄門侍郎王・董遇 らの 言上〕
『臣どもは左中郎将・李伏の上書を拝読いたしました。予言書の言葉を考察し、それを神の応兆と照らし合わせてみますると、古代については、この様で無かった事は御座いません。それ故、尭は、天命は我が身に在りと称し、王旋 王幾(天文観測機)が天道を明示しました。周の武王の場合、戦いの前に 赤い烏が神秘的な書物を咥えて舞い降りました。
漢の高祖は、身籠る前に 神の瑞祥が母に告げられました。
孝宣帝が民間に隠れて居た時、虫が喰って木の葉に字が綴られました。
光武帝が平民で在った時、その名は既に予言書に記されていました。
これ等は天の命じたまい、それによって聖哲の存在を明示し賜った事例ですが、
音声による表現や芳しい香りがあって人々に知らされた訳では在りません。ただ象徴によって人に示され、微妙な事物によって天の意志が表わされただけです。
漢の徳が衰え始めてから、その衰えは数代に亘って次第に進行し、桓帝・霊帝の末年には、広大中正の政道は立てられず、大乱に陥り20年を経過しました。天は滅ぼさず、聖人を生みたまい、その危難を救われました。それだからこそ予言書を先に現わして、至徳を顕彰されたのです。
殿下には位に登られてから1年に満たないのに、霊象が上に於いて変化を示し下に於いて多くの瑞兆が応じ、四方の独立の民も道義を慕って心を寄せ、ひたすら人より後になる事を懸念して居ります。典籍の伝えるところでも、今ほどの盛大さは御座いませんでした。下民は遠きも近きも喜び騒がぬ者は在りません。』
※ より詳しく 〔天命〕について 思い出すには、【第22節 の再読】をお奨めする。
↓
〔魏王の固辞=布令A〕
『犂牛りぎゅう(黒と黄のまだら牛)の斑は 虎に似ており、莠ねこじゃらしの若い時は イネに似ている。
物事は似て非なるものが存在する。今日の事態は正に其れである。これ等の言上を見ると、
誠にワシの不徳を重くする。』
→1月9日、〔太史丞・許芝の上書=魏が漢に交代するとの予言書を列挙〕
※この上書こそ禅譲思想の論理的な中核を為す注目の部分である。
現代人には信じ難い奇蹟・摩訶不思議な事例のオンパレードが繰り広げられる!!
「『易伝』に 『聖人が天命を受けて 王と成る時、黄龍が 戊と己の日に 現われる』 と在りますが、
7月4日戊寅の日に黄龍が出現しました。これは帝王が天命を受ける事を示す瑞祥のうちで
最も明白なものであります。
また 『初六、霜を踏む季節は 陰の気が 初めて凝結する(=やがて其れが堅い氷と成るが如く、
大きな結果を産む、初期の微細な現象)』 と在り、
また 『集まった虫が天子の宮殿に大きな穴を開ける』 とあり、それ等も瑞祥に当ります。
今、蝗が出現したのは其れに相当します。
また 『聖人が徳によって天下を手なづけ、仁徳が遍く行き渡ると、その応兆は麒麟キリンが戊と己の日に出現し、それに対応して聖人は天命を受ける』 と謂い、
また 『聖人が清浄に身を保ち、中正の道を行い、賢人の与える福を被り、人民が命令に従うと、
その応兆として麒麟が訪れる』と申します。
『春秋漢含孳』には 『漢は魏を用い、魏は帝位に就くしるしを受けた』 と謂い、
『春秋玉版讖』に 『赤(漢の王朝カラー)に代る者は 魏公の子である』 と謂い、
『春秋佐助期』に 『漢は許昌をもって天下を失う』 と謂います。
それ故、白馬令の李雲は上書して、「許の昌さかんなる気が当塗高に現われており、当塗高は 許に昌えるに違いありません」 と申したのです。
当塗高というのは魏のことです。象魏とは両側に望楼のある宮門を謂います。道(塗)に当って
高大なものは魏(宮門)です。魏は漢に代るに違いありません。いま、魏の基礎は許で昌え、漢のしるしは許で絶ち切れ、現在その効験が現われ、李雲の言葉どおりに許昌で応兆が御座います。
※この”当塗高”は、袁術がエセ皇帝を僭称した時にも当て嵌められた。(68節参照)
また『佐助期』に『漢は蒙孫をもって亡ぶ』 とあります。解釈家は、蒙孫は 漢が24帝を経て童蒙で愚昧な帝の時代に弱体化して滅亡する事だ、と主張して居ります。或る者は、錯綜した紋様を蒙と解釈し、その孫が天下を失う筈だ
と謂うのは、 漢帝が正しい世継ぎでは無く、幼少の時に董侯であり、名義が正しくなく、蒙乱し惑乱しているため、その子孫は弱体化して滅亡するのだと主張して居ります。
『孝経中黄讖』に『日は載すなわち東し、火光を絶ち、不横一は、聖にして聡明。四百の外、姓を易かえて王たり。天下は功に帰し、太平を招き、八甲に居り、礼楽を共にし、万民を正し、嘉び楽しみ、家ごとに和らぎ雑わる』とあり、このように魏王の姓と諱が予言書には明白に示されております。 ※「日は載ち東し」→曹の字を示す。「火光」→炎の字=漢の火徳を意味する。「不横一」は丕の字。
「四百の外」=前後400年の漢を過ぎて。
『易雲期讖』には 『言は東に居り、西に午あり。両つの日は光を並べ、日は下に居る。
其の主たりし者、かえって輔となる。五八 四十、黄気を受けて 真人 出ず』
とあり、言と午は許の字を意味し、両つの日は昌の字を意味します。
漢は 許をもって亡び、魏は 許をもって昌さかえる筈だと謂うことで、現在”許”に 真の君主遭遇の機会が訪れたのは、それこそ
此の文章に対する大きな証明です。
また『易運期』には 『鬼は山に在り、禾いねと女と連なり、天下に王たり』 とあります。
※かつて魏は↑巍の字で書かれた。
※真人出現思想については【198節の再読】=真人禅譲伝説の光と影をお奨めする。
臣は聞いて居ります。 帝王は 五行の精(木火土金水の 五行思想)であり、支配者の姓が代るしるし、
新しい王朝の興る時期は 720年を以って1つの区切りと成る、とか。有徳の場合は其の期間を越えて800年にもなり、徳なき場合は其の期間に及ばず、400年までです。
従って 周王朝は 867年、夏王朝は4 00数十年でした。漢は 夏の暦を用いており、現在まで
426年を経過しております。また高祖が天命を受けられたのは、乙年の年BC206年からでしたが、然し其の兆祥は麒麟キリンの捕獲BC481年に始まります。麒麟の捕獲以来700余年、天の与えた暦数は正に尽き涯て様としております。
帝王の興起は1つの姓に限られる訳では有りません。太微の中で、黄帝の星座は常に明るく輝いているのに、赤帝の星座は常に見えません。黄家が興って赤家が衰え、次第に情勢が悪くなって滅亡すると判断されます。 それから以後40年余たち、また 螢惑(彗星ほうきぼし)が 先ず紫微を掃除し、二十三年(218年)再び太微を掃除いたしました。
※天地相関思想=分野説で、天の朝廷に相当する星座が太微。
黄帝は土徳、赤帝は火徳を示す星座。 紫微は天帝の宮殿に当る星座。
新しい天子の気が東南に現われて以来、ニ十三年には 白い虹が日を貫き、月が螢惑を蝕し、
近年では己亥の日(216年5月1日)、壬子の日(219年2月23日)丙午の日(??)に日蝕が有りましたが、全て水が日を滅ぼす象徴です。
殿下には位に就かれ、はじめて祭祀に預かられ、徳は天地に並び、行いは神に合致したまい、
恩沢は満ち溢れて、四方の彼方まで広く蔽い、天地にまで届いています。
それだからこそ黄龍が度々出現し 鳳凰が頻りに天翔け 麒麟がすべて訪れ、白虎が仁を捧げ、前後して郊外に現われ吉兆を奉り、甘露・醴泉・奇獣・神物といった諸々の瑞祥が何れも示されたのです。これ等は全て、帝王が天命を受け、天子の姓が代る
しるし で御座います。
昔、黄帝が天命を受けた時は、風公(黄帝の三公)が『河図』を受け取り、
舜と禹が天下を支配した時は、鳳凰が天翔り、洛水から『書』が出、
殷の湯が王と成ると白い鳥が吉祥となり、
周の文王が西伯と成ると、赤い鳥が丹書を口に咥えて来、
武王が殷を討伐すると白い魚が舟の中に踊り込み、
高祖が興起した時には白い蛇がしるしを示したものです。
※河図=黄河から龍馬が背負ってもたらしたと云う神秘的な図。書=亀の背による神秘文書。
巨大な足跡や瑞兆は、全て聖人の為に出現いたします。漢において前後して起こった大災禍と今ここに示された瑞祥を観察し、予言書に見える王朝の命運を考察し、河図・洛書の明らかにする事から忖度しますと、現在 大 魏に顕われている程の立派さを持っているものは御座いません。
そもそも歳星(木星)を我が物としたものは、国家が起こる出発点と成ります。昔、武王が殷を討伐した時には、歳星が鶉火(星座名)に居りました。鶉火は周の分野に当ります。
※分野=天の28星座(28宿)に対応する地上の地域の事。天地には相関関係が在ると考えた。
高祖が秦に入った時には五つの惑星が東井星座名に集まりました。東井は漢の分野に当ります。しかも 天の く だす瑞兆が 同時に集まり来たり、四方の民は帰服し、子供を背負って身を寄せ、万民は喜んで上に戴き、皆めでたき世を楽しんで居ります。
『春秋大伝』には 『周公は なぜ魯に赴かなかったのか?おそらく 帝統を継ぎ体制を守る君主が存在して居ても、聖人が天命を受けて王者と成る障害には成らないと判断したからであろう』とあり『尸子しし』は 周公が政治を成王に奉還した事を、孔子が其れを非難して、周公は聖人では無い、万民の為を考えて居無いと主張した、と述べております。
『易伝』は 『およそ王者が位に在れば、悪しき者は其の悪を去り、弱き者は其の弱さを除く。
姓が変り代が改まる場合、天命は 不変の徳義に対して下り、人や鬼神が判断を下す場合、
人民は能力者に味方する』 と言っております。
伏して思慮するに、殿下には尭・舜の光明を体得し、700年の禅譲の時代に当り、湯王・武王の命運に相当し、天命の移行に遭遇して居られまして、河図・洛書の著わし、予言書に記載されて
いる事は、歴然として明白で、天下の学者が皆、見て居る事で御座います。
臣の職務は史官であるからには、符瑞を考察しまして、予言書に記されている兆候が現われ、
新たな時代への転換期に当る事を、慎んで上聞に達します。』
↓
〔魏王の固辞=布令B〕
『昔、周の文王は天下の3分の2を保有しながら殷に仕え、仲尼(孔子)は其の至徳を歎称した。周公 旦は 天子の位を踏み、天下の裁きに預かったが、最後は政治を奉還し、『尚書(洛語)』は其の人を讃えている。 ワシは
徳がニ人の聖人には及ばないが、敢えて 高き山を 仰ぎ見、
景おおいなる 行みちを 歩く と謂う 『詩経』の義を 忘れようか。
かの尭・舜・禹の事蹟の如きは全て聖人の資質と盛大な徳義によって対処された結果である。
それ故よく上は神霊を和らげ、下は万民を安んじ、今日に到るまで讃えられているのである。
今ワシは徳きわめて薄く、人柄は極めて低い。この機会に遭遇し、幸いにも先王の残された事業を継承したが、恩は四海を覆う迄には到らず、恩沢は天下に行き渡る迄には至って居無い。倉庫を傾け空にして魏国の民草に振る舞っても、なお凍える者を全部暖め、飢える者を全部満腹にしてやる訳には行かないのだ。
朝も夜も憂慮し、のんびり落ち着く事もし得ず、願いは五体を其の儘に、今日の状態を長く保って寿命を全うし、よって魏国を保全し、あの世で先王に御目通りして、肩に掛かった責務を果す事にある。望みは狭く小さく、以上の事を心掛けて居るに過ぎ無ぬ。たびたび祥瑞を得てはいるが、それに対して恐れ慄き、その度に顔色も変る程である。許芝の言葉の如きは、いったい耳にすべき事柄であろうか。心は慄き手は震え、文章は字を成さず、言辞は心に浮かばない。
ワシは近ごろ詩を作って心境を述べた。
『喪乱悠悠として果てし無く、紀(12年)を過ぐ。白骨は万里に縦横たり。哀哀たる下民は恃むなし。 吾は将に 時を佐け
整え理おさめ、子に明辟(明君の政治)を復して致仕(辞職)せんとす。』
願いは、この言葉を守って一生を終え、飽く迄も虚言とはしない事に在る。
どうか遠近に遍く示して、真心を明らかにして呉れ。』
→〔魏王への言上〕=再び重臣グループ
侍中辛ピ・劉曄、散騎常侍傅巽・衛臻、尚書令桓階、尚書陳嬌・陳羣、給事中博士都尉蘇林・董巴ら
『魏国が天命を受けていると云うしるしを述べた、太史丞 許芝の文を 伏して見ました。布令は
懇篤であって、謙譲の態度を固執されており、舜・禹・湯・文であっても、道義は是れ以上では御座いません。然しながら古代の哲王が天命を受けて辞退しなかった理由は、実際、皇天の意に従い万民の望みに沿う事を大切にし、已むを得無かったからで御座います。それに『易』に
『天文を観察して時の変化を察知し、人文を観察して天下を教化し、風俗を完成する』 とあり、また『天は天象を降して吉凶を示し、聖人は其れに象のっとって易の判断を加えた』 とあります。
「人間の行為に因って天文は変化する」と考えており、黄河や洛水から出た文書については
『洪範』に記されておりまして、殷と周は其れを手本として用いました。 これ等の言葉は、誠に
帝王にとっての 明白な しるしであり、天道の大要を示しております。 従って、徳に従い予言書に応えた者は、前代に代わって初めに興起し、道を失い暦数の尽きた者は、後の代に譲って終りに廃されるのです。
『春秋左伝』は、天の滅ぼそうとしているもの(周王朝)を支えようとした長弘を非難したうえ蔡墨の『雷が
乾の上に ある』 と謂う説を説き、神器(帝位を示す宝物)の存亡が 人間の力では何うにも出来ぬ事を明らかにしております。今、漢室は衰微し、帝の綱紀は失墜し、天子の詔勅は、絶えて聞いた事が御座いません。皇天は 旧きを捨てて 新しきに 命じんとし、人民は 既に 漢を去って、魏に着いて居るのが 明々白々であるのを 知る事が 出来ます。
先王(曹操)は 乱を正し 世を平らげ、大いなる基礎を 打ち立てられました。 殿下に至りまして、至徳を以って天命の移る時期に当たられ、即位以来、天の応兆、人間の事柄は燦然として具備し神霊の御告げ、図版・文書の指示は
古代に倍するものがあり、めでたきしるし、よき前兆は先の時代を超えております。之が許芝の『中黄』『運期』『姓緯』の予言を取り上げた理由でありまして、これ等の文章は前の時代に著わされ漢代と共にずっと示されて来たものです。その事から謂えば天命は長期間に渡っており、殿下の拒み得るものでは御座いません。神の御意志は、祭祀を待ち望んでおり、万民は仰ぎ見て、みな将来への期待を掛けて居ります。
どうか殿下には、図版・文書に記された明文を御覧になり、天下の世論を大切にされ、さっそく
内外に広く 布令を出し、州郡に 遍く 布告して、吉兆による天命の明白である事、それに対して
殿下の取られている謙虚な御意志を知らしめて下さい。』
↓
〔魏王の固辞=布令C〕:1月11日
『四方に布告してワシの真心を明らかにするのはよい。然し 其の他の文辞となると、一体ワシの
考えに合致していようか。
どうして担いきれよう。 諸卿の示す議論は、ワシが自ずから考察して
悟った事には及ばない。そもそも実質を離れた議論や誤った判断による称誉は、取るに足らぬ
身には当て嵌らぬ。そのうえ近来、東征して郡県を経過し、屯田を通ると、人民の顔には飢色が
あり、ぼろぼろのジュ褐 (子供服と毛の服)を着ている者が居ると聞いたが、その責任は全てワシに
在る。それ故に、上は 諸々の瑞兆に対して 引け目を感じ、下は 士民に対して
気恥ずかしく思うのである。この事から申せば、徳はなお1地方の王たるにも耐えられないのだ。どうして帝などと
申せようぞ。どうか此の論議を休止して、これ以上ワシの不徳を大きくしないで呉れ。
此の世を去ったのちに後世の君子に気恥ずかしい思いをしないで済ませる様にして貰いたい。』
→〔魏王への言上〕=別の重臣グループ
督軍御史中丞司馬懿、侍御史鄭渾・羊秘・鮑・武周ら
『布令は上の通りに(11日に)出しまして御座います。
伏して臣らは、太史丞の許芝が奉りました、天命に関する説明を読みました。
臣どもは尭(唐)の世が衰えると天命は舜(虞)に、虞の世が衰えると天命は夏に移った、と聞いて居ります。とすれば天地の霊、暦数の巡り合せ、天命が移動するしるしは、ひたすら徳の所有者に向けられているのです。それゆえ孔子は『鳳凰は飛んで来ず、黄河も図版を出さない。私は絶望するのみだ』と申しました。今、漢朝は衰え、安・和・沖・質の諸帝以来、国の血統はたびたび絶ち切れ、桓帝・霊帝の荒淫の為、福禄は王室を去りました。これは天命の去就が一朝一夕に起こる事では無く、その経過は長期に渡る事を示しております。
殿下には位に登られてから至徳は広く世を蔽い、天地にまで届き、天も人も感応し、祥瑞が次々と降っております。古い史書を考察しましても今日ほどの盛大な時は御座いませんでした。そもそも大人と云うのは、天に先んじて行動しも天道に合致し、天に遅れて行動する時は天の指示する時を遵奉するもので、天の指示する時が既に訪れているのに尚、謙譲の態度を取るのは、舜や禹もしなかった事です。それ故に民草は救済の恵みを蒙り、生きとし生ける者は生育の恩を受けられたのです。いま八方の人々は仰ぎ見て、老いも若きも期待を寄せ、皇天は目を掛け、神も人も同じ思いを抱き、天下の10分の9は臣服しております。周の文王を越える道義を示されるのは、過剰な謙虚さと云うものです。臣民は上も下も気を落とし、落ち着かない状態に在ります。』
↓
〔魏王の固辞=布令D〕
『世の中で不足しているものは道義であり、有り余っているものは好い加減な出鱈目さである。
並みの人間の性は、不足しているを賤しみ、有り余っているものを尊ぶものだ。それゆえ、
『地位の無い事を悩まず、それだけの実力の無い事を悩む』 と謂うのだ。ワシは徳少なき身ではあるが、常人の尊重するものを免れるのが願いである。そもそも石は砕く事は出来るが堅さを取り去る事は出来ず、丹は磨く事は出来るが赤さを取り去る事は出来無いものだ。丹とか石とかは
つまらぬ物だが、それでも其の本質を保持している。況してワシは士人の端くれに列なり、かつては君子に教えを受けた身なのだ。 〜〜過去の聖人例を列挙(略す)〜〜〜
ワシの徳は周の武王ほどでは無いうえに、義は伯夷・叔斉に後れを取る。願わくは、好い加減な出鱈目さのため道に外れる事なく、丹や石の本質を失わない立場に立ち、於陵が財産としたものを高しとし、柏成が高貴とした生き方を取り、鮑焦の極まり無き貞潔さを保持し、薪拾いの清らかな節義に従いたいものだ。それゆえ『三軍の指揮官を奪い取る事が出来るが、匹夫も志を奪う事が出来無い』と謂う。ワシの此の志は、どうして奪う事が出来ようぞ。』
→〔漢帝からの 禅譲の詔勅(1)〕
『乙卯の日(1月13日)、魏王に、天下を譲る詔勅が下った。』
※『正史』が記す禅譲の詔勅については、第3部劈頭に引用する事とし、本節では照会しない。
『これ延康元年十月乙卯の日、皇帝は 申す。 ああ、なんじ 魏王よ。
そもそも 運命の通不通は、徳によって 良くもなり 悪くもなるものだ。 3代の王朝の長さに対する判断は 『春秋』に記されている。 それからみて、天命は不変なものではなく、帝王は 1つの姓に
限られ無い事は、長い来歴を持っているのだ。
漢の政道は衰微し、久しい年月を経過しており、安帝・順帝以降、世の中は其の秩序を失い、
沖帝・質帝は在位短く、3代に渡って世継が無く、帝権は欠け始め、王室の規範は崩れて行った。朕の身に至ると天は災いを降され、无妄むぼう(希望なき事)の危運が集まる時に遭遇し、火の精
(漢の徳)が輝きを失った期に出会った。
変事は身近から起り、災禍は宦官によって引き起こされた。董卓は間隙に付け込み、その悪は
古代の悪人よりもひどく、無理やり宮廷を移動させ、宮殿・宗廟を焼き払った。その結果、9の州
(中国全土)は分裂し、強敵が虎の争う如く闘争し、中華の地は鼎の沸き立つ様な騒動で、蝮や蛇が道路を塞いだ。この当時にあっては1尺四方の土地も、もう漢の領有では無く、1人の男も もう朕の臣民では無かったのである。
幸いにも武王(曹操)が天運に応える徳を持って居た御蔭で、神の如き武勇を奮い立たせ、
凶暴な者供を討ち平らげ、中華の地をすっかり平定し、皇室は保たれた。
今、王(曹丕)には 前業を継承したが、至徳は輝き渡り、統御の秤は 狂い無く、遙か彼方まで
徳は行き渡り、教化は四海を蔽い、仁風は蛮地にまで吹き及んでいる。その為に、四方からは
珍奇な物を献上し、人も神も 響きの如く 応え、天の与える暦数は 汝の身に置かれている。
昔、舜に 20の大きな功績が在った為、尭は 天下を譲り与えた。 禹に勲績が在った為、舜は
帝位を譲り与えた。漢は尭の運(火徳)を継承し、聖人に位を伝える建前を採っている。加えて
神霊に従い、天の明白な命令を受け継いで、2人の娘を降嫁させ、魏に嫁入らせたのである。
使持節行御史大夫事太常の 張音 を 使者とし、皇帝の璽綬じじゅ(印璽と紐)を捧げ持たせる。
王よ、永えに万国を支配し、敬つつしんで天威を身に付け、誠実に中庸の道を保持せよ。
さすれば 天の与える福禄は 永く保たれるであろう。 これを敬つつしめよ。』
この 尭ぎょう→舜しゅん→禹う」 の 〔禅譲エピソード〕はこの後も(うんざりする程?)頻繁に引用されて出て来る。折角だから、その伝説の概要を簡潔に示して措く。原典は勿論、司馬遷の『史記』に拠る。
中国では BC:3000年頃に「3皇5帝時代」が在ったとされるが、現段階では物的証拠が無く、
レジェンド=”伝説”でしかない。『史記』は、「3皇時代」を無視して「5帝時代」から記述を始める。何故なら3皇時代の伝承には”蛇身人首”などの妖怪変化が登場しているからで流石に司馬遷はこの部分はカットしたのである。だから中国史としての最初は『5帝本紀』=5帝時代とされる。
その5帝とは「黄帝」・「センギョク」・「帝コク」・「尭」・「舜」の5人であり、 「禹」は 「舜」から帝位を譲られた後、自分の国を『夏の后の国』と名付けて【夏王朝】を成立させ、以後17代471年の始祖と成った為に、5皇とは別時代に区分されている。もっとも此の「夏王朝」の存在は2007年時点では未だ伝承に過ぎ無い。(夏の次の【殷王朝】も1889年に”殷墟”が発掘される迄は伝説とされていた) 因みに
魏の祖先とされるセンギョクとは此の2番目の人物を指す。 なお、最初の 「黄帝」は
姓を 公孫 または姫きと謂ったが、火の徳を実現した神農(炎帝)の跡を継いだ事から五行の巡行からして、土の徳 を 体現しているとされ、「黄帝!」 と呼ばれる様になった。つまり、黄河・黄土に象徴される漢民族の始祖として、また中国的な宗教=道教(黄巾党・五斗米道など)の神体として語り継がれている。
さて、この 最初の”天子”(5帝)の系譜は、血統による世襲では無く、次の天子には 最も聖徳を具えた人物が選ばれ、帝位が譲り渡されていった。この権力の移行方式を禅譲と謂った。
その中でも 夙に有名なのが 尭ぎょう→舜しゅん→禹う の〔禅譲エピソード〕である。
【尭】が帝位に在った頃、国家は頻りに大洪水に見舞われた。そこで尭は臣下に治水工事の適任者を訊ねると
「鯀こん」と云う人物を推挙した。尭は大いに期待して彼に大事業を任せた。もし立派に成し遂げて呉れたなら、帝位を譲る心算だった。
処が 案に相違して 9年経っても「鯀」の治績はあがらなかった。そこで新たな人材として 【舜】が登用された。 舜は 天子の職務を代行しつつ全国を巡回した。すると鯀の工事の好い加減さが明白となった為に羽山で処刑した。そして劇的にも、その鯀の息子の【禹】に、治水工事を継がせたのである。禹は、父の汚名を雪ぐべく、13年間も家に帰らず、ひたすら任務に精励し、遂に治水工事を完成させた。この功績によって禹は舜から帝位を禅譲される事になる。そして全国の行政を9つの州に区画て統治した。
※ 禹は生前から重臣の「益」に禅譲する心算だったが、禹の死後、子の「啓」の方に人望が集中した為に、帝位は血統に受け継がれる事となった。そして是れが「世襲」の始まりとなった。
以上のエピソードが繰り返し、「もんう〜、好い加減にしてよ〜!!」と言いたい位に出て来る。でも識って居れば、フムフムと納得して許せる???
とは申せ、まあ、この辺りが史料”連読”の限界でありましょう。後半部への挑戦?は、節を改める事と致します。どうも御疲れ様でした。でも、存外に面白かったのでは!?
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